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 試合を通して、ノバク・ジョコビッチ選手のパッシングショットの深さが際立ちました。

 7月12日に行われた男子シングルス決勝は、ロジャー・フェデラー選手(スイス)とジョコビッチ選手(セルビア)の対戦となりました。

 全盛期を過ぎたとはいえ、過去ウインブルドン・シングルスで7度の優勝を誇り、芝コートで絶対的な強さを魅せるフェデラー選手(33歳)が、準決勝まで好調なプレーを展開していましたから、現在世界ランク1位のジョコビッチ選手が相手とはいえ、「大接戦」が予想されました。

 第1セットは期待に違わぬ接戦となりました。
 まずフェデラー選手がジョコビッチ選手のサービスをブレイクしました。フェデラー選手独特の「軽く見えるタッチ」のショットが良く決まりましたから、このセットはフェデラー選手が押し切るかに見えました。

 ところが、その直後にジョコビッチ選手がブレイクバックしたのです。
 この大会で殆どサービスブレイクを許していなかったフェデラー選手が、あっという間にブレイクバックを喫したのです。
そのショットの深さが印象的でした。大半のショットがベースラインから1m以内をヒットしていて、時々は50cm以内に入っているように観えました。

 あの強烈なショットが、これほど深く入って来るのでは、フェデラー選手としても対応が大変であろうと感じられました。

 第一セットはタイブレークの末ジョコビッチ選手が取りました。タイブレークは、7-1の圧勝でした。

 第二セットは逆にフェデラー選手が奪いましたが、試合は「ジョコビッチが僅かながら終始押している」様子でした。

 第三セット、第四セットはジョコビッチ選手が徐々に優位を広げて押し切りました。
 フェデラー選手にとっては、準決勝で好調だったファーストサービスの入りが、少し悪かったことも響いたと思います。

 ジョコビッチ選手は、これで3度目のウインブルドン制覇となり、全豪・全米と合わせて9度目の4大トーナメント・シングルス優勝となりました。

 1987年生まれで28歳のジョコビッチ選手は、今全盛期を迎えていると感じます。
 ストロークプレーにおける「ボールの威力」は、他の追随を許さないものでしょう。

 4大大会シングルス優勝を目指す錦織圭選手にとっても、とても大きくて厚い壁であることは間違いありません。
 テニスの全英オープン、ウィンブルドン大会が6月29日に開幕しました。

 ローンテニスの聖地として、4大大会の中でも特別な位置付けを持つ大会でしょう。

 その男子シングルス1回戦に、錦織圭選手が早速に登場しました。

 錦織選手は、3時間20分に及ぶ激闘の末、セットカウント3-2でシモーネ・ポレリ選手(イタリア)を倒しました。

 この試合の報道において、「格下相手に苦戦」といった論調が目立ちます。
 世界ランキング55位のポレリ選手と同5位の錦織選手の対戦ということから、こうした表現となるのかもしれませんが、いかがなものでしょうか。

 もちろん、ランキング上位の錦織選手の方が「より安定した強さ」を保持していることは間違いありません。
 おそらく、10度試合をすれば、錦織選手の8勝2敗位の差、大きな力の差があるのでしょう。

 とはいえ、「その2敗」がウィンブルドンにおける対戦で出ていれば、ポレリ選手が勝つ可能性も有るのです。

 世界でも最もメジャーなスポーツのひとつであるテニス競技、競技人口が極めて多いスポーツにおいて、ランキング55位というのは相当高い順位であり、ランキング一桁のプレーヤーに土を付けることも可能な力量を備えていると思います。

 増してや、コンディションの良し悪し、サーフェイスへの適性、等を考慮すれば、55位のプレーヤーを倒すのは容易なことではないのです。
 錦織選手は、本試合中に左脹脛にテーピングを施していましたから、万全とは言えないコンディションでした。

 この試合は「よくぞ錦織選手が勝ち切った試合」であり、決して「格下相手に苦戦した試合」では無かったと思います。


 6月2日に行われた準々決勝、錦織圭選手対ウィルフィールド・ツォンガ選手の試合は、セットカウント3-2でツォンガ選手が勝ちました。

 日本期待の錦織選手はフルセットの末敗れてしまいましたが、素晴らしい試合であったと思います。

 この試合のツォンガ選手は、プレーにスピードが有り、とても正確でした。もともと爆発力のあるプレーヤーですが、この日は好調であったのだと思います。加えて、地元フランス選手として唯一ベスト8に駒を進めていましたから、会場内はツォンガ選手への応援一色でした。

 こうした応援は「プレーヤーが好調な時に大きな威力を発揮する」のです。

 この勢いの前に、さすがの錦織選手も力尽きたというところでしょう。この勢いを前にしても「フルセットの接戦」を演じた錦織選手にも、大きな拍手を送りたいと思います。

 82年前の佐藤次郎選手に続いてのベスト4進出は、残念ながら成りませんでしたけれども、82年振りのベスト8進出は見事でした。

 グランドスラム大会におけるベスト4・決勝進出には、様々な要素が関係してくるのでしょうが、現在の錦織圭選手の実力は、「様々な要素が揃えば決勝進出が出来るレベル」であろうと、改めて感じさせる大会でした。
 テニス競技における、クレーコートと芝コートは対照的なサーフェイスであると言われています。

 球足が速く、バウンドしたボールが「滑って行く」とも形容される芝コートと、球足が遅く、大きくバウンドするクレーコートは、試合で勝つために求められる技術も相当異なるものなのでしょう。

 4大大会で言えば、クレーコートは全仏オープン、芝コートは全英オープン(ウィンブルドン)で使用されています。

 現在のテニス界のトップクラスのプレーヤーとして、ラファエル・ナダル選手とロジャー・フェデラー選手を例に取ってみましょう。

 ナダル選手は、全仏の男子シングルスで優勝9回、全英で2回、フェデラー選手は全仏で1回、全英で7回の優勝を果たしています。

 ナダル選手もフェデラー選手も、4大大会の全てを制している「グランドスラマー」ですけれども、その得意とする大会は対照的なのです。
 ナダル選手は全仏→クレーコートに強く、フェデラー選手は全英→芝コートに強いことは明らかでしょう。

 フェデラー選手やナダル選手といった、「基本的な実力が極めて高いプレーヤー」にして初めて、苦手なコートを克服し、グランドスラムを達成することが出来るということなのかもしれません。

 ところが、テニスの歴史においては、「全仏と全英の両方に強いプレーヤー」が存在しました。本稿の主人公であるビョルン・ボルグ選手です。

 1956年にスウェーデンで生まれ、1970年代から80年代初頭にかけて世界のテニス界をリードした選手です。
 ボルグ選手は、全仏で6回、全英で5回の優勝に輝いています。
 1978年・79年・80年シーズンには、同一シーズンで全仏と全英を制しているのです。

 ボルグ選手は、「優勝するためには相当に異なるプレーが必要とされる全仏と全英」で、ほとんど同じレベルの好成績を残したプレーヤーなのです。

 ボルグ選手はテニス競技に「トップスピンのストローク」を齎した、あるいは確立したプレーヤーとも呼ばれています。このトップスピンのグランドストロークが、ボルグ選手の強みでしたが、この技術の高さ・新しさが、全仏と全英のどちらの大会でも優勝できるプレーの骨格であったのかもしれません。

 ボルグ選手の戦績には、もうひとつ特徴というか不思議なポイントがあります。
 全豪と全米で優勝していないことです。

 全豪と全米はオールウェザーコートです。クレーコートと芝コートの中間くらいのボールの速さが出ると言われるコートです。

 従って、トッププレーヤーの中でクレーコートが得意な選手も、芝コートが得意な選手も、ともに全豪・全米では相応の成績を残すもののように感じます。

 頭書に従って、ナダル選手とフェデラー選手を例に取ってみましょう。
 ナダル選手は全豪で1回、全米で2回、フェデラー選手は全豪で4回、全米で5回、優勝しています。そして、二人ともグランドスラマーとなっているのです。

 一方で、ボルグ選手は全豪・全米とも優勝していません。

 全豪オープンに対しては、ボルグ選手は1度しか出場していませんから、「自らのスケジューリングの中で全豪は回避していた」のかもしれません。
 他方、全米オープンはというと「準優勝4回」ですので、これは「勝ちに行って勝てなかった大会」なのでしょう。この4回の大会では、ジミー・コナーズ選手が2回、ジョン・マッケンロー選手が2回、優勝しています。

 「芝コートとクレーコートであれ程圧倒的な強さを魅せた」ボルグ選手が、オールウェザーコートのメジャー大会では勝てなかったというのは、テニス競技の難しさを感じさせる事実なのでしょう。

 そういえば、ボルグ選手と共に男子プロテニスの黄金時代を築いたコナーズ選手のプレー振りは、そのフラットなストロークから「芝コート」で強さを発揮できそうな感じです。
 実際、コナーズ選手は全英に2回優勝していますが、思ったよりは優勝回数が少ない印象です。(同時代にボルグ選手が居たせいも有るのでしょうが)

 一方で、全米では5回の優勝を誇っているのです。
 コナーズ選手が全米で活躍した時期(1974年~83年頃)は、全米オープンのサーフェイスが芝→グレーコート→ハード(オールウェザー)と変化した時期と重なりますから、一概には言えないのかもしれませんが、コナーズ選手がオールウェザーコートを得意としていたプレーヤーであったことは間違い無いことだと思います。

 「コートのサーフェイスとプレーヤーのプレーの質・特徴」との関係は、何時の時代もテニス競技における最大のテーマのひとつなのでしょう。
 テニスの4大トーナメントのひとつ、全仏オープン大会がフランス人選手だけでは無く、国外の選手の参加をも認めるようになったのは、1925年の大会からです。
 別の言い方をすれば、全仏オープン・テニスは1925年から「4大大会」にデビューしたということになります。

 この国際化された全仏オープンの男子シングルスにおいて、最初の6年間「フランス人の優勝を確保」したのが、ルネ・ラコステ選手とアンリ・コシュ選手でした。当時のフランスを代表する二人のプレーヤーは、国際化された自国最高の大会のタイトルを守り続けたのです。

 1925年から1930年までの全仏オープン男子シングルスの優勝者を列挙します。

① 1925年 ルネ・ラコステ
② 1926年 アンリ・コシュ
③ 1927年 ルネ・ラコステ
④ 1928年 アンリ・コシュ
⑤ 1929年 ルネ・ラコステ
⑥ 1931年 アンリ・コシュ

 二人のスーパースターは、見事に「1年交替」で優勝を重ねています。不思議なほどに規則的です。

 では、この間の各大会の決勝戦は、いつもこの二人の対戦だったのかというと、そうではなくて、1926年と1928年はコシュ選手がラコステ選手を破って優勝していますが、残りの4度の大会は、決勝戦の相手が異なるのです。例えば1927年と1930年は、アメリカのエース、あのビル・チルデン選手が決勝に進出しているのですが、ラコステ選手とコシュ選手はこれを退けています。

 必ずしも、いつも同じカードの決勝戦では無かったにもかかわらず、綺麗に「1年交替」の優勝を積み重ねているのですから、ますます不思議な感じがします。

 ちなみに、1931年には同じフランスのジャン・ボロトラ選手が初優勝を飾り、1932年にはコシュ選手が4度目の優勝に輝いて、1933年の大会でオーストラリアのジャック・クロフォード選手がコシュ選手を決勝で破り、「全仏オープンのタイトルはフランス人だけのもの」という伝統がついに破られました。

