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 NFLのレギュラーシーズンは、各チームが17週間で16ゲームを実施します。先週末に第8週の各ゲームが行われました。各チーム17週の内1週が休みですので、全てのチームが8試合を消化しているわけではないのですが、レギュラーシーズン前半を振り返ってみたいと思います。尚、私がNFLの基本情報を入手しているサイトは「nfljapan.com」です。英語のnfl公式サイトも見ますが、やはり日本語の方が読みやすいのです。ご参考に、urlを記載します。

http://www.nfljapan.com/

 さて、今期の注目ポイントとして本ブログで挙げていた、3人のクオーターバックQBの成績はどうなっているのでしょう。

 「第一の注目QB」は、インディアナポリス・コルツからデンバー・ブロンコスに移り、故障から回復したペイトン・マニングです。「610日ぶりの復活」として採り上げました。ブロンコスが所属するのは、アメリカン・フットボール・カンファレンスAFCの西地区です。
 
 ブロンコスは7試合を消化して4勝3敗、西地区のトップに立っています。ペイトン・マニングのプレー振りは「さすが」の一言です。シーズン当初は、当然手探りの部分があったのでしょう、4試合を消化して2勝2敗でしたが、その後の3試合を2勝1敗と勝ち越しました。特に、最近のゲームでは、チームの得点力が上がってきています。ペイトンがチームに馴染んできたというか、チームがペイトンの考えるプレーに慣れてきたというところでしょうか。
 ペイトン・マニングは、7試合で2113ヤードを投げ、17タッチダウン、4インターセプト、QBレートは109.0とNFL全体1位。堂々たる成績です。今シーズンも4000ヤード獲得が確実なパスプレーですが、移籍していきなりの好成績ですので、さすがとしか言いようがありません。

 AFC西地区では、当初サンディエゴ・チャージャーズが好調なスタートを切りました。当代屈指のパスが得意なQBフィリップ・リバースやランニングバックRBライアン・マシューズらを中心としたオフェンスOFが好調で、4試合を消化したところで3勝1敗。ところが、その後3連敗と失速。第8週のクリーブランド・ブラウンズ戦はTDが0に終わり6-7で負けるなど、OFが機能していません。早急な立て直しが必要です。

 AFC西地区の残りの2チーム、オークランド・レイダースとカンザスシティ・チーフスは、ともに1勝3敗のスタートでしたが、レイダースはQBカーソン・パーマーを中心にするOFが機能し始めて、現在は3勝4敗と盛り返しました。一方のチーフスは、その後もOF特にパスプレーが上手くいかず1勝6敗と低迷しています。QBマット・キャセルのQBレートが69.0では中々大変です。

 「注目QBの二人目」は、インディアナポリス・コルツの新人QBアンドリュー・ラックです。今年のドラフトの全体1位でコルツに入団したラックですが、チームは第8週を終えて4勝3敗と健闘しています。昨季2011年シーズンが2勝14敗だったわけですから、目覚ましい改善です。

 コルツは所属するAFC南地区でも、ヒューストン・テキサンズに次いで2位に居ます。ラックも、QBレートは74.6と今一つですが、7試合で1971ヤードを投げています。今後は、インターセプトを減らしていくことがポイントでしょう。5割以上の勝率を上げれば、ワイルドカード・プレーオフ進出の可能性があります。東地区のマイアミ・ドルフィンズとの競り合いになると見られています。
 同じく、ドラフト全体1位でコルツに入団したペイトン・マニングの1年目より良いプレーをしていると評価されているラック。今後の頑張りに期待しましょう。

 AFC南地区はテキサンズが6勝1敗と好調に走っています。QBマット・ジョーブ⇔ワイドレシーバWRアンドレ・ジョンソンのパス攻撃とDF陣の頑張りが、好調の要因ですが、第7週のゲームで、あのボルチモア・レイブンズの強力DFから43点を奪っていますので、好調も本物という感じです。前期チーム史上初めてプレーオフに進出しました。今期も走りそうです。

 AFC南地区、残りの2チームは、3勝5敗のテネシー・タイタンズと1勝6敗のジャクソンビル・ジャガーズです。特に、ジャガーズの不調は深刻です。攻撃面の主要な項目がNFL32位(最下位)ですので、ジャガーズ自体の成績も心配ですが、ジャガーズと対戦するチームが星を落とすと、プレーオフ進出に向けて痛い星になりそうです。

 「注目QBの三人目」は、ワシントン・レッドスキンズの新人QBロバート・グリフィン・三世、RGⅢです。今年のドラフト全体2位でレッドスキンズに入団したRGⅢですが、チームは第8週を終えて3勝5敗、所属するナショナル・フットボール・カンファレンスNFC東地区の4位と苦戦中です。

 とはいえ、最下位といっても3勝していて、勝ち数では上位2チームと同じですので、十分反攻の余地があります。チームの攻撃の獲得ヤードはNFL全体6位、RGⅢのQBレートも97.3とコルツのラックを上回り、インターセプトも3つに抑えています。
 RGⅢの特徴であるランニングプレーも8試合で476ヤードと本職のRBを凌ぐ成績です。ひょっとするとQBのシーズン1000ヤードランもあるかもしれません。ケガが心配ですが。

 NFC東地区は、現在ニューヨーク・ジャイアンツが6勝2敗でトップ。2勝2敗と意外なスタートだった、昨季のスーパーボール・チャンピオンが次第に実力を発揮して連勝中です。相変わらず、攻撃と守備のバランスが良く、勝負強いチームです。3勝1敗と好スタートを切ったフィラデルフィア・イーグルスでしたが、そこから連敗し3勝4敗となりました。QBマイケル・ビックのインターセプトが多いのが気になります。

 NFC東地区で心配なのが、ダラス・カウボーイズです。常にプレーオフ進出を期待されるNFL屈指の人気チームですが、この2シーズンは、いまひとつの成績。今季も3勝4敗と乗り切れないという状況です。QBトニー・ロモのQBレート78.8にも表れているように攻撃面が不調で、ロモは8TD13インターセプトと散々です。

 さて、その他の地区を見ていきましょう。(→続きへ)

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 現在のアルゼンチン共和国杯の前身は、1963年・昭和38年に東京競馬場芝2300mの3歳以上を対象としたレースとして創設されたアルゼンチン・ジョッキークラブ・カップ(ARJC杯)競走です。

 太平洋戦争終戦後、昭和30年代に入ると、日本競馬会も国際化され、世界各国の競馬サークルとの交流の中から、ビクトリアカップ(現エリザベス女王杯)といった海外名を冠するレースが創設されていったことは、本ブログの過去の稿にも記載しました。ARJC杯もそのひとつです。

 ARJC杯が創設される3年前の1960年・昭和35年に、アメリカ・ジョッキークラブ・カップ(AJC杯)競走が創設されていて、AJC杯は年明け1月開催、ARJC杯は5月の開催と、少し判りにくい時期がありました。

 この二つのレースは、両方とも現在まで存続していますが、AJC杯は年明け1月下旬の開催時期が不変で、前年12月の有馬記念を始めとするG1レース勝ち馬の年初最初のレースという位置付けが明確なのとは対照的に、ARJC杯は、開催時期・レースの性格共に時代と共に変遷を繰り返しました。

① 距離 1963年~1965年2300m、1966年~1968年3200m、1969年2600m、1970年~1971年2500m、1972年~1980年2400m、1981年~現在2500m
② 開催時期 1963年~1980年大半5月、1981年~1983年3月・4月、1984年~現在11月
③ レース名 1963年~1974年アルゼンチン・ジョッキークラブ・カップ(ARJC杯)、1975年~現在アルゼンチン共和国杯

 といった具合です。①の距離は1981年以降2500mで不変ですが、1981年~1983年が中山競馬場、1984年以降は東京競馬場開催となっています。出走条件も、3歳以上→4歳以上→3歳以上と変わりましたし、負担重量も別定からハンデキャップ制へと変わりました。
 これだけ縦横に動くと、ARJC杯は無くなったのか、と勘違いしたことも何回もありますし、レースの性格もどんどん変わりますから、出走馬の特性も時代により異なるレースになっています。

 アルゼンチン共和国杯の位置付けがようやく固定されたのが1997年です。この年から天皇賞(秋)の翌週に開催されることになり、距離も2500mで継続されることとなりましたので、天皇賞(秋)に出られなかった馬や、賞金を積み上げてジャパンカップや有馬記念、あるいは距離適性からステイヤーズステークスを目指す馬達のステップレースになりました。
 流浪?のレースだったアルゼンチン共和国杯も、秋のG1シリーズの合間を彩る「G2ハンデ戦」という味のあるレースとして確立されたのでした。

 こうしたキャリアを持つアルゼンチン共和国杯ですから、勝ち馬も文字通りバラエティに富んでいます。1968年のスピードシンボリや1971年のメジロアサマといった大豪馬や1991年のヤマニングローバルや1995年のゴーゴーゼットといったG2・G3重賞常連馬といった具合です。

 そうした勝ち馬の中で今回採り上げるのは、1978年の勝ち馬カネミノブ号です。カネミノブは、父バーバー、母カネヒムロ、生涯成績37戦8勝です。母カネヒムロは1971年のオークス馬、父バーバーは当時主流のプリンスリーギフト系(テスコボーイもこの系統)の種牡馬でしたから、デビュー前から注目されていた馬でした。
 しかし、2歳時は4戦2勝、3歳時は皐月賞6着、日本ダービー3着、菊花賞5着、他の重賞も上位入着はするものの、函館の特別レース大沼ステークスの1勝のみで重賞勝ち無しというパッとしない成績でした。

 明けて4歳になったカネミノブは、金杯2着、中京記念4着、京王杯4着と、引き続き勝ち切れない競馬を続けましたが、5月のアルゼンチン共和国杯(当時は東京2400m)でついに重賞初勝利、続く日経賞(中山2500m)も勝ち、ようやく本格化の時期を迎えました。
 とはいえ、ジリ脚脚質は変わらず、続く毎日王冠2着、目黒記念2着、天皇賞(秋)(当時は3200m)5着と、重賞常連馬ながら大レースには一歩届かないレースを続けました。

 そして1978年の第23回有馬記念競走を迎えるのです。この年の有馬記念は、菊花賞・天皇賞馬グリーングラス、日本ダービー馬サクラショウリ、菊花賞馬プレストウコウのクラシックホースやホクトボーイ、カシュウチカラ、エリモジョージ、メジロイーグルといった実力馬が揃ったものの、近時安定した成績を残している馬が不在の、混戦模様でした。

 15頭立ての9番人気だったカネミノブは、メジロイーグル、エリモジョージに続いての3番手で4角を回り、2頭を交わして直線で先頭に立ちます。プレストウコウもグリーングラスもホクトボーイも伸びず、インターグロリアがゴール前追ってきましたが、1馬身差で振り切りゴール。前年のグリーングラスの記録を破るレースレコード2分33秒7での有馬記念制覇でした。そして、カネミノブ⇔インターグロリアは大穴でした。
 この年、重賞3勝、有馬記念がレコード勝ちであったこともあってか、カネミノブは優駿年度代表馬の栄誉に輝きました。

 その後、6歳時のカネミノブは善戦するも未勝利、7歳時に目黒記念と毎日王冠を勝ち、7歳1月のAJC杯4着を最後に引退しました。

 カネミノブは、37戦1着8回、2着8回、3着6回、4着7回、5着5回、6着以下3回(皐月賞、天皇賞(秋)、宝塚記念)という、滅多に見られないほど「安定した成績」を残しています。
 特に、2400m~2500mのレースは好成績でした。クラシック3冠レースでも、一番良い成績が2400mの日本ダービーの3着。2000m以下も3000m以上も、いまひとつという珍しい馬でもありました。

 レースに臨んでは、常に自らの能力を100%発揮し、相手の力関係で順位が決まるというタイプだったのでしょう。故障も少なく、きちんきちんとレースに出続けました。「無事これ名馬」という言葉がありますが、カネミノブにピッタリの言葉で、いつものように懸命に走っていたら、1978年の有馬記念では先頭に居たということでしょうか。
 
 そのカネミノブが最初に勝った重賞が、アルゼンチン共和国杯でした。このレースは、カネミノブが一番人気でした。私はこの頃カネミノブに注目していましたが、出馬表を見たときに「相手に恵まれた」と思ったことを憶えています。特別レースに勝っていただけで、重賞勝ちが無かったカネミノブが本命だったわけですから。

 今思うと、アルゼンチン共和国杯は、上がり馬にとってそのキャリアに重賞勝ちを加え、賞金を上乗せしてG1競走に駒を進めるには絶好のレースでしたし、現在も同様です。2008年のスクリーンヒーローはその典型で、このレースで重賞初勝利を挙げると、一気に3週間後のジャパンカップに優勝しました。こうした位置付けのレースは、今後も重要です。

 7歳で引退したカネミノブは、当時の流行血統であったプリンスリーギフト系バーバーの代表産駒としてシンジケートが組まれ、種牡馬生活を開始、キーミノブを始めとして3頭の重賞勝ち馬を送り出しましたが、産駒に大レース勝ち馬が居なかったことや、流行血統の変化により、1991年にシンジケートが解散され、種牡馬としての役割を終えました。

 そして、1993年、繋養されていた北海道の北斗牧場を離れた後、行方不明となりました。何が起こったのでしょうか。「屠殺場に送られた」とか「当て馬にされていた」とか、色々な噂がありましたが、結局行方不明のままです。

 太平洋戦争前後の日本競馬には、大レース優勝馬が行方不明という例がありました。昔の欧米競馬にも、こうした例がありました。
 しかし、1993年という今から僅か20年前の我が国において、こうした事件が発生したことは、残念で仕方がありません。有馬記念馬にして年度代表馬であった名馬が「行方不明になり、おそらく殺されている」というのは、何ということでしょう。
 お母さんのオークス馬カネヒムロが功労馬として1997年に天寿を全うし29歳で没したことを思うとき、1993年にカネミノブを守る方法がなかったものかと、いつも思います。

 
 2012年MLBワールドシリーズは、日本時間本日10月29日の第4戦をサンフランシスコ・ジャイアンツが延長戦の末4対3でデトロイト・タイガースを破り、4勝0敗で制しました。戦前の予想を裏切るスイープ決着でした。

 サンフランシスコは、2010年のワールドシリーズ制覇以来3年振り7回目の世界一となりました。

 アメリカンリーグALチャンピオンシップを4勝0敗で制したデトロイトと、ナショナルリーグNLチャンピオンシップCSを4勝3敗で勝ち上がったサンフランシスコのワールドシリーズでしたが「スイープでCSを勝ち上がったチームが不利」というジンクス?が生きていました。
 2007年、4勝0敗でNLCSを勝ち上がったコロラド・ロッキーズと4勝3敗でALCSを制したボストン・レッドソックスのワールドシリーズが、ボストンの4勝0敗のスイープであったのと、リーグは反対ですが、よく似ています。

 冷静に観れば、2010年~2012年の3年間は、サンフランシスコ・ジャイアンツ→セントルイス・カージナルス→サンフランシスコ・ジャイアンツとナショナルリーグが3連覇していて、今年のNLCSがセントルイスの3勝1敗からサンフランシスコの3連勝という大激闘の展開であったことを考えると、この3年間はNLがALに勝る時期であり、そのNLの中でもサンフランシスコとセントルイスが、一頭抜けた存在であったということになります。

 私達日本のMLBファンは近時、イチローやダルビッシュ、黒田、岩隈、青木の活躍が映し出されるALのゲームを数多く見ているために、どうしてもNLへの認識が不十分になりがちでした。実は、NLのレベルがALを凌いでいたことに、ようやく気が付いたということでしょうか。いまさらながら確認すると、オールスターゲームもNLが3連勝中です。2003年~2009年のオールスターゲームがALの7連勝であったことを考え合わせても、やはりワールドシリーズの第一戦・第二戦をホーム球場でやれるのは、とても有利なことなのでしょう。

 さて、サンフランシスコを3年間で2度のワールドシリーズ制覇に導いたブルース・ボウチー監督とは、どんな人なのでしょう。1955年生まれの57歳。選手時代のポジションは捕手で、1978年~1987年の間、ヒューストン・アストロズ、ニューヨーク・メッツ、サンディエゴ・パドレスに所属、358試合に出場しています。約10年間のメジャーリーガー生活で358試合出場というのは多いとは言えず、主に控え選手であったということになるでしょう。

 ボウチー監督は、マイナーの監督やメジャーのコーチを務めた後、1993年~2006年までサンディエゴ・パドレスの監督を務め、1998年にはNLを制してワールドシリーズに進出、ヤンキースには敗れたものの、同年のNL最優秀監督に選出されました。
 2007年からはサンフランシスコの監督に就任し、2010年と2012年のワールドシリーズを制しています。18年間のMLB監督成績は、1454勝1444敗、3回のリーグチャンピオン、2回のワールドシリーズ制覇です。

 一方のデトロイトを率いたジム・リーランド監督の方を見てみましょう。リーランド監督は1944年生まれの67歳。選手時代のポジションは捕手で、メジャー経験は無し。1964年~1970年までの6年間、マイナーでプレーし最高は2A。26歳で現役を引退すると、直ぐにマイナーの監督になり、1986年にはピッツバーグ・パイレーツの監督に42歳で就任。以降1999年まで、フロリダ・マーリンズ、コロラド・ロッキーズの監督を歴任、1997年にはフロリダでワールドシリーズを制覇。1990年と1992年にNL最優秀監督に選出されています。
 1999年に一度監督を引退しましたが、2006年にデトロイトの監督として復帰。2006年と2012年にALCSを制しています。21年間の監督成績は、1676勝1653敗、3回のリーグチャンピオンと1回のワールドシリーズ制覇です。

 二人の名監督は、共に現在のMLBを代表する監督です。そして、順風満帆の監督生活を送っているわけではなく、所属チームが良い時・悪い時を熟知している監督であることは、ワールドシリーズやリーグチャンピオンを複数回制しているにもかかわらず、監督成績の勝率が殆ど5割丁度位であることを観ても解ります。

 MLBには、一定のレベル以上の能力を保持しながら、いくつかのチームを渡り歩くプレーヤーが数多くいます。彼らが、まさにメジャーリーガーなのですが、監督も同様です。過去の成績、勝率とは関係なく「MLBの監督としての能力・資質を持ち続ける人物」は、多くは無く、その監督人生でいくつかのチームを渡り歩くのです。プロフェッショナル・マネージャーです。

 今日の2012年ワールドシリーズ第4戦の試合後、デトロイト・タイガースのジム・リーランド監督はインタービューに応じて「ヤンキースに4勝0敗で勝てるとは思わなかったが、サンフランシスコに0勝4敗で負けるとも思わなかった。妙な展開だった」とコメントしています。
 サイヤング賞投手ジャスティン・バーランダーと打撃部門三冠王ミゲル・カブレラというMLBを代表する投打の両輪を擁したチームで戦い、ジム・リーランド監督程の経験・能力を持ってしても、勝ち負けを超えた「妙な展開」があるのです。ベースボールの不思議さ、奥深さを感じます。

 野球というのは、他の競技には無い難しさを内包したスポーツであると、私は常々考えています。(大袈裟な書き様で恐縮です)
その難しさについて、本稿は「打撃面」を採り上げます。

 質問です。2死ランナー2塁で、打者がヒットを打つとします。A「ボテボテのゴロのセンター前ヒット」とB「火の出るようなライナーのライト前ヒット」のどちらが望ましいヒットでしょう。

 当然、Bボテボテのセンター前ヒットの方が、この場面では望ましいヒットになります。2塁ランナーが本塁に返ってきて、セーフになる可能性がより高いからです。いや、この二つヒットの比較であれば、野球の攻撃側にとって、ほとんどの場合Bの方が望ましいヒットになります。

 何故かというと「野球の攻撃は『時間を稼ぐ』ことを狙うから」です。野球は、投手が投げて打者が打つ、ことから始まる競技ですが、打球が野手の間を抜けて転がっている間などに、1塁→2塁→3塁とランナーが進み、ホームベースを陥れた回数(得点数)で、勝敗が決まるスポーツですので、なるべく「塁間を移動する=走る時間を稼げる打球」が、望ましい打球ということになります。

 従って、外野の間を抜ける打球でも、取れるか取れないかギリギリの当たりで、左中間ならセンターフィルダーとレフトフィルダーが二人とも目いっぱい追いかけて、そのグラブの先を掠めて抜けていく打球が、最も望ましい打球ということになります。抜けた後に、ボールを追いかける時間が掛るからです。
 痛烈な当たりで、外野手が「これは取れない」と考えて、回り込み、フェンスに届く前に捕球されるのでは、時間が稼げませんので、どちらかを選択できるのであれば、望ましくない打球ということになります。

