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 12月2日に阪神競馬場のダートコースで実施される、第13回ジャパンカップダート競走G1(以下、JCD)の予想です。

 今年も、残念ながら外国馬の出走はありませんでしたが、国内ダート競走の一線級が一堂に会し、実績十分の古馬陣に新興勢力が挑む形になっています。激戦が予想されます。

 軸馬の検討です。前述の通り、実績十分な強豪古馬の取捨選択がポイントになります。
 軸馬候補の一番手は、2枠4番のエスポワールシチー。7歳になりましたが、前走盛岡のG1南部杯は1着。今年に入って5戦し、連を外したのは1回だけという安定した成績を誇ります。2009年のJCD優勝馬でもあり、コース適性も十分です。
 軸馬候補の二番手は、4枠7番のトランセンド。2010年、2011年とJCDを連覇中の実力馬。6歳になりましたが3連覇に挑みます。今年3月、二度目のドバイワールドカップ挑戦は13着に敗れましたが、前走川崎のG1JBCクラシックは3着と復調気配。体調が戻っていれば、間違いなく優勝候補です。
 軸馬候補の三番手は、5枠10番のローマンレジェンド。今年に入ってダート戦5連勝。内G3重賞が2勝。ダート転向後は、9戦して8勝、2着一回ととても安定した成績を残しています。G1競走経験が無いのが心配な点です。4歳馬、新興勢力の代表格です。
 軸馬候補の四番手は、6枠12番のワンダーアキュート。前走川崎のG1JBCクラシックで優勝。昨年のJCD2着と実績十分の6歳馬です。

 ここから、軸馬を選定します。エスポワールシチーやトランセンドの実績は圧倒的ですので、格からいえば、この2頭のどちらかということになります。一方で、競走馬もピークがあります。ピークが長いといわれるダート馬ですが、エスポワールシチーは7歳になりました。さすがに、往年の力は無いと観ます。トランセンドも、2度の海外遠征の影響は残っていると観ます。
 他方、連勝中のローマンレジェンドですが、何しろ大レースの経験に乏しい点が気になります。

 大変難しいところですが、政権交代が争われる衆議院議員選挙公示を控えているレース?ですので、日本競馬ダート界の世代交代に期待して、軸馬はローマンレジェンドとします。

 さて、対抗馬の検討です。軸馬候補の残りの3頭は、対抗馬候補でもあります。
 続いての対抗馬候補は、1枠1番のハタノヴァンクール。前走G3みやこステークスは10着と大敗しましたが、前々走の大井G1ジャパンダートは堂々の優勝。3歳馬で7戦して1着4回、着外3回と、ムラがあるのはこの馬の特徴かもしれません。
 続いての対抗馬候補は、2枠3番のミラクルレジェンド。5歳牝馬ですが、寒くなると力を発揮するタイプ。実績は劣りますが、このところの牝馬活躍の流れがダート戦にも及ぶ可能性があります。
 続いての対抗馬候補は、4枠8番のイジゲン。前走G3武蔵野ステークスの直線一気の勝ちっぷりは、ダート戦らしからぬ切れ味で「異次元」のものと評され、人気にもなっています。実績に乏しい3歳牡馬ですが、葦毛の風貌はクロフネの再来とも呼ばれています。トランセンドの後継馬になる可能性があります。
 続いての対抗馬候補は、7枠14番のニホンピロアワーズ。5歳牡馬ですが、既に16戦を走り1着6回・2着5回と安定した成績です。着の可能性は十分です。

 以上から、対抗馬を選定します。
 対抗馬の一番手は、イジゲンとします。今後のダート界を、ローマンレジェンドとともに牽引していってほしいものです。
 対抗馬の二番手は、トランセンドです。今年のJCDに世代交代以外のドラマがあるとすれば「三連覇」でしょう。地力は抜群。トランセンドのラストショーを観てみたい気もします。
 対抗馬の三番手は、ハタノヴァンクールです。3歳勢の一角として、イジゲンと共に上がってきてほしい馬です。

 今回は、以上の4頭に期待します。新しい時代の風が感じられるレースになりそうな気がします。

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 世界の競馬は、芝馬場主体のヨーロッパ競馬とダート馬場主体のアメリカ競馬に大別されますが、我が国の競馬は、その両方を取り入れています。両方といっても、中央競馬は芝馬場のレース主体、地方競馬はダート馬場のレース主体(というか、ほとんどダートのみ)という違いがあります。

 中央競馬におけるダートレースは、新馬戦とか条件戦に多く、いわゆる重賞レース、特に格・賞金が高いG1レースは、1996年までありませんでした。表立っては言われませんでしたが、中央競馬においては、ダートレースは芝のレースに比べて格下のレースという位置付けであったと思います。

 一方で、アメリカ競馬におけるケンタッキー・ダービーやプリークネス・ステークス、ベルモント・ステークスの三冠レースを始めとして、大レースの多くがダートレースでしたし、ブリーダーズカップのように、近年創設された大レースもダートレース主体でした。
 また、我が国においても地方競馬の大レースは、ダートレースでしたので、中央競馬にもダート馬場の格上のレースの創設が期待されました。こうした期待の中で、1997年にフェブラリーステークスがG1に昇格し、2000年にジャパンカップ・ダートが創設された経緯にあると思います。

 こうして創設されたジャパンカップ・ダート競走(以下、JCD)は、当初東京競馬場の2100mのダートコースで行われました。アメリカのダートの大レースが、2000mで行われていることに習った距離設定だったと思います。また、芝のジャパンカップ(以下、JC)と同じ週に開催される、ジャパンカップシリーズとでも呼びたい2つの大レースという位置付けでした。
 まず、土曜日にダートレースのジャパンカップが行われ、日曜日に芝のジャパンカップが行われるという形でした。

 これが、2008年からは、JCDはJCの翌週の日曜日に、阪神競馬場で開催されるように変更され、距離も1800mに短縮されました。ドバイワールドカップやブリーダーズカップのように、同じ日にいくつかのG1レースが行われるような形になって行くのかと思っていたジャパンカップ関連レースですが、逆に別週のレースになってしまいました。

 JCDは、2000年開始のレースですから、まだ12回を数えるのみと歴史が浅いのですが、創設当初から疑問に思っていたことがあります。それは、海外馬の出走頭数が少ないことです。
 JCDは、JCと同じく、外国から出走する場合には、競走馬の輸送費、日本における厩舎や飼料の費用、馬主や調教師・騎手およびその奥様の交通費・宿泊費、厩務員・助手の交通費・宿泊費、は全て日本中央競馬会が負担する国際招待競走です。特にJCDには、ダートレース主体のアメリカからの出走馬がもっと多くても良いのにと思っていました。

 ダート馬場の性質が、アメリカと日本では異なることを知ったのは、だいぶ後のことでした。

 アメリカのダート馬場は、「土」主体の文字通りのダート(=土)馬場です。煉瓦を砕いたような赤い土が主体のコースです。一方、我が国のダート馬場は、「砂」主体のグレー色のコースです。我が国も競馬創成時期には、アメリカ式のダートコースを導入したようなのですが、大量の雨が降るとどろどろの馬場になってしまい、レースに使えません。従って、水捌けの良い「砂」を土に混ぜた形の、現在のダートコースになっていったのです。

 雨が少ないアメリカの赤土のコースは固く締まっていますので、ダートレースといっても芝コースのレースと同水準のタイムが出ます。高速ダート馬場といっても良いコースです。一方、日本のダートコースは、砂が多いので柔らかく、馬の脚が深く潜ってしまいますから、タイムが遅くなってしまいますし、アメリカのダート馬場に比べて、より力の要る馬場となっています。

 ジャパンカップを目指すアメリカ馬は、最初の段階でこの事実に気が付きましたので、JCDへの出走頭数は少なくなってしまったのでしょう。優勝馬も2003年・第4回のフリートストリートダンサーの一頭です。
 アメリカの一流馬は、どちらかというと芝のJCの方が出走馬も多く、第一回・第二回・第八回・第十一回のJCの優勝馬はアメリカ馬です。普段は、アメリカのダートレースで走っていても、芝のJCでも十分に勝負になる速い脚を保持しているということになります。

 ヨーロッパ馬でJCDに出走する馬は少ないので、こうした事情から、JCDには外国馬の出走が少ないということになります。
 2010年、2011年と外国馬の出走はありませんでした。残念ながら、中央競馬と地方競馬の交流競走のようになっているのです。

 日本競馬の国際化を目指して創設されたジャパンカップですので、JCDにも外国一流ダート馬の出走が期待されますが、多雨という日本独特の事情から独自に発達してきた我が国独自のダートコースは、それ自体が国際的な基準には合致しないものということになります。

 この問題点に対する対応は、容易なことではありません。

 我が国の競馬場のダートコースをアメリカ式の赤土型に変更するのは、頭書の通り多雨という理由から無理ですし、最近アメリカで導入が進んでいるオールウェザー型コースを導入するにしても、地方競馬も含めて導入するには費用が掛かります。そもそも様々な種類があるオールウェザー型馬場のどれを導入したらよいかも、難しいところです。

 1着賞金1億3000万円という、天皇賞(1億3200万円)にも匹敵するG1レースとしてのジャパンカップ・ダート競走ですが、このまま外国馬の出走が殆ど無い状態が続くようなら、レースそのものの存続が議論される状態になってしまうかもしれません。

 私としては、芝馬場で走っているヴィクトワールピサが勝利し、JCDの勝ち馬トランセンドが2着になったドバイワールドカップのオールウェザーコースを参考にして、芝コースよりは力の要る日本独自のオールウェザーコースを中央競馬の一か所の競馬場に導入し、芝・ダートのどちらが得意な馬でも出走可能な「ジャパンカップ・オールウェザー」というレースに改編するのも、現実的で将来性も有る、ひとつの方法だと考えています。
 今年のフィギュアスケートNHK杯は、11月23日~25日の3日間にわたって、宮城セキスイハイム スーパーアリーナで開催されました。この大会は、国際スケート連盟のグランプリシリーズにも組み込まれていますから、その成績がグランプリファイナル(今年は12月6日~9日、ロシアのソチで開催)への出場権に影響するものでした。

 日本人選手の結果は、男子シングルでは羽生結弦選手が優勝、高橋大輔選手が2位になり、グランプリシリーズの他の大会の成績と合わせて、二人ともグランプリファイナルへの進出を決めました。
 女子シングルでは浅田真央選手が優勝、鈴木明子選手が2位になり、男子と同様に二人ともグランプリファイナルへの進出を決めました。
 この4名のスケーターの演技は、我が国のフィギュアスケートファンの期待に応えたもので、こうしたプレッシャーのかかる大会でしっかりとした結果を出したことは、素晴らしいことだと思います。
 先に出場を決めていた、男子の小塚崇彦選手と町田樹選手を含めた6人の選手のグランプリファイナルでの活躍が楽しみです。

 NHK杯2012で一点だけ気になったことがありました。女子シングルのフリー演技の採点です。そのテレビ放送をご覧になった皆さんの中にも、違和感を覚えた方がおられたのではないでしょうか。

 女子シングル・フリー演技の最終組、まず鈴木明子選手の演技が始まりました。最初のジャンプ成功で波に乗り、スピード十分な演技が続きました。予定されていた種目も概ね取組み、ジャンプでバランスを崩したシーンがひとつだけありましたが、目立ったミスもなく、演技全体の流れも良く、表現力も十分に発揮されていました。鈴木選手としても満足できる出来栄えであったと思います。
 やはり126.62と高得点が出ました。キスアンドクライの鈴木選手も笑顔です。

 全ての出場者の最後に、ショートプログラムでトップの成績を残している浅田真央選手が登場しました。登場するだけで華やかな雰囲気を漂わせるスケーターですので、場内の歓声も大変大きくなりました。白鳥の湖の曲に乗った演技が始まりました。最初のトリプルジャンプがダブルに変更されて、おやっと思わせました。その後の演技でも、トリプルジャンプが、ダブルやシングルに変更される演技が続きましたが、ストレートラインステップやスパイラル、スピンといった演目をキッチリと熟し、表現力も豊かでしたので、観客の歓声も盛り上がりました。そして、演技を終えましたが、ジャンプの失敗を気にしてか、浅田選手の表情は曇ったままでした。
 キスアンドクライでも暗い表情が続き、得点117.32がコールされ、合計点で0.05点鈴木選手を凌いで優勝が決まった後も、浅田選手の表情は晴れませんでした。

 テレビのインタビューの際にも「全然ダメでした」を繰り返していましたから、とても優勝者の雰囲気ではありません。浅田真央選手にとって、とても不満が残る演技であったことが、良く解りました。

 確かに、ショートプログラムが終わった段階で、浅田選手の得点は67.95、鈴木選手は58.60と、9.35の大きな差がついていました。
 一方で、フリープログラムの演技内容にも、逆の大きな差があったとように観えましたので、配点が大きい分、鈴木選手が逆転でNHK杯を制したように思われましたが、結果は前述の通りでした。

 現在のフィギュアスケート競技の採点法は、2003年から導入されているISUジャッジングシステム(=コード・オブ・ポイントCOP)です。私はCOPについて詳しいわけではありませんが、報道されている情報から少し検討してみたいと思います。

 浅田選手の今回のフリー演技では、当初予定していたジャンプシークエンスの内、4つの3回転ジャンプが2回転あるいは1回転になりました。

 COPの3回転ジャンプと2回転ジャンプの基礎点は以下の通りです。

・3回転ルッツ 6.0
・3回転フリップ 5.3
・3回転ループ 5.1
・3回転サルコウ 4.2
・3回転トウループ 4.1  3回転ジャンプの平均4.94①

・2回転ルッツ 2.1
・2回転フリップ 1.8
・2回転ループ 1.8
・2回転サルコウ 1.3
・2回転トウループ 1.3  2回転ジャンプの平均1.66②

 回転不足による減点や、出来栄え点の加除などがありますので、一概には言えないと思いますが、①と②には3.28の差がありますので、これが4回あったとすれば、3.28×4=13.12③の差があったと見ることもできると思います。

 浅田選手と鈴木選手のショートプログラムの差が9.35でしたので、③で逆転が可能ということになります。
 もちろん、実際の採点においてはステップ・スピンといったジャンプ以外の演目の技術面や演技構成点(浅田選手64.54、鈴木選手62.11で浅田選手が2.43上回りました)がありますので、こうした部分の配点・採点の結果として浅田選手が0.05という僅かな差で逃げ切ったのでしょう。当然ながら、公正な採点の結果であったと思います。

 新しい採点法としてのCOPは、以前の「6.0システム」において、技術点と芸術点により構成されていることもあって、どうしても恣意的な要素が入りうることを見直して、可能な限り公平・公正な採点を行いたいという、フィギュアスケート界全体の意向が反映されているものだと思います。

 他の「採点型競技」でも同様ですが、プレーヤー・観客の双方にとって解り易く、違和感のない採点方法の検討・導入・確立は、競技の人気、大袈裟に言えば存亡に関係する重要ポイントです。

 浅田選手の今回のフリー演技において、3回転ジャンプ演目の過半でミスをして、観客から見ると「ジャンプの出来がとても良くない」と感じる演技内容でありながら、僅少差で逃げ切る結果に結び付いたことは、採点方法としてのCOPのブラッシュアップを進めていく際に、十分考慮すべき点でしょう。
 結局は、以前の芸術点のように恣意性が大きく入りうる採点方法ではないかと、選手や観客に感じられるようなことがあれば、フィギュアスケート競技の発展にとって大きなマイナスになると危惧されるからです。

 色々と書きましたが、グランプリシリーズの結果は出ました。浅田選手、鈴木選手のグランプリファイナル大会での大活躍が楽しみです。
 2年後のソチオリンピックの準備という点でも、大切な大会になると思います。

 今週土曜日12月1日には、第46回ステイヤーズステークスG2が中山競馬場で開催されます。ステイヤーズSは、距離3600mで行われる、現在我が国で実施されている平場競走としては最長のレースです。1967年に重賞に格上げされたステイヤーズSですが、丁度同じ頃、中山競馬場の条件戦として、外回りの芝コースを2周する距離4000mの「日本最長距離ステークス」が行われていました。

 日本最長距離ステークスは、1968年・昭和43年~1975年・昭和50年まで8回行われました。

 昭和40年代までの我が国のレース体系は、大レースといえば日本ダービー2400m、有馬記念2500m、天皇賞3200mと距離の長いレースが多く、1600m~2000mの中距離を得意とする馬にとっては、いわゆるG1級のレースでの活躍の場があまりありませんでした。
 そこで、中央競馬会は1980年代以降中距離の大レースの創設に努めてきたことは、以前の本ブログでも記載の通りです。

 しかし一方で、長距離馬・ステイヤー向けの条件戦も不足していたのです。確かに、太平洋戦争後に再興された日本競馬においては、長距離の大レースは存在していたのですが、条件戦としての長距離レースは少なかったのです。
 中距離、短距離の条件戦は、新馬戦、未勝利戦を始めとして、ある程度存在していたわけですから、その意味からは一流馬ではないステイヤー血統の馬の活躍の場は、元々とても少なかったことになります。そして、その後の中距離血統全盛時代の到来により、一流馬ではないステイヤーが活躍する場は、ますます減ってきているのです。

 さて、日本最長距離ステークスですが、戦前に中山競馬場で実施されていた「中山四千米競走」が再興される形で、戦後1968年に始められたのです。僅か8回で終わってしまった理由は、
① 出走馬数が少なかったこと。
② レース展開によって、毎年の走破タイムの差が大きかったこと。→超スローペースの前半になり、上がり1000mのレースになってしまうことが多かったのです。

 1974年・第七回のレースは、当時のNO.1ジョッキー加賀武見騎乗のキクオーカンが絶妙のペースでリードし、4分15秒6のレコードタイムで勝ちましたが、翌1975年のレースは、まるでキャンターのような前半の展開になり、典型的な上がりのレースになってしまって、勝ちタイムは4分46秒1というものでした。
 私もこのレースを見ていましたが、良馬場のレースであったと思います。馬場状態が悪くない中で、前年の走破タイムより30秒以上遅くなり、まるで調教のようだ、といった批判が出され、この1975年を最後に日本最長距離ステークス4000mは幕を閉じたのです。

 この1975年、最後の日本最長距離ステークス・ウイナーがホワイトフォンテンでした。

 ホワイトフォンテン号、父ノーアリバイ、母レベッカの弐、母の父はダイハード。生涯成績は50戦11勝。葦毛の逃げ馬でした。いつも、3~4馬身位、2番手の馬を離して、淡々と逃げを打ち、勝つ時は最後の直線で再加速して突き放す、というレース振りでした。
 小柄でお世辞にも綺麗とは言えない斑の葦毛馬が、時代時代の一流馬を相手にした重賞競走で、いつ捕まるのかなと思って見ていると、ゴール板まで先頭で走り切るものですから、高配当のレースも多く、人気がありました。「鼠みたいな馬」とも言われましたが、大変人気のある馬であったと思います。

 静かに逃げるレース振りから「白い逃亡者」というニックネームを戴いていました。お父さんの名前がノーアリバイというのですから、これはもう出来過ぎです。
 そのホワイトフォンテンが、オープン馬になるきっかけとなったレースが、1975年3月の日本最長距離ステークスだったのです。このレースも、ホワイトフォンテンが逃げましたが、その後のレースのように2番手の馬に差を付けての逃げではなく、ほんの1馬身差でひたひた逃げたと記憶しています。このペースの遅いことといったら、本当にキャンターのようで、レース前の返し馬より遅い感じ。小頭数の馬が一列になってゆっくりと走っています。2週目の2コーナーあたりから、ようやくスピードが上がり始め、そのままゴールまで緩みの無いペースを保って優勝しました。何か、ほのぼのとした5分弱のレースでした。

 この勝利によりオープン入りしたホワイトフォンテンは、同じ1975年6月の日経賞2500mに挑戦します。日経賞は現在でもG2のレースであり、当代一流の古馬が出走してくるレースですが、グレード制導入以前の1970年代も同様で、この年の日経賞にも、天皇賞馬フジノパーシア、同じく天皇賞馬イチフジイサミ、オークス馬トウコウエルザ、日本短波賞やセントライト記念に勝った実力馬スルガスンプジョウ、NHK杯馬ナスノカゲといった強豪馬が出走してきました。
 ブービー人気だったホワイトフォンテンは、2着のフジノパーシアに2と1/2差をつけて、このレースを逃げきりました。単勝は万馬券だったと思います。この辺りから、一部の熱烈なファンを持つようになりました。

 続いて秋の毎日王冠も、キッチリ逃げ切り勝ち。重賞2勝の実績を引っ提げて、その年の有馬記念に駒を進めます。ホワイトフォンテンは、他の逃げ馬と同様に、ノーマークで逃げた時に粘り脚を披露するのですが、さすがに有馬記念ともなるとノーマークというわけには行かず、緩みの無いペースで逃げさせられ、息を入れる間が無く直線失速、最下位の13着に終わりました。
 このレースの4コーナーを回るホワイトフォンテンの姿が想い出されます。既に一杯の様子で懸命に4コーナーを回る姿です。やはり、注目されるとしんどいな、と感じました。

 この有馬記念の大敗で、注目されなくなったホワイトフォンテンは、翌1976年1月のアメリカジョッキークラブカップに出走します。このレースも、現在G2のレースですが、当時も格の高いレースで、有馬記念を戦った一流馬が、翌年の緒戦とするレースでした。この年のレースにも、前年の有馬記念馬イシノアラシや菊花賞馬コクサイプリンスらの八大競走優勝馬が出走してきました。
 有馬記念で底をみせた?ホワイトフォンテンは、このレースは定位置?のブービー人気。マークもされませんから、こうなると如何なく力を発揮します。キッチリ2400mを逃げきり優勝しました。
 そして、7月の日経賞を連覇しました。歴史と伝統の日経賞を連覇したのは、ホワイトフォンテンが初めてでした。これで重賞4勝目ですから、立派な強豪馬になったと思ったものです。

 さすがに重賞4勝馬ともなると、その後のレースではノーマークというわけには行かず、秋の天皇賞3200mではロングホークに先行を許し、3コーナーから失速して大敗。もはや一流馬の仲間入りをしたホワイトフォンテンは、秘かに逃げることが出来なくなっていたのです。
 1977年のアメリカジョッキークラブカップに連覇を目指して出走してきましたが、レース前に故障を発生し、そのまま引退しました。1972年から1977年まで6年間にわたり50戦に挑んだ、丈夫で長持ちのサラブレッドでした。

 競走馬を引退したホワイトフォンテンは、種牡馬としても長く活躍しました。長距離得意の逃げ馬という、あまり喜ばれない血統でしたし、産駒に重賞勝ち馬も居ないのですが、不思議と人気があり、最晩年まで種付を行っていたようです。
 1996年新冠の隆栄牧場で亡くなりました。27歳で老衰という大往生です。本当に健康な馬だったのだと思いますし、「無事これ名馬」の一頭でしょう。ひょっとすると産駒も丈夫な馬が多く、それが種牡馬としての安定した人気に繋がっていたのではないかとも思います。

 私は今から30年前、大好きなサラブレッド達に会うために、夏休みに友人と北海道を回りました。そして、ホワイトフォンテンの居る牧場も訪問しました。現役時代に比べて、とても白くなっていたホワイトフォンテンは、元気いっぱいでした。
 屑人参(通常、馬に食べさせるのは屑人参です)を掌に載せて食べてもらおうとすると、近くまでは来るのですが、食べようとはしません。牧場の人が「こいつは、人の手からは食べないよ」と。下に落としてあげると、寄ってきて美味しそうに食べます。そしてまた、2m位離れたところで待っています。

 白い逃亡者といわれたホワイトフォンテンは、人懐こいがシャイで慎重な?馬でした。
 好天の夏の北海道。草の上に置かれた人参を食べるために伸ばされた、ホワイトフォンテンの本当に白い首筋が眼に鮮やかでした。

 私が通っていた高校にも硬式野球部があり、甲子園大会を目指して?毎日練習していました。私も別の競技スポーツに取り組んでいましたから、われらが野球部の練習も目に入ります。時々10㎞走をやり、古タイヤを引っ張っていました。