 そして、1933年~39年の間、フランス人プレーヤーは全仏オープンで優勝することは出来ませんでした。1940年~45年の間は、第二次世界大戦の影響で全仏オープンは開催されませんでしたから、次にフランス人プレーヤーがこのタイトルを取るのは、戦後1946年のマルセル・ベルナール選手を待たなくてはなりません。

 さらに、1946年のベルナール選手の優勝以降、フランス人プレーヤーが全仏オープンに優勝したのは、37年後の1983年ヤニック・ノア選手まで下らなければなりませんし、ノア選手以降「全仏オープンで優勝したフランス人プレーヤーは出現していない」のです。

 「スポーツの国際化・メジャー化というのはこういうこと」だということを示す例にも感じられる事実です。
 少し話は違いますが、「大相撲で日本出身力士がなかなか優勝できなくなったこと」は、「大相撲の国際化」を示している現象なのかもしれません。

 何しろ、全仏オープン・テニスでは、「1946年以降2014年まで69回の大会でフランス人プレーヤーが優勝したのは2回だけ」ですし、「フランス人プレーヤーが最後に優勝した1983年から31年間、フランス人の優勝者は出ていない」のですから。

 話が逸れてしまいました。ラコステ選手とコシュ選手に話を戻します。

 4大大会で唯一のクレーコートの大会である全仏オープンにおいて、ラコステ選手は3回、コシュ選手は4回の優勝を誇っていますから、この二人は「クレーコートのスペシャリスト」かと思いがちですが、そんなことは全くありませんでした。

 ルネ・ラコステ選手は、全英オープン(ウィンブルドン)の男子シングルスで2回優勝(1925年・28年)、全米オープンでも2回優勝(1926年・27年)していますから、4大大会シングルスで優勝7回を誇るスーパースターでした。

 一方のアンリ・コシュ選手も、ウィンブルドンで2回優勝(1927年・29年)、全米オープンでも1回(1928年)に優勝していますから、4大大会シングルスで優勝7回を誇るスーパースターだったのです。(コシュ選手の1922年の全仏優勝は国際化以前の記録ですので、ここでは含めません)

 ラコステ選手もコシュ選手も、クレーコートの全仏のみならず、芝のウィンブルドンでも優勝を重ねていますから、サーフェイスには拘らないオールラウンドなプレーヤーであったことは間違いありませんし、何より1925年~29年の5度のウィンブルドン大会において、二人で4度優勝に輝いているのですから、1925年~30年頃の世界テニス界は、ラコステ選手とコシュ選手を中心に回っていたということなのでしょう。

 この頃の全仏オープン大会は、日本人プレーヤーとの関係も深いものでした。

 1931年大会では、佐藤次郎選手が初めて準決勝に進出していますし、1933年にも佐藤次郎選手は準々決勝であのフレッド・ペリー選手(イングランド、2年後の1935年にテニス史上初めてグランドスラム=4大大会全て優勝、を達成した伝説的名選手)を破って、再びベスト4に進出しているのです。

 この「日本人選手による4大大会男子シングルス・ベスト4進出」という記録が塗り替えられるのは、2014年の錦織圭選手による全米オープン決勝進出まで待たなければなりませんでした。
 「戦前の日本テニスの世界トップクラスの強さ」を示す事実でしょう。

 また、日本人プレーヤーとして唯一の4大大会男子ダブルス優勝(全米オープン)に輝く加茂公成(かも こうせい)選手の名前「公成」が、「コシュ」選手の名前から取られたことも広く知られています。

 さて、「ラコステ」と聞いてポロシャツを思い出す方も多いことでしょう。

 ルネ・ラコステ選手は、25歳の時に全仏オープン3回目の優勝を達成した後、結核の為突然現役を引退してしまったのですが、その4年後に「ポロシャツのデザイン」を始めました。
 機能性をも重視した「ラコステのポロシャツ」は見事にヒットし、テニスのみならずゴルフやセーリングのウェアとしても、世界的なブランドとなっています。

 ルネ・ラコステとアンリ・コシュ、フランステニス界の全盛期を支え、世界のテニス界をリードした素晴らしいスーパースターであり、最強のライバル同士です。
 テニスの4大大会・グランドスラムは、全豪オープン・全仏オープン・全英オープン・全米オープンのことです。

 そして、ローランギャロスは全仏オープンの、ウィンブルドンは全英オープンの、会場名です。

 19世紀後半から順次開始された4大大会の中で、長い間「開催会場が変わっていない」のは全仏と全英なのです。全豪と全米は、第二次世界大戦後会場が移転されました。そしてサーフェイスも変わりました。

 私が4大大会を認識し始めた頃は、全豪・全仏・全英・全豪の各大会はその開催地名から、クーヨン・ローランギャロス・ウィンブルドン・フォレストヒルズとも呼ばれていました。

 そして、全豪は1988年にクーヨンからメルボルンパークへ、全米は1978年にフォレストヒルズからフラッシングメドウに移ったのです。
 サーフェイスも、全豪は芝からハードコートに、全米はフォレストヒルズ時代に芝からクレー(緑土・アメリカンクレー)に、移転に伴ってハードコートに変わりました。

 全仏と全英は、4大大会の中でも「長い間同じ会場・同じサーフェイスで開催されている大会」なのです。
 もちろん、ローランギャロスもウィンブルドンも、観客席や屋根設備など様々な改造が行われてきてはいますが、歴史に残る試合・プレーは概ね同じコートで繰り広げられてきたことになります。

 先日クレーコートで行われたバルセロナオープンに優勝した錦織圭選手に、5月24日から始まる全仏オープンでの大活躍・優勝が期待されています。

 あのビョルン・ボルグ選手(優勝6回)、イワン・レンドル選手(優勝3回)、グスタボ・クエルテン選手(優勝3回)が活躍し、ラファエル・ナダル選手(優勝9回)が記録を伸ばし続けている大会で、そしてコーチのマイケル・チャン選手も1989年に優勝している「ローランギャロス大会」で、錦織圭選手の素晴らしいプレーが観られることでしょう。
 プロテニスの世界最高峰のツアー、ATPワールドツアーの一連の大会の中でも格が高い「マスターズ1000」大会のひとつである、ムチュア・マドリードオープンの男子シングルス準決勝で、錦織圭選手がダビド・フェレール選手を2-0のストレートで破り、準決勝に進出しました。

 マドリードオープンは、前々週のバルセロナオープンと同様の「クレーコート」の大会ですが、このフェレール選手との試合で錦織選手は素晴らしいプレーを魅せました。

 何より素晴らしかったのは「試合を通じて錦織選手が楽しそうにプレーしていたこと」でしょう。概ね、思った通りのプレーが出来ていたのだと思います。
 その思った通りのプレーが、「世界ランキング8位」というトッププレーヤーのひとりであるフェレール選手相手に実行できたということが、錦織選手の強さを如実に示していると感じます。

 バルセロナオープン2015の2年連続優勝も含めて、錦織選手は「クレーコートにおける錦織のプレー」を身に付けた印象です。そのプレーが世界トップクラスなのですから、頼もしい限りと言えるでしょう。
 
 さて、準決勝の相手は世界ランク3位のアンディ・マリー選手です。
 強烈なサーブが武器のプレーヤーですが、クレーコートなら互角以上の勝負が展開できることでしょう。

 「錦織圭選手・決勝進出」の報を待っています。
 テニスのメキシコオープン大会で錦織圭選手が決勝進出を決めました。

 準決勝では今大会初めてセットを落としましたが、キッチリと勝ち切るところに強さを感じます。
 ツアー大会で2大会連続の決勝進出は、錦織選手の実力の証明と言えます。

 ところで、今大会が始まる前から、「決勝まで進出すれば世界ランキングが5位から4位に上がる」という報道が続きました。
 この準決勝が終わった後のインタビューでも、そうした質問が有ったのでしょう。
 錦織選手は「本当に申し訳ないんですけど、(ランキングは)そんなにどうも思ってなくて・・・」とコメントしたと伝えられました。(2月28日のYMIURI ONLIOE)

 当然のことでしょう。ランキングが何位であろうと、肝心なことは大会での成績なのですから。
 5位であろうと4位であろうと、よしんば1位であろうと、世界的な大会で勝つ難しさには何の違いも無いのです。

 ランキングは「各大会の成績の累積結果」なのでしょう。ランキングアップを目指して大会に臨む選手は、トップクラスには居ないと思います。

 錦織選手は、このところ調子がいまひとつのナダル選手らを抜いてランキングを上げることには全く興味が無く、ナダル選手らの強豪に勝って大会で優勝することを目標としているのでしょう。

 
 どんな競技においても、トッププレーヤーとはそういうものだと思います。
 錦織圭選手が全豪オープン2015でベスト8に進出しました。

 ベスト8のゲームでは、スイスのワウリンカ選手に敗れましたけれども、1回戦から4回戦までのゲームも含めて、見事な活躍であったと思います。(ご本人は不満なのかもしれませんが)

 1回戦のアルマグロ選手(スペイン)、2回戦のドディグ選手(クロアチア)、3回戦のジョンソン選手(アメリカ)、4回戦のフェレール選手(スペイン)とのゲームは、危なげ無い内容でした。
 2回戦と3回戦では第1セットを落としましたが、第2セット以降は問題点に対応し、テニスの内容を変更して臨み、キッチリと勝ち切っていました。

 そもそも、日本人プレーヤーがテニスの4大大会でベスト8に進出すること自体が、少し前までは考えられないことでした。
 例えば日本人選手が、ゴルフのマスターズ大会や全米オープン大会でベスト8に入ることや、陸上競技の短距離・中距離のレースでオリンピックや世界選手権の「決勝レース」に進出することは、現在でも至難の業です。
 そうした成績を、何か「当たり前のような雰囲気」で実現してしまうところが、錦織圭選手の凄いところです。

 全米オープン2014での決勝進出という快挙のせいもあってか、全豪オープン2015に際して日本のマスコミは「4大タイトル初制覇なるか」といった論調で臨みましたが、錦織選手による4大大会ベスト8進出は、「今大会が3度目」なのです。

 過去にベスト8に進出したのは、全豪オープン1回と全米オープン1回の2回だけでした。その僅か2回目において、決勝進出まで果たした(全米オープン)ことは素晴らしいことなのですが、「錦織選手が4大大会のベスト4以上に常時進出できるプレーヤー」にまではなっていないことも、認識しておくべきでしょう。

 今大会の結果を踏まえて、まずは「4大大会で常時ベスト8に進出できる力」を具備していただきたいものだと思います。(大変我儘な要望で恐縮です)

 当然ながら、これだけレベルアップした世界のテニス界ですから、4大大会ベスト8進出は、極めて高いハードルです。
 今大会でも、現在の「世界三強」の内の2人、ナダル選手・フェデラー選手が、4回戦までに姿を消しました。
 世界ランク50位~100位位の選手でも、その日の彼我の調子によっては「トップ10以内の選手」を破る力があるのでしょう。