 しかし、普段の野球の打撃練習は、「強く速い当たり」を打つことを目指して行います。ボールの芯を打ち、なるべく強く・速い打球を打つことにより、内野手の間、外野手の間を抜いてヒットにするために、日々のトレーニングが続けられるのです。ここが、野球の打撃面の難しいところだと思います。
 「時間が稼げない打球」を打つために練習するのですから、ある意味では矛盾しています。望ましくないプレーをするために、一生懸命練習するスポーツは、野球以外には思いつきません。

 「それは違う。守備プレーヤーに捕球されてしまいアウトになるよりは、痛烈な打球で守備プレーヤーの間を抜く方が時間を稼げるではないか」と言われそうです。それは、その通りです。
 加えて「守備プレーヤーの間を、ゆっくりしたスピードで抜いていく打球を打つ方が、余程難しい」とも言われてしまいそうです。これも、おっしゃる通りなのかもしれません。

 そうだとしても、「ヒット」が「守備プレーヤーの間を抜く打球を打つこと」ではなくて(ライトゴロなどが時々あります)、「守備側が処理したボールが一塁手に捕球される前に、打者・ランナーが一塁を駆け抜けること」である以上、攻撃側にも考慮し工夫する余地があるように思うのです。

 時間を稼ぐプレーとして一般的に行われているのは、バントです。これは、送りバントにしても、セイフティバントにしても、なるべく守備側のプレーヤー全員から遠いところに、遅い打球あるいは取りにくい速度の打球を転がすことを狙います。そのための練習も行います。この思想を、他の場面の打撃にも活かす練習を、普段から行うという方向性が無いものかと思います。

 巨人軍の中軸打者にして、後のV9監督、「打撃の神様」と呼ばれた川上哲治選手は選手時代の晩年「テキサスの哲」と呼ばれていました。良い当たりに見える打球が、外野手の前で急に失速し、ぽとりと落ちる、いわゆるテキサスリーガーズ・ヒットになるのです。内野手の間や外野手の間ではなく、内野手と外野手の間に落とす、実に効果的・合理的なヒットです。
 イチロー選手は、打ち損ねて内野ゴロに見える打球でも、実は狙って内野安打を打っている、と言われました。一塁を走り抜けるまでの時間を稼げば良いのですから、合理的な打ち方だと思います。

 こうした実例?を研究して、「野球の打撃の本質に適う」打ち方、攻撃の仕方を、一層探求していくことも、重要なことだと思うのです。
 統計的な分析により、最もヒットになり易く、時間が稼げる方向への打撃練習を積み重ねることや、最も効果的な打球速度を検討することなどのトレーニング・研究には意味がないのでしょうか。

 ただし、このやり方を突き詰めていくと、痛烈なヒットが減ってしまい、お客様には不評かもしれません。しかし、お客様も「野球は、ヒット数や打球の鋭さ・美しさを競うスポーツでは無く、得点を競うスポーツである」ことは理解していますから、結局は得点を多くとり、贔屓のチームが勝つことで、一定の満足が得られるようにも思います。

 おかしなこと?を書きました。ベースボール・野球とは、他のスポーツには無い難しさを内包しているスポーツだと思います。(次回は投球編です)
 前稿で、陸上競技100m競走について書きましたが、その際に「手動計時」の話が出てきました。これについて記述すると少し長くなりますので、別稿にしました。手動計時は、1960年代までは、世界的な大会でも行われていた計測方法です。我が国における、全国規模で無い大会でしたら1980年代以降も行われていたと思います。

 「手動計時」は、ストップウオッチを持った人間(計測員)が、目視で記録を測る方法です。以下に記述するのは、陸上競技100m競走、200m競走、400m競走の短距離競走における手動計時のことです。(本稿の記述は、ほとんど私の記憶によるものですので、専門家の方から見ると不正確な部分があるかもしれませんが、その場合にはご容赦ください)

 まず、ゴール横に計測員が配置されます。白い鉄パイプでてきた階段状の器具に、1列2名ずつ座り(これで1組)、段々に上まで8組計16人が座ります。(この他に、順位を判定する係員も、その上段に配置されます)
 階段に縦に2列に座っている形です。計測員1人が1台のストップウオッチを持っています。各組の2名が同じ選手の記録を測ります。
 お分かりになったと思いますが、階段状になっているのは、ゴールするランナーが良く見えるように、ということです。従って、当時の大会はゴール横に大きな白い階段状の器具があり、そこに2列に計測員が座ると「レースが始まる」と分かったのです。

 スタートライン方向を見ると、選手が並んでいます。「位置について」とスターターから号令が掛ります。この時、スターターはスタート用ピストルを持つ腕の肘を曲げています。ピストルは、スターターの耳の横にあります。
 「ヨーイ」と二つ目の号令が掛ります。この時、スターターはピストルを持つ腕の肘を伸ばし、ピストルを高く掲げます。これが大事なことです。適当な間の後、パンとスタートの号砲が響き渡り、選手が一斉に走り始めます。

 余談ですが、「位置について」はハッキリと、各音同じ強さでコールします。「ヨーイ」は、「ヨー」を強く、「―イ」にかけて小さな声にして行きます。選手の精神集中を妨げないためです。

 ゴール横に配置されている計測員は、スタートの様子を観ています。正確には、スターターのスタート用ピストルを凝視しています。計測員がストップウオッチのスイッチを押す(ウオッチを稼働させる)タイミングは、ピストルの号砲を聞いた時ではありません。音速は遅いので、それでは遅れてしまうからです。

 計測員は「ピストルから出る煙を観て」ストップウオッチのスイッチを押すのです。従って、スタート用ピストルは、煙が大きく多く出る構造になっています。大体、ピストルから50㎝位の長さで縦に煙が吹き上がります。そのために、ピストルには雷管を2個、後には簡易な紙雷管(しらいかん)を2枚、セットします。雷管も紙雷管も、煙が十分出る構造になっています。また、雨に強い構造にもなっています。

 スターターが「ヨーイ」の号令とともに、ピストルを持つ腕を高く上げるのは、計測員にピストルが良く観えるようにするためと、計測員に「打つぞ=スタートするぞ」との意思を示し、準備を促すためで、とても大切な動きです。

 スターターは、フライングがあったと判断された場合には、直ぐに2発目の号砲を鳴らします。フライングの有無の判定は、スターターの目視によります。後には、フライングを判定する二人目のスターターを配置し、2発目の号砲は二人目のスターターが鳴らすこともありましたが、多くの大会においては一人のスターターが、スタート動作とフライング対応の2つの作業を行いました。現在、フライング対応はスターティング・ブロック他による機械対応ですから、当時の方がスターターの仕事は多かったことになります。

 さて、ゴールです。

 ランナーがコースを走ってきます。ゴールテープ(当時は短距離競走にもゴールテープが張られていました)を通過する瞬間に、計測員はストップウオッチのスイッチを押して、ウオッチを止めます。
 1組2人の計測員は、お互いの測った記録を比較しあいます。そして、2人の記録が一致していれば、その記録を、2人の記録が違っていたら、その2つの記録の遅い方を、計測対象のランナーの記録として報告するのです。(まれに、1組3人の計測員のことがありました。この場合には、3人の記録の内、悪い方の2人の記録の中間が正式記録になっていたと思います)

 この「手動計時」には、誤差がありました。誤差は、主に2か所で発生します。
第一は、スタートの時です。煙が上がるのを観てから、ストップウオッチのスイッチを押すので、目で確認し手に命令を下す時間分、遅れるのです。
第二は、ゴールの時です。計測員は、ランナーがゴールする前にウオッチを止めてしまうのです。「もう、ゴールする」と無意識に思い込んでスイッチを押してしまう。これは、ある意味では不思議なことなのですが、相当に訓練された一流の計測員でも、ことごとくゴール前にウオッチを止めます。おそらく、人間の生理上の動きなのでしょう。

 第一の誤差も、第二の誤差も、計測員の能力が上がるほど小さくなります。オリンピック・世界大会クラスの、「世界一流の計測員」ともなると、100m競走における2つの誤差の合計は0.1秒程度と言われました。これが、日本全国大会クラスになると0.2秒、普通の大会なら0.3秒くらいの誤差です。現在の電動計時で10秒30の記録が、手動計時だと10秒00になることがあったわけです。

 実は、メキシコ・オリンピックの時の100m競走は、半分電動・半分手動の計時だったのです。確か、スタートが電動で、ゴールが手動だったと記憶しています。ピストルから音は出ますが、煙は出ず、ピストルから計測員のストップウオッチにコードが繋がっていて、ピストルが撃たれると同時に、ウオッチが動き始めます。
 ゴールの時に止めるのは、計測員の手動という形です。ですから、やはり誤差が半分でます。あの時のハインズの記録は、ウオッチ上は9秒90だったので、そこに「世界一流の計測員でも生ずる誤差0.1秒の半分=0.05秒を加算して」9秒95になったものと記憶しています。

 現在は、日本全国レベルあるいは世界レベルの大会は全て電動計時です。フライングも、機械判定します。ゴールは、ゴール板の所にセットされている「1秒2000コマ撮影」のスリットカメラの画像を張り合わせて、ゴール写真を作成し、ランナーの胴体の一部がゴールラインに触れた瞬間をゴールと認定、正式記録が確定します。現在の正式記録単位は100分の1秒です。100分の1秒でも10㎝以上走りますから、近い将来1000分の1秒計時の時代が来るかもしれません。

 ちなみに速報ベースの記録は、ゴール板にセットされている目に見えない壁にランナーが入った瞬間のタイムが自動的に掲示されますので、後に写真を観て修正されることがあります。理屈上、速報タイムと正式タイムは、ほとんどの場合異なるハズなのですが、100分の1秒の範囲内であれば、速報タイムと正式タイムが同じになることもあります。

 かえすがえすも残念だったのは、1998年のアジア大会男子100m準決勝で、日本の伊東浩司選手が素晴らしい走りをみせて1着でゴール、速報タイムが9秒99だったのです。私もテレビで観ていて、「いい走りだな」と思いました。速報記録を見て「やった、日本人初の9秒台!」と大喜びしたのも束の間、正式タイムは10秒00になりました。現在でも、アジア人(モンゴロイド)の最高記録は、この時の伊東選手の10秒00なのです。記録というのは、一度破ると、別の選手も含めて、次々と後に続くものなのですが、突破されないと中々破れないという話の典型です。

 従って、現在の100m競走の計測方法は「電動計時」とはいっても、最後は目視によることになります。張り合わせた写真に、判定員が線を引き、その線の位置のタイムが正式記録となるのですから。例えば、ランナーが右肩からゴールラインを越えたとします。「肩は胴体ではないので」ゴールのタイミングは「肩の位置より少し後ろ」ということになります。その「少し」の線をどこに引くのかは、恣意性が入りうる余地を生みます。

 競泳のゴール判定が、ゴール板へのタッチという明快なものであるのに比べて、競走のゴールには、いまだに曖昧な部分が残っているということになります。
 

 今年2012年のロンドン・オリンピック男子100m競走は、ウサイン・ボルト選手が、9秒63のオリンピック新記録で優勝、オリンピック2連覇を飾りました。

 人類が100m走で初めて10秒の壁を破ったのは、1968年メキシコ・オリンピック決勝のジム・ハインズ選手で、記録は9秒95でした。以降人類は、44年をかけて0.37秒を短縮し、現在の世界記録はボルト選手の9秒58となっています。わずか0.37秒という見方もあると思いますが、ゴール前の0.37秒ですから5m以上の差ですので、大きな短縮と見ることもできます。

 人類が100m競走10秒の壁に辿りついたのは、1960年6月です。西ドイツのアルミン・ハリー選手が10秒0のタイムをたたき出したのです。ハリーは同1960年8月のローマ・オリンピック決勝レースでも10秒0で優勝しています。続く1964年の東京オリンピックでは、アメリカのボブ・ヘイズ選手が、やはり10秒0で優勝しました。この8年間位は、10秒の壁が破れなかったのです。

 ちなみに、この頃は現在と違い「手動計時」でした。ストップウオッチを持った人間(計測員)が、目視で記録を測るのです。別稿で「手動計時について」は、少し記載しましたので、ご参考にしてください。

 この頃は我が国でも10秒1のタイムが3人のランナーによって記録されていますし、世界大会では10秒0のタイムが何回か記録されましたが、なかなか9秒9は出ませんでした。いわゆる「10秒の壁」が長く存在したのです。(この頃は10分の1秒表示でした)

 そして、1968年メキシコ・オリンピック決勝レースで、アメリカのジム・ハインズ選手がついに10秒の壁を破り、9秒95の記録を打ち立てたのです。(別稿「手動計時について」ご参照)

 しかし、その後のオリンピックOLPでは、なかなか10秒の壁が破れませんでした。1972年ミュンヘンOLPはワレリー・ボルゾフ選手(ソ連)が10秒14で優勝、1976年モントリオールOLPはヘイズリー・クロフォード選手(トリニダード・トバゴ)が10秒06で優勝、1980年モスクワOLPは、アラン・ウェルズ選手(イギリス)が10秒25で優勝、と10秒の壁は厳然として存在しましたので「ハインズの記録は、空気が薄い高地(メキシコシティ)の記録」と言われたりしました。ちょうど、走り幅跳びのボブ・ビーモン選手の8m90㎝という驚異的世界記録が生まれていたことも影響したのかもしれません。

 こうして、ハインズに続いてオリンピックで10秒を切るランナーは、カール・ルイス選手(アメリカ)を待たなくてはなりませんでした。1984年のロサンゼルスOLPで、カール・ルイスは9秒99のタイムで優勝しました。そして、多くの壁がそうであるように、カール・ルイスが破った壁は、次々と他の選手にも破られ、現在までに80人以上のランナーが10秒の壁を破っています。

 1988年ソウルOLPはカール・ルイスが9秒92で連覇、1992年バルセロナOLPはリンフォード・クリスティー選手(イギリス)が9秒96で優勝、1996年のアトランタOLPはドノバン・ベイリー選手(カナダ)が9秒84で優勝、2000年のアテネOLPはモーリス・グリーン選手(アメリカ)が9秒87で優勝といった形で、9秒台でなければオリンピックや世界選手権では勝てない、あるいはアメリカやジャマイカといった強国であれば、9秒台でなければ代表にもなれないという時代が訪れました。

 しかし、こうした世界の記録更新ラッシュとは無縁の形で、日本記録は1998年の伊東浩司選手がアジア大会で記録した10秒00のままです。伊東選手が記録してから14年間の長きに渡って、日本記録は更新されていないのです。これは、いわゆるアジア人(モンゴロイド)についても同じで、モンゴロイドの100m競走の最高記録も、いまだに伊東選手の10秒00なのです。

 そして、実は、白人(コーカソイド)も2010年7月まで、10秒の壁を破っていなかったのです。意外なことです。前述のように、1960年ローマOLPの西ドイツ、アルミン・ハリーから1980年のモスクワOLPアラン・ウェルズ(イギリス)まで、白人選手は度々オリンピックチャンピオンになっていましたので、世界記録が10秒を破り、黒人(ネグロイド)ランナーがどんどん記録を伸ばしている状況下、白人選手も着々と記録を伸ばしてはいるものの、黒人選手には追いついていないものだと思っていたのですが、実際には白人選手も10秒の壁を破ったのは、つい最近の2010年だったのです。

 白人ランナーで初めて9秒台をマークしたのは、フランスのクリストフ・ルメートル選手で、2010年の7月のことでした。ルメートルは、その後も記録を更新し、現在は9秒92まで伸ばしています。今年のロンドンOLPでも決勝進出が期待されましたが、なりませんでした。

 ここで、再び注目したいのは、1968年のハインズによる10秒の壁突破から、42年の歳月をかけて白人ランナーも10秒の壁を突破したのですが、その後ルメートルに続く白人ランナーが出てきていないのです。

 現時点で10秒を切った、世界中の80人余りのランナーの中で、上記のルメートルとオーストラリアのパトリック・ジョンソン選手(アイルランド人の父とアボリジニの母を持ちます。2003年に9秒93を記録しました)の2人以外は、全て黒人ランナーなのです。

 これは、100m競走においては人種的に黒人ランナーが圧倒的に優位にあることを明確に示しています。筋肉の質、体型等、その優位性の要因は多々あるのでしょうが、今後も100m競走、200m競走、400m競走の陸上競技短距離競走においては、黒人ランナーの時代が続くのでしょう。

 一方で、アジア系民族にとって「10秒の壁」がとても厚いものだとしても、現在の日本のトップ・スプリンター陣が、伊東選手の記録を14年間も破れないというのは、残念な気がします。2013年には、日本人ランナーの9秒台の走りを是非観てみたいものだと思います。


 2012年10月28日、東京競馬場芝2000mコースで行われる、第146回天皇賞(秋)G1の予想です。

 今回も、古馬・3歳馬の実績馬・有力馬18頭が出走してきました。前走もバラエティに富んでいます。当日の天候も微妙で、雨の量がどれくらいになるのかにより予想も変わってきますが、現段階(金曜日時点)では「少雨」「良馬場」、パンパンの硬い状態より、走り易い馬場状態であることを前提とします。

 軸馬の検討です。天皇賞(秋)という大レースということもあり、候補馬が沢山居ます。

 まずは、2枠4番フェノーメノ。前走セントライト記念G2を快勝、前々走の日本ダービーG1も僅差の2着と安定したレース振りは評価できます。
 続いては、3枠6番のルーラーシップ。前走宝塚記念G1はオルフェーヴルの2着。レース内容はとても良く、オルフェーヴル抜きのレースであれば圧勝という内容でした。香港のG1勝利を見ても、いわゆる実力馬になってきた感じです。宝塚記念からのローテーションも良いと思います。
 続いては、7枠13番のダ―クシャドウ。昨年のこのレースの2着馬。その後は、G1ドバイDF以外は全て2着。札幌記念G2からのローテーションもこのレース向きです。
 続いては、7枠15番のトーセンジョーダン。昨年の覇者。天皇賞(秋)に勝てる力があることは証明済み。一方、天皇賞(春)以来というローテーションが心配です。
 続いては、8枠16番のカレンブラックヒル。5戦5勝と無敗での史上初の天皇賞制覇を目指す3歳馬。既にG1NHK杯も制しており格も十分。これまで、2000m以上を走ったことが無いこと、外枠16番、そして毎日王冠からの中3週の短いローテーション、の3点が心配要素。無敗の天皇賞馬を観て見たかったのですが。

 さて、絞り込みますが、フェノーメノとルーラーシップのどちらかが軸馬でしょう。甲乙つけがたいのですが、ここはフェノーメノを軸馬にしたいと思います。

 理由の第一は、ルーラーシップの東京コース経験不足。2年前の日本ダービー以来の東京コースということになります。天皇賞(秋)は、前の稿でも書きましたが、極めて厳しいレースです。ゴール前100mから「もう一勝負」というレースになることも時々ありますので、長い直線についての経験が大切だと思います。
 理由の第二は、ルーラーシップは上がりの競馬になった時には、好成績を残していないことです。上がり3ハロン35秒前後のレースで好成績を残すタイプです。今回のレースは馬場も良く、上がりの競馬になると観ていますので、少し足りない可能性があると考えます。
 理由の第三は、今年の3歳馬のレベルが高そうであることです。その3歳馬の中でもフェノーメノは安定した成績を上げています。

 次に、対抗馬候補です。上記の軸馬候補馬の残り4頭、ルーラーシップ・ダ―クシャドウ・トーセンジョーダン・カレンブラックヒルは、当然対抗馬候補です。

 それに加えて、1枠1番ナカヤマナイト。前走オールカマーG2を快勝しています。
 続いては、6枠11番ジャスタウェイ。前走毎日王冠G2は、上がり3ハロン33秒0の脚で、カレンブラックヒルを首差まで追い込みました。上り調子と見ます。
 続いては、8枠18番のトゥザグローリー。言わずと知れたG1常連馬。今年も鳴尾記念G3と日経新春杯G2の重賞2勝と、地力のあるところを見せています。大外が残念です。

 以上7頭から、対抗馬を選定します。
 対抗馬一番手は、ジャスタウェイ。この馬は、近時走った全てのレースで上がり3ハロンタイムが出走馬中トップクラスです。(毎日王冠33秒0、日本ダービー34秒1、NHKマイル34秒2、アーリントンカップ34秒2)終いが確実に切れる上に、本格化の兆しをみせる3歳馬ですから、このレースも残り50mから飛んでくる可能性があると観ます。一方、4角では常に後方に居ますので、重馬場や不良馬場では不発に終わる恐れがあります。
 対抗馬二番手は、ルーラーシップ。間違いなく実力馬です。
 対抗馬三番手は、カレンブラックヒル。外枠でなければ対抗馬一番手もあったと思います。常に良いポジションで競馬をやれる自在の脚が強みです。