 「野球の試合で最も長い距離を走るケース」を考えてみます。おそらくランニング・ホームランを打つ時でしょう。塁間90フィート・27.4m×4=109.6m。例えば、右翼手が、三塁側のフェンスに達するファウルを取りに行くケース(左翼手・三塁手・遊撃手・二塁手・投手・捕手が一斉に何らかの理由で動けなくなるケースですので、発生可能性は0に近いとは思いますが)があったとしても、100mは超えないでしょう。

 従って、野球という競技においては、全力で走る最長距離は110m+α(塁間を膨らんで走る分)ということになります。加えて、かなりの高速で走りますので、必要な筋肉は「短距離走」向けの筋肉ということになります。
 ところが、野球の練習では頻繁に10㎞走といった長距離走をゆっくりと走っています。

 当時、われらが高校の4番打者にその辺のことを聞いたことがあります。「体を作るんだよ。硬球に負けない、しっかりした体を」と言っていました。硬球は、野球規則によれば、コルクやゴムの芯に糸を巻き牛革で覆い、重さ141.7~148.8g、円周22.9~23.5㎝と決まっています。確かに、硬く重い球です。これを投げたり、打ったりするためには、体に筋肉が付いた状態の質量が必要だという考え方です。
 おそらく、これは事実なのでしょう。ベースボール・野球の長い歴史の中で、筋肉の鎧と一定の体重は、良いプレーをするためには不可欠なものなのでしょう。

 この筋肉の鎧を身に付けるために、長距離走を行い、タイヤを引っ張る練習が必要になるというのが、彼の説明でした。

 しかし、実際のプレーで必要なのは、短距離走のスピードです。ゲーム中に重いものを引っ張ることもありません。筋肉の鎧を身に付けて重くなれば、走る速度は遅くなります。限られた時間の中で、先の塁に到達するために、少しでも速く走らなければならない競技の練習は、走るスピードを遅くする練習なのです。なんと難しいスポーツなのでしょう。

 もちろん筋肉の鎧は、打撃時に活用されるのでしょう。一定の体重と筋肉が無ければ、打球を飛ばすことが出来ないことは理解できます。ホームランバッターと呼ばれるプレーヤーは、確かに皆、立派な体をしています。大きくてしっかりした体格です。
 ゴルファーでも、太った方が(体重があった方が)飛距離が出るといわれます。女子プロの中には、飛距離を出すために敢えて太った、という話も報道されたりします。これも、野球と同じことなのでしょうか。

 他方、長距離走他で身に付く「持久力」は、どんな時に役に立つのでしょう。投手と捕手は、持久力が必要なポジションに見えます。特に先発投手は、時に100球以上の投球を2時間強の試合時間の中で、投げなければなりません。これは、腕・腰のみならず、下半身の筋肉に持久力が必要であろうと思います。大投手金田正一氏が、事あるごとに「走れ、走れ」といっていたという話を聞きますが、さもありなんという感じです。
 捕手も、投手ほどではないにしても、守備の間動いている時間が長いので、持久力が必要に思います。

 一方で、投手・捕手以外の野手には、持久力が必要なのでしょうか。守備の際、打撃の際には、どちらかといえは「瞬発力」の方が必要な気がします。もちろん、瞬発力は打撃練習や守備練習で身に付けていると言われることでしょう。それは解ります。しかし、一方で、必要な瞬発力を削ぐ可能性のある練習もやらなければならないのが、ベースボール・野球の難しさだと思います。
 投手や捕手も、前段で持久力が必要なポジションと書きましたが、瞬発力も必要であることは言うまでもありません。投手は速球・変化球を投げるために、速く・強く動く筋肉が必須です。捕手も投球・打撃のために瞬発力が必要です。持久力と瞬発力の両方の筋肉が必要であるということになります。

 他の競技では、持久力と瞬発力が区別されているものも多いと思います。例えば、陸上競技の競走においては、短距離走のランナーが長距離走の練習をすることは、無益というよりは有害です。
 短距離走に必要な筋肉は、いわゆる「無酸素で動く筋肉*」ですので、長距離走の練習を行うことによって身に付く「有酸素で動く筋肉*」は、体重が重くなるだけで、速く走るためには障害になります。(*短距離走では、肺から取り入れた酸素が、競技時間中には筋肉に到達しないので、競技開始時に筋肉に蓄えられている酸素だけでエネルギーを発生させます。従って、残存物質として「乳酸」が発生し筋肉中に残るため、後の筋肉痛の原因物質となります。一方で、長距離走では、肺から連続して取り入れる酸素を使って、効率的にエネルギーを発生させますので、乳酸は発生しません)

 バスケットボールの神様マイケル・ジョーダンが、そのキャリアの中でMLBに挑戦したことは有名です。ジョーダンが、シカゴ・ブルズにおける最初の3ピート(3年連続NBAファイナル制覇)を果した後、1993年の秋にMLBシカゴ・ホワイトソックス傘下の2A、バーミンガム・バロンズに入団したのです。
 もともとベースボールの大ファンだったジョーダンは、本気でMLBを目指したのだと思います。もちろんジョーダンの運動神経の良さは言うまでもないことで、あらゆるスポーツに対応可能であることは間違いなかったと思いますが、翌年にかけてのジョーダンの懸命な取組は、結局実を結びませんでした。(出場127試合で打率2割2厘・11エラー)

 時折、ジョーダンの挑戦がテレビでも放映されましたが、ジョーダンの体はいかにも細いシルエットです。ベースボールプレーヤーとは筋肉の付き方が違うという感じ。やはり、成長期の若い頃に、ベースボール向けのトレーニングをする必要があることが、良く判る事例でした。マイケル・ジョーダン程のスポーツの天才を持ってしても、ベースボールは身体が成長した後では、容易には攻略できない競技なのだと。

 高校時代、甲子園出場を目指しながらも、いつも地方予選の初戦で敗退する、われらが野球部の練習を見て、私はもっと合理的な練習が無いのかな、と思いました。「重さと質量のための筋肉」を付けるのに、長距離走やタイヤ引きではないトレーニングがあるのではないか、付ける筋肉量も必要最小限にして、素早く動くことへの障害にならないようにした方が良いのではないかと。

 また、おかしな?ことを書き、恐縮です。
 「ベースボール・野球は難しい」シリーズは、取り敢えず本稿で完結とさせていただきます。三つの変な話にお付き合いいただき、ありがとうございました。
 11月7日の当ブログで、11月場所で活躍が期待できる力士10名を掲載しました。11月場所の15日間を振り返って、総括したいと思います。

・白鵬 14勝1敗 優勝
・稀勢の里 10勝5敗
・妙義龍 6勝9敗
・豊ノ島 11勝4敗
・臥牙丸 8勝7敗
・常幸龍 6勝9敗
・高安 5勝10敗
・安美錦 7勝8敗
・栃煌山 10勝5敗
・旭天鵬 10勝5敗

 10名中、勝ち越しが6名、平均9.4勝5.6敗でした。勝ち越した力士が少ないことは残念ですが、平均勝ち星で観るとまずまずの成績でした。

 優勝は、横綱白鵬でした。四つ相撲だけではなく、カチ上げから突いて出る相撲も物にして安定した15日間でした。これで23回目の賜杯。前稿にも記しましたが、20回を超える優勝を誇る大横綱の中で、大鵬・千代の富士を目指していける体制が構築できたのかもしれません。

 新横綱の日馬富士は、今場所は前に出る力が不足していて、大関時代の良くない場所並みの成績9勝6敗に終わりました。横綱の9勝6敗は、朝青龍や白鵬の成績と比較すると物足りないものですが、前稿にも記しましたように、この二人の先輩モンゴル人横綱の成績がスバ抜けているのであって、それ以前の横綱の成績と比較すれば、横綱として初めて臨んだ場所でもあり、決して驚くには当たらないものです。
 今場所の日馬富士は、おそらく右足首の調子が悪かったのだと思います。スピードで勝負する力士が、スピード不足では勝負になりません。コンディションを整えて、来場所の反攻に期待したいと思いますし、故障が回復すれば優勝できる力が十分にあることは、二場所連続全勝優勝で証明されています。心配ないと思います。

 大関稀勢の里は二桁勝利を挙げましたが、物足りなさも残りました。下位力士との取組での取りこぼしも残念でしたし、白鵬との取組の内容も残念至極でした。
 立ち合いの際に、両足を仕切り線に平行になるように広げるのは、鳴門部屋の力士の特徴ですが、前にも書きましたように、この形では少しでも立ち合い負けすると押し込まれてしまいます。稀勢の里は、その圧倒的な腕力で、押し込まれた後から反撃が可能ですが、慌てることも多く、取り零してしまいますし、白鵬戦のように一方的に押し出されるケースも出てきます。もう少し、立ち合いで強く当たるように出来れば、横綱が近づいてくるように思います。

 関脇妙義龍は、前半の出来が悪かったことが響いて負け越しました。過去2場所に比べて、明らかにスピード不足でした。相手力士より先に先に攻めるスピードが無いと、この体力でこの番付では苦しいところです。もうひとりの関脇豪栄道が11勝の好成績を挙げましたが、こちらは、近年にないスピード溢れる相撲でした。関脇以下の力士が、横綱・大関陣と互角以上の成績を残していくには、「圧倒的なパワー」か「圧倒的なスピード」が必須ですが、現在の関脇・小結陣は後者で勝負していくしかありません。やはり、コンディションの維持・向上が大切です。

 豊ノ島は、その実力を如何なく発揮できた場所でした。相性が良い11月場所ということもあってか、独特の体の動きとスピードが復活しました。嘉風戦と千代大龍戦のどちらかを物にしていれば三賞もあったかもしれません。 それにしても、14日目までに10勝していて、番付からして通常は当たらない横綱・大関との取組も組まれた力士に、三賞が授与されないのは、先場所に引き続いて如何なものかと思います。力士のやる気を醸成する対応も必要なのではないでしょうか。豊ノ島が、この番付なら好成績も当たり前というのでは、アンフェアな考え方でしょう。

 臥牙丸は勝ち越しました。立派な15日間だったと思います。取り口が憶えられた感じですが、それでも勝ち越しました。14日目の取組で、おそらく左肩を痛めました。年末年始でキッチリ治していただき、来場所の活躍に期待したいと思います。

 常幸龍は、幕内の壁にぶつかりました。十分克服できると思っていましたが、組むでも無く、押すでも無い取り口で勝ち星を挙げるには、少し前に出る圧力が不足していました。コンディションが悪かったのでしょうか。立ち合いを磨いて、まわしを取る方法を研究すれば、十分通用すると思います。

 高安は、場所前の稽古では絶好調と報道されていたのですが、場所入り後は前に出る圧力が不足している上に、何か「軽い」感じでした。場所入り直前に、下半身に故障でも発症したのかもしれません。いずれにしても、鳴門部屋力士の共通点である、押されやすい相撲の改善が大切です。立ち合い後に腰で押し込む形を、身につけたいものです。

 安美錦は、その持ち味は発揮しましたが、豪栄道、栃煌山、松鳳山との取組で全敗したのが響きました。十分なサイズと相撲の上手さを身に付けている力士ですので、巻き返しは十分に可能だと思います。

 栃煌山は、前頭筆頭の番付として十分な活躍でした。あとは、旭天鵬戦に観られるように、素早く左右に動かれたときに、付いていけないところがあります。スピードも十分な力士としては、不思議なところですが、サッと動かれると相手力士と離れてしまうのです。体を密着させることは、相手に力を出させない点からしても重要な手法です。前に出るパワーは身に付いてきていると思いますので、「心配せず」体を寄せていけば、来場所・三役の場所でも、十分に活躍できると思います。

 旭天鵬の10勝は、見事の一語。これで、今年6場所の内3場所で10勝以上の勝ち星を挙げたことになります。38歳にして、力量が向上しているように観えます。素晴らしいとしか言いようがありません。
 14日目まで、白鵬と共に優勝を争いました。番付からして、当たらないはずの力士との取組が組まれ続けましたが、三賞は与えられませんでした。14日目の取組が終わった後の「疲れました」というコメントに、旭天鵬の思いが表れています。幕内最年長力士に、優勝争いの重責を担わせ、大関戦他を組むのであれば、三賞で報いるべきだと思います。まさか、今年優勝しているから三賞は不要と考えているわけではないと思いますが。
 いずれにしても、旭天鵬関、今年はお疲れ様でした。大変面白い相撲を魅せていただき、本当にありがとうございました。

 11月場所は、初日・二日目の客入りの悪さから、興行面が心配されましたが、7日目あたりから客足も上向きました。
 全体としては、面白い取組も多くありましたので、大相撲の再興は進んでいるようにも思います。現在の土俵は、関脇から幕の内上位にかけての力士の力量が高く、面白い取組が生まれていることによって支えられているようにも思います。

 2012年の大相撲は幕を下ろしました。平幕旭天鵬の優勝や、新横綱日馬富士の誕生に代表される、変化に溢れエンターテイメント性十分な年でした。
 来年は、日本人横綱と、生きの良い新入幕力士の誕生に、期待したいと思います。
 日本のラグビートップリーグのパナソニック・チームに所属する田中 史朗(たなか ふみあき)選手が、日本人選手として初めて、南半球のニュージーランド・オーストラリア・南アフリカの3か国のクラブチームで争われている「スーパーラグビー」に所属するチームに入団することとなりました。2013年のゲームに出場します。

 スーパーラグビーは、前述の3か国からそれぞれ5チームずつが参加し、計15チームで行われているラグビー・ユニオン・フットボールの国際リーグ戦です。世界最高水準のリーグ戦ですから、ベースボールでいえばMLBに相当するものです。このスーパーラグビーに、日本人プレーヤーとして初めて参加することとなった訳です。

 田中選手が入団するチームは、ニュージーランドのハイランダーズ。ハイランダーズは、1996年に創設された、ニュージーランド南島のオタゴ地方ダニーデンを本拠地とする名門チームです。これまで、沢山のプレーヤーをオールブラックス(ニュージーランド代表チーム)に送り込んでいるチームですが、まだスーパーラグビーでの優勝経験はなく、1999年の準優勝が最高の成績です。チーム名はスコットランド由来(ハイランダーは、スコットランド高地の住民を指す言葉)です。ダニーデンには、スコットランドからの移民が多いことから、このチーム名になったそうです。

 ラグビーは、イギリス起源のスポーツですし、イングランド・スコットランド・ウェールズ・アイルランドはホームユニオンと呼ばれる歴史と伝統を誇っています。ホームユニオンの代表チームは、当然に世界のトップ水準のラグビーを展開して来ました。
 19世紀後半から20世紀前半にかけての大英帝国の世界展開に伴い、ラグビーも世界中に広がりました。そして南半球のニュージーランド、オーストラリア、南アフリカにも普及し、この3か国は一気に実力を付けました。ホームユニオンの代表チームとのゲームでも、互角以上に渡り合うようになっていったのです。

 ラグビーワールドカップ(以下、WC)は1987年に開始され、昨年の2011年ニュージーランド大会で7回を数えています。このラグビーWCについては別稿で少し詳しく観てみようと思いますが、本稿ではこの7回の優勝国を見てみます。
 優勝回数を見ると、オーストラリアと南アフリカとニュージーランドが2回ずつ、イングランドが1回の計7回となっています。つまり、南半球の3か国が現在の世界のラグビー・ユニオン・フットボールをリードしているのです。
 その3か国のトップクラブ15チームが一堂に会しているのが「スーパーラグビー」ですから、世界最高のリーグ戦といって間違いありません。

 田中史朗選手は、身長166㎝、体重75㎏、ポジションはスクラムハーフSHです。京都の伏見工業高校の1年生の時に全国高校ラグビー大会で優勝しています。京都産業大学を経て2007年に三洋電機ワイルドナイツ(現在のパナソニック)に加入し、日本のトップリーグで活躍を続けてきました。
 2008年以降は、日本代表に選出されています。走り、パスともに極めて俊敏でメリハリの効いたプレーが印象的ですし、SHとしての判断も正確で速いプレーヤーです。

 スーパーラグビーの開催時期は、毎年2~7月です。南半球ということもあって、我が国のシーズンとは異なりますので、田中選手はパナソニックにおける活動も続けるようです。スーパーラグビーのノウハウを早期に我が国のラグビーに伝えていくためにも、良い環境と言えます。

 野球でもサッカーでも、日本人プレーヤーが海外の世界最高水準のリーグに参加するようになってから、日本人プレーヤー・チームのレベルが上がりました。
 田中選手が活躍し、田中選手に続いて他の日本人選手もスーパーラグビーに参加していくようになれば、日本ラグビーも一段上のレベルに上がっていけると思います。

 その意味からも田中選手の役割は重要です。パイオニアとして様々な障害が待ち受けていると思いますが、選ばれし者として、サッカーにおけるKAZUやMLBにおけるNOMOのように、ラグビーにおけるTANAKAとなって、日本ラグビーを牽引していって欲しいものです。

 本ブログの他の稿でも「ラグビー(ここではユニオン)」などという表記をする場合があります。実は、ラグビーという競技には大きく分けて、ラグビー・ユニオン・フットボールとラグビー・リーグ・フットボールの2種類があるのです。

 良くご存知の方には、当たり前のことで恐縮ですが、日本で広く行われているラグビーは「ラグビー・ユニオン」競技で、「ラグビー・リーグ」競技の方はなじみが薄いので、本稿では、この2つの競技について簡記したいと思います。(そもそも「ユニオン」や「リーグ」という単語が競技名・競技を区別する言葉になっているという点が、日本語における解りにくさを増長させているようにも思います)

 本ブログの「ラグビーのはじまり」稿の中で、イギリスにおいて原始フットボールから1863年にサッカーとラグビーが袂を分かち、同年にサッカー協会FAが発足したので、この年がサッカー起源の年であり、それから遅れること8年、1871年にラグビー・フットボール・ユニオンRFUが発足したので、この年がラグビー起源の年であると記載しました。

 こうしてラグビーはイギリス中に広まったのですが、ある問題が次第に大きくなりました。その問題とは、仕事を休んで試合をするプレーヤーの所得保障の問題です。
 ラグビー創成期、ラグビープレーヤーは皆、他に仕事を持っていて、ラグビークラブの活動、練習であったり試合であったりに参加していたわけです。現在の色々なスポーツのアマチュア選手と同様です。

 この頃の各クラブチーム同士の試合は主に土曜日に行われていたそうです。週5日労働が一般的で比較的裕福であったイギリス南部地域の労働者は、休日である土曜日に試合を行っていたわけですが、週6日労働が一般的であったイギリス北部地域の労働者は、仕事を休んで試合に出場していました。この休業に対する金銭的な補償もありませんでした。
 北部地域のラグビークラブやプレーヤーは、RFUに対して仕事を休んで試合に出たプレーヤーに対して報酬を渡すことを提案しましたが、RFUはこれを拒否。
 そこで、北部地域のラグビークラブは1895年8月に「ノーザン・ラグビー・フットボール・ユニオン」NRFUを結成し、RFUと袂を分かったのです。この年が、ラグビー競技がラグビー・ユニオンとラグビー・リーグに分裂した年であり、RFUのラグビーがラグビー・ユニオン、NRFUのラグビーがラグビー・リーグになったのです。

 ここまで書いても、ユニオンとリーグの違いは良く解りません。経済的理由によって1895年に分裂したとはいっても、分裂当初のラグビー・ユニオンとラグビー・リーグのルールは同じでしたから、同じ競技で所属団体が異なるにすぎません。
 本当の意味で、ユニオンとリーグの違いが生まれてくるのは、この分裂を契機としてルールが異なって行ったため、次第に異なる競技になって行ったということになります。

 NRFUが結成されてから、NRFUにおいて様々なルールの検討・変更が行われました。その検討・変更の主たる理由も、仕事をしながらプレーを行うというプレーヤーの事情に適合させていく流れでした。
 まず「負傷を回避する観点」から、ラック、モール、ラインアウトといった「密集戦」を生み出すルールが廃止されました。こうしたルール変更は、ラグビー競技の有り様に大きな影響を与え、ラグビー・ユニオン競技とは大いに異なるラグビー・リーグ競技が確立されていったのです。逆に言えば、こうしたルール変更によりラグビー・リーグ・フットボールが生まれたとも言えます。

 「スクラム」はルール上残されましたが、これもハードコンタクトは無く、形としては組み合いますが押し合うことをせず、ボールをインプレーにする手段のひとつに過ぎません。ラグビー・リーグ関係者の間では、長年にわたりスクラムの廃止が検討されているようです。

 ここに重要なポイントがあると、私は考えています。
 兼業のプレーヤーに怪我をさせない・保護するために、ハードコンタクト・密集戦(腕力等によるボールの取合い)を極力排除したために、ゲームにおいて「ボールの所在が良く判る」「攻守が明確」という特徴が生まれたのです。結果として、ラグビー・ユニオンに比べてボールが良く動き、フィールド全体に展開される・ランニングプレーが多い、ラグビーになって行ったのです。

 現在のラグビー・リーグ・フットボールの特徴的なルール(ラグビー・ユニオンに比して)を記載します。
① 1チームのプレーヤーの数は13人。ラグビー・ユニオンの15人より2人少ない。
② 攻撃側のプレーヤーに対して、守備側のプレーヤーのタックルが成立した段階でプレーを止めます。攻撃側のプレーヤーは、足下にボールを置き、ボールを足で後方に蹴ることで、インプレーになります。(従って、タックル成立の後、両チームのプレーヤーがボールに殺到し奪い合う、というプレーが存在しません)
③ 前述のタックルが6回成立すると、攻守交代になります。6回目のタックルが成立した地点で、相手方の攻撃が始まります。従って、5回目のタックルが成立した後は、攻撃側のプレーヤーは、相手陣地に大きく蹴り込み地域を挽回するプレーを行うことが多くなります。もし、5回目のタックル成立後の地点が、相手ゴールに近ければ、ドロップゴールを狙うこともあります。
④ ノックオンやスローフォワードといった軽い反則の時や、ボールがタッチラインを割った時には、スクラムでインプレーになります。ラインアウトはありません。
⑤ トライは4点、トライの後のキックは2点、ペナルティーキック・ゴールは2点、ドロップゴールは1点の配点になっています。
⑥ フィールドは、ゴールライン間が100m、幅は68m。ラグビー・ユニオンのフィールドの幅は70mですから、幅が2m少なくなっています。

 こうして観ますと、③の攻守交代ルールなどは、アメリカンフットボールのルールに通じるものがあるように思います。

 さて、前述の特徴あるルール設定により、ラグビー・ユニオンに比べて、密集戦が少なく、展開主体のスポーツとなったラグビー・リーグは、スピード感に溢れる競技になりましたから、当然ながら見ていて面白いものになりました。

 現在では、発祥地であるイギリス北部はもちろんとして、オーストラリア・シドニー周辺の東海岸一帯やパプア・ニューギニアでも、非常に人気のあるスポーツとなっています。
 また、近時のラグビー・ユニオンにおける様々なルール変更を見ると、ラグビー・リーグのルールに近づいているように感じます。お客様から見えにくく、解りにくく、時間がかかり、ボールが止まってしまう密集戦を減らして、スピーディで、ボールが良く動き、トライも生まれやすいラグビー・ユニオンを追求していくと、ラグビー・リーグに近づいていくというわけです。

 現代のあらゆるスポーツの観客から、最も求められている普遍的な要素は「解りやすさ」と「スピード感」なのかもしれません。「パワー」は、この二つの要素が達成された状態の上に、積み上げられるべき要素なのかもしれません。

 1895年に袂を分かったラグビー・ユニオンとラグビー・リーグ、ふたつのラグビーが一緒になる日が来るのかもしれません。
 2012年11月25日に東京競馬場芝2400mコースで開催される、第32回ジャパンカップ競走の勝ち馬予想です。

 今年は4頭の外国馬が参戦し、計17頭の優駿により争われます。このところの傾向ですが、このレースも力量的に日本馬が優位にあると思います。

 軸馬の検討です。これだけ豪華なメンバーが揃うと、なかなか難しいところです。

 軸馬候補の一番手は、8枠17番のオルフェーヴル。昨2011年の三冠馬にして、前走は凱旋門賞2着。地力の面からは、出走馬中NO.1でしょう。あとは、凱旋門賞からの疲労回復の問題と、気分屋の面がある馬なのでキチンと走ってくれるか、という点が心配です。
 軸馬候補の二番手は、8枠15番のジェンティルドンナ。今年の牝馬三冠馬にして、現在G1レース3勝を含む重賞4連勝中ですから、軸馬の資格十分です。あとは、国内最高水準の牡馬との戦いの中で、どれくらい通用するかという点がポイントです。
 軸馬候補の三番手は、2枠4番のフェノーメノ。前走の天皇賞(秋)は2着ですが、日本ダービー2着以降の最近4戦は連を外していません。東京競馬場にも適性がありそうですので、軸馬候補の一頭です。