 こうした状況下、錦織圭選手は着実に実力を上げています。その実力向上度合いが、よく分かる全豪オープン2015であったと思います。
 錦織圭選手の活躍に注目が集まる全豪オープン2015ですが、男子シングルス2回戦のラファエル・ナダル選手とティム・スマイチェク選手の試合における「スマイチェク選手のスポーツマンシップ溢れる行動」が話題になっています。

 この試合は最終セットまで縺れ込む激戦となり、最終セットでナダル選手がゲームカウント6-5とリードして迎えたサービスゲーム、30-0とナダル選手がリードしての状況で、ナダル選手がトスアップした瞬間に観客が大声を上げたのです。ナダル選手はサービス・フォルトを犯しました。

 ここでスマイチェク選手が主審にプレーのやり直しを申し出たのです。

 ナダル選手のセカンドサービスとなれば、スマイチェク選手に反撃のチャンスが広がる局面でした。
 結局このゲームはナダル選手がキープして、4時間を越える激戦を制しました。

 スマイチェク選手のこの行動は「スポーツマンシップから見て当然の行動」とは言えないでしょう。

① マナー不知の観客の大声について、スマイチェク選手には何の責任も無いこと
② プロは稼いでナンボ、トーナメントで勝利することが肝心という考え方

 等を考慮すれば、なにも「ここでプレーのやり直しを申し出る必要は無い」という考え方も、普通に存在すると思います。たとえ申し出なかったとしても、何も文句を付けられることではないですし、スマイチェク選手のスポーツマンシップについて疑義の声など上がる筈がないのですから。

 この事象は「スポーツマンシップとは別の次元の問題」のように思います。

 これは、スマイチェク選手自身の矜持の問題というか、「テニスの試合の有り様」についての考え方の問題なのでしょう。

 観客の大声で相手選手が不利になるというのは、自らがやりたいと考えている試合とは違う、という感覚なのではないかと思います。

 無論、プロテニスプレーヤーとして、世界4大大会のひとつである全豪オープンで、現在の世界三強の一角ナダル選手を破ることは、大きなことでしょう。スマイチェク選手にとっても大飛躍のきっかけとなる試合であったかもしれません。

 しかし、スマイチェク選手は、プロテニスプレーヤーである前に、テニスプレーヤーであり、テニスが大好きな人なのでしょう。

 テニスを愛するひとりの人間として、サービスのトスが上がった瞬間に大声が発せられる試合というのは、許せないものなのだろうと感じます。スマイチェク選手にとっての「テニスの試合のあるべき姿」とは全く異なるものなのでしょう。
 これはおそらく、彼にとって到底許されないことなのです。

 「トップレベルの選手なら相手の弱点を突いて勝利するべき」という考え方があります。怪我や故障もプレーヤー自身の責任なのだから、相手プレーヤーがその弱点を突くことなく、あるいは弱点を避けてプレーするというのは、逆に失礼にあたるという考え方もあるでしょう。

 一方で、1984年ロサンゼルス・オリンピック柔道男子・無差別級決勝において、山下泰裕選手が対戦相手のラシュワン選手の故障個所を攻めることなく試合を進めた、といった事例も存在します。

 私は、どちらの考え方・試合の仕方も「あり」だと思います。一概に、どちらでなければならないといった性質のものではないでしょう。

 但し、今回のスマイチェク選手の行動には、何か清々しいものを感じます。スマイチェク選手の「テニス競技を愛する気持ち」が伝わってくるからです。
 当該スポーツを深く愛し敬意を持って接することが出来るプレーヤーは、強くなるのではないでしょうか。

 ティム・スマイチェク選手は、アメリカ合衆国ウィスコンシン州ミルウォーキー出身の27歳。身長175cm・体重73kg、右利き、バックハンドは両手打ち、のプレーヤーと報じられています。これまで世界ランクは100位前後を行き来してきました。

 今後のスマイチェク選手のプレー振りに注目したいと思います。
 テニス発祥国イギリスのロンドンで行われているATPツアーファイナル2014は、1次リーグの終盤に差し掛かりました。
 日本の錦織選手はB組の2位となり、1位のフェデラー選手と共に決勝トーナメント・準決勝への進出を決めました。日本人プレーヤーとして、史上初めて出場した大会で1次リーグを勝ち抜いたというのは、まさに快挙です。

 錦織選手のここまでの戦い振りを観ると「大会での組み立ての上手さ」が感じられます。
 つまり、初戦・第二戦のマリー戦・フェデラー戦のどちらかで1勝し、最終・第三戦のラオニッチ戦に準決勝進出を掛けるという戦略です。

 世界のトップランカー8名しか出場できない大会なので、どの選手も強いのは当たり前ですから、選手としては「自分のリソースの使い方」がポイントとなります。
 体力・技術・スピードといった要素で構成される自らのリソース=戦闘力と呼んでも良さそうです、は当然ながら有限です。厳しいスケジュールの下では、全ての試合に全力投球というのは極めて難しいことでしょう。

 錦織選手は初戦のマリー戦に注力し、これまで勝ったことが無かった相手をストレートで下しました。大会前の戦略の一部を達成しましたから、フェデラー戦ではリソースを使わなかったのではないかと考えます。
 フェデラー選手が快勝したこの試合後のインタビューで、フェデラー選手は「今日の錦織は調子が悪かったのでは」とコメントしています。

 私は、錦織選手は調子が悪かったのではなく、戦闘力を使わなかった・温存したのであろうと考えています。ラオニッチ戦に向けての対応です。

 こうした戦略の立案・実行は、世界最高レベルの大会に臨むプレーヤーとして当然のことでしょう。もちろん、当該の戦略が上手く行かないこともあるでしょうが、戦略無しで臨むよりは遥かに先に進める可能性が高いと思います。
 言うまでも無い事でしょうが、この大会に出場してくる選手は皆、こうした戦略を立案・実行できる選手ばかりでしょう。そうでなければ、世界のトップ8になど入れる筈がありません。

 ところで、錦織選手の第三戦の相手は、試合開始1時間30分前に変更になりました。ラオニッチ選手が太腿の怪我の為に棄権し、代わりにフェレール選手が登場したのです。

 「代わりに」といっても、準備万端の状態でなければいきなり出場してくることなど出来ないのが道理で、世界ランク10位のフェレール選手は、今大会の補欠選手として準備していたのです。
 そして、主催者側は「フェレール選手が試合に出場するしないにかかわらず、約1000万円の『待機料』を用意」していたそうです。
 こうした棄権という突発事象が無ければ、フェレール選手が登場することも無かったわけですが、コートに登場しなくとも1000万円が用意されているというのは、当然のこととは言え、主催者側の手厚い対応です。

 この日会場に詰めかけたファンは「錦織VSラオニッチ」という、世界最高水準の試合を観に来ていたのです。高額なチケットを購入して、「世界最高レベルのエンターティンメント」を、とても楽しみにしていたことでしょう。

 ラオニッチ選手の棄権により、試合が無くなってしまうことは、こうしたファンの期待を大きく裏切ることになりますから、絶対に回避しなくてはなりませんので、「補欠選手」が必要となります。

 その補欠選手と錦織選手の試合が、世界最高水準では無く、気持ちも入っていない試合であったなら、試合が無くなるよりは良いものの、やはりファンの期待に相当に応えた対応とは言えないでしょう。

 従って、「準備万端の世界トップランカーの補欠選手」が必要となるのです。そのための1000万円ですから、決して高くは無いと感じます。

 今大会の主催者は、プロスポーツのあるべき姿を良く把握し、十分なる準備をしてきたと思います。
 極上のエンターティンメントの
第一の主役は、観客
第二の主役は、選手
 であるという、当然のことながらも、忘れられてしまいがちな大原則を遵守したのです。

 観客には、万一に備えて出場するかしないかわからない選手を高額な報酬で待機させ、出場選手には、大会に関する衣食住・移動手段の全てを高いレベルで用意しました。
 ファンの方々の出費・支持によって成り立っているというプロスポーツの大原則、そのプロスポーツの中でも世界最高レベルの大会に求められるクオリティ、といった要素を十二分に理解した上で運営している、今大会の主催者のレベルの高さをも、感じさせる大会です。
 11月11日のフジテレビの番組・小倉智昭の「とくダネ!」の中で、ATPツアーファイナル2014に進出した8選手への「特別な待遇」が紹介されていました。

 広いホテルと専用の車による移動、ハイクラスな席での飛行機によるロンドン到着等々、通常のツアー大会なら自らの費用負担で転戦するところですし、宿泊・会場入りも当然ながら自分で準備しなければなりません。ファイナル進出者は特別なのです。

 「この雰囲気に呑まれないように頑張る」といった趣旨の、錦織選手のコメントも紹介されていました。

 ATPツアーファイナルが特別な大会であることを示すための、主催者側の演出であることは間違いありません。

 11日時点で、錦織選手の1次グループでの成績は、マリー選手に勝ち、フェデラー選手には敗れて1勝1敗と「想定の範囲内」でしょう。残されたラオニッチ戦に勝利して2勝1敗とすれば、決勝トーナメント進出の可能性は十分です。

 さて一方で、今から20年ほど前に、出張で新大阪駅の新幹線ホームを歩いていると、長身で極めてスリムな女性が、大股で私の前を歩いて行きます。大きな荷物を抱えていながら、とても力強く速い歩行なのです。
 シュティフィ・グラフ選手でした。

 当時、全盛期を迎えていた「世界最強の女子テニスプレーヤー」として、日本の大会に出場するか、したか、であったのでしょう。

 グラフ選手の後ろから、小柄で小太りの女性が懸命に歩いて追いかけます。グラフ選手の母親だと思いました。この頃、グラフ選手は母親とともに転戦していたのです。

 グラフ選手のキリリとした表情、背筋を真っ直ぐに伸ばし、大股でタンタンという感じで歩く姿、鍛え上げられたとても細いシルエット、にオーラが、とても強いオーラが漂っていました。

 それにしても、20年ほど前にはシュティフィ・グラフ程のプレーヤーでも、自分で大きな荷物を持ち、新幹線で移動していたのです。
 当たり前のことと言われるかもしれませんが、仕事としてのツアープレーヤーの大変さが感じられました。

 現在の錦織選手には「チーム錦織」が付いていることは、広く知られています。もちろん、錦織選手が自分のお金で組成しているチームなのですが、世界中どこに行くときも、トレーナー他の3~4人が同行しています。体調管理やスケジューリング等々に活躍しているのでしょう。

 ひとりで転戦しているように見えたグラフ選手と、チームで行動する錦織選手、どちらがどうと言うことではなく、「20年の間にプロテニス界も変わった」という風に考えたいと思います。グラフ選手の時代と、錦織選手の時代とが違うのでしょう。

 この変化が進歩なのかどうかも分かりませんが、「多くの人の生活を支える事業」としてのプロテニスツアーは、関係者による日々の努力無しには何十年もの間存続するのは、容易なことではないのでしょう。
 
 ツアーファイナル進出8プレーヤーへの特別待遇も、チーム錦織の存在も、まさに2014年の世界トップクラスのプロテニス界に観られる事象なのです。
 日本の錦織圭選手が、ATP(男子プロテニス協会)が主催する、今シーズンのツアー最終戦・ツアー・ファイナル(11月9日~16日、atロンドン)に進出しました。自己最高位の世界ランキング5位を引っ提げての、堂々たる出場です。