 今回は、この4頭に期待します。難しいレースのためか、いつになく長い稿になってしまいましたので、まとめて表記します。

軸馬 フェノーメノ
対抗馬一番手 ジャスタウェイ
対抗馬二番手 ルーラーシップ
対抗馬三番手 カレンブラックヒル

 いつもスタートからゴールまで、緊張感に溢れているレースが天皇賞(秋)です。道中のペースは様々ですが、いずれの場合でも全くゆるむ所が無いのです。今年も、素晴らしいレースが展開されることでしょう。とても楽しみです。

 ラグビー(ここではラグビーユニオン)は、ルール変更が多いスポーツです。もちろん、他のメジャースポーツもルールの変更は行われていますが、ラグビーに多いのは「根本的なルール変更」「プレーに大きな影響を与えるルール変更」です。

 こうした「重大なルール変更」は、他のメジャースポーツでは滅多に見られないもので、これだけ多いと、ラグビーというスポーツの特徴のひとつとさえ思えるほどです。

 確かに、ラグビー創成期に起源国であるイングランドと周辺国であるウェールズやスコットランドの間でルールに対する議論・確執が存在していた状況下、そこにニュージーランドやオーストラリアの意見も加わって、「ラグビー競技のあり方」そのものについてさえ議論が続いている状況下では、ルールの統一は容易なことではなかったのでしょう。

 例えば、配点の変遷は良く知られていることです。ラグビー創成期の19世紀後半には、トライには配点が無く「ゴールキックを蹴る権利」を得るための行為だった、という話は良く見聞きしますが、文献毎に内容が異なるうえに、ゲーム毎に違うルールが適用されていたりしますので、ここではルールが固定化されたと思われる、第二次世界大戦後の1948年以降を見てみましょう。

① 1948年~1970年 トライ3点 ゴール2点 PG・DG3点
② 1971年~1992年 トライ4点 ゴール2点 PG・DG3点
③ 1993年~2012年 トライ5点 ゴール2点 PG・DG3点
(PGはペナルティーゴール。DGはドロップゴール。マークからのゴールは本表には表記せず。年代は越年を考慮していない。)

 トライへの配点が上がり続けていることが明確です。トライを取ることの方が、キックを決めることより難度が高いので、配点が上がっているということなのでしょうか。配点は、当該スポーツの根幹にかかわるものですから、他のメジャースポーツにおいて変更になった例は、ほとんど見たことがありません。

 例えば、サッカーで難しい角度のシュートが決まれば2点、30m以上の長さのシュートが決まれば2点、ベースボールで満塁ホームランは5点、といったルール変更が行われれば、根本的な影響を及ぼすルール変更と考えられますが、ラグビーでは何度もそのレベルの変更が行われているのです。

 そして1970年代以降は「トライを取り易くするためのルール変更」が続いたように思います。

 例えば、ペナルティーキックがタッチキックとなった場合、以前は相手方ボールのラインアウトでしたが、現在はキックを蹴った側のボールのラインアウトです。反則を犯した方にとっては、相手にキックの権利が与えられる(地域獲得の権利が与えられる)上に、タッチキック後のボールの所有権まで相手のものとなるという、踏んだり蹴ったりのルール変更ですが、現在では当然のこととして定着しています。

 モールは、以前は守備側から崩すことが可能でしたが、一時期禁止され、最近再度守備側から崩すことが可能になりました。
 トライがなかなか取れない=見ていて面白くない、と考えたのでしょうか、モールプレーがルール上保護された時期が、つい最近までありました。モールがきちんと組まれてしまうと守備側から崩すことが反則になったのです。ドライビングモールからのトライが生まれやすくなったルール変更でしたが、逆にモールが組まれてしまうと、守備側に対抗手段が無い(正面から押し返せばよいのですが、実際には困難)ために、モールが多い=ボールの動きが少ない=見ていて面白くない、と考えたのでしょうか、2009年~2010年から、守備側によるモール崩しが再び可能になったように思います。

 この他にも守備側のプレーヤーが、ある地点から一定距離下がらなければならないといったルールも頻繁に設けられたり、変更されたりします。

 こうした「根本的な変更」は、プレーヤーに対して大きな影響を与えることはもちろんとして、観客にも大きな影響を与えます。例えば、モールを崩したプレーを見て「反則だ」と思ってみていたら、プレーが続行されていると、観客は違和感を覚え、あとからルールの変更があったことを聞いて、再び違和感を覚えるのでしょう。
 「なんだか変なスポーツだな」「しょっちゅうルールが変わっている」「昔見ていたラグビーとは違う」といった形です。こうした印象を観客に与えるのは、ラグビーの発展の大きな障害になると思います。(→続きへ)

 2012年MLBのポストシーズンは佳境に入っています。アメリカンリーグはデトロイト・タイガースがニューヨーク・ヤンキースを4勝0敗のスイープで下し、リーグチャンピオンシップを制してワールドシリーズへの進出を決めました。ナショナルリーグのリーグチャンピオンシップは、サンフランシスコ・ジャイアンツとセントルイス・カージナルスが3勝3敗と互角の勝負を展開、最終戦はサンフランシスコが圧勝して4勝3敗でリーグ優勝を飾りました。さて、いよいよワールドシリーズ2012が始まります。

 こうした試合を観ていると、プレーオフが特別なゲームであることを表す、様々な飾り付けが眼につきます。例えば、一塁側と三塁側のベンチ前には「2012アメリカンリーグ・チャンピオンシップ」とかいう表示が芝の上に多色で綺麗に描かれています。両チームのベンチの壁にも、同様の表示があります。テレビ画面に映し出される様々なシーンに、このゲームが、いつ行われた何の試合かということを示す情報が盛り込まれている仕組みです。
 これが、地区シリーズの時は、同じ位置に「2012ディビジョナル・プレーオフ」と、やはり綺麗に描かれていました。
 
 プレーヤー・審判員他の服装も同様です。ユニフォームの袖の部分や、帽子・ヘルメットにも、キチンと当該ゲームが何であるかが判るように、ワッペンやシールで表示されています。もちろん球場のあちこちにも垂れ幕といった形で飾り付けが行われていますので、観客がいやが上にも盛り上がる雰囲気作りが、随所に施されているという感じです。

 加えて、使用球にも表記されているそうです。ディビジョナル・プレーオフゲーム用、チャンピオンシップゲーム用、もちろんワールドシリーズ・ゲーム用のボールも用意されているのです。
 これは、なかなかテレビには映りませんし、ボールパークの観客にも通常は見えないものだと思いますが、MLBではホームランボールはもちろん、ファウルボールも捕球・捕獲したお客様に進呈されますし、イニング毎の3アウト目のボールを守備選手がスタンドに投げ込んだりしますので、その際にボールを入手したお客様にとって、あのプレーオフゲームで使用されたボールということが明確に判りますので、「記念度合」が一層高まる効果があると思います。ここまで狙っているとしたら、凄い徹底ぶりですが、そのボールを入手したお客様が、その後もMLBのファンであり続ける確率は、相当高いのではないでしょうか。

 これはNFL・NBA・NHLでも同じで、フィールドやコートやリンクにホームチームを示すマークやチーム名が綺麗に表示されている上に、当然ながらポストシーズンゲームの表示もキッチリ施されていますし、スーパーボールやNBAファイナルやスタンレーカップ・ファイナルの舞台の飾りつけは見事というか、素晴らしいものです。

 MLBやNFLは、多くの場合、天然芝への表記ですので、こうした飾り付けにも相当のノウハウが蓄積されていると思います。以前、プレーオフゲームが終わった後のグランドを見る機会がありましたが、さすがにペイントを消した跡が残っていて、比較的消しやすい塗料を使い、消しやすい技法で、芝に描き込んでいるとはいえ、直ぐには消えないんだなと思いました。

 いずれにしても、お客様に対して、お客様が来ている試合は「特別なゲーム」であることを肌で感じてもらう各種の工夫は、アメリカ・プロスポーツのノウハウであり、人気の秘訣のひとつであろうと思います。

 ポストシーズンのゲームだけではなく、レギュラーシーズンのゲームでも時折、特別な意匠が展開されます。

 例えば、MLBのピンクリボン運動(乳がん撲滅運動)への協賛ゲームでは、徹底したピンク色の展開が見られます。プレーヤー・監督・コーチ・審判員他、グランド内に居る全ての関係者のユニフォームへのピンクリボンの装着はもちろんとして、帽子・ヘルメットへの表示も万全です。

 一塁ベースなどのベースの一部にもピンク色が配されます。プレーヤーのリストバンドもピンク色のものが用意されているのでしょうか、プレーヤーによっては着用しています。更に、バットがピンク色のプレーヤーも居ます。バットは、個々のプレーヤーにより異なるものを使用していると思いますので、おそらく自らのバットをあらかじめ手交して、事前に着色してもらっているのでしょう。

 やや、やり過ぎではないかと思うほど、ピンクリボンとピンク色に溢れたゲームになります。ちなみにイチロー選手や松井選手が、ピンク色のバットを使用しているのは見たことがありません。この二人の日本人プレーヤーは、いつものバットにピンク色の塗料を塗ることを良しとしないのであろうと思います。

 他にも、ジャッキーロビンソン・ディというゲームがあります。黒人初のメジャーリーガー、ジャッキー・ロビンソンを記念するゲームで、毎年行われますが、当該日にゲームのあるMLBチームのプレーヤー全員の背番号が42番になるのです。いつもは2番のデレク・ジータも、13番のアレックス・ロドリゲスも、24番のミゲル・カブレラも、32番のジョシュ・ハミルトンも、51番のイチローも(マリナーズ時代)、55番の松井秀樹も、ロースターの全てのプレーヤーの背番号が42番になるのです。
 これも、ひとつの試合だけではなく、その日に行われる全てのMLBゲームのプレーヤーの背番号全部ということですから、結構大変な対応です。

 こうしたことを可能にしているのが、アメリカ4大プロスポーツに共通する「選手は身ひとつでロッカールームに来れば、道具は全てチームが準備する」という思想の存在です。この考え方のもとに、全ての衣装・舞台が準備されるのです。上質なエンターテイメントとしてのメジャー・プロスポーツにとって、衣装や舞台が大切な要素であることは、言うまでもありません。(→続きへ)

 NPBは、10月22日、セントラル・リーグのクライマックス・シリーズCSのファイナル・シリーズ第7戦?(第6戦でしょうか)が行われ、読売ジャイアンツが中日ドラゴンズを破り、日本シリーズに駒を進めました。

 MLBは、日本時間の10月23日ナショナルリーグNLのチャンピオンシップ・シリーズ第7戦が行われ、サンフランシスコ・ジャイアンツがセントルイス・カージナルスを破り、4勝3敗でリーグ優勝、ワールドシリーズに駒を進めました。

 今期のポストシーズンの結果は、不思議な程にNPBとMLBが似ています。単なる偶然には違いないのですが、記録に留めておきたいと思います。

 NPBのパシフィックリーグCSシリーズ・ファイナル・シリーズは、4勝0敗で日本ハム・ファイターズがソフトバンク・ホークスを破りました。
 MLBのアメリカンリーグALのチャンピオンシップ・シリーズは、4勝0敗でデトロイト・タイガースがニューヨーク・ヤンキースを破りました。

 NPBのセ・リーグCSファイナル・シリーズは、中日の3勝1敗から、巨人が3連勝し、4勝3敗で逆転勝ちしました。ペナントレースは、巨人が優勝、中日が2位でしたから、成績上位のチームが追い込まれてから、逆転した形です。
 MLBのNLチャンピオンシップ・シリーズは、セントルイスの3勝1敗から、サンフランシスコが3連勝し、4勝3敗で逆転勝ちしました。レギュラーシーズンは、サンフランシスコが西地区で優勝、セントルイスはワイルドカードですから、成績上位のチームが追い込まれてから、逆転した形です。

 NPBとMLBのプレーオフの結果が、これほど似ているのは珍しいことだと思います。
 
 そもそも、NPBのCS最終シリーズが4勝0敗決着というのが珍しい*上に、MLBのリーグチャンピオンシップ・シリーズが4勝0敗のスイープというのも珍しい**ことですから、これが重なるというのは極めて珍しいことになります。
(*2007年のCSシリーズ導入後、セ・リーグでは4勝0敗のケースは無し。パ・リーグでは2011年のソフトバンクに続いて2年連続2回目)
(**2000年から2011年の両リーグ24回のチャンピオンシップ・シリーズで、4勝0敗のケースは2回)

 さて、NPBでは日本選手権シリーズ(日本シリーズ)が、MLBではワールドシリーズが、シーズンを締めくくる大一番として行われます。

 NPBでは、CSファイナル・シリーズを4勝0敗で勝ち上がったのは、2011年のソフトバンク1チームだけですから、ファイナル・シリーズの成績と日本シリーズの成績の関連を観るにはサンプル不足です。クライマックス・シリーズは、まだ6年目の制度です。今年2012年のシリーズも積み上げる歴史の1ページとなるのでしょう。

 MLBでは、このブログで何度も申し上げているとおり、過密なスケジュールの下での戦いですから、少しでも体・心を休めることが出来るという点から、4-0で勝ち上がったチームの方が有利に思えます。実際、デトロイトはサンフランシスコより2日間は多く休めています。先発投手のローテーション調整やブルペン投手の休養という意味からも、デトロイトが有利と言えそうです。

 ところが、前述のMLB2000年~2011年のチャンピオンシップ・シリーズCSを4勝0敗で勝ち上がった2チームは、いずれもワールドシリーズで敗れています。
 2006年ALCSを4勝0敗で勝ち上がったデトロイト・タイガースは、NLCSを4勝3敗で勝利したセントルイス・カージナルスに、ワールドシリーズ1勝4敗で敗れました。
 2007年NLCSを4勝0敗で勝ち上がったコロラド・ロッキーズは、ALCSを4勝3敗で勝利したボストン・レッドソックスに、ワールドシリーズ0勝4敗のスイープで敗れています。

 MLBのリーグチャンピオンシップ・シリーズが7試合制になった1985年からの全ての成績を見ても、CSを4勝0敗で勝ち上がった5チームのワールドシリーズの成績は、優勝1チーム、敗戦4チームと、分が悪いのです。

 これがシーズン最後のシリーズということで、スケジュールが厳しくても能力が発揮できるのか、それとも試合が連続していた方が試合勘が良く働くので強いのか、理由はよく解りませんが、今年のデトロイト・タイガースが「不利な過去の実績」に対して、どのように戦っていくのかが、とても楽しみです。
 どちらのチームが勝つにしても、日本時間10月25日、サンフランシスコのホームAT&Tパークで行われる第一戦、および翌日の第二戦の結果が重要なポイントになりそうです。

 ちなみに、サンフランシスコが勝てば2010年以来7回目のワールドシリーズ制覇、デトロイトが勝てば1984年以来5回目の制覇になります。どちらも実績十分の名門チームということです。
 1905年から全国各地の競馬場で開催されていた帝室御賞典競走を、1937年・昭和12年に日本競馬会が設立されたことを契機にして、第一回帝室御賞典競走として統合・設立されたレースが、天皇賞に連なるレースです。第一回のレースは東京競馬場2600mコースで行われ、出走条件が3歳以上の牡馬・牝馬であった点(4歳以上の古馬限定で馬なかった)が意外な点です。
 1938年秋の帝室御賞典競走から、英国のゴールドカップ競走を手本として距離が3200mに延長され、4歳以上の古馬限定レースとなりました。

 ちなみに、この日本競馬会による帝室御賞典は、第一回が1937年12月の東京競馬場、第二回が1938年5月の阪神競馬場2700mコースでの開催となっていて、当初は東京・阪神両競馬場での開催でした。
 1944年、関西地区最古の競馬場である阪神競馬場(当初の名称は鳴尾競馬場)が海軍に接収されたために、会場を京都競馬場に移し、能力検定競走として実施されました。この後、春の会場は京都競馬場となりました。
 1945年、1946年は戦争の関係から、東京・京都ともに開催されませんでした。

 戦後1947年に復活し、名称も「天皇賞」になりました。「秋の天皇賞」は、「春の天皇賞」とともに、距離3200mで実施され、勝ち抜け制のレースとして一体運営されました。今考えると不思議なこととも思えるのですが、春・秋のどちらの天皇賞でも、一度優勝すると、その後どちらのレースにも出走できなくなるルールです。
 例えば、三冠馬シンザンは1965年秋の天皇賞に勝ちましたので、以降春・秋の天皇賞の両方のレースに出走できなくなりました。

 「天皇賞を正賞とするレース」ですから、当初から競馬関係者の思い入れの強い大レースでした。3歳馬限定の5つのクラシックレースとは別の、古馬限定レースの最高峰として、1度は勝ちたいレースとしての位置付けが揺らぐことはなく、「ひとつ勝てるとしたら、天皇賞と日本ダービーのどちらを選ぶか」というテーマは、再三新聞紙上を賑わす話題でした。

 こうして、古馬最高峰のレースとして、古馬の力量を試す長距離3200mのレースとして、輝かしい歴史を積み重ねてきた「秋の天皇賞」は、シンザンが優勝して以降、18年間連続して1番人気馬が勝てないという「荒れるレース」としても有名でした。春の天皇賞が比較的本命サイドのレースであったことと好対照のレースだったのです。

 この秋の天皇賞が、大きく変わる要因となった制度の変更が、1980年代に次々と実施されました。
① 1981年勝ち抜け制の廃止
② 1984年実施距離を3200mから2000mに短縮
③ 1987年3歳馬に門戸を開放

 この3つの制度変更は、いずれも大きな影響を齎しましたが、やはり1984年の距離短縮が最も大きな変更でした。
 中央競馬会肝いりの国際競走としてジャパンカップが開設されたのが、①の年1981年でした。例年11月下旬に開催されていた秋の天皇賞は、この年から開催時期が繰り上がり10月下旬の開催になったのです。有力馬に、秋の天皇賞とジャパンカップの両方に挑戦してもらうための措置であったと思います。

 この2つの大レースに挑戦する有力馬の関係者からの「3200mのレースと2400mのレースを1か月間に連戦するのはコンディショニングの点から難しい」という意見と「中距離の大レース創設」を希望する声に応える形で、秋の天皇賞の距離が1984年に2000mに短縮されたのでしょう。この年から、「秋の天皇賞」は「天皇賞(秋)」となり、連動する形で「春の天皇賞」も「天皇賞(春)」となったのだと思います。

 「距離も3200mと同じで、どちらも天皇賞ですが実施時期が異なるという扱い」から、異なるスペックのレースとしての天皇賞(秋)2000mと天皇賞(春)3200mになったのですから、極めて大きな変更であったと思います。

 この秋の天皇賞の距離短縮については、実施当初反対意見が多く出されました。歴史と伝統を誇る大レースですから「そもそも東京競馬場3200mの天皇賞が無くなることへの不満」「古馬の大レースは長距離で争われるべきといった意見」が数多く出された訳です。レースの性格を根本から変えてしまう変更でしたので、反対意見続出もやむを得ないことでした。この反対論は、その後の中距離レース全盛時代の到来に伴い、現在では聞かれなくなりました。

 また、距離短縮そのものよりも「東京競馬場2000mコース」での開催に対する疑問の声も多く出されていて、この点は現在でも指摘が続いています。東京2000mは、スタートから最初のコーナー(第二コーナー)までの距離が短く、また2002年までは第二コーナーの形状も極端な左急カーブであったことから、外枠の馬に相当不利なコースでした。2003年に第二コーナーの形状が見直されましたが、それでも依然として外枠は不利と言われています。

 有名な1991年のメジロマックイーンの1着入線から18着(最下位)への降着というレースでは、圧倒的なスピードを誇った同馬が、大外枠スタートから一気に第二コーナーに先頭で突っ込んだため、内枠の馬(他の全ての出走馬)が詰まる形になって、各馬の騎手が手綱を引き、中腰で立つような姿勢になったことから、走路妨害と見做されたための降着でした。

 とはいえ、4角を回ってからも差は拡大する一方で、ゴール前では5馬身以上の差になっていたことを考えると、メジロマックイーンの力量が圧倒的であったことも事実なので、このような異様なレースを生んだ要因のひとつが、東京2000mコースであったことも紛れもない事実だと思います。

 大レースは枠順による有利不利が無いコース(少ないコース)で開催すべし、というのは正論ですので、今後も連続した改善施策の実行が必要でしょう。

 さて、今回採り上げる競走馬は、ギャロップダイナ号とシンボリルドルフ号です。(→続きへ)

