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 NBA(ナショナル・バスケットボール・アソシェーション)は、1946年・昭和21年の6月に設立された北米のプロバスケットリーグで、30チーム(アメリカ29、カナダ1)により構成されています。世界最高水準のバスケットボールのプレーが展開されているリーグであり、アメリカ4大スポーツのひとつとして隆盛を極めています。(基本情報です)

 そのNBA史上で1試合最高得点記録を持つプレーヤーは誰でしょう。

 NBA歴代最高得点記録38,387点を保持する伝説的ポイントゲッター、カリーム・アブドルジャバーでしょうか。郵便を配達するように得点を量産した「ミスター・ポストマン」カール・マローンでしょうか。ゴール下の暴れん坊シャキール・オニールでしょうか。現役最高のポイントゲッターであるコービー・ブライアントやレブロン・ジェームスでしょうか。それとも「バスケットボールの神様」マイケル・ジョーダンでしょうか。

 (この種の質問の恒例として)いずれのプレーヤーでもなく、ウィルト・チェンバレンというプレーヤーです。1962年のゲームで、1試合に100得点を上げました。これは凄い水準の記録です。
 NBAは、ファンに喜んでもらえるとの考え方からか、その歴史上「得点が入りやすいように」ルールの改正を続けてきていますが、現在でも1試合のチーム総得点は大体100~120点です。NBA発展期の1962年の段階で、1人で100点を上げているのですから、驚くというよりは、呆れてしまいます。

 ウィルト・チェンバレンは、1936年生まれのフィラデルフィア出身。身長216cm、体重125㎏という、当時としては(現在でも)大型プレーヤーです。NBAは、1959年のフィラデルフィア・ウォリアーズを皮切りに4チームでプレーし、1973年のロサンゼルス・レイカーズでのシーズンを最後に引退しています。

 チェンバレンの記録を挙げていくと本当にキリが無い*のですが、特に「得点」と「リバウンド」については、今後破られないであろう「不滅の記録」が数多くあります。前述の1試合100得点もそうですが、1試合55リバウンドの方が、より凄い記録だとも言われています。
 *ごく一部を書きます。1961~62年シーズンは、4029得点2052リバウンド・1試合平均50.4得点25.7リバウンド、この全てがNBA記録です。1シーズン3000得点以上の記録は、チェンバレンとマイケル・ジョーダンのみが記録しています。このように、各シーズンで大記録を作っていますのでキリがありません。

 1試合100得点は1962年3月2日の対ニューヨーク・ニックス戦で達成したのですが、このゲームでチェンバレンが所属したフィラデルフィア・ウォリアーズは負けています。
チェンバレンは、1959年のデビュー年から1964年までのウォリアーズに在籍している間、ほとんどあらゆる得点・リバウンドのNBAシーズン記録を更新し、プレーオフにも進出しましたが、NBAファイナルでは勝てませんでした。そして76ersに移籍し、チェンバレンにとってのNBA8年目・1966~1967年シーズンに、ようやくNBAファイナルを制して優勝しました。しかし、結局、彼の優勝はこの1回でした。

 ここが興味深いところです。例えば「神様」マイケル・ジョーダンの1試合最高得点記録は69点で、これも凄い記録なのですが、この試合もジョーダンが所属したシカゴ・ブルズは敗れています。また、ジョーダンはプレーオフでも1試合63点という驚異的な記録を持っていますが、この試合もブルズはセルティックスに敗れています。

 つまり、1人のプレーヤーが記録に残るような大量得点を上げると、そのチームは勝ちにくいのです。逆に言えば、勝てるチームにするためには、1人のプレーヤーに得点が集中するようなチーム作りを回避しなければならないということになります。

 マイケル・ジョーダンは、1984年からシカゴ・ブルズでのキャリアをスタートしていますが、1989年まではブルズはプレーオフに出場するだけのチームでした。この間ジョーダンはチームNO.1ポイントゲッターでしたが、どうしてもプレーオフを勝ち進むことが出来ませんでした。

 1989年シーズン後、ブルズはヘッドコーチにフィル・ジャクソンを据えて、新しいチーム作りを進めました。そして、翌1990~1991年シーズンにシカゴは初めてNBAファイナルを制して優勝しました。このシーズンのジョーダンの1試合平均得点は31.5点と、過去5年間で最低でした。(それでも得点王でした)

 ジョーダンは、フィル・ジャクソンの「もっと、皆とボールを分かち合うように」との指示を守ったのです。このシーズンからシカゴは最初の3ピート(3シーズン連続NBAファイナル制覇)を成し遂げますが、ジョーダンの1試合平均得点は、2シーズン目が30.1、3シーズン目が32.6と低いまま(これでも十分に高い水準なのですが、ジョーダンとしては低いという意味)でした。

 ひとりのプレーヤーに得点が過度に集中しないチーム作りが、NBAというかバスケットボールのゲームで勝っていくためには、必要なことなのかもしれません。
 とはいえ、チームの勝利のためにはポイントゲッターが相応の得点を上げることも必要ですから、このバランスが難しい。これまでNBAを観てきた感じですが、チームのフォーメーションや作戦に合わせて適正に多くのプレーヤーにボールを回した上で、ポイントゲッターは30~35点を1試合平均で上げていくのが良さそうです。そうすると、大事なことは「高いフィールドゴール成功率」を維持していくことになります。

 先ほどから色々な記録が出てきますので、本稿に関連する代表的なNBAの記録(2012年8月末時点)を以下に記載してみます。(→続きへ) 

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 2012年9月30日に中山競馬場芝1200mで行われる、第46回スプリンターズステークスG1の予想です。

 今年も、春の短距離重賞路線を戦ってきた馬と、サマースプリントシリーズで実績を積んできた馬が混在する、難しいレースになりました。

 軸馬候補は7枠14番のカレンチャン。昨年のこのレースの勝ち馬で、今年の春の短距離路線のG1高松宮記念も勝っていますから、格からいえばダントツの馬。加えて、良馬場の中山1200mでは有利な外枠も引きましたので、本来ならば不動の優勝候補と言いたいところですが、前走G2のセントウルステークスの走りっぷりが今一つ。特に、ゴール前の脚色は、調子が上がっていないことを示していました。

 カレンチャンは、昨年のこのレースから香港スプリント、オーシャンステークス、高松宮記念とスケジュールを踏んで使ってきましたが、3月末のG1高松宮記念勝利の後、9月上旬のセントウルSまで休みを入れた形です。
 前走を、休み明け初戦の凡走で一叩き入れて本格化すると見るのか、さすがのカレンチャンにも疲れが出て、一度ゆるめた馬体の立て直しに時間がかかっていると見るのかが、難しいところです。加えて、このレースは、高松宮記念好走組の成績が良くありません。

 とはいえ、これだけ格が違うと他の馬を持ってくるのも困難です。前走504㎏と太目残りだった馬体が、ベスト体重である480㎏台に絞り込めていることを前提として、軸馬としたいと思います。

 対抗馬候補は多士彩々。
・1枠1番のマジンプロスパーは、トライアルレースのG2セントウルSは11着と大敗しましたが、1年以内にCBC賞と阪急杯のG3重賞を2勝している力は侮れません。
・1枠2番のフィフスぺトルは、昨年11月のG1マイルCSで2着。今年6月のG1安田記念は7着と期待を裏切りましたが、G1レースを使ってきている実績は十分です。ただし、主にマイルを使われていますので、1200mに適応できるかがポイントです。
・4枠7番のリトルブリッジは、マル外馬。レースを観ていないので評価が難しいのですが、G1レースを含めて重賞3連勝中ということであれば、候補から外せません。
・6枠11番のパドトロワ。新潟、札幌の重賞を連覇してきた上がり馬。特に、トライアルレースのキーンランドカップで実力馬ダッシャゴーゴーに競り勝った能力は評価できます。
・7枠13番のダッシャーゴーゴー。このところ勝ち切れないレースが続いていますが、安定した成績を誇る実力馬です。
・8枠15番のエピセアローム。セントウルSの優勝馬。春の桜花賞、オークスは15着、16着と大敗しましたが、短距離路線に活路を見出そうという馬です。
・8枠16番のロードカナロワ。セントウルSを差の無い3着、G1高松宮記念3着の実力馬。1200m専門で、着を外さないところが魅力です。

 これらの候補から、対抗馬を選定します。
 対抗馬一番手は、エピセアローム。3歳牝馬で斤量53㎏と恵まれています。前走G2の上がり3ハロン33秒4とスピードも十分。カレンチャンの後継馬候補として、名乗りを上げるレースにしたいところです。
 対抗馬二番手は、ロードカナロワ。1200mのスペシャリストとして、今回もキッチリ着に来る力を持った馬です。
 対抗馬三番手は、ダッシャーゴーゴー。短距離の鬼サクラバクシンオーの仔であり、こちらも1200mの専門家。久しぶりの激走に期待します。

 今回は、以上4頭に期待したいと思います。(金曜日に予想しています。台風の接近が早まり、雨が降って不良馬場になるようなら予想が変わってしまいます。良馬場であることを祈ります)

 カレンチャンが勝ち切るようなら、牝馬で1年以上に渡ってG1を勝ち続ける力を維持したということから、名馬の仲間入りです。

 現代サッカー(協会式サッカー)発祥の地イングランドは、世界で最もサッカーが盛んな地域のひとつです。最上位のプロリーグである「プレミアリーグ」は、プレーのレベルや観客動員数などで、世界のトップクラスにあり、マンチェスター・ユナイテッド、チェルシー、リバプール、アーセナルなどの有名クラブが目白押しです。

 しかし、イングランド代表チームとなると事情が異なります。

①FIFAワールドカップ(以下WC)の成績
 1966年の自国開催WCこそ、ボビーチャールトン・ジャッキーチャールトンの兄弟やボビー・ムーア、ゴードン・バンクスらを擁して優勝しましたが、その後の大会は、1974年西ドイツ大会、1978年アルゼンチン大会、1994年アメリカ大会では予選敗退。それ以外の大会では1990年イタリア大会のベスト4が1度あるだけです。

②UEFA欧州選手権(以下ユーロ)の成績
 WC優勝国でありながらユーロに優勝していない唯一の国です。最高成績は、ユーロ1996の3位、この大会は自国開催でした。それ以外の大会は、ベスト4にも進んでいません。ユーロは、ドイツとスペインの3回が最多優勝で、フランスの2回優勝が続きますが、これらの国々の実績に大きく水をあけられているのが現状です。

 自国のトップリーグは、世界最高水準で人気も抜群なのに、代表チームの成績がいまひとつなのは、何故でしょう。色々と原因は考えられますが、本稿では「プレミアリーグ」の抱える問題点について触れてみたいと思います。

 頭書の4チームを中心とする20チームで構成されるプレミアリーグは、確かに世界最高水準のサッカーを魅せてくれるリーグです。マンチェスター・ユナイテッド(以下マンU)に至っては、世界中の全てのスポーツ競技のチームの中で、最もファン数が多いチームであるという調査結果もあります。(2012年カンター社調べ。ファン数は6億5900万人、世界人口の11人に1人)

 こうしたリーグを持ちながら、イングランド代表の実績が上がらない最大の理由は、プレミアリーグの試合に、イングランド人のプレーヤーが少ししか出場していないことが原因のひとつだと思います。

 プレミアリーグの今2012.-2013シーズンは既に開幕していますが、その開幕当初の各チームの先発メンバーを調べてみましょう。

・マンU イングランド人プレーヤー3名(DFエヴァンス、MFキャリック・スコールズ)
・チェルシー 同3名(DFテリー・アシュリーコール、MFランパード)
・リバプール 同4名(DFケリー・ジョンストン、MFジェラード)
・アーセナル 同3名(DFギブス・ジェンキンソン、MFウォルコット)

 筆者が手作業で調べた結果、各チーム3~4名でしたが、筆者の印象は「さすがにシーズン始めだけあって、イングランド人プレーヤーの人数が多いな」という感じです。昨シーズンのアーセナルなどは、先発メンバーにイングランド人プレーヤーが1人も居ないことが、よくあったと思います。
 特に、フォワードFWプレーヤーが少ないのです。この4チームであれば、マンUにウェインルーニーという代表FWが居ますが、それ以外のチームの主力FWは外国人選手です。

 確かに、この4チームの数少ないイングランド人プレーヤーによって、代表チームは作れるでしょう。なんとかFWを見つけてくれば形は取れます。特にMFのジェラードとランパードは、世界屈指のプレーヤーです。英雄ボビーチャールトンの意志は、脈々と流れています。ウォルコットやアシュリーコールも素晴らしい。
 しかし、これらのプレーヤーの後を継ぐプレーヤーが育っているのでしょうか。プレミアリーグの現状を観ると、5年後のイングランド代表チームが現状以上に心配になるのは、よけいなお世話でしょうか。

 では同様に、ドイツ・ブンデスリーガを観てみましょう。
・バイエルン・ミュンヘン ドイツ人プレーヤー7名
・ボルシア・ドルトムント 同9名

 こちらはドイツ人プレーヤーが過半というか、大半を占めています。ドイツ代表チームがWC優勝3回、過去16大会連続でWCベスト8進出、ユーロ優勝3回の好成績を残していることは、皆さんご承知の通りです。

 ドイツ・ブンデスリーガには。厳しい外国人登録枠が存在していましたが、2006年からは「ドイツ人枠」に変更になりました。各クラブ(チーム)は、必ず12人以上のドイツ人プレーヤーを登録しなくてはならず、さらに内6人は地元で育ったプレーヤーでなければならないのです。
 加えて、ブンデスリーガを所管するドイツサッカー連盟は、所属クラブの多額の借入を禁じ、特定のプレーヤーへの多額の年俸支払いも禁じています。

 日本の香川選手が、ブンデスリーガのボルシア・ドルトムントからプレミアリーグのマンUに移籍したのも、この事情が大きいのです。ドルトムントで年俸3億円だった香川の契約更改に際して、ドルトムントは大幅な年俸増額には応じられず、年俸6億円を提示したマンUが香川を獲得しました。

 ドルトムントは昨シーズン、ブンデスリーガを制覇しました。香川選手も貢献しましたが、皮肉なことにブンデスで活躍し世界的選手になるとブンデスを出ていくという場合が、数多く見られます。前代表キャプテンのバラックはプレミアのチェルシーへ、代表MFのエジルはリーガ・エスパニョーラ(スペインのリーグ)のレアル・マドリードへ、といった具合です。

 しかし、移籍したスタープレーヤーの穴をドイツ人プレーヤーが埋めて、埋めたプレーヤーがスタープレーヤーに育っていくという好循環が、ブンデスリーガにはあります。ドイツ代表チームの若手は、次から次へと出てきています。

 ブンデスは年俸上限が厳しいため、比較的年俸が低く、相応のパフォーマンスを発揮する日本人プレーヤーの獲得に意欲的です。これに、Jリーグで選手や監督をやっていたブッフバルト氏やリトバルスキー氏の人脈も力を発揮します。欧州各国のリーグの中で、長谷部・岡崎・乾・清武といった、圧倒的に多くの日本人プレーヤーがドイツ・ブンデスリーガに行くのは、この理由によります。

 香川を日本のJ2のクラブから獲得するのに、ドルトムントは5千万円を使いました。そして、今春、ドルトムントは16億円の移籍料を受け取り、香川をマンUにトレードしたのです。「残っていて欲しかった選手」でしょうが、クラブ経営の観点からは、2年間で32倍になった投資でした。

さて、プレミアリーグに話を戻します。(→続きへ)
 来年2013年6月、ラグビーのウェールズ代表チームが来日するというニュースが流れました。日本代表チーム(エディージャパン)と、花園と秩父宮で各1試合、計2試合を行うようです。ウェールズ代表の来日は、2001年以来12年振り3回目です。

 このニュースに接した時に「2013年が3回目、2001年が2回目とすると、1回目はあの1975年か、あの素晴らしいチームの時か」と思い出しました。

 1960年代からラグビーを観てきました。お蔭様で、強いチーム、素晴らしいプレーヤー、好ゲームも、沢山見せていただきましたが、あの時のウェールズ代表チームは、屈指のチームでした。
 何試合を戦ったのか、スコアはどうだったか、についての記憶は残念ながらありませんが、その素晴らしいプレーは良く憶えています。

 「個」が強いチームという印象です。SOのフィル・ベネット、ナンバー8のマービン・デービス、ウイングのJJウィリアムズ、FBのJPRウィリアムズと、輪郭がはっきりしたプレーヤーが目白押しのチームでした。

 ベネットは、そのステップでも有名でしたが、私にとってはそのキック力です。スクラムから出たボールを何気なく蹴るのですが、距離が出て正確です。それまで、日本選手権ラグビーや社会人リーグ、大学の試合等を観てきましたが、レベルが違うという感じ。サイドラインから1m位に落とすと丁度良いタッチキックになると思ってみていると、ピッタリそのポイントに運びます。必死さが感じられず、何気なく長くて正確なキックを蹴るベネットに感心、感心でした。
 そのベネットが、PGのプレースメントキックを外したのです。確か、ゴール左からの35ヤード位のキックであったと思います。ボールをセットして、さっさと下がって、すっと蹴って、外しても何もなかったように自陣に帰って行きました。
 