 直前のツアーランキング上位8名しか参加できないツアー・ファイナル出場は、錦織選手の今シーズンの目標のひとつでした。そして、それを達成しました。もちろん、日本人男子プレーヤーとして初の快挙です。

 そして、ツアー・ファイナル2014の1次リーグ組分けも発表されました。

[A組]
・ジョコビッチ(セルビア)
・ワウリンカ(スイス)
・ベンディハ(チェコ)
・チリッチ(クロアチア)

[B組]
・フェデラー(スイス)
・錦織
・アンディ・マリー(イギリス)
・ラオニッチ(カナダ)

 当然ながら、いずれ劣らぬ強豪選手ばかりの8名です。強いて言えば、「クレーコートの鬼」ラファエル・ナダル選手の名前が無い事が少し意外ですが、今季は調子が良くなかったのでしょうか。

 さて、ジョコビッチ選手とフェデラー選手は、言うまでも無く最近の10年間、世界の男子テニス界を席巻してきた2人です。4大大会の優勝数でも傑出しています。各組の1位候補でしょう。

 ワウリンカ選手やラオニッチ選手、そしてチリッチ選手は、4大大会やツアーの各大会で、錦織選手が何度も戦っている相手です。全米オープン2014決勝で、チリッチ選手に敗れた試合は、鮮明に記憶に残っています。

 そして、アンディ・マリー選手は、2012年の全米・2013年の全英に優勝しています。特に2013年の全英(ウィンブルドン)シングルス優勝は、1936年のフレッド・ペリー選手以来77年振り!の地元イギリス人プレーヤーの優勝でした。
 ジョコビッチ・フェデラー・ナダルとともに4強と呼ばれることもあるプレーヤーです。

 また、トマーシュ・ベンディハ選手は2010年の全英準優勝や全豪・全仏・全英のベスト4進出経験が有り、ツアーシングルス9勝の実力者です。29歳のベテランですが、まだまだ健在であることを示したファイナル進出でした。

 錦織選手としても、総当たりとなる1次リーグB組の2位以内を確保して、準決勝進出を果たす可能性もあれば、3戦全敗の可能性もある、とても高いフィールドということになります。

 ポイントはマリー選手との対戦でしょうか。この8プレーヤーの中で、錦織選手が唯一一度も勝ったことが無いプレーヤー(過去0勝3敗)なのです。
 フェデラー選手と互角(2勝2敗)、ラオニッチ選手には優位(4勝1敗)ですので、一層マリー選手との対戦の勝敗が大きく影響するでしょう。
 とはいえ、近時の錦織選手の対応力の高さを観るにつけ、勝機は十分に有ると思います。

 プロテニスプレーヤー・錦織圭の2014年は、進歩と発展の年でした。
 その年の仕上げのトーナメントです。大活躍を祈ります。

 楽天ジャパンオープン大会の男子決勝は10月5日に東京・有明コロシアムで行われ、錦織圭選手がミロシュ・ラオニッチ選手(カナダ)をセットカウント2-1(7-6、4-6、6-4)で下して、2年振り2度目の優勝を果たしました。

 9月の全米オープン大会における準優勝達成を受けての、錦織選手にとっては母国への凱旋トーナメントでしたが、見事に優勝したという形です。

 この優勝にも、大きな価値があると感じます。

① 体調がそれ程良くなくても、ツアー大会で優勝できることを示したこと。

 この大会の錦織選手は、連戦の疲れからダブルスを棄権するなど決して好調とはいえない状態でしたが、それでも優勝しました。
 決勝第3セットでラオニッチ選手の220kmを超えるスピードサーブをキッチリと返すプレーには、驚かされました。
 悪い時には悪いなりに成績を残すというのは「世界トップクラスのプレーヤーの証」といえるでしょう。

② マレーシアオープン大会に続く2大会連続優勝。

 錦織選手にとっても初めての快挙でした。
 当然ながらATP(男子テニス協会)ワールドツアーのトーナメントは、世界最高水準の大会です。その大会を2週連続優勝するというのは、素晴らしいことです。

 ATPワールドツアー250シリーズのマレーシアオープン大会に勝ち、更に格上のATPワールドツアー500シリーズのジャパンオープンも制したのです。

③ ATPツアーファイナル出場へ歩を進めたこと。

 男子テニスツアーの大会の格付けは、グランドスラム大会(全豪、全仏、全英、全米の4大会)が最上位に位置し、次に位置するのが「ATPツアーファイナル大会」です。11月にロンドンで開催される大会ですが、そのシーズンのツアーポイントランキング上位8位までのプレーヤーしか出場できない大会でもあります。

 今般の2週連続優勝のポイントを上乗せした錦織選手は、ランキング5位に上がりました。まだ大会が残っていますので、ファイナルへの出場が決まった訳ではありませんが、十分な可能性を残しているといえるでしょう。

 このジャパンオープン大会での優勝で、錦織選手のツアー優勝は通算7回目となりました。
 2008年2月のデルレイビーチ大会での優勝から、2013年までに3回優勝し、2014年に入ってから2月のメンフィス大会、4月のバルセロナ大会、9月のマレーシアオープン大会、そして10月のジャパンオープン大会と一気に4度の優勝を積み上げています。

 本当に素晴らしい成績であり、錦織選手が間違いなく世界トップクラスにランクアップしたことを示しています。
 
 2013年までの錦織選手も戦後の日本男子テニス史上最強のプレーヤーでしたが、2014年に入ってからは「別次元の強さ」を魅せています。何度も書いて恐縮ですが、2013年以前と2014年の錦織圭選手のプレーにおける違いは何なのでしょうか?
 男子シングルス決勝が9月30日に行われ、西岡良仁選手(19歳)が優勝しました。
 第5シードで臨んだ大会でしたが、第1シードの慮彦勲選手(台湾)に6-2・6-2のストレート勝ち。日本選手として、1974年の坂井利郎選手以来40年振りの快挙です。

 スポーツにおいては、ある選手がパイオニアとなって厚い壁を破ると、全体のレベルが一気に上がると言われますが、まさに錦織圭選手の全米オープン準優勝から、日本テニスが一気に躍動しているように見えます。

 同時に日本で行われているジャパン・オープンテニス大会でも、男子シングルス1回戦で、世界ランキング103位の伊藤竜馬選手が、同4位で第1シードのスタニスラス・ワウリンカ選手を7-5・6-2のストレートで破りました。
 近時のテニス界では、下位ランクのプレーヤーが上位のプレーヤーを破ることは珍しくないとはいえ、素晴らしい活躍だと思います。

 そして、当の錦織選手は先週のマレーシア・オープン大会で堂々の優勝を飾り、ジャパン・オープン出場で故郷に錦を飾っています。30日の男子ダブルスでは内山靖崇選手とのペアで、無事に緒戦を突破しました。シングルスでもベスト4に進出しました。

 当たり前のことですが、我が国には多くのテニスプレーヤーが居ます。そして、プロフェッショナルとして世界を相手に戦っているプレーヤーも沢山居るのです。
 正直に言って、そうしたプレーヤーの皆さんの名前を聞くことは、これまで稀でした。

 しかし、これからは世界中で日本人テニスプレーヤーの活躍を見聞きすることができるようになるでしょう。

 おそらく、日本人テニスプレーヤーが国際大会で勝つことは、もはや珍しいことではないのです。錦織選手の功績は、想像より遥かに大きいのでしょう。
 全米オープンテニス大会・男子シングルス決勝は9月8日に行われ、マリン・チリッチ選手(クロアチア)が錦織圭選手を、セットカウント3-0で下して初優勝しました。
 日本の錦織選手にとっては、とても残念な結果となってしまいました。

 試合前、センターコートに両選手が入場するシーンで、チリッチ選手が早々に姿を見せたのとは対照的に、錦織選手は中々登場しませんでした。係員に促されて、ようやく現れたのです。
 そして、その表情は緊張感溢れる固いものでした。一方のチリッチ選手は、とてもリラックスしているように見えました。

 試合後のインタビューで、錦織選手は「前日中々寝付けなかったり、準決勝までとは違う緊張感があった。」とコメントしていましたから、全体として錦織選手は、相当気負った状況で試合に臨んだことになります。

 大試合を前にしての緊張は止むを得ないことだとは思いますが、この過度の緊張の一因として、「錦織選手の調子がピークアウトしていたこと」が挙げられると思います。準決勝のジョコビッチ戦が調子のピークだったのではないでしょうか。
 残念なことに、準決勝戦以降調子は下降し始め、ベスト16・準々決勝の4時間を超えるハードな試合の疲労影響も一気に出た形で決勝戦を迎えたのではないかと考えます。

 そうでなければ、いかにチリッチ選手のビッグサーブとはいえ、錦織選手がほとんどリターンできないなどという試合内容になる筈がないからです。何しろ、この試合までの対戦成績は錦織選手の5勝2敗だったのですから。

 一方のチリッチ選手は、決勝戦が調子のピークだったのでしょう。準決勝でロジャー・フェデラー選手を、決勝で錦織選手を、共に3-0のストレートで破ったプレーは見事なものでした。

 おそらくピークアウトしていた錦織選手にとって惜しまれるのは、第一セット・第一ゲーム、チリッチ選手がサーブ権を持っていたゲームですが、30-40とブレイクポイントを迎えたのです。
 試合の最初のゲームでのブレイクは、試合全体に大きな影響を与えたことでしょう。調子が下降気味の錦織選手と、絶好調のチリッチ選手との差を埋めてくれる可能性があったゲームだと思います。

 しかし、チリッチ選手は次のポイントを取り40-40としてから、冷静にこのゲームを取りました。
 後から思えば、このゲームが錦織選手にとって千載一遇のチャンスだったのでしょう。

 錦織圭選手は決勝で敗れ準優勝でしたけれども、「全米オープン・男子シングルス決勝進出」という偉業はいささかも色褪せるものではありません。まさに日本テニスの歴史を変えた快挙なのです。世界トップクラスの選手達を相手に、素晴らしいプレーを展開していただきました。

 錦織選手、本当にお疲れ様でした。そして、本当にありがとうございました。
 錦織圭選手が、男子シングルス決勝に進出しました。

 日本テニスの歴史上初めてのことです。

 テニスの世界4大トーナメントの一角・全米オープン大会2014の男子シングルス準決勝が9月6日に行われ、錦織圭選手がノバク・ジョコビッチ選手(セルビア)をセットカウント3-1で破りました。

 錦織選手は自身初の4大大会決勝進出。そして、これは日本テニス史上初のことでもあるのです。どんな言葉を使っても形容できないような快挙でしょう。

 これまで、日本人テニスプレーヤーは100年近い時間をかけて、世界の壁に挑んできました。

[日本人プレーヤーの世界4大大会シングルス・ベスト4]
・1918年 熊谷一弥選手 全米
・1920年 清水善造選手 ウインブルドン(全英)
・1931年 佐藤次郎選手 全仏
・1932年 佐藤次郎選手 全豪
      佐藤次郎選手 ウインブルドン
・1933年 佐藤次郎選手 全仏
      佐藤次郎選手 ウインブルドン
・1973年 沢松和子選手 全豪
・1994年 伊達公子選手 全豪
・1995年 伊達公子選手 全仏
・1996年 伊達公子選手 ウインブルドン
・2014年 錦織圭選手 全米