 友人が集まると「日本の歴代サッカープレーヤーの中でNO.1は誰か」という話題が出ることがあります。なでしこファンの皆さんには申し訳ないのですが、私達のようなオジさんサッカーファンになると、このテーマは自動的に「男子プレーヤー」を対象とすることになります。

 この種のテーマは、ファン一人一人の物差しやサッカーを見た年代、プレーヤーのポジションの違いなどにより、当然に意見が異なるので、結論が出ない話題ですが、それだけに何度でも採り上げられる点が良いところです。

 私は「一番というなら釜本だろう」といつも言っています。日本男子サッカー史上最高のフォワードFWプレーヤーといえば、釜本邦茂(かまもと くにしげ)選手であると思います。

 釜本は、1944年生まれで、プレーヤーとして活躍していた時期は1960年代~70年代ですので、Jリーグ設立1993年より20年以上前ですから、いわゆるサッカーをJリーグで憶えた世代の方々にとっては、昔の選手ということになります。

 一方で、国際舞台における日本男子サッカー史上最高の成績といわれている、1968年のメキシコオリンピック銅メダル獲得の時の中心選手であり、同大会の3位決定戦・対メキシコ戦のゴールシーンは、現在でも時々テレビで放送されますので、このシーンは見たことがある人も多いと思います。

 釜本選手のサッカープレーヤーとしてのキャリアを簡記します。

① 1960年京都府立山城高校に入学サッカー部に入部、すぐにレギュラー。同年10月の熊本国体高校サッカーの部で優勝。1962年1月、全国高校サッカー選手権大会で準優勝。
② 1963年早稲田大学入学。この年関東大学サッカーリーグで優勝、以後4年連続得点王。1964年正月の天皇杯決勝で日立製作所(現、柏レイソル)を破り優勝。同じく1967年正月の天皇杯決勝で東洋工業(現、サンフレッチェ広島)を破り優勝。(大学チームが天皇杯に優勝した最後の大会)
③ 1967年ヤンマーディーゼルに入社。1969年正月の天皇杯決勝で三菱重工を破り、ヤンマーが初優勝。
④ 1969年6月ウイルス性肝炎に罹病。以降、治療に3~4年を要する。
⑤ ヤンマーは、1974年・1975年の日本リーグ連覇、1975年の天皇杯優勝。
⑥ 1978年ヤンマーの監督に就任。選手と兼任。
⑦ 1982年右足アキレス腱を断裂。1984年正月の天皇杯決勝戦の途中出場を最後に引退。
・日本サッカーリーグ得点王7回、日本最優秀選手7回、メキシコオリンピック得点王。

 この間、高校・大学時代には日本ユース代表、1964年には19歳で日本代表入りし、東京オリンピック、メキシコオリンピック、ワールドカップ予選などに出場しています。日本代表として、国際Aマッチ76試合に出場し75得点。得点数は、なでしこジャパンの澤穂希選手に抜かれましたが、男子選手の記録としては、現在も最多得点記録です。(記録の取り方により計数が異なりますが、これはJFA日本サッカー協会の記録)

 [私が釜本選手を日本サッカー史上最高のFWプレーヤーと考える理由]

1. 倒れない・バランスが良いこと。釜本はタックルを受けても、なかなか倒れないプレーヤーでした。FW、それもエースストライカーですから、釜本がボールを持つと相手ディフェンダーDFが直ぐに寄ってきます。そして、体をぶつけてきたり、タックルをしたりします。これに対して釜本は、踏ん張ったりする仕草もなく、何事も無いような様子でプレーを続けるのです。

 特に、上半身が真っ直ぐに立っている感じです。有名な、メキシコオリンピック3位決定戦の2ゴールの映像でも、釜本の上半身は傾いていません。「倒れない」というのは、サッカーにおいてとても大切なことです。そして、容易にできることではありません。どんなにテクニックが優れた選手でも、タックルの都度、簡単に倒れる、バランスを崩すというのでは、テクニックを発揮できません。
 のちに読んだことですが、山城高校時代からバランスが良く、倒れない選手だったのだそうです。釜本のバランスの良さは、天性のものでした。

 現日本代表チームでは、本田選手がなかなか倒れないプレーヤーです。従って、本田にボールが渡ると中々奪われませんし、時間が稼げます。ボールが落ち着くのです。本田も「倒れない」という意味では相当なものですが、釜本の方がより倒れない選手であったと思います。そして、バランスが良いことは世界のトッププレーヤーの絶対条件です。

2. シュート力。そのパワー、スピード、正確性の何れも、日本サッカー史上最高でした。強烈なシュートも印象的ですが、形に拘らず「とにかく決める」ところが最も素晴らしい。国際Aマッチ76試合で75得点という確率の高さに、全てが表れています。

 国際試合で1試合平均1得点という得点力は、対戦相手のレベルに左右されるとはいえ、世界的にも滅多に実現できる水準ではありません。(例えば、アルゼンチンのメッシは2011年までに68試合19得点、ドイツのクローゼは2011年までに106試合59得点、ブラジルのロナウドは98試合62得点です)

3. 世界が認めたプレーヤーであること。メキシコオリンピック直後の1968年11月にFIFA主催のブラジル対世界選抜のゲーム(開催地は、ブラジル・リオデジャネイロ・マラカナン競技場)に、釜本は世界選抜のメンバーとして召集されました。ブラジルチームには、ペレやリベリーノ、世界選抜にはベッケンバウアーやヤシンといった世界最高の「プロサッカー選手が集うゲーム」に、「アマチュアの釜本」が召集されたのです。異例なことなのは、間違いありません。

 この試合に、釜本は出場しませんでした。他の日本代表チームのメンバーと一緒に帰国することを選んだのです。世界選抜のメンバーであり、当時の世界NO.1ゴールキーパーGKだったレフ・ヤシンが、釜本の欠場をとても残念がったと報道されていました。アマチュアで、プロの国際試合には一切出場していない釜本のことを、世界のトップ・プロプレーヤー達が、どのようにして知ったのかは判りませんが「本物は本物を知る」ということなのでしょうか。

 Jリーグ発足の25年も前の話ですので、日本人プレーヤーの意識も現在とは違っていたのでしょうが、いまでも参加して欲しかったと思います。釜本に、全盛時のペレやベッケンバウアーと同じピッチに立って欲しかったのです。
 釜本は、身長181㎝、体重80㎏の堂々たる体躯で、西ドイツのベッケンバウアーと同じ身長、ペレよりは大きなプレーヤーでした。当時の世界のトッププレーヤーに交じっても互角以上の体格・体力であったと思います。現日本代表では、本田選手とほぼ同じサイズです。

 釜本選手にとって残念なことは、1969年6月にウイルス性肝炎に罹ってしまったことです。当時は海外遠征での現地の食事により罹病するケースがあったのですが、釜本も犠牲となりました。3~4年間の治療期間を経て復活しましたが、正直に言ってパワー、スピードともに、1960年代比衰えてしまいました。25歳の時の罹病ですから、サッカープレーヤーとしての最盛期を迎える前のことです。この罹病が無ければ、日本人初の海外トップリーグの一流プロサッカー選手が誕生していたのかもしれません。

 昔、田舎のお正月・元旦は少年にとっては退屈でした。大人たちは、朝から酒盛りで賑やかにやりますが、こちらは遊びに出かけることもできず、テレビ位しか楽しみがありません。

 お昼になると、天皇杯サッカー決勝戦が国立競技場から中継されます。おそらく、1969年のゲームだったと思いますが、センターラインを越えて直ぐ、センターサークル内で、ヤンマーの釜本がシュートを打ちました。相手チーム三菱重工のゴールキーパーは、日本代表の横山選手です。ボールは変化しながら三菱重工ゴールを襲い、横山のセービング空しく、ゴールに飛び込みました。50m位の強烈なシュートでした。

 私はこれまで、日本・世界を問わず、あの釜本のシュートより強烈でコントロールが良いシュートを観たことがありません。

 2013年正月に実施される第89回箱根駅伝の予選会が、本日2012年10月20日に行われました。

 例年のように20㎞の距離を走り、各大学の成績上位10名の合計タイムが良い学校の上位9校が、正月の本戦に参加できるのです。(7位~9位は、関東インカレ大会の成績がタイムに加味されます)

 今年の予選通過大学は、1位日本体育大学、2位帝京大学、3位中央学院大学,以下、大東文化大学、上武大学、神奈川大学、日本大学、法政大学、東京農業大学の9校です。拓殖大学、専修大学、東海大学などの常連校が、予選落ちとなりました。

 実は、東京大学が箱根駅伝予選会を通過し、本戦に出場したことがあるのです。今から29年前1984年の第60回大会です。箱根駅伝の黎明期である1920年台の話ではなく、きちんと予選会が開催されるようになってからのことです。

 別に東京大学の駅伝ランナーの能力を過小評価しているわけではありませんが、意外な感じがします。全国の大学長距離ランナーの夢であり目標である箱根駅伝に、どちらかといえば勉学優先の東京大学が出場できたことには、やはり理由があるのではないでしょうか。

 ちなみに、陸上競技の競走の中でも「短距離競走」では、東京大学が好成績を挙げることは珍しくありません。兵庫県の灘高校もインターハイ短距離競走でメダリストを出しています。短距離競走は瞬発力と絶対筋力の水準が高ければ、好成績を残せるのです。記録と練習時間・量との相関性が低いといえます。

 一方、長距離競走においては、筋力・筋肉の質とともに心肺能力が重要な要素になります。体中に新鮮な酸素を速く・大量に継続して送り込む能力である「心肺能力」は、練習により強化されるもの、逆に言えば「走り込まないと向上しない」ものなのです。従って、長距離競走の成績は、練習量との相関性が高いのです。

 こうした性質を持つ長距離競走、その中でも平均区間距離が21.7㎞という大学長距離競走の中でも最長の部類に属する長距離競走で、かつ我が国で最も注目されている駅伝の予選会を東京大学チームが通過したというのは、ある意味では驚異的なことだと思います。

 さて、何故こうした驚異的な事実が生まれた理由について考えてみましょう。

 第一の理由は、その年の東京大学に長距離に強いランナーが揃っていたことです。当たり前だと言われそうですが、これが一番難しいことです。箱根駅伝は10区間のレースですから、10人のランナーが走ります。予選会も上位10名の合計タイムで競われるのですが、20㎞を相応のタイムで走れるランナーを10人以上揃えるのは、容易なことではありません。この年の東大には、そうした猛者が集まっていたということです。凄いことだと思います。

 第二の理由は、その年が第60回大会という節目の記念大会で、例年より5校参加校=予選通過校が多かったことです。現在も節目の大会は、参加校が上乗せされます。なんだ5校多かったのか、と言われそうですが、今年が記念大会であれば、その5校に入るのは頭書の拓大、専大、東海大といった駅伝強豪校ですので、ここに東大が入っているのは、当たり前と言うわけにはいかないのです。

 第三の理由は、この時代の箱根駅伝は、ライブ・フルタイムのテレビ放送が行われていなかったことです。正月2日・3日の日本テレビ系列による全区間ライブ放送が始まったのは1987年です。箱根駅伝というと、昔からライブのテレビ放送が行われていて、正月2日の往路、3日の復路は、朝早くから午後2時を過ぎるまで、ずーっと大学生ランナーがテレビに映し出されているという印象がありますが、1920年に始まった箱根駅伝の歴史からすると、まだ25年しか経っていないという感じです。東大が出場した1984年は、ライブのラジオ放送でした。

 第三の理由は、直接的な理由ではないのですが、テレビ放送が行われていない「関東学生陸上競技連盟が主催する関東地区の大学しか出場できない大会」だった箱根駅伝に、「全国の高校を卒業した有力長距離ランナーが集まる度合いが低かった」つまり、現在ほどレベルが高くなかったことに結び付きます。
 テレビによるフルタイム・ライブ放送が開始されてから、箱根駅伝は駅伝ファンの大会から、全国規模のメジャーな大会に変わったのです。これは、急速な変貌でした。

 1987年以降、高校駅伝界・長距離競走界で好成績を挙げた日本中の有力ランナーが、こぞって関東地域の駅伝有力校に進学するようになります。正月2日・3日のテレビに映る可能性が高いレースに、有力ランナーが出場したいと考えるのは無理のない話です。

 一方、大学経営の面から見ても、大学名を全国にPRする絶好の機会ですから、明治大学、早稲田大学、中央大学、日本大学といった、箱根駅伝黎明期からの伝統校だけではなく、山梨学院大学、神奈川大学、中央学院大学、帝京大学といった、それまで箱根駅伝にそれほど注力していなかった大学も、駅伝チームの強化を図り、参加・好成績を目指すようになりましたから、箱根駅伝全体のレベルも年々上がることになりました。

 1983年秋の予選会を勝ち抜き、1984年の本戦に出場した「東京大学の栄光の10人」(私の勝手な呼び方です)のひとりの方からお話を伺ったことがあります。「あの時代は、20㎞を1時間5分平均で走れば、予選を通過できました」と。10選手の合計で10時間50分となります。
 本日行われた2012年秋の予選会を当落ラインの9位で通過した東京農業大学の合計タイムは10時間10分41秒です。気象条件等から一概に比較はできませんが、やはりレベルは上がっていると考えてよいと思います。

 もちろん、この第二・第三の理由があるからといって、1984年第60回大会に出場した東京大学チームの栄光は、いささかも損なわれるものではありません。快挙であることは間違いありません。(東京大学の箱根駅伝出場は、この1回だけです)
 本稿で考えたいのは、テレビ放送が始まったことで、箱根駅伝の性質が変わったということです。

 中学生・高校生のスポーツ選択への影響や、高校有力長距離ランナーの関東地区大学への進学集中、いわゆる駅伝ファン以外の観客の増加といった事象です。これは、野球における甲子園大会に似ている面があると思います。

 ライブ・フルタイム・テレビ放送開始の功罪については、ここでは論じませんが、現在も箱根駅伝は大学駅伝ランナーの夢であり、最大の目標のひとつであることは、間違いありません。

 さて、本日の予選会で常連校の東海大学が予選通過できませんでした。1973年の第49回大会から続けてきた連続出場が途絶えてしまいました。村澤選手という絶対的エース(怪我で本日は走っていません)がいながらの落選は大変残念ですが、今更ながら過去40年間出場を続けてきた東海大学チームの諸先輩の努力の大きさを、感じさせる事実でもあります。

 1990年代の後半には、コンディショニングの失敗からか、練習のし過ぎからか、箱根駅伝本戦で途中棄権の大学が多い時期がありました。最近は、途中棄権が減ってきていますが、第89回大会に出場する20チームの全てが、2013年正月3日大手町のゴールに無事に帰ってきてほしいものだと思います。
 10月14日に行われた第17回秋華賞G1は、春の桜花賞G1、オークスG1の二冠を制していたジェンティルドンナが、春の二冠いずれも2着だったヴィルシーナを接戦の末ハナ差下して、優勝。いわゆる牝馬3冠を成し遂げました。

 牝馬三冠は、三冠目のレースがエリザベス女王杯であった時代の1986年のメジロラモーヌを含めて、ジェンティルドンナで4頭目の快挙です。

 ところで、このレースも2着だったヴィルシーナは、結果として牝馬三冠すべて2着の偉業?(本稿では「準三冠馬」と呼びたいと思います)を達成しました。牝馬三冠馬は4頭いるのに、準三冠馬はヴィルシーナ1頭ですから、実現の難しさでは、こちらが上という感じもします。

 牡馬の三冠レース、皐月賞・日本ダービー・菊花賞ですべて2着だった馬は、珍記録マニアの間では有名?な1958年・昭和33年の3歳馬カツラシュウホウ1頭です。ヴィルシーナの活躍で、牡馬・牝馬の準三冠馬が揃ったことになります。

 カツラシュウホウの記録が、ある意味でヴィルシーナに勝っている(異なっている)所は、ヴィルシーナが三冠全ての勝ち馬がジェンティルドンナ1頭であるのに対して、カツラシュウホウの方は、三冠全てのレースの勝ち馬が異なる点です。
 皐月賞はタイセイホープにクビ差の2着、日本ダービーはダイゴホマレにハナ差の2着、菊花賞はコマヒカリに1/2馬身差の2着となっています。いずれも僅差の2着ですから、カツラシュウホウの関係者は、さぞかし悔しい思いをされたことでしょう。

 準三冠馬がいるのであれば、準二冠馬もいるハズです。最近でも2011年のウィンバリアシオンが、オルフェーヴルが優勝した日本ダービー・菊花賞の2着馬です。

 直ぐに思い出すだけでも、1963年メイズイが優勝した皐月賞・日本ダービーの2着馬グレートヨルカ、1964年シンザンが勝った日本ダービーと菊花賞の2着馬ウメノチカラ(ウメノチカラは皐月賞3着と惜しくも?準三冠を逃しています)、1968年の皐月賞・日本ダービーの2着馬タケシバオー、1976年の皐月賞・菊花賞の2着馬テンポイント、1983年ミスターシービーが勝った皐月賞・日本ダービーの2着馬メジロモンスニー、と挙がりますので、ちゃんと調べればもっと居るのでしょうが、やはり「準」となると二冠馬は迫力に欠ける一方で、例えばグレートヨルカは残る一冠菊花賞に勝ち、テンポイントは天皇賞(春)・有馬記念に勝っているなど、他の大レースで勝っている名馬達を、準二冠馬と呼ぶのも不自然ですので、「準」は、準三冠馬のみを評価することにします。

 準三冠牡馬カツラシュウホウは、2歳時に朝日杯3歳ステークスという後のG1レースを勝っていますが、4歳古馬になってからも天皇賞(春)をトサオーにクビ差2着と、大レースにおける2着癖?は治りませんでした。それでも生涯成績は、25戦13勝と高い勝率を残していますし、阪神大賞典、中京記念、鳴尾記念といった数々の重賞も制していますので、一時代を築いた馬といって良いと思います。

 さて、準三冠牝馬ヴィルシーナです。こちらは、まだ重賞はデイリー杯クイーンカップG3の1勝です。オークスの時は、ジェンティルドンナに5馬身の差をつけられましたが、秋華賞はハナ差と詰め寄りました。実は、馬体重が432㎏→450㎏と18㎏も増えています。秋華賞ゴール前の瞬発力を観ると、重め残りではなく、筋肉が付いた18㎏増と思われますので、馬体が本格化したということでしょう。今後の彼女の活躍が、大いに期待されます。

 本稿は、とめどない話になってしまい恐縮ですが、多くの印象深い馬を思い出すことが出来ました。その点に免じて、お許しいただければと思います。

 NPBはクライマックス・シリーズの真っ最中。最終シリーズに入り、パシフィック・リーグは日本ハム・ファイターズが、セントラル・リーグは中日ドラゴンズが好調です。

 日本ハムは、昨10月18日の第二戦、武田勝投手が好投し、糸井選手が全得点に絡む活躍で快勝しました。
 特に、連日の糸井選手の活躍は素晴らしいと思います。軽々とスタンドに運ぶ様子を見ると、飛ばないボールのことなど忘れてしまいます。

 糸井嘉男外野手は、2003年に近畿大学から投手として自由枠獲得で日本ハムに入団。投手としては今一つの成績でしたので、2006年4月、当時の高田GMの意向で外野手に転向。2007年から一軍に上がるも、怪我も多く、2008年までは一軍と二軍を行ったり来たりしていました。本格化は2009年から、監督推薦でオールスター戦にも出場し、日本ハム打線の中軸打者としての活躍が始まりました。

 その魅力は、俊足・強肩そして長打力です。さらに、そのサイズとパワーも素晴らしい。伸長187㎝、体重88㎏は、NPBの野手としてはと大きく、MLBでも遜色ないサイズです。大型でありながら、走力・守備力に優れているプレーヤーですので、メジャー球団の熱い視線を受けていると思いますし、十分MLBでも活躍できる能力を備えていると思いますが、年齢は31歳と今がピークですので、このままNPBを代表する野手として長く活躍して欲しいものです。

 「俊足・好打」はNPB野球の伝統ですが、これにパワーが加わった糸井型のプレーヤーは、「NPB近代野球の結晶」と言えます。現福岡ソフトバンク・ホークス監督の秋山幸二選手も同じですが、このタイプのプレーヤーは、日本野球でも長身選手が多い投手からの転向により生まれるのかもしれません。観ていて楽しいプレーヤー、糸井選手のパフォーマンスに、今後も期待大です。

 セ・リーグは、戦前の予想を裏切り、中日が巨人に連勝しています。その原動力は若手先発投手陣。第一戦の大野雄大投手の好投にも驚きましたが、第二戦の伊藤準規投手には、またまたビックリ。正直に言うと、私は伊藤投手を昨日まで知りませんでした。