 マービン・デービスがキャプテンだったと思いますが、スクラムサイドを突破する迫力は抜群。これも、表情ひとつ変えずに突進します。スクラムサイドを5m以上突破されると、ディフェンスがとても難しくなるのですが、彼はスクラムサイドを突くときには、突破していた印象です。

 フルバックのJPRウィリアムズは、一度サイドラインを駆け上がりました。長身の体躯が躍動し、太ももが水平まで上がって、凄いランニングスピードでした。

 この頃のウェールズ代表は、5か国対抗でも優勝を飾っていて(1975年1976年1978年1979年と5年間で4回優勝)、ウェールズ史上最強と言われていました。間違いなく、そうだと思いますし、この当時のニュージーランド・オールブラックスやオーストラリア・ワラビーズなどと比較しても、世界最強のチームだったのではないかと思います。
 ちなみに、ウェールズ代表チームの愛称はレッドドラゴンズと言うのだそうですが、そのように呼んだ記憶はありません。ウェールズ代表は、ウェールズ代表でした。

 特に「個々のプレーヤーの高いスキルでプレーを組み立てる」という感じで、モールでもラックでも、ウェールズ側から参加しているプレーヤーの数が少ないという印象でした。この頃は、モール・ラックには、フォアードFWの多くの選手が参加しボールの奪い合いをするゲームが多かったので、いつも2~3人しか参加せず、それでもマイボールにする技術と腕力に感心したものです。(現在のラグビーも、モール・ラックへの参加者は絞り込まれていると思います)

 パスも長めのものが多く、マウンテンパスも活用して、3~4人のランニングラグビーで、グランドを左右に広く使って展開し、トライに結び付ける形です。この頃、イングランド代表チームも来日していたと思いますが、こちらのラグビーは、近い距離で3人が並び、縦に真っ直ぐ走り始めて、短いパスを左右につなぎ、タックルにより倒されて、二人になり、最後に残った一人がトライするという形でしたので、やはりチーム毎にやり方が異なるものだと感じたことを憶えています。

 この時のウェールズ代表チームと並んで、印象に残っているチームといえば、1987年の第一回ラグビーワールドカップに優勝し、来日したNZオールブラックスです。キャプテンのカークやウイングのカーワン(前全日本監督)が居たチームですが、こちらは「組織プレー」のチームという感じでした。
 ワン・ブランケット・モールと呼ばれた、とても纏まりが良いドライビング・モールなどは、その典型で、あの大男たちがしっかりバインドして、一枚の毛布に隠れるくらいに小さなモールを造るものですが、とても美しく素早いと思いました。

 この「個人のウェールズ」と「組織のオールブラックス」が、私にとって最も印象に残っているチームです。

 2019年には、我が国で第9回のラグビーワールドカップが開催されます。相当先だなと思っていましたが、迫ってきた印象です。
 ワールドカップが日本で開催されることは素晴らしいことですし、世界最高水準のゲームが本当に楽しみです。我らが日本代表チームが予選リーグを突破して、決勝トーナメントに進出できたら、もっと素晴らしい大会になることでしょう。

 少なくとも現在の日本代表チームでは中々難しい夢ですが、しっかり現在の立ち位置を認識して、問題点を抽出し、ひとつずつクリアしていけば、可能性は十分あると思います。個人的には、展開ラグビーに拘る必要は無いし、拘り過ぎるとレベルアップの妨げになるように思います。
 大会までの6年間のブロッサムズの動きから、目が離せません。

 フジテレビに「ジャンクスポーツ」という番組があります。確か2005年の正月に放送されたジャンクスポーツの内容を、本稿のテーマにしました。当該番組の内容については、ほとんどが筆者の記憶ですので、細部については違っている点があるかもしれませんが、大筋や金額・単位などは合っていますので、ご容赦ください。

 ジャンクスポーツという番組は、複数の競技のプレーヤーを8~10人位、ゲストとして招き、ダウンタウンの浜田雅功氏(以下「ハマちゃん」と表記します。雰囲気が出ますので)や三宅アナウンサー・内田アナウンサーらが司会を務めて、色々な話題についてトークショーなどを展開する、バラエティショーです。

 私は、年末年始のジャンクスポーツが大好きでよく観ていました。なぜ年末年始のジャンクスポーツが好きかといいますと

① 各競技のプレーヤー達がリラックスして登場していることです。例えば、オリンピックの放送で複数のメダリストをスタジオに呼び、話を聞く番組があり、これはこれで面白いのですが、プレーヤーは競技の延長線上で話をするので、一定の緊張感や無理やり捻り出すような回答があります。聞き手も、メダル獲得に関連する質問に終始しますので、トークの範囲が限定されるのですが、このジャンクスポーツは完全にリラックスした状態のプレーヤーですので、思わぬ話が聴けます。

 聞き手のハマちゃんも、トークのプロとして独特の世界を自然に作り出しますから話の広がりが大きくなります。他の司会者の当番組対応を見たことが無いのですが、浜田雅功氏は、この番組に向いていると思います。

② ①とも関連しますが、リラックスした各競技のアスリートが一堂に揃うので、そのサイズ感、体の動きは、他の番組では観られないものだからです。トップアスリートの体躯(「ユニット」とも言われます)は一般の人とは、相当に異なります。各競技に臨む時、日本有数、世界有数の能力を発揮するユニットが、一堂に会している姿は、壮観でさえあります。

 例えば、PGAツアーのタイガー・ウッズが出演したことがありました。タイガーは身長185cmでゴルファーとしては大きい方ですが、一般の人でも185cm位の人は居ます。しかし、番組のタイガーの大きさは一般人の185cmより大きく見えるのです。そして、実際に大きいのだと思います。肩や腰、太ももといった部位に、一般人には無い筋肉が付いていて、それが体のラインを違うものにしているのだろうと思います。

 各々の競技のために鍛え上げられた複数の体躯を同時に観ることができる、それもユニフォームではなく普段着姿でリラックスした状況下、観ることができる番組は、あまり無いと思います。

 さて、話を本稿のテーマに戻します。

 その2005年正月上旬のジャンクスポーツにMLB投手の長谷川滋利選手とPGAツアーのゴルファー丸山茂樹選手が出演していました。(恐縮ながら、他の出演者は憶えていません)
 
 長谷川は、1997年から2005年まで9年間MLBでプレーしましたので、2005年のこの番組出演は、MLB時代の最後の方ということになります。
 丸山は、2000年から2008年までの9年間、PGAツアーを主戦場としましたので、PGAツアー5年目を終えて、この番組に出演していたことになります。

 確かハマちゃんが引退後の話を、他の出演者にしていて、長谷川に振ったのです。長谷川は「MLBの年金制度は充実していて、まず5年間プレーすると年金が貰えるようになります。10年間プレーすれば、60歳から年2000万円位の年金が死ぬまで貰えます。今なら(おそらく8年間プレーした時点だったと思います)、年1500万円位ですかね」と笑顔で話しました。
 ハマちゃんは「エー!そんなに貰えるの。マルちゃんの方はどうなの」と丸山に話を振りました。

 丸山は「PGAツアーも充実してますよ。やっぱり5年間プレーしないと貰えないんです。いくら貰えるかとかは、各プレーヤーの年金を管理している『年金おばさん』が一人いて、彼女に聞くと教えてくれるんですよ。この間聞いたら、『あなたは、あと5年頑張ってプレーしたら全部で20億円~30億円になるわね』といわれましたよ。60歳から貰えるんですけど、50歳でまとめてキャッシュで欲しければ、何割か引かれて貰えます。」
 ハマちゃんは「エー、30億!」。長谷川は、笑いながら肘打ちみたいなことをしています。
 丸山はニコニコしながら続けます。「もちろん成績とかも関係します。タイガーなんか、このまま活躍したら300億円~400億円貰えると思いますよ。」と。

 出演者一同ビックリして、ハマちゃんはここで話題を変えました。

 こうした話は、中々表に出てきません。特に年金制度の話は、滅多に聴けるものではありませんので、貴重なトークでした。
 プレーヤー本人達が話しているのですから、間違いない話でしょう。(→続きへ)
 アメリカ・ジョージア州アトランタ郊外のイーストレイク・ゴルフクラブで、9月20日~9月23日の4日間にわたって開催されたザ・ツアー選手権は、3日目に首位に並んだアメリカのブラント・スネデカーが最終日も-2でまとめて、通算-10で優勝しました。

 この試合は、フェデックス・カップのプレーオフ・シリーズ最終戦(第四戦)でもありました。この試合前にフェデックス・カップ・ポイント5位だったスネデカーは、ザ・ツアー選手権の優勝で逆転、フェデックス・カップも手にしました。

 プレーオフ第二戦・第三戦を連覇し、ポイントトップで最終戦に臨んだ北アイルランドのローリー・マキロイは最終日にスコアを崩し、通算-1で10位タイ。フェデックス・カップも2位に甘んじました。
 また、最終戦にポイント2位で臨んだアメリカのタイガー・ウッズもスコアを伸ばせず、通算-2で8位タイ。フェデックス・カップも3位に終わりました。

 スネデカーは、今シーズンのPGAツアー第4戦、1月下旬のファーマーズ・インシュアランス・オープンに優勝し、トップ10入り7回という堅実なプレーを展開、フェデックス・カップ・ポイント5位という好位置で、最終戦のザ・ツアー選手権に臨みました。
 フェデックス・カップのポイント・ルールの関係から、最終戦前に5位以内のプレーヤーが優勝すると、同ポイント1位のプレーヤーが2位に入っても、最終戦優勝者がフェデックス・カップを制することになっていますので、スネデカーはマキロイの順位を気にすることなく、優勝だけを狙ってプレーできたのです。

 スネデカーの優勝にケチを付ける気は毛頭ありませんが、フェデックス・カップの優勝者が、そのシーズンのPGAツアーを代表するプレーヤーであるという位置づけだとすると、疑問が残ります。

フェデックス・カップは、2007年から始まりました。これまでの優勝者を列記します。

・2007年 タイガー・ウッズ
・2008年 ビジェイ・シン
・2009年 タイガー・ウッズ
・2010年 ジム・フューリック
・2011年 ビル・ハース

 フェデックス・カップのポイント制度が、最終戦のザ・ツアー選手権に偏った形に変更されたのは、2008年のシンの優勝がきっかけになりました。
 この年シンは、プレーオフ4試合の前半2試合、ザ・バークレイズとドイツバンク選手権に勝ちましたが、後半2試合、BMW選手権とザ・ツアー選手権を制したのは、カミーロ・ビジェイガスでした。

 この年までは、最終戦に偏ったポイント配分ではありませんでしたので、プレーオフに入るまでのポイント差も物をいって、シンが逃げ切った形でフェデックス・カップを制した訳ですが、第3戦、最終戦を制したのに、ビジェイガスがカップを取れなかったのはおかしいということになり、翌2009年から現在のポイント体系に変更されたのです。

 2009年は、タイガー・ウッズが第3戦までのポイント1位で最終戦ザ・ツアー選手権に臨みました。最終戦は、第3戦までのポイント6位だったフィル・ミケルソンが優勝しましたが、タイガーも最終戦の2位を堅持したので、フェデックス・カップはタイガー・ウッズが逃げ切る形で制しました。

 2010年のフューリックは、第3戦までのポイント11位で最終戦に臨み、優勝。ポイント1位で臨んだマット・クーチャーが最終戦で25位に終わったために、フューリックがフェデックス・カップも制しました。ちなみに、フューリックはこのシーズン、ザ・ツアー選手権を含めて3勝を上げています。

 2011年のハースは、第3戦までのポイント25位で最終戦のザ・ツアー選手権に臨み、優勝。ポイント1位で臨んだウェブ・シンプソンは、最終戦で単独22位に沈み、僅か15ポイント差でハースがフェデックス・カップも制しました。ちなみに、ハースはこのシーズン、ザ・ツアー選手権の1勝でした。

 以上を観てきますと、2010年まではフェデックス・カップを制したプレーヤーが、その年のPGAツアーの顔になっていると思いますが、昨年2011年と今年は、そうは言い難い。

 2011年のビル・ハースは年間1勝ですし、今シーズンのスネデカーもフォールシリーズが残ってはいますが、フェデックス・カップのゲームとしてのPGAツアーでは2勝ですので、既に4勝のマキロイや3勝のウッズの方が、今年の顔という感じがします。

 これは筆者の感覚ですので、一概には言えないと思いますが、フェデックス・カップ予選にあたる37試合(今シーズンを例にとりました)とプレーオフ第一戦~第三戦の計40試合の成績が、もう少し反映されるような形に、ポイント制度を再改定できないものかと思います。

 2009年のザ・ツアー選手権の表彰式の写真は、ザ・ツアー選手権の優勝者フィル・ミケルソンとフェデックス・カップの優勝者タイガー・ウッズが仲良く並んで笑顔で写っていて、なかなか格好良いものです。
 千両役者二人が揃っているということもありますが、ザ・ツアー選手権の優勝トロフィーとフェデックス・カップの優勝カップの両方を、一人のプレーヤーが持っている写真ばかりが毎年続くよりは、面白いと思います。


 9月1日の当ブログで9月場所で期待できる力士10名を掲載しました。9月場所の15日間を振り返って総括したいと思います。

・白鵬     13勝2敗
・日馬富士  15勝    優勝
・栃煌山    9勝6敗  殊勲賞
・隠岐の海  11勝4敗
・高安     10勝5敗
・豊ノ島     6勝9敗
・若荒雄    6勝9敗
・舛ノ山     8勝7敗
・旭天鵬    10勝5敗
・安美錦    10勝5敗

 10名中、勝ち越しが8名、平均9.8勝5.2敗ですから、まずまずの成績でした。

 前半早々と3大関が休場しましたので、本来当たる筈の無い力士同士の取組が組まれたのは予想をする立場としては残念でしたが、各力士の頑張りには素晴らしいものがありました。

 優勝した日馬富士は、前半は先場所に比べてスピードが不足していて心配しました。11日目の隠岐の海戦は、立ち合いからもろ差しを許し、一方的な隠岐の海ペースで、さすがにダメかと思いましたが、土俵際の粘りで逆転勝ち。勢いがある時はこういうものかと感じました。
 一方、前頭8枚目で、本来当たる筈がなかった隠岐の海は、9日目までの8勝1敗という好成績もあり取組が組まれました。大魚を逸したという所でしょう。

 栃煌山は、横綱白鵬に初めて土をつけて殊勲賞に輝きました。前頭5枚目でしたが前述の理由で横綱・大関に次々と当てられた中での9勝は、立派なものだと思います。それでも、番付が下の力士に4敗していますので、この取りこぼしが無ければ二桁勝ち星が実現できたと考えると、残念な面もあります。

 高安は8連勝スタートということもあり、後半は日馬富士他の番付上位力士との取組が続きました。結果として5敗となり、三賞を逃したのは残念であったと思います。

 豊ノ島、若荒雄は、前半の不振からやや持ち直しましたが6勝止まりで負け越しました。
豊ノ島は、持ち味であるスピードで下位力士に不覚を取る取組もありました。少し減量して、低く鋭い立ち合いを取り戻したいものです。若荒雄は、場所を通して元気がなかった。前に押す力が弱いと得意の叩きやいなしが通用しません。両方の足首のサポーターを見ると調子が良くないのかなと思います。早く治療して、あの変幻自在な相撲を見せてもらいたいと思います。

 舛ノ山は勝ち越しました。特に千秋楽の高安戦の勝利は見事でした。肺が小さいので長い相撲は難しいそうですが、そうしたハンデを感じさせない正統派の押し相撲が素晴らしいと思います。

 旭天鵬の活躍は素晴らしいの一語。9連勝の後、前頭11枚目では当たる筈がない大関鶴竜や両関脇との取組が組まれ5敗となりましたが、大健闘でした。昔は平幕下位の力士が勝ち星を積み上げているからといって、大関との取組が組まれるなど有り得ないことでしたが、いつ頃からかこうしたやり方になっています。これでは平幕優勝をさせないための措置のようにも見えます。(こうした状況の下でも5月場所で平幕優勝した旭天鵬の凄さを改めて感じます)

 こうした番付を無視したような取組編成は「面白い取組を増やすため」には有効かもしれませんが、力士の立場に立つと不公平と言えなくもありません。ファンに喜んでいただくためにこうした取組を組むのであれば、こうした扱いを受けた力士には一定の救済措置が必要だと思います。そうでないと「番付の意味」が分からなくなります。

 今場所であれば、9日目、10日目、11日目という早い段階で大関戦を組んだ、旭天鵬、高安、隠岐の海に、敢闘賞を授与するのが良かったろうと思います。そうすれば、こうした異例の取組が組まれた力士にも、納得感が得られることでしょう。

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 大相撲は、総当たりのリーグ戦ではありません。各力士の成績は、取組編成に大きく左右されますので、十分な留意が必要です。

 加えて、3場所連続の技能賞を受賞した妙義龍についても触れておきます。初めての関脇という地位で10勝を上げたのは見事でした。187cm、144㎏という相応のサイズではありますが、それでも幕内では小兵の部類に入ります。特に、膝の状態に留意して、技とパワーに磨きをかければ、大関も十分狙える力士だと思います。