 以上、6名の選手が延12回に渡って準決勝に挑み、錦織圭選手が初めてこの壁を突破したのです。

 5回も挑みながら、ついに決勝に出られなかった戦前の名プレーヤー・佐藤次郎選手の無念を晴らした快挙とも言えるでしょう。

 この勝利の要因を考えてみましょう。

① 好調であること。

 当たり前と言われそうですが、これが最大の要因です。体の動きがとても良いのです。ジョコビッチ戦の第4セットは錦織選手が終始押していました。躍動感溢れるプレー振りです。
 大会前に足指の手術をしたと伝えられ、一時は出場も危ぶまれていたのですが、大会に入ってからは1戦毎に調子を上げてきた印象です。

 準々決勝・準決勝はフルセット、4時間を超える試合でしたし、特に準々決勝は終了時刻が午前2時26分という深夜・早朝でした。体調管理が難しく、疲労残りが心配されましたが、錦織選手の体調は維持どころか改善されてきているように観えます。余程好調なのであろうと感じます。

② サービスリターンが素晴らしいこと。

 世界ランキング・トップ10ともなると、強烈なサービスを武器としているプレーヤーが多いのですが、この大会の錦織選手のリターンは素晴らしい!
 特に、その角度は見事で、ここぞというポイントでのリターンエースが効果的です。「必殺のサービスリターン」が、錦織の代名詞になりそうな勢いです。

③ ショットが深いこと。

 テニスのストロークプレーにおいては、ショットの深さが重要なポイントとなりますが、今大会の錦織選手のパッシングショットの深さは際立っています。①の好調さが表れていることになりますが、ダウンザラインもクロスも深いのですから、相手プレーヤーにとっては脅威でしょう。

 ここまで何度も魅せてくれた「ジャストアウトかなと観えるショットがギリギリに入ってくるシーン」を、決勝戦でも是非展開して欲しいものです。

 試合後のインタビューに応えて「世界ランク1位のジョコビッチ選手に勝てて嬉しい。」と、錦織選手はコメントしていました。決勝に進出したことよりも、まずは目の前の試合に勝ったことが嬉しいという心情は、好調なプレーヤーの共通点ではないでしょうか。

 早朝のNHKテレビに出演した、かつての日本のトッププレーヤー・福井烈氏が「自分が生きている内に見られるとは思わなかった。」とコメントしていました。

 「日本テニス界100年の夢」が実現しました。
 快挙でした。

 クルム伊達公子選手が、全米オープン2014・女子ダブルスでベスト4に進出したのです。

 伊達公子といえば、かつて世界ランキング4位に位置したことが有り、シングルスでは20歳代の全盛期に、
① 1994年全豪オープン・ベスト4
② 1995年全仏オープン・ベスト4
③ 1996年ウィンブルドン(全英)・ベスト4
 と3度、グランドスラム大会のベスト4に進出しています。眩いばかりの実績です。

 そして、43歳となった2014年の全米オープンにおいて、ダブルス種目では初めてベスト4に進出したのです。

 今大会の快挙を契機に、再びクルム伊達公子というプレーヤーの偉大さを再認識すると共に、その選手寿命の長さに大きな拍手を送ります。

 チェコのバルボラ・ストリツォバ選手と組んだペアは、ベスト4・準決勝の試合でも勝機がありました。
 第一セットを5-2とリードしたのです。ここまでの7ゲームでは伊達選手の動き・出来の良さが際立っていました。

 ここで少し、伊達・スコリツォバのペアに「勝てる」という意識が芽生えたのでしょうか。それとも相手のエカテリーナ・マカロワとエレーナ・ベスニナのペアが奮起したのでしょうか。伊達ペアは5ゲームを連取されてセットを落としました。よもやの展開でした。
 百戦錬磨いや千戦練磨?の伊達選手をもってしても、一度傾いた試合の流れを押し戻すことは出来なかったのでしょうか。

 クルム伊達公子選手は、既に「女子テニスの伝説」です。生きる伝説をリアルタイムに観ることが出来る幸せを感ぜざるを得ません。
 7月4日に行われた男子シングルスの準決勝の組合せです。

・ジョコビッチ選手(27歳)vsディミトロフ選手(23歳)
・フェデラー選手(32歳)vsラオニッチ選手(23歳)

 ベテランに新鋭が挑む形でしたが、結果はジョコビッチ選手とフェデラー選手が、セットカウント3-1と3-0で快勝しました。

 男子シングルスでは新鋭も育ってきていますが、まだまだ3強(ジョコビッチ、ナダル、フェデラー)の時代が続くようです。

 ウインブルドンの男子シングルスでも、女子程明確ではありませんが「秩序」が存在する時代が続きました。

① 1974年~1982年までの9年間
[ビヨルン・ボルグ選手とジミー・コナーズ選手の時代]
 この時代、ボルグ選手は5回(5連覇)、コナーズ選手は2回(決勝でボルグに敗れること2回)優勝しています。

② 1983年~1992年までの10年間
[3強の時代-その1]
 この時代は、ジョン・マッケンロー選手(優勝3回)、ボリス・ベッカー選手(優勝3回)、ステファン・エドベリ選手(優勝2回)の時代と言って良いでしょう。
 この3プレーヤーは、決勝でも度々まみえています。そして、イワン・レンドル選手やアンドレ・アガシ選手も健闘しました。

③ 1993年~2000年までの8年間
[ピート・サンプラス選手の時代]
 この時代は、サンプラス選手が7回も優勝しています。今となっては、1996年(クライチェック選手が優勝)を落としたことが惜しまれます。

④ 2003年~2007年の5年間
[ロジャー・フェデラー選手の時代]
 フェデラー選手が5連覇(ボルグ選手とタイ記録)しました。「芝のフェデラー」の強さを如何無く魅せた時代でした。

⑤ 2008年~2014年の7年間
[3強の時代]
 ナダル選手が2回、フェデラー選手が2回、ジョコビッチ選手が2回優勝しています。ナダル選手は2006年と2007年も決勝に進出しましたが、この頃はフェデラー選手に歯が立ちませんでした。「クレーコートのナダル」と呼ばれていたのです。ナダル選手は、現在でもクレーコートで強さを発揮していますが、芝コートのウインブルドンでも十分に戦えるプレーヤーとなったのです。

 過去40年間を見てくると、2001年と2002年(イバノセビッチ選手とヒューイット選手が優勝)の2年間が過渡期であったのでしょう。

 さて、現在の3強ではフェデラー選手が最も長く世界トップクラスを守っている形です。何しろ1強時代を形成し、3強時代にも活躍しているのですから。しかし、さすがに32歳ともなるとフェデラー選手が世界トップクラスで活躍するのはあと数年でしょう。

 そうすると、フェデラー選手より5年前後若く、ほぼ同年代のジョコビッチ選手とナダル選手の2強時代が到来するのでしょうか。
 必ずしもそうならないような気がします。

 近時、ナダル選手を脅かすようなクレーのスペシャリストが複数誕生していますし、今ウインブルドンの準決勝に登場したラオニッチ選手も、試合運びという点でフェデラー選手の後塵を拝しましたが、あの強烈なサーブは魅力十分でした。(女子のブシャール選手共々、カナダのプレーヤーが急速に力を付けているのには、何か秘訣があるのでしょうか)

 フェデラー選手が第一戦から退く頃に「3強の時代も終焉を迎える」ように感じられるのです。

 それにしても、ジョコビッチvsフェデラーの決勝戦は「全くの互角」でした。両プレーヤーが、その技術と体力の限りを尽くして激突した見事なゲーム。僅かにボールの威力で勝ったジョコビッチ選手が優勝しましたが、3強の強さをまざまざと見せつけたゲームであったと思います。

 7月3日に行われた女子シングルス準決勝の組合せです。

・クビトバ選手(24歳)vsサファロバ選手(27歳)
・ハレップ選手(22歳)vsブシャール選手(20歳)

 そして、決勝はクビトバ選手とブシャール選手の対戦となり、クビトバが快勝し2度目の栄冠に輝きました。

 この準決勝と決勝は、「女子シングルスには世代交代の波が押し寄せていること」を如実に示していると思います。

 21世紀に入って圧倒的な力を示してきたウイリアムズ兄弟(ビーナス34歳・セリーナ32歳)や昨年の覇者バルトリ選手(29歳)を抑えて、20代前半のプレーヤーが決勝を争ったのです。

 ご存じのように、ウインブルドン大会女子シングルスには、過去30年以上に渡って「秩序」が存在しました。

① 1978年~1996年までの19年間
[マルチナ・ナブラティロバ選手とシュティフィ・グラフ選手の時代]
 この間のウインブルドン大会は、ナブラティロバ選手が優勝9回、グラフ選手が7回優勝と2人で16回優勝しています。
 この時代の序盤にはクリス・エバート(結婚後はクリス・エバート・ロイド)選手、中盤から終盤にはハナ・マンドリコワ選手やヤン・ノボトナ選手が健闘しましたが、2人の牙城はなかなか崩せませんでした。

② 2000年~2012年間までの13年間
[ウイリアムズ兄弟の時代]
 この間の大会は、ビーナス・ウイリアムズ選手が5回、セリーナ・ウイリアムズ選手が5回、計10回優勝しています。
 この時代の前半にはリンゼイ・ダベンポート選手が中盤から現在に到るころにはマリア・シャラポワ選手が健闘しましたが、厚い壁でした。

 こうした、明確な優勝候補が存在し、他のプレーヤーがこれに挑む形であったウインブルドン大会が、2013年以降は新鋭選手が登場し、混戦状態となっています。
 まだたったの2年間ですが、この時期が1997年~1999年の3年間、マルチナ・ヒンギス選手やヤン・ノボトナ選手が活躍し、ウイリアムズ兄弟の時代への布石となった時代と重なるものなのか、それとも「当分続く戦国時代」なのかは分からないところですが、世代交代の時期であり、ある意味ではとても面白い時代であることは、間違いありません。

 今大会特に注目された若手プレーヤーは、カナダの20歳ウージニー・ブシャール選手でした。そもそも、テニス4大大会決勝でカナダのプレーヤーというのが珍しく、ウインブルドン大会では初の決勝進出者でした。

 準決勝まで1セットも落とさずに決勝に進出しましたから、前日の記者会見では自信満々でしたが、決勝では第一セットこそ3ゲームを取ったものの、第二セットは0-6と完敗でした。

 ブシャール選手は、スピンが効いたボールを打つのですけれども、ボールのスピードはそれ程ではないのです。これに対して、クビトバ選手はフラットな打球も打つことが出来ますので、打球スピードで勝りました。芝のウインブルドンでは、速いボールを駆使できる方が有利ですから、一方的なゲームとなってしまったように思います。

 とはいえ、ブシャール選手は2014年の全豪・全仏でベスト4に入るなど急速に力を付けてきていますので、次代の世界女子テニス界を牽引するプレーヤーになる能力を十分に備えていることは異論のないところでしょう。今後の活躍がとても楽しみです。

 ウインブルドン2014女子シングルスは「世代交代を色濃く反映した大会」であったと思います。

 テニスのマスターズ1000大会のひとつ、マドリード・マスターズの男子決勝は5月11日に行われ、日本の錦織圭選手は6-2、4-6のセットカウント1-1で迎えた最終セット0-3のところで、腰痛のため棄権し、初のマスターズ大会優勝はなりませんでした。

