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 友人が集まると「日本の歴代サッカープレーヤーの中でNO.1は誰か」という話題が出ることがあります。なでしこファンの皆さんには申し訳ないのですが、私達のようなオジさんサッカーファンになると、このテーマは自動的に「男子プレーヤー」を対象とすることになります。

 この種のテーマは、ファン一人一人の物差しやサッカーを見た年代、プレーヤーのポジションの違いなどにより、当然に意見が異なるので、結論が出ない話題ですが、それだけに何度でも採り上げられる点が良いところです。

 私は「一番というなら釜本だろう」といつも言っています。日本男子サッカー史上最高のフォワードFWプレーヤーといえば、釜本邦茂(かまもと くにしげ)選手であると思います。

 釜本は、1944年生まれで、プレーヤーとして活躍していた時期は1960年代~70年代ですので、Jリーグ設立1993年より20年以上前ですから、いわゆるサッカーをJリーグで憶えた世代の方々にとっては、昔の選手ということになります。

 一方で、国際舞台における日本男子サッカー史上最高の成績といわれている、1968年のメキシコオリンピック銅メダル獲得の時の中心選手であり、同大会の3位決定戦・対メキシコ戦のゴールシーンは、現在でも時々テレビで放送されますので、このシーンは見たことがある人も多いと思います。

 釜本選手のサッカープレーヤーとしてのキャリアを簡記します。

① 1960年京都府立山城高校に入学サッカー部に入部、すぐにレギュラー。同年10月の熊本国体高校サッカーの部で優勝。1962年1月、全国高校サッカー選手権大会で準優勝。
② 1963年早稲田大学入学。この年関東大学サッカーリーグで優勝、以後4年連続得点王。1964年正月の天皇杯決勝で日立製作所(現、柏レイソル)を破り優勝。同じく1967年正月の天皇杯決勝で東洋工業(現、サンフレッチェ広島)を破り優勝。(大学チームが天皇杯に優勝した最後の大会)
③ 1967年ヤンマーディーゼルに入社。1969年正月の天皇杯決勝で三菱重工を破り、ヤンマーが初優勝。
④ 1969年6月ウイルス性肝炎に罹病。以降、治療に3~4年を要する。
⑤ ヤンマーは、1974年・1975年の日本リーグ連覇、1975年の天皇杯優勝。
⑥ 1978年ヤンマーの監督に就任。選手と兼任。
⑦ 1982年右足アキレス腱を断裂。1984年正月の天皇杯決勝戦の途中出場を最後に引退。
・日本サッカーリーグ得点王7回、日本最優秀選手7回、メキシコオリンピック得点王。

 この間、高校・大学時代には日本ユース代表、1964年には19歳で日本代表入りし、東京オリンピック、メキシコオリンピック、ワールドカップ予選などに出場しています。日本代表として、国際Aマッチ76試合に出場し75得点。得点数は、なでしこジャパンの澤穂希選手に抜かれましたが、男子選手の記録としては、現在も最多得点記録です。(記録の取り方により計数が異なりますが、これはJFA日本サッカー協会の記録)

 [私が釜本選手を日本サッカー史上最高のFWプレーヤーと考える理由]

1. 倒れない・バランスが良いこと。釜本はタックルを受けても、なかなか倒れないプレーヤーでした。FW、それもエースストライカーですから、釜本がボールを持つと相手ディフェンダーDFが直ぐに寄ってきます。そして、体をぶつけてきたり、タックルをしたりします。これに対して釜本は、踏ん張ったりする仕草もなく、何事も無いような様子でプレーを続けるのです。

 特に、上半身が真っ直ぐに立っている感じです。有名な、メキシコオリンピック3位決定戦の2ゴールの映像でも、釜本の上半身は傾いていません。「倒れない」というのは、サッカーにおいてとても大切なことです。そして、容易にできることではありません。どんなにテクニックが優れた選手でも、タックルの都度、簡単に倒れる、バランスを崩すというのでは、テクニックを発揮できません。
 のちに読んだことですが、山城高校時代からバランスが良く、倒れない選手だったのだそうです。釜本のバランスの良さは、天性のものでした。