 186cm、133㎏の日馬富士の横綱昇進は、小兵・軽量力士に大きな勇気を与えるものとなりました。


 2012年大相撲9月場所は、大関日馬富士の優勝で幕を閉じました。これで日馬富士は2場所連続優勝、これも凄いことですが、2場所連続「全勝優勝」であり、これは大相撲の歴史に残る偉業と言えます。
 これで日馬富士は横綱に昇進します。第70代横綱の誕生です。

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 昨9月23日千秋楽結びの一番、横綱白鵬と大関日馬富士の取組は、素晴らしい内容でした。

 立ち合いは白鵬が優位で、直ぐに右四つ、白鵬は両まわしを引いて十分な体制、この時にすぐに攻めていれば、白鵬にも勝機があったと思いますが、両力士がしばらく土俵中央に留まった後、日馬富士が巻き替えに成功した後は、日馬富士の一方的な攻勢が続く相撲となり、白鵬は防戦一方でした。

 日馬富士は、頭をつけた後、西・東と二回の寄りを見せましたが、これは白鵬が全力で残しました。特に1回目の寄りの際に叩き込んでいれば、勝負は決したと思いましたが、日馬富士は叩きませんでした。

 続いて、土俵やや東よりの位置で、日馬富士は右からの下手投げを連発、これを白鵬が右足のステップで堪え、日馬富士を中心に白鵬が一周したところで、白鵬が前に倒れ、直後に日馬富士も土俵に落ちました。引き摺るような下手投げが決まりました。

 白鵬は直ぐに立ち上がり、悔しそうな顔で天を仰ぎましたが、日馬富士は中々立ち上がることが出来ず、額を土俵に付けてから、ゆっくりと立ち上がりました。両力士とも全力を出し切った「大相撲」でした。

 日馬富士は、モンゴル出身の28才。186cm、133㎏(入幕したころ120㎏前後であったことからすると増えました)と体格には恵まれませんでしたが、そのスピードと前に出る力は抜群で、優勝4回目にしてついに横綱昇進を遂げました。

 2場所連続全勝優勝を飾った日馬富士は、所定の手続きを踏んで横綱になるわけですが、この「所定の手続き」には、横綱審議委員会への諮問も含まれます。この横綱審議委員会(以下、横審)は、必要なのでしょうか。

 横綱審議委員会を構成する委員は「大相撲に造詣が深い有識者」が選ばれることになっていますが、このところの特定の横綱を巡る一連の騒動他における、横審委員の発言やコメントを見るにつけ、大相撲に対する見識が不十分、時には大相撲を知らないのではないか、といった印象を受ける事例が数多くありました。

 そもそも「品格」という崇高で難しい概念を軽々しく口にし、品格が無いと判断する理由を説明できない横審委員を見ると、疑問を感ぜざるを得ません。

 大相撲を長く見ているとか、大相撲関係者に知り合いが多いとかいったことと、大相撲に対する識見が高く深いということは、全く無関係です。それどころか、間違った見方・接し方を長く続けると、誤った判断基準が身に付いてしまい、結果として「単なる好き嫌い」にしか見えない、粗末な判断を下すことになります。

 もうひとつ横審の問題点として挙げたいのは、その判断結果について「責任を取らない機関」であることです。

 大関時代に2場所連続で準優勝だったある力士の横綱昇進を横審は了承しました。当該力士は、横綱になってからも優勝できず、しばらくして行方をくらましました。「優勝していない力士を横綱にしたこと」自体に問題があるといっているのではありません。
 横綱昇進基準の3番目の「2場所連続で優勝に準ずる成績を上げたもの」という基準はクリアしていますので、横綱昇進後の当該力士が立派な成績・全力士の範となる土俵態度・取組姿勢を見せてくれたのであれば、問題ない判断と言えるでしょう。こうした「潜在的能力を見抜く」ことも、横審の大切な存在意義であるはずです。

 しかし、当該力士は横綱の責務を放棄し、優勝もできませんでした。同基準の1番目である「品格・力量が抜群であること」を全くクリアできない力士だったのです。
 ここで指摘したいのは、この「誤判断」について横審が全く責任を取っていないことです。横審委員が総辞職(総辞職が責任を取ったことになるかは別として)したとか、横審委員が「間違った判断をして申し訳ない」とコメントしたとか、聞いたことがありません。
 特定の横綱(その横綱も横審で承認されて昇進しているのですが)の一連の騒動については、過剰な程に騒ぎ立てる横審委員が、自らの不見識・誤判断については無反応・無視というのでは、バランスが取れないしアンフェアです。

 数年前、ある横審委員が「2場所連続優勝なら横綱になれるというのなら横綱審議委員会は不要だ」と発言しているのを報道で見ましたが、この発言自体が諮問委員としての自らの立ち位置さえ理解できていない傲慢なものです。

 当該委員の発言趣旨とはおそらく正反対の意味で、おっしゃる通り横審は不要だと思います。1950年(昭和25年)という60年以上前に、当時の「横綱粗製乱造批判」に対応して設けられた横綱審議委員会は、その歴史的意義を達成し、その役割を終えたのでしょう。そして、横綱昇進基準も、より客観的なものに見直していく必要があると思います。(別稿で採り上げたいと思います)

 千秋楽結びの一番で勝ち名乗りを受けた日馬富士が支度部屋に向かって、笑顔で戻ってきました。その通路で、同じ伊勢が浜部屋の兄弟子安美錦関が待っていました。二人はがっちりと抱擁しあいました。離れ際、安美錦の眼には涙が光っていました。
 優勝パレードの車上、日馬富士の隣には優勝旗を持った安美錦が笑顔で座っていました。日馬富士は、笑顔で手を振り続けていました。

 日馬富士関、本当におめでとうございます。
 
 タマミは、その名の通り牝馬で、1970年のスプリンターズステークスの勝ち馬ですが、他にも桜花賞を圧勝するなど重賞5勝の名牝です。しかし、オールドファンにとっては、タマミと言えば「美少女」ということになります。

 スプリンターズステークスは、1967年(昭和42年)7月に中山競馬場1200mの3歳以上・ハンディキャブ重賞として創設されました。日本競馬界初の短距離重賞でした。その後、開催時期が定まらず、5月や9月に毎年のように変わりました。1981年からは2月から3月の春のレースになりました。

 1990年にG1競走となり、斤量も定量となり、開催時期も年末、有馬記念の1週間前に定められました。筆者には、G1に指定されたこともあり、スプリンターズステークスというと、有馬の前週というイメージがあります。

 この頃中央競馬会としては、短距離馬のレース路線構築に力を入れていて、1996年5月、高松宮記念競走が1200mG1レースに変更(それまでは2000mで6~7月開催のレース)され、春の短距離馬のG1に設定されました。
 この影響もあって、1990年から1年を締めくくる短距離G1の位置づけであったスプリンターズステークスも、2000年から9~10月の開催に変更され、春の高松宮記念、秋のスプリンターズステークスが、年2回の短距離路線のG1レースとなりました。

 一方で、当競走は1994年から国際競争に指定され外国調教馬の出走も可能となりました。なにしろG1レースで、一着賞金も高額(昨年9500万円)であることから、毎年外国調教馬が出走し、これまで3頭の外国馬が優勝しています。

 G1レースですから、優勝馬も有名馬が多く、1993年・1994年のサクラバクシンオーの連覇や1997年のタイキシャトルなど印象深いレースも多いのですが、牡牝のどちらでも出走できるレースとしては、牝馬の活躍が目立つレースでもあります。

 2000年以降で見ても、2002年ビリーヴ、2007年アストンマーチャン、2008年スリープレスナイト、2011年カレンチャン、と4頭もの牝馬優勝馬がいます。1200mの短距離、通称「電撃の6ハロン」であれば、テンの速い牝馬なら十分に勝負になるということを示しています。

 本稿で採り上げるのは、こうした牝馬勝ち馬の先駆者タマミです。タマミは、当競走第四回1970年の勝ち馬で、初の牝馬優勝馬です。前年1969年の勝ち馬はタケシバオーですから、バリバリの重賞常連牡馬のレースで、牝馬が通用することが示されたこともあって、タマミが勝った1970年以降の10年間では、牝馬5頭が7回勝っています。

 タマミは、父があのネアルコの仔カリム、母がトサミドリの仔グランドフォード、当時の良血です。(カリムは、ハイセイコーの母ハイユウの父でもあります)
 2歳時は7戦2勝と目立った成績は残していませんが、3歳になり本格化。1970年の桜花賞トライアル阪神4歳牝馬特別を3馬身半差で快勝すると、一番人気で迎えた桜花賞も4馬身差で圧勝しました。3歳になって4連勝でのクラシック制覇でした。

 とにかくテンが速い馬で、ゲートが開くとあっという間に他馬を引き離し、そのままゴールに走りこむ感じの馬です。テンが速いという意味では、タマミの3年後1973年に活躍した牝馬キシュウローレルも相当なものですが、タマミの方がゴール前の我慢が効くという感じがします。

 タマミは当然のように圧倒的な一番人気でオークスに臨みましたが、ドロドロの不良馬場と2400mの距離に泣き14着と大敗。夏の静養を経て秋初戦のクイーンステークスで11着に敗れた時には、タマミも終わったと言われました。次戦にタマミが選んだのが、スプリンターズステークスだったのです。

 短距離路線に活路を見出そうとしたのですが、当日は不良馬場、ツキが無いなと思いました。レースは例によってタマミが逃げます。さすがにゴール前追い込まれましたがハナ差凌いで優勝。4つ目の重賞制覇でした。このレースのスタートからの3ハロン33秒9は、不良馬場の時計としては驚異的なものです。

 この後4歳まで走って引退しました。生涯成績は24戦8勝(重賞5勝)。繁殖入りした後は、これといった産駒に恵まれず1977年に癌で死亡しました。10歳の若さでした。

 タマミは、栗毛のように明るい鹿毛で、顔が細く、額の白斑から流星が真っ直ぐ伸び、瞳がぱっちりとしていたために「美少女」と呼ばれました。競馬エッセイでも知られる作家の寺山修二は「少女のように可憐」と評しました。私の記憶では、多くのファンが認めたという意味での「日本競馬界初の美人ランナー」でした。10歳で死亡した時も、多くのマスコミに「美人薄命」と表記されたことは言うまでもありません。

 ところで、タマミが勝ったスプリンターズステークスは発走が30分位遅れました。

 これはその日(1970年10月11日)の第6レース「あきはぎ賞」で一番人気だったハスラーがゲート式発馬機内で暴れて負傷、ゲートも壊してしまい、発走除外となったことを発端とした事件が起こったためです。

 当時は枠番による連勝複式馬券でしたが、この時のハスラーの同枠には他に有力馬が居なかったため、ゲートの修理時間中に、連勝複式馬券の払い戻しを要求するファンが現れ、競馬会は一部のファンに払い戻しを行いました。

 あきはぎ賞のレース終了後、この話を聞いた払い戻し未済のファンが払い戻しを要求しましたが、競馬会はレース終了後ということで、これを拒否しました。そのため、ファン数百人が抗議活動を開始、一部が暴徒化して競馬場施設への放火や競馬場職員への暴力行為に及んだために機動隊が出動、ファン3名を逮捕し、暴動を鎮静化しました。世に言う「ハスラー事件」です。

 日本競馬発展期の世相を表した悲しい事件ですが、その事件の原因となった馬の名前が「ハスラー」だったというのも皮肉な話です。


 大相撲9月場所14日目(2012年9月22日)、歴史に残る取組が行われました。
旭天鵬と若の里の対戦です。相撲界に入門してからの生涯勝ち星が800勝を超える力士同士の取組みは、大相撲の歴史上初めてのことでした。

 旭天鵬は、モンゴル出身(日本に帰化しています)の38才。191㎝、160㎏。初土俵は1992年3月場所。以来123場所を経て、今場所13日目までで通算814勝800敗でした。

 若の里は、青森県出身の36才。184㎝、161㎏。初土俵は1992年3月場所。以来123場所を経て、今場所13日目までで通算804勝636敗でした。

 二人は年齢こそ旭天鵬が二つ上ですが、初土俵は一緒です。お互いに切磋琢磨し、旭天鵬が1998年1月場所に入幕(幕内に上がること)、若の里が1999年5月場所に入幕しています。そして今も、幕内最古参力士として現役を続けています。

 旭天鵬は先場所までに800勝に到達していましたが、若の里は798勝で今場所を迎え、場所中に800勝に到達しましたので、今場所の後半に取組が組まれないと、こうした歴史的な取組は実現しなかったのです。

 この記念すべき取組は、もろ差しになった若の里が寄り切りで勝ちました。旭天鵬も、不利な体勢になりながらも、何度も若の里の寄りを残しました。NHKテレビ、今日の正面の解説者は、貴乃花親方でしたが「旭天鵬は、よく残しましたよね」とコメントしました。
 これで、若の里は通算勝ち星を805勝としたわけです。

 初土俵から21年目という長い間現役を続けた力士同士が対戦したことも凄いことなのですが、「800勝の凄さ」を認識すべきだと思います。以下に、最近の横綱・大関の生涯通算勝ち星および場所数を記載します。

・魁皇  1047勝700敗  140場所
・朝青龍  669勝173敗   67場所
・白鵬   690勝166敗   68場所(先場所までの星、現役)
・貴乃花  794勝262敗   90場所
・武蔵丸  779勝294敗   86場所
・曙     654勝232敗   78場所

 大関魁皇の1047勝は、横綱千代の富士の1045勝を超える、大相撲史上第一位の記録ですが、朝青龍以下5人の横綱で、800勝を達成している力士はいません。さすがに横綱は勝率は高いのですが、通算勝ち星では旭天鵬・若の里が上回っているのです。

 解説の貴乃花親方も「これはもう凄いとしか言いようがない」と。自身の勝ち星を超える力士同士の取組であるとともに、自身が対戦したことがある力士同士の取組ですから、貴乃花親方のコメントも道理です。

 横綱や大関になる力士は出世が早く、責任ある地位に就いた後は、負けがこむと引退に追い込まれやすいという事情はあるのですが、勝率が高くない力士が勝ち星を積み重ねるには、怪我・故障なく、一定の力量を維持しながら、現役を続けるという、極めて困難な道を進む必要があります。

 こうしたことができる力士は少ないのですが、たまたま同世代の二人が、これを実現し、さらに幕内の取組が組まれる番付に二人とも就いていたことは奇跡と言えます。来場所以降も、この取組が楽しみですし、一番でも多く観たいものだと思います。

 さて昨日、黒海が引退を表明しました。グルジア出身の31才。190㎝、150㎏。先場所までで通算446勝458敗でした。ヨーロッパ出身力士の草分けとして、怪力と押しの強さ、そして濃いひげが印象的な風貌も相まって、人気がありました。私も大好きな力士でした。
 31才と、旭天鵬や若の里と比べれば、まだまだ取れそうで残念ですが、琴欧洲や栃ノ心、魁星、碧山といった力士の先達としての活躍は素晴らしいものでした。

 今日9月22日、親方とともに引退会見に臨みましたが、その日本語の上手なこと。大相撲に馴染むために、強くなるために、黒海が続けてきた努力の大きさが偲ばれました。
 

 9月23日神戸競馬場芝2400mで行われる、菊花賞トライアル、神戸新聞杯競走の予想です。

 今年は、日本ダービー出走馬の出走が少なく、上がり馬の挑戦が多いレースになりました。

 軸馬は8枠14番のゴールドシップ。G1皐月賞馬にして、日本ダービー5着の実績は、出走馬中抜群。調子が整っていれば不動の軸馬です。出てくる以上は負けられないところでしょう。

 対抗馬候補としては、1枠1番ミルドリーム、4枠7番ヒストリカル、5枠8番メイショウカドマツ、5枠9番ベールドインパクト、6枠11番マウントシャスタ、7枠13番ナムラビクターが挙げられます。

 2着3着馬を探すレースですが、特別レースを勝って挑戦してきた馬達は、一長一短がありますので、ここは絞り込みたいと思います。

 対抗馬一番手は、ベールドインパクトを挙げます。日本ダービー9着、皐月賞7着は好成績とは言えませんがG1レースを使ってきた経験を重視し、夏の成長に期待します。
 対抗馬二番手は、マウントシャスタ。G1宝塚記念5着の実績は侮れません。

 もう1頭選ぶとすればメイショウカドマツですが、今回は上記3頭に期待したいと思います。結果として、上がり馬は入りませんでしたが、ディープブリランテ、ワールドエースといった春の活躍馬が不在の中で、菊花賞出走権を狙ってきた馬が多く、勝ちに来た馬は少ないと見ました。

 ゴールドシップの仕上がりを観るレースだと思います。
 9月23日中山競馬場芝コース2200mで行われる産経賞オールカマー競走の予想です。

 混戦模様の難しいレースです。

 軸馬には、7枠13番ナカヤマナイトを置きたいと思います。前走G1宝塚記念2200mは8着と今一つの成績ですが、G1級のレースに出走している実績と、今年1月の同じ中山競馬場のAJC杯2200mで2着と好走していますので、このメンバーなら軸に期待できます。ただし、なかなか勝ちきれないところがありますので、2・3着になることは十分に考えられます。