 惜しくも大魚を逃したとはいえ、決勝でも「クレーの鬼」ラファエル・ナダル選手(世界ランク1位)から第1セットを奪い、第2セットの半ばに「腰から脚にかけての痛みが走る」前までは、互角以上のプレーを展開していました。素晴らしいパフォーマンスであったと思います。

 ご承知のように、マスターズ1000大会はテニスの4大大会とATPツアー最終戦に次ぐ格式の大会であり、「フィールドが強い」のです。過去5年間の優勝者を見ても、2009年がロジャー・フェデラー、2010年ナダル、2011年ノバク・ジョコビッチ、2012年フェデラー、2013年ナダルと、その時期の世界トップランカーがずらりと並びます。
 そうした大会で、錦織選手は初めて決勝に進出するとともに、決勝でもナダル選手と好勝負を展開したのです。

 また、準決勝では、世界ランク5位のダビッド・フェレール選手を7-6、5-7、6-3で下しています。錦織選手は、今般世界ランク9位に上がったと報じられていますが、実際の実力は世界ランク5位前後なのではないでしょうか。

 コンディションやサーフェイスの関係によって、世界トップを狙える位置まで、錦織圭選手が上がってきてことは、本当に素晴らしいことだと思います。

 2014年に入ってから、錦織選手は各大会において次々と好成績を残しています。2013年から2014年にかけて「錦織選手に何が起こった」のでしょう。マイケル・チャン氏をコーチに招聘したことが大きかったのでしょうか。いずれにせよ、何かがあったことは間違いないようです。明らかに、階段を一段(とても大きな一段)上がったのです。凄いことです。

 腰の故障はおそらく、錦織選手の今後のキャリアにずっと現れるものなのでしょう。願わくば、腰の痛みと上手に付き合っていただき、元気いっぱいのプレーを見せてほしいと思います。
 
 錦織選手のプレーには「日本テニス界の夢」を感じます。
 4月21日から27日にかけてスペイン・バルセロナで開催された男子テニスツアーの大会、バルセロナ・オープン・バンコ・サバデルで、日本の錦織圭選手が決勝戦でコロンビアのサンチアゴ・ジラルド選手をセットカウント2-0で破り、初優勝しました。

 これで錦織選手は、7度目の決勝進出で5度目の優勝、クレーコートでは初めての優勝となりました。

 バルセロナ・オープン・バンコ・サバデル大会は、1953年から開催されている60年以上歴史を誇る大会です。
 また過去9年間で、ラファエル・ナダル選手が8度優勝しているという、「クレーコートに滅法強いナダル選手の為に存在する大会」と言われてきましたが、そのナダル選手が大会5日目の準々決勝で同じスペインのニコラス・アルマグロ選手に不覚を取り、そのアルマグロ選手を準決勝で破ったジラルド選手が、決勝に進出してきたのです。

 錦織選手が世界ランク17位、ジラルド選手が65位とはいえ、乗りに乗っているジラルド選手ですから接戦が予想されましたが、決勝戦は試合時間1時間13分、スコアは6-2、6-2と一方的なゲームとなりました。
 特に、ブレイクポイントでの錦織選手の勝負強さが際立っていたと思います。

 また、準々決勝のチリッチ選手、準決勝のグルビス選手は共に実力者であり、難敵と思われましたが、セットカウント2-0で退けました。連日の強敵との対戦を危なげなく乗り切った様子は、錦織選手の地力が一段上がったことを示していると思います。

 この大会も含めて、2014年に入ってからの錦織選手の成績は見事です。

 1月の全豪オープンで3年連続となるベスト16入り、4回戦では第一シードのナダル選手と接戦を演じましたが、惜しくも敗退。
 2月のデビスカップではカナダチームを相手に、シングルス2勝・ダブルス1勝の計3勝で、日本チーム初の準々決勝進出の原動力となりました。
 3月のマイアミ・マスターズ大会では、世界ランク上位者を連覇して準々決勝に進出し、ここでもロジャー・フェデラー選手を破りました。股関節の故障を発症し惜しくも準決勝のジョコビッチ戦を棄権しましたが、錦織選手の実力向上を如実に示す大会でした。
 そして4月のバルセロナ・オープン大会に優勝したのです。

 冷静に見て、錦織圭選手は「世界のトップに肉迫」しています。
 今大会終了後の世界ランクも12位に上がりました。

 なんという素晴らしい活躍でしょうか。世界4大大会においても、自身のコンディションと組合せによっては、ベスト4あるいは決勝戦進出も夢ではない感じがします。

 ここまで、自身の実力を向上させてきた錦織選手に大きな拍手を送るとともに、フラッシング・メドウやウィンブルドンのセンターコートに立ち、ファイナルを戦う錦織圭選手の姿を、是非観てみたいと思います。
 3月27日、プロテニスツアーから嬉しいニュースが飛び込んできました。

 錦織圭選手が、アメリカ・マイアミで開催されているソニーオープン大会5回戦で、第5シードのロジャー・フェデラー選手に逆転勝ちしたのです。4回戦で第4シードのダビド・フェレール選手を破っていますから、トップ5のプレーヤーを連破したことになります。素晴らしいことです。

 ソニーオープンは、全英・全米・全豪・全仏の世界4大大会に次ぐ格式の大会ですから、世界トップランカーの多くが出場している、いわゆる「フィールドが高い」大会なのです。その大会で、世界のトップランカーを連破したことは、調子さえ良ければ、錦織選手の実力が世界トップクラスであることの証左です。

 ゲームに付いてはダイジェスト版を見ただけですが、正確なショットが目立っていたように思います。「エア・ケイ」も必要以上に高くは飛ばず、コントロール重視のように見えました。
 もともと、空中に飛び上がって、両足が地に付いていない状態で、体の回転だけで打っていくショットは、当然ながらボールを打つ力が半減しますから威力に乏しいと思います。ただし、打点が高くなりますから、角度のあるボールを打てる上に、速めのタイミングで打っていくことから、相手プレーヤーがタイミングを合わせ難いというメリットはあるのでしょう。

 このゲームの「エア・ケイ」は、上というより前方に飛び、前方に移動することの運動エネルギーをボールにぶつけているようでした。結果として、低いが威力のあるボールになっていたように感じました。

 全盛期を過ぎたとはいえ、世界4大大会で17回の優勝を誇り、世界テニス史上最強との呼び声も高いフェデラー選手を、フェデラー選手が得意とするハードコートで破ったことは、錦織選手にとって大きな自信となることでしょうし、日本のテニスファンにとっても、ついに世界最高峰を見据えるプレーヤーが登場したことは、大きな喜びです。

 現在の世界のプロテニス界は、絶対的な強さを誇るプレーヤーが存在しない、群雄割拠の時期です。錦織選手が世界制覇に打って出るには、絶好のチャンスでしょう。期待は、高まるばかりです。
 テニスの国別対抗戦、伝統のデビスカップ・ワールドグループ1回戦(ベスト16)で、日本チームはカナダチームを4勝1敗で下して、1981年に現行制度となって以来4回目のワールドグループ1回戦挑戦にして、初めてベスト8進出を果たしました。

 世界テニス界におけるデビスカップの位置付けの高さと、予選突破すら容易なことではなかった、日本チームのこれまでの戦い振りを勘案すると、8強進出は「信じられない」という感じがします。快挙でしょう。

 1月31日の大会初日は、シングルス2試合が行なわれ1勝1敗でした。日本のエース・錦織圭選手がカナダのポランスキー選手を破って、日本チームに1勝をもたらしたのです。

 さて、いつの時代もレベルが拮抗したデビスカップの対戦では、ダブルスがポイントとなります。日本チームもこれまで、度々ダブルスで苦杯を舐めてきました。

 2日目のダブルス戦、日本チームは当初杉田祐一・内山靖崇のペアを予定していましたが、勝負をかけて錦織を投入、錦織圭・内山靖崇ペアに変更しました。そして、この天王山ゲームを3-1のスコアで勝ち取り、カナダとの通算成績を2勝1敗とリードしたのです。

 最終日3日目は2月2日、シングルス2試合が行なわれましたが、その第1試合・錦織vsダンチェビッチで、錦織1セットアップの段階でダンチェビッチが腹筋通により棄権して、錦織が勝利、日本のベスト8進出が決まりました。

 確かに、カナダチームは、エースのラオニッチ選手、二番手のポシュビシル選手が共に故障で、この対戦に出場できませんでした。日本チームにとってはラッキーであったかもしれませんが、それはお互いに起こり得ることであり、当然ながら「体調管理」も実力の内、運も実力の内ということでしょう。
 日本チームのベスト8進出の快挙は、このことによっていささかも損なわれるものではないと考えます。

 日本男子プレーヤーとして、2013年6月には世界ランク11位になったこともある錦織圭選手の存在、世界トップクラスと日々戦い続けているプレーヤーの存在が、日本男子テニスのレベルを着実に引き上げていることは、間違いないことでしょう。
 そして、そのエースが、3日間で3試合に登場し、計6時間6分も有明のコートに立ち続けたのです。「錦織の仁王立ち」といったところでしょうか。本当に素晴らしい活躍でした。
 また、このベスト8進出は、今後の日本男子テニス界にとって大きな財産となったと思います。

 さて、ベスト8の戦いは4月4~6日、やはり有明コロシアムで行なわれます。現在2連覇中とディフェンディングチャンピオンでも有るチェコチームとの対戦。
 もちろん厳しい戦いとなるのでしょうが、「殻を破ったチーム」の強さを示したいものです。

 今から58年前、1955年8月の全米オープンテニス・男子ダブルスで、日本の加茂公成(かも こうせい)・宮城淳(みやぎ あつし)ペアが優勝しました。

 現在に至るまで、全豪・全仏・全英・全米の4大テニス大会で、日本人同士のペアがダブルスで優勝した唯一の記録です。天候不順により、日程がデビスカップの試合と重なり、アメリカとオーストラリアの有力選手が出場していなかったという事情があるにしても、素晴らしい記録であり、日本テニスの輝かしい歴史の一ページだと思います。

 加茂公成選手は、東京・目黒区の出身。有名なテニス一家に生まれ育ちました。早稲田大学時代に、本ブログにも登場した福田雅之助氏の指導を受け、1953年の全日本テニス選手権・男子シングルス決勝を兄の加茂礼仁(かも れいにん)選手と争い、弟の公成選手が優勝しました。
 公成はフランスの有名テニスプレーヤーのアンリ・コシェから、名付けられたと伝えられています。とても、洒落た名付け親が居たということでしょう。

 宮城淳選手は、東京・大田区の出身。こちらも有名なテニス一家に生まれ育ちました。生まれ年は宮城選手が1931年、加茂選手が1932年です。
やはり、太平洋戦争間もない時期にテニスの試合で世界中を飛び回るというのは、相応の家庭環境が整っていたということでしょう。
 加茂選手と同様に、早稲田大学時代に福田雅之助氏に師事し、1954年の全日本テニス選手権・男子シングルスを制して、加茂選手とのペアで男子ダブルスにも優勝しました。