 現日本代表チームでは、本田選手がなかなか倒れないプレーヤーです。従って、本田にボールが渡ると中々奪われませんし、時間が稼げます。ボールが落ち着くのです。本田も「倒れない」という意味では相当なものですが、釜本の方がより倒れない選手であったと思います。そして、バランスが良いことは世界のトッププレーヤーの絶対条件です。

2. シュート力。そのパワー、スピード、正確性の何れも、日本サッカー史上最高でした。強烈なシュートも印象的ですが、形に拘らず「とにかく決める」ところが最も素晴らしい。国際Aマッチ76試合で75得点という確率の高さに、全てが表れています。

 国際試合で1試合平均1得点という得点力は、対戦相手のレベルに左右されるとはいえ、世界的にも滅多に実現できる水準ではありません。(例えば、アルゼンチンのメッシは2011年までに68試合19得点、ドイツのクローゼは2011年までに106試合59得点、ブラジルのロナウドは98試合62得点です)

3. 世界が認めたプレーヤーであること。メキシコオリンピック直後の1968年11月にFIFA主催のブラジル対世界選抜のゲーム(開催地は、ブラジル・リオデジャネイロ・マラカナン競技場)に、釜本は世界選抜のメンバーとして召集されました。ブラジルチームには、ペレやリベリーノ、世界選抜にはベッケンバウアーやヤシンといった世界最高の「プロサッカー選手が集うゲーム」に、「アマチュアの釜本」が召集されたのです。異例なことなのは、間違いありません。

 この試合に、釜本は出場しませんでした。他の日本代表チームのメンバーと一緒に帰国することを選んだのです。世界選抜のメンバーであり、当時の世界NO.1ゴールキーパーGKだったレフ・ヤシンが、釜本の欠場をとても残念がったと報道されていました。アマチュアで、プロの国際試合には一切出場していない釜本のことを、世界のトップ・プロプレーヤー達が、どのようにして知ったのかは判りませんが「本物は本物を知る」ということなのでしょうか。

 Jリーグ発足の25年も前の話ですので、日本人プレーヤーの意識も現在とは違っていたのでしょうが、いまでも参加して欲しかったと思います。釜本に、全盛時のペレやベッケンバウアーと同じピッチに立って欲しかったのです。
 釜本は、身長181㎝、体重80㎏の堂々たる体躯で、西ドイツのベッケンバウアーと同じ身長、ペレよりは大きなプレーヤーでした。当時の世界のトッププレーヤーに交じっても互角以上の体格・体力であったと思います。現日本代表では、本田選手とほぼ同じサイズです。

 釜本選手にとって残念なことは、1969年6月にウイルス性肝炎に罹ってしまったことです。当時は海外遠征での現地の食事により罹病するケースがあったのですが、釜本も犠牲となりました。3~4年間の治療期間を経て復活しましたが、正直に言ってパワー、スピードともに、1960年代比衰えてしまいました。25歳の時の罹病ですから、サッカープレーヤーとしての最盛期を迎える前のことです。この罹病が無ければ、日本人初の海外トップリーグの一流プロサッカー選手が誕生していたのかもしれません。

 昔、田舎のお正月・元旦は少年にとっては退屈でした。大人たちは、朝から酒盛りで賑やかにやりますが、こちらは遊びに出かけることもできず、テレビ位しか楽しみがありません。

 お昼になると、天皇杯サッカー決勝戦が国立競技場から中継されます。おそらく、1969年のゲームだったと思いますが、センターラインを越えて直ぐ、センターサークル内で、ヤンマーの釜本がシュートを打ちました。相手チーム三菱重工のゴールキーパーは、日本代表の横山選手です。ボールは変化しながら三菱重工ゴールを襲い、横山のセービング空しく、ゴールに飛び込みました。50m位の強烈なシュートでした。

 私はこれまで、日本・世界を問わず、あの釜本のシュートより強烈でコントロールが良いシュートを観たことがありません。

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