 対抗馬候補は、8月の札幌のオープンレース2600mで1着だった1枠2番のルルーシュ、8月の新潟天の川S2000mを勝った2枠4番のコスモラピュタ、2009年の天皇賞(春)の勝ち馬3枠6番のマイネルキッツ、7月新潟の日本海S2200mを勝った4枠7番のラッキーバニラ、8月小倉の釜山S2000mの勝ち馬5枠9番のダコール、日刊中山金杯G3で好成績を上げている8枠16番のコスモファントムが挙げられます。

 以上から対抗馬一番手は、コスモラピュタとします。天の川Sの勝ちっぷりが良く、スピードも十分と見ます。
対抗馬二番手には、ダコール。このところの安定した成績に期待します。
対抗馬三番手には、ラッキーバニラ。前走2200mの競り合いを制した足に期待です。

 いずれにしても、サンテミリオン(オークス)やマイネルキッツといったG1ホースの最近の成績があまりに不甲斐ないために、対抗候補が重賞では実績が不十分な馬ばかりになってしまいました。
 これはこれで面白い競馬だと思います。

 現地9月20日の対ロスアンゼルス・エンジェルス戦に先発したダルビッシュ有投手は、8イニング、108球を投げて被安打4、1失点、9奪三振、1与四球。1-1の同点で降板しましたが、9回に味方のエイドリアン・ベルトレイが勝ち越しホームランを打ってくれたので、勝ち投手となりました。

 これでシーズン通算16勝9敗、通算防御率も久しぶりに4点を切り3.90となりました。日本人メジャーリーガー投手の1年目の勝ち数としては、2007年の松坂大輔投手の15勝を超えました。
 MLB1年目のダルビッシュが、ここまで28試合に登板し、16勝を上げたのは素晴らしいことで、特に故障が少なく、概ねローテーションを守ったところが、ダルビッシュの能力の高さを示していると思います。

 ボール・マウンド・ローテーション・移動等々何もかもがNPB(日本プロ野球)とは異なるMLBにおいて、投げ続けるための努力は大変なものだと思います。所属するテキサス・レンジャーズの先発投手陣の中でも、フェリース、シールズといった軸となるべき投手たちが故障で戦列を離れています。ダルビッシュのチームへの貢献度は高いと思います。

 そのダルビッシュと松坂の1年目の成績を比較するマスコミ報道が多いので、本稿でも行ってみます。

 2007年の松坂は、32試合に登板、204.2イニングを投げ、15勝12敗、201奪三振、80与四球、防御率4.40という成績でした。この成績もMLB1年目としては、素晴らしいものです。

 一方のダルビッシュは、2012年9月21日時点の成績ですが、28試合に登板し、184.2イニングを投げ、16勝9敗、214奪三振、88与四球、防御率3.90です。これも素晴らしい成績です。

 まずは登板数ですが、ダルビッシュはレギュラーシーズンであと2試合に登板できそうですから計30登板となります。これは松坂の32登板が勝ります。登板イニングも、ダルビッシュが残り2試合を7イニング(これまでの平均6.2イニング)ずつ投げたとして計198.2イニング。この項目も、204.2イニングを投げている松坂が勝ります。

 勝ち数については、ダルビッシュが残り2試合を連勝する(希望も込めて)として、18勝となりますので、ダルビッシュが勝ります。奪三振も、既にダルビッシュが上回っています。

 与四球については、松坂も相当多かったなと感じていましたが、ダルビッシュの方がより多いのは残念です。この項目は、両投手とも成績が悪い項目です。例えば、今シーズン、既に201.2イニングを投げているヤンキースの黒田投手の与四球が44ですから、ダルビッシュは、黒田投手の2倍以上の与四球率ということになります。今後の最大の要改善ポイントということでしょう。
 防御率は、ダルビッシュが3.90、松坂が4.40ですから、ダルビッシュが勝っています。

 主要な項目を比較しましたが、ダルビッシュと松坂は甲乙つけがたい成績ということでしょう。強いて優劣を付けろということであれば、松坂の方が勝っていることになります。何よりMLBの先発投手に期待される「登板イニング数」と「登板数」において、松坂が勝っているからです。

 実は2007年の松坂の登板イニング204.2というのは、松坂のMLBでの最高記録です。2008年シーズンに松坂は18勝3敗という成績を上げましたが、登板数29、登板イニング数167.2と、ともに2007年を大きく下回りました。松坂投手のMLBにおける最高成績シーズンは、2007年であったと思います。

 余談ですが、この見方はNPBにおいても同様です。
 松坂投手がNPBにおいて沢村賞を受賞したのは、15勝15敗であった2001年シーズンです。17勝5敗だった2006年でも、16勝7敗だった2003年でもありません。2001年の松坂は、シーズン通算240.1イニングを投げています。(ちなみに2006年194.0、2003年186.1)
 これは松坂のNPBでの最高の数字ですし、絶対水準としてもMLBより30試合ほど少ないNPBにおいては驚異的な登板イニング数です。この八面六臂の大活躍に対して、NPBの投手に対する最高の賞が送られたのでしょう。

 投手の勝ち数と負け数の差で、チームに対する貢献度を見るというのは、簡単な判断基準として悪くはないと思いますが、ゲームの勝敗が打線の活躍に大きく左右されることを考えると、過大な比重を置くべき基準ではないと思います。登板数と登板イニング数の方が、より客観的で正確な評価ができると思います。

 良い投手でなければ、監督は使いませんから登板数は伸びません。故障などで戦列を離れても登板数は伸びません。打線との巡りあわせが悪くて、勝ち星が伸びない投手を勝ち数で評価するのは、客観的・冷静な見方とは言えないと思います。

 ダルビッシュは、勝ち星数で松坂の1年目を超えましたが、決して松坂の1年目の成績を超えたとは考えていないと思います。ダルビッシュが松坂と並ぶためには、残り2試合で少なくとも200イニング超えを果たすことだと思います。9月初めには難しいと思っていましたが、このところのゲームで8イニングといった長いイニングを投げてきましたので、視野に入ってきました。あと2試合で15.1イニングは不可能な数字ではありません。

 松坂が1年目に1回完投していますので、ダルビッシュも「完投」を経験するのも良いことだと思います。

 今シーズンのNFLも話題満載ですが、今年のドラフト全体1位のアンドリュー・ラックと全体2位のロバート・グリフィン・3世の二人の新人クォーターバックQBも見逃せません。

 アンドリュー・ラックは193cm・106㎏、スタンフォード大学出身。オレンジボウル最優秀選手他、数々の賞を受け、ドラフトに臨みました。事前の予想でもその完成度の高さから、全体1位の呼び声が高かったのですが、ペイトン・マニングが首の故障で出場できなかった2011年シーズンに2勝14敗と散々な成績だったインディアナポリス・コルツに、1位指名(全体1位)され、入団しました。

 ペイトン・マニングも、自身のドラフトで全体1位だったので、ラックに対するコルツファンの期待は、大変大きなものがあります。夏のトレーニング期間、プレシーズン・ゲームを無事に過ごして、レギュラーシーズンイン。第1週から先発QBとして登場。シカゴ・ベアーズに41-21で敗れたものの、NFLでの初タッチダウンTDパスを成功させました。

 そして、先週末の第2週、対ミネソタ・バイキングス戦。ラックは2TDパスを決めるなど安定したプレーを展開し、23-20でNFL初勝利を挙げました。
 第2クォーターQに見せたウェインへのTDパスは、若き日のブレット・ファーブやダン・フォウツのような「鉄砲肩」タイプではなく、キッチリと長さと高さをコントロールした「丁寧なパス」という感じで、これがラックのプレーだと感じさせました。
 また、パス獲得ヤードは191yと相手チームのQBと比べても少ないのですが、肝心のところで決めたのが良いところです。

 一方、ロバート・グリフィン・3世は、188cm・98㎏、ベイリー大学出身。父親がアメリカ陸軍の軍曹であった関係から沖縄県生まれ。アメリカン・フットボールでは無名に近いベイリー大学を率いて名門オクラホマ大学他を撃破。全米大学最優秀選手に与えられるハイズマン賞に輝いた、シンデレラボーイです。

 高校時代は陸上競技ハードルの選手でもあったことから、走力にも優れており、走れるQBとして、前述のアンドリュー・ラックに次いでドラフト全体2位で、ワシントン・レッドスキンズに指名され、入団しました。そのプレー振りから、ドラフト前から人気が高く、報道でも当初から「RGⅢ」と略称にて表記されてきました。

 こちらも、夏のトレーニング、プレシーズン・ゲームを無事にクリアして第1週から先発QBとしてデビュー。初戦は、当代屈指のQBドリュー・ブリーズを擁するプレーオフ常連のニューオーリンズ・セインツ戦でしたが、40-32で勝利。2TDパスを始めとして、26回のパス・アテンプトで19回成功、トータル320yのゲインと新人QBとしては、上々のデビューでした。

 先週末の第2週は、対セントルイス・ラムズ戦。28-31で惜しくも敗れましたが、RGⅢは、第1Qと第3QにQBランTDを挙げるなど、その走力を披露しました。

 ラックもRGⅢも、いかにドラフト全体上位指名プレーヤーとはいえ、NFLの舞台で初戦から先発というのは素晴らしいことです。順調に夏のトレーニングを過ごし、チームメンバーとのコミュニケーション構築も成功し、チーム戦術に馴染む、というのは容易なことではありません。この二人の能力の高さを示しているものと思います。

 加えて、第2週を終えて1勝1敗というのも立派。今シーズンのNFLは、昨シーズンのスーパーボールを争ったニューヨーク・ジャイアンツとニューイングランド・ペイトリオッツも、共に1勝1敗のスタートですし、前年好成績のチームの中で2連勝スタートを切ったのは、サンフランシスコ・49ers位という混戦模様です。

 先稿のペイトン・マニング率いるデンバーも第2週は敗れました。こうした、混戦模様の中で、アンドリュー・ラックとRGⅢは、旋風を巻き起こせるのでしょうか。今シーズンの見どころのひとつです。
 件のペイトン・マニングは、デビュー年に新人QBのパス成功回数の記録をつくりましたが、一方でチームは3勝13敗と今一つの成績でした。この二人が、ペイトン・マニングの新人記録に迫れるかも、注目したいと思います。

 そういえば、運動神経抜群の走れる黒人QBの先駆者であるマイケル・ビック率いるフィラデルフィア・イーグルスが1点差ゲームに2連勝して、好スタートを切りました。
 ビックがRGⅢに刺激を受けたのではないかと思っています。

 
 PGAツアーとは、アメリカで開催されている最も有名なゴルフツアーで、毎年1月から11月まで毎週のように開催される試合の全体としての呼称です。参加しているゴルファーの技術他の水準・ゴルフプレーの水準が、世界一高いツアーです。

 昔なら、青木功選手や尾崎将司選手、近時なら丸山茂樹選手、最近なら石川遼選手が、日本ゴルフ界から挑戦した、あるいは挑戦するアメリカのゴルフの試合といえば、PGAツアーの中の試合です。

 PGAツアーは、PGA(プロフェショナル・ゴルファーズ・アソシェーション・オブ・アメリカ)TOURという団体が主催しています。このツアーには、マスターズ、全米、全英、全米プロの所謂4大メジャートーナメントも組込まれています。

 1968年から開催されているPGAツアーですが、2007年のフェデックス・カップ導入からスケジュールが変わりました。

 フェデックス・カップとは、世界的な物流会社であるフェデックス社がスポンサーとなっている競技で、その優勝を競うのですが、PGAツアーの一部(大半)の試合の成績により与えられるポイントの合計数値で、各プレーヤーが覇を競うものです。(そもそも、PGAツアーの中の大半の試合を対象としていますので分かりづらい)
 フェデックス社のスポンサーとしての出資額がとても大きいので、PGA TOUR(PGAツアーの主催団体)としても、この競技を導入したのでしょう。

 今年を例にとります。

・1月6日ヒュンダイ・トーナメントがハワイで開催されました。これがPGAツアーの今シーズン初戦であり、フェデックス・カップの今シーズン初戦でもあります。

・1月のスタートから8月16日のウィンダム選手権までの37試合が、フェデックス・カップの予選となります。もちろんPGAツアーのレギュラーシーズンの試合でもあります。メジャートーナメント4試合もこの37試合に含まれます。そして、この37試合でのポイント獲得上位125位までが、翌週から始まる、フェデックス・カップ「プレーオフ」に進出できます。

・プレーオフでは、8月23日からのザ・バークレイズ・トーナメントで125人からポイント上位100人に絞られ、8月31日からのドイツバンク選手権で100人から同70人に絞られ、9月6日からのBMW選手権で70人から同30人に絞り込まれて、9月20日からのツアー選手権にて30人による最後の戦いが行われます。(現在、行われています。30人ですから予選落ちはありません。全員が4日間プレーします)

 このツアー選手権が終わるとフェデックス・カップは終了しますが、当然ながらPGAツアーは続きます。11月のチルドレンズ・ミラクル・ネットワーク・クラシックまで、毎年5試合程度が実施されます。これらはフォール・シリーズ(秋のシリーズ)と呼ばれています。

 フォール・シリーズは、翌年シーズンのシード権(賞金ランク125位以内)をめぐる争いですので、既に十分賞金を稼いでいるトッププレーヤーの参加は少なく、今シーズン活躍できなかった選手たちが、生き残りをかけて戦う試合になります。

 こうして見ると、PGAツアーの実質的な試合(ファンが世界最高のプレーを楽しむという意味での)は、9月下旬に終わってしまうように見えます。10月~11月は、一般ゴルファーにとっては、ゴルフを楽しむのにとても良い季節なのですが、世界最高峰のPGAツアーは実質的に幕を閉じている感じなのです。

 確かに、フェデックス・カップの賞金は高く、ツアー選手権を終えてポイント・トップの選手(=フェデックス・カップ優勝者)には、副賞ボーナスとして1000万ドル(約8億円)が授与されます。

 PGAツアーの賞金は、そもそも各試合の賞金額が日本のゴルフツアーとは桁違いです。例えば、現在行われているフェデックス・カップ最終戦のツアー選手権の優勝賞金は144万ドル(約1億15百万円)です。

 過去二年間、そして今年もおそらくツアー選手権の優勝者が、フェデックス・カップも制する(より面白くするために、そういうポイント配置にしてあります。クイズ番組で最後の問題に高い配点をするのと同じです)と思われますので、優勝者は、ツアー選手権の賞金1.15億円+フェデックス・カップ賞金8億円=9.15億円を手にすることになります。日本ゴルフツアーでは、年間獲得賞金1億円がツアー終盤の話題になりますが、一桁違います。(日本のゴルフツアーも、PGAツアー以外の世界のツアーの中では、賞金額は高い方ですが)

 PGAツアーの他の試合も、多くの試合で優勝賞金が100万ドルを超えますので、日本ゴルフツアー所属のプレーヤーがPGAツアーで1勝すれば、日本ツアーの賞金王争いに参加できることになります。(賞金の話ばかりで恐縮ですが、プロスポーツ選手にとっては大切な要素ですので、ご容赦ください)

 以上から、フェデックス・カップの開催は、PGAツアーにとっては大変なスポンサーが付いたというメリットがありますが、一方でいくつかの問題点もあると思います。

 第一には、スケジュールの問題です。先にも述べましたが実質的なツアーが9月半ばに終わってしまいます。ツアー選手権は、2006年までは11月に開催される、文字通りのPGAツアーシーズン最終戦でした。当然ながら試合の格も高く、ツアー選手権の賞金総額は、マスターズ選手権などのメジャートーナメントと同額です。
 この一年納めの試合を、フェデックス・カップのために9月に持ってきたのです。

 第二には、フォール・シリーズの位置づけです。先ほども述べましたが、タイガー・ウッズやフィル・ミケルソンといったトッププレーヤーは既に賞金ランク上位ですので出場しない場合が多いのですが、それでも賞金ランク30位周辺のプレーヤーが出場することがあります。
 当然出場できるのですが、獲得賞金額下位の選手の逆転の機会を奪うように見られます。つまり、上位のプレーヤーが出場しにくい、出場すると悪役になるような雰囲気があるのです。2006年までは、存在しなかった無言の壁と言えます。

 第三には、第二の事情があるので、9月下旬以降PGAツアーのトッププレーヤー達は、アメリカ以外の世界中のツアーに出場するようになります。
 日本のツアーも10~11月はビッグトーナメントが目白押しです。我々観衆からすると、世界のトッププレーヤーを間近に観られるのはとても良いことですが、日本ツアーを主戦場としているプレーヤー達にとっては脅威です。日本ツアーも翌年のシード権を目指した戦いの最中なのですから。

 第四には、ツアー選手権の会場の問題です。ジョージア州アトランタ郊外のコースが選ばれているのは、アメリカ南部であり11月中旬でも暖かく、ゴルフプレー・観戦に向いているという理由でしたが、9月中旬となると暑い夏の延長線上にあって、コースコンディションを整えるのが、とても難しいのです。この数年は、芝が剥げかかったグリーン状態のゲームが続いています。最高峰の戦いの会場としては残念ですし、美しいコースが台無しです。
 こうしたビッグトーナメントの会場を変更するのは、当然ながら容易なことではありません。ハイレベルな競技に合わせたセッティングや試合前のクローズ期間の設定等々。現在の会場は、2004年から使用され始めたばかりですから、一層変更は難しいでしょう。