 伊藤投手は、岐阜城北工高から2008年にドラフト2位で中日入りした21歳。甲子園大会出場経験が無かった投手を、敢然と2位指名した中日ドラゴンズのスカウト陣の炯眼にも感心しますが、その18歳の新人投手に、エースナンバーの背番号18を付けさせた落合監督の眼も素晴らしい。やはり、本物は本物を知るのでしょうか。

 昨日のピッチングは球威抜群で、多少甘いコースに行っても巨人の打者は凡打を重ねました。これ程のスピードとキレのあるボールを投げるピッチャーを今まで認識していなかった自らを反省し、しかしとても楽しく観させていただきました。スタミナも十分で、回を追うごとに球威が増していた印象です。伊藤投手は、これまでペナントレースでは目立った成績を残していませんので、この試合の好投を自信に変えての、今後の大活躍が十分期待できます。

 1球1球のボールの軌道、キレを観るだけでも楽しめる投手というのは、まさにプロ野球のピッチャーです。結果としての勝ち負けに拘るのはアマチュアスポーツ。例えば、甲子園大会では一度負ければ、学校に帰らなければなりません。

 一方、プロスポーツは、強くなければならないが、絶対に勝たねばならない訳ではありません。目的が「お客様に楽しんでいただくこと」だからです。「勝つためには手段を選ばない」というやり方は、お客様を白けさせるリスクがあります。アマチュア野球では到底観ることができないレベルの「非日常的な」動き・絵を提供してくれることが、プロ野球の醍醐味なのではないでしょうか。

 186㎝とNPBでは長身の体を上手く使って、素晴らしい投球を生み出していた伊藤投手。吉見投手を始めとする先発投手陣が故障で次々と戦列を離脱し、苦しい戦いが予想された中日ですが、ヤクルト戦に続いて、若手の投手陣が大活躍。「大戦力」と言われる巨人と互角以上の戦いを展開しています。巨人もこのまま引き下がるわけにはいかないでしょうから、セ・リーグの最終シリーズは、厳しい戦いが続くのでしょう。

 今年のペナントレースでは、スモール・ベースボールならぬ「小さな野球」が多かった印象のNPBですが、昨日の糸井・伊藤の両プレーヤーからは、伸びやかで大きな野球を魅せていただきました。このような高いレベルのプレーが、本来のNPBのプレーであり、世界のベースボールを牽引する要素なのでしょう。
 10月21日、京都競馬場芝3000m外回りコースで行われる、第73回菊花賞競走の予想です。

 出走の可否が注目されていた日本ダービー馬ディープブリランテが直前回避という残念なニュースも入りましたが、皐月賞馬のゴールドシップを始めとして18頭のメンバーが揃いました。

 軸馬ですが、格からいっても、近時のレース結果からいっても、調教の様子からいっても、1枠1番のゴールドシップをおいて他には見当たりません。特に、トライアルレース神戸新聞杯2400mの勝ち方が素晴らしいものでした。3歳馬には、長距離3000mへの適性を観るレースが、菊花賞以前にはありませんので、本当の適性は不明なのですが、ゴール前の脚色も十分でしたので、少なくとも今回出走馬の中で最も安定した成績を期待できる馬は、ゴールドシップということになります。

 対抗馬候補ですが、第一には1枠2番のフェデラルホール。未勝利・特別3連勝の上がり馬です。ステイゴールド産駒でもあり、長距離に強い可能性があります。
 続いては、2枠4番のラニカイツヨシ。2連勝の後、前走トライアルレースG2セントライト記念5着という成績ですが、強いところとの初対戦で、やや太め残りだったかもしれません。ひとたたきして馬が変わっているようなら期待できます。
 続いては、3枠6番ロードアクレイム。神戸新聞杯2着は立派。ディープインパクト+トニービンの血統から、素軽く3000mをこなしてくれれば着はあります。
 続いては、4枠7番のエタンダール。セントライト記念4着ですが、G1日本ダービーにも出走しています。G1レースでの経験を活かせれば、着はあります。
 続いては、5枠10番のマウントシャスタ。G1NHKマイル、G1宝塚記念に出走の後、神戸新聞杯3着。もまれてきた強さが出れば楽しみです。
 続いては、6枠12番のコスモオオゾラ。春の弥生賞G2の勝ち馬でクラシック戦線の主役の一頭でした。ダービー6着以来の出走ですが、地力は侮れません。
 続いては、7枠13番のダノンジェラート。2連勝の後、セントライト記念3着の上がり馬。4戦2勝、2着一回3着一回の安定した成績も魅力です。
 続いては、8枠16番のスカイディグニティ。セントライト記念2着馬。菊花賞にも強いブライアンズタイム産駒です。
 続いては、8枠17番のタガノビッグバン。3連勝中。ようやく馬体が本格化した感じです。
 最後は、8枠18番のトリップ。G1レースの常連、皐月賞・日本ダービーへの出走経験および弥生賞2着の実績は侮れません。

 以上から、対抗馬を選定します。
 対抗馬一番手は、スカイディグニティ。セントライト記念のレース振りが良かったと思います。ゴール前フェノーメノを追い詰めた脚には、まだまだおつりがあると観ます。
 対抗馬二番手は、トリップ。今年は葦毛の年と考えて、ゴールドシップとの1・2フィニッシュもあるのでは。
 対抗馬三番手は、ロードアクレイム。神戸新聞杯からの好調を維持していると観ます。

 今回は、以上の4頭に期待します。

 ゴールドシップが祖父メジロマックイーンのようなレースを見せてくれるかどうか、注目です。
 先の稿で菊花賞の歴史などについて触れました。菊花賞は、既に72回の歴史を誇るクラシックレースですから、その勝ち馬にも名馬がずらりと並びます。また、記憶に残る馬も数多く居ます。

 その優勝馬達の中から今回採り上げるのは、1992年の勝ち馬ライスシャワーです。ライスシャワーは、父リアルシャダイ、母ライラックポイント、母の父マルゼンスキー。生涯成績25戦6勝。2歳から6歳までの足掛4年間の競走馬成績においては、勝率も低く、着外のレースも時々ありましたから、いわゆる名馬には当たらないのかもしれませんが、極めて印象深い馬でした。

 多くの競馬ファンが、1992年のクラシック路線においてライスシャワーという馬を認識したのは、菊花賞競走であったように思います。私も菊花賞において、あらためて認識したという記憶です。
 ところが、実はライスシャワーは、日本ダービーで2着、菊花賞トライアルの京都新聞杯でも2着の成績を残しているのです。クラシック路線の主要なレースで、連続して2着に入っているのに印象が薄いのは、皐月賞・日本ダービーを制し、京都新聞杯も快勝したミホノブルボンの印象が強いためなのでしょう。

 良血とはいえないが、徹底的なトレーニングにより、粘り強い逃げ脚質を完成させていたミホノブルボンは、危なげなく二冠を優勝し、トライアルも制していましたから、三冠馬誕生間違いなしという見方をされていたと思います。なにしろ、強い上に逃げ馬ですから、自分でレースを作れますので、展開に左右されるリスクも低いのです。

 とはいえ、この戦歴=ミホノブルボン1着・ライスシャワー2着、が続いている状況を見ると、ミホノブルボン陣営にとってはライスシャワーの存在が相当大きなものであったことも想像できます。ここまで9戦して、新馬戦とオープン特別の2勝しかしていない馬が、デビュー以来7戦7勝、無敗の二冠馬ミホノブルボンの脅威となっていたのです。

 1992年の菊花賞は、予想通り4角をミホノブルボンが先頭で回り、京都競馬場の直線でライスシャワーが追いすがり、残り100m位のところで交わしてゴールイン。1・1/4差でライスシャワーが勝ちました。当時の3000m日本レコード3分5秒0の走りでした。
 ミホノブルボンからすると、例年ならば十分に勝てていたレースです。何故同期に、ライスシャワーという生粋のステイヤーが居たのか、とても残念であったことでしょう。生涯唯一の敗戦を喫し、その後脚部不安を発症して引退しました。

 ライスシャワーは、有馬記念G1、目黒記念G2と2500mのレースを使い、8着・2着の成績で1993年3月中山競馬場の日経賞G2に出走しました。私がライスシャワーの勝ったレースを競馬場で観たのは、この時だけでした。曇天の中山でしたが、いつものように一生懸命同じスピードで走り、ゴール前で先頭に立ち、優勝しました。440㎏余りの小柄で細い馬体ですが、堂々としたレース振り。一番人気に応えたライスシャワーは、心なしか嬉しそうに見えたのを憶えています。

 さて、天皇賞(春)への準備が整い西下したライスシャワーの前には、春の天皇賞2連覇中の大豪メジロマックイーンが立ちはだかりました。マイルから長距離までカバーする競走能力が極めて高い馬ですから、長距離専門のライスシャワーとしても容易には勝てない相手です。

 この天皇賞(春)のレースのパドックをテレビで観た私は、ビックリしました。ライスシャワーの馬体重が430㎏、前走△12㎏という減少です。大きな馬の△12㎏ではないのです。何かあったのかな、と思いながら馬体を観ると、ガレているのではなく、ギリギリの仕上りです。(後で読みましたが、猛烈なトレーニングを積んだのだそうです)

 レースは、メジロパーマーが逃げ、マックイーンが追走し、それをライスシャワーが追いかける形で4角を回りました。京都の直線でマックイーンが先頭に立ちます。それをヒタヒタとライスシャワーが追いかけ、残り150m位で交わしてゴール。2・1/2の差、タイムは3200m3分17秒1のレコードでした。
 メジロマックイーンも、前年・前々年のレースに負けない、いや勝るレースをしたのですが、そこに生粋のステイヤー・ライスシャワーが走っていたのです。

 その2年後、ライスシャワーは自身6歳の春の天皇賞を再び制し、1995年6月の宝塚記念G1にファン投票1位で選出され、出走しました。この年は、1月に阪神大震災が発生したため震災復興記念競走にも位置付けられた宝塚記念でした。
 私は、デビュー直後以外には2500m未満のレースに勝利したことが無いステイヤーのライスシャワーが2200mの宝塚記念に出ても、おそらく勝てないだろうが、しっかりと走ってほしいと思いながら、テレビを観ていました。

 京都の第3コーナーで、ライスシャワーは前のめりに倒れました。左前脚脱臼・粉砕骨折、予後不良との判断、その場で薬殺処分となり、トラックで運ばれました。ブルーシートの陰でライスシャワーは、息を引き取りました。

 4歳春の天皇賞を勝った段階で引退しても良かったのに、少しでも人気のある種牡馬になるために2000mの天皇賞(秋)G1や2200mの京都記念G2に何度も挑戦し、2200mの宝塚記念で散ったライスシャワーは可哀そうだ、と思ったことを憶えています。

 ライスシャワーは、生粋のステイヤーでした。私はステイヤーの走りを「相当長い距離を、同じ速度でゴールまで駆け抜ける能力」と考えています。
 従って、タケシバオーやメジロマックイーン、テイエムオペラオー、あるいは全ての三冠馬のように「その高い競争能力で長距離をも十分にカバーする」馬をステイヤーとは呼びません。
 
 ミホノブルボンもメジロマックイーンも、京都競馬場の直線走路でライスシャワーの追走を受けた時に、必死に逃げました。普通の相手なら、この二の足で諦めるだろうという感じで突き放しにかかっています。
 しかし、ライスシャワーは同じ速度で走り続けました。根負けした感じで、ミホノブルボンもメジロマックイーンも力尽き、ゴール前ではスピードが急に落ちました。この走りこそ、生粋のステイヤーのものだと思います。
 もちろん追い抜こうとして走っているのですが、急に加速するわけではなく、一定の速度に加速したら、そのまま同じ速度でゴール板を駆け抜けるのです。

 私の基準では、これまで観てきた競走馬の中で生粋のステイヤーと呼べるのは、ライスシャワーとタケホープとグリーングラスの3頭だけです。

 生涯25戦6勝。デビュー直後の3戦2勝を除くと22戦4勝。4勝の内訳は、菊花賞G1、天皇賞(春)G1、日経賞G2、天皇賞(春)G1。なんだか、日経賞が余計な重賞勝ちに見えるような戦績ですが、私は日経賞のライスシャワーの走りを一生忘れないでしょう。

 国際親善試合、日本代表対ブラジル代表のゲームは、現地10月15日、ポーランドのウロツワフ競技場で行われ、ブラジルが4-0で日本を破りました。

 体調十分な時の世界トップチームの強さが感じられるゲームで、彼我の力の差が明確に解るゲームでした。

 ブラジルの勝因、日本の敗因について考えてみます。

1. ブラジル代表メンバーの動きがとても良かったこと。多くのプレーヤーの体調が良かったのだと思います。いつもハードスケジュールの中で試合に出続けているスタープレーヤー達ですが、今回は休養も十分だったのではないでしょうか。もし、スケジュールがそれ程楽なものではなかったとしたら、体調管理が上手く行ったのでしょう。これだけ動きが良いブラジル代表を見るのは、久しぶりでした。

2. スピード、テクニック、運動量のいずれも、ブラジルが大きく日本を上回っていたこと。もともと地力に勝る相手に対して、運動量でも劣っていては勝負になりません。結果として、ブラジルのプレーヤーは縦に動くことが出来ました。パスもドリブルも日本ゴールに向かって行われますので、日本の最終ラインは後退するばかり。あっという間に日本ゴールの10m以内に入って来ます。
 一方、日本のパスは横方向ばかり。前に出すことが出来ないので、仕方なく横にパスをするしかありませんでした。ブラジルの最終ラインは不動。ブラジルという「大きなライオンの周囲を怖そうにぐるぐる回り、時々背中に触るだけ」といった感じでした。

3. 狭い地域でのボールさばきにおいて、ブラジルが圧倒していたこと。中盤および両チームのゴール前におけるイーブンボールへの働きかけのスピード・正確性ともに、ブラジルが遥かに上回っていました。ブラジルプレーヤーの圧力に押されていたのか、日本のプレーヤーは「後ろ重心」の体勢でいることが多く、目の前のボールにさえ、脚を出したり、確保する動きが取れませんでした。ブラジルゴール前で、日本が攻撃している時でさえ、同様でした。ブラジルディフェンダーDFチアゴ・シウバの再三の好プレーは印象的でした。

 以上から、ブラジルの圧勝となった訳ですが、上記1.2.3.を踏まえた試合運びの点では、パウリーニョの1点目が効いたと思います。試合全体として、ブラジルのスピードについていけない日本チームでしたので、ボールを左右に振られると大きなスペースが直ぐに出来てしまいます。

 ここで、ブラジルのミッドフィールダーMFパウリーニョがミドルシュートを放ち、日本ゴール向かって左隅に決まりました。素晴らしいシュートでした。強さ、回転、コースとも完璧なシュートでしたが、一番素晴らしかったことは「決まったこと」です。これで1-0とリードし、ブラジルは「余裕を持って」戦うことが出来るようになりました。(→続きへ)
 このブログでも、アメリカ4大スポーツを採り上げる機会が多いのですが、これはMLB(ベースボール)、NFL(アメリカンフットボール)、NBA(バスケットボール)、NHL(アイスホッケー)の4つのリーグのプレーが、とても面白いからです。様々な理由がありますが、とにかく面白い。見る者を楽しませてくれる「仕組み」が構築されています。プレーヤーは、その仕組みの中で、自らの実力を如何なく発揮して、世界最高水準のプレーを展開します。

 面白いからお客様が入り売り上げが上がる、売り上げが上がり利益が出るのでプレーヤーや監督・コーチに高い報酬を提供できる、高い報酬を目指して世界中からトッププレーヤー他が集まる、プレーが一層面白くなる、面白いからお客様が一層多く入る・・・と良い循環が繰り返されています。

 もちろん、それぞれの競技・団体が、最初から現在のような「仕組み」を構築していたわけではなく、複数のリーグが統合されたり、いくつかの事件を経たりして、概ね1970年~1980年頃に、現在の形になったように思います。アメリカ4大スポーツは長い歴史を持っていますが、現在の形になったのは、比較的新しいことであると考えた方が良いと思います。

 個別のリーグの生い立ちなどについては、いずれ書くことがあると思いますが、ここではまず、4つのリーグの「仕組み」の基本部分・フレームについて採り上げます。この基本情報だけでも、大変興味深いものだと思いますので。

1. MLB(メジャーリーグ・ベースボール)
① 設立1903年(アメリカンリーグとナショナルリーグの2リーグが成立し、ワールドシリーズが始まった年)
② 所属チーム数30チーム(アメリカに本拠地29チーム、カナダに本拠地1チーム)
③ チームの組み分け 
・アメリカンリーグ東地区5チーム・中地区5チーム・西地区4チームの計14チーム
・ナショナルリーグ東地区5チーム・中地区6チーム・西地区5チームの計16チーム
④ 試合数 レギュラーシーズン各チーム162試合(4月~9月)
⑤ プレーオフ 各リーグの各地区優勝チーム3チームと各地区2位のチームの中で勝率上位2チームによるワンゲームマッチを勝ち上がった1チームの計4チームによるトーナメント方式。10月に実施され、ディビジョナルプレーオフ→リーグチャンピオンシップと進み、各々のリーグの優勝チームがワールドシリーズを戦う。

2. NBA(ナショナル・バスケットボール・アソシェーション)
① 設立1946年
② 所属チーム数30チーム(アメリカ29チーム、カナダ1チーム)
③ チームの組み分け
・イースタン・カンファレンス アトランティック地区5チーム、中地区5チーム、南東地区5チームの計15チーム
・ウエスタン・カンファレンス 北西地区5チーム、パシフィック地区5チーム、南西地区5チームの計15チーム
④ 試合数 レギュラーシーズン各チーム82試合(10月~翌年4月)
⑤ プレーオフ 各カンファレンスの各地区の勝率1位の3チームと残るチームの中で勝率上位5チームの計8チームがトーナメント方式*で戦い、カンファレンスのチャンピオンチームを決める。各々のカンファレンスの優勝チームが6月にNBAファイナルを戦う。
(*各カンファレンス内の1位対8位、2位対7位、3位対6位、4位対5位の対戦)

3. NHL(ナショナル・ホッケー・リーグ)
① 設立1917年
② 所属チーム数30チーム(アメリカ23チーム、カナダ7チーム)
③ チームの組み分け
・イースタン・カンファレンス 北東地区5チーム、アトランティック地区5チーム、南東地区5チームの計15チーム
・ウエスタン・カンファレンス 北西地区5チーム、中地区5チーム、パシフィック地区5チームの計15チーム
④ 試合数 レギュラーシーズン各チーム82試合(10月~翌年4月)
⑤ プレーオフ 各カンファレンスの各地区の勝ち点**1位の3チームと残るチームの中で勝ち点上位5チームの計8チームがトーナメント方式*↑で戦い、カンファレンスのチャンピオンチームを決める。各々のカンファレンスの優勝チームが6月にスタンレーカップ・ファイナルを戦う。
(**勝ち点は、勝ちに2、60分での負けに0、延長戦・シュートアウトでの負けに1の配点)

4. NFL(ナショナル・フットボール・リーグ)
① 設立1920年
② 所属チーム数32チーム(アメリカ32チーム)
③ チームの組み分け
・アメリカンフットボール・カンファレンス 東地区4チーム、北地区4チーム、南地区4チーム、西地区4チームの計16チーム
・ナショナルフットボール・カンファレンス 東地区4チーム、北地区4チーム、南地区4チーム、西地区4チームの計16チーム
④ 試合数 レギュラーシーズン各チーム16試合(9月第二週から翌年1月第一週までの17週間で16試合。各チーム異なる1週の休みがある)
⑤ プレーオフ 各カンファレンスの各地区優勝の4チームとそれ以外のチームの中で勝率上位2チームの計6チームがトーナメント方式で戦う。各々のカンファレンスの優勝チームが、2月の第一日曜日に開催されるスーパーボールに出場する。

 以上が、アメリカ4大プロスポーツの基本的なフレームになります。毎年細部の見直しがありますが、大枠はこの形です。さて、少し比較してみましょう。
(→続きへ)
 我が国のクラシックレースのシーズン掉尾を飾るレースが、菊花賞競走です。今年は、10月21日に、例年通り京都競馬場芝外回り3000mコースにて開催されます。淀の京都競馬場では、様々なレースが開催されますが、やはり「菊花賞」と「天皇賞(春)」の2つの長距離レースが、最も京都競馬場に相応しいレースのように思います。

 1938年に設立された菊花賞のモデルとなったレースは、イギリスのクラシックレースのひとつである「セントレジャー・ステークスS」であることは有名な話です。セントレジャーSは、5つのクラシックレースの中で最も古い歴史を持っています。