 こうして、我が国屈指のテニス一家に生まれ育った2人の同世代プレーヤーが、ペアを組むこととなったのも、日本テニス界にとっては幸運なことだったのだろうと思います。

 宮城淳選手の後年のプレーを何回か眼にしたことがあります。今から25年位前、三井グループ各社が参加するオール三井大会が、東京・浜田山の三井不動産グランド(現在はありません)で毎年行われていて、そのテニス競技に宮城選手が出場していたのです。
 既に50歳代半ばであったと思います。相手は、関東インカレ上位入賞者といった大学卒業間もないバリバリの現役プレーヤー(ちょうど宮城選手が全米オープンで優勝した年頃)でしたが、宮城選手は互角以上のプレーを展開していました。

 プレースメントが正確で、相手がプレーし難いところに次々とショットが運ばれます。美しいショットの連続だと思いました。

 強者としての日本テニスの歴史を継続したいものです。錦織圭選手を始めとする日本人プレーヤーの奮起・活躍に期待しています。
 ウインブルドン2013の男子シングルスでは、この大会で2回優勝し、四大大会のシングルスで12回優勝のラファエル・ナダル選手が1回戦で敗退しました。そして、この大会で7回の優勝を誇り、四大大会で同17回優勝のロジャー・フェデラー選手が二回戦で姿を消しました。

 対戦相手は、いずれも世界ランク100位以下の選手でした。この数年感じていたことですが、世界ランクの上位選手と下位選手の力の差が小さくなってきている、上位ランカーのコンディションが少し悪ければ、100位以下のプレーヤーでも勝つチャンスがある時代であることを再認識させられました。

 こうした現象は、以前であれば考えられないことでした。理由があるのでしょう。私は、その理由の一つに「ラケットの進化」があるように思います。
 現在のラケットは、とても反発力が高く、コントロールし易いものになっているのではないでしょうか。

 結果として、パッシングショットのスピードは向上し、いつのまにか「サーブ&ボレー」プレーヤーは絶滅危惧種になってしまいました。
 
 手首の返しだけで返球できてしまうプレーも目立ちます。以前であれば考えられなかったことです。手首を固めて、しっかりとした面を作らなければ、ボールは返って行かなかったのです。そして、それが軟式テニスとは違う、硬式テニスだったのです。

 こうした金属製の高性能ラケットを持ち、ベースライン上での強いショットの打ち合いだけのゲームとなれば、ナダルやフェデラー相手でも十分に戦える下位ランカーが沢山居るのでしょう。技術の幅とか、経験が余り活きないテニスになっているように観えます。

 スポーツにおいて、道具が進化することは止められませんが、例えば競技場のサイズとのバランスが崩れるような進化であれば、これは止める必要があります。
 現在のテニスにおけるラケットの進化は、他の要素とのバランスを崩す段階まで進んでしまったのかもしれません。

 「しっかりと打たなければ、飛んでいかないラケット」に戻すべき時代が来ているのではないでしょうか。例えば、プロのゲームは「木製ラケット」に限定するといった形です。野球のバットにおいては実施されていることです。
 そうすれば、テニスコートの全面を使ったプレーが復活することでしょう。

 40年近く前に「硬式」テニスを始めた時、私が最初に使ったラケットはフタバヤのウィニングショットという木製ラケットでした。ラケットの芯に当たった時には素晴らしいショットが生まれましたが、少しでも芯を外れるとへなちょこ球になりました。
 ゲームで良い成績を上げるために「ボレー」の練習を繰り返しました。
 
 35年ほど前に、グラスファイバーラケットが出来ました。初めて使った時に「すごく飛ぶな」と感じました。その後、金属製のラケットが登場し、デカラケ、アツラケの時代を経て、現在に至っています。特に、アツラケの影響が大きかったと感じます。誰でも、威力のあるボールが打てるようになったのです。

 木製ラケットの時代には、威力のあるボールはキチンとしたフォームから生まれました。どんなスポーツのどんなプレーでも、キチンとしたフォームは大切なものだと思うのです。
 ウインブルドン2013の男子シングルス準決勝第一試合は、2013年7月5日にセンターコートで行われました。
 ジョコビッチ選手(セルビア)とデル・ポトロ選手(アルゼンチン)の対戦でした。試合は、フルセットとなり、4時間43分というウインブルドン大会史上最長の男子シングルス準決勝となりました。
 この熱戦を制したのはジョコビッチ。第一シードの面目を保ち、2年振りの決勝に駒を進めました。

 これだけの大熱戦だったのですが、正直に言ってあまり面白くありませんでした。その理由は

① ベースラインでの打ち合いばかりの単調な試合であること

 この数年のプロテニス大会に共通していることなのですが、両プレーヤーがベースラインに陣取って、パッシングショットのラリーが続きます。
 かつての「サーブ&ボレー」といったプレーは、ほとんど見ることが出来ません。パッシングショットの強さ・速さ・精度が向上したために、前に出ても簡単に抜かれてしまうことが原因だと思いますが、結果として両プレーヤーがベースライン上を左右に動き、打ちあうという試合ばかりになってしまいます。
 そして、ラリーが長々と続くことも珍しくありません。

 もちろん、パッシングショットにもドライブやスライスなど、様々な違いがあり、そのスピードにも変化があることは解りますが、戦術面のバリエーションに乏しいことも事実でしょう。

 例えば、かつてのビヨルン・ボルグとジョン・マッケンローのゲームの様に、ベースラインで待ち受けるボルグに対して、前後の動きで対抗するマッケンローといったゲームに比べれば、変化に乏しいことは明白だと思います。

② チャレンジ制度

 チャレンジ制度が導入されて相当経ちますが、プレーヤーがその使い方に慣れてきたためか、制度が変わってきたのか、ラリーの途中でチャレンジします。つまり、そこでプレーが中断されるのです。
ラリーを熱心に見ている観客は、突然訳も分からないタイミングでプレーが止まることを楽しいとは思わないでしょう。

 およそ、全てのスポーツでプレーヤーが、まさに動いている途中でプレーを中断できるのは、現在のテニスだけでしょう。スポーツにおいては、プレーを中断できるのは審判だけであるべきだと思います。
 ボールがインなのかアウトなのかは、審判が判定すべき問題です。そこに機械を使うことについては何の問題もないと思います。

 現代のプロスポーツにおいては、選手と観客が対等の立場にある2大要素だと思います。プロテニスのゲームにおけるチャレンジという制度は、選手に寄り過ぎた制度ではないでしょうか。(アメリカンフットボールNFLのチャレンジ制度とは、全く異なります)

③ 長すぎる試合時間

 これは、結果としてということですが、5時間に近いゲームというのはやり過ぎだと思います。①②の理由で、平均的な試合時間は昔に比べて長くなっていると思います。(②のチャレンジが成功すると、当該ポイントは無かったことになり、やり直すのです)

 試合時間が1時間なのか5時間なのか予想できないスポーツというのは、高度に時間管理された現代社会には向いていません。クリケットのようなスポーツを除けば、いわゆる世界中で行われているメジャープロスポーツで、試合時間が4~5倍になる可能性があるのは、テニスだけだと思います。

 「これが伝統だ」と言い切る人も居るのでしょうが、ファンの数が減少する一因となることは、容易に予想できます。
 5時間ともなればスタンドに居る観客の健康面も、十分に考慮する必要があるでしょう。

 テニスは人気のあるスポーツです。アマチュアプレーヤーの娯楽と健康の維持増進という点からは、今後もテニスの人気は続いて行くことでしょう。

 一方で、プロスポーツとしてのテニスについて言えば、そろそろ根本的な見直しを行う時期が来ているように感じるのです。
 テニスの全英オープン・ウインブルドン2013の女子シングルスで、クルム伊達公子選手が、女子シングルスで一回戦、二回戦を勝ち抜き三回戦に進出しました。
 三回戦は相手が世界ランク1位のセリーナ・ウィリアムズ選手だったこともあり敗れましたが、42歳のプレーヤーとしては驚異的な活躍です。

 伊達選手は、42歳9か月でのこの大会3回戦進出でしたが、これまでの記録であったマルチナ・ナブラチロバ選手の42歳8か月を超える最年長記録でした。あのナブラチロバを超えたというのは、素晴らしいことだと思います。

 伊達選手は、1989年にプロ入りし1996年に一度現役を引退しています。26歳での引退でしたが、この7年間に対戦したプレーヤー、そして成績は見事なものでした。

 1990年の全豪オープンではバム・シュライバー選手を破って四回戦に進出、1991年のWTAツアー・バージニア・スリム大会ではガブリエラ・サバティーニ選手を破って準優勝、この時の決勝の相手はモニカ・セレシュ選手でした。(WTAは、女子テニス協会。WTAツアーは、グランドスラム=四大大会に次ぐ格式の公式戦)

 1993年の全米オープン大会でヤナ・ノボトナ選手を破り、初の四大大会ベスト8進出。1994年の全豪オープン大会で初の四大大会ベスト4進出を果たすも、準決勝でシュティフィ・グラフ選手に敗れました。1995年のWTAツアー・東レパンパシフィック大会でリンゼイ・ダベンポート選手を破り優勝。1995年の全仏オープンではベスト4進出を果たすも、準決勝でアランチャ・サンチェス選手に敗れました。

 1996年4月には、女子国別対抗戦フェド・カップのドイツとの戦いで、シュティフィ・グラフ選手を破りました。1996年の9月のWTAツアー・チェイス選手権大会2回戦で、当時16歳だったマルチナ・ヒンギス選手に敗れました。
 そしてこの年、一度現役を引退したのです。

 この7年間でWTAツアー7勝、世界ランキングの最高位は4位(1995年)、全豪・全仏・全英・全米の四大大会でのシングルス準決勝進出3回、ベスト8進出6回と、全て日本人女子テニスプレーヤーとして最多記録です。
 これらの記録全てが素晴らしいものですが、私には上記の対戦相手の顔ぶれ、そしてその試合内容が、より素晴らしいものだったと感じられます。時代を彩った世界トップクラスのプレーヤー達と互角のゲームを展開してくれたことが、伊達選手の一番の功績ではないかと思うのです。

 2008年3月に東京・有明コロシアムで開催されたエキジビションマッチで、シュティフィ・グラフ、マルチナ・ナブラチロバの両選手と対戦し2勝。世界の女子テニス界の顔であった2人のプレーヤーに勝ったことが、伊達選手に「現役復帰」を決意させたのだろうと思います。
 翌4月に、現役復帰宣言をしました。37歳での再チャレンジでした。

 現役復帰後は、さすがに年齢のこともありグランドスラムやWTAツアーでの活躍は難しいと言われていましたが、2009年のWTAツアー・ハンソル韓国オープンでは見る見る勝ち上がり、準々決勝では第一シードのダニエラ・ハンチュコバ選手を準決勝ではマリア・キリレンコ選手を破って決勝に進出。決勝でもアナベル・ガリゲス選手にストレート勝ちして、13年振り・8勝目のWTAツアー・女子シングルス優勝を遂げました。
 この38歳11か月でのWTAツアー・女子シングルス優勝は、39歳7か月で優勝したビリー・ジーン・キング選手に次ぐ、歴代2位の年長優勝記録でした。

 2008年の現役復帰以降この大会に臨むまで、WTAツアーでは全て1回戦負けだった伊達選手が、突然?優勝したのですから、「何が起こったのか」と感じたことを憶えています。伊達選手は、現役復帰後も進化を続けていたのです。ここが一番凄いことです。