 こうした、やや歪な変更が2007年からPGAツアーに導入された理由は、巨額のスポンサー料だけではないともいわれています。

 10~11月は、アメリカ4大プロスポーツの試合が盛り上がるので、PGAツアーが注目されにくい、といった指摘が以前からあったというのです。確かに、MLBの地区シリーズからワールドシリーズ、NFLのシーズンゲームの本格化、NBAもNHLも始まる、といった時期ではあります。PGA TOURとしての以前からの検討に、フェデックス社の参加申入れがあって、こうした変更が行われたとする見方です。

 色々な見方があると思いますが、フェデックス・カップは2007年に開始され今年でまだ6回目です。この形式の是非について論じるには、もう少し時間が必要なのかもしれません。

 さて、今シーズンのツアー選手権も初日が終わりました。今年も、アメリカ・ジョージア州アトランタ郊外のイーストレイク・ゴルフクラブ(以下GC)で開催されています。筆者も、仕事でアトランタに出張した折に、たまたまイーストレイクGCを観ました。本当に美しいコースですが、コース名の通りに池が多く、その池に張り出したグリーンなど、非常に難度が高いコースという印象を受けました。スコアはともかく(ボールも相当数失くしそうですが)、一度はプレーしてみたいコースです。

 今シーズンのフェデックス・カップは、プレーオフ第二戦ドイツバンク選手権・第三戦BMW選手権を連覇したローリー・マキロイ(北アイルランド)が最有力。対抗は、タイガー・ウッズ(アメリカ)でしょう。タイガーは、ここまでカップ・ポイント2位でマキロイを追っています。

 初日を終えて、トップは-4でタイガー・ウッズとジャスティン・ローズ(イングランド)が並んでいます。マキロイは-1でフィル・ミケルソンやババ・ワトソンらと並んで12位タイ。タイガーは、逆転でのフェデックス・カップ優勝に向けて、最高のスタートを切った形です。

 実質的な世界のトッププレーヤー30人で争われるツアー選手権(1987年の開催当初からPGAツアー賞金獲得額上位30人しか出場できませんでした)は、いつの時代も世界中のゴルファーのオールスター戦であり、出場すること自体が世界中のゴルファーの夢です。(日本人プレーヤーでは、2004年の丸山茂樹と2008年の今田竜二の参加があるのみだと思います。丸山・今田両選手の凄さを感じます)

 大騒動から復活し、今シーズン3勝を挙げたタイガー・ウッズと、ポスト・タイガー一番手の呼び声高いローリー・マキロイの争いを中心とした、美しいイーストレイクGCでの戦いは、今週末最大の楽しみです。

 冬になると氷が張り、その冬が長い地域では、相当古い時代から氷上の遊戯が行われていたと考えるのが自然です。スコットランドのシンティ、アイルランドのハーリング、ネイティブアメリカンのバゲタウェイなど、現在のアイスホッケーの原型ではないかといわれる遊戯も存在します。
 とはいえ、これらは現在のアイスホッケーとは相当に異なるものと言われていて、直接つながるものではないと思われます。

 近代アイスホッケーの起源地についても、これだけの人気スポーツになってしまったためもあってか、カナダのモントリオールを始めとして複数の都市が名乗りを上げている状況で、特定するのは難しいようです。

 1875年3月3日に、初の屋内でのフィールドホッケー式の競技が行われたとの記録が、モントリオール市公報に記載されていますから、少なくとも19世紀の後半には、モントリオール市では様々なルールで、フィールドホッケー型のスポーツが屋外、後には屋内でも、行われていたようです。

 1877年にマギル大学の学生であったジェームズ・クライトン、ヘンリー・ジョセフ、リチャード・スミスらが、ラグビーなどのルールを参考にして7つのルールを創り、地方新聞紙上で発表しました。このルールは、短い期間にモントリオール中に広がり、1883年にはモントリオールの冬祭りで実施されるようになりました。「統一されたルールができること」「そのルールのもとで行われる競技が人気があること」という条件を充足しますので、1877年をアイスホッケーのはじまりとしたいと思います。

 それにしても、カナダ・モントリオールのマギル大学は、1821年に創立された、カナダ最古の大学ですが、アメリカンフットボールの起源に関係する1874年の「ハーバード大学対マギル大学の試合」の一翼を担ったり、バスケットボールの発明者ネイスミスの出身大学であったり、今度はアイスホッケーの最初のルールを創ったり、近代スポーツの起源に、よく登場する大学です。
 19世紀後半に、そうした気風に溢れた学校であったことは間違いないでしょう。

 もともと氷上のフィールドホッケー型競技が盛んに行われていた地域ですから、この7つのルールが発表されると、アイスホッケーはカナダ中に広まり、1887年にはオンタリオ州でアイスホッケーのリーグ戦が始まり、1896年にはアメリカでも公式戦がスタートし、1897年には、カナダ・モントリオールで現在のルールに近いルールが制定されるなど、アイスホッケーは急速に発展しました。

 1888年、当時のカナダ総督スタンレー卿は、冬祭りで観たアイスホッケー競技に痛く感激し、優勝杯を贈ろうと考えたとの説があります。これが、いわゆるスタンレーカップのはじまりとされています。現在、NHL(ナショナル・ホッケーリーグ)の優勝チームに贈られるスタンレーカップのことです。

 NHLは、世界初のプロアイスホッケーリーグとして1917年に始まりました。現在では、北米4大スポーツのひとつとして隆盛を極めています。

 尚、スタンレーカップそのものの写真や映像をご覧になった方であれば、上部に小さなカップが付いていて、土台部分が長く・広がっている形をご存知だと思います。
 当初は、上部の小さなカップと普通の土台だったのですが、「優勝チームとその全選手の名前」を土台部分(金属製のリング)に刻むこととされていましたので、どんどん金属製のリングが追加されていって、土台部分が下に伸びたのです。さすがに限界ということで、いまでは古い刻印板を順次外して、博物館に保存し、新しい優勝チーム・選手の名前を刻印するスペースを確保しているとのことです。

 とはいえ、高さ88cmになってしまった現在のカップを当初の大きさ(高さ40cm程度といわれています)に戻そうとはせず、88cmのままにしておくのは、スタンレーカップとはこういう形のものだというのが、定着しているからでしょうか。




 神戸新聞杯は、1953年(昭和28年)に3歳馬のハンデ戦重賞「神戸杯」として始まりました。阪神競馬場2000mのレースでした。1972年に神戸新聞社から寄贈杯を受けて「神戸新聞杯」となり、1954年以降1600mや1800m、時には1900mという珍しい距離で行われてきたレースも、これで2000mに固定されました。前年1971年から斤量も定量とされましたので、春の3歳路線で活躍した馬たちの秋初戦として好適なレースとなったわけです。

 このころは、神戸新聞杯→京都新聞杯→菊花賞というルートが、菊花賞に臨む3歳強豪馬のステップとされていましたが、実際には中3週ずつで、この厳しい3レースを全て使いクラシックレースである菊花賞を勝ち抜くのは、体力面・体調維持面から容易なことではありませんでしたので、京都新聞杯か神戸新聞杯のどちらかを使って本番(菊花賞)へというローテーションを取る馬が多かったように思います。

 1995年には、関東のセントライト記念と共に「菊花賞」のトライアルレース(3着以内は優先出走権付与)となり、2007年からは距離が2400mに延ばされました。3000mの菊花賞をより意識した形です。
 しかし、こうした変更より大きな影響を与えたのが、京都新聞杯の開催時期を春(5月)に移動したことで、2000年に実施されました。このことで、神戸新聞杯は名実ともに菊花賞や天皇賞(秋)といったJRA秋の大レースに臨む3歳馬のための関西圏のステップレースとなったのです。

 2000年以降、神戸新聞杯の勝ち馬で菊花賞を制した馬は、ディープインパクトとオルフェーブルの三冠馬2頭だけですが、このレースに出走し勝ちはしなかったが、本番の菊花賞は勝った馬となると、エアシャカール(神戸新聞杯3着)、ヒシミラクル(同6着)、ザッツザプレンディ(同5着)、ソングオブサウンド(同3着)、アサクサキングス(同2着)、オウケンブルースリ(同3着)、ビッグウィーク(同3着)と7頭もいて、三冠馬2頭と合わせ、12年間で9頭の馬が、神戸新聞杯をステップレースとして菊花賞を制したことになります。

 菊花賞に勝つには、神戸新聞杯で勝つ必要はなく、神戸新聞杯で調子を上げて菊花賞でピークに持って行くと良い、ということになります。

 こうした歴史と伝統を誇るレースですから、優勝馬も多士彩々、想い出深い馬ばかりです。
 1972年タイテエム、1974年キタノカチドキ、1982年ハギノカムイオー、1989年オサイチジョージ、1993年ビワハヤヒデ、1997年マチカネフクキタル、2002年シンボリクリスエス、2003年ゼンノロブロイ、2004年キングカメハメハ、等々綺羅星の如くですが、「この一頭」と言えばトウショウボーイを挙げたいと思います。

 トウショウボーイは1976年の優勝馬。距離が2000mの神戸新聞杯で、1分58秒9という「驚異的なレコードタイム」で圧勝しました。このタイムは、まさに驚くべき水準で、競馬放送で有名な杉本アナウンサーが「恐ろしい記録です。恐ろしい記録です。」を連呼していたことが印象的でした。

 レース自体も、4角先頭から2着クライムカイザー(日本ダービー馬)に5馬身差をつけての圧勝でしたが、掲示板を見てまたまたびっくり。この頃、芝2000mは2分を切れない(2分1秒でも中々切れない)というのが常識でした。日本競馬を一歩進めたレースであり、馬だったと思います。
 トウショウボーイは「天馬」と呼ばれましたが、その尊称の最大の要因となったのは、この勝利・記録であったと、私は思います。

 神戸新聞杯競走で、このトウショウボーイの記録を破る馬が出てくるのは、何と2005年のディープインパクト1分58秒4を待たなければなりません。トウショウボーイに追いつくのに、日本競馬の超一流馬をもってして30年かかったのです。もの凄いことだと思いますし、今後このようなことはあるまい、とも思います。

 トウショウボーイはこの後、京都新聞杯も圧勝して、本番の菊花賞に向かいます。クライムカイザーとともに単枠指定馬となり、大本命としてレースに臨みましたが直線一杯となり3着。上がり馬のグリーングラスが勝ち、ライバルのテンポイントが2着でした。この世代の3強が、形成されたレースでもありました。

 下世話な話ですが、このころの馬券は現在とは異なり、1枚ずつ印刷されていました。例えば、1000円券(特券と呼びました)で5000円買うと、馬券が5枚渡されました。この菊花賞は、前述のとおり、皐月賞馬で神戸・京都の新聞杯を連勝したトウショウボーイと、そのトウショウボーイを日本ダービーで破ったクライムカイザーが、それぞれ単枠指定*され、中央競馬会公認の大本命馬となっていたのです。(*連勝複式馬券方式の時代に、1枠1頭とすることで、他の馬への影響を軽減したものです)

 確かトウショウボーイが3枠、クライムカイザーが4枠だったと記憶しています。ある紳士然とした人物が、京都競馬場の馬券売り場に現れ「連複3-4、5000万円」と現金5000万円をカウンターに出して、注文しました。

 窓口係のおばちゃん(これは私の想像ですが、当時はおばちゃんが多かったと思います)はビックリして「今ここには5000万円分の馬券は無いです。揃えるのに時間がかかります。」と答えます。

 紳士然とした人物は「わかった。後で取りに来る。」と言って、その場を離れたそうです。引換券を渡したのかどうかは報道されていませんが、5000万円の現金を収納した窓口のおばちゃんは、5000万円分の馬券を用意して、バッグに詰め、その人物を待ちました。

 レース結果は前述のとおりです。5000万円分の「はずれ馬券」はバッグに入ったままとなりました。中央競馬会はしばらくの間これを保管し、持ち主の登場を待ちましたが、結局現れませんでした。外れてしまったので、受け取る気にはならなかったのだろうと思いますが、もし当たっていたら、ひょっとすると評判になり、その人物の素性が明らかになったかもしれません。当時、1件の馬券購入額としては最大のものとして、話題になった出来事でした。ちなみに、このレースの売上総額は97億円でした。この5000万円が、いかに大きなものか分かります。

 話を戻します。

 トウショウボーイは、父テスコボーイ・母ソシアルバタフライ、生涯成績は15戦10勝。皐月賞2000mと有馬記念2500m、宝塚記念2200mには勝っていますが、日本ダービー2400m2着、菊花賞3000m3着、天皇賞(秋)3200m*は7着(唯一の大敗)と敗れていますので、現在では中距離2000m前後が適正な距離であったといわれています。(*天皇賞(秋)が2000mになったのは1984年から、それ以前は春と同じ3200mでした)
 
 骨太ながら、すらっとした脚をしていたトウショウボーイは、どこか従来の日本馬とは異なる雰囲気を持っていた(外車のスーパーカーだという人もいました)と思いますし、勝っても負けてもクールな走りという印象があります。自分の走りをして、結果は相手の強さ次第という感じの馬でした。引退後、種牡馬としても優秀で、産駒には三冠馬ミスターシービーや桜花賞馬アラホウトク、シスタートウショウなどがいますが、ここは別稿で採り上げたいと思います。

 天馬トウショウボーイが、その能力を最大限に発揮したレースが神戸新聞杯であったと思います。当日の神戸競馬場は、本当によく晴れていて、直線を疾駆するトウショウボーイの鹿毛の馬体がキラキラと輝いていました。


 産経賞オールカマーは、1955年(昭和30年)に創設されたレースで、当初はサラブレッドやアラブといった馬の品種を問わず出走できるレースという位置づけ「誰でも参加できる→オールカマー」でした。
 戦後10年を経たとはいえ、当時の日本競馬には「サラブレッド」が不足していて、サラ系馬やアングロアラブ馬、アラブ馬などが走っていました。(馬品種の件は稿を改めます)

 時代を経て、アラブ種系の競走馬が激減しましたので、当初の意味合いは事実上無くなりましたが、1978年には外国産馬の出走が認められたり、1986年に地方交流競走に指定されたり、1995年には外国調教馬に門戸が開かれたりして、「誰でも参加できる」精神は、脈々と受け継がれているレースだと思います。

 色々な品種の馬が、色々な地域から参加してきたレースですから、中央競馬以外の馬が活躍していそうです。確かにジュサブローやジョージモナークといった地方競馬所属馬の優勝も見られますが、これは例外的。実際には、中央競馬の有力馬が活躍するレースとなっています。

 何故かというと、3歳以上の広範囲な馬たちが参加できる秋の首都圏競馬の緒戦ですので、春競馬から宝塚記念までの大レースで活躍した一流馬が、夏休みを終えて、天皇賞(秋)やジャパンカップ、有馬記念といった大レースに向けて調子を上げていくためのステップレースの位置づけになりやすいからです。斤量もグレード別とはいえ「別定」ですし、賞金も相応に高い(昨年はGⅡで6000万円)ことから、一流馬の秋初戦には向いているのでしょう。

 ただし近時は、このレースの2週間後に毎日王冠と京都大賞典が東西で組まれていますので、GⅠ級馬の出走は減少していますが。

 一流馬の秋初戦レースですから、優勝馬も豪華絢爛です。特に、1994年~1997年の勝ち馬は圧巻。
・1994年 ビワハヤヒデ GⅠ優勝 菊花賞、天皇賞(春)、宝塚記念
・1995年 ヒシアマゾン  同   阪神2歳牝馬ステークス、エリザベス女王杯
・1996年 サクラローレル 同   天皇賞(春)、有馬記念
・1997年 メジロドーベル 同   阪神2歳牝馬ステークス、オークス、秋華賞
                    エリザベス女王杯2回

 いずれの馬も、成績も素晴らしいが、一世を風靡したタイプの馬です。こうした名馬たちが秋初戦に選んだレースではありますが、オールカマーと言えば、やはりマツリダゴッホを忘れることはできません。

 2007年~2009年の三連覇!輝く金字塔です。

 私がこの馬を認識したのは2007年の有馬記念。友人が「中山に強いから注意した方がいいよ」と言うので、初めてまじまじと眺めたことを覚えています。そう言われても「確かに春のAJC杯と秋のオールカマー、中山の重賞を2つ取っているけれど、春秋の天皇賞は11着と15着、GⅠでは歯が立たないんじゃないの。GⅠ馬が覇を競う有馬だよ。」と思いながら、レースを観ました。

 さあ直線、4角最内から先頭に立ったのはマツリダゴッホ、とても力強い加速であったのが印象的でした。後方からダイワスカーレット、ダイワメジャーが追ってくる。交わされるのかなと思ったら、坂で引き離して、ゴール前で少し詰められて、そのままゴール。
 エーっていう感じでした。メイショウサムスンもウォッカも、影さえ踏めない会心のレース。目の前には、吹雪のようなはずれ馬券が舞っていました。

 父はあのサンデーサイレンス、母はペイパーレイン。生涯27戦10勝。重賞6勝の全てが中山コースという極端な成績のマツリダゴッホ。
 同じ右回りの札幌競馬場の札幌記念に3年連続出走して7着、2着、9着という結果を見ると、右回りが上手というよりも「中山競馬場が得意」ということになります。