 それぞれのクラシックレースの第一回が開催された西暦年を記します。
・1000ギニー競走 1814年 3歳牝馬限定
・2000ギニー競走 1809年 3歳牡馬牝馬限定*
・オークス競走 1779年 3歳牝馬限定
・ダービー競走 1780年 3歳牡馬牝馬限定
・セントレジャー競走 1776年 3歳牡馬牝馬限定

(*サラブレッドの生産推進・能力判定のためのレースであることから、当初からセン馬(去勢された牡馬)の出走は認められていません)

 セントレジャーSは、サラブレッドのスタミナを測るためのレースですから、クラシックレースの中で最も距離が長く、イギリスのドンカスター競馬場14ハロン132ヤード(約2932m)で行われています。設立された1776年から1812年までは16ハロン(約3200m)のレースでしたから、200年前に少し短くなりました。

 現在では世界中の主要な競馬で、2000m前後のレースが大半を占めるようになりましたが、20世紀の初頭までは、スピードとスタミナを併せ持つサラブレッドが最上とされていましたので、現在でいうところの長距離レースが多かったのです。

 例えば、現在全世界で走っているサラブレッドの90%以上の祖先と言われているエクリプス号は、1769年から1770年の競走馬生涯で18戦18勝の成績ですが、この18戦の内16戦は4マイル(約6400m)のレースです。一番短いレースが2マイル(約3200m)、残る1レースが3マイル(約4800m)ですから、2000m前後のレースは走ったことが無いことになります。

 加えて、18戦の内、7戦が「ヒートレース*」と呼ばれる、先に2勝あるいは3勝した方が勝ちというレースでした。エクリプスは、その7戦いずれも2勝先取のレースを2回の競走で勝っていますが、例えば4マイルのレースを2回であれば、12800mを1度のレースで走ることになりますので、本当にスタミナ勝負のレースばかりだったということになります。(*18世紀半ばまで、貴族同士の競馬などで採用されたレース形態のこと。ちなみに、ヒートレースで僅差の場合には同着とされて「デッドヒート」と呼ばれました。現在、接戦のことをデッドヒートと呼ぶのは、ここから来ています。意味は少し違いますが)

 18世紀の競走馬は、現在の基準でいえば「スタミナ」が物凄くある馬が強いとされていたわけです。こうした、長距離に強い馬の子孫が、現在では主に1600m~2000mのレースを競い合っているというのは、ある意味では不思議なことです。18世紀前半~半ばにかけて2000m前後の距離のレースが開催されていて、その勝ち馬が始祖として残っていたら、現在のサラブレッドの血統地図は、大きく異なるものになっていたかもしれません。

 とはいえ、エクリプスが走っていた時期から10年後には、ダービー・ステークスやオークス・ステークス(両方とも約12ハロン、約2423m)が開始されていますので、イギリスにおいても、当時でいうところの「短距離2400mのレース」が増えてきたということになります。
 そして、その短距離レースで競い合い、勝利を収めた馬の子孫を選別・交配していった結果として、エクリプスの子孫ばかりが残ったのですから、エクリプス本人というか本馬?は3200m未満のレースは未経験だったけれども、その子孫は2400mあるいはそれ以下の距離のレースにおいても好成績を収めたことになります。これは先程とは別の意味で、不思議なことと言えるでしょう。

 さて、そのセントレジャーSをモデルとして、我が国において1938年に「京都農林省賞典4歳呼馬」の名称で設立されたレースが、現在の菊花賞競走であることは、以前の本ブログでも書きました。距離は、2932mではなく3000mとし、ほぼ一貫して京都競馬場にて実施されて来ていますので、競走馬能力の個別比較、時代を追っての比較にも好適で、その点からも意義深いレースです。

 本家のセントレジャーSは、競馬レース全体の短距離化に伴い、英国ダービーを制した馬が殆ど出走しなくなったために、残念ながらその重要性・地位が著しく低下してしまいました。英国競馬において、最後の三冠馬は1970年のニジンスキー号ですから、40年以上三冠馬は出ていません。
 今年2012年、久しぶりに2000ギニー、ダービーの二冠を制したキャメロットがセントレジャーに挑戦し、惜しくも2着に終わったことは、別稿にて記載の通りです。

 「距離が長すぎるセントレジャーには、ダービー他の大レースを制した馬は挑戦しない」と言われて久しいのですが、今年のキャメロットの挑戦をみても解るように、この20世紀終盤から言われてきた「常識」が、見直されつつある、つまりセントレジャーSも、歴史あるクラシック競走として、長距離G1競走として、再評価されつつあるように思います。

 「再評価」の動きの最たるものは、3歳牝馬の挑戦です。1988年から2011年の間、牡馬の英国クラシックレース勝ち馬は、1頭もセントレジャーSに挑戦していませんが、牝馬の同クラシックレース勝ち馬は6頭(オークス馬5頭、1000ギニー馬1頭)が挑戦し、1頭が勝っています。

 凱旋門賞の稿でも述べましたが、ロンシャン競馬場2400mの厳しいレースを、2年連続で牝馬が制し、今年などは4歳牝馬で斤量が大きく恵まれていたわけでも無かったことを考え合わせると、「スタミナが必要なレース」における牝馬の活躍が目立ってきているのです。英ダービー馬キャメロットの挑戦も、こうした3歳牝馬の挑戦実績を踏まえて行われたように思います。
 今、世界の2400m以上のスタミナを要するレースでは「牝馬が元気」ということになります。

 一方、我が国では72回の歴史を誇る菊花賞競走において、牝馬の勝ち馬はクリフジとブラウニーの2頭だけで、それも1947年・昭和22年以前の勝ち馬です。近時は、牝馬の出走自体も殆どありませんので、菊花賞3000mは「男馬のレース」ということになります。
 加えて、我が国では「三冠馬」の市場価値は一向に衰えないので、皐月賞・日本ダービーの春の二冠を制した馬は、夏を順調に過ごしさえすれば、菊花賞に出走してきます。この点も、従来の本場イギリス競馬とは異なる点です。

 ただし、三冠を狙う馬以外の春のクラシックレース好走馬となると話は別で、天皇賞(秋)に3歳馬が出走可能となったこともあって、必ずしも菊花賞には拘らないケースが増えていることも事実です。

 以上の傾向から、近時の菊花賞は、ディープインパクトやオルフェーヴルといった三冠馬が生まれるレースである一方で、2009年スリーロールス、2010年ビッグウィークのように、特別レースを勝ち上がった馬が、いきなりG1菊花賞を制し、その後の重賞レースでは好成績を残せないため、結果として「重賞勝ちは菊花賞のみ」という馬も出てきているのです。

 従って、菊花賞競走のレース予想は難しいものとなっていて、三冠を狙う馬が出走してくれば、当該馬を軸に考えればよいのですが、そうでない年(大半の年)は、条件馬が特別レースを勝ち上がって、初めて重賞レースに挑む場合でも、その中から長距離に強そうな馬を見出して、勝つ馬を予想することになりますから、所謂「荒れるレース」になりやすいのです。

 加えて、2010年からは外国調教馬にも門戸が開放され、国際レースとなりましたので、見たこともない馬が菊花賞に登場することが可能になりました。1着賞金1億1200万円(2011年)は、円高の影響もあり世界的に見ても高額です。日本馬の上がり馬でも十分に勝負になるレースということであれば、海外G1ホースというほどの実績が無い馬でも、今後挑戦してくる馬が増加することでしょう。

 今年の菊花賞には、日本ダービーを制したディープブリランテがキングジョージ6世&QES出走後、ぶっつけで挑戦してくるようですし、皐月賞馬ゴールドシップも長距離に強いとみられる血統(母の父がメジロマックィーン)を背景に出てきますから、春のクラシック馬が登場するという点では、期待が持てます。但し、日本ダービー2着馬で、菊花賞トライアルレース・セントライト記念を制したフェノーメノは天皇賞(秋)に回るようです。

 これに、現時点で賞金1200万円以上の馬なら出走できそうですので、数々の上がり馬が加わって、2012年菊花賞を構成することになります。
 菊花賞の歴史を彩ってきた2つの勢力が激突するという意味で、とても楽しみなレースです。
 2012年MLBアメリカンリーグ・チャンピオンシップゲームの第一戦は、9回表を終わって4-0でデトロイト・タイガースがニューヨーク・ヤンキースをリード。このままデトロイトが押し切るように見えました。

 9回裏デトロイトのマウンドは、クローザーのバルベルデ。ポストシーズンに入って調子は上がっていませんが、デトロイト絶対の守護神です。

 1死ランナー1塁で、打席にはイチロー。ここは繋いでクリーンアップに期待したいところです。イチローは、前の打席でレフト前にクリーンヒットを放っていて、上り調子。イチローの特徴は固め打ちですので、この試合既に2本のヒットを打っていましたから、期待できます。
 高めのボールを綺麗に打ち返した打球は、切れずにライトポール際に入ってホームラン。強く引っ張ればファウルになるところを上手く運んだ技ありの一打でした。これで4-2。静かだったヤンキースタジアムが、ようやく湧いてきました。

 そして再び2死でランナーを一人置いて、ラウル・イバニェスに打順が回りました。先日のディビジョナル・プレーオフで、同点ホームラン・サヨナラホームランの連発という奇跡を演じたイバニェスですから、この打席でも期待が高まり、スタジアムは騒然としてきました。
常識的に考えれば、いつもいつもイバニェスが劇的なホームランを打つとことは、有り得ないのですが、何故かそんな雰囲気になってしまうのが、スポーツの怖いところです。

 ここで、イバニェスが2ランホームラン!信じられないことが起こりました。ヤンキースを救ったのは、シアトル・マリナーズ出身の2人のプレーヤーでした。
観客はお祭り騒ぎです。4-4の同点。試合は、延長戦に入りました。

 この3年間、ヤンキースは新陳代謝が上手く行かず、主力選手の高齢化に伴って個々のプレーヤーのパフォーマンスが徐々に低下し、それに伴ってチーム力も低下しました。

 打線も投手陣も、他のプレーオフ進出チームに比べて見劣りすると、以前の本ブログでも書きました。おそらくヤンキースのファンでさえ、それを感じていたのでしょう。今日のヤンキースタジアムは47122人の入場と発表されましたが、空席が目立ちました。

 そうした劣勢の状況下でも、ポストシーズンの勝ち方を知っているプレーヤーの巧みな試合運びと、奇跡的なプレーの連発でレギュラーシーズンを勝ち抜き、ディビジョナル・プレーオフも勝ち上がってきたのです。

 とはいえ、さすがにデトロイトとの力の差は埋めようがないと考えていましたが、この9回裏の同点劇!ヤンキースの伝統の力は、驚くべきものだと感じました。

 例えば、伝統は形にもなっています。旧ヤンキースタジアムは「ベーブルースの庭」と言われましたが、左打者のベーブルースのために、ライトフェンスまでの距離が、レフトスタンドに比べて短く造られていました。この伝統?は、新スタジアム建設にも受け継がれ、現在でも、ヤンキースタジアムのライトスタンドはホームランが入りやすいのです。   
 ヤンキースのプレーヤーの本塁打数はホームゲームがアウェイゲームの1.5倍に達することから、時々MLBの中でも問題視され、協議が行われることもあります。
 常にヤンキースの打線には左打者が多く、今日のイチロー、イバニェスのホームランもライトスタンドの前列でした。

 ゲームは4-4の同点となり、延長戦に入りました。延長12回表デトロイトは2点を勝ち越し、6-4でこのゲームを勝ち切りました。ヤンキースが勝つには、イバニェスの奇跡が、もう一度必要な感じでした。

 また、この12回のデトロイトの攻撃中に、ヤンキースのショートストップ、デレク・ジータがグラウンドに倒れて立てませんでした。アメリカのプロスポーツの権化のようなジータが立てない以上、大きな故障です。極端な言い方をすれば、骨折くらいなら少し痛そうな表情で立ち上がるプレーヤーだと思います。余程のことがない限り、今後のゲームにデレク・ジータは出てこられないと思います。

 この12回のヤンキースのライトフィールダー、スウィッシャーの守備もやや不自然な動きでした。気温10度を大きく下回る寒いフィールドで、5時間近いゲーム。地区シリーズゲームを5試合戦って、内2試合が延長戦。休みなくチャンピオンシップゲームに入るという過酷なスケジュールも、それぞれのベテランプレーヤーには堪えたのではないでしょうか。

 ヤンキースは、ホームスタジアムでの大切な初戦を、良くない形で落としました。今後の反撃は相当難しいと思いますが、デトロイトと互角に戦うためにはロビンソン・カノーの復活が必要です。カノーが、現在のように1割を切る打率のままでは、歯が立ちません。

 明日は、黒田が投げてカノーが打つことでヤンキースに勝ってほしいものです。


 現地10月13日から、2012年MLBプレーオフ、アメリカンリーグALチャンピオンシップゲームが始まりました。ニューヨーク・ヤンキースとデトロイト・タイガースの対戦です。

 ヤンキースの先発投手はアンディ・ペティット(196㎝102㎏)。通算240勝以上の勝ち星を誇る40歳の大投手ですが、特にプレーオフに滅法強く、ポストシーズン19勝のMLB記録保持者でもあります。一方、デトロイトの先発はダグ・フィスター(204㎝91㎏)。今期10勝10敗、デトロイト先発陣の一角です。

 ヤンキースは2回裏2死から3本のヒットで満塁として、打席にはロビンソン・カノー。ライナーがマウンド上のフィスターを襲います。フィスターは利き腕の右手を出して捕りに行きます。カノーの打球はフィスターの右手の手首やや上に当たり、方向が変わってショート前へ。これをペラルタが捕ってセカンドへ送球、間一髪アウト。ヤンキースはチャンスを活かすことができませんでした。

 次のイニング、3回裏は投手交代だろうと思っていましたが、フィスターがそのままマウンドへ。右腕はどうなっているのだろうと観ると、2回までの半袖シャツから、長袖のアンダーシャツに着替えているために、患部?が見えません。投球状況はというと、2回までと同じというか、2回より良くなった感じです。

 フィスターはこの後6回1/3を投げて失点0、106球の好投でした。6回裏には、無死2・3塁、1死満塁とピンチが続きましたが、渾身のスライダーとカーブの連投により、3三振で切り抜けました。

 2回の打球による打撲は痛くなかったのでしょうか。怪我の程度は判りませんが、ライナーが当たったのですから、痛くないはずがありません。しかし、フィスターはそんな素振りも見せずにプレーを続けました。

 MLBでは、こうしたプレーが時折見られます。NFLでも同様です。アメリカ起源のスポーツには、こうした文化?があるように思います。

 大学のアメフト部の監督・コーチをやっていた友人がいます。彼によると、アメリカンフットボールは、痛くても平気な顔をすることが大事というか、お互いに平気な顔の対抗戦というか、我慢の仕合なのだそうです。少しでも痛そうな様子をすると「効いているな」と、相手チーム・プレーヤーが勢いづくのだそうです。ですから、どんなに痛くても、グラウンド上では平気な顔をしなければならない、と話していました。

 相手より先に、痛そうに振る舞ったり、疲れた様子を見せるのは悔しいという「我慢の精神」がベースボールやアメリカンフットボールには宿っているようです。

 さて、ヤンキース先発のペティットも好投しました。さすがにプレーオフに強い投手です。6回表に2点を失いましたが、6回1/3を109球2失点は立派なクオリティスタートQSです。これまでのプレーオフの好投も、0封していたことは殆ど無かったと思いますので、ペティットとしては自らの責任を、従来と同じの水準で十分に果たしたということです。従来は、投げている間に味方の援護があったということでしょう。

 6回のデトロイトの攻撃で特筆すべきは、ミゲル・カブレラの走塁です。プリンス・フィルダーのタイムリーヒットで1点を先制した後の、1死1・2塁の場面で、2塁走者だったカブレラは、続くデルモン・ヤングのライト前ポテンヒットで、悠々とホームインしています。延長12回の表の攻撃でも、1塁ランナーとして一気にホームインしています。足も速いし、判断も良い、さすがにレギュラー・シーズン109得点、AL2位のプレーヤーです。
 カブレラは三塁手でもあります。193㎝106㎏の巨体に似合わぬバランスの良いプレーヤーです。

 ここまででも見所満載のゲームでしたが、9回表まで4-0でデトロイトがリードしていましたので、このまま終わるように見えました。しかし、さすがにMLBのプレーオフ。そうは問屋が卸しませんでした。
 後半42分を過ぎて、フランスのコーナーキックが続きます。フランスの攻撃にも「得点のにおい」がしませんので、このまま引き分けかなと思っていたら、ディフェンスの今野がボールを持って突進します。

 勝ちに来ていたフランスチームが前掛かりでしたので、フィールド中央部分は無人。今野は真っ直ぐに突進します。最初は、今野の単独行でしたが、センターサークルを超えたあたりで、他の日本選手、フランス選手がようやく追いついてきます。

 ペナルティーエリア手前で、今野は右側を走っていた長友にパス、これを長友がダイレクトで中央に走りこんでいた香川にパス、香川はこれをダイレクトでシュート。ゴール!

 今野→ダイレクト→ダイレクト、がこの得点の最大要因でしょう。香川の周囲には4~5人のイタリア選手が密集していましたから、ダイレクトシュート以外の選択肢はありませんでした。下がりながらのディフェンスは、何人いてもあまり効果がないことも示されました。
 香川も、長友からのパスに対してやや行き過ぎていた位置で、体を右に開いて何とか右足に当てるあたりは、さすがに欧州で鍛えられたプレーでした。

 このゲームは、シュート数フランス21本-日本5本に表れているように、フランスが押していましたが、フランスにとっての決定的なチャンスは少なく、日本チームが一方的に押されている印象は、試合終了間際の数分以外には感じられませんでした。

 フランスチームの攻撃は単発で、組織としての動きが少なかったと思います。ベンゼマが出場しているときは、ベンゼマの個人技をベースにした攻撃。リベリが出てきてからは、リベリの個人技をベースにした攻撃で、それもベンゼマ、リベリがラストプレーも行うというものでしたから、この二人に対してしっかり守れば失点は防げる感じでしたし、この試合の日本チームは、その守備が出来ていました。

 フランスは15mから20m位のシュートが上手く決まれば得点できた、逆に言えば日本ゴールの5m以内に迫るようなプレーがありませんでした。(オフサイドで一回ありましたが)そして、ミドルシュートは悉く外しましたので、「得点のにおい」はしませんでした。

 このゲームのザックジャパンは、ディフェンスが良かったのでしょう。香川の得点は、そのご褒美という感じです。あの攻撃も、フランスゴール前の彼我のプレーヤーの人数からして、いわゆる「決定的なチャンス」ではありませんでした。ピンポイントで針の穴を通すような攻めが結実したものでした。

 歴史的に、日本代表とフランス代表の試合数自体が少ないので、「悲願の初勝利」という感じではありませんが、親睦試合とはいえ敵地で勝利を挙げたことは素晴らしいことです。ザックジャパンおめでとうございました。

 会場はスタッド・ドゥ・フランス。フランスはパリ郊外のサン・ドニにある8万人収容の巨大スタジアムです。世界中にあるスタジアムの中で、サッカーワールドカップとラグビーワールドカップの両方の決勝戦が行われた、唯一のスタジアムです。

 観客席の形状や全体のデザインにフランスのエスプリが存分に感じられる美しいスタジアムだと思いますが、あのピッチの悪さは何でしょう。粘土質の土壌のためだといいますが、いつも柔らかすぎて、プレーヤーは苦労しています。
 世界的なスタジアムなのだから、土を入れ替えて造ればよかったのにと思います。

 1998年のFIFAワールドカップ・フランス大会決勝で、どうしてもブラジルに勝ちたかったから、ブラジルチームのテクニックを封じるために、こうしたピッチコンディションのスタジアムにしたのではないかとも考えます。穿った見方で恐縮ですが、FIFAワールドカップのタイトルとは、かように重いものなのです。



 現地10月12日、MLB2012年シーズンのディビジョナル・プレーオフが終わりました。4つのカード全てが3勝2敗決着という、稀に見る激闘。記憶にないと思っていたら、プレーオフがこの形式になって以来(1995年以来)、初めてのことだといいます。
 これまでは、大体4つの内2つのカードが、3勝1敗か3連勝で決まっていたのです。今シーズンは、レギュラーシーズンも優勝チームが決まったのが162試合目という地区が複数あったりして、MLB各チームの実力接近が感じられます。

 アメリカンリーグALのデトロイト・タイガースとオークランド・アスレティックスのカードは、デトロイトが勝利。第5戦のバーランダーの完封勝利が決め手になりました。11奪三振・三塁を踏ませぬ好投を、「生涯最高の投球だった」とバーランダーは語っています。

 ALのもうひとつのカード、ニューヨーク・ヤンキース対ボルチモア・オリオールズは、ヤンキースが勝ち抜きました。両チームとも得点力が不足していて、貧打戦が続いたと言ってもよいシリーズだったと思います。イチローも第5戦2点目を叩き出す右中間への2ベースヒットで貢献しました。
 シーズン終盤から、戦力的には他チーム比見劣りするヤンキースでしたが、ラウル・イバニェスの奇跡的な活躍もあって、ここまで駒を進めたのは、伝統の力という感じがします。

 ナショナルリーグNLのサンフランシスコ・ジャイアンツとシンシナティ・レッズのカードは、サンフランシスコが1勝2敗からの逆転で制しました。両チームとも、地区優勝をぶっちぎりで決めて、準備万端で臨んだシリーズでした。最後は、わずかにサンフランシスコの地力が勝った感じです。

 NLのもうひとつのカードにして、今季ディビジョナル・プレーオフ最後の勝ち残りを決めるワシントン・ナショナルズとセントルイス・カージナルスの第5戦は、セントルイスが9回表に一挙4点を取って逆転勝ちしました。激闘が続いた今季ディビジョナル・プレーオフの中でも、最も熾烈な戦いでした。

 前半のホームラン攻勢で、6-0とリードした時には、ナショナルズ・パーク球場に詰めかけた4万5千人を超える(球場新記録の入場者数)ワシントンのファンは、勝利・勝ち抜きを確信したことでしょう。
 モントリオール・エクスポス時代から、通算して15年ぶりのプレーオフ出場でしたし、勝ち上がれば、31年ぶりのNLチャンピオンシップ・シリーズへの進出ですから、ファンの熱気は高まりました。
 NLチャンピオンシップ・シリーズも勝ち抜いて、球団史上初のワールドシリーズ進出、そしてNL全球団の中で唯一ワールドシリーズ進出実績がない球団という汚名挽回の夢も広がったことでしょう。

 セントルイスは、中盤のブルペン投手陣の踏ん張りを背景に反撃に転じ、8回表を終わって5-6と1点差に詰め寄りました。8回裏、ワシントンは2死からカート・スズキのタイムリーヒットで追加点、7-5と2点差に広げます。大きな追加点。9回表は、クローザーのストーレンが抑えてくれると、ファンは再度確信したことでしょう。

 しかし、ストーレンはランナーをひとり許してしまい、ホームランを打たれれば同点という場面を作ってしまいました。ホームランを警戒するあまり、アウトコース一辺倒の投球となって四球を連発、2死満塁のピンチ。
 それでもワシントンのファンは「あと一人打ち取ればゲームセットだ」と期待し、総立ちで声援を送ります。ファンの大多数が立ち上がって応援するゲームをMLBで何度も観てきましたが、これほど「完璧な総立ち」は初めてです。

 セントルイスのデスカーソの当たりはショート右へのゴロ。これをショートのデスモンドがグラブに当てながらも弾いてしまい、2人がホームインして7-7の同点。咳ひとつ聞こえない静かなスタジアムにセントルイスのプレーヤー達の雄叫びだけが響きます。総立ちのファンは身動ぎもせず、茫然自失の体。しばらくして、スタンドには着席するファンが出てきました。両手で顔を覆うファンも・・・。
 この瞬間に、ワシントンの勝ちは無くなったように思いました。

 続くセントルイスのコズマがライト右に2点タイムリーヒット。これで9-7と勝ち越し。9回裏のワシントンの攻撃は3者凡退。本当に簡単に3者凡退。ワシントン・ナショナルズの2012年シーズンは、こうして終わりました。

 それにしても、セントルイス・カージナルスの現メンバーの「あきらめない気持ちの強さ」は驚嘆すべきものです。前にも書きましたが、昨2011年ワールドシリーズ第6戦の2度の2死2ストライクからの同点劇といい、今日の逆転劇といい、この力はどこに宿っているのでしょうか。昨シーズンもワイルドカードからのワールドシリーズ制覇でした。今シーズンもワイルドカードからの進出です。

 NLリーグチャンピオンシップ・シリーズは、1日早く地区シリーズを勝ち抜き、レギュラーシーズンも余裕をもって戦ってきたサンフランシスコ・ジャイアンツが有利だとは思いますが、サンフランシスコは最終回を前に大きなリードを取っていたい感じです。やはり、互角ということでしょうか。

 ワシントン・ナショナルズの監督は、あのデーブ・ジョンソンです。1975年NPB読売ジャイアンツが長嶋茂雄を監督に迎えた初年から2年間、巨人軍の中軸打者として1976年には26ホームランなどの活躍が記憶に残るプレーヤーでした。

 監督となってからは、あの1986年の「奇跡のメッツ」での活躍を始めとして、シンシナティ・レッズ、ロサンゼルス・ドジャーズ、ボルチモア・オリオールズの監督を歴任して、2011年からワシントン・ナショナルズの監督に就任しました。

 メッツの時もそうでしたが、ジョンソン監督は、「不振のチームを短期間で勝てるチームに変える」能力を持っています。ワシントン・ナショナルズも最下位常連チームでしたが、就任後わずか1年でプレーオフに進出できるチームに変えてみせました。就任したどのチームでも、程度の差はありますがチームの再建・新生に成功しているのですから、何かノウハウがある筈です。不思議なことに、こうしたノウハウは決して外部に流出しません。誰も真似できないのです。

 いつも述べますが、スポーツ界に限らず、どうでもよい情報は溢れかえっているのですが、肝心な情報は昔にも増して秘匿されています。こうした時代を「情報化時代」と呼ぶことに、私は違和感を覚えます。不要な、あるいは間違った情報が乱れ飛んでいるために、必要な情報が見つけにくくなっている現代は「極めて情報不足の時代」なのではないでしょうか。

 NPBにおいて、ジョンソン監督に似たタイプの監督を挙げるとすれば、広岡達朗氏か野村克也氏でしょうか。選手を再生し、チームを短期間に活性化する術を、この3氏は持ち合わせていると思います。また、ひとつのチームの監督を長く続けることがない点も共通しています。

 さて、MLBは、いつものシーズンと同様に、明日からチャンピオンシップ・シリーズに入ります。メジャーリーグ・ベースボールのファンは、一日の休みもなくゲームを楽しむことができます。これが、MLB隆盛の大きな理由のひとつです。


 
 先般の本ブログで、今期のMLBアメリカンリーグ三冠王ミゲル・カブレラが、193㎝116㎏の体格で、MLB歴代三冠王の中でも最大サイズのプレーヤーであると書きました。
 MLBの野手は大型化が進んでいて、例えばヤンキースのアレックス・ロドリゲスは191㎝102㎏、余り大きく見えないデレク・ジータでも190㎝あります。ちなみに松井秀樹は、188㎝104㎏と、サイズもメジャーレベルです。

 一方、日本プロ野球NPBはというと、近年サイズが小型化している印象です。年に数回は東京ドームで観戦しますが、最近の巨人軍のプレーヤーは、阿部慎之介選手の180㎝97㎏、坂本隼人選手の188㎝80㎏がやや大きいなという位で、170㎝台の選手も多く、全体に体が細い(=筋肉が少ない)印象です。

 別に「体が大きければ良い」などとは思っていませんが、大きな選手と小さな選手が両方いて、それぞれの持ち味を活かすのが、プロスポーツとして望ましい姿だろうと思いますので、その観点からは、現在のNPBは大柄な選手が少なすぎるという印象です。
 米国勤務が長かった友人によると「NPBは、テレビを点けた瞬間、アメリカのハイスクール(高校)の試合かと思ってしまう。選手が細いから」と言います。

 プロスポーツは、エンターテイメントですから、観客に楽しんでもらわなければなりません。お客様が楽しいと感じるための要素は色々ありますが、その内のひとつが「非日常性」だと思います。
 観客の普段の生活では、見たり感じたりすることができないものを提供することが、非日常性具体化の方法です。その非日常性を提供する方法のひとつが「プレーヤーのサイズ」でしょう。
 見たこともないような大男が、素早く力強く動くことは、普段の生活でお目にかかることは滅多にないことだからです。また、視覚的にも大きいということだけで訴求力があります。加えて美しければ、これは最上級のエンターテイメントのひとつでしょう。

 大相撲は、そのエンターテイメント性に占める「体の大きさ・美しさ」の比率が、特に高いプロスポーツでしょう。大相撲の関係者に話を聴くと「大きくて肌艶の良い力士の体そのものが、大相撲最大の売り」だと言います。

 私も年に数回、両国国技館に足を運びますが、力士の体の美しさにはいつも感心します。例えば、少し前に小錦という外国人力士が居ました。優勝3回を誇る名大関でしたが、テレビ画面で見る限り、色黒でぶよぶよした感じがして、お世辞にも綺麗な体とは言えません。
 ところが、国技館で観るとこれが綺麗です。やや紫色(餡子の薄い色と言う感じ)に見える小錦は、国技館の席から観ると少し距離もあるためか、肌のシミや皺も気にならず、ほうっと思うほど美しく観えました。晩年、相当に太ってしまってからも容色?は衰えなかったと思います。

 あとは、時津海(現、時津風親方)も大変綺麗であったと思います。日本人の「相撲取り」の典型でしょう。現在の白鵬や稀勢の里の肉体もやはり、プロとしての水準を超えています。

 大相撲は、この肉体を最初に「土俵入り」で披露します。ぐるりと土俵を回り、全ての観客の前をゆっくりと歩きます。続いて、取組における「仕切り」で披露します。時間一杯になるまでの数分間、観客は力士をゆっくりと観ることができます。
 仕切りは、もちろんプレーヤー(力士)が戦い(取組)に向けて、精神を集中し気合を高めていくためのものですが、一方で、観客に良く見てもらう時間を提供することがプロスポーツとしての重要な要素であると考えます。

 ちなみに「相撲は古来日本に伝わる神事」などと喧伝されることも多いのですが、私はそのことと大相撲を過度に関連付けるべきではないと考えています。但し、なぜ相撲が「神事」たりえたかを考えれば、「体の大きさ・美しさ」が重要な要素であったことは、容易に想像できます。

 大男が体を清めて(川や風呂などで丁寧に洗って)、化粧まわしなどで飾って、村などの地域コミュニティーを代表して神様の前で闘う。村民やコミュニティーの構成員は、心から「おらが力士」を応援し、楽しむのでしょう。
 強い力士ともなれば、その体に触れることでご利益を得ようとするのでしょう。力士には「神が宿っている」と考えられてきたのです。そう信じさせる重要な要素が「大きくて美しい肉体」なのです。

 私も4~5歳頃だったと思いますが、生まれ育った町に当時の大関豊山が来訪し、オープンカーで目抜き通りをパレードしました。その時に私は、父親に抱えられ・持ち上げられて豊山のお腹に触りました。真っ白で柔らかいお腹だったことを憶えています。他の観衆も、我先にと触っていました。

 前述の大相撲関係者が言います。「この体を維持するために稽古をしているんだよ」と。稽古は、強くなるためだけのものではないのです。

 もちろん、大相撲のプロスポーツとしての「非日常性」の仕上げは、そのパワーとスピードにあることは言うまでもありません。幕内力士の平均体重が160㎏を超える大男達が、驚くべきスピードで突進し、ぶつかります。外国人の友人達は口をそろえて「素晴らしいスピードだ」と言います。加えて、160㎏もの相手力士を押し出したり、投げたりするのですから、パワーも申し分ありません。
 スポーツマンとしての運動能力を具備した「大きくて美しい肉体」なればこそ、かつては神事の対象であり、現在はプロスポーツとして存在しているのでしょう。

 ゴルフでも、基本的には同様だと思います。プロゴルファー青木功は海外トーナメント、特にメジャー・トーナメントで、欧米のプレーヤーと互角の勝負を展開しました。ここで、大切な要素は、青木は身長180㎝を超えるボディを保持していて、当時の世界最高のプレーヤー達と「互角の大きさ」であったことです。

 青木とジャック・ニクラウスの1980年全米オープン、バルタスロール・ゴルフクラブでの死闘は既に伝説ですが、ニクラウスと青木の体格は、ほぼ互角でした。
 目いっぱいのスイングで打つ270ヤードのショットと、8分の力で打つ270ヤードショットでは、その安定感が全く違います。青木は、ショットにおいて二クラウスと4分6分の勝負が出来る肉体を持ち、アプローチ・パッティングにおいて6分4分の勝負をする技術を駆使して、4日間互角のゲームを展開し得たのでしょう。
 世界最高のジャック・ニクラウスに、パワーでも引けを取らない青木選手のプレー振りは、当時の日本ゴルフ界が世界に通用することを示すものでした。そして、テレビから流れる青木の映像は大きく力強いものでした。

 ベースボール・野球でも同様だと思います。王貞治や長嶋茂雄は、当時のMLBを代表するプレーヤー達とほぼ互角の体格でした。ハンク・アーロンが来日した際に、日米のホームラン王として、王貞治と比較され、スタジアムでも並んで写真を取ったり、インタビューを受けたりしましたが、そのサイズはアーロンの方が少し大きい程度の違いでした。当時は180㎝越えが、MLBサイズだったのでしょう。

 同水準の体格を持つ王選手が、ハンク・アーロンの「世界記録755本」(当時はこう呼ばれました)を抜くというのは、観客にとって疑いを差し挟む余地のない、受け入れやすい事実であったと考えます。日本プロ野球のファンにとって、パワーを表すホームランの世界記録樹立というのは、日本の誇りであり、「非日常性」の具現化そのものです。

 また、当時の日本プロ野球界を代表する投手であり400勝の記録を持つ金田正一は、184㎝ありました。当時としては長身プレーヤーで、その長い腕から力みのない綺麗なフォームで繰り出されるストレートは、現在のような計測装置があればスピード155㎞は優に超えていたでしょう。当時のMLBでも十分に通用した素晴らしいピッチャーだったと思います。

 さて、現在のベースボール・野球に話を戻します。

 現在のMLBのロースタープレーヤーのサイズは、どれくらいでしょう。統計資料を持っているわけではありませんので、私の感覚で申し上げます。

・投手は、身長190㎝台が標準。2mを超えれば*大型投手でしょう。
・野手は、身長185㎝~190㎝が標準。190㎝を超えれば大型プレーヤーでしょう。

 (*2mを超える投手の代表は、有名なランディ・ジョンソンで208㎝。今シーズンの先発投手でいうと、20勝5敗でアメリカンリーグの最多勝を記録したジェレッド・ウィーバー(エンゼルス)が201㎝、ヤンキースのエースで15勝6敗のCCサバシアが201㎝、シアトルで11勝11敗のブレイク・ベバンが201㎝、デトロイトで10勝10敗のダグ・フィスターが204㎝。ブルペンピッチャーを入れると相当数居ます)

 日本人投手でいえば、ダルビッシュは196㎝ですから標準。黒田は185㎝93㎏ですから、やや身長は低いが立派なメジャーサイズ。岩隈は、191㎝ですから標準。現在ダイヤモンド・バックスに所属している斎藤隆投手は188㎝91㎏ですから、十分なメジャーサイズです。
 日本人野手でいえば、頭書の松井秀樹だけがメジャーサイズとなります。

 野手より投手の方が高身長なのは、いつの時代も共通しています。求められるスペックとして、左右への素早い動きとか、ランニングの速度・持久力、バッティング技術などは要求されない代わりに、速い球・鋭い変化球を投げるパワー・技術、沢山の球数を同じ水準で投げ続ける体力・技術、投球の角度が大きい方が有利、といった理由で、身長が高い(=腕が長い、指が長い)ことが投手にとって有利なことなのでしょう。

 逆に野手は、前述の理由もあって、特にバッティングについていえば「必要なパワーを保持」しているのであれば、高い身長が必要であるとは限りません。例えば、ミゲル・カブレラの三冠王を強力にアシストしたデトロイト・タイガースの4番バッター、プリンス・フィルダーは、MLB屈指のホームランバッターですが、身長は180㎝です。
 但し、大事なことは「必要なパワーの保持」です。フィルダーは体重が125㎏あります。体重では、カブレラの116㎏より相当重く、筋肉量の多さも含めて、フィルダーのパワーの源がここに表れています。
 伸長が低く、細ければ、パワーが不足していると見るのが常識的です。

 東北高校時代のダルビッシュ投手や今年の大阪桐蔭の藤浪投手(197㎝)、花巻東の大谷投手(193㎝)ように、日本の高校野球界には、190㎝を超える大型の投手が続けて登場するようになりました。一方、野手で190㎝前後のサイズの選手は中々甲子園大会に出場してこないように思います。

 高校野球の野手で190㎝前後のサイズのプレーヤーが存在しないとは思われませんので、是非、スキルを上げて大舞台に出てきてほしいものだと思います。もちろん、体全体のバランスや筋力の向上など、大型の野手を育てることは難しいことなのでしょうが。

 10数年前、東京ドームの巨人対横浜の試合、私は1塁側ベンチのすぐ後ろの席で観戦していました。9回裏ランナー無しで、打席には巨人の松井秀樹、マウンドには横浜のクローザー佐々木主浩(190㎝98㎏)、どちらもサイズ十分の選手です。このころの佐々木のフォークは、かすりもしないという表現がぴったりでした。この打席で、松井はライト前に低いライナーでヒットを打ちました。ホームランではありませんでしたが、一塁ベース上で松井は嬉しそうでした。

 佐々木は、続く打者を簡単に打ち取って横浜が勝ちました。ゲームセットの瞬間、佐々木がもの凄く大きく見えました。内野席最前列でしたから目線が低かったこともあるのでしょうが、一瞬東京ドームの天井に届くのではないかと思うほど大きく見えました。(大袈裟なようですが、そのように憶えています。子供の落書きのような話で恐縮です)

 小柄でスピードに溢れた野球も大切ですが、サイズ十分でパワーに溢れた野球も面白いものです。視覚面も含めて、観客により多くの「非日常性」を提供することが、日本プロ野球再生の方法のひとつであろうと思います。パワーヒッターが登場すれば、飛ばないボールの問題など、直ぐに飛んで行ってしまうでしょう。

 10月14日、京都競馬場芝内回りコース2000mで行われる、第17回秋華賞競走G1の予想です。

 今年は、春のクラシック戦線で活躍した馬が、数多く登場してきました。暑かった夏を順調に過ごしてきたのでしょう。

 軸馬は、7枠14番のジェンティルドンナです。春の二冠馬にして、トライアルレースのローズステークスG2にも快勝。加えて、先週・今週の調教の動きも良いとなると、負ける要素が見当たりません。オークス5馬身差の勝ちっぷりからして、当時の同級生との勝負付けは済んでいますので、2010年のアパパネより、他の馬との差が大きいと思われますから、所謂牝馬三冠の可能性は高いと思います。

 オークスの2~4着馬がそろって顔を見せているので、対抗馬探しの点でも考慮しなければなりません。
 1枠1番のヴィルシーナは、オークス2着後も順調な調整で、ローズSも2着。ジェンティに勝つのは難しいと思いますが、2着候補の筆頭でしょう。

 8枠17番のアイムユアーズは、オークス4着の後、7月末のG3クイーンSに勝って、ぶっつけで秋華賞に挑戦するのが気になりますが、調教は至って好調な様子。夏を経て、本格化しているとすれば、シアトルスルーの血統からして大化けしている可能性があるので、もしジェンティを破るとすればこちらか。

 オークス3着のアイスフォーリスは、紫苑Sのレース振りが今一つ。今回は見送りたいと思います。

 その他では、2枠4番のハワイアンウインド。特別2連勝と好調なうえに、国東特別では2000m1分57秒2の好時計。格下ですが、うまく先行できれば2着はあります。

 今回は、以上4頭に期待したいと思います。常識的にはジェンティルドンナの2着探しのレースですが、アイムユアーズが気になります。
 10月13日、東京競馬場芝1800mコースで行われる、第60回府中牝馬ステークスG2の予想です。

 今回は3歳馬の出走がありませんでした。G1ウイナーを含む、古馬牝馬の熾烈な戦いです。

 軸馬候補は3頭。まずは8枠17番のホエールキャプチャ。春のG1ヴィクトリアマイルの勝ち馬にして、G1レースの常連馬。但し、前走G1宝塚記念14着の大敗が気になるところ。

 続いては、3枠6番のマルセリーナ。昨年のG1桜花賞馬。このところ8戦して勝ちが無く、前走G1安田記念17着の大敗が気になるところ。

 最後は、6枠11番のドナウブルー。前走新潟のG3関谷記念の勝ち馬。春のG1ヴィクトリアマイルもホエールキャプチャの2着と健闘しています。但し、2000m以上のレースを走ったことが無いのは、1800mとはいえ力の要る東京コースでは心配です。