 2013年の全豪オープン大会では2勝して3回戦に進出。42歳での全豪オープン勝利は最年長記録でした。

 そして、今回のウインブルドン・女子シングルス3回戦進出です。

 現在では、クルム伊達公子選手の実質的な対戦相手は、ビリー・ジーン・キング選手やマルチナ・ナブラチロバ選手といった「歴史的名選手の記録」になっています。

 ウインブルドン2013でセリーナ・ウィリアムズ選手に敗れた後のインタビューで「ラリーに持ち込めば可能性は感じた」と述べている伊達選手。今後の活躍が注目されるとともに、伊達選手が2008年の現役復帰の時に述べた「世界と戦うためでは無く、若い選手に刺激を与えるために復帰した」という言葉に応えるような、日本女子テニス界における新星の誕生が待たれます。

 「この一球は絶対無二の一球なり されば心身を挙げて一打すべし・・・」で始まる有名な「庭球訓」は、第一回全日本テニス選手権大会男子シングルス優勝者、福田雅之助氏の言葉です。

 私がこの言葉に初めて接したのは学生時代。少女漫画「エースをねらえ」でした。
 「エースをねらえ」は、1978年から1980年にかけて「週刊マーガレット」に連載された鈴木鈴美香女史の漫画です。テニスを始めた少女が、学生生活の中で様々な人に出会い、テニスが次第に強くなり、国際大会に挑戦するまでになる、という物語です。
 もちろん、男子の私は少年マガジンや少年サンデーは読んでも、少女漫画を読む趣味はありませんでしたが、友人から「これは面白いから」と紹介され、嵌りました。

 話が完結してから、単行本も宗方コーチ編の10冊を購入し、精読?しました。登場人物も多彩で、主人公の岡ひろみ、竜崎麗香=お蝶夫人(学生の綽名としてはスゴイ)、藤堂先輩、尾崎先輩、緑川蘭子=加賀のお蘭、ゴエモンと書ききれませんが、最近化粧品か何かのCMで「お蝶夫人」そっくりのキャラクターが画面に登場してビックリ。
 「巻き毛」といえば、今でもお蝶夫人なんだなぁと妙に感心しました。

 話を戻します。

 その「エースをねらえ」に何回かこの福田雅之助の庭球訓が出てくるのです。とても素晴らしい言葉だと思います。また、テニスに限らず、様々な分野に応用が効く言葉だとも思います。

 福田雅之助は、1897年生まれ。早稲田大学庭球部が軟式テニスに拘り、硬式テニス(ローンテニス)の導入が遅れたために、ローンテニスを始めたのは早稲田商学部を卒業後の24歳の時(1921年)でした。
 先述のように、1922年に開催された第一回全日本テニス選手権大会男子シングルスに優勝し、その後デビス・カップやウィンブルドン選手権、全米選手権に出場するなど、日本のテニス創成期に活躍しました。

 その福田が1941年に、早稲田大学庭球部の後輩の一人に送ったのが「庭球訓」です。つまり、「庭球訓」は福田が現役バリバリの時に創られたものではなく、指導的立場になってから出来たものということになります。

 日本庭球協会が、国際ローンテニス連盟に加盟したのが1924年ですから、この時代は本当に日本テニスの創成期ということになります。

 世界から色々な技術を学び、一歩一歩階段を上がるように日本テニスのレベルが上がって行った・・・・ように考えがちですが、実際は全く異なり、その時代の日本は既に世界トップレベルの国でした。

 以下、代表的な3人の日本人プレーヤーです。

・熊谷 一弥 1890年生まれ。1918年の全米選手権男子シングルス・ベスト4、1920年アントワープ・オリンピック男子シングルス・ダブルスともに銀メダル。(全てのスポーツ競技において、日本最初のオリンピックのメダル獲得) 世界ランキング5位。

・清水 善三 1891年生まれ。1920年のウィンブルドン選手権チャレンジ・ラウンド決勝進出。(この頃のウィンブルドンは、現在の将棋・囲碁のタイトル戦のように挑戦者を決めて、前年チャンピオンに挑戦する形式。その挑戦者決定戦に進出したもの)
 この決勝戦で、当時の世界NO.1プレーヤー、アメリカのビル・チルデンと対戦、4-6、4-6、11-13で惜敗。翌1921年のウィンブルドンでも、チャレンジ・ラウンド準決勝に進みましたが敗退。世界ランキング4位。

・佐藤 次郎 1908年生まれ。清水善三と同郷の群馬県出身で、清水の指導を受けました。1932年全豪選手権男子シングルス・ベスト4、混合ダブルス準優勝。1931年と1933年の全仏選手権の男子シングルス・ベスト4。1932年と1933年のウィンブルドン選手権の男子シングルス・ベスト4、1933年は混合ダブルス準優勝。世界ランキング3位。

 太平洋戦争前の日本テニス、特に男子テニスプレーヤーの実績は輝かしいものです。硬式テニス(ローンテニス)が導入されてから間もない内に、我らが代表選手は、世界中のナショナル・オープン大会やデビス・カップで大活躍していたのです。

 近時は、沢松和子のウィンブルドン選手権女子ダブルス優勝や、伊達公子の世界ランキング4位など、女子選手の活躍が目立ちますが、男子選手は前述の選手たちに比べて、やや寂しい感じがします。
 
 日本人男子テニスプレーヤーは、ジョン・ニューカムやロッド・レーバー、ジミー・コナーズやビヨルン・ボルグ、ピート・サンプラスやロジャー・フェデラーには歯が立たない。ひょっとするとローンテニスには向いていないのではないか、などという意見を耳にすることがありますが、そんなことは決してありません。

 先達は、世界のトップで戦っていたのです。船で数週間かけて渡航し、イギリス、フランス、アメリカ、オーストラリア等の大会に参加していたことを考えれば、現在より厳しい条件下での戦いでしょう。体格差も、現代より大きかったのではないでしょうか。

 前述の熊谷一弥は、日本人として初めて出場した全米選手権への遠征の際に「アメリカに居た3か月間で約60人とシングルスをプレーしたが、クレーコートでは1セットも落とさなかった。芝のコートは勝手が違い4人に負けた。特にサーブが強いのに閉口した。」と語っていたそうです。熊谷の気概が溢れているコメントです。

 清水善三は、ウィンブルドン選手権のチルデン戦で、チルデンが滑って転倒した際に「やわらかいボール」を返し、チルデンが体勢を立て直し、返球がエースになった時、観衆は総立ちで拍手を送ったそうです。このゲームはチルデンが勝ちましたが、試合後二人がコートを去った後も、拍手が鳴りやまなかったとの逸話も残っています。
 今から90年前、既に日本人プレーヤーは「逸話になる程の活躍」をしていたのです。素晴らしいことだと思います。

 福田雅之助の庭球訓の全文です。
「この一球は絶対無二の一球なり  
 されば心身を挙げて一打すべし  
 この一球一打に技を磨き体力を鍛え  
 精神力を養うべきなり  
 この一打に今の自己を発揮すべし  
 これを庭球する心という」
 本稿でいうテニスとは、ウィンブルドン大会などで行われている「ローンテニス」(ローンは芝生のこと)のことで、日本では軟式テニスと対比して、硬式テニスと呼ばれることもあるテニスのことです。

 テニスといえば、太陽が燦々と降り注ぐコートで、汗を拭いながらプレーするイメージです。仕事の関係で、日中プレーできないサラリーマンなどが、業後屋内テニスコートでプレーすることもありますが、やはりテニスは主として屋外でプレーするものだと思います。

 ここが、今回のポイントになります。現代のテニスの原型となる遊戯は、屋内で行われていたもの(屋内でしか行われていなかったもの)で、それが屋外に出た瞬間が、テニスの誕生である点が興味深いところです。

 現在のテニスの原型となる遊戯は、8世紀頃にフランスで始まったとされています。当初は「スール」(ケルト語で太陽の意味。ボールを太陽に見立てた)と呼ばれ、フランス貴族の屋内遊戯でした。フランスでこの遊戯が盛んになったのは、8~11世紀にイベリア半島から南フランスまで版図を広げていたイスラム教徒の宗教的行為であったものを、キリスト教の僧侶が真似をしたためだといわれています。ちなみに「ラケット」の語源はアラビア語だそうです。
 従って、このフランスの遊戯は、キリスト教僧院の中で行われ、イスラム教徒を駆逐した12世紀頃から一層盛んになりました。

 この初期の遊戯は、ローンテニスではなく、単に「テニス」(以下「旧テニス」と表記します)と呼ばれましたが、このテニスの語源は、フランス語の掛け声「トゥネ!」(命令形「取ってみろ」の意味)です。旧テニスのコートは、僧院にあって四方を壁に囲まれ、傾斜した天井を持っていて、現在のローンテニスコートより大きかったそうです。ラケットもボールも、現在のものとは大きく異なっていた旧テニスですが、18~19世紀にヨーロッパの貴族の間で大流行しました。

 こうした中で、1873年12月、イギリス・ウェールズ出身の軍人、ウォルター・クロプトン・ウィングフィールド少佐が「スティッキ(略称)」という競技を発明しました。芝生の上ならどこでも楽しめる旧テニスに似た競技です。「持ち運べるテニス」とも言われました。

 昔は僧院の中で、貴族の遊戯となってからは専用の大掛かりな屋内コートで楽しまれてきた旧テニスが、ついに屋外に飛び出し、芝の上で誰もが楽しめる「ローンテニス」となったのです。現在のテニスのはじまりです。
 少佐は、ラケット、ネット等も同時にセットで考案・商品化し、特許も取っています。こうして、テニスもイギリスが発祥の地になりました。

 ウィングフィールド少佐が発明したテニスのコートは、真ん中部分が細くなっている蝶ネクタイ型をしていました。少佐は、特許により商業的な成功をもくろみましたが、これは成功せず、特許の更新もしていません。一方で、この競技はイギリスやアメリカで急速に広まりました。

 イギリスのロンドンでアマチュア大会としての第一回ウィンブルドン選手権が開催されたのは1877年ですから、ウィングフィールド少佐が発明してから僅か4年後ですし、アメリカで国立ローンテニス協会が発足したのは1881年ですから、これとて僅か8年後です。

 同協会は、ルールの標準化や競技の組織化を行いました。アメリカでは、同じ1881年に第一回全米シングルス選手権が開催されています。(現在のUSオープンの元の大会)加えて、1900年には国別対抗戦であるデビスカップが始まっています。

 発明されてから10年以内に、イギリスやアメリカという大国のナショナルオープン大会が開催されるというのは、その普及速度は尋常ではありません。これまで、紹介してきたサッカーやラグビー、アイスホッケーは、もともと原型となる競技が広く行われていた環境下での急速な普及でしたが、ローンテニスは違います。一般の人々は、全く初めてこの競技に接したはずなのに、あっという間に広まりました。

 ローンテニスというスポーツは、本質的に人間の感性を揺さぶる何かを、備えているということなのでしょうか。いささか不思議です。
 色々な伝聞や資料を取りまとめている段階で、見落としているポイントがあるのではないかと、心配ではありますが、現在最も人気のある競技の一つですので、採り上げることにしました。
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カエサルjr

Author:カエサルjr
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