 現在は種牡馬になっているマツリダゴッホ。来年には産駒がデビューするかもしれません。牧場でこっそり、中山コースの何が気に入ったのか、聞き出せないものでしょうか。


 今場所活躍が期待される力士10名を、9月1日のブログで掲出しました。8日目中日を終えての成績を見てみたいと思います。

・白鵬   8勝
・日馬富士 8勝
・栃煌山  6勝2敗
・隠岐の海 7勝1敗
・高安   8勝
・豊ノ島  2勝6敗
・若荒雄  3勝5敗
・舛ノ山  4勝4敗
・旭天鵬  8勝
・安美錦  6勝2敗

 横綱白鵬、大関日馬富士が、取りこぼしなく連勝を続けているのはさすがです。高安、旭天鵬、栃煌山、隠岐の海も、力を出し切っている前半戦でした。舛ノ山も、幕内二場所目としては健闘しているでしょう。
 豊ノ島は、横綱・大関戦を前に5敗してしまいました。後半戦も厳しい戦いが続きそうです。若荒雄は、やはり相撲を憶えられた感じですが、本来の押し相撲を展開すれば、叩き・いなしも効いてくると思います。連勝できるタイプですので、巻き返しの可能性があります。
 10力士全体としては平均6勝2敗ですので、よく頑張っているというところでしょうか。

 中日まで観て好調に観える力士を、以下に挙げておきます。

・白鵬 先場所と同じ全勝ターンですが、内容は今場所の方が良いと思います。白鵬の体調はふくらはぎの様子で判ります。調子が悪い時は「ほっそり」しています。今場所は、「少しふっくら」して来ましてので、調子が戻ってきていると思います。

・稀勢の里 どっしりとして慌てません。押し出し、寄り切りの際にも、「相手を土俵外に出し、自らは土俵から出ない」という、強い力士の強い取り口が出来てきています。大関になって最も調子が良いと思います。

・妙義龍 想定以上に力を付けています。小兵に見えて144㎏もある体は、筋肉の塊です。もともと相撲が上手い力士ですので、10勝を目指せると思います。

・高安 鳴門部屋の力士(稀勢の里もそうです)は、腰を低く前に構え、前に出ている場所は好調です。先代の親方・隆の里が徹底的に上半身を鍛え、腕力による押しで戦う相撲を教えていましたから、弟子はどうしても立ち気味・腰高の取り口になりやすいのです。従って、腰高で腰を引き気味の場所は、押されて具合が悪い。今場所の高安は、腰が入っていますので、思う存分腕がつかえています。

・旭天鵬 優勝力士の呪縛から解き放たれて、力を十分に発揮しています。もともと、大関候補と言われていたぐらい体力は十分です。今場所は、両足の間隔のバランスが良く、押されても下がりません。優勝した場所は2勝3敗からの10連勝でしたから、今場所の方がスタートは良いことなります。年齢からくる衰えなど全く感じられません。

 以上、前半の好調力士を挙げました。後半戦に向けては、よもやの3大関休場の影響がどのように出るのか、難しく、面白いところです。場所前9月1日時点では、横綱・大関と当たるのは前頭3枚目までと想定しましたが、5枚目、ひょっとすると6枚目まで当たるかもしれません。(小結・前頭1~3枚目の星が上がらなかった場合など)
これは、必ずしも下位力士に不利というわけでもありません。横綱・大関の人数が減っているのですから、例えば関脇などは下位力士との取組が増えることになります。上位陣にとっても、元気の無い大関よりも、元気一杯の平幕力士の方が要注意ということもあります。

 久しぶりに、全勝ターン力士が5人もいる、面白い場所になりました。先場所よりスピードが不足しているように観える日馬富士も、綱取りに向けては先場所並みのスピードに上げていく必要があります。

 好調力士の直接対決が、何日目になるかも、賜杯の動向に大きな影響を与える場所になりました。
今場所の盛り上がり如何は、取組編成にかかっているように思います。
 残暑は厳しいのですが、秋のスポーツシーズンが開幕しました。各競技花盛りで、週末になると、筆者は嬉しいやら、忙しいやらですが、ビッグニュースが入ってきました。

 9月15日ぎふ清流国体の競泳少年男子A200m平泳ぎで、鹿児島志布志高校の山口観弘(やまぐちあきひろ)選手が、2分7秒01で優勝しました。これは、今年のロンドンオリンピックでハンガリーのダニエル・ジュンタ選手が樹立した記録を0.27秒更新する世界新記録でした。

 国民体育大会で世界新記録が出ること自体が極めて珍しいことで、1948年・昭和23年の古橋広之進選手が競泳300m自由形で記録して以来だといいます。64年振りの快挙です。
 素晴らしいというか、言葉が見つからないほどの壮挙といえるでしょう。

 太平洋戦争終戦後の復興時期に、古橋選手や橋爪選手が世界新記録を連発し、アメリカの競技会などで好成績を上げたことは知られていますが、東京オリンピック以降日本水泳界は長い低迷期を迎えました。

 オリンピックの金メダルというと、1972年のミュンヘンオリンピックの男子100m平泳ぎの田口信教選手、女子100mバタフライの青木まゆみ選手の登場を待たなければなりませんでした。

 この二人の金メダルを観たときに、少数の天才プレーヤーと少数のコーチによる快挙だと感じました。この頃の日本スポーツ界は、水泳に限らずどの競技でも「天才頼み」の状況だったと思います

 その後、鈴木大地選手や岩崎恭子選手のオリンピック金メダルを観たときには、強化体制が整備されてきているなと、感じたものです。日本水泳界の強化体制確立は、関係者の皆さんのご努力により、他の競技に先行して進められてきたように思います。今年のロンドンオリンピックの水泳競技では、参加27名で9個のメダル獲得という、素晴らしい成績を挙げました。
 日本水泳界の様々な分野の関係者の皆さんのご尽力が実ってきているのだと思います。

 さて、そうした中で、今回の山口選手の快挙です。
国体における64年振りの世界新ということは、この64年間に登場した全ての日本人スイマーを、この点では超えたことになります。また、この全てのスイマーの実績に並び得る素質を証明したことになります。なんと楽しみなことでしょう。

 今年4月のオリンピック代表選考会で山口は3位となり、代表の座をを逃しましたが、オリンピック終了後に、日本水泳界のエース北島浩介選手の記録に迫る記録を連発しました。志布志高校在学中の18歳で世に出たわけですが、決して早い登場ではありません。岩崎選手は、14歳でオリンピックの金メダルを獲得しているのですから。

 山口が通う鹿児島県志布志市のスイミングクラブには、専用プールが無く、公営の25mプールで練習を積み重ねたといいます。ここで相当な力をつけて、北島のコーチでもある平井コーチを始めとするコーチ陣の指導を受けることで才能を開花させた形です。北島は特にキック力に優れるスイマーですが、山口は腕力に優れるスイマーだそうです。

 前述の田口信教氏の9月16日の読売新聞のコメントは興味深いものです。「山口は175㎝・67㎏と体重が軽いのもよい」と。田口氏にとっては当然のことを述べているのだと思いますが、大男で筋肉十分のプレーヤーの方が良いと考えてしまいがちな私にとっては「なるほどのコメント」でした。

 それにしても、全国に充実したスイミングクラブ・スイミングスクールが整備されている時代に、25mプールで鍛えた選手が世界新記録を樹立するのは、少し不思議な感じがします。そういえば、2大会連続のオリンピックメダリストである松田丈志選手も、屋根がビニールハウスのプールで練習し強くなったのでした。

 整備された強化体制の中で、日本水泳の実力は確実に底上げされています。高いパフォーマンスを持ったスイマーを継続して排出できる体制が整備されてきているのだと思います。
一方で、山口や松田のような形で力をつけていく選手もいる点が、日本水泳の地力の向上・裾野の拡大を示しているのだろうと思います。

 これからも、日本人スイマーの活躍から、目が離せません。


 ヤンキースに移籍してから、イチロー選手には笑顔が多いと思います。

 現地9月15日タンパベイ・レイズTBとニューヨーク・ヤンキースNYYの対戦。5回裏NYYの攻撃は2死ランナー無。打席には1番イチロー、綺麗にレフト前に流し打ってヒット。次打者ジータの時にイチロー盗塁、2死ランナー2塁。ジータはここでセンター前ヒット。決して良い当たりではありませんでしたが二遊間を抜けます。イチローは快足を飛ばしてホームイン。この得点はNYYの4点目でした。このゲームは5-3でNYYが勝ちましたので、勝利に直結する得点でした。

 今年7月23日、イチローはシアトル・マリナーズSEAからNYYに移籍しました。衝撃的な移籍でした。

 SEA時代のイチローは「孤高の人」という感じでした。1年目こそ、年間116勝というMLB新記録をひっさげプレーオフに進出しましたが、NYYに完敗。その後のSEAは、地区優勝どころか、地区最下位周辺が定位置となり、イチローは個人成績に注力するような年が続きました。

 いつも厳しい表情でプレーするイチローは、チームメイトとのコミュニケーションも不十分だったのかもしれません。2004年10月1日、イチローはMLB年間最多安打記録を更新する258本目の安打を打ち、一塁ベース上で帽子を取って挨拶しました。固くクールな表情で球場をぐるりと見回したのです。
 しばらく間があって、ベンチからチームメイトが出てきました。そして一塁ベース上のイチローを取り囲み、祝福したのです。イチローは、ようやく笑顔になりました。

 試合後のインタビューでイチローは「チームのみんなが祝福してくれるとは思わなかった」と答えました。おかしなことを言うものだと思いましたが、チームの他のプレーヤーや監督とのコミュニケーションが不足していたとすれば納得できます。

 その後、ケン・グリフィー・ジュニアがSEAに戻ってきたときには、グリフィーとじゃれあうイチローがよく報道されました。イチローはとても楽しそうでした。大打者としてのグリフィーは「イチローの気持ちがわかる」と時々発言していましたので、後ろからイチローに近づき、くすぐるといった行動は、グリフィーがワザとやっていたことなのでしょう。もちろん、嫌いな人にそんなことをする筈はありません。

 そのグリフィーが退団してからは、イチローの笑顔は滅多に見られなくなりました。ヒットを打っても、好守備をしても、「プレーヤーとして当たり前のことをしているだけ」といった受け答え、雰囲気が多かったと思います。
 チームリーダーとしての責任感からでしょうか、それとも若いプレーヤーが増えたチームの中で「浮いた存在」なっていたのか、いずれにしても「不機嫌なイチロー」が続きました。
 そして、昨2011年シーズンに、イチローが最も拘ってきた記録である年間200本安打が途切れたのです。

 7月23日の移籍は、電撃的であり衝撃的でした。イチローがこの移籍を受け入れた、あるいは希望した理由については、既報の色々な見解にお任せするとして、NYYに移籍したイチローは、主に8・9番を打ち、主にレフトを守り、時々はスタメン落ちするなど、「グレイトなイチロー」(この移籍を米国マスコミが報じる際に、よく使われた表現です)にとっては屈辱的とも言える扱いを受けていますが、そのNYYでのプレーにおいて、イチローは笑顔が一杯なのです。

 好守備をして拍手を受けながらベンチに戻ってくる際の大きなジェスチャーなど、SEA時代とは正反対の行動です。野球少年のように楽しくプレーをしているイチローも良いものだと思います。
 ジータやグランダーソンにいじられまくっていますが、楽しそうにいじられているイチローがそこに居ます。ベンチの中でも、とても表情豊かです。

 今日のイチローのレフト前ヒットは、バットが水平に近い形で出ていて、好調に向かっていることを感じさせます。イチロー選手が好調な時は「バットが地面と水平に出て」きます。「投球の高低・コースにかかわらずバットが水平に出ているときが、好調」なのです。
 まだ完全に水平とは言えませんが、移籍直後に比べるとバットヘッドがだんだん上がってきました。好調に向かっている証です。

 NYYは、アメリカンリーグ東地区で熾烈な首位争いを演じています。正直に言って、故障者が相次ぎ、現在のピッチングスタッフでプレーオフに進出し、勝ち抜いていくのは至難の業だと思います。ジラルディ監督も頭を悩ませていることでしょう。
 とはいえ、勝ち方を知っている選手が多いので、なんとか地区首位でのプレーオフ進出を成し遂げてほしいものです。(ワイルドカードの進出では、休息期間が全くなく、これだけ厳しいレギュラーシーズンを続けた後では、プレーオフで勝っていくのは極めて困難になってしまいます)

 好調に向かっているイチローにも残り10数試合のレギュラーシーズンのゲームで活躍し、沢山の笑顔をみせてくれることを期待しますし、加えてイチローが夢見た?プレーオフのゲームでも沢山を笑顔を観たいものです。
 これは、MLB12年分の笑顔なのです。

 
 9月17日中山競馬場、芝外回り2200mで行われる、第66回セントライト記念競走の予想です。

 このレースはもともと、春競馬3歳路線で活躍してきた馬の秋初戦かつ菊花賞や天皇賞(秋)などの大レースを目指す上でのステップレース、という側面と、夏競馬で活躍した所謂上がり馬が力を試すレース、の二つの性格を備えています。
 今年も出馬表を見ると、その傾向です。ただし近年は、春の活躍馬の菊花賞へのトライアルレースという意味では、その距離2400mと開催地域が関西であることもあってか、神戸新聞杯の方に有力馬が多数出走する傾向があります。

 出馬表を見ると、ディープインパクト産駒が全17頭中6頭もいます。三冠馬ディープインパクトは、種牡馬としても初年度から活躍馬を輩出していますが、今年もその傾向は続いています。産駒が多いこともありますが、それにしても各重賞に複数の馬を送り込む点は驚くべきことで、フジキセキやアグネスタキオン、ステイゴールドといった、サンデーサイレンスの後継種牡馬として活躍している馬たちと比べても、圧倒的な出走馬数です。
 
 ディープの産駒は、初年度は中距離馬が多い傾向がありましたが、今年は日本ダービーにディープブリランテが勝つなど、既に距離を克服する勢いです。一方で、言葉は悪いのですが「一発屋さん」的な馬も多く、G1レースを勝ったからと言って、次のレースの結果が必ずしも良くない、それどころか大敗するといった産駒も目立ちます。逆に言えば、前走までの競走成績がいまひとつでも、大駆けの可能性があるということです。

 さて、出馬表を見てみましょう。

 春の活躍馬の代表は、日本ダービー2着の6枠12番フェノーメノ。G2青葉賞にも勝っていますから、格は圧倒的に高い馬です。普通に走れば、この馬が勝つ可能性が高いと思いますし、当然ながら一番人気になるでしょう。三冠馬オルフェーブルと同じ、ステイゴールドの産駒です。
 続いては、3枠6番のエキストランド。5月のG2京都新聞杯3着、3月のG2報知杯弥生賞5着と、春の3歳路線常連馬でした。ディープの仔でもあり、この馬も人気になるでしょう。
 1枠1番ベストディールも挙げられます。1月の京成杯1着以来の競馬です。

 上がり馬の方はどうでしょうか。
 まずは、3枠5番ニューダイナスティ。7月末の佐渡特別2200mをレコード勝ちしました。4角先頭から、直線突き放したレース振りにも強さを感じます。ディープ産駒です。
 続いては、2枠3番カナロワ。8月11日の瓢湖特別1着。ゴール前100mで競合いを制した脚色は出色でしたし、上がり3ハロン33秒9も魅力的です。これもディープ産駒です。ディープ産駒が本当に多いし、良く走るという印象です。
 さらに7枠14番ラニカイツヨシ。7月の中京の有松特別優勝馬。日本ダービー馬タヤスツヨシの産駒です。

 5枠9番アートサハラや8枠16番コスモワイルドといった地方競馬の馬達も実績は十分ですから注目が必要ですが、高速競馬となりそうなレースですので、やや苦しいかなと思います。 

 以上から、セントライト記念の注目馬を挙げると
・6枠12番フェノーメノ。固い軸になってもらわないと困るという感じです。
・3枠5番ニューダイナスティ。ゴール前の粘りに期待します。
・2枠3番カナロワ。ディープインパクトと同じ勝負服が輝くかもしれません。
・3枠6番エキストランド。夏の成長に期待です。

 以上の4頭とします。
 ステイゴールド対ディープインパクトという、サンデーサイレンスの孫対決の様相ですが、これが現在の日本競馬でしょうか。

 本日のシアトル・マリナーズ対テキサス・レンジャーズ戦は、岩隈投手とダルビッシュ投手の両日本人投手が先発しました。さらに、シアトルは川崎選手が遊撃手として久しぶりに先発。加えて、上原投手がダルビッシュをりりーフし、8回テキサスのマウンドに上がりました。
 日本人プレーヤーがひとつのゲームで4人出場したのです。とても楽しいゲームでした。

 ダルビッシュは、7回110球を投げてストライクが79球とコントロールが良く、2被安打1失点、9奪三振で勝利投手となり、これで通算15勝9敗。

 岩隈は、5回1/3、88球を投げ、7被安打2失点。2失点は、キンズラーとハミルトンに打たれたホームランによるものですから、調子が良くなかったなりには粘り強く投球していたのですが、味方の援護が得られず5敗目。通算6勝5敗となりました。