 心配ばかりになってしまいましたが、軸馬にはホエールキャプチャを置きます。前走は、牡馬一線級との対戦で、2200mは少し長すぎたことが敗因と考えます。府中は得意なコースですので、大外枠は残念ですが2着は確保してくれるものと思います。

 対抗馬一番手には、3枠5番のゴールデングローブ。上がり馬とはいえ3連勝は立派なもの。4歳夏になり、ようやく本格化、連続してレースに使えるようになったものと観ます。
 対抗馬二番手は、前述のドナウブルー。
 対抗馬三番手は、4枠8番のスマートシルエット。前走G3新潟記念2000mは6着なるも、走破タイム1分47秒7は優秀。好調を維持していると観ます。

 今回は、この4頭に期待します。成績にムラのある実績馬と、上がり馬の戦いですが、東京コース1800mのゴール前100mがポイントとなりそうです。
 先日、80歳のA氏と77歳のB氏と一緒にラウンドする機会がありました。私の同年輩の友人C君が、同じゴルフクラブメンバーの大先輩とゴルフをするので、加わらないかとの誘いがあったのです。

 私のゴルフプレー史上、最年長の同伴プレーヤーのお二人ですので、そのプレー振りがとても楽しみでした。

 3ホールを回って、お二人のゴルフは異なるやり方であることが判りました。A氏は、最長150ヤードのショットを正確に打っていくタイプ。従って、各ホールの攻略は「パーオン+1打」のオンを目指し(パー4のホールなら3打でオン、パー5なら4打でオン)、アプローチショットが上手く寄ればパーが取れる、というゴルフ。

 B氏のゴルフは、ティーショットが当たれば200ヤード近くの距離が出ますから、パーオンを狙っていくゴルフです。もちろん、最近増えてきている400ヤード前後のミドルホールが連続するコースであれば、B氏も苦戦でしょうが、プレーしたコースは歴史と伝統を誇る昔ながらのコースですから、300~350ヤードのミドルホールや500ヤード未満のロングホールもありますので、十分勝負になります。

 A氏のショットは正確です。特にティーショットは、ほとんどミスがありません。ショットは、さすがに私やC君の方が相当に飛ぶのですが、グリーンに上がってみれば所要打数は同じであったり、A氏の方が少なかったり、「ゴルフはスコアだけではない」と考えてはみるものの、情けない感じ。
 そもそも、自分が80歳になる頃、ゴルフをプレーする肉体を維持できているのだろうかと考えると、お二人のプレー振りには感心また感心です。

 B氏の方は、しっかり振っていることもあってか、時々ティーショットが曲がります。歴史あるコースですから木々も育っていて、林に打ち込むと1打のペナルティーは覚悟しなければなりません。それでも、飛距離への拘りがあるのでしょう、B氏はしっかり振ることを続けます。しっかりと振れる肉体を維持していることに、また感心。

 後半12番ホール、B氏のティーショットはフェアウェイセンター。残り150ヤードをきっちり乗せて、5mのバーディパット。僅かにスライスするラインを入れて見事にバーディ。
 この日、4人で唯一のバーディーでした。

 本件とは別のプレーですが、今から8年前に仕事の関係で、当時72歳だったD氏とプレーしたことがあります。このD氏は身長165cm位の中肉中背の方でしたが、大変ゴルフが上手な方でした。

 まずティーショットが220~230ヤード飛ぶのです。72歳の飛距離としては凄い・・と思いました。アイアンショットも弾道がしっかりしている上に正確、パッティングの集中力・技術も見事なもの。マナーも細やかで上質です。
 その日のラウンドは、私達に配慮されたのか、私達の下手くそなゴルフを見て調子が狂ったのか、前半39後半41のラウンド80打だったと思います。

 ラウンド終了後の懇談の席、D氏にお話を伺うと「68歳の時初めてエージシュート(年齢と同じか年齢以下の打数で1ラウンド18ホールをプレーすること)ができました。それから4年間で17回エージシュートしています」と。  「今は健康管理のため週に2回はプレーするようにしています」と。さらに「ドライバーやアイアンは、各人の好みのものを使えば良いと思いますが、ボールの選択は大事です。このボールは良いですよ」とツアーステージのスピン重視タイプのボールを示しました。

 帰りにご自宅に立ち寄らせていただきましたが、ゴルフ大会のトロフィー他を展示する20畳位の部屋がありました。立派な展示棚がぐるりと設置されていて、色々なコンペの優勝カップ・トロフィー。クラブチャンピオン、シニアチャンピオン他のカップ・トロフィーが所狭しと展示されていて、エージシュートの記念品も達成したコース別に置かれています。既に20畳の部屋が一杯で、置く場所が足りないという印象でした。

 D氏は、ご健在であれば今80歳になられています。その後、どんなプレー・記録を達成されたのでしょう。エージシュートも「71歳を過ぎてから、回数が増えた」と言っていましたから、40回、50回と達成されているのかもしれません。
 念のため書きますが、いくらホームコースとはいっても、エージシュートは滅多に出来ることではありません。ゴルフ初心者でも時々出るホールインワンより、相当難しいことも間違いありません。

 D氏はゴルフのプロであったわけではありません。若い頃、別のスポーツを極めた訳でもありません。
 日本全国や全世界には、D氏のような方が相当数居るのでしょう。こうした方の、こうした記録は、素晴らしいことだと思います。トーナメントプロであった人が、果して70歳を過ぎて、エージシュートを17回も達成することができるのだろうか、と感じたことを憶えています。

 さて、80歳A氏、77歳B氏とのプレーに戻ります。

 15番ホールで、B氏はティーショットを左に曲げて林の中へ。ダメだなあという感じで首を振りながら「後期高齢者は、後半足腰に来るんですよ」と、「ベンチに座って打順を待つ」私達に、笑顔で話しかけてきます。このホール、私のティーショットも左の林の中へ、C君は右の林を超えてOBでした。どちらの足腰にガタがきているのやら。

 最終18番ホール・パー5。私は、ティーショットを左の林へ(この日は左に引っ掛けるショットが多かった)。セカンドショットをフェアウェーに出して、第三打はしっかり打てたものの、第四打のアプローチショットがオーバーしてグリーン2m奥のラフへ。再びアプローチショットで、ピン横2.5mに5オン。A氏を除く他のメンバーも5オン。

 キッチリ150ヤードを刻んだA氏は4オン、ピン奥7mからのパーセービングパットを狙います。このパットは左に外れて、A氏は「パー取りたかったね。お先」と言いながらボギーパットを決めました。私は、懸命にラインを読み、2.5mのボギーパットをなんとか入れました。

 クラブハウスに戻り、シューッとエアーで靴を掃除して「お風呂にでも入りますか」と声を掛けたら、B氏は笑顔で「このまま帰っても夕飯には早いので、練習してきます」と練習場に向かいます。いやはや・・・素晴らしいことです。


 府中牝馬ステークスは、「牝馬東京タイムズ杯」(牝馬東タイ杯と呼ばれました)として行われていた時期が印象的なレースです。1992年東京タイムズが廃刊になり、府中牝馬ステークスという名称に変わりました。現在、勝ち馬に贈られる正賞は府中市長賞となっています。

 こうした冠レースは、スポンサーが居なくなった時に廃止されることもある訳ですが、このレースは正賞を変えて存続しました。それだけ、重要な重賞競走であるということだろうと思います。

 このレースは、1953年・昭和28年、3歳以上牝馬限定のハンディキャップ制重賞競走、「東京牝馬特別」としてスタートしました。以前の当ブログでも書きましたが、昭和20年代に創設された重賞競走は中央競馬界肝煎りのレースです。東京牝馬特別競走も、そういう重要な位置付けのレースだったのです。

 当初は、秋競馬の3歳・古馬を含めた牝馬限定重賞は他にありませんでしたので、桜花賞やオークスといった大レースの勝ち馬も多数、出走しています。その点では、年末に行われていた阪神牝馬特別や年明けに行われていた京都牝馬特別と並ぶレースであったと思います。(この3レースの内2レース、あるいは3レース全部を勝っている強豪牝馬が沢山います)

 1964年に東京タイムズから優勝杯が寄贈され、レース名が「東京タイムズ杯牝馬特別」に変わり、1967年頭書の「牝馬東京タイムズ杯」となりました。この頃は、11月の中下旬に距離1600mで行われていましたので、牝馬マイル王戦という趣のレースであったと思います。

 1984年のグレード制導入時にG3に格付けされましたので、条件馬からの挑戦の受け皿としての位置づけも加わり、多彩な優勝馬を有するレースとなりました。1996年、エリザベス女王杯が古馬に開放されるのと同時に、距離が1800mに延長されました。この年から、府中牝馬ステークスは、エリザベス女王杯への重要なステップレースという位置付けになりました。

 歴史があり、レースの性格が度々変わった府中牝馬ステークスですので、勝ち馬はバラエティに富んでいます。1976年ベロナスポート・1977年セーヌスポート・1978年モデルスポートのターフ・スポート所有馬の三連覇や1986年のダイナフェアリーなど、印象深いレースも多いのですが、本稿では1993年の勝ち馬ノースフライトを採り上げます。

 ノースフライトは、父トニービン、母シャダイフライト、生涯成績11戦8勝。鳴り物入りで輸入された1988年の凱旋門賞馬トニービンの初年度産駒です。
 ノースフライトは2歳時体が弱く、デビューは3歳の5月、既に桜花賞は終わっていました。続く二戦目の特別レースにも圧勝しましたが、三戦目の特別レースは5着に敗れました。(熱発とも言われました)

 3歳のクラシック路線には間に合わず、秋のエリザベス女王杯にも間に合わなかったノースフライトは、900万下条件馬として府中牝馬ステークスG3に登録します。獲得賞金額が少なかったので、出走可否は微妙でしたが、たまたま回避馬が出て出走できるようになりました。当時は古馬も含めたハンディキャップ戦でしたので、3歳900万下の彼女は斤量50㎏と恵まれました。
 一方鞍上の角田騎手は、この負担重量にビックリ、慌てて減量し間に合わせたと言います。そして直線鮮やかに差し切って勝利。ノースフライトは、勇躍エリザベス女王杯に駒を進めました。

 この年・1993年のエリザベス女王杯G1は、春の二冠馬ベガが休養明けぶっつけで挑戦し本命、二冠両方で2着のユキノビジン、トライアルレース・ローズステークスの勝ち馬スターバレリーナが人気でした。ノースフライトも府中牝馬ステークスの勝ちっぷりが評価されて5番人気。

 ノースフライトは、直線一度先頭に立ちますが、内から追い上げてきたホクトベガに交わされ2着。「ベガはベガでも、ホクトベガだ」と杉本アナウンサーが叫んでいました。正直に言って、私はこのレースでノースフライトを初めて認識しました。「50㎏でG3を勝った馬だと思っていたが・・・」と考えたことを憶えています。

 続く12月の阪神牝馬特別G3に快勝したノースフライトは、翌1994年になり一層本格化、1月の京都牝馬特別G3を6馬身差で圧勝。続くマイラーズカップG2でもマーベラスクラウン(ジャパンカップ勝ち馬)、ネーハイシーザー(天皇賞(秋)同)のセン馬・牡馬一線級をレコードタイムで下して快勝。安田記念G1も、強力な外国産馬4頭を相手に5番人気で出走、直線一気に差し切り優勝し、「マイルの女王」と呼ばれるようになりました。

 秋緒戦のG2スワンステークス1400mは、短距離の鬼サクラバクシンオーに1・1/4馬身及ばず2着に敗れましたが、本番のマイルチャンピオンシップG1は逆に1・1/2差でサクラバクシンオーを下し、春秋のマイルG1連勝の偉業を達成しました。1400ならサクラバクシンオーが勝ち、1600ならノースフライトが勝つという、この2頭の秩序には、凄まじいものがありました。

 この1994年のノースフライトの戦績は、重賞のみ5戦4勝、2着1回、G1を2勝という素晴らしいもので、例年ならJRA年度代表馬に匹敵する成績ですが、この年はナリタブライアンが三冠を制した歳でしたので、年度代表馬はナリタブライアンに譲りました。但し、報道によれば、ナリタブライアンの年度代表馬投票は満票ではなく、ノースフライトに1票が投じられたそうです。

 ノースフライトが条件馬からオープン馬に進んだレースが、府中牝馬ステークスです。こうしたレースが、この時期にあることの意義を感じます。

 府中牝馬ステークスは、2000年から開催日が秋華賞と同日となり、秋華賞が斤量定量55㎏のレースであることから、斤量が賞金別定であったこのレースは、獲得賞金額の多い3歳強豪馬から敬遠されるようになりました。1998年のメジロドーベル(斤量58㎏でこのレースを勝ちました)以来、エリザベス女王杯の勝ち馬が出なくなったのです。

 この現象に対する対応策と、3歳牝馬の上がり馬および4歳以上の古馬牝馬のためのレースの位置付けを、再度明確にするためかと思いますが、中央競馬会は2010年から格付をG2に引き上げ、賞金額が大幅にアップ、負担重量もグレード別定としました。今年からは、開催日も秋華賞と同日ではなく、秋華賞前日の土曜日となりました。

 昭和28年から、3歳以上全ての牝馬の秋の重賞レースとして華やかな牝馬の戦いを生んできた「府中牝馬ステークス」は、時代を超えて着々と進化してきました。G2レースになりましたので、また新たな装いを身に付けることと思います。

 1996年、前年まで3歳牝馬限定のレースだったエリザベス女王杯が4歳以上の牝馬にも開放されたので、その代わりに3歳牝馬限定のG1レースとして創設されたのが秋華賞です。

 この話は、さらっと書くとそれなりですが、疑問点があります。何故、3歳以上の牝馬限定レースとして秋華賞を創設せず、エリザベス女王杯を4歳以上に開放して、3歳牝馬限定のレースとして秋華賞を創設したのかという点です。
 そんなこと気にしなくても良い、と言われればそうなのかもしれませんが、この理由は中央競馬会の方に聞いてみたいものです。

 もちろん、エリザベス女王杯が京都競馬場芝外回り2400m、秋華賞が京都競馬場芝内回り2000mと異なるスペックのレースですから、中央競馬会として意図があっての創設なのでしょう。フランスの牝馬三冠レースであるヴェルメイユ賞をイメージしたのかとも思いますが、ヴェルメイユ賞は2400mのレースですので、エリザベス女王杯に近い感じです。

 もともと、エリザベス女王杯が3歳牝馬限定の頃から、桜花賞、オークス、エリザベス女王杯を牝馬三冠と呼ぶことがあり、私としては違和感があったのですが、秋華賞に変わっても、依然として「牝馬三冠」と呼ぶのは、いかがなものかなと思います。

 そもそも、クラシック5冠の全てに勝つ権利は、3歳牝馬にしか与えられていないのですから、牝馬三冠と呼ぶに相応しいのは、桜花賞、オークス、菊花賞の勝ち馬でしょう。本ブログの別稿にも書きましたように、英国競馬に範を取った我が国のクラシックレース体系が整備されたのは1930年代ですので、それから90年弱、いまだに桜花賞+オークス+菊花賞の勝ち馬が1頭も居ないのは、ある意味では不思議なことかもしれません。

 その点では、オークス+日本ダービー+菊花賞の勝ち馬クリフジは、我が国の牝馬唯一の三冠馬と言うことが出来ます。菊花賞3000mは、3歳牝馬には厳しいという意見があり、確かに私も過酷だと思いますが、一方で「菊花賞の最大着差はクリフジの大差勝ち」であることを考えると、必ずしもそうでもないなとも思います。
 2400mの凱旋門賞も2年連続で牝馬が制しました。今後、菊花賞に挑戦する牝馬が現れることを期待しています。

 話を戻します。

 秋華賞は、京都競馬場の芝内回り2000mコースで行われますが、この内回りコースというのは直線が330mと比較的短いのです。これがレースの特徴となっていて、4角を前の方で回ってこないと、実力馬でも届かないことがあるレースなのです。
 これには短すぎるとの批判もありますが、中山競馬場の直線が310mで、皐月賞や有馬記念が実施されているのですから、直線の坂の有無はあるにしても、秋華賞競走の特徴として面白いものと考えます。

 世評で牝馬三冠と位置付けられるG1レースですから、毎年3歳牝馬の一線級が揃うレースです。優勝馬も華やかなもので、2002年のファインモーションや2007年のダイワスカーレットは、このレースを制した後、エリザベス女王杯にも勝っています。

 そうした中で今回採り上げるのは、2001年の勝ち馬テイエムオーシャンです。テイエムオーシャンは、父ダンシングブレイヴ、母リヴァガール。生涯成績は18戦7勝です。G1だけでも、阪神三歳牝馬ステークス、桜花賞、秋華賞の3勝している名牝です。

 2001年に馬齢表示が数え年から満年齢に変更になった(21世紀入りを契機に国際基準に合わせた)ため、テイエムオーシャンは「2年連続でJRA最優秀3歳牝馬」を受賞という今後絶対に出ない記録を保持しています。
 たまたま馬齢表記が変更になったもので偶然に過ぎないという意見もあると思いますが、20世紀21世紀を跨ぐ2年間を通して最優秀牝馬に相当する成績を残したのは、偶然ではありえないので、やはり快挙といえます。

 テイエムオーシャンはG1を3勝した後、天皇賞(秋)、ジャパンカップ、有馬記念などを7戦して勝てませんでした。この7戦が無ければ11戦7勝の名牝でした。血統他色々な事情があることも分かりますし、他のG1馬にもいえることですが、長く走るのも良いが、勇退の時期も考えてほしいものだと思います。

 さて、テイエムオーシャンのお父さんはダンシングブレイヴです。この馬は1986年のイギリス競馬界、欧州競馬界を席巻した名馬です。
 3歳時、2000ギニーを3馬身差で圧勝、英ダービーは直線で前方がふさがる不利があり1/2馬身差で2着に苦杯するも、続くG1エクリプスSを快勝、さらにG1キングジョージ6世&クイーンエリザベスSにも勝って凱旋門賞に駒を進めました。

 この1986年の凱旋門賞はメンバーが揃い、全出走馬15頭の内11頭がG1ウイナーという、1965年シーバードが勝ったレースと並ぶ、史上最高の凱旋門賞といわれます。ダンシングブレイヴはこのレースも、4角最後方から直線一気に差し切る形で優勝しました。

 生涯成績10戦8勝、1986年の欧州最優秀馬、英国最優秀馬、仏国最優秀馬で、1980年代の世界最強馬との呼び声が高いダンシングブレイヴ(Dancing Brave 躍動する勇者)は、引退後すぐに大きなシンジケートが組まれ種牡馬となりました。しかし、1987年の秋に奇病で不治の病といわれるマリー病に感染してしまいます。

 この年マリー病に感染したのはイギリス全体で5頭であったにもかかわらず、その内の1頭が稀代の名馬だったのです。マリー病は鳥の結核に似ているといわれ、四肢に痛みが走り、骨膜が腫れ上がる病気です。

 翌1988年生まれの産駒が、2歳・3歳時にほとんど走らなかったことや日々の体調管理の難しさから、管理していたイギリスの牧場やシンジケートは、1991年になると直ぐに、格安で売却先を探したのです。

 日本中央競馬会もダンシングブレイヴの購入について検討しました。正直に言えば、こんな英国の至宝が日本に来ることなど、こうした事情が無ければ有り得ないことです。
 とはいえ、奇病に犯されている馬を輸入することには反対も多かったのですが、最終的には購入を決め1991年に輸入し、日本軽種馬協会に寄贈されました。結果的には、JRAの英断であったと思います。

 後日、イギリスでマリー病罹病後に種付けした産駒からコマンダーチーフ(英ダービー、愛ダービーの勝ち馬)やホワイトマズル(キングジョージ6&QESの勝ち馬)他の重賞ウイナーが出るに及んで、「早計な判断による国家的損失」というイギリスマスコミによる評価がなされるに至りました。コマンダーチーフとホワイトマズルの2頭は種牡馬となり、ダンシングブレイヴの血統を後世に伝えています。(ノーザンダンサー系の中のダンシングブレイヴ系)

 ダンシングブレイヴは、その病の関係で体調管理が難しく、産駒も少なかったのですが、晩年の代表産駒がテイエムオーシャンです。

 ダンシングブレイヴは、1999年8月体調が急変、苦痛に耐えて4本の脚で立ったまま息を引き取るという、誇り高い大往生であったと伝えられています。16歳でした。
 1980年代の世界最強馬でありながら、飛行機に乗り、遠く極東の国にやってきたダンシングブレイヴ。日本の牧場での生活は、彼にとって多少なりとも楽しいものであったと考えたいものです。


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