 この中から、軸馬を選びます。迷いますが、オルフェーヴルとします。気まぐれなところは心配ですが、出て来る以上は心身ともに走れる状態にあると考えます。地力は一頭抜けている存在でしょう。

 対抗馬を検討します。軸馬候補の残りの2頭は、対抗馬候補です。
 続いては、1枠1番のビートブラック。今年のG1天皇賞(春)の優勝馬です。長距離に適性がありますので、展開次第では2着はありそうです。
 続いては、2枠3番のジャガーメイル。2010年のG1天皇賞(春)の優勝馬です。昨年のジャパンカップ3着、一昨年は4着と、このレースでも安定した成績を残しています。展開次第では2着はありそうです。
 続いては、4枠8番のエイシンフラッシュ。前走の G1天皇賞(秋)で久々の勝利を挙げた、2010年のG1日本ダービー馬。地力十分です。ただし、G1級のレースで連勝するタイプかどうか。
 続いては、5枠10番のダークシャドウ。前走のG1天皇賞(秋)は4着と期待を裏切りましたが、叩かれて良化が期待されます。パンとして来れば2着はありそうです。
 続いては、7枠13番のルーラーシップ。G1レースでの安定した成績が魅力です。ただし、国内では勝ちきれないレースが続いているのが気がかりです。
 続いては、7枠14番のソレミア。外国馬の代表格。今年のG1凱旋門賞でオルフェーヴルを破ったことは、記憶に新しいところです。4歳馬ですが、まだ4戦のキャリアです。成績はとても安定しています。ジェンティルドンナとの牝馬対決も楽しみです。

 以上から、対抗馬を選出します。

 対抗馬の一番手は、ジェンティルドンナ。緩みのないレース展開の中で、自在脚質が活きると思います。オルフェにどこまで迫れるかが、楽しみです。
 対抗馬の二番手は、フェノーメノ。東京コースでの安定した走りが期待できます。本格化の過程にありそうです。
 対抗馬の三番手は、ソレミア。凱旋門賞のレース内容は、地力が無くてはできないもの。4歳になって、ようやく使えるようになった馬なので、本格化はこれからとも言えます。ひょっとすると歴史的な名牝になる可能性を秘めた馬として、押さえておきたいと思います。

 今回は、以上の4頭に期待します。オルフェーヴルがキチンと走ってくれることを期待しています。
 ジャパンカップの変遷と1998年の第18回が海外馬優位から日本馬優位へのターニングポイントになったことは、前稿に記載しました。

 第18回ジャパンカップを快勝したのが、エルコンドルパサー号です。エルコンドルパサーは、アメリカ生まれの日本調教馬です。
 日本ダービーと菊花賞に外国産馬が出場できるようになったのは2001年から、皐月賞は2002年からですから、1997年にデビューしたエルコンドルパサーは、クラシックレースには縁がありませんでした。その点では、1976年にデビューした無敗馬マルゼンスキーと同じです。活躍時期が20年以上も後なのですが、やはり出走できなかったわけですから、我が国のクラシックレースの国際化の歩みは、ずいぶん遅かったように思います。

 1997年11月の新馬戦を7馬身差で圧勝したエルコンドルパサーは、続く2戦目1998年1月の条件戦も9馬身差で楽勝しました。次走の共同通信杯(ここまで3戦はダート戦でした)、続くニュージーランドトロフィーと重賞を連勝して、G1NHKマイルに駒を進めました。このレースも快勝、エルコンドルパサーは、同期の外国産馬の無敗馬グラスワンダーとともに、この世代の最強馬と呼ばれるようになりました。
 それにしても、20年以上ぶりに登場した、マルゼンスキー並みの成績を残す外国産馬2頭が同期というのも、「名馬は同じ時期に集中して登場する」を地で行くものです。

 この無敗馬2頭は、3歳秋の緒戦としてG2毎日王冠を選択し、超快速馬サイレンススズカの爆走の前に敗れたことは、過去の本ブログに記載の通りです。さすがのエルコンドルパサーも、この時ばかりはサイレンススズカに2と1/2差をつけられ2着に甘んじました。繰り返しになりますが、サイレンススズカという馬のスピード値の高さには驚くばかりです。

 そして、生涯初の黒星を喫したエルコンドルパサーが、次に選んだのが頭書の第18回ジャパンカップでした。このジャパンカップには、この年の日本ダービー馬スペシャルウィーク、女傑エアグルーブ、有馬記念馬シルクジャスティス、あのステイゴールドなどの日本馬とチーフベアハート、カイタノ、マックスジーンなどの外国馬、計15頭が揃いました。特に、日本馬は同期のダービー馬が出走してきましたので「世代最強馬はスペシャルウィークかエルコンドルパサーか」という触れ込みで評判になりました。

 レースは、エルコンドルパサーの完勝でした。4角を回り、残り2ハロン・400m地点で先頭に立つと、追いすがるエアグルーブ、スペシャルウィークを寄せ付けず、2と1/2差でゴール板を駆け抜けました。ゴール前での叩き合い・接戦が多いジャパンカップでは、珍しい程の圧勝で、2と1/2差は当時の最大着差であったと思います。
 また、3歳でジャパンカップを勝った日本馬は、エルコンドルパサーが初めてでした。

 毎日王冠でグラスワンダー(5着)に先着し、ジャパンカップでスペシャルウィークに完勝したこともあってか、この年の最優秀4歳牡馬(旧馬齢)には、皐月賞・菊花賞の二冠馬セイウンスカイを差し置いて、エルコンドルパサーが選出されました。名実ともに、同期最強馬に認定されたのです。二冠馬が最優秀4歳馬に選出されなかったことも珍しいことでしたが、おそらく「戦績よりも勝ちっぷり」に重きが置かれたのだろうと思います。それ程に、エルコンドルパサーの第18回ジャパンカップでの走りは、素晴らしいものでした。

 翌1999年、4歳になったエルコンドルパサーは、海外のレースに挑戦します。緒戦は5月のG1イスパーン賞、フランス・ロンシャン競馬場の1850mのレースです。残念ながら、このレースでエルコンドルパサーは2着となり、2敗目を喫しました。
 エルコンドル陣営は、このまま秋の凱旋門賞までフランスに留まることを決意し、次走にG1サンクルー大賞を選びました。この年のエルコンドル陣営の対応は、日本馬の海外遠征の範となるものであったと思います。細心の注意を払い、水や飼葉も、いつも日本でエルコンドルパサーが使用しているものをコンテナで運んでいます。馬主や関係者の真摯な取組姿勢が印象的です。この丁寧な対応が、エルコンドルパサーの競走成績の大きな力になったと思います。

 余談になりますが、19世紀のハンガリーに54戦54勝という歴史的名牝キンチェムという馬がいました。欧州大陸を列車で移動してドイツ・フランス・オーストリアなど欧州各国のレースに臨み、生涯不敗の名馬ですが、遠征に超強かったキンチェムでさえ、水だけは生まれ育った牧場の水しか飲まなかったといわれています。関係者は、キンチェムとともにその水を運びながら遠征したのです。(キンチェムについては、いずれ採り上げたいと思います)

 ことほどさように、サラブレッドは繊細な生き物ですので、エルコンドル陣営はキッチリとした対応を行ったわけです。最終目標である凱旋門賞に出走するまで、約半年間フランスに滞在し、レースもスケジュール通り消化するというやり方は、エルコンドルパサーにとっても負担の少ないやり方であったろうと思います。

 1999年7月のG1サンクルー大賞2400mを快勝し(これだけでも凄いことです)、凱旋門賞の前哨戦G2フォア賞2400mも接戦を制して(今年のオルフェーヴルもフォア賞に勝ちました)、勇躍、凱旋門賞に出走しました。

 1999年10月3日の凱旋門賞当日、馬場は極端な不良馬場(計測されている中ではレース史上最も水分を含んだ馬場)でした。この馬場が、エルコンドルパサーにとって良かったのか悪かったのかは、いまだに良く判りません。
スローペースと展開の綾で、エルコンドルパサーが逃げる展開になったレースは、スローペースで最後の直線を迎えます。エルコンドルパサーは、十分に脚を残して最後の直線を迎えました。

 この馬にだけは、空前の不良馬場がプラスに働いたフランス馬モンジュー(アイルランド生まれのフランス調教馬)がじりじり追い上げ、残り200mでエルコンドルパサーを捉えます。しかし、エルコンドルも譲らず、壮絶な叩き合いの末、モンジューが1/2差で1着でした。
 2頭の叩き合いは1ハロンに過ぎなかったのですが、レースを観ていた私には、永遠に続くように感じられました。全く互角の競り合いであったと思います。斤量がモンジュー56㎏に対してエルコンドルパサーが59.5㎏であったことや3着馬との差が6馬身もあったことなどから、エルコンドルパサーの現地における評価は極めて高いものになりました。日本馬の国際的評価を一気に高めた、歴史的なレースであったと思います。
 このレースを最後に、エルコンドルパサーは競走馬を引退しました。

 エルコンドルパサー号、父キングマンボ、母サドラーズギャル、父の3代前の父と母の2代前の父が、あのノーザンダンサー。エルコンドルパサーはノーザンダンサーの4×3、18.75%の血量血統になります。このノーザンダンサーの18.75%は、先日紹介したフランケルと同じです。
 生涯成績は、11戦8勝、2着3回。生涯一度も連を外さなかったのは、日本競馬史上シンザンの19戦、ダイワスカーレットの12戦に次ぐ、素晴らしい記録です。10戦以上走ってG1級のレースに勝ち、3着以下が無い馬というのは、この3頭に11戦11勝のクリフジと10戦10勝のトキノミノルを加えた5頭しかいないでしょう。三冠馬より少ないのです。

 歴代日本最強馬を議論するとき、必ず名前が上がるのは当然のことだと思いますし、いまだJRA顕彰馬に選出されていないのは、不思議なことだと思います。他の馬と比較するようなレベルの馬ではありません。絶対水準として、顕彰馬の水準は十分に超えていますし、何より国際舞台での活躍は、日本競馬の世界におけるランクを一段引き上げたものです。他に類を見ない偉大な貢献であることは、間違いないところでしょう。

 私がエルコンドルパサーの競走成績で最も素晴らしいと思うのは、東京競馬場のパンパンの固い馬場でジャパンカップに勝利し、一方でロンシャン競馬場の空前の不良馬場でも力を発揮した点です。高速馬場でも、力の要る馬場でも、その能力を発揮できる馬は滅多にいません。あのモンジューでさえ、ジャパンカップでは4着に敗れています。
 加えて、1400mから2400mまでのレースに勝っていて、スタミナとスピードの両方を高いレベルで具備していた点も特筆すべきところです。

 こうした自在の脚を持つエルコンドルパサーが種牡馬になったら、どんな産駒を出してくるのか、とても注目しました。
 社台スタリオンステーションで種牡馬生活に入ったエルコンドルパサーですが、2年目の産駒からダートの鬼ヴァーミリアン(ジャパンカップダート他G1レース9勝=JRA記録)やトウカイトリック(G2阪神大賞典他)を出し、3年目の産駒からG1ジャパンカップダートを勝ったアロンダイトを出しました。
 3年目までは、自身も強かったダートにとても強い産駒が目立ちました。

 ところが2002年7月、エルコンドルパサーは腸捻転を発症し死亡しました。まだ7歳という若さでした。種牡馬生活は3年で終わってしまったのです。
 エルコンドルパサーありせば、日本にセントサイモンの悲劇が発生する危惧を持たずに済んだのではないかと思ったりもします。

 エルコンドルパサー=コンドルは飛んでいく。サイモンとガーファンクルの名曲から名付けられた名馬です。ターフを縦横無尽に駆け抜けたエルコンドルパサーは、あっという間に私たちの前から姿を消してしまいました。ジャパンカップと凱旋門賞の季節が来るたびに彼のことを想い出します。

 太平洋戦争が終結し、昭和20年代に復活した我が国の中央競馬は、昭和30年代に数々の名馬の登場もあって、ようやく大衆娯楽のひとつとして定着し始めました。昭和40年代に入ると、海外の競馬コミュニティーとの交流も始まる一方で、いわゆる高度成長期を迎え、国全体の経済力・国民所得が飛躍的に増大しました。1970年・昭和45年以降は、競馬関係者から、日本にも世界に通じる国際競走を創設できないかという意見が数多く出されました。

 しかし、当然のことながら、日本は欧米から遠く、輸送・検疫に多くの時間を要することや、欧米の主要レースとのスケジューリングなど、世界的なレースを日本に創設するという夢は、容易には実現しませんでした。

 そうした時代の流れの中で、昭和40年代の終盤にはオイルショック、ドルショックという世界的な不景気の時代が訪れ、日本もその波に揉まれました。この世界的不景気の影響から回復しきっていない1981年・昭和56年に、第一回のジャパンカップが開催されたことは、日本中央競馬会を始めとする競馬関係者の尽力の賜物であり、よくこの時期に創設できたものだと、今更ながら思います。
 ジャパンカップという大レースが、我が国の景気が良かった時代ではなく、どちらかといえば不景気の時代に始まったことに意味があるように思います。長い歴史を刻み得る、レースの開催目的・基調の考え方がしっかりしているのではないかと思います。

 その第一回および第二回のジャパンカップ競走を目の当たりにした時、海外の一流馬と日本馬の間の力の差が、あまりにも大きく、これは勝負にならない、いつになったら追いつけるのだろうかと感じたことを憶えています。東京競馬場の最後の直線走路における海外馬の走りの力強いこと。馬格も相当違うように感じました。

 1983年の第三回も外国馬の勝利に終わりましたが、2着にキョウエイプロミスが飛び込みました。アタマ差の惜しいレースでした。
 ジャパンカップも3回目になると、外国メディアの注目も増してきて、この年19年ぶりに日本の競馬に誕生した三冠馬ミスターシービーが、ジャパンカップに出走するのかどうかが話題になりました。解りやすく言うと「第一回、第二回を見れば、日本馬では海外馬には敵わないことは明らか。せっかく誕生した最強の三冠馬が出走しなくては、一層勝負になるまい」というのが、海外メディアの論調でした。

 日本競馬ファンにとっては歯噛みする状況でしたが、キョウエイプロミスは日本馬の意地を見せてくれました。とはいえ、キョウエイプロミスはレース中に靱帯断裂を発症していて、このレースを最後に引退しました。秋の天皇賞3200mを完勝した後、ジャパンカップ2400mという厳しいレースを使うことの難しさを感じさせる出来事でした。

 自身の競走馬生命を削りながらでないと勝負にならないと思わせたジャパンカップに、日本馬の勝ち馬が生まれたのは、翌年1984年のカツラギエースの優勝でした。さすがに、前年の三冠馬ミスターシービーと同年の三冠馬シンボリルドルフの2頭が出走し、日本馬が最強の布陣で臨んだレースでしたので、ついに海外馬の壁を破って日本馬が優勝したと思いました。
 翌1985年は、2回目の挑戦でシンボリルドルフが優勝しました。日本馬の2連勝となりましたので、ようやく世界の強豪馬の水準に日本馬が追いついてきたのかなと感じさせました。但し、第一回、第二回のレース内容からして、彼我の地力には大差があるように見えたものが、わずか2~3年で追いつくということについては、違和感も感じていました。

 案の定というか、第六回~第十一回のレースは外国馬が6連勝しました。この間のレースは、いずれも走破タイムの水準が高く、東京競馬場2400mとしては驚異的なタイムのレースが続いたように思います。外国強豪馬の実力の高さが示されたと観るべきでしょう。

 特に凄かったのが、第9回1989年のレースでした。当時、日本を代表する実力馬であったオグリキャップが、最後の直線で馬場の真ん中を抜けてきたときには、オグリが勝ったと思いましたが、インで粘るホーリックスが差し返して優勝。オグリはクビ差及ばず2着でしたが、このレースの走破タイムは2分22秒2の2並び、当時の世界最高記録を更新したレースでした。当然オグリキャップも、2400mの世界新記録で走ったのですが、そのオグリの激走をも捻じ伏せた、ニュージーランド馬ホーリックスの印象は強烈でした。
 この6年間の走破タイムは、2分22秒2から2分25秒5の間に収まっています。この頃の日本ダービーの走破タイムは2分27秒~28秒でした。もちろん、開催時期も異なり、馬場状態の違いもあるでしょうから一概には言えませんが、やはりレベルが高いと思いました。
 長距離・長時間の輸送に耐え、検疫の負担も物ともせずに、我が国の一流馬に先着する海外強豪馬達の力量は、まだまだ上位にあると感じたものです。

 1992年~1994年の日本馬3連勝を挟んで、1995年~1997年は外国馬が3連勝しました。そして、1998年の第十八回のレースにエルコンドルパサーが優勝して以来、昨2011年・第三十一回までの14回のレースでは、外国産馬の優勝は2回に留まっていて、明らかに日本馬優位の成績になっています。

 このジャパンカップの歴史・レース内容について、少し考えてみます。

1. 第一回~第十一回(1981年~1991年)→外国馬が強かった時期
 この間は、外国馬の力が、日本馬に勝っていた時期だと思います。1984年と翌85年に、カツラギエースとシンボリルドルフが勝っていますが、実は1984年にアメリカでブリーダーズカップが創設されたのです。同時期に行われることとなったブリーダーズカップは、その賞金額もジャパンカップを上回りましたので、おそらく海外超一流馬は、創設当初このレースに挑戦したのでしょう。残念ながら、この2年間のジャパンカップの外国馬のレベルは、それ以前に比べてやや低かったのだと思います。
 この時期に健闘した、キョウエイプロミスやオグリキャップ、タマモクロス(1988年・第八回、1/2差でペイザバトラーの2着)の走りは見事なものです。タマモクロスとオグリキャップ兄弟の東京競馬場直線で競り合う姿には、拳を握って応援したものです。

2. 第十二回~第十七回(1992年~1997年)→外国馬と日本馬が互角の戦いを演じた時期
 この6年間は、3勝3敗と互角の成績ですし、日本馬の走破タイムも2分23秒台~24秒台と、それ以前の海外優勝馬と遜色ない水準に向上しましたので、なんとか互角に戦えるようになった時期ではないでしょうか。
 とはいえ、第十三回のレースでは、外国馬コタシャーンがゴール位置を間違えて、追うのをやめてしまい、レガシーワールドの2着となったりしていますから、日本馬が外国馬を凌駕したとは、まだいえない時期だと思います。

3. 第十八回・1998年以降
 ジャパンカップというレースにおいては、日本馬が外国馬に対して優位にある時期だと思います。1981年の第一回に大差であった彼我の力量は、このレースにおいては完全に入れ替わった形です。理由は、いくつか考えられます。

① 日本馬のレベルが上がったこと。特に、スピード十分な競走馬が増加したこと。
② 秋季開催の高額賞金レースが海外においても増加し、世界の一流馬の出走が分散化されたこと。前述のブリーダーズカップターフや香港国際競走に向かう海外馬も居ます。
③ 欧州の一流馬でも、我が国の高速馬場に対応できなくなってきたこと。走破タイムの絶対水準が高くなってきたために、柔らかくて重い欧州馬場で力を発揮する馬でも、東京競馬場の馬場ではスピードが足りないケースが観られるようになり、特に欧州一流馬の出走が減ってきています。

 1999年のモンジュー(4着)や2011年のデインドリーム(6着)は、凱旋門賞を制覇するなど、素晴らしい競走成績を残した名馬達ですが、ジャパンカップでは好成績を残せませんでした。この2頭でも勝てない馬場ということになると、欧州競馬関係者が尻込みするのも理解できます。

 この③の理由は「競馬の質が異なる」ことになりますので、そもそも我が国で国際レースが成立するのかという論点まで、惹起しかねません。
 固い高速馬場に強い馬を選別していくことで、サンデーサイレンス系のサラブレッドばかりになった日本競馬と、柔らかくて力の要る馬場に強い馬を選別することでサドラーズウェルズのようなノーザンダンサー系の産駒が全盛を誇る欧州競馬の馬が一堂に会することの意味の問題です。

 ジャパンカップの1着賞金額は、2000年の第二十回から2億5千万円に引き上げられました。もちろん、日本のレースでは最高額(日本ダービー1億5千万円、有馬記念2億円)ですし、現在世界で1・2位を争う高額賞金レースとなっています。2007年には、日本競馬自体が国際セリ名簿基準委員会から、パート1の国と指定されました。
 日本競馬界の悲願であった、日本競馬の国際化が着々と進む中で、その看板レースであるジャパンカップが、日本馬同士の戦いになってきているのは、誠に皮肉なことです。

 バレーボールは、1895年2月9日アメリカのウィリアム・G・モーガンが発明しました。この新スポーツ開発の狙いは、女性や子供といった体力的に成人男性より弱い人達が、気軽に楽しめるスポーツを創ることでした。

 モーガンは、このスポーツを1896年のスプリングフィールドで開催されたYMCA体育指導者会議にて公開しました。「バスケットボールのはじまり」稿で、バスケットボールの発明者ネイスミスも、この会議での協議を皮切りに新スポーツとしてのバスケットボールを1891年に開発しています。その5年後に、モーガンはこの会議でバレーボールを公開したことになります。

 この二つのスポーツ開発の特徴は、開発目的が明確であったということでしょう。
・バスケットボールは「冬季の屋内スポーツの開発」
・バレーボールは「女性や子供が楽しめるスポーツの開発」
 こうした「明確で合理的な狙い」を持った新スポーツの開発は、この1890年前後のアメリカ、特にスプリングフィールドのYMCA国際トレーニングスクールにおいて、強力に推し進められていたということでしょう。

 その頃は、現在まで残っているこの2つのスポーツ以外にも、沢山の新しいスポーツの案が、YMCA国際トレーニングスクールに持ち込まれたり、検討されたりしたのでしょう。このスクールが、新スポーツの開発・発信拠点になっていたというのは、とても興味深いことです。

 「自然発生的なスポーツではない新スポーツ」の核となるアイディアは、一人あるいは数人の人間から生まれるのでしょうが、そのスポーツを様々な視点・観点から検討し、論理的・合理的なものにブラッシュアップして、普及促進にも挑んでいく、ための体制は一朝一夕に出来上がるものではないと思います。この頃のアメリカ・YMCAにこうした体制が構築されていた理由があるはずです。いつか、調べてみたいものです。

 さて、モーガンは当初このスポーツを「ミントネット」と名付けたのですが、後にYMCAトレーニングスクールの教官であったハルステッドの提案を受けて「バレー・ボール(volley ball)」に改めました。その後、1952年に「バレーボール(volleyball)」と一語で表すことになりました。こうした英語表記の変更-一語表記への変更は、バスケットボールでも、1921年に実施されています。(basket ball→basketball)

 バレーボールは、全米各地のYMCAから、全米各地に広がりました。バスケットボールのように大学などの学校を通じて広まったのではない理由は、主たるプレーヤーが「女性・子供」であったことでしょうか。1900年にはカナダに、1906年にはキューバに広がったそうです。

 日本にバレーボールが紹介されたのは1913年頃で、やはりYMCA体育主事のF.H.ブラウンによるものでした。この頃は、細部のルールが固まっていなかったので、日本において独自のルールが作られました。チーム人数が最初は16人、続いて12人、最後に9人となって、日本独特の「9人制バレーボール」の原型が生まれました。

 ヨーロッパにバレーボールがもたらされたのは1920年頃。第一次世界大戦でヨーロッパ戦線に渡ったアメリカ軍兵士が、フランス、イタリア、チェコスロバキア、ポーランド、ソビエトへと伝えました。この頃には、チーム人数も6人に決まっていましたので、これらの国では、始めから6人制バレーボールが普及しました。

 ロシアでは、1925年に共産党によって「100万人のバレーボール」のスローガンが掲げられ、設立されたソビエトバレーボール協会のもと、バレーボールの普及・強化に邁進したそうです。この新スポーツのどの点がソビエト共産党に支持されたのかは判りませんが、バレーボール競技における、ロシアを始めとする旧ソビエト圏諸国の伝統的な強さの源がここにあります。

 先日、福島県の親戚の家を久しぶりに訪れました。居間に入ると、床の間にはカップ・トロフィーか所狭しと置いてあります。見上げると、数えきれないほどの賞状が掲げられています。「叔母さん、何これ?」と尋ねると「ママさんバレーさ。センタープレーヤーでエースなんよ。」と。その部屋が、地元バレーボールチームのクラブハウスなのでした。反省会と銘打った宴会も、よく開催されるのだそうです。
 発明者ウィリアム・G・モーガンやYMCAトレーニングスクールの狙い通りに、女性向けのスポーツとして、バレーボールはしっかりと極東の地にも根付いています。
 2012年10月20日、イギリス・アスコット競馬場で開催されたG1競走チャンピオンステークスは、イギリスの4歳馬フランケル-Frankelが快勝しました。そして、このレースがラストランとなり、競走馬生活を引退し種牡馬になることとなりました。

 これでフランケル号は、2~4歳の3年間で14戦して14勝、競走馬キャリアの当初2戦は、新馬戦・条件戦でしたが、以降12戦は何れも重賞、特にラストランに至る9戦は全てG1勝利という、輝かしい成績を残しました。生涯成績をまとめると、14戦14勝、G1が10勝、G2・G3が各1勝という内容です。
 また、14回の全てのレースにおいて1番人気で1着という、素晴らしい記録も残しました。

 私が、フランケルを認識したのは、2011年4月30日の2000ギニー競走でした。この2011年のクラシック競走はテレビ放送されましたが、フランケルという名前の5戦無敗の出走馬が居ることは報道されていましたので、大変興味深く観ました。

 イギリス・ニューマーケット競馬場の直線8ハロン・約1600mで争われる2000ギニー競走は、我が国の皐月賞のモデルになったレースです。例年思うことですが、直線走路で1600mというのも、とても広い競馬場ですし、いつも騎乗方法が難しいだろうなと思っていました。
 これまで観てきた2000ギニーのレースは、スタート後に2つか3つのグループに分かれて、グループ毎に纏まって走ります。このグループは、内ラチと外ラチに(どちらか内外かは判りませんが)、大きく分かれて走ることも多いように思います。人間の陸上競技100m競走のように、横に並んで走る形にはならないのです。
 そして、その2~3の馬群の中から、残り400m位で数頭が抜け出して、ゴール前まで叩き合いになります。ゴール地点では、内ラチ外ラチに大きく離れた2頭が競り合うということも間々あります。ゴール寸前で順位が入れ替わることもありますので、中々難しいレースという印象を持っていました。

 ところが、2011年の2000ギニーは様子が違いました。ゲートが開いた瞬間からフランケル1頭が飛び出し、1000m付近では後ろの馬群に10馬身以上の大差をつけて、ゆうゆうと走っています。ゴール前では差を詰められましたが、6馬身差で圧勝。ゴール前の脚色の違いで差を付けるのではなく、終始リードを保っての勝利というのは珍しいものでしたし、その絶対スピード値の高さには驚きました。

 6連勝で2000ギニーを制したフランケルが、ダービーに挑戦するかどうかが注目されましたが、調教師は当初からフランケルをマイル路線で使うと言っていましたので、やはり12ハロン・約2400mのダービーには向かわず、8ハロンのG1セントジェームズパレスステークスに臨むこととなりました。
 結果として、このレースがフランケルにとって生涯最大のピンチ、苦戦のレースとなりました。

 セントジェームズパレスS(このレースもテレビ放送されました)のフランケルは、残り5ハロンからスパートし5馬身程リードしましたが、いかにも早すぎるスパートで、残り1ハロン・約200mからは一杯となり、後続馬群との差が見る見る詰まります。これは危ないと思いましたが、2着馬Zoffanyに3/4馬身まで詰められたところがゴールでした。騎乗ミスという感じでしたが、あれだけバタバタでも粘り切ったというか、粘り切れたところに、フランケルの運の強さも感じました。

 その後は、G1サセックスSが5馬身差、G1クイーンエリザベスⅡ世Sが4馬身差、G1ロッキンジSが5馬身差、G1クイーンアンSが11馬身差、G1サセックスSが6馬身差、と全て8ハロン・約1600mのG1競走に圧勝を続けました。そして、2012年8月に、ついに13戦目に10ハロン強のG1レース・インターナショナルステークスに臨んだのです。

 馬が大人になり、騎手の指示に従えるようになったら挑戦する予定であった10ハロンのレースでしたが、このレースでは大きく出遅れ後方からのレースという、フランケルにとっては珍しい展開となりました。しかし、地力の差は大きく、直線でほとんど追うことも無く7馬身差で圧勝し、頭書のチャンピオンSに駒を進めたのです。

 この10ハロンのG1チャンピオンSでもフランケルは出遅れました。何か、出遅れ癖が付いたかのようなスタートでしたが、じりじりと前方集団に追いつき、直線半ばで先頭に立つまでは持ったまま、残り1ハロン・約200mで追い始めました。そのギャロップは迫力満点でしたが、2着になったシリュスデゼーグルも離されず粘りましたので、1と3/4馬身差しか付きませんでした。
 このレースは、デビュー戦以来、生涯2回目のSoft(重馬場)の馬場状態でした。実は、2歳時デビュー戦も1/2馬身差の僅差で勝っています。デビュー戦の2着馬は、あのナサニエル(後のキングジョージ6世&クイーンエリザベスSとエクリプスSの両G1レース勝ち馬)であり、引退レースの2着馬のシリュスデゼーグルもチャンピオンS・ドバイシーマクラシック・ガネー賞の3つのG1レースを始めとする重賞11勝の2011年年間最優秀古馬に輝いた強豪です。

 フランケルとナサニエルが出走している新馬戦というのも豪華絢爛ですが、2011年の年間最優秀馬のフランケルと年間最優秀古馬のシリュスデゼーグルが激突した引退レースというのも凄いものです。
 このシリュスデゼーグルは、重い欧州の馬場で力を発揮するタイプですので、Soft馬場のチャンピオンSでは存分に力を発揮したのでしょう。フランケルとの2馬身差以内の決着は、重馬場におけるシリュスデゼーグルの力量の高さを十分に示したものだと思います。

 フランケルは、現役世代の2000m以下では並ぶものが無い馬であることを示しましたが、当然にレーティング・ハンディキャップの比較により、歴史上の名馬達とも比較されました。
 ハンディキャップは、その付与する機関により微妙に異なりますので、様々な比較が行われていますが、3歳時のタイムフォース誌(最も歴史あるレーティング)のレーティングではシーバード145ポンド、ブリガティアジェラルド144ポンド、テューダーミンストレル144ポンドに次ぐ143ポンドでした。
 4歳になった2012年のクイーンアンS後のタイムフォース誌は、ついにシーバードを上回る147ポンドを付けましたし、ワールド・サラブレッドランキングは歴代一位のダンシングブレイブに次ぐ140ポンドでした。

 私は、フランケルの競走成績の中にダービーやキングジョージ6世&クイーンエリザベスS、凱旋門賞、といった所謂大レース、2400mのG1の勝ち鞍が無いことに一抹の寂しさを感じますが、一方で、その立ち姿・ギャロップの素晴らしさには感心させられます。サラブレッドに求められる美・品格・オーラという点からは、フランケルは歴史上のあらゆる名馬に対して遜色がない、あるいは上回っているように思います。
 この美しさは、伝えられなければなりません。

 フランケル号は、父ガリレオ(英・愛ダービー馬・2008年英愛リーディングサイヤー)←父の父サドラーズウェルズ(愛2000ギニー、愛チャンピオンズS、エクリプスSの勝ち馬、欧州各国で17回のリーディングサイヤー、ノーザンダンサーの代表産駒にして代表的後継馬)←父の父の父ノーザンダンサー(20世紀最高の種牡馬)、母カインド(準重賞2勝)←母の3代前の父ノーザンダンサー。フランケルは、ノーザンダンサーの18.75%という血統。
 母の父ディンヒルの競走成績が短距離中心であったために、フランケルは主にマイル路線で使われたように思いますが、ディンヒル(英愛リーディングサイヤー3回)の産駒はあらゆる距離で活躍していますので、フランケルがダービーやキングジョージに出走しても、十分に戦えたような気がします。

 加えて、フランケルの戦績を見ると、Good馬場(良馬場)で大きな差を付けて勝っています。いわゆる高速馬場に強かったといえますから、欧州以外の固い馬場にも適応できそうですので、今後の種牡馬としての全世界的な活躍が大いに期待できます。我が国にも、ノーザンダンサー→サドラーズウェルズ系の新しい血統として、是非入ってきてほしいと思います。

 イギリスのニューマーケット郊外の牧場で2013年から種牡馬生活に入るフランケルですが、初年度の種付権利が30口に限定されそうだという報道もあります。そうなると世界中の競馬関係者の間で争奪戦になりそうです。

 私としては成績もさることながら、あの美しい姿とギャロップを受け継いだ産駒が、沢山出てきてほしいと願うばかりです。
 1994年のNPB近鉄球団との契約更改の過程で野茂投手が退団に追い込まれ、野球を続けていくためにはメジャーリーグに挑戦するしかなくなってしまったことは「NPB野茂秀雄編」に記載した通りです。そして、このこともHIDEO NOMOの野球人生に鏤められている「巧まざる幸運」のひとつでした。

[四つ目の幸運]
 近鉄球団との交渉が決裂し、年が改まった1995年2月に野茂投手はMLBロサンゼルス・ドジャースとマイナー契約を結びました。年俸は980万円。近鉄球団時代の1億4000万円に比べるべくもない金額です。しかし、気持ちの良い環境で、大好きな野球がやれるので野茂投手は嬉しかったのではないでしょうか。

 5月には、早くもメジャーに昇格し初登板を果たしました。メジャーリーガーHIDEO NOMOの誕生です。6月には50と1/3イニングを投げて6勝0敗、2完封、防御率0.89、4試合で50奪三振の球団新記録、という衝撃的なデビューを飾りました。
 前半戦を6勝1敗としたNOMOは、この年のMLBオールスターゲームに選出され、何と先発しています。相手アメリカンリーグALの先発は、あの「ビッグ・ユニット」ランディ・ジョンソンですから、オールスターゲームの先発投手というのが、どれほどの価値があるものか判ります。

 ここで不思議なのは、通常のオールスターゲームであれば、少なくとも前半戦で10勝以上を挙げているか、サイ・ヤング賞受賞のピッチャーが先発するのに、この年のナショナルリーグは、何故6勝1敗の新人日本人投手を先発させたのかということです。
 色々な理由があるのでしょうが、最大の理由は「極めて衝撃的なデビュー」を飾り、「人気が爆発していた」ことだろうと思います。

 そういう意味では、ロサンゼルス・ドジャースというNL西海岸の名門チームに入団したことが幸運だったということになると思います。これが「四つ目の幸運」です。

 ドジャースは、もともとはブルックリン・ドジャースというチームでニューヨークのブルックリン地区を地盤としたチームでした。ニューヨーク・ヤンキースと数々の名勝負を繰り広げ、人気を分け合ってきた球団であり、1958年にニューヨークからロサンゼルスに本拠地を移動しましたが、ワールドシリーズ優勝6回、リーグ優勝21回を誇るNLと西海岸を代表する名門チームです。MLBの中でも特にメジャーなチーム(変な言い回しで恐縮です)のひとつですから、活躍すれば全米に情報が広がるのも速いのです。
 オールスターゲーム前、つまりデビューして僅か3か月で「NOMOマニア」と呼ばれる熱狂的なファン層が形成されていました。これも、驚くべきことです。私達日本のファンも、NOMOのお蔭でMLBのゲームを沢山楽しむことが出来るようになりましたし、NOMOの活躍は、日本プロ野球がメジャーでも通用することを如実に示してくれました。
 ドジャースタジアムからのテレビ放送では、日差しの明るさが印象的でした。「こんなに明るい日差しの中でプレーするのがベースボールなのだ」と妙に感じ入ったことを憶えています。

 ドジャース1年目を28試合登板、191イニングを投げ、13勝6敗、236奪三振、防御率2.54の好成績でクリアしたNOMOは、新人王と奪三振王のタイトルを得ました。シーズン当初マイナーにいて、5月から先発登板を始めた投手としては本当に素晴らしい成績です。1996年のスプリングトレーニング中に、ドジャースと3年契約を結んだNOMOは、2年目も大活躍。
 9月1日のフィラデルフィア・フィリーズ戦では2年連続200奪三振を記録。新人から2年連続は、MLB史上3人目の快挙でした。そして、9月17日のコロラド・ロッキーズ戦でノーヒットノーランを達成しました。このゲームは、降雨のため開始が2時間遅れたのですが、関係なく好投、高地で打球が良く飛ぶクアーズフィールドでのノーヒッターは、アメリカの報道でも、高く評価されました。

 翌1997年4月には、メジャー史上最速での500奪三振(ドワイト・グッデンの記録を更新)を達成し、8月末のゲームではMLB史上2人目(ドワイト・グッデンに続き)の、新人から3年連続の200奪三振を記録しました。96年は33登板の16勝、97年は33登板で14勝と、ドジャースの中軸投手としての活躍が続きました。

 1998年4月には「NPB野茂秀雄編」に記した日本人メジャーリーガーの初ホームランを記録するなど、NOMOの活躍は次々と新しい記録を生み出しました。
 一方で、前年オフに行った右肘遊離軟骨除去手術の影響が残っていたのか、5月から不振に陥り6月にはドジャース退団を決意、ニューヨーク・メッツに移籍しました。ここから、NOMOのジャーニーが始まります。

 1999年1月にニューヨーク・メッツと再契約するも開幕ロースターには入れず、4月にシカゴ・カブスとマイナー契約、4月末にはミルウォーキー・ブルワーズとマイナー契約と目まぐるしくチームを変わり、5月にはミルウォーキーとメジャー契約を締結し、この年はミルウォーキーでの投手生活となりました。9月には、クレメンス、グッデンに続くMLB3番目の速さで1000奪三振を達成、この年は12勝とチームの勝ち頭になりました。

[五つ目の幸運]
 2000年1月にはデトロイト・タイガースと1年のメジャー契約を結び、日本人投手として初めての開幕投手となりました。このアメリカンリーグALのチームとの契約が「五つ目の幸運」だと考えます。この年8勝12敗に終わったとはいえ、190イニングを投げた活躍を見て、同年12月ALボストン・レッドソックスがメジャー1年契約をNOMOと締結したのだろうと思います。
 この頃のNOMOは、メジャー1年契約が連続していますが、成績を見る限り本人のベースボールへの情熱が衰えることはありませんでした。

 ボストンでの2001年4月4日、対ボルチモア・オリオールズ戦で、NOMOは2度目のノーヒットノーランを達成しました。このゲームも、敵地でのゲームで、電気系統の故障のため試合開始が遅れた点は、1回目のノーヒッターゲームと共通しています。これで、NL・ALの両リーグでのノーヒッターを達成した投手となりました。これは、MLBにおいても当時で4人目、現在でも5人しか達成していない偉大な記録です。

 この年は、33試合・198イニングを投げ、13勝10敗、220奪三振で2度目の最多奪三振タイトルに輝きました。
この活躍がきっかけとなったのだろうと思いますが、12月にロサンゼルス・ドジャースと2年・年俸1375万ドル・3年目は900万ドルでドジャース側のオプションという契約を結びました。

 1995年にドジャースとの年俸980万円のマイナー契約でスタートしたNOMOのMLB生活は、その後5つの球団を経て、2002年に再びドジャースに戻りました。そして2度目のドジャースに3年間在籍しました。年俸は10万ドルから900万ドルに増えました。NOMOは、転々と沢山のチームを渡り歩きましたが、その間年俸は着実に上がっていました。毎シーズン、NOMOがしっかりした投球を続けてきた証であろうと思います。

 久々にドジャースに戻った2002年のNOMOは、全体として観てMLBにおける最高のシーズンであったと思います。自身最多の34登板、220イニングを投げて16勝6敗、193三振、防御率3.39。
 翌2003年も33登板、218イニングを投げて16勝13敗、177奪三振、防御率3.09。MLB100勝も達成しました。この2年間は、ピッチャーHIDEO NOMOの最後の晴れ舞台でした。

 2004年には、ドジャースの開幕投手を務めるも、前年オフに受けた右肩の内視鏡手術の回復が遅れたたためか球速が戻らず、84イニングの登板に留まり4勝11敗、ドジャースを退団しました。

 この後も、NOMOはベースボールへの情熱を持ち続け、2005年にはタンパベイ・デビルレイズとマイナー契約を締結、メジャーに上がり日米通算200勝を達成するも、7月に解雇されました。

 以降は、同7月ニューヨーク・ヤンキースとマイナー契約→2006年3月ボストン・レッドソックスとマイナー契約→2007年ベネズエラのカラカス・ライオンズに入団→2008年1月カンザスシティ・ロイヤルズとマイナー契約、4月にメジャーに上がるも同月戦力外通告を受け退団→同7月に引退を表明しました。

 引退時のインタビューでは「自分の中では、まだまだやりたい気持ちが強いが、プロ選手としてお客様に見せられるパフォーマンスは出せないと思う」とコメントしています。本当に野球・ベースボールが好きなプレーヤーでした。

 MLBでの通算成績は、12年間のMLB在籍で323試合に登板し、1976イニングを投げて123勝109敗、1918奪三振、防御率4.24。面白いところでは、MLB30チームの内29チームから勝ち星を挙げています。勝っていないのはドジャースだけでした。NOMOが現役に拘った理由のひとつは、恩返し?としてのドジャースからの勝ち星だったのかもしれません。

 NPB・MLB通算の奪三振率(9イニングで何個の三振を取るか)は9.28で、1イニング1個以上の三振を取っていることになり、これは日本人投手では野茂投手1人だけが達成している記録ですし、MLBでもNOMOを含めて5人しか達成していない記録です。

 現在は、2003年に設立したNOMOベースボールクラブのオーナーとして活躍するとともに、時々はテレビにも登場します。
 188㎝、100㎏のMLBサイズのビッグボディは、MLB史上5人(サイ・ヤング、ジム・バニング、ノーラン・ライアン、野茂秀雄、ランディ・ジョンソン)しか居ないNL・AL両リーグでのノーヒッター達成投手であることを髣髴とさせます。NOMOは、MLBの歴史に残る大投手なのです。

 最後まで現役に拘ったところをみると、プロ野球の監督やコーチをやるつもりはないのかもしれませんが、スーパースターにはスーパースターの活躍の場があるように思います。
 2編にわたり記述した野茂・NOMOの『幸運』とは、棚から牡丹餅のような幸運ではなく、見た目は不運・不幸にさえ思えるような事象が、結果として新しい道を開くキッカケになっているという意味でした。
 そうした意味で、野茂秀雄氏に「六つ目の幸運」が待っているように思います。

 いきなりクイズです。日本人メジャーリーガーで、初めてホームランをMLBのゲームで打ったのは誰でしょう。

 有名な話ですが、野茂秀雄投手です。1998年4月28日、メジャー4年目のロサンゼルス・ドジャーズ時代、ミルウォーキー・ブルワーズ戦の7回でした。このゲームはNHKのBS放送で観ていました。
 振り切った野茂の打球が、レフトスタンドの観客席と観客席の間の2m程の隙間(通路なのでしょうか)に落ちて行きました。この試合で、野茂はMLB通算45勝目を挙げています。投手にも打席が回ってくるナショナル・リーグNLの球団に所属したので、日本人メジャーリーガーの初ホームランを達成することが出来た訳ですが、野茂秀雄投手の野球人生には、こうした「巧まざる幸運」が鏤められているような気がします。

[ひとつ目の幸運]
 野茂は、1968年・昭和43年に大阪市に生まれました。小学校・中学校と野球をしていましたが無名だったようで、野球どころ大阪の名門高校のセレクションをいくつか受けたのですが不合格になりました。
 これが、ひとつ目の幸運だったと思います。もちろん本人は残念だったのだろうと思いますが、甲子園で名を馳せる名門高校に入学・入部していたら、野茂の個性が抑圧されて、あのトルネード投法も生まれなかったかもしれないからです。それにしても、各名門野球部の名監督達が、ひとりも野茂の才能を見抜けなかったことは意外です。野茂秀雄少年の才能は、海千山千の名監督達の眼力を遥かに超越する程、大きなものだったのかも知れません。
 野茂少年は、この幸運により、自らの才能を自由に伸ばす機会に恵まれた訳です。

[ふたつ目の幸運]
 大阪府立成城工業高校に進んだ野茂は、その才能を徐々に開花させ甲子園大会大阪大会で完全試合を達成するなどの活躍をしました。レベルの高い大阪大会ですから、甲子園に出場することはできませんでしたが、高校時代に既に体を捻じって投げていたそうです。

 高校卒業した野茂は、新日鉄堺に就職し社会人野球で投げることを選びました。高校卒業時に既に近鉄バッファローズから誘いがあったそうですし、各大学野球部に進学することもできたと思うのですが、野茂は社会人野球を目指したのです。おそらく「野球がしたかった」のだろうと思います。一番野球が出来る環境を選択したのではないかと考えます。

 新日鉄堺でフォークボールを習得します。最初スライダーの練習をしたのですが、上手く行かず、フォークに切り替えたのだそうです。
 入部2年目には、フォークを武器にチームを都市対抗野球大会出場に導き、1988年のソウルオリンピックでは日本チームの銀メダル獲得に貢献するなど、社会人野球・アマチュア球界を代表する投手になりました。
 私は、社会人時代の野茂の投球を見ていません。あのフォークが都市対抗野球で見られたのに、それを見に行かなかったことを大変悔みます。

 そして1989年のドラフト会議を迎えます。この会議で、野茂は8球団から指名を受けました。現在でもドラフト史上最多記録である8球団からの指名でしたが、抽選の結果、近鉄バッファローズが交渉権を獲得しました。どの球団から指名されても入団すると言っていた野茂ですので、近鉄でプレーすることになりました。

 これが、ふたつ目の幸運だと思います。阪神タイガースのような人気球団に入ってしまい、ファンやマスコミからの厳しい指摘が続く環境に置かれなかったという意味です。近鉄との契約書に「投球フォームを変更しない」という条項を加えた野茂投手は、引き続き、自由に自らの才能を伸ばす機会に恵まれたのです。

[三つ目の幸運]
 近鉄入団後の1年目から、野茂投手は好成績を残します。29試合に登板し、235イニングを投げ、18勝8敗、287奪三振、防御率2.91という、好成績というよりは驚異的な成績で、とても新人のレベルではなく、いきなり球界を代表する投手に駆け上がったのです。

 結局この年、新人王はもちろんとして、最多勝利・最優秀防御率・最高勝率・最多奪三振の投手部門4冠を独占し、ベストナイン・沢村賞そしてリーグMVPにも輝きました。およそ投手が獲得できる賞の全てを獲得した形ですが、中でも特筆すべきは沢村賞です。沢村賞は1988年までセントラルリーグの投手に限定された賞だったのですが、1989年からパシフィックリーグの投手にも拡大されました。そのパ・リーグで最初に沢村賞を受賞したのです。素晴らしいとしか言いようのない大活躍でした。

 そして2年目から4年目(1991年~1993年)も、野茂投手は活躍を続けました。17勝・18勝・17勝という安定した勝ち星も素晴らしいのですが、毎年200イニング以上(242、216、243)を投げ続けたところが最も評価される点だと思います。こうして日本プロ野球NPBを代表する大投手に成長したのです。

 しかし、近鉄5年目の1994年7月に191球の完投勝ちをしたのが響いたのか、右肩痛を発症し戦線を離脱、このシーズンは114イニングの登板に留まり8勝7敗でした。こうした多投球数の完投は、投手の肩に大きな負担を残します。他の大投手にもみられる現象です。ベンチ・監督の投手起用・采配に問題があると思います。

 一方で近鉄球団は、1993年に鈴木啓示が監督に就任しました。鈴木監督は、もともと317勝の実績を誇る投手出身でしたので、野茂の投球の細かい点について干渉したようです。もともと契約書にも「投球フォームを変更しない」という条項を加えた野茂でしたので、こうした干渉には嫌悪を覚えたことでしょう。

 この右肩痛と鈴木監督との確執が、三つ目の幸運だと思います。右肩痛が、ベンチ・監督の無茶な起用法が原因であったかどうかはともかくとして、監督との確執が続く状況は、近鉄球団における野茂投手の投球意欲の継続に大きな影響を与えました。

 もし、近鉄入団時の監督で野茂のことを良く理解し、調整等も任せてくれた仰木彬監督が1993年以降も続投していたら、野茂の近鉄退団→メジャーリーグ挑戦は実現しなかったことでしょう。野茂は仰木監督を信頼・尊敬していました。
 当時の同僚だった金村義明氏の著書の中で、野茂の言葉として「僕は、別にどうしてもメジャーでやりたかったわけではない。ただあの監督(鈴木)のもとでは、野球はやれないと思った」と紹介されています。

 加えて、近鉄球団も1994年の契約更改の際に、右肩痛の欠点を前面に立てての契約更改交渉を展開「君はもう近鉄の顔ではない」とか「野茂の要求は年俸つり上げの口実」だと公言するなどしました。「お金の問題ではない」と主張する野茂との話し合いが上手くいかないのは当然のことで、最終段階で近鉄球団はトレードや自由契約とせず、任意引退(野茂選手の保有権が近鉄に残る形)とすることでNPBの他の球団でのプレーが出来ないようにする措置を取るに至りました。

 契約更改の場における球団と選手の鬩ぎあいは、他の選手においても時々耳にしますし、どちらがどうということは、一概には言えないことでしょうが、この野茂選手の場合には近鉄球団が取った対応手法が野茂秀雄という人物を全く理解していなかったという点で極めて粗末であり、間違いであったことが明らかです。
 しかし、その間違いのお蔭で、野茂が大好きな野球を続けるためには、メジャーリーグに行くしかなくなった訳ですから、結果としては良かった?のでしょう。野茂投手は、近鉄球団関係者の狭い視野に入りきらない、大きなプレーヤーだったことになります。

 野茂とは全く合わない監督との出会いと近鉄球団の対応は、当時の野茂には耐えがたい苦痛だったことでしょうが、結果的には野茂本人にも、そして私達野球ファンにも新しい世界、ドリームワールドに導いてくれるキッカケになりました。不幸に見えることが実は幸運であるということが、人生にはあるのでしょう。もちろん、その後の野茂投手の努力・頑張りによって、幸運の扉が開いたことは言うまでもありません。

 NPB5年間の野茂投手の通算成績は、139試合に登板し、1051イニングを投げ、78勝46敗、1204奪三振、防御率3.15という、堂々たるものです。26歳までNPBで投げた訳ですが、もし野茂投手が、前述のような幸運?に恵まれず、NPBで投げ続けていたら、どんな投手になっていたのでしょうか。

 NPBで野球を続けていたとしても、おそらく伝説的な成績を残していたことは間違いないと思いますが、翌1995年からMLBに挑戦したHIDEO NOMO選手も、やはり伝説的な活躍を披露したのです。(→MLB HIDEO NOMO編へ)

 残り1㎞付近、日本橋三越新館の前を左折し、あとは大手町・読売新聞社前のゴールに向かう直線に入っても、日本体育大学、青山学院大学、国学院大学、城西大学、山梨学院大学の5校の競り合いが続いていました。

 昨2011年1月3日、第87回箱根駅伝の復路10区の激闘です。この争いは、単なる5校の順位争いというだけではなく、シード権争いでもありました。既に7位の拓殖大学までの順位が固まっていましたから、8・9・10位、すなわち5校の内3校が来年の大会のシード権を確保できますし、2校は僅差でシード落ちということになりますから、各校の10区のランナーは必死の走りです。

 ランナーの一団は、常盤橋を渡り、JRの高架を潜って、ゴールを目指します。ゴールに設置されたテレビカメラからも姿が良く観えるようになりました。残り300m。

 ここで思わぬことが起こりました。ランナーの一団が読売新聞社手前の交差点を右折したのです。エーっ!ランナーの一団は、そのまま間違ったコースを突き進みます。この一団をひとりの警察官が追いかけます。今思えば、この警察官の走力も相当なもので、ランナー達に追いすがり、コースが違うことを伝えたのでしょう、一団は180度反転し、正規のルートに戻って、猛烈な競り合いの後ゴールインしました。

 日体大、青学大、国学院大がシード権を獲得した見応えのあるレースでした。近年、シード権争いが激化しているとはいっても、これ程の戦いは滅多に見られるものではありません。10位の国学院大と11位の城西大の差は3秒でした。

 それにしても、ランナーの一団は何故ゴール直前の交差点でコースを間違え、右折したのでしょうか。読売新聞社前のゴールまでは、見晴らしの良い直線走路ですし、10区を走るランナー達にとっては、昔から見慣れ、夢にまで見たゴールですから、通常は間違えることなど考えにくい。

 20㎞以上を走ってきたため、意識が朦朧としていたのかもしれませんが、それにしても5人のランナーが皆一斉に間違えるというのは不自然です。私は、当該交差点付近に居た係員が、誤解を招くような仕草・動きをしたのではないかと考えています。もし、そんな係員が居たとすれば、その責任は極めて大きいと思いますし、国民的行事にまで発展した箱根駅伝・関東学生陸上競技連盟は、そのような低能力な係員を配置すべきではありません。

 しかし、前述のことは私の推測でもありますので、本稿で採り上げたいテーマではありません。
 本稿で採り上げたいのは「コースを間違えたランナーに正しいコースに戻るように伝達したのが警察官であった」ことです。いったい、沢山配置されていた箱根駅伝の係員たちは何をしていたのでしょうか。公式のウインドブレーカーと帽子を身に付け、ぼーっと見ていたのでしょうか。あのまま5人のランナーが間違ったコースを走り続けたら、どうするつもりだったのでしょう。

 毎年11月から年始にかけては、毎週のように駅伝競走が開催されます。全国規模のもの、地域のもの、男女の別、高校生のもの、等々。これらのレースで、必ず目にするのが、駅伝係員の粗末な対応です。

 先週11月11日に行われた東日本女子駅伝で、さっそく事件が発生しました。山形県代表が折り返し点の標識手前で折り返してしまい、ショートカットで失格になったのです。この折り返し点では、山形県代表のランナーだけではなく、他県のランナーも手前で回りそうになっては、正規のルートに戻っていましたから、表記が判りにくかったことは明らかです。

 そもそも、駅伝競走やマラソン競走でコースを間違えることの責任は、誰に帰結するのでしょう。第一義的にはランナーなのでしょう。レース主催者は、事前に参加者にコースを明示していることになっているのかもしれません。

 しかし一方で、この東日本女子駅伝の折り返し点表記のように、極めて間違えやすい設定には、主催者側の責任があることも明らかです。そもそも、係員が配置されているのですから、コースを間違えたランナーには、その場でその旨を伝達するべきですし、そのことは係員に期待されている対応事項でもあると思います。
 もし、コースを間違えたことをランナーに伝える必要が無いという取り決めがあったり、ランナーに伝えることが不公平だというような考え方があるのだとしたら、あんなに沢山の係員は不要です。

 各ランナーは、当該レースのために日々鍛錬を続けています。こうした努力を考えれば、係員も全力を挙げて事前準備を行い、大会当日は最大限の注意力を発揮し、必要に応じて声を掛け・走り、係員同士の連携プレーも駆使して、より良い大会運営を遂行する義務があると思うのです。もし体力面や体調面・競技知識面で、そうした対応・行動を行う自信が無いのであれば、係員にならないでいただきたいのです。
 能力不足の係員は、大会運営の役に立たないのではなく、有害なのです。

 私が駅伝大会主催者や運営者にお願いしたい点を列挙します。毎年のレースで気になっている点です。(→続きへ)

 11月18日、京都競馬場芝外回り1600mで実施される、第29回マイルチャンピオンシップG1競走の予想です。

 今回も複数のG1勝ち馬を始めとする、マイル競走のスペシャリストが揃いました。例年にも増して、予想が難しいレースになっていると思います。

 さて、軸馬の選定です。過去のレースの傾向を観ると3歳馬は苦戦しています。2000年の勝ち馬アグネスデジタル以来11年間3歳馬は勝っていません。今年の3歳馬は強いと言われていますが、その3歳馬世代の主力馬は登場していませんので、ここは4歳以上の古馬から探したいと思います。
 このレースは、牝馬も比較的活躍していますが、1着となると過去10年では2008年のブーメランブラット1頭のみですので、軸馬探しとなると牡馬中心になります。
 以上から、牡馬の古馬から軸馬を探りたいと思います。

 軸馬候補の一番手は、4枠7番のグランプリボス。2011年のNHKマイルG1の勝ち馬です。前走G2毎日スワンSを快勝しています。
 軸馬候補の二番手は、5枠10番のリアルインパクト。2011年のG1安田記念の勝ち馬です。前走G2毎日王冠は、7番人気で4着と復調気配です。
 軸馬候補の三番手は、7枠13番のストロングリターン。今年2012年のG1安田記念の勝ち馬です。前走G2毎日王冠は7着と敗れましたが、叩かれて良くなるタイプでしょう。

 この中から、軸馬はグランプリボスとします。

 リアルインパクトは、ここまで京都コースとの相性が良くありません。阪神コースでの成績もいまひとつですので、ひょっとすると輸送に弱いタイプかもしれません。
 ストロングリターンは、2009年以来京都コースを走っていません。こちらも東京コースで力を発揮するタイプだと思います。

 対抗馬の検討に移ります。前述のリアルインパクト、ストロングリターンは対抗馬候補です。
 出馬表から対抗馬候補を探して行くと、ほとんどの馬が候補に上がります。それだけ、実力が接近した難解なレースということです。
 そこで、今年のこのレースでは斤量が軽く、地力のある牝馬に注目しようと思います。牝馬は、最近のこのレースでも着に来ていますので。

 対抗馬一番手は、7枠15番のアイムユアーズ。G1桜花賞3着、G1オークス4着と春のクラシック戦線の一翼を担い、7月末のG3クイーンSを勝ちました。前走G1秋華賞は6着でしたが、叩かれて良くなっていると観ます。3歳牝馬斤量54㎏とファルブラブ+エルコンドルパサー血統の大駆けに期待します。
 対抗馬二番手は、8枠17番のドナウブルー。8月の関谷記念を快勝し、1番人気で臨んだG2府中牝馬ステークスは3着でしたが、1800mは少し長かったかもしれません。1600mのスペシャリストとしてのレース振りに期待します。
 対抗馬三番手は、8枠16番のマルセリーナ。2011年のG1桜花賞馬。前走G2府中牝馬Sは5着でしたが、上がり3ハロン32.9秒の脚を使いました。復調気配で、右回りの1600mに強く、山もMデムーロ、大復活に期待します。

 今回は、以上の4頭に期待したいと思います。対抗馬の3頭が15番16番17番に並びました。元気な三人娘がゴール前飛び込んでくるレースが観たいと思います。


 男子100m競走における桐生祥英選手(きりゅう よしひで、京都洛南高校2年生)の記録更新が続いています。
 
 本2012年10月5日のぎふ清流国体・少年男子A100m決勝で10秒21の日本高校新記録で快勝しました。この記録は、ユース(満18歳未満)の従来の世界最高記録10秒23を更新する新記録でした。
 続く11月3日のエコパトラックゲームズ男子B100m決勝で、10秒19の記録で圧勝しました。この記録は、ユース世界記録・日本高校記録を更新するとともに、日本ジュニア(満20歳未満)記録をも更新するものでした。もちろん、2つの記録とも、追い風2.0m以下の公認記録です。

 この10秒19(以下10.19と表記)は、当然ですが国際陸連が管理する2012年のユース世界ランキングでもトップの記録です。以下に、世界ランク5位までを記載します。

1位 Yoshihide KIRYU JPN 10.19(追い風0.5m)
2位 Jevaughn MINZIE JAM 10.28(追い風1.1m)
3位 Zhouzheng XU CHN 10.36(追い風0.7m)
4位 Mustaqueem WILLIAMS USA 10.39(追い風1.0m)
5位 Tremayne ACY USA 10.41(追い風1.3m)

 短距離王国であるアメリカやジャマイカのランナーを抑えて、日本人ランナーがトップに居るというのは、残念ながら珍しいことで、私の記憶では史上初のことであると思います。

 加えて、10.19は日本歴代9位タイの記録でもあります。こうした素晴らしい記録を高校2年生のランナーが叩き出しているというのは素晴らしいことです。

 ここで不思議なのは、桐生選手は本年7月30日に行われたインターハイ(全国高校総体)の100m決勝までは、日本の高校の100mファイナリストの一人にすぎなかったことです。この決勝レースで桐生選手は4位、タイムは10.63という高校生としては速いが、特筆すべき程の水準ではなかったのです。このレースは、1位大瀬戸選手(小倉東高校)10.47、2位橋元選手(川薩清修館高校)10.50、3位佐貫選手(本庄高校)10.59、4位桐生選手10.63という結果で、ネット動画で見ましたが、桐生選手は良いところなく敗れています。

 それが、2か月後の10月5日には10.21というユース世界最高記録で走っているのです。この2か月間の間に、桐生選手に何が起きたのでしょうか。

 伸び盛りなので、一気に成長したのではないか、という意見があるかと思いますが、動画で見る限り体格が変わったようには見えません。(2か月で体格が激変する程成長することも滅多にないことでしょう)
 加えて、例えば12.00で走っていたランナーが11.00で走れるようになることと、10.50で走っていたランナーが10.20で走れるようになることとは、全く難度が異なります。10.20という水準が、絶対水準として極めて高いレベル(日本歴代ベスト10に匹敵する)だからです。別の言い方をすれば、全ての100mランナーが、2か月という短期間ではなく、何年かかっても辿りつきたい憧れの水準ということです。

 桐生選手の体格については、正式の数値は公表されていないようです(発見できませんでした)ので見た目ですが、身長は175cm前後、体重は65㎏位ではないかと思います。高校2年生・100m競走の日本高校生トップクラスのランナーとしては、大きくもなく小さくもない体格です。一緒に競走している他のランナーと、ほぼ同じ体格に見えます。

 10.21の時と10.19の時の桐生選手の走りを、やはりネット動画で観ました。
 低いスタートからの加速が素晴らしく、20m地点で既にリードを奪います。さらに加速して40mを超えたあたりでトップスピードに達します。その後のランニングフォームには力みが全く無く、バランスが良いので、体が前後上下に動いたりすることもありません。膝下も良く前に伸びていて、おそらく体格に比してストライドも長いと思います。ほとんど減速しないで、ゴールに飛び込んでいる感じです。

 全体としては、パワー溢れる走りではなく、極めて滑らかな走りです。無駄の無い動きが特徴で、スタート・中間走・ラストスパートの中で、ここが際立っているという走りではなく、全体がキチンとしているという印象です。

 一方で、7月30日のインターハイ決勝の走りは、スタートから起き上がるのが速く、加速の段階で両肩に力みが観られて、ゴツゴツした印象。膝下も前に出ず、ストライドも伸びていないように観えます。つまり、全く違う走りなのです。

 やはり、最初の疑問に戻ってしまいます。この2か月の間に、桐生選手に何が起こったのでしょうか。

 少し残念なのは、11月に入ると2012年の陸上競技シーズンが幕を閉じてしまいますので、しばらくは桐生選手が大会で走ることが無くなるかもしれないことです。
 どんな競技の、どのプレーヤーも共通していると思いますが「伸びている時には、どんどん試合に出場したい」ものです。

 とはいえ、日本短距離競走界に新星が現れたことは間違いありません。既に、同世代の世界トップクラスには到達しました。今冬のトレーニングを経て、2013年春のシーズンに桐生選手がどんな走りを披露してくれるのか、とても楽しみです。

 また、江里口選手、山縣選手他の現在の日本のトップランナーとの切磋琢磨の中から、1998年の伊東浩司選手の10.00や2001年の朝原宣治選手の10.02の記録を超えて、日本人初の9秒台・サブ10ランナーが誕生すること、それも複数誕生することを期待してやみません。

 お正月の風物詩のひとつである全国高校サッカー選手権大会(第91回)の地区大会が佳境に入っています。11月11日千葉県大会準決勝・市立船橋高校対流経大柏高校のゲームがテレビ放送されていました。何気なく見ていましたが、これが中々面白くて、結局最後まで観てしまいました。

 この2校のカードは、千葉県大会の好カードのひとつで、昨年は決勝で対戦し市船が勝ち上がって全国制覇しましたし、一昨年も決勝でぶつかり、この時は流経大柏が勝って、全国大会もベスト4まで進出しました。
 現在の千葉県高校サッカーを代表する2校の対決が、今大会は準決勝で実現したのです。

 ゲームの全体の流れは、テクニックとスピード、そして体格に勝る流経大柏が6分4分で押している形で、これは試合を通じて一貫していました。一方、押され気味の市船は、堅守・速攻で対抗し、見応えのある試合が展開されました。

 前半、市船のコーナーキックCK。柏ゴールに向かって右側からのCKですが、市船の選手は、柏ゴールのやや左側に向かって縦一列に並びます。面白いフォーメーションだと思っていたら、キッカーが動き出すのと同時に、一列の市船プレーヤーが左右に散ります。列の前の方に居たプレーヤーは右側に、後ろの方に居たプレーヤーは左側に散ったように思いますが、柏ディフェンダーDFは右側に散った市船プレーヤーに引っ張られて、左側の市船プレーヤーがフリーになり、シュートが決まりました。練りに練ったセットプレーが見事に決まったゴールでした。

 1-0で市船がリード。この後、押し気味の柏の攻撃が続きます。市船ゴールに入ったように見えたシュートが3本はありましたが、キーパー以外の市船のプレーヤーが蹴り出し続けました。神懸かりというか、強運というか、市船はゴールを割られることなく後半もロスタイムに入ります。ロスタイムは確か4分と長かったと思いますが、その長いロスタイムも残り1分を切って、流経大柏の猛攻が続きます。

 市船のプレーヤー達は、完全に押し込まれて、自軍ゴール前・ゴールエリア近辺に張り付いた形。時々最終ラインを上げることが出来ればよいのですが、跳ね返したボールが悉く柏に拾われるので、ラインを上げることが出来ません。何か、2006年ドイツワールドカップ一次リーグ・対オーストラリア戦・残り10分の日本チームを観るようです。
 こうなるとゴールは時間の問題と思っていましたら、シュート、跳ね返す、シュート、跳ね返す、シュート、決まった!という感じで、ロスタイム残り10秒で同点になりました。 
 市船としては、84分間守り続け、成功してきたのですが、最後の最後で失点した形です。

 ゲームは10分ハーフの延長戦に突入しました。
 延長戦に入ってから、市船の選手が相手ゴール前でドリブルするプレーが出始めました。良いテクニックを披露していましたが、前・後半80分の中では観られなかったプレーです。市船の選手も十分なテクニックを身に付けていたのですが、このゲームで勝つために作戦として封印していたことが判りました。

 流経大柏の選手も相変わらずのプレーで応戦します。延長戦も残り1分、ここで柏はゴールキーパーを交替させます。PK戦用のGKをゲームに慣れさせるために出したとの解説に、高校チームにPK戦用のGKがいるのかと驚きました。
 結局、延長戦は両チーム無得点でPK戦に入りました。流経大柏が先攻。両チーム二人ずつ決めて2-2、柏の3人目もキッチリ決めて、市船の3人目。このPKを柏のGKが完璧に弾いて3-2。柏の4人目は成功して4-2。柏のPKはとても安定しています。市船の4人目のシュートを、再び柏のGKが完璧に弾き、ゲームセット。柏2人目のGKは、さすがにPK戦に強いといわれるだけのプレーを魅せてくれました。

 ゲーム終了後、両チームの選手たちはお互いの健闘をたたえ合うとともに、盛んに会話しています。おそらく、小学生時代から様々なゲームで顔を合わせ、時には同じチームで戦ってきた仲間なのでしょう。

 とても良いゲームでした。レベルも高く、どちらのチームが全国大会に出場しても、相当良いゲームを展開できると思いました。もちろん、流経大柏が決勝で対戦する八千代高校も強豪チームですから、どちらに軍配が上がるかは分かりませんけれども。

 この試合を観ただけでも、我が国の高校サッカーのレベルは着実に向上していると思いました。両チームのメンバーには、J1チームの下部組織出身の選手も居ました。1993年にJリーグが発足し、各チームの下部組織に小学生・中学生が入り始めました。
 それまでの日本のスポーツというのは、どの競技も中学→高校→大学とステップアップする「学校スポーツ」だったのですが、Jリーグ所属チームの下部組織は、サッカー競技に新しいルートを切り開きました。

 10年くらい前には、知り合いのお子さん達から「ヴェルディやマリノスのユースに入るのは大変だよ。倍率も高いし、もの凄いテクニシャンばっかりだよ」といった話を聞いたものです。
 我が国も、学校スポーツとは別のラインでプレーヤーが育成されて、日本代表に選ばれる時代が来るのかな、と考えたりもしました。ちょうど、メッシやイニエスタを輩出したFCバルセロナや、カシージャスやファン・マタを輩出したレアル・マドリードのカンテラのような感じです。

 しかし、我が国には我が国の落ち着きどころがあったようで、やはり主流は学校スポーツという形で落ち着いたように思います。小・中学生時代は、クラブチームに所属しながら技術・体力を磨いたプレーヤーも、サッカーの強い高校に進学して、その高校のサッカーチームに入る形が一般的になってきました。
 やはり、「高校サッカー」には、本稿で述べた全国高校サッカー選手権大会を始めとする全国規模の有名大会が複数存在し、テレビ放送も充実していますので、将来プロサッカー選手を目指す若者は、有名・有力高校チームに所属する方が有利ということなのでしょう。興味深いのは、その高校を卒業した後、大学に進学する有力プレーヤーは少なく、直接プロチームに入るケースが多いことです。
 こうした形・ルートが、おそらく我が国のプロサッカー選手育成方式になって来たのでしょう。

 市立船橋高校と流経大柏高校の両チームにも、中学生時代に全国で名を馳せた選手が多数集まっていました。そして、高いレベルの練習・ゲームで揉まれて、その実力を伸ばしているのでしょう。
日本サッカーの将来は大丈夫だと思いました。

 ところが、11月12日に19歳以下の日本代表チームが、U-19のアジア大会準々決勝で敗れ、ベスト4に入れず、世界大会への出場権を逃したとのニュースが入りました。これで、3大会連続で世界選手権出場を逃したことになるのです。
 もちろん、常に予選を勝ち抜き、必ず世界大会に進むことができるなどとは思いません。他国チームとの力量バランスもあるでしょうし、時には作戦ミスもあるのでしょう。しかし、3大会連続の敗退となると話は違います。

 以前、A代表が中々成果を出せなかった時代、私達の希望はU-20チームを始めとする若手の日本代表チームでした。U-20のワールドカップで決勝に進出したり、勝ち進むこともあり、日本のサッカーファンは「いまに見ていろ」「必ず日本は強くなる」と思っていたものです。
 そして日本はようやく、予選を勝ち上がってワールドカップに出場できる実力を備えた国になりました。今年のロンドンオリンピックでもU-23チームが決勝トーナメントに進みました。

 その日本サッカーの将来を担うU-19代表チームが、中東の代表チームに良いところなく敗れ続けているというのは、由々しい事態です。
 報じられるところによると「何ひとつ良いプレーを示すことなく敗れた」「予選リーグの出来から見れば当然の結果」ということです。惜しくも敗れたのではなく、弱いから負けたことは間違いありません。原因は何でしょうか。

 前述の全国高校サッカー選手権大会予選のゲームを観る限り、我が国のU-19層にプレーヤーが居ないとは到底考えられません。「召集が上手くいかない」のでしょうか「チーム作りが上手くいかない」のでしょうか「作戦が良くない」のでしょうか。
 いずれが主たる要因であるにしても、監督・コーチ・協会の責任が重いことになります。

 当然のことながら、このところアジア大会やワールドカップ予選でも良いところが無いイランやイラクといった中東の国々も、いつまでも日本に負けていて良いと思うはずもなく、20世紀に見られた「いつでも日本に勝利する強い代表チーム」の復活に向けて努力を続けているのでしょうから、こちらが立ち止まっていたら、直ぐに昔に戻ってしまいます。
 「何年たってもアリ・ダエイ」という言葉さえあったほど、長い間、日本代表チームは中東の国々の代表チームに歯が立たなかったのですから。

 日本サッカー協会を始めとするサッカー関係者の皆さん、このU-19代表チームの敗因を良く分析・把握して、我が国の高校生・中学生・小学生のサッカープレーヤーの目標となるような代表チームの編成に向け、再出発していただきたいと思います。

 代表チームの無様なプレー振りは、若いサッカープレーヤーの夢や希望を奪ってしまいます。

 春の安田記念と並ぶ、秋の1600m・約1マイルのG1競走がマイルチャンピオンシップ(以下、マイルCS)です。とはいえ、1951年に創設された安田記念に比べ、マイルCSは1984年開始ですから、比較的新しいG1競走ということになります。

 日本中央競馬会は1984年、重賞競走にグレード制を導入しましたが、その際に重賞レース体系も変更・整備しました。特に、中距離・短距離のG1競走の整備を推進し、天皇賞(秋)の距離を3200mから2000mに短縮したり、安田記念をG1に格付けし実施時期を6月中旬から5月中旬のオークスの前週に変更したりしましたが、その際に秋の京都競馬場芝1600mG1競走として創設されたのがマイルCSです。以来、この春・秋のマイルG1競走体系が継続されています。

 マイルCSの特徴のひとつとして「連覇」が多いというのが挙げられると思います。1984年から昨年までの28回のレースで、5頭(ニホンピロウイナー、ダイタクヘリオス、タイキシャトル、デュランダル、ダイワメジャー)の馬が連覇を達成しています。マイル・1600mレースというのは、専門性が高く、実力差が明確に出やすい距離なのかもしれませんが、それにしても多い。春の安田記念が62回の歴史の中で、連覇は3頭(スウヰイスー、ヤマニンゼファー、ウオッカ)しか出ていないのと比較しても多いと思いますし、中央競馬の全てのG1競走の中でも、連覇馬が5頭も居るレースは、このレースだけではないかと思います。

 また、マイルCSは本命サイドのレースでした。創設された1984年から1994年までの11回のレースでは、一番人気の馬が100%連対していましたし、それ以降も2001年までは比較的固い馬券が多かったと思います。ところが、2002年以降は高配当のレースが多くなっています。2002年以降も、連覇馬が2頭出ていることを考えると、2着3着に人気薄の馬が入ってくるということかもしれません。

 こうした変化の要因としては、1600mレース全体のレベルアップもあるように思います。マイルレースに強く実績がある馬が多数出てくるようになったため、そもそも一番人気でも3倍を切ることが珍しくなってきました。その意味では「荒れるレース」になって来たのではなく「実力伯仲の難しいレース」になってきたということなのでしょう。取りも直さず「面白いレース」になってきたということです。

 秋のマイル王決定戦・マイルCSの勝ち馬には、錚々たる名馬が並びます。その中で、本稿で採り上げるのは、1991年・1992年の連覇馬ダイタクヘリオスです。

 ダイタクヘリオス号は、父ビゼンニシキ、母ネヴァーイチバン。生涯成績は35戦10勝。マイルCSの連覇と共に、春のマイラーズカップG2も1991年・1992年と連覇していますので、マイル重賞に強かった馬です。

 ダイタクヘリオスが勝ったレースは「良配当のレース」が多かったなと思い調べてみました。ダイタクヘリオス自身も、1番人気で勝ったのは2歳時の条件戦1レースのみで、残りの9勝はいずれも2番人気以下でした。マイルCSを連覇するほどの馬ですから、1番人気になることもあったのですが、1番人気になると走らない。それも4着以下に大敗したりしますので「オッズが解っている馬」と言われたりしました。

 加えて、ダイタクヘリオスが4歳古馬になって以降引退するまでに出走した20回のレースの全てにおいて、一番人気馬が勝てませんでした。
 こうなると「ダイタクヘリオスの呪い」という感じです。この20回のレースには、自身が勝ったG1マイルCS2戦以外にも、安田記念2回、有馬記念2回、天皇賞(秋)1回の5レースのG1も含まれています。「ダイタクヘリオスが出走してきたら本命馬は勝てない」のですから、一番人気馬の関係者や競馬予想を行う人達からは、随分と嫌がられたのではないでしょうか。5歳時の有馬記念12着を最後に引退した時には、ホッとした競馬関係者も多かったのかもしれません。

 さらに、ダイタクヘリオスはいつも口を割って(開けて)走りますので、騎手との折り合いも不安でしたし、パドックでもイレ込みが激しい様子がよく見られましたので、ムラ馬と呼ばれることも多かったと思います。(実際には、パドックや返し馬の時に大人しいと走りませんでしたので、暴れるのが好調の証?だったのでしょう)
 最近少なくなった、極めて個性的な馬でした。

 一方で、4~5歳の2年間でG1の2勝を始めとして重賞を6勝もしたのですから大変強い馬でした。
 逃げ馬ではないのですが、勝ったレースは3コーナーから進出し4角先頭、先頭に立つのが早過ぎる・いつ抜かれるのかなと思って見ていると、結局粘り切ってゴールイン、思い返してみると強い、というレースが多かったと思います。「良い脚が長く使える馬」の典型で、確かマイラーズカップで4角先頭、直線も引き離し、5馬身差位で勝ったレースがありました。強い!大きな差が付きにくいマイル戦では珍しいと思ったことを憶えています。

 ダイタクヘリオスのお父さんはビゼンニシキ。1984年春のクラシック戦線の主役でした。新馬戦からの4連勝で臨んだ弥生賞G3は一番人気。何と、この時の二番人気がシンボリルドルフでした。(ルドルフが3歳馬同士のレースで唯一一番人気になれなかったレースです)このレースはルドルフの2着。
 続く、スプリングステークスG2に勝って、皐月賞でルドルフと共に単枠指定馬となりましたが、二番人気で2着。ダービートライアルのNHK杯を優勝して、日本ダービーに臨み、やはりルドルフと共に単枠指定馬となりましたが、二番人気で14着と初めて3着以下に敗れました。今思えば2000m以下の距離で強い馬でした。

 栗毛・大流星の大型馬だったビゼンニシキは、間違いなく皐月賞まではクラシック戦線の主役でした。1984年皐月賞・中山競馬場の直線、外側(左側)から並びかけて来るビゼンニシキに、シンボリルドルフ(鞍上岡部騎手)は馬体をぶつけました。ビゼンは失速、1馬身程の差でゴール。勝ったルドルフ、2着のビゼン共にレースレコードタイムでした。
 急な斜行でしたからルドルフの失格もあるかもしれないと思いましたが、審議の後、岡部騎手の騎乗停止処分のみで、ゴール板到達順位通りに確定しました。皇帝シンボリルドルフとその陣営を最も震え上がらせた馬が、ビゼンニシキでした。

 ビゼンニシキとダイタクヘリオスの父子は、中央競馬の歴史に渋く輝く強者達だと思います。
 石川遼選手が、2012年11月8日~11日に行われた三井住友VISA太平洋マスターズトーナメントに優勝しました。2010年の同大会で優勝して以来、約2年振りの勝利です。雨の降りしきる太平洋クラブ御殿場コース18番ホール、最後のバーディパットを慎重に沈めた石川選手は、高々と両手を挙げ、声援に応えました。これで日本ツアー10勝目です。

 アマチュア時代の2007年、マンシングウェアKSBカップを15歳と245日の世界最年少記録(ギネスブック認定)で制した石川遼は、その後の日本プロゴルフツアーの中心選手でした。石川選手が、日本ツアーを牽引してきたのです。その石川が勝てなくなり、2011年を未勝利で終わり、2012年の秋を迎えた時には「石川どうした」「石川は、もう勝てないのではないか」といった声が上がりました。
 私は、このまま石川選手が沈没すると、日本の男子ゴルフ全体も沈没してしまうと怖れていました。その意味では、大袈裟ではなく、この勝利は日本ゴルフ界を救った勝利とも言えると思います。

1. AONの時代(1973年~1998年)
 青木功選手、尾崎将司選手、中島常幸選手の3人のスタープレーヤーが日本ゴルフ界に君臨した時代をAONの時代と呼びます。この3人の実力・実績・人気、特に尾崎将司選手の実績は、スバ抜けたものでした。

 日本プロゴルフツアーがスタートしたのは1973年ですが、それから1998年までの26年間のツアー賞金王を見てみましょう。尾崎が12回、青木が5回、中島が4回と3人で21回賞金王に輝いています。驚くべき実績で、この26年間AON以外で賞金王になったのは、1975年の村上隆選手、1984年の前田新作選手、1987年のデビッド・イシイ選手(アメリカ)、1991年の尾崎直道選手、1993年の飯合肇選手の5人・5回しかないのです。

 特に、1988年~1998年の11年間は、前述の尾崎直道・飯合の2回を除いた9回は、尾崎将司が賞金王になっています。この11年間は、日本男子プロゴルフツアーはジャンボ尾崎の時代だったのです。1947年生まれの尾崎が50歳を迎えようとする頃に、これ程の強さを発揮したことは驚異的です。そして、1998年まで日本男子プロゴルフツアーは発展を続けたように思います。

2. 労働力人口の増加と減少
 総務省統計局は様々な調査を実施し、結果を公開してきています。とても興味深い調査結果が多数ありますので、是非一度、総務省統計局のホームページを覗いて見ていただきたいと思います。
 さて、その調査の中に「労働力調査」があります。我が国の労働力人口についての調査で、継続して行われています。この調査によると、日本の労働力人口は、太平洋戦争後増加を続けました。そして、1997年~1998年に6800万人台のピークを迎え、以降は減少に転じ、今年2012年の9月には6541万人に減っています。
 また、ゴルフ関連を始めとする高額消費行動の中心となる45歳から54歳層の就業者数は、1997年4月に1622万人でピークとなり、今年2012年9月には1305万人にまで減少しました。

 いわゆるバブル経済が崩壊した1992年以降も、物・サービスの販売業の売上は伸び続けました。前述の就業人口が増加し続けたからです。そして、1997年・1998年をピークにして、日本国内の物・サービス販売業の売上は減少に転じ、現在まで減少傾向が続いています。これは、ある意味では当然のことで、仕事をして給料を稼ぐ人の数が減っているのですから、物・サービスを提供する企業の売上は全体としては減少するのです。

 デパートやスーパーマーケットはもちろんとして、近時売り上げが伸びたと言われるコンビニも、たばこ販売方法の変更により客足が伸びたことによる一時的な売り上げ増加に過ぎず、その効果が薄くなった本年に売り上げ減少に転じました。決して、コンビニがスーパーマーケットの顧客を奪ったために、スーパーの売り上げが落ちたのではなく、全体として物の販売業の売上が落ちているのです。

 こうした全体の傾向の中で、ゴルフ関連業種の売上も例外ではなく、1999年から減少を続けているものと思われます。本来、ゴルフに新規参入してくるはずだった30代サラリーマンの所得が最近15年間で激減してしまいましたから、ゴルフにお金をかけてくれる層の平均年齢は上昇の一途を辿り、全体のゴルフ人口は減少の一途を辿っているのです。

3. 1999年~2007年、日本男子プロツアーの暗黒期
 尾崎将司選手が51歳を迎え、最後の賞金王となった1998年は、日本の労働力人口がピークを迎えた年でもありました。全くの偶然ですが、尾崎選手のピークアウトと日本の一般労働者購買力のピークアウトが重なってしまったのです。

 翌1999年から、ツアーのスポンサー企業は減少を続け、日本男子ゴルフツアーは低迷期を迎えました。日本プロゴルフツアーの主催者が、社団法人日本プロゴルフツアー機構に変わったのが1999年であったことも、決して偶然ではありません。全体賞金額が減少する中で、その配分について、選手会を中心にした仕組みが作られたのだろうと思います。

 しかし、日本男子プロゴルフツアー関係者は、この1999年からの数年間にゴルフ需要の掘り起こしに、もっと注力すべきだったかもしれません。ゴルフに対する需要が減少に転じた中で、ゴルフ界を牽引するスーパースターも居なくなるという二重苦に対して、取組が不十分だったのでしょうか。21世紀に入り、男子ツアーはますます影が薄くなり、週末のテレビ放送も減少の一途でした。相当のビッグトーナメントでも1時間のダイジェスト版放送になってしまったのです。
 この時代の賞金王は、片山晋吾選手、伊沢利光選手、谷口徹選手が分け合っていますし、海外のメジャートーナメントでも、相応の活躍を演じているのですが、ゴルフ需要の減少をカバーするには至らず、ツアー人気の低迷は続きました。

4. 石川遼の時代
 そして、2007年のツアー初優勝、2008年1月のプロ転向宣言に始まる石川遼選手の時代が到来しました。その端正なマスクと品行方正な言動、格好良いファッションセンス、そして2010年中日クラウンズ最終日の世界最少スコア58打のラウンドによる大逆転優勝に代表されるアグレッシブなプレー振り、が相俟って「石川遼というブランド」は爆発的な人気となりました。

 若者のゴルフ人口増加にも結び付いたと思いますが、もっと大きなことは、ゴルフをプレーしない人達までも、ゴルフ界に引き付けたのです。これが「スーパースターの条件」です。スーパースターというのは、その競技を知らない人の興味まで惹起するプレーヤーの尊称です。

 試合中に、石川選手がラフに打ってしまったミスショットのボールを拾ってしまう観客や、変なタイミングで嬌声を上げる観客など、ルールやマナーを知らない観客によって、種々のトラブルも発生しましたが、これとて観客がとても少ない状態よりは遥かに良いことで、こうしたゴルフをほとんど知らない観客は、例えば、石川遼のヘッドカバーを10個20個とまとめ買いするのです。もちろん、別の用途に使うのです。
 石川遼は、間違いなく日本男子プロゴルフの救世主でした。

 その石川選手が、2010年11月から突然勝てなくなったのです。プロスポーツ界のスーパースターの条件の第一は「強いこと」です。常勝の必要は無いのですが、時々は優勝しなければなりません。2008年から、石川遼ブランドの展開により、男子ゴルフツアーにもスポンサーが戻り、用具メーカーや報道関係者など、多くの関係者にも恩恵を与えてきたとはいえ、まだ2~3年しか経っていませんので、本格回復にはこれからという時に、肝心な石川遼選手のゴルフプレー自体が不調になってしまったことは、大変な問題です。
 予選ラウンドも通過できないとなると、週末の観客は見ることもできないわけで、このまま不調が続くと、また暗黒の時代に戻ってしまうと心配しました。

 また、昨日はアメリカ・プロゴルフツアーPGAのフォールシリーズ最終戦が終わり、PGAの2012年賞金ランキングも固まりました。石川選手は、108位相当とのことで125位以内のプレーヤーに与えられるPGAツアーシード権も手にしました。本当に素晴らしいことです。

 さて、来年2013年の石川選手はどのようにプレーしていくのでしょうか。PGA中心にプレーして、日本オープン・日本プロといった日本のメジャートーナメントだけ、日本に戻ってきてプレーするのか、その逆なのか、その中間なのか、興味深いところです。

 いずれにしても、日本プロゴルフ界としては、石川遼選手と並ぶ、あるいは石川選手のライバルとなるスターの育成を急がなくてはなりません。池田勇太選手やアマチュアの松山英樹選手などがスター候補になるのでしょうか。

 AONの時代も、3人のスタープレーヤーが切磋琢磨して切り開いたものでした。今後の日本男子プロゴルフを石川選手1人に背負わせるのは、酷というものです。
 今年2012年のロンドンオリンピック柔道競技において「日本柔道は惨敗を喫した」「特に男子は史上初の金メダル0に終わった」等々の報道がなされています。このことについて、少し観てみましょう。

 柔道がオリンピック種目になったのは、男子が1964年の東京オリンピックから、女子が1992年のバルセロナオリンピックからです。これまでの、金・銀・銅メダルの獲得状況を見てみます。(参加した大会の内、1984年ロサンゼルス大会は東側諸国が不参加のため除きます)

[男子]
・1964年東京 4階級 金3 銀1 メダル計4
・1972年ミュンヘン 6階級 金3 銅1 メダル計4
・1976年モントリオール 6階級 金3 銀1 銅1 メダル計5
・1988年ソウル 7階級 金1 銅3 メダル計4
・1992年バルセロナ 7階級 金2 銀1 銅2 メダル計5
・1996年アトランタ 7階級 金2 銀2 メダル計4
・2000年シドニー 7階級 金3 銀1 メダル計4
・2004年アテネ 7階級 金3 銀1 メダル計4
・2008年北京 7階級 金2 メダル計2
・2012年ロンドン 7階級 銀2 銅2 メダル計4

[女子]
・1992年バルセロナ 7階級 銀3 銅2 メダル計5
・1996年アトランタ 7階級 金1 銀2 銅1 メダル計4
・2000年シドニー 7階級 金1 銀1 銅2 メダル計4
・2004年アテネ 7階級 金5 銀1 メダル計6
・2008年北京 7階級 金2 銀1 銅2 メダル計5
・2012年ロンドン 7階級 金1 銀1 銅1 メダル計3

 男子では、7階級制に固まった1988年ソウル大会以来
① メダル獲得総数は4~5個 北京大会のみ2個
② 金メダルは最大3個 過半の4個以上の獲得実績は無し
というところです。
・金メダルは、今ロンドン大会で初めて0個になりましたが、メダル獲得数では、前回の北京大会の2個から倍増の4個となっていますので、極端な不振ということにはならないと思います。
・7階級の過半4階級以上で金メダルを取ったことはありませんので、柔道関係者が「金メダル以外はメダルではない」などと発言したと報道されていますが、選手に対する気合注入の意味合いのみでしょうし、本当にそんなことを言ったのか疑問でさえあります。
 いつの時代でも、銀・銅のメダルであっても、獲得するのは素晴らしい成績であることが判ります。

 女子は、正式種目となった1992年のバルセロナ大会から7階級制でした。
① シドニー大会までは金が0か1個・メダル獲得総数5個以下でしたが、アテネ大会で金5個・メダル獲得総数6個の躍進、男女を通じて日本柔道史上最高の好成績を挙げました。日本の女子柔道は、先行するフランス・スペインといった国々を追いかけて、好成績を上げるレベルに追い付いた形です。

② その後、北京、ロンドンと金メダル数、メダル獲得総数とも減少していますが、アテネ大会と北京大会の金2個は、谷本選手と上野選手が2大会連続で獲得したもので、この両選手がずば抜けた能力を有していたと考えると、北京大会とロンドン大会の成績は同水準とも言えます。また、アトランタ大会・シドニー大会の水準に戻ったとも言えます。

 以上から、日本柔道は報道されているほどの凋落ぶりではないように思いますし、選手は十分にその実力を発揮しているように感じます。

 ちなみに、国際柔道連盟による階級別の世界ランキングがあります。2012年10月7日のランキングが最新のようですので、男女各階級の10位以内の日本人選手のランキングのみ掲示します。

[男子]
・△60㎏ 3位 6位
・△66㎏ 5位 10位
・△73㎏ 2位 10位
・△81㎏ 4位 10位
・△90㎏ 1位 8位
・△100㎏ (11位以下)
・+100㎏ (11位以下)

[女子]
・△48㎏ 2位 3位
・△52㎏ 1位 10位
・△57㎏ 1位 2位
・△63㎏ 1位 6位
・△70㎏ 3位 8位
・△78㎏ 4位
・+78㎏ 3位 4位

 このランキングを単純に1位→金メダル、2位→銀メダルといった形で当てはめると
・男子は、金1、銀1、銅1となり、ロンドンオリンピックの成績と大体同じ水準です。
・女子は、金3、銀1、銅3となり、こちらはロンドンオリンピックの成績より、相当良いものになります。こうして観ると、ロンドンオリンピック柔道競技日本チームで実力を発揮しきれなかったのは、女子チームということになるのかもしれません。

 もちろん、世界ランキングとオリンピックの成績が直ちに結びつくものではないと思いますが、他の競技でも、世界ランキングは時々の各チーム・プレーヤーの力量を示す物差しとなっていますので、彼我の実力比較を行う上では十分参考になるものです。

 日本起源のスポーツである「柔道」は、世界中に普及し「JUDO」になりました。柔道が世界に拡大する「普遍的な価値を内包するスポーツ」であったという点が、日本人として誇らしいことです。
 海外で一人歩きを始めて久しい「柔道」が、世界中の様々なスポーツのノウハウを取り込んで「JUDO」に変わって行ったのですから、起源国としても容易に勝つことが出来なくなったのは、止むを得ないことだと思います。
 現在では、競技人口の面からみても、日本国内の競技人口数より、海外の競技人口数の方が多いことは明らかですし、フランスは一国で日本の競技人口を上回るともいわれていますので、世界中で競技力強化活動が推進されている状況では、海外の国々から強い選手が出て来るのは自然なことといえます。

 また、起源国=必ず勝たねばならないということになると、例えばイギリスのテニスやサッカーのプレーヤーは困ってしまうでしょう。

 柔道の日本代表選手は、起源国のプレーヤーとして「強くあらねばならない」と思いますし、他国のプレーヤーの模範となる選手でなければならないとは思いますが、いつも勝たねばならないということはない、とも考えます。
 そして、JUDOを良く研究し、世界の大会で好成績を残していただければ、これ以上嬉しいことはありません。

 1882年・明治15年、嘉納治五郎が東京府下谷の永昌寺の書院12畳を道場として「講道館」を設立しました。この年が、現在の柔道のはじまりとされています。

 武士が生まれ、戦闘のための武芸が行われるようになったのは12世紀頃からといわれていますが、戦国時代が終わって江戸時代に入り、武芸・武術のひとつとして柔術が発達しました。柔術には、種々の流派が生まれ、幕末には百を超えていたといわれています。

 学習院講師だった嘉納治五郎が、天神真楊流柔術や起倒流柔術の技を中心に創り上げた格闘技が「柔道(講道館柔道)」です。
 嘉納は、自らの提唱する格闘技を「柔道」と名付けましたが、当初の講道館は新興柔術のひとつでしたので「嘉納流柔術」と呼ばれることもあったようです。

 さて、講道館柔道が嘉納により創られたとはいえ、数ある柔術の中で後発の講道館柔道が、どうして日本中そして世界中に普及し、人気スポーツとなったのでしょうか。
 以下のような理由が考えられます。

① 警察官の必修科目となったこと
 嘉納治五郎の著書によると、1888年・明治21年頃に行われた警視庁武術大会で、他の柔術流派との対戦に勝利したことを受けて、当時の三島警視総監が日本伝講道館柔道を警視庁の必修科目としたことから、全国の警察にも広がったと言われています。
 警察官の必修科目になったことは、講道館柔道の日本国内への普及にとって、大きな力となったことは間違いないでしょう。現在でも、柔道か剣道が、日本の警察官の必修科目となっています。

② 学校教育の科目に取り入れられたこと
 前述の警察への導入の影響があったのかどうかはわかりませんが、1898年・明治31年に、旧制中学の必修科目として講道館柔道が取り入れられました。
 太平洋戦争後は、1950年・昭和25年に新制中学の選択科目に組み入れられ、1953年・昭和28年の学習指導要領に柔道・剣道・相撲が「格技」として位置付けられ、正課の授業に組み入れられました。こうした、戦後の文部省による取組の影響は大きく、全国の中学校に普及しました。

③こうした警察・学校での普及により、柔道の指導者となりうる人材の数は飛躍的に増えたものと考えられます。この沢山の指導者が、戦後の世界中への普及の力となったことは間違いないでしょう。

④前述のような体制面の対応・確立が、日本国内・世界中への柔道の普及・拡大の大きな要因であったことは確かですが、本ブログでこれまで採り上げてきた他のスポーツと同様に、普及・拡大には、もうひとつの要素が必要です。それは「面白いこと」です。プレーヤーも観客も、両者が面白いと感じ、人気が出なければ、そのスポーツは発展しません。

 では、講道館柔道の何が面白かった、あるいは面白いのでしょう。私の考えでは、「投げ技」と「固め技」のバランスが絶妙である点が、最大のポイントだと思います。講道館柔道は、古来の柔術の中から「投げ技」は起倒流から、「固め技」は天神真楊流から、主に取り入れたとされていますが、特に「投げ技」の導入効果が大きかったと思います。

 現在の柔術の試合を観ていると、技の掛け合いの様子が良く解らないケースがあります。2人のプレーヤーが寝技の掛け合いを行っているシーンなどは、テレビ画面で大写しにしてくれれば、何をしているのか多少は判りますが、会場でやや遠くから観ていると、角度が良くない場合などは全く見えません。一部の専門家やマニアには面白いものでも、一般の人達に理解されない・解りにくいスポーツは、なかなかメジャーにはなりません。

 これに比べれば、講道館柔道は、プレーヤー2人が立った状態で試合が始まり、まずは「投げ技」の応酬となるので、視覚面から観客に判り易いのです。加えて、投げ技が決まった時も判り易い。投げ技から固め技としての「寝技」や「関節技」への移行も、判り易いと思います。
 プレーヤーの立場からも、「投げ技」は爽快感を伴うプレーだと思いますし、普段のトレーニングも面白いものでしょう。

 講道館柔道がその本質として持っている「面白さ」が、普及・拡大の最大の要因であったと思います。

⑤これに加えて、嘉納治五郎が掲げた「精力善用」「自他共栄」の考え方は、日本古来の武術に共通した理念を文字にしたもので、単なる勝利至上主義ではなく、心身の鍛練を目的として掲げていますから、この深い精神性も、特に海外への普及の一助となったものと思います。

⑥さらに、海外での普及の要因として考えられるのが「簡易な用具」です。柔道の用具といえば「道着」と「畳」ですが、各地での普及活動の当初段階であれば、正式なものが必須というわけではありません。用具が簡易というのは大切なポイントです。

 最近国際化が進んでいる剣道の普及スピードが、柔道に比べて遅いのは「剣道には重装備が必要」で、特に開発途上国では費用面で厳しいのでしょう。用具のコスト面を除けば、剣道と柔道の普及のための条件の充足状況は似ていますから、簡易な新素材の防具でも開発されれば、剣道は飛躍的に世界中に広まると思います。
 剣を模した竹刀を持って、対戦相手を切る・突くというスポーツは、世界中のプレーヤーにとっても観客にとっても、とても面白いものであることは間違いありません。


 2012年11月11日、京都競馬場芝外回り2200mコースで行われる、第37回エリザベス女王杯G1競走の予想です。

 今回は、外国馬の出走はありませんでしたが、日本馬の3歳馬・古馬、実績馬・上がり馬が入り乱れての、激しいレースが期待されます。

 まずは軸馬の検討です。
 軸馬候補の一番手は、6枠12番のヴィルシーナ。桜花賞・オークス・秋華賞の所謂牝馬三冠レースで、いずれもジェンティルドンナの2着という史上初めての三冠2着馬です。レベルが高いと言われている今年の3歳馬世代の中で、ジェンティルドンナを除けば最も強いことは明らかです。

 軸馬候補の二番手は、6枠11番のホエールキャプチャ。今年5月のヴィクトリアマイルG1の優勝馬です。既にG1ホースですから、ヴィルシーナより格上です。実は、3歳時の実績はヴィルシーナに良く似ています。(ヴィルシーナがホエールキャプチャに似ているということですが)
 桜花賞3着、オークス3着、秋華賞2着と牝馬三冠レースで何れも上位に来ながら勝ち切れなかったのです。4歳の春に、ついにG1レースの勝ち馬となりました。

 さて、この2頭から軸馬を選びます。
 2着が多い馬が、いつも負けてきた相手が居ないレースで順当に勝ち上がるかというと、なかなか容易なことではありません。最近でも、昨年の日本ダービー・菊花賞でオルフェーヴルの2着と健闘したウィンバリアシオンは、その後のオルフェーヴルが出走していないレースでも勝ち切れないレースが続いていて、残念ながら、いまだに重賞は青葉賞G2の1勝だけです。他にも、こうした例は沢山あります。

 これらの要素を考え合わせた上で、軸馬はヴィルシーナにしようと思います。

 理由の第一は、馬が春に比べて成長していることです。前の稿にも書きましたが、馬体重が春比10㎏以上増加し、秋華賞のレース振りは勝った馬と互角。ゴール前の叩き合いは双方一歩も引かないもので、ヴィルシーナの本格化を感じさせるに十分な内容でした。秋華賞から中3週の疲労残りだけが心配ですが、ここは軸馬として活躍してくれるものと思います。

 一方の、ホエールキャプチャは、ヴィクトリアマイルまで掲示板を外したことがない(6着以下の無い)安定した成績を残して来ましたが、直近2戦は10着以下と意外な成績です。前走のG2府中牝馬Sは、勝った馬から0.6秒差という少差とはいえ、11着というのはホエールキャプチャらしくないものでした。

 さて、対抗馬の検討です。前述のホエールキャプチャは候補馬の一頭です。
 続いては、1枠1番のマイネイザベル。前走府中牝馬Sで2年ぶりの勝利を挙げました。馬体が絞り込まれて、馬が変わった印象です。
 続いては、1枠2番のアカンサス。前走のオープン特別アイルランドTを競り勝ちました。こうしたキャリアの馬が、エリザベス女王杯では時々快走します。
 続いては、2枠3番のスマートシルエット。前走府中牝馬Sの2着馬です。好位でレースを運べる点が良いところです。
 続いては、4枠7番のフミノイマージン。前走G2京都新聞杯で僅差の4着、前々走G2札幌記念は優勝と、牡馬との戦いでも好走しています。中4週のローテーションもピッタリです。
 続いては、7枠13番のエリンコート。いわずと知れた昨年のオークス馬。このところのレースの不調は意外。
 続いては、8枠15番のレインボーダリア。前走府中牝馬S4着。昨年のこのレース5着。距離も合っているので、2着の可能性はあります。

 以上から絞り込みます。
対抗馬一番手は、フミノイマージン。力を付けていますし、ローテーションも良いので安定した走りを期待します。
対抗馬二番手は、レインボーダリア。京都2200mに合っていると思います。ゴール前で着実に追い込んできそうです。
対抗馬三番手は、ホエールキャプチャ。このところの不振が心配ですが、馬場が重くなれば、地力を発揮しそうです。

 今回は、以上の4頭に期待したいと思います。ジェンティルドンナが居ないレースでの、ヴィルシーナの走りに注目しています。
 スポーツにおいては、アメリカ起源のものは団体競技、日本起源のものは個人競技です。

 アメリカ起源の代表的なスポーツといえば、ベースボール、アメリカンフットボール、バスケットボールが挙げられます。ベースボールは1チーム9人、アメリカンフットボールは1チーム11人、バスケットボールは1チーム5人の団体戦です。
 一方、日本起源の代表的なスポーツといえば、柔道、相撲、剣道といずれも個人競技です。

 個人競技と団体競技を区別する基準は、色々な考え方があると思いますが、私は「分業概念の有無・強弱」だと考えています。

 ベースボールを例にとります。守備における各ポジションは、各々異なった役割を果たします。投手と捕手、内野手、外野手はゲームにおける守備を、チームとして実践していく際に別々の役割を担います。内野手でも、一塁手・二塁手・三塁手・遊撃手は、役割が異なりますし、外野手でも中堅・左翼・右翼で役割が異なります。単にエリアのことだけを考えても、9人全員が自らの役割を果して、初めてフィールド全体をカバーできますので、極めて分業度合いが高いスポーツということになります。

 バスケットボールも同様です。1チーム5人のプレーヤーは別々の役割を担います。NBAにおける一般的な呼び名で、以下に表記します。

 まずはポイントガードPG。チームの司令塔として攻撃・オフェンスOF、守備・ディフェンスDFの両方のチームプレーをコントロールします。バスケットボールというと長身のプレーヤーが多いのですが、このポイントガードPGのプレーヤーは比較的小柄です。NBAでいえば、センターラインを越えて相手コートにボールを持ち込むのは主にPGの役割です。そこから、様々なフォーメーションでプレーが展開されるのです。番号で呼ぶと「1番」です。ラグビーのスタンドオフに似たポジションかもしれません。

 続いてシューティングガードSG。主に中・長距離のシュートを打つことが役割のプレーヤーです。3ポイントシュートは、SGの見せ場です。番号で呼ぶときは「2番」です。

 続いてスモールフォワードSF。得点が期待されるポジションです。ドリブルを多用するように思いますが、色々な角度からシュートを放ちます。カットインやポストプレーなど、プレーヤーにより様々なタイプが存在しますが、チームの得点エンジンであることは共通しています。また運動量も多いので、守備面の役割も大きいプレーヤーです。番号で呼ぶときは「3番」です。

 続いてパワーフォワードPF。SFと同様に、得点が期待されるプレーヤーですが、SFより長身で大きなプレーヤーが務めることが多いと思います。ゴール下での得点・守備のために接触プレーに強いことが求められます。攻守におけるリバウンド対応もPFの大切な役割です。番号で呼ぶときは「4番」です。

 最後はセンターC。バスケットリングに最も近いポジションでプレーします。長身で強い肉体を持ったプレーヤーのポジションです。ゴール下からのシュート、ポストプレーのポスト役、そしてPFと共に攻守のリバウンド対応が期待されます。番号で呼ぶときは「5番」です。

 上記のように、バスケットボールもベースボールに負けず劣らず「分業」が確立された高度な団体競技です。

 アメリカンフットボールの役割分担について述べようとすると大部になりますので、別稿に譲ることとしますが、アメリカンフットボールは、ベースボール・バスケットボール以上に分業化されています。
 特にアメリカンフットボールの特徴として挙げておきたいのは「自らを犠牲にして、味方プレーヤーのプレーを助ける」役割・プレーがとても多い点です。

 例えば、ボールを受けたランニングバックRBが走って前進する際に、相手チームのプレーヤーがこの前進を止めようとタックルに来るわけですが、この相手チームのプレーヤーを弾き飛ばすために、ボールを持っているRBの前を味方プレーヤーがガードするプレーは、その典型です。
 こうしたプレーは、サッカーやラグビーでは反則ですが、アメリカンフットボールでは正当なプレーとなっていますし、アメリカンフットボールの最大の特徴のひとつです。こうしたサポートプレーに対しては、ファンもスポーツ報道機関も高く評価します。ある意味では、スクリメイジライン上のプレーや、タックル・ガードのプレーなど、アメリカンフットボールのプレーの大半が、自己犠牲型サポートプレーの組合せで成り立っているようにも思います。

 一方、我が国起源のスポーツを観てみましょう。頭書した、柔道・相撲・剣道を始めとして、弓道・空手などいずれも個人競技ですし、いわゆる武道の流れをくむスポーツが多いと思います。ダブルスという形式も無い、純粋な個人競技が多いことが特徴です。

 我が国起源のスポーツにも団体戦がある、という意見もあると思いますが、これは団体戦であって、団体競技ではないように思います。
 もちろん、柔道や剣道の団体戦は、先鋒・次鋒・中堅・副将・大将といったポジションが与えられ、それぞれの役割も異なるのですが、個々の試合は個人戦ですし、「分業度合い」は小さいと思います。前述のベースボールやバスケットボールといった、アメリカ起源のスポーツにおける「団体競技」とは、別のものでしょう。

 これは、フェンシングやアーチェリーといった競技の団体戦にもいえることで、先のロンドンオリンピックの競技を観ても、個人戦の成績の積み上げが団体戦の成績に繋がるのであって、チームの3人が異なる役割を負担して一緒に戦うという「団体競技」ではありません。

 陸上競技の競走や水泳競技の競泳におけるリレーはどうでしょうか。
 短距離競走における400mリレーの場合には、クラウチングスタートからコーナーを走る第一走者と、バトンを受けて直線を走りバトンを次の走者に渡す第二走者、バトンを受けてコーナーを走りバトンを次の走者に渡す第三走者、バトンを受けて直線を走りゴールする(バトンを渡す作業が無い)第四走者・アンカー、はそれぞれ役割が異なりますので、分業されていると観ることもできます。
 水泳のメドレーリレーであれば、それぞれの泳者が異なった泳法で泳ぎますので、分業されていると観ることもできます。
 
 一方で、短距離競走における1600mリレーは、各走者が400mトラックを1周しますので分業度合いは小さいと思いますし、水泳のメドレーリレーではないリレー競技であれば、大半の泳者がクロール泳法で泳ぎますので、分業度合いが小さいと思います。

 とはいえ、400mリレー競走やメドレーリレー競泳についても、ベースボールやバスケットボールに比べると、分業度合いはとても小さいので、団体戦であって団体競技ではないと考えた方が良いと思います。

 では、ダブルス競技はどうでしょうか。テニスや卓球に存在する競技形態としてのダブルスです。これは、テニスにしても卓球にしても、2人のプレーヤーの役割分担が存在していますので「団体競技」であると思います。ただし、ベースボールやバスケットボールに比べると、分業度合いは小さいと思います。

 何故、アメリカでは団体競技が生まれ、日本では個人競技が生まれたのか、については、多くの分析を要しますし、地理的条件、民族性、文化といった話にまで入り込むことになりますので、ここでは深くは追及しません。
 
 我が国起源のスポーツは、前述の通り「武道の流れをくむ」競技が多いので、どちらかというと「個人の修練のための競技」といった趣が強いのではないかと思います。また、その精神性の高さが、柔道や剣道を世界的なスポーツに引き上げている要素であるとも思います。

 一方で、アメリカ起源のスポーツは「みんなで楽しむ」ことを主目的として生まれ、発達してきたのでしょう。基本的にアミューズメント・エンターテイメントとしてのスポーツなのです。

 アメリカでは、団体競技が生まれ、MLB、NFL、NBA、NHLの4大プロスポーツを筆頭として、全国で花盛りです。団体でプレーするのは、プレーヤーだけではありません。観客も、例えばMLBポストシーズンゲームにおける、観客全員が同じタオルを振っての応援は、4万人以上の観客が同時に行う動きですので、大変な迫力ですし、観客全員がとても楽しそうに見えます。「見事な団体プレー」です。エンゼルスのラリーモンキーなど、チーム毎に特徴ある団体応援を繰り広げているわけです。
 NBAでも、ゴール裏の観客のフリースローを投げにくくするための動きは、どのホールでも見られることです。NBAの観客も、団体プレーを積極的に展開します。

 こうした行動を見ると、アメリカの人達は、プレーヤーとしても観客としても団体スポーツが大好きであると判断できます。個人主義の国といわれるアメリカですが、スポーツを見る限り、団体プレーの国であることは間違いありません。

 大相撲11月場所は、11日から始まります。新横綱日馬富士が横綱として、どのような取り口をみせるのか、注目です。
 さて、場所前の恒例として、今場所活躍しそうな力士を考えてみます。

1. 基準とする考え方
① 横綱・大関との対戦の有無→去る9月場所は、3大関が早々に休場しましたので、いつもの場所とは異なる形になりました。前頭8枚目の隠岐の海、同9枚目の高安、同11枚目の旭天鵬まで大関戦が組まれましたので、あまり参考になりませんが、前頭東4枚目で横綱・大関戦3取組、西4枚目で同1取組でしたので、今場所は前頭4枚目までは横綱・大関戦有り、5枚目以下は無しとします。
② 番付が大きく下がった力士は戦いやすく、大きく上がった力士、特に①のラインを越えて上がった力士は、中々勝ち星を積み上げにくいことになります。

2. 優勝争い
 先場所と同様に、白鵬と日馬富士の優勝争いとみるのが妥当でしょう。
 横綱白鵬は、2場所連続で優勝を逃したとはいえ、いずれも準優勝で、千秋楽まで優勝争いをしていますから、安定感は抜群です。
 一方、新横綱日馬富士は、2場所連続全勝優勝の後も元気いっぱい。稽古場での良い動きが報じられています。とはいえ、横綱就位に関する沢山の行事への参加の負担を考えれば、先場所に比べて稽古不足はいたしかたないところ。両横綱の比較では、今場所は、やや白鵬に分があると考えます。
 但し、このところ優勝を逃している白鵬と新横綱日馬富士ですので、両横綱以外から優勝力士が出る可能性は、先場所より高いと思います。

3. 大関陣
 大関陣の中で最も期待できる力士を観てみましょう。先場所休場した3大関の回復状況についての詳細な情報はありませんので、休場しなかった稀勢の里と鶴竜を候補とします。大関の地位にようやく慣れてきて、先場所11勝を挙げた鶴竜に安定感を感じますが、日本人力士を代表する稀勢の里の気迫も楽しみです。
 難しいところですが、昨年大関昇進を決めたゲンの良い11月場所ということで、稀勢の里に期待したいと思います。日本人横綱誕生への足掛かりとなる準優勝レベルの活躍が望まれます。
 
4. 好成績が期待できる力士
・妙義龍
 先場所は、初の関脇で少し家賃が高いかなと思いましたが、堂々の10勝。このところの安定感と技能の高さは、次代のエースという感じです。故障なく取れれば、引き続き好成績が期待できます。
・豊ノ島 
 3場所連続の負け越しで、前頭6枚目まで下がりました。最近の取り口は重心が高く、得意の粘り強い取り口が展開できないでいますが、地力は三役クラス。ライバルの豪栄道や栃煌山が三役・上位で頑張っています。横綱・大関戦の無い番付ですから、久しぶりの大勝に期待しています。
・臥牙丸
 先場所は、前頭二枚目で4勝11敗。上位の壁に跳ね返された形です。横綱・大関戦は、2勝(1不戦勝)5敗。今場所は、横綱・大関戦が無い7枚目まで下がりました。7月場所・7枚目で10勝5敗、1月場所・10枚目で12勝3敗でしたから、活躍が期待できます。
・常幸龍
 史上最短の9場所で幕内に上がった、佐久間山あらため常幸龍。その新人離れした取り口は迫力十分です。幕内下位で対戦が予想される力士は、十両で取組経験がある相手が多いので、土俵上で怯むことなく戦えるでしょう。昇り龍の勢いに期待します。

5. 好成績の可能性がある力士
・高安
 先場所は前頭9枚目で10勝5敗の好成績。4枚目に上がりました。横綱・大関戦が組まれると思いますが、実は先場所も大関日馬富士との取組が組まれた上での成績でした。伸び盛りの勢いに期待します。
・安美錦
 先場所は前頭4枚目で10勝 5敗の好成績。小結に上がりました。先場所は3人の横綱・大関との取組で、稀勢の里に勝ち、白鵬・鶴竜に敗れて1勝2敗。今場所は全7人との取組が組まれると思いますが、横綱・大関と互角にやれるのが安美錦の良いところ。ケガから回復途上の大関が相手であれば、白星の積み上げも期待できます。
・栃煌山
 先場所は前頭5枚目で9勝6敗の好成績。前頭筆頭に上がりました。栃煌山は、三役に上がると大敗し、大きく番付を下げて、前頭の中下位で大勝ちして上がる、を繰り返しています。
 とはいえ、同じような時期に幕内に上がってきた安馬(日馬富士)が横綱になりましたので、そろそろこの繰り返しからの脱却が望まれます。元来器用なため、前さばきで相撲を取ろうとしますが、その際に腰が引けているので、一気に押されてしまうパターンで負けてしまいます。もろ差しから押し込んだ時の強さを観ると「前に出ながら前さばきの良さを発揮」出来るようになれば、もっと勝てるように思います。
・旭天鵬
 先場所は、前頭11枚目で10勝5敗の好成績。それも9連勝の後、10日目に大関鶴竜との取組を組まれての好成績ですから立派なもの。今場所は前頭6枚目に上がりましたが、原則として横綱・大関との取組は無い地位であること、5月場所で優勝した時が前頭7枚目であったこと、そして元気いっぱいで年齢からくる衰えが見えないことから、好成績を期待します。

 先場所小結から、今場所前頭5枚目に下がった碧山や同13枚目に下がった若荒雄も気になりますが、広げるとキリが無いので、今場所は上記の10人に期待したいと思います。

 以上、筆者の勝手な見方で恐縮です。
 久しぶりに東西に横綱が揃った場所です。先場所休場の三大関復活の場所でもあります。そして、優勝争いに意外な展開があるかもしれません。
 1970年から始まったビクトリアカップが、1975年のイギリスのエリザベス女王来日に伴い、翌1976年からエリザベス女王杯に改称されたのは、以前の本ブログでも採り上げています。その通りなのですが、不思議なことは開催回数が通算されていないことです。

 通常、レース名が改称された場合には開催回数は通算されます。例えば、帝室御賞典→天皇賞の場合にも通算されていますし、先週開催されたアルゼンチン共和国杯も、アルゼンチンジョッキークラブカップから改称されたレースですが、開催回数は通算されています。他にも、多くの重賞レースで改称と開催回数の通算が行われています。

 エリザベス女王杯のように改称されながら開催回数が通算されていないレースは、他にもあるようですが、珍しいことは間違いありません。中央競馬会が「ビクトリアカップの廃止」と「エリザベス女王杯の新設」という扱いにした理由があるものと思いますが、どういう理由だったのでしょうか。

 結果として1976年を第一回開催とするエリザベス女王杯は、京都競馬場の2400mコースで行われる3歳牝馬限定のレースでした。我が国の3歳牝馬三冠レースの最後のレースという位置付けだったのです。秋華賞の時も書きましたが、範としたイギリスには、牝馬限定の三冠目のクラシックレースは存在しませんので、我が国でもクラシックレースという位置付けではなく、いわゆる「牝馬三冠レース」の三つ目のレースでした。

 1976年~1995年の20回に渡り、この位置付けでレースが行われたのですが、私は「華やか」で「勝つのが難しい」レースであったという印象を持っています。「華やか」というのは、春の桜花賞・オークスの頃は、少女だった3歳牝馬が、秋の京都競馬場に登場する頃には、相当に大人になっているということで、成人式を迎えた直後のレースという感じがしました。
 「勝つのが難しい」というのは、京都の2400mコースは相当に力の要る馬場ですから、夏の間にしっかり成長しておかないと、春のスピードだけでは対応できないレースという印象だからです。春のクラシック路線の有力馬が、上がり馬の大駆けに屈することが珍しくないレースでした。

 1976年の第一回には、その年の桜花賞・オークスを快勝したテイタニアが、初の牝馬三冠を目指して出走してきましたが、ディアマンテの4着に敗れました。あのアローエクスプレスの代表産駒として、3歳春の牝馬路線を席巻したテイタニアの完敗は、とても記憶に残っていて「エリザベス女王杯はなかなかやっかいなレース」だと思いました。

 1996年に秋華賞が創設され牝馬三冠の最終レースに位置付けられるのと同時に、エリザベス女王杯は、3歳以上の牝馬限定レースとなり、距離も2200mに短縮されました。確かに、これ以前は4歳以上・古馬の牝馬は、牡馬と戦う大レースしか無かったので、この「新しいエリザベス女王杯」は、3歳馬・古馬が集まるNO.1牝馬決定戦G1として、面白いレースになったという印象でした。
 やんちゃ娘から大年増?まで、牝馬が一堂に会するG1レースというのは、初の取組でしたし、大変興味深いものでした。

 2006年の春には、牝馬古馬限定のヴィクトリアマイル競走G1が設立されましたので、牝馬古馬にとっては、春秋に各1回ずつ牝馬限定G1に出走する機会が出来た形です。距離も異なりますので、とても面白いレース体系になったと思います。

 1996年からの新しいエリザベス女王杯は、1999年から国際競走となり、2010年・2011年と2年連続でイギリス馬スノーフェアリーが連覇しました。一層、国際的でハイレベルなレースになったという感じです。

 こうした歴史を持つエリザベス女王杯ですので優勝馬も様々ですが、今回は3歳牝馬限定2400m時代の1988年の勝ち馬ミヤマポピーと1989年の勝ち馬サンドピアリスを採り上げたいと思います。

 ミヤマポピー号は、父カブラヤオー・母グリーンシャトー、生涯成績は14戦3勝。重賞勝ちは、エリザベス女王杯だけです。
 サンドピアリス号は、父ハイセイコー・母イエンライト、生涯成績は18戦3勝。重賞勝ちは、エリザベス女王杯だけです。

 ミヤマポピーは、3歳時2勝馬の段階で、当時のトライアルレース・ローズステークスG2に挑戦、4着となりエリザベス女王杯の出走権を得て、本番ではローズステークスの勝ち馬シヨノロマンにハナ差競り勝ちました。当然人気薄でしたので、正直に言ってゴールしてから、馬名を確認したことを憶えています。

 サンドピアリスは、3歳時ダート戦で2勝(さすがにサンドピアリス=砂の貴婦人)していましたが、芝コースには実績が無かったので、前年のミヤマポピー以上に人気が無く、20頭立ての20番人気でした。最後の直線で伸びてきたときには、2年連続で「この馬、何」と叫んだことを憶えています。単勝配当は43000円を超える超大穴。いまだに、G1レースの単勝高配当記録です。

 この両馬は、エリザベス女王杯に臨む段階で新馬戦と400万下の条件戦の2勝馬であったこと、人気薄で勝利したこと、エリザベス女王杯以降は勝ち星が無かったこと、など共通点がありますが、何と言ってもお父さんが内国産の有名馬だったというのが、最大の共通点だと思います。

 ミヤマポピーのお父さんは、カブラヤオー。1975年の皐月賞・日本ダービーを驚異的なペースで逃げ切った二冠馬です。三冠確実と言われましたが、夏時期に蹄鉄の打ちそこねで屈腱炎を発症、菊花賞を回避してしまいました。

 カブラヤオーは、父ファラモンド・母カブラヤという良血とは言い難い血統でしたので、蹄鉄処置の失敗などという理由で三冠が取れないようにされた、という噂さえ広がったほどの強豪馬でした。生涯成績は13戦11勝、日本競馬の最強馬を語る時、一部のファンから必ず候補に上がる馬です。特に、日本ダービーの前半のペースは凄まじく、あの異常な?ペースで逃げながら、勝ち切ったという点から「最強の日本ダービー馬」と言う競馬関係者も少なからずいます。私も、大好きな馬です。おそらく繁殖牝馬にも恵まれなかったであろうカブラヤオーの代表産駒がミヤマポピーなのです。

 ミヤマポピーは繁殖に入った後、重賞中京2歳ステークスの優勝馬ゼンノカルナックを出しています。ゼンノカルナックが子孫を残したのかどうかは、伝わっていません。カブラヤオーの直系の血筋は絶えてしまったのでしょうか。

 サンドピアリスのお父さんは、あのハイセイコー。説明不要の日本競馬史上最高の人気馬です。このハイセイコーの人気の凄まじさについては稿を改めますが、父チャイナロックの代表産駒として、種牡馬としても日本ダービー馬カツラノハイセイコを出すなど活躍しましたが、種牡馬生活後半の代表産駒がサンドピアリスです。
 サンドピアリスは繁殖牝馬としても、ダート重賞4勝のタマモストロングの母となるなど活躍し、その産駒の牝馬はハイセイコーの直系血筋を今に伝えています。

 ミヤマポピーとサンドピアリスは、繁殖牝馬として重賞勝ち馬を1頭出したという点でも、似ています。

 カブラヤオーとハイセイコーは、現役時代に何度もファンを唸らせる大活躍をしましたが、種牡馬になってからも、娘たちが2年連続でファンを唖然とさせる大仕事をやってのけました。
 日本の競馬を支えた2頭の血統は、大切に守られなければならないものだと思います。
 大相撲の通算優勝回数記録というと、大鵬が32回、千代の富士が31回という具合にいつも話題になります。念のため、年間6場所制になった1958年・昭和33年以降の歴代上位の記録を記述します。

1. 大鵬関 32回
2. 千代の富士関 31回
3. 朝青龍関 25回
4. 北の湖関 24回
5. 貴乃花関 22回
  白鵬関 22回 (現役)
7.輪島関 14回
8.武蔵丸関 12回
9.曙関 11回
10.北の富士関 10回

 この中で、優勝20回以上の横綱が、通常、大横綱と呼ばれています。

 上記、1~5までの引退した5名の大横綱ですが、30回を超えている大鵬と千代の富士を除くと、不思議な共通点があります。それは「優勝20回を超えると、優勝確率が急減する」というものです。

 例えば、貴乃花について観てみましょう。貴乃花は、18歳になった1992年に平幕と小結で計2回優勝してから、1998年までの7年間・42場所で20回の優勝を積み重ねました。貴乃花は1998年には24歳です。過去7年間で、5割近い優勝確率を実現していて、まだ24歳ですから、仮に30歳で引退するとしても、残り6年間・36場所で、例えば3場所に1回優勝するとして、12回は優勝できるのではないか。そうすると、通算32回となり、大鵬の記録に並ぶかもしれない、或いは追い抜くのではないか、と考えられました。
 しかし、実際には1998年20回目の優勝を果たして以降は、怪我にも悩まされ、2001年の2回の優勝に留まり、優勝回数合計は22回でした。

 北の湖はどうでしょう。北の湖は、20歳の1974年1月場所で関脇として初優勝して以来、1980年までの7年間・42場所で20回の優勝を積み重ねました。1980年の北の湖は27歳ですから、仮に30歳で引退するとしても残り3年間・18場所で、例えば3場所に1回優勝するとして、6回は優勝できるのではないか。ひょっとすると、トータル30回まで伸ばせるかもしれないと思いましたが、翌1981年以降は怪我にも悩まされ、4回の優勝に留まり、優勝回数合計は24回でした。

 朝青龍はどうでしょう。朝青龍は2002年11月場所に大関で初優勝して以来、2003年~2007年の5年間・30場所で20回の優勝を積み重ね、優勝回数を21回に伸ばしました。この時、朝青龍は27歳でした。過去5年間で7割近い確率で優勝してきたのですから、仮に30歳で引退するとしても残り3年間・18場所で、例えば2場所に1回優勝するとして、9回は優勝できるのではないか。ひょっとすると、トータル32回の大鵬の記録に並ぶところまで伸ばせるかもしれないと思いましたが、後輩横綱白鵬の成長もあり、2008年~2010年の優勝は4回に留まり、一連の事件の責任を取る形で2010年に引退に追い込まれました。優勝回数合計は25回でした。
 
 優勝20回というのは、前例を見ると少なくとも5年以上の歳月を要しますので、その間に他の力士の力量が向上し、相対的な優位性が低下することや、その間の故障の発生・悪化など、種々の要因が考えられますが、前述の3人の大横綱は、若くして横綱の地位に上り、連続優勝を重ね、大鵬の記録に迫るであろうといわれながら、優勝20回を超えたあたりから、急に優勝頻度が下がりました。
 偉大な大横綱の力量をもってしても、横綱という地位・責任の重さは、私たちが考える以上に負担が大きく、知らず知らずのうちに肉体的・精神的な疲労が蓄積するものなのかもしれません。

 とはいえ一方で、大鵬と千代の富士という、30回以上の優勝を誇る2人の大横綱も存在しますので、「優勝20回を超えると、優勝確率が急減する」という法則?は、必ずしも全ての大横綱に当てはまるものではないのでしょう。

 優勝20回を超える現役の大横綱・白鵬は、どうなのでしょう。2006年に初優勝し、2007年~2011年の5年間・30場所で20回の優勝を積み上げています。この間の優勝確率は、朝青龍に並ぶ7割近いものです。一方で今年2012年は、優勝1回に留まっています。
 現在27歳の白鵬が、この法則?を超えていけるのかどうか、11月場所がひとつの試金石となります。
 
 「ベースボール・野球の難しさ」シリーズ第二弾です。

 最初は「三振」についての検討です。

 打者全員を三球三振で打ち取った時の球数は、3球×27人=81球になります。0ボール2ストライクの場面で、ストライクを投げて打たれると罰金が付されるというルールを設定しているチームがあるような話も耳にしますので、各打者に1球だけボール球を投げるとすると、総投球数は81+27=108球になります。

 一方で、打者一人1球で打たせて取ると27球で1試合を投げ切ることが出来ます。どちらが、良い投球なのでしょう。

 良し悪しはともかくとして、効率的という点では「打たせて取るピッチング」の方が、間違いなく優れています。全ての打者を4球で三振に取り、完投シャットアウト、完全試合を実現したとしても、108球の球数を要しますから、100球ルールなら交替もあり得ることになります。(落合監督以外の監督なら、この場合には完投させると思いますが)

 「奪三振」は、球数が多くなり易いのです。ど真ん中に投げて空振りが取れるのなら良いのですが、ピッチングマシンの高度化もあってか、打者がバットに当てる能力は上がってきていますので、ストライクからボールになるコースに投げて、空振りあるいはファウルでカウントを稼ぐことになります。そうなると見送ればボールになりますから、2ボール2ストライク、3ボール2ストライクといったカウントになり易く、球数が増えていくことになります。

 従って、三振ばかりを狙う投手は、MLBでは、なかなか完投できない投手ということになってしまいます。球数が増えることは、投球イニング数が減ることに繋がるので、三振を狙うことはチームの勝利のために、必ずしも有効な手段とは言えないのかもしれません。

 「三振を取る」→「バットに当てさせない」投球は、非効率的な投球ということになります。しかし、普段の投手の練習は、バットに当てさせないことを主眼として行う場合が多いのではないでしょうか。

 もうひとつ「バットの芯を外す投球」があって、カットボールとかスライダーといった球種は、効果的なものとされています。これは打たせて取る投球の武器となりますが、打たせるということはヒットになる可能性もありますので、変化球のキレを磨かなければならないことになります。

 以上を考え合わせると、ベースボール・野球における良い投球とは
① 打たせて取ることを基本とする。
② カウントやランナーの状況によっては、三振が取れる。

 ことになります。当たり前のことを書いているようで申し訳ない感じがしますが、「打たせる」ということの重要性を良く認識すべきだと思います。

 一方で、「投手が投げて、打者が打つことから野球は始まる」と、ルールブックの最初に記載されています。打者が打つことが、野球という競技の基本であることが明記されているのです。先般の「ベースボール・野球のはじまり」稿にも記載しましたが、19世紀の野球創成期には、「打者が打つ」ことを実現するためのルール設定・変更が相次いで行われています。

 はじめは8ボールで打者は一塁に歩いたのですが、次第にボール球の許容数が減少し、最後には現在の4ボールになりました。「投手は打者が打てる所に投げなければならない」という思想が表れています。
 打てる範囲(真ん中付近)に投球されているのに、打者が打たない場合には「ストライク(打て)」と命令形でコールされるようになったのも、「打者が打つこと」を実現させようという意志が感じられます。

 こうした「ベースボール・野球の根本理念に反するプレー」が三振であるともいえます。極端に言えば「ベースボール・野球において三振はあってはならないもの」のようにも見えます。ところが、いつの時代からか「打者に打たせない」ために三振が取れる投手が、良い投手のひとつの要件とされるようになり、奪三振記録が投手にとって重要な記録のひとつになっていったのです。
 「試合に勝つため」には三振が有効であるという考え方がベースになっているのだろうと思いますが、頭書しましたように、総合的に見て三振が本当に有効な手段なのかどうかは、十分に検討する必要がありそうです。
 
 続いて「球種」についての検討です。

 マウンドからホームベースまでは18.44mですから、相当の球速のボールは直ぐに打者の手許に来てしまいますので、打者は早い段階でボールのコース・球種を見極め、打つ・打たない、どの打ち方を選択するか、等の判断をしなければなりません。本当に僅かな時間しかありませんから、事前の予想も含めて、この判断を間違えると打てないことになります。

 ゲームにおける実際のプレーでも、プロの打者がワンバウンドの投球を空振りすることは珍しいことではありません。それもベースの手前1m位の位置でワンバウンドしているボールを空振りしたりします。素人である私達観客は「何であんなボールを振るんだ」と思いますが、前述の理屈からいえば何の不思議もないことになります。

 こうした投手と打者との関係からすると、投手は「投球するボールに対する打者の予想」を外せば、打ち取れる可能性が高くなると考えがちです。この考え方から「沢山の球種を投げられる方が有利」という考え方が導き出されます。

 しかし、実際の投球、投手の成績を見ると、球種が多い投手=好成績を挙げる投手には必ずしもなっていません。

 例えば、ヤンキースにマリアノ・リベラというクローザーが居ます。現在MLB最高のクローザーとされていて、通算603セーブはMLB記録です。リベラの球種は主に、カッター(カット・ファスト・ボール、カットボール、真っスラ)とストレートの2種類です。この2種類で、1996年~2011年までの15年間、その内の14年間はMLB屈指のクローザーのとして活躍してきているのです。

 また、日本人メジャーリーガーのパイオニア的存在である野茂秀雄は、フォークボールとストレートの2つの球種で日本プロ野球での5年間およびMLBでの12年間・計17年間活躍しました。もちろん、野茂投手もリベラ投手も、他の球種を全く投げない訳ではありませんが、概ね2種類の球種で、一流投手のポジションを維持してきたのです。

 これは「打者の次のボールについての予想を外す」という考え方ではなく、「判っていても打てない・芯に当てさせないボールを投げる」という考え方になります。

 リベラ投手や野茂投手と違って、7色の変化球とか十種類のボールを操る、ことを自らの武器とし、長所と考えている投手もいますが、リベラや野茂に匹敵するような成績を上げているプレーヤーは少ないというか、いないように思います。

 いくら沢山の球種を持っていても、投球したボールは本塁ベース上やその近辺を必ず通過するので、変化が小さかったり、遅かったりすれば打たれるのでしょう。やはり、判っていても打ちにくい、キレの良いボールを極める方が、ベースボール・野球で勝つためには有効なようです。

 投手を志すプレーヤーは、沢山の種類のボールを憶えるよりも、自らが得意とするボールを磨き上げ、必要ならば当該球種の中でバリエーションを広げていく(2種類のスライダーとかカーブといった形)方が、打者から見て「打ちにくい投手」になる近道であるという考え方が、あっても良いように思います。

 尚、最初の「三振」の項目についていえば、既にベースボール・野球のシーンにおいて、「三振というプレー」が相当のポジションを確保していますから、「三振の無いゲーム」は、観客にとって不満足・物足りないものになってしまうかもしれません。その点では、ベースボール・野球も時代と共に変化してきているのかもしれません。

 今回もおかしなこと?を書き、恐縮です。次回は「練習編」を採り上げたいと思っています。
 「エドソン・アランチェス・ドゥ・ナシメント」、サッカーの王様ペレの本名です。「ペレ」は愛称ですが、おそらく過去50年間の世界中の全てのスポーツ選手の中で最も有名なプレーヤーであり、スポーツ以外の政治・経済・文化・芸術他の全ての分野を含めても、最も知られた人物であろうと思います。

 ペレは、1940年にブラジルに生まれました。父親もプロのサッカープレーヤーでしたが、故障で早々に引退、幼いペレも靴磨きなどで家計を助けたそうです。母親は、ペレにサッカー選手といった不安定な職業にはついて欲しくないと考え、ペレへの教育も行いましたし、ペレ自身も飛行機の操縦士を目指した時期がありました。しかし、やはりサッカーへの憧れは捨てがたかったようで、母親の目を盗んで父親からサッカーを学んだそうです。

 1956年16歳でサッカーチーム・サントスFCに入団しました。そして1974年まで18年間、サントスFCでプレーしています。
 ペレを語る時、その特徴の第一として挙げられるのが、現役時代のほとんどをひとつのクラブで過ごしたということです。一流のプロサッカープレーヤーであれば、ビッグクラブを渡り歩きながら、自らの処遇を上げていくのは自然なことで、世界中のトッププレーヤーが実践していることですが、世界最高のサッカープレーヤーといわれるペレは、ブラジル・サントスFCを動いていません。(プレーヤーとしての晩年1975年~1977年にアメリカ合衆国のニューヨーク・コスモスに所属したのが唯一の例外です)

 当然ながら、ペレには欧州のビッグクラブから獲得のオファーが殺到しています。ブラジル代表の同僚、例えばジジはレアル・マドリード、ジノ・サニはACミランといったように、欧州のビッグクラブでプレーしていましたが、ペレはブラジルを離れませんでした。ブラジル政府が「ペレは国宝であり、輸出対象外である」としたとか、サントスFCが多額の報酬を用意したといった動きもありましたが、何より本人がサントスFCでプレーすることを選んだのです。
 ペレというプレーヤーが、その長い全盛期にブラジルを本拠地としたことが、ペレが比類のない存在になりえた、大きな理由のひとつだと思います。

 ペレを語る時、その特徴の第二として挙げられる事実であり、世界最高のサッカープレーヤーと呼ばれる最大の理由は、FIFAワールドカップでの活躍です。ペレは、1958年スウェーデン大会・1962年チリ大会・1966年イングランド大会・1970年メキシコ大会の4つのワールドカップに出場し、3回優勝しています。そもそも、ワールドカップ最多優勝国はブラジルで、5回の優勝です。その5回の優勝の内、3回の優勝に、ペレはプレーヤーとして関係したのです。これは、単純に回数だけでも比類のない記録です。

 例えば、アルゼンチンにディエゴ・マラドーナというスーパースターが居ます。マラドーナは、1980年代の世界サッカーをリードした存在で、世界サッカー史上に残る名プレーヤーです。このマラドーナも4回のワールドカップに出場していますが、優勝は1986年メキシコ大会の1回です。
 西ドイツ(現ドイツ)のフランツ・ベッケンバウアーも、世界最高のサッカープレーヤーの候補に常に挙がるプレーヤーです。ベッケンバウアーはワールドカップに3回出場し、優勝は1974年の地元西ドイツ大会の1回です。
 フランスのジネディーヌ・ジダンも、20世紀から21世紀にかけて活躍したスター選手ですが、ワールドカップには3回出場、優勝は1998年地元フランス大会の1回です。
 ワールドカップの得点記録を持つ、ブラジルのロナウドはワールドカップに3回出場し、優勝は2002年の日韓大会の1回です。

 オランダのヨハン・クライフやフランスのミシェル・プラティニ、あるいは現在のトッププレーヤーであるアルゼンチンのリオネル・メッシやポルトガルのクリスティアーノ・ロナウドといったスーパースター達は、ワールドカップでは1回も優勝していません。

 FIFAワールドカップという大会は、其々のプレーヤーにとって「一度は優勝したい大会」であることが分かりますし、「一度優勝することだけでも、とても難しい大会」であることが分かります。

 前述のマラドーナを始めとするスーパースター達について、どうこういうつもりは全くありません。どのプレーヤーも世界のサッカー史を彩っている最高のプレーヤー達です。ここで述べたいのは、3回優勝しているペレのワールドカップにおける実績は、他の全てのプレーヤーを圧倒しているという事実です。

 ペレが初めてワールドカップに出場したのは1958年のスウェーデン大会、ペレが17歳の時でした。16歳でサントスFCに入団しプロのプレーヤーになって直ぐに、2年連続でサンパウロ州選手権得点王に輝いたことが、若年での出場に結び付いたのでしょう。この大会でも、ペレは6得点を上げ、ブラジルチームの優勝に貢献しました。これがブラジル代表チームにとって、初のワールドカップ優勝でした。

 特に、決勝のスウェーデン戦55分の浮き球からのボレーシュートは素晴らしく、今でもワールドカップのベストゴールのひとつとして、時折テレビ映像で紹介されます。白黒画面に、痩せていて華奢な若き日のペレのシュートは、是非ご覧いただきたいゴールシーンです。
 
 この大会で、ブラジル代表チームとペレは2つの後世に残る記録・事象を生み出しています。

① 欧州地域の大会で、南米チームが優勝したこと。
FIFAワールドカップは、欧州地域での大会では欧州の国が、南北米州地域での大会では南米の国が、一つの例外を除いて必ず優勝しています。その唯一の例外がスウェーデン大会のブラジルの優勝です。
② この大会でペレが付けた背番号10番が、この後、各チームのエースが付ける背番号となったこと。
後で報じられたところでは、この大会のブラジルチームの背番号はクジ引きで決められたそうですので、ペレが10番をつけたのは偶然ということになります。にも拘わらず、10番がエースの背番号になったということは、この大会におけるペレの活躍が、いかに印象的であったかということを示しています。

 続いてペレは、1962年のチリ大会に出場します。この大会のペレは、一次リーグの初戦で1得点1アシストと好スタートを切りましたが、続く2戦目に負傷し、その後のゲームには出ていません。ブラジルチームはしかし、世界屈指のウイングプレーヤーであったガリンシャらの活躍で2連覇を遂げました。

 続いてペレは、1966年のイングランド大会に出場します。この大会では、25歳になり、既に並ぶもの無き世界的プレーヤーに成長したペレに対して、各チームが執拗なマークを展開し、ペレが負傷するとともに、ブラジルは敗退しました。

 ペレの最後のワールドカップ出場は、1970年のメキシコ大会でした。この大会でペレは4得点しか上げていませんが、ゲームメーカーとしてジャイルジーニョやカルロス・アルベルトの得点をアシストする活躍をみせました。スウェーデン大会の時に比べると、胸板も厚くなり、全身に筋肉の鎧を付けた大人のペレでした。この当時でも身長は171㎝しかなかったのですが、ヘディングの高さでも優位にあり、タックルをされても全く動じない、驚くべきプレーを連発していました。

 私は時間があると、この大会の決勝戦・ブラジル対イタリアのゲームの録画を見ます。メキシコシティーという高地でもあり、運動量は少ないのですが、ジャイルジーニョ、トスタン、リベリーノ、ジェルソンといった素晴らしいプレーヤーが縦横に動き回り、その中心にペレが居る、豪華絢爛なチームでした。おそらく世界歴代でも最強のチームのひとつでしょう。
 試合は4対1で、ブラジルが勝ったのですが、1失点がブラジルバックス陣のパスミスからの失点であったり、リベリーノが景気よく?シュートを何本も吹かしたりしていましたので、試合内容はブラジルの圧勝であったと思います。
 
 この優勝でブラジルチームは、世界で初めてFIFAワールドカップ3回目の優勝を成し遂げ、3回優勝したら取り切りのルールであった、一代目の黄金の優勝カップ「ジュール・リメ杯」を獲得しました。(後に盗難にあい、現在行方不明です)
 第二次世界大戦前1938年までに、既にワールドカップに2回ずつ優勝していたウルグアイとイタリアを一気に抜き去り、ジュール・リメ杯を取り切ったブラジルにとっては、ペレの活躍が原動力となったことは間違いありません。

 ペレの時代は、ブラジル代表チームにとって最初の黄金時代でしたが、ペレが去った後、再びブラジル代表がワールドカップに優勝するのは24年後、1994年アメリカ大会を待たねばなりませんでした。

 ペレには、伝説が沢山ありますが、いくつか紹介しましょう。

・20年程前に、元サッカー日本代表監督だった方にお話を伺う機会がありました。「ペレはパスポートが要らない、世界中どこでも彼を知らない人は居ないから。連絡しないで、どの国に行っても、空港に車が待っていて、護衛の白バイが複数付く。彼の動きは、逐次FIFAが把握しているから」とおっしゃっていました。
・1970年代の欧州におけるブランド調査で、1位がコカコーラ、2位がペレでした。
・イングランド最強のプレーヤーにして、1966年イングランド大会優勝の立役者でもあったボビーチャールトンの言葉「時々、サッカーというのは彼(ペレ)のために創造されたものではないかと考えることがある」
・現代のトータルフットボールの元祖にして空飛ぶオランダ人といわれた名プレーヤー、ヨハン・クライフの言葉「ペレは論理の限界を超えている唯一のプレーヤーだ」
・面談の席でロナルド・レーガン米国大統領から「自己紹介の必要はありません。あなたのことを知らない人などいませんから」

 まだまだ、他にも伝説は沢山ありますが、これぐらいにしましょう。

 ペレは、その22年間の現役生活の中で、1363試合に出場し1281得点を挙げています。1281得点は、空前絶後の記録です。(西ドイツのボンバーといわれた得点王ゲルト・ミュラーが504得点、マラドーナが334点です)このほかにも、ペレの記録を挙げていくと、きりがありません。

 ペレが活躍した1950年代後半から1970年代中盤の時代は、近代サッカーが世界的な繁栄に向かう時代そのものです。時代がペレを待っていたし、ペレが時代を造って行ったのでしょう。

 ペレは、ブラジル南東部の町トレス・コラソンエスで生まれましたが、その頃町には初めて電気が通りました。そこで、両親は発明王エジソンにちなんで、その子を「エドソン」と名付けました。
 その子は長じて、発明王エジソンに負けない「サッカーの王様」になりました。

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