 川崎は、2打席ノーヒットとダルビッシュに抑え込まれ、途中交代しました。ショートの守備は堅実でした。

 上原は、8回1イニングを3人で抑え、2奪三振。力強い投球で、好調をアピールしました。

 イチローや松井秀樹が、MLBにおいて全盛だった頃には、この二人は、ほぼ毎試合フルイニングに近い出場を続けましたので、「今日の松井」「今日のイチロー」という感覚でした。

 現在は、MLBロースターの日本人選手の人数自体が減少し(ピークの2006~2008年頃は18人位いたと記憶していますが、今年の開幕時は15人、現在は12人ではないでしょうか)、加えて、野手が減少していますので「毎日」というわけにはいきません。もちろん、青木選手の大活躍のおかげでミルウォーキー・ブルワーズのゲームを観る機会が増えたことは大変嬉しいことですが、日本人メジャープレーヤーが減少している印象を受けることは、やはり残念なことです。

 4人の見慣れた選手が、それぞれに活躍した今日のゲーム。また、こうしたゲームを観たいものです。

 試合終了後の勝利者インタビューでマニングは、「今日は、間違いなく特別な一日だった」と笑顔で答えました。

 NFL2012・2013シーズンの開幕週、現地9月10日のゲーム。ピッツバーグ・スティーラーズ対デンバー・ブロンコスの一戦。コロラド州デンバーのマイルハイ・スタジアム。
 このゲームは、両チームにとってシーズン開幕戦ですが、今季は別の意味が大きいゲームでした。インディアナポリス・コルツ不動のエースクオーターバックQBだったペイトン・マニングが、首の故障から復帰し、チームをデンバーに替えてNFLの舞台に立つ初戦なのです。

 シーズン初戦は各チーム毎に様々な注目点・話題があるのですが、このゲームについては、ペイトン・マニングのプレーに、全ての注目が集まってしまいました。ペイトン・マニングというプレーヤーのNFLにおける実績を考えれば、止むを得ないことです。

 ゲームが始まり、注目のデンバーの攻撃。最初のプレーはラン。続いてパス。続いて、ラン→パス、ここで初めてパスを続けました。場内も固唾を飲んで見守っているのか、静かです。ピッツバーグのDF陣も、特別なプレーはせず、マニングの様子を観ている感じ。

 次のランプレーで初めてピッツバーグPITのストロング・セイフティSSトロイ・ポラマルが仕掛けました。ポラマルは、伝統的に堅守を誇るPITの現在の中心的プレーヤーです。デンバーDENはあまりゲイン出来ず、次のパスプレーの後のサードダウンのプレーでペイトンがサックを受けて、最初のDENの攻撃が終了しました。

 注目された「610日ぶりのペイトン・マニングのプレー」は、攻撃陣との連携やタイミングも良く合い、パスプレーも自然なもので、インディアナポリス時代とあまり変わらないものでした。いかにマニングとはいえ、相当に緊張したとおもいますが、力みや慌てた様子も無かった点は、さすがという感じでした。

 続く、PITの攻撃をDENディフェンス陣は、3回のプレーとパントで終わらせました。DENは、チーム全体に溌剌とした雰囲気が漂っています。プレシーズンの練習・試合を通じて、マニングがチームメイトの信頼を勝ち得ていること、加えてチームメイトの大きな期待を背負っていること、を感じさせる立ち上がりの攻防でした。
 マニング自身の動きも、シーズン当初としては悪くないもので、パススローには首の故障の影響は感じられませんでしたし、DENの現副社長で伝説的なQBであったジョン・エルウェーばりのQBランの姿も(マニングは滅多に走らないQBです)力強く、滑らかです。十分なトレーニングを積んできたのでしょう。

 PITにフィールドゴールで先制されたDENの第2クオーターの攻撃は見事でした。12プレー80ヤードのタッチダウン・ドライブ。マニングのコール、プレー振りも、派手さはないが、随所にマニングらしいハイレベルな技術を見せました。これは、新チームにおける今後のプレーに対する、大きな自信となるドライブであったと思います。「やっぱりマニングだ」「マニングは大丈夫だ」「やってくれそうだ」と観衆やファンは感じたと思います。

 第3クオーターに、マニングはD.トーマスへのタッチダウンパスを決めました。このプレー自体はタッチダウンTDを狙ったものではなかったのですが、トーマスと攻撃陣が、パスを受けた後、大きく前進し、そのままTDに結び付けました。これで、マニングはNFLで400回目のTDパス成功となりました。現役では1位、歴代でもブレット・ファーブ、ダン・マリーノに続いて3人目の記録です。
 マニングの記録を並べていくだけで何ページにもなりますが、この試合で大事なことは、それらの大記録を更に伸ばしていける状態に、マニングがあるのかどうかという点です。

 第4クオーターにも、401回目のTDパスをJ.タメに決め、続く2ポイントコンバージョンもパスで成功させました。この様子を観ると、マニングは既にDEN攻撃陣を把握しているし、一方DENのオフェンスメンバーのマニングに対する信頼度も、とても高いものだと感じさせました。

 元気いっぱいのDENディフェンス陣も、インターセプトリターンTDを実現し、試合は31対19でデンバーが勝ちました。

 このゲームは、たとえ負けたとしても、マニングの回復度合いやチームとの融合度合が確認出来れば十分でしたが、勝利を得たことは、素晴らしい+αでした。
 ビッグベンことQBベン・ロスリスバーガーを擁し、伝統の強力ディフェンス陣も健在のピッツバーグ・スティーラーズは、久々で新チームに移籍した初戦のペイトン・マニングにとっては容易ならざる相手でした。これを撃破したことは、NFLの他のチームには衝撃であり、このゲームの分析への注力を強いることになりました。

 試合全体を通じて、ペイトン・マニングのプレーは、コルツ時代の全盛時に比べると、ややスピードが足りず、ロングパスも見られませんでしたが、安定感十分でした。
 コルツ時代の後半に見られた「もの凄い集中力から生まれる異様な切れ味」は、今日のゲームでは感じられませんでしたが、その「マニングの異様な切れ味」時代のコルツはチーム成績自体は今一つでした。何か「ペイトン・マニングの世界に没頭」するようなプレー振りであったように思います。今日のプレーは、チームプレーの輪郭が強く感じられましたので、こちらの方がDENにとっては良いのかもしれません。

 いずれにしても、ペイトン・マニングがデンバー・ブロンコスに十分に溶け込み、とても良いプレーを展開できることは確認できました。後は、マニング自身の回復だけでしょう。今後の2~3ゲームでマニング全快を確認したいものです。

 試合後のインタビューが続きます。「400TDパスについてはどう思うか」との問。「私のパスを長年にわたり受けてくれたプレーヤーのお蔭です。」と。インタビューの間、マニングは終始笑顔でした。


 去る9月11日、ザックジャパンはイラクと対戦し勝利しましたが、世界中でFIFAワールドカップ・ブラジル大会の予選ゲームが一斉に行われました。

 その中で、欧州のスタープレーヤー二人が故障したとのニュースが入りました。
ひとりは、プレミアリーグ・マンチェスター・ユナイテッド所属のオランダ代表選手、ロビン・ファン・ペルシ。ハンガリー戦に先発するも、前半終了時点で太ももの故障により交替しました。回復までの期間は報道されていません。

 もう一人は、リーガ・エスパニョーラ・FCバルセロナ所属のスペイン代表選手、アンドレス・イニエスタ。今年のバロンドール(欧州最優秀選手賞受賞者)です。代表に合流し、練習中に右足を痛めたと。回復には、10~15日かかると発表されました。

 二人とも現在、世界を代表するプレーヤーです。回復が待たれるところですが、我らが日本代表チームの香川選手も、腰の違和感でイラク戦を回避しました。こうしたトッププレーヤーの同時故障発生は、たまたまなのでしょうか。

 世界のビッグクラブの試合スケジュールは、極めて過密です。例えば、香川とファン・ペルシが所属するマンチェスター・ユナイテッド(マンU)なら、

① イギリス・プレミアリーグの試合が、毎シーズン8月から5月の約9か月で38試合。大体1週間に1試合のペースで、これがベースの試合スケジュールになります。

② UEFAチャンピオンズリーグ。UEFA(欧州サッカー連盟)主催。各国リーグの成績優秀チーム(現在は48チーム)が競う大会。例年9月から5月にかけて開催され、決勝まで勝ち上がれば8試合前後を戦うことになります。

③ UEFAヨーロッパリーグ。②と同様にUEFA主催の大会。②に出場するような、各国リーグの成績上位チームなら、②の予選リーグで敗退すると、こちらに回ることになります。つまり②で途中敗退しても、この大会が待っているということです。

④ FAカップ。1871年に始まった世界最古のカップ戦。FA(フットボールアソシェーション)に所属するプロ・アマを問わず全てのチームが参加しますので、プレミアリーグ所属チームも全て参加します。日本の天皇杯のモデルになった大会で、世界で最も格が高いカップ戦ともいわれています。ちなみにマンチェスター・ユナイテッドは、この大会11回の最多優勝を誇ります。

⑤ キャピタルワンカップ。フットボールリーグカップとも言われますが、イギリスのプレミアリーグとフットボールリーグの全92チームが参加するカップ戦です。

 筆者が認識しているだけでも、マンチェスター・ユナイテッドに所属するスタープレーヤーは、これだけの試合に出場することを期待されます。カップ戦で勝ち上がれば、毎週2試合くらいのスケジュールになります。

 加えて、ナショナルチームの代表としての試合があります。今年は、⑥UEFA欧州選手権(ユーロ2012)の年でしたので、イニエスタやファン・ペルシのような国代表のプレーヤーにとっては「全力投入」のゲームが6月にプラスされました。優勝したスペインチームのイニエスタは全6試合に臨みました。本来6月は、リーグ戦が終了し貴重な休みの時期なのですが、今年は欧州選手権が開催されたのです。

 さらに加えて、頭書の⑦FIFAワールドカップ予選が行われています。
 もうひとつ、⑧ビッグクラブは世界中で親善試合を行います。

 これは、マンUが所属するイギリスのプレミアリーグを例としましたが、リーガ・エスパニョーラ(スペイン)もブンデスリーガ(ドイツ)もセリエA(イタリア)も、リーグ戦とカップ戦を交えたスケジュールで戦っていますので、あまり変わらない状況だと思います。

 こうした①から⑧のようなゲームに対応しなければならないトッププレーヤーのスケジュールの過密さには驚かざるを得ません。カップ戦などには、当然国際試合もありますので、各国間を移動する負担も考えると、トッププレーヤーの体力には感心します。

 さらに加えて、こうしたスター選手は、様々なイベント参加やマスコミ対応も要請されます。前述のバロンドールの授賞式、その前後のパーティ、テレビの取材などなど、大変な負担でしょう。昨年、なでしこジャパンの澤選手がめまいを症状とする病気に掛り、しばらく静養しましたが、女子ワールドカップ優勝からバロンドール受賞への喧騒が、影響しなかったとはいえないと思います。

 もちろん、ファン・ペルシやイニエスタ程のプレーヤーになれば、こうしたスケジュールにも慣れているといえるでしょう。また、上記の試合全部に出場しているわけでもありません。

 しかし、ファン・ペルシならユーロ2012のゲームとアーセナルからマンUへの移籍が今年の負担増部分だったでしょうし、イニエスタについてもユーロ2012へのフル対応とバロンドール受賞が負担増部分でした。この負担増が、さしもの二人にも圧し掛かり、今回の故障につながったとはいえないでしょうか。

 特に、肉体的な疲労はもちろんですが、注意すべきは精神的な疲労・心の疲れです。マスコミや支援者・後援会等への対応を考えると、おそらく一日の休みも無いスケジュールの中で動いているトッププレーヤー達。疲労から来る注意力不足もあって、普段なら簡単にかわせるタックルやチャージに引っかかってしまったり、練習中にバランスを崩して、ケガにつながることもあるように思います。

 「スタープレーヤーの宿命」と言ってしまえばそれまでですが、彼らに最も期待されているのは、ゲームにおける素晴らしいパフォーマンスの発揮です。そのパフォーマンスが秀でているから、彼らはスタープレーヤーなのですから。

 そこで提案です。「一年間に30日間の完全オフ期間を設けることを義務付ける」ルールを創れないものでしょうか。このオフ期間には、マスコミや支援者などのアプローチも禁止とするのです。特に精神的な疲労の回復には、こうした措置が必須だと思います。
 もちろん簡単なことでないことは十分に認識していますが、トッププレーヤーは当該競技の「宝物」であり、「神の子」でもあると思います。「代替が効かない存在」を、いくらでも代替が効く人達が壊すなどということは、あってはならないことなのです。

 ブラジルの「サッカーの王様」ペレは、引退後、安定した活動を続けているように見えます。ロンドンオリンピック閉会式にも、次回開催地リオデジャネイロの代表として登場しました。ワールドカップ優勝3回を誇る、世界サッカー史上最高のプレーヤーが、元気な姿を見せてくれることは、サッカーファンのみならずスポーツファン全員にとって、大変嬉しいことです。
 現在のサッカーのトッププレーヤー達にも、いつまでも元気で世界各地のスポーツファンの心の拠り所であり続けてもらいたいと願ってやみません。

 1891年夏、アメリカ・マサチューセッツ州・スプリングフィールドの国際YMCAトレーニングスクールにおいて、体育指導者の講習会が開催されました。当時アメリカでは、屋外スポーツが出来ない冬季の体育プログラムが、体操に偏るため、学生が積極的に参加しようとするプログラムの模索が続けられていましたが、この時もそれがテーマとなりました。

 同年秋、同トレーニングスクールは、既存のスポーツを利用するのではなく、新しいスポーツを創るしかないとの結論に達しました。同トレーニングスクールの体育教官であった、カナダ人のジェームズ・ネイスミスは、アメリカンフットボールやサッカー、ラクロスを屋内競技として取り入れようと試行錯誤しましたがうまく行かず、これらのスポーツの要素を組み合わせて、新しいスポーツを創ろうとしました。

 その時に必要事項としたのは、以下の諸点でした。
① ボールを使うこと
② ボールを持ったまま走ってはいけないこと(タックルの発生によるケガの危険を少なくするための措置)
③ ゴールをプレーヤーの頭上に水平に設置すること(プレーヤー同士の身体接触を抑えるための措置。ネイスミスが少年時代を過ごしたカナダ・オンタリオ州の遊戯をヒントにしたそうです)

 ネイスミスは最初に13のルールを考案し、この新スポーツのルールとしました。現在はルールの数は増えていますが、ゲーム形式は当初のものとほとんど同じだそうです。

 1891年12月21日、国際YMCAトレーニングスクールで初めての試合が行われました。ボールは、サッカーボールが使われました。ネイスミスは当初、45cm四方の箱をゴールにしようと考えていましたが用意出来なかったので、代わりに桃を入れる籠(かご)を体育館のバルコニーに取り付けることとしました。
 この時のゴールの高さ10フィート(3.05m)と籠(後のリング)の内径45cmは、以後変更されることなく、今日に至っています。また、コートの広さは約11m×15mだったそうです。

 この試合は、トスアップから1時間ほどたったところで、初のショットが決まり、点が入ってゲームセットとなりました。1点というか1ショットが入るとゲームセットというのは、原始フットボール(村同士が祭りの際などに行ったゲーム)でも同じですから、「試合時間が決まっている」方が、後発のやり方なのかもしれません。

 このスポーツの名称については、試合開始前にネイスミスと学生フランク・マーンとの間で話題になり、桃の籠を用いたことから「バスケットボール」とされました。こうした事実を踏まえると、バスケットボールのはじまりは、1891年ということになります。

 同トレーニングスクールの広報誌1892年1月15日号に紹介され、正式に「バスケットボール」と開示されました。尚、この時の英語表記は「Basket ball」でしたが、1921年に公式に「Basketball」となったそうです。

 ネイスミスはプレイヤーの数については、両チームが同じ人数であれば何人でもよいと考えていたようで、13のルールにもチームの人数を規定していません。これは、元々のこのスポーツ開発の目的が「冬季の学生の運動不足解消のため」であったことから、コートの大きさや学生数によって弾力的に運営できるようにと考えたものと思われますが、人気が出て、皆がプレーを望むようになるとそうもいきません。
 コーネル大学では50人対50人で試合が行われ、「体育館が破壊されかねない」と言われたとの逸話も残っています。

 そして1チームのプレーヤーの人数は1894年に、コートの大きさによって5人、7人、9人と規定され、1897年にはコートの大きさが決められ、プレーヤー数も5人とされました。この辺の動きは、思ったより速いと思います。

 ゴールについては、当初は当然、シュートが決まる都度、梯子や棒を用いてボールを取り出していましたが、桃の籠は壊れやすく、シュートイン・取り出しの繰り返しですぐに壊れてしまうため、早い段階で金属製の円筒型に代わりました。

 金属製のリングになり、ネットで底が抜けている形になったのは、1912年から1913年頃と言われています。これは、思ったより時間がかかっています。おそらく、内径45cmのゴールにシュートを入れるのは、それほど簡単なことではなく、初期の試合では、現在のようには沢山のゴールが生まれなかったことと、ゴールが決まる都度ボールを取り出すこと自体が、初期バスケットボールのひとつのルーティンとして定着したことが、原因ではないかと思います。

 バスケットボールは、一人の人間によって発明されています。過去のスポーツや遊戯との連続性が皆無とはいいませんが、相当に不連続です。にもかかわらず、あっという間に大人気となり、全米中、世界中に広まりました。一説には、現在世界で最も競技人口が多いスポーツとも言われています。
 気候、屋内・屋外、スペース等の制限を受けにくいスポーツとして、引き続き支持されていくことでしょう。

 1891年の下半期に、ジェームズ・ネイスミスの頭の中で何が起こっていたのでしょう。パッと閃いたのでしょうか。ひょっとすると、今度はあなたが、世界で人気絶頂のスポーツを発明する可能性もあるのかもしれません。



 9月11日埼玉スタジアムにて、FIFAブラジルワールドカップ・アジア最終予選B組、日本対イラクの試合が行われました。日本代表チームは1-0で勝利し、勝ち点3を獲得、B組のトップを守りました。
 WC最終予選で、ホームゲームですから、負けられないゲームでしたので、勝てて良かったというところでしょうか。

 試合内容は不満の残るものであったことは、ご覧になっていた皆さんが感じられたことだと思います。

 先発メンバーが発表されて、香川選手が入っていないことが意外なこととして話題になりました。腰痛との発表です。この間のUAEとの親善試合におけるキレの無い動き、その前のプレミアリーグでのゲームにおける途中交代、を観ていると「香川は、どこか悪いな」と思っていました。可能性としては、

① 疲労→ドルトムントからマンUへの移籍騒動、その後のポジション争い、等々のストレスで相当な疲労の蓄積。
② 筋肉・メカニカル系の故障→脚や腰に故障が発生。
③ 内臓系の障害→ウイルス性、あるいは疲労による、肝臓・腎臓などの障害。

の三点が考えられましたが、発表は「腰痛」でしたから②ということで、一安心です。①、②は休養により改善しますので、あまり心配することは無いのですが、③は厄介です。特にウイルス性内臓障害は、選手生命に大きな打撃を与えます。これまでにも、古橋広之進(水泳)や釜本邦茂(サッカー)といった、日本を代表するトップアスリートが海外遠征時などにこの病気にかかり、大変なマイナス影響を受け、罹病以前に比べてパフォーマンスを大きく落としました。
 UAE戦の香川は、自らピッチに躓いたり、ヒールパスが自分の脚に当たったり、とても考えられないようなミスを犯していましたし、ドリブル突破力や体の反転スピード・キレも、いつもの香川とは比較にならない、一言で言うと「弱々しいプレー」を連発していましたので、③ではないかと心配していました。

 さて、イラク戦が始まりました。→(続きへ)

 9月17日、中山競馬場でセントライト記念が行われます。この伝統あるレース名となっている「セントライト号」。我が国最初の三冠馬として競馬ファンには知られていますが、どんな馬だったのでしょう。第二次世界大戦と重なる時期の馬ですので、もちろん私もリアルタイムには知りませんが、近代日本競馬の黎明期を知るには良いテーマだと思います。

1. 日本におけるクラシック競走の確立
近代競馬発祥の地イギリスの3歳馬(当時は数え年馬齢で4歳馬)限定の5つのレースである「クラシック競走」を我が国でも導入・確立しようとする取組がなされ、1939年に後の皐月賞にあたるレースが創設されて、我が国のクラシック競走が整いました。一方で、この1939年は第二次世界大戦が始まった年でもありました。  

英国のクラシック  出走馬   1939年の日本    現在の日本
・1000ギニー    3歳牝馬  中山4歳牝馬特別    桜花賞
・2000ギニー    3歳馬  横浜農林省賞典4歳呼馬  皐月賞
・オークス      3歳牝馬 阪神優駿牝馬      優駿牝馬(オークス)
・ダービー      3歳馬  東京優駿        東京優駿(日本ダービー)
・セントレジャー   3歳馬  京都農林省賞典4歳呼馬  菊花賞
 
2. セントライトの誕生、戦歴
① 1938年岩手県の小岩井農場生まれ。我が国近代競馬の初期には、千葉県にあった官営の下総御料牧場と民間の小岩井農場が、その産駒を競いましたが、セントライトは小岩井農場の産。父の英国2000ギニー馬ダイオライトは、1935年に下総御料牧場が輸入した種牡馬、母は小岩井農場が英国から輸入したフリッパンシー。良血馬です。ただし、セントライト自身は、もっさりとした感じで必ずしも評価は高くなかったようです。

② 1941年3月15日横浜競馬場の新馬戦デビュー。12頭立て七番人気と人気は高くありませんでしたが2着に5馬身差をつけて初勝利。2週間後の30日にクラシック初戦の「横浜農林省賞典4歳呼馬競走(皐月賞)」に出走。同期の最高価格馬ミナミモアを抑えて一番人気。レースでは、ミナミモアに3馬身差をつけ勝利。
 その後、4戦して3勝2着1回の成績で5月16日の「東京優駿競走(日本ダービー)」へ。ミナミモアに一番人気を譲って二番人気。前夜までの降雨により重馬場で行われたレースは、8馬身差で圧勝。この8馬身差は、1955年優勝のオートキツと並び、東京優駿(日本ダービー)の最大着差です。

 ダービーの後は休養して、9月27日からレースに復帰。復帰戦は、66㎏の斤量を負わされて3着と敗れるも、続く2戦を連勝して京都に西下。前哨戦は、68㎏の斤量で2着でしたが、このひとたたきで調子は上向き、10月26日の「京都農林省賞典4歳呼馬競走(菊花賞)」には絶好調で臨みました。一番人気に応えて、ミナミモアに2馬身半差をつけて優勝。1939年にクラシック競走が整備されて以来、初の三冠を達成しました。

③ その後、当時ダービーと並ぶ大レースであった帝室御賞典(現在の天皇賞の前身)を目指しましたが、前哨戦のハンデが72㎏となることがわかり、馬主の加藤氏は「4歳馬に72㎏を背負わせるぐらいなら」とセントライトを引退させました。
 名馬の影に、名馬主ありという感じ。馬主としての栄誉や賞金欲しさに、名馬の晩年を汚す馬主も少なからず居る中で、この加藤氏の姿勢・判断は、本当に素晴らしいと思います。

④ セントライトの全競走成績は、12戦9勝・2着2回3着1回という立派なものです。敗れたレースでのハンディキャップ66㎏や68㎏は、現在では考えられませんが、当時は珍しいものではありませんでした。とはいえ、やはり3歳の若馬には重い負担だったことでしょう。66㎏を背負い、唯一3着に敗れたレースでは、勝った馬より11㎏も重かったそうです。

⑤ 2012年8月末時点で三冠達成牡馬*は7頭いますが、
・デビューから引退まで同一年
・菊花賞以降レースに出ずに引退した   のはセントライトだけです。
(こうした表現になる理由は、牝馬にして日本ダービー・オークス・菊花賞の変則三冠を制したクリフジ号がいるためです)

3. 種牡馬として
 競走馬引退後は、小岩井農場に帰り種牡馬となりました。太平洋戦争後の1947年にはオーエンスが平和賞(帝室御賞典の後継レースにして天皇賞の前身レース。レース名にも時代が色濃く反映されています)に優勝。1951年にオーライトが秋の天皇賞、1952年にはセントオーが菊花賞(親子制覇です)を制するなど、産駒も活躍しましたが、その後は残念ながら肌馬(繁殖牝馬)に恵まれず、晩年は活躍馬が出ませんでした。

4.戦時のサラブレッド
 セントライトは、日中戦争から太平洋戦争にかけての時代に、日本競馬を支えた「戦時のサラブレッド」でした。こうした時代に、日本のクラシック競走を確立し、英国から種牡馬を輸入するなど、競馬関係者の皆様のご努力には、本当に頭が下がります。こうした皆さんのご努力に対して、天から下された馬がセントライトであったような気がします。

 セントライト号は、1965年2月1日に老衰のため死亡、27歳の大往生でした。丁度、シンザン号が、1964年に史上2頭目の三冠馬になった数か月後です。「シンザンよ、後は任せたぞ」といったところでしょうか。
 我が国最初のクラシックレース三冠馬であるセントライト号を記念して始められたセントライト記念は、1947年・昭和22年、終戦2年後の10月のレースを第一回とする、歴史と伝統を誇るレースです。
 現在は中山競馬場の芝2200mコースで行われ、秋の首都圏競馬の開幕を告げるレースでもあります。

 もともと3歳馬限定のレースでしたから、秋の3歳馬のビッグイベント「菊花賞」へのステップレースという色合いが濃いレースでした。実は、正式に菊花賞のトライアルレースに指定されたのは1995年で、このレースの長い歴史から見れば最近のことに思えます。

 セントライト記念が歴史上、菊花賞のトライアルレースであったかどうかは、あまり大きな問題ではないと思います。スケジュール面と3歳限定である点から、春の3歳路線で活躍した馬が、暑い夏を過ごして秋初戦として走るには丁度良いレースであったと思います。

 一方、皐月賞、日本ダービーといった春のレースには間に合わなかった、あるいは賞金条件等で出られなかった馬で、夏競馬でメキメキ力をつけてきた馬にとって、春の強豪たち相手に自らの力を試す絶好のレースでもあります。
 従って、セントライト記念が菊花賞への重要なステップレースであったことは間違いないことでしょう。

 2200m~2400mのレースだから3000mの菊花賞を占うレースには成り得ない、といった見解を目にすることがありますが、いかがなものでしょうか。そもそも秋の菊花賞に向けての3歳路線(あるいは3歳馬が出走できるレース)に、2500m~3200mのレースは存在しないのですから、距離適性を観ることはどのような方法をもってしてもできません。
 セントライト記念や神戸新聞杯といった、存在する最も適したレースにより、菊花賞出走馬の「調子を観る」ことが重要だと思います。

 ここまで65回を数えるレースですから、優勝馬もバラエティーに富みます。
アサカオー、プレストウコウといった菊花賞馬、サクラショウリ、メリーナイスといった日本ダービー馬、ベルワイド、モンテプリンス、メジロティターンといった天皇賞馬、皐月賞馬ビンゴガルー、ジャパンカップ馬レガシーワールド、有馬記念馬イシノアラシ、宝塚記念馬ナカヤマフェスタ、GⅡ4勝ローゼンカバリー、GⅡ6勝(JRA記録)バランスオブゲーム、そして三冠馬にして天皇賞・有馬記念・ジャパンカップ等々を制したシンボリルドルフ。
 まさに綺羅星のごとく、JRAの歴史を飾った馬たちが並びます。どの馬も印象深く、一頭一頭に思い出がありますが、セントライト記念で最も記憶に残っている馬と言われれば、アカネテンリュウ号を挙げます。

 アカネテンリュウは、父チャイナロック・母ミチアサ。1969年・昭和44年の3歳春シーズンは条件馬として、皐月賞・日本ダービーには無縁の馬でしたが、夏の函館からブレイクし、セントライト記念に駒を進めました。ついに日本ダービー出走馬と同じ土俵に上がったのです。
 ダービー2着馬のミノルに2馬身1/2の差をつけて優勝、重賞初制覇。その勢いで菊花賞も、2着リキエイカン(翌年春の天皇賞馬)に4馬身の差をつけて快勝しました。

 セントライト記念の時もそうだったのですが、菊花賞の京都競馬場の最後の直線でアカネテンリュウは左右によれながら走りました。「遊びながら走って勝った」と言われたものです。常に欧州最強馬の一頭に挙げられるシーバードの凱旋門賞直線を思わせる走りで、アカネテンリュウ強しを印象付けたレースでした。
 この活躍でアカネテンリュウは「戦後最高の上がり馬」と評され、その後しばらくは夏競馬でブレイクした馬が出てくると、アカネテンリュウのようだと言われたものです。

 アカネテンリュウは勢いをかって有馬記念に挑戦します。近時は3歳で有馬記念に挑戦することは珍しくなく、昨年も三冠馬オルフェーブル号が挑戦し勝利していますが、当時は3歳馬と4歳以上の古馬には歴然とした実力差があるとされていて、3歳で有馬に挑戦するのは無謀なことと言われました。

 レースは中山競馬場の直線で逃げ切りを図る6歳馬スピードシンボリ号を、アカネテンリュウが猛然と追い上げ、並んだところがゴールという激しいものでしたが、惜しくも届かずアカネテンリュウは2着。
 その翌年の有馬記念も、この両馬に、その年の菊花賞馬ダテテンリュウ号を加えた3頭の猛烈なたたき合いとなって、スピードシンボリが連覇、アカネテンリュウは再び僅差の2着でした。
 2つのレースともに印象深い競馬でしたし、6・7歳で有馬記念を連覇した名馬として、スピードシンボリの評価を固めたレースでもありました。

 アカネテンリュウ号の父上チャイナロックは、ハイセイコー号やタケシバオー号のお父さんでもあります。現在では良血とは言われませんが、ファンに愛された馬達のお父さんです。


 1974年(昭和49年)10月、巨人軍の長嶋茂雄内野手が引退しました。そして10月14日、長嶋選手の引退試合が対中日ドラゴンズのダブルヘッダーとして、後楽園球場で行われました。学生だった筆者は、一目でもいいから長嶋を観ようと、チケット無しで後楽園球場に駆け付けました。チケットを持たず、ダフ屋から手に入れるノウハウ?も持っていなかったので、当然ながら入場できませんでした。周りに居た、沢山の入場できない人達と同じように、私は球場付近のお蕎麦屋さんに入って、テレビで長嶋の引退セレモニーを観ていました。

 長嶋は、これで引退したのですが、実はこの年はシーズン終了後、大リーグ(当時は大リーグで、MLBとは呼んでいませんでした)のニューヨーク・メッツが来日、全国各地で日本プロ野球チームと親善試合を行ったのですが、その対巨人戦には、引退した長嶋が出場したのです。

 引退試合は観られなかった筆者も、この親善試合でなら長嶋を観られるかもしれないと思い。再び後楽園球場を訪れました。恐縮ながら日付は憶えていませんが、確か11月に入っていたと思います。晩秋の後楽園球場の特徴である砂埃が相当強く舞っているデーゲームでした。先発メンバーに長嶋の名前はありませんでした。

 私は、レフトスタンド最後尾の立見席で、長嶋の登場を待ちました。みんな待っていたことでしょう。
ついに「代打・長嶋」が告げられたのです。その場内アナウンスが響いた時の球場の歓声の凄かったこと。地響きのような歓声に、メッツのレフトを守っていた選手が振り返ってこちらを見たほどです。「ナガシマって誰?」と思ったのか「ナガシマの人気は凄い」と思ったのか、分かりませんが、メジャーの選手がとても驚いた様子であったことを良く憶えています。
 この頃は、座席が今より小さかったのか、観客が隙間なく入っていたのか、三塁側、レフトスタンドともに(もちろん球場中一杯なのですが、その時眼に入ったエリアのことです)立錐の余地もない超満員。その超満員の観衆が、一斉に叫び・拍手したのです。

 打席での長嶋の一挙手一投足に場内が沸いたことは言うまでもありません。そして、長嶋はレフト前にクリーンヒットを打ちました。ゴロではなく、低いライナーで三遊間を破る素晴らしい当たりです。大歓声・絶叫とともに「引退しなくていいぞー」という声が、あちこちで聞こえました。私もそう思いました。

 長嶋選手が塁に出ました。次の打者が誰だったか、恐縮ながら憶えていないのですが、この打者の時、長嶋は盗塁を試みます。あの肘を折りたたんだ姿勢で腕を振り、二塁に向かって全力疾走です。打者がファウルを打ちます。長嶋はセカンドベース付近まで走ってきて、一塁ベースにゆっくりと戻って行きます。笑顔で、例のランニングフォームで。

 次のボールのとき、やはり長嶋は走ります。そしてファウル。ひょっとするとヒットエンドランのサインでも出ていたのでしょうか。いや、あの親善試合ではエンドランのサインは無い。やはり長嶋は盗塁を狙っていたのだと思います。デビュー当時の快速(長嶋はデビュー年に本塁打王+打点王+盗塁王)よりは少し遅い脚ですが、全力で走ります。こうしたトライ、姿が2~3回繰り返されましたが、長嶋は結局盗塁できませんでした。ゆっくりと一塁に戻っていく長嶋にも大きな拍手が送られて、再びレフト守備の選手は、驚いた様子でこちらを見ました。

 その次の打者は、王選手でした。王はここでホームランを打ちます。低いライナーがライトスタンドに飛び込みました。レフトスタンド最後尾で立見の私からは、とても低く速い打球に見えました。長嶋を一塁に置いて王がホームラン。場内は、割れんばかりの大歓声でした。この試合は、巨人が勝ちました。

 この試合の観衆は、とても満足して帰ったと思います。私もとても満足しました。そして、一生記憶に残るゲームです。こうしたプレーをするプレーヤーを「プロフェッショナル」と呼ぶのでしょう。引退表明後もゲームに出てきて、観客を満足させるプレーをする長嶋茂雄、そしてそのタイミングでホームランを打つ王貞治。まさに、プロフェッショナルと呼ぶに相応しい素晴らしいプレーヤーです。

 この長嶋が引退した1974年に、アメリカ・ニュージャージー州にデレク・ジーターが生まれます。(いささか、こじつけがましくて恐縮です) →(続きへ)
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