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 今年2012年はオリンピックイヤーでした。7月27日から8月12日にかけて、イギリスのロンドンで、第30回夏季オリンピックが開催されたのです。本「スポーツを考えるKaZ」ブログは、このオリンピック終了後の8月19日から始まりました。本来なら、オリンピック競技は、本ブログのテーマが山盛りだった訳ですが、リアルタイムにオリンピックについて考えるのは、次回の2016年ブラジル・リオデジャネイロ・オリンピックを待つことになります。
 本稿では、2012年ロンドン・オリンピックの競技の中から、女子レスリング競技について振り返ってみたいと思います。

 ロンドン・オリンピックの女子レスリング競技フリースタイルは、従来と同じ48㎏、55㎏、63㎏、72㎏の4つのクラスで争われました。
 そして、48㎏級では小原日登美選手、55㎏級では吉田沙保里選手が、63㎏級では伊調馨選手が、見事に金メダルを獲得しました。今大会の日本代表チーム全体の金メダル獲得数は7個でしたので、その内の3個を女子レスリング競技で獲得したことになります。男子レスリング競技66㎏級の米満達弘選手の金メダルを含めると、レスリングチームは4個の金メダルを獲得したことになります。
 金メダルの過半はレスリング競技で獲得したことになりますので、レスリングは日本の得意競技ということになります。素晴らしい活躍でした。

 48㎏級の小原選手の金メダルは泣けました。旧姓坂本日登美時代から、世界選手権の51㎏級で6回の優勝を誇る名プレーヤーでしたが、オリンピックには51㎏級が無く、オリンピックの55㎏級には、あの吉田沙保里選手が君臨し、一方の48㎏級には、妹の坂本真喜子選手が居たために、姉妹で同じクラスで戦うことを避けたことから、結果としてオリンピック出場には無縁でした。
 妹さんの引退に伴って、48㎏級で競技生活を再開した小原選手は、世界選手権で2回の優勝を積み上げ、31歳となった今オリンピックに初出場したのです。そして、堅実に勝ち上がり決勝に臨みました。決勝の第一ピリオドは、0-4でアゼルバイジャンのスタドニク選手に先取されましたが、その第一ピリオドの終盤、スタドニク選手はリングに正座したまま暫く立ち上がりませんでした。「疲れているな」と思いました。
 小原選手は、続く2つのピリオドを危なげなく連取し、逆転勝ち。見事に金メダルを獲得しました。スタミナも勝負の大事な要素です。23歳のスタドニク選手の様子をキチンと把握しながら、31歳の小原選手がスタミナ勝ちしたのです。
 世界選手権8回の優勝を積み上げながら、ついに手にしたオリンピックの金メダル。小原選手は、人目を憚らず泣いていました。こちらも、もらい泣きをしてしまいました。とても良い試合だったと思います。

 55㎏級の吉田沙保里選手と63㎏級の伊調馨選手は、これはもう盤石の勝利でした。共にオリンピック三連覇の偉業を成し遂げたのです。そして、共に笑顔の金メダルでした。

 競技日程の関係から、最初に三連覇したのは伊調選手でした。左足首を故障していたと聞いていますが、試合ぶりは冷静そのもの。その攻守のバランスの良さと緩急の使い分けは見事。「強い」の一語でした。オリンピックの決勝という、世界最高レベルの試合において、どうしてこんなに鮮やかにタックルが決まるのか、不思議なほどの一方的な試合でした。吉田沙保里選手の陰に隠れている感じですが、負けた姿が記憶にないという点では、伊調選手の方が安定しているとさえ言えると思います。本当に凄い選手です。

 吉田沙保里選手も「負けない試合」を続けました。特に、そのスピードは素晴らしいもので「速い」の一語でした。必殺のタックルを研究されつくしていたために、そのタックルを返されることがあることから、近時は時折苦戦していました。今大会でも、相手選手は、吉田選手のタックルを待っていました。しかし、よく考えてみれば、相手選手は「吉田選手のタックルを待つしかない」ということが、吉田選手の絶対的な強さを示しているのでしょう。共に攻め合えば、吉田選手の方が圧倒的に強いということです。もの凄い選手です。

 この3人の女子選手に共通して観られたのは、コンディションの良さでした。キッチリと調子をピークに持って行っていたと思います。そして、この3人のコーチも共通しています。栄和人コーチです。
 格闘競技で、同一オリンピック大会の3人の金メダリストのコーチが同一人物というのは、珍しいことだと思いますし、正に偉業です。

 栄和人コーチは、鹿児島商工高校から日本体育大学に進み、現在は至学館大学レスリング部監督で、全日本女子レスリングヘッドコーチです。自身も世界選手権フリースタイル62㎏級の銅メダリストでしたが、その真価はコーチに就任してから現出しました。
 全日本のヘッドコーチに就任した2004年以降、日本女子レスリングの栄光のシーンには、必ずと言っていいほど栄コーチの姿がありました。吉田選手が、栄コーチを肩車して運ぶシーンなどは、何か世界大会の名物?のようでした。

 そのコーチングの神髄については、私は知り得る立場にありませんが、前述の3選手の今大会のプレー振りを見る限り、コンディショニング、肉体面・精神面の充実に大きく寄与していたと感じられますし、特に吉田選手の今大会の「構えの美しさ」や重心の安定感に表れているように「基本の徹底と実践」が大きな特徴の様に思います。
 言うは易く行うは難い、基本の徹底ですが、栄和人コーチには、そのノウハウが詰まっているように思いました。賞賛しつくせない程に素晴らしいコーチだと思います。日本の宝でしょう。

 オリンピック決勝に勝利した吉田沙保里選手が観客の大歓声に両手を挙げて応えた後、栄コーチをヘッドロックから投げ飛ばしました。その投げのスピードと美しさには、目を見張るものがあり、レスリングの魅力そのものでしたが、投げられた栄コーチの受け身もなかなか見事でした。
 そして何よりも、選手とコーチのこうした関係が、金メダル獲得の源泉なのだと感じました。


 今年8月19日に書き始めた「スポーツを考える KaZ」ブログは、本編を本年最後の稿にします。お付き合いいただき、本当にありがとうございました。

 更新が遅れたり、書きたかったが書けなかったテーマがいくつもあったことが残念でしたが、何とか2012年を乗り切ることが出来ました。

 明年も、様々なスポーツシーンを採り上げていきたいと思いますので、よろしくお願いいたします。良い新年をお迎えください。

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 松井秀喜選手は、野手でしたので、プレーの中心は「打撃」と「守備」になります。特に、打撃面の活躍が際立っていました。本稿では、MLB時代の松井選手の打撃面の活躍の中で、私の記憶に残っているシーンを記載します。

① ヤンキースタジアム・デビュー戦
 2003年3月31日のトロント・ブルージェイス戦でMLBデビューを果たし、初打席・初安打・初打点を記録した松井が、本拠地ヤンキースタジアムの初戦を迎えたのは4月8日のミネソタ・ツインズ戦でした。
 この試合で松井選手は、満塁ホームランを放ちます。MLBで通算175本のホームランを記録している松井ですが、私が最も印象に残っているのは、このホームランです。カウント3-2から、相手投手ジョー・メイズが投じた、真ん中から少しインコース気味の変化球でした。松井はこれを払うように打ち、打球は右中間スタンド中段に飛び込みました。滞空時間の長いホームランでした。
 この時のヤンキースタジアムの興奮・歓声は凄まじく、日本から来た強打者への評価を決め兼ねていたであろうヤンキースファンの気持ちを、文字通り一発で掴みました。ヤンキースファンの喜びようは尋常ではないレベルでした。

 松井選手がベンチに帰ってからも歓声は鳴りやまず、松井は少しベンチの前に出て、観客席に向かいヘルメットを取り、歓声に応えました。松井がヘルメットを取った瞬間、歓声は一段と強くなりました。素晴らしいシーンでしたし、日本国内の多少の批判の中でメジャーを目指した、松井選手の挑戦が成功であったことを示した瞬間でもありました。私は、この一発だけでも松井がMLBに挑戦してよかったと感じました。それ位、強烈なインパクトを与えたホームランであったと思います。
 何年プレーしても、記憶に残るプレーをすることは容易なことではありません。あのホームランシーンは、おそらく一生私の記憶に残ることでしょう。

 インコースよりの変化球を払うように打ってホームランにするシーンは、この後も時々観られましたので、このうち方は松井選手の得意な打ち方だったのだろうと思います。この打ち方の特徴は、バットスピードの速さだと思います。球を引き付けるだけ引き付けて、もの凄いスピードでバットをくるりと振るのです。真ん中や、ややアウトコースよりのストレートボールを捉えるときの打ち方とは違って、バットが体の近くを動いている感じで、腕も伸びきってはいない様子です。もともとバットスピードの速さでは定評がある松井選手ですが、この打ち方の時は、スイングの始動から完了までが速過ぎて、よく観えないケースが多く、スローモーションでようやく確認できるという感じでした。

 基本的には「ライナー打者」であった松井選手ですが、この打ち方の時は上手くボールにバックスピンをかけて、運んでいるように思いました。アークが大きくは無いように観えるスイングですが、ボールが良く伸びます。とても上手い打ち方だと思いますし、実は最も得意な打ち方だったのではないかと思っています。

 松井選手は、この年のMLBオールスター戦にファン投票で選出されています。前述のデビュー直後の活躍はありましたが、その後はメジャー特有のムービングボールに苦しみ、あまり成績が上がらなかった状況下での選出でした。もちろん、日本のファンからの大量得票があったことは、松井選手が日本人プレーヤーなのですから当然のこと(このことを批判する論評もありましたが、当たり前のことを批判するのは、批判のための批判に過ぎず、ひねくれた見方です)ですが、日本のファンに強烈な印象と感動を与え、一層の応援を生んだのも、この一本のホームランであったと思います。

② 2007年7月の活躍
 松井選手がMLBプレーヤー時代に最も良い成績を残したのは、2007年の7月でした。この月28試合に出場して、打率.345、13本塁打、28打点、長打率.735、OPS1.145、得点31の驚異的な活躍。恐るべき数字を残し、7月の月間MVPに選ばれました。
 この年の松井のホームラン数は全部で25本でしたので、7月1か月間で過半を放ったことになります。この月は、テレビ放送される試合で必ずホームランを打つ感じで、イメージとしては毎打席長打を放っていました。
 この頃は、ヤンキース同僚で、当時メジャー最高のホームランバッターであったアレックス・ロドリゲスも全盛期を迎えていて、絶好調でしたから、松井とAロッド(アレックス・ロドリゲスの略称)が、競うようにホームランを打っていました。おそらくAロッドも、この7月に14~15本のホームランを打ったと記憶していますが、そのAロッドが、松井がホームランを打つ度に、ベンチの中で呆れたように首を横に振っていたシーンが記憶に残っています。
 この時の松井選手を、リアルタイムに観ることができたのは、私にとってとても幸せなことでした。

③ 2009年ワールドシリーズMVP
 これは、松井選手を語るときに、最大の活躍として取り上げられることが多い記録です。特に、このフィラデルフィア・フィリーズとのワールドシリーズ第6戦の6打点の活躍が素晴らしい。この日仕事であった私は、同僚とオフィス街を歩きながら、次の仕事まで少し時間がありましたので、近隣のスポーツ喫茶に入り画面を見つめました。5回の右中間2塁打の時でした。松井の打球をセンターフィールダーとライトフィールダーが必死に追いかけましたが、その真ん中を割った時には、店内のファンからも大歓声が沸き起こりました。

 このシリーズでの松井選手の活躍は、様々なところで採り上げられ、詳細に報じられていますので、ここでは多くを書きませんが、ポイントはペドロ・マルチネスを打ったことだと考えています。当時(今でも)、MLB屈指の大投手であったペドロ・マルチネスから、松井はこの第6戦の2回に2ランホームランを放っていますが、第2戦にも決勝本塁打を打っています。ストレートも速く、変化球のキレ・コントロールとも抜群のペドロを打ち崩すのは、どんな大打者にとっても容易なことではなかったのですが、松井は相性が良かったこともあるのでしょうか、再三のチャンスでタイムリーを放ちました。
 ペドロ・マルチネスも、松井の打席には、スピードボールで勝負したり、変化球で勝負したり、あるいはそれらをミックスしたりして、毎打席とても工夫して対戦していましたが、どうしても打たれてしまいますので、マウンド上で呆れた様子も観られました。

 フルタイムのDH指名打者として、相手チームのホームグラウンドでは打席に入る回数が激減する(DH制の無いルールなので、代打での出場機会しかない)にもかかわらずMVPを獲得したことは、本当に素晴らしいことです。

 以上、数多ある松井秀喜選手のバッターとしての活躍シーンの中で、私にとって最も印象的であったのは、この3つです。そして②と③は、2006年の手首骨折以降の活躍であったことも、賞賛に値すると思います。

 2009年ワールドシリーズ第6戦、松井選手の活躍でワールドシリーズ制覇が目前となったヤンキースタジアムの沢山のファンから、松井に対して「MVP!MVP!」の大コールが送られました。世界最高のベースボールのゲームにおいて、ファンから送られたこのコールこそ、野球人松井秀喜が受けた最高・最大の勲章であり、日本野球の誇りでもあると考えます。
 2012年12月28日、日本時間の今朝、MLBの日本人プレーヤー、松井秀喜選手が現役を引退する旨の記者会見を開きました。NPBで1993年から2002年までの10年間をプレーした後、2003年から2012年の10年間、MLBプレーヤーとして活躍してきた選手の引退ですので、寂しい気もしますが、沢山の素晴らしいプレーを魅せてくれた「ゴジラ松井」にお礼を申し上げたいと思います。松井選手、本当にありがとうございました。

 松井秀喜選手(以下、松井)につきましては、書き切れないほどの思い出をいただきましたが、本稿では、引退に際して感じる印象的な事項について簡記したいと思います。

① ライナー性の当たり
 松井の打球は、ライナー性でした。松井は、日米通算507本塁打というホームラン記録を残した長距離ヒッターでしたが、20年間のプレーヤーとしての活躍の全ての期間、ライナー性の打球を放っていたと思います。
 ライナー性の打球を打つホームランバッターというのは、実は少数派のように思います。ライナー性打球の対極にある打球が、放物線打球ですが、ホームランバッターといわれる打者の大多数は、この放物線打球を放つように思います。
 例えば、NPBでいえば、王選手、田淵選手、落合選手、小久保選手といった打者が、放物線打球のホームランバッターでしょう。
 MLBでいえば、現在647本塁打を誇り、35歳というMLB史上最年少600本塁打記録を持つアレックス・ロドリゲス選手や2012年シーズンの打撃部門三冠王のミゲル・カブレラ選手も放物線打球のプレーヤーです。

 この放物線打球プレーヤーの打ち方の特徴は、ダウンスイングあるいは水平スイングにより、打球にバックスピン(後ろ回転)を掛けて、遠くに飛ばす打ち方です。ボールの芯の少し下を打つといわれます。アレックス・ロドリゲスが典型ですが、下方に向かってカットするようなスイングから、バットのプレーンとは全く異なる方向(上方)に打球を飛ばします。そして、その打球は、遠くに飛んで行くのです。こうした打ち方をする打者には、反対方向へのホームランも多いように思います。アレックス・ロドリゲスやミゲル・カブレラは右打者ですが、右中間に大きな打球を放ちます。NPBでも、三冠王三回の落合選手は、右中間スタンドに、測ったようにボールを運びました。おそらく、この打ち方が「打球を遠くに飛ばすには、最も合理的な打ち方」なのです。

 これに対して、松井の打球はライナー性でした。バットとボールが真正面から当たる打ち方で、ボールの芯を捉える打ち方です。ラインドライブがかかることも多い、ライナー性打球を放つ打者には、中距離バッターが多いのですが、まれに長距離バッターが生まれます。日本人なら松井、MLBなら、通算762本塁打を誇り、サンフランシスコ・ジャイアンツを中心にプレーした、バリー・ボンズ選手が、この打ち方でした。
 ゴツンという音が聞こえてきそうなライナー性打球で、軽々とスタンドに運ぶプレーヤーは、独特の雰囲気を持っています。松井の打ち方は「邪気を払うようなスイング」といわれました。豪快というか、フィールドの空気を一変させる一振りということでしょう。NPBの現役選手であれば、日本ハムファイターズの中田選手がこの打ち方だと思います。

 私は、松井が長くホームランバッターとしてプレーするためには、どこかのタイミングで「ライナー性打球」から「放物線打球」に切り替えた方が良いと考えていました。しかし、松井は打ち方を変えませんでした。
 ライナー性打球を打つバッター(以下、ライナー打者)が、その飛距離を伸ばしていくためには、そして、松井がMLBに渡った2003年当時、NPBのボールより飛ばないMLBのボールをスタンドに運ぶためには、筋力を増加させる必要がありました。バリー・ボンズの強烈な打球を目の当たりにした松井は、「強く叩くために」筋力および筋肉量の増加の必要性を強く感じたのだろうと思います。

 その為のトレーニングを経て、松井選手はNPB時代より遥かに大きな上半身を構築することになりました。NPB時代には90㎏弱だった体重も、100㎏を優に超える肉体になったのです。このことが、松井の選手寿命を縮めたと思っています。(縮めたことが失敗であったかどうかは、別の問題です)大きくて重い上半身を支えるために、下半身に負担がかかり、慢性的な両膝の故障を抱えるようになった形です。その点では、NPBの清原選手と少し似ているかもしれません。

 NPBのライナー打者として最も有名なのは、長嶋茂雄選手です。松井は、今朝の発表の中で最も思い出に残っている事のひとつとして、当時NPB巨人軍の長嶋監督とのスイング練習を挙げていました。試合前に、球場の監督室に籠ったり、バッティングゲージで、長嶋監督と松井選手の二人きりで、30分前後のスイング練習を行っていたのです。全ての試合の前に行っていたそうですから、トータルの練習時間は相当に多いものだったと思います。松井を巨人軍の四番に育てるために、長嶋監督が行った練習とされています。巨人軍の他の選手から見ると「羨ましくて仕方がない」特別な練習であったといわれています。

 天才的なライナー打者の長嶋監督との練習の積み重ねにより、もともと星稜高校時代もライナー打者であった松井の、ライナー打者としてのスイングが固まって行ったのだと考えています。

 余談ですが、長嶋氏が病気になる前の時期に、NPBオールスターOB戦が何回か行われ、テレビ放送されました。王貞治氏やランディーバース氏は、現役引退後相当の時間が経つのに、外野に大きな打球を飛ばします。山本浩二氏も、大きな飛球を飛ばします。バース氏などは、スタンドまで運んでいたと記憶しています。

 一方で、長嶋氏は、その何回かの試合の中で相当回数打席に入ったと思いますが、ほとんどがボテボテの内野ゴロでした。これが、放物線打球の打者(以下、バックスピン打者)とライナー打者の違いだと思います。バックスピン打者の王やバースは「ボールの飛ばし方」を熟知していますので、筋力が落ちた後も、うまくボールの芯の下を打って、相応に球を飛ばすことが出来るのですが、ライナー打者の長嶋は、筋力の低下に比例するように打球を飛ばすことが出来なくなっていたのでしょう。

② OPS(出塁率+長打率)が高い選手
 松井選手は、OPSが高い選手でした。NPB時代10年間の平均は.996と、日本プロ野球歴代プレーヤーの中でも、トップ3に入る水準であったことは、本ブログの「ミゲル・カブレラの三冠王とOPS」稿にも記載した通りです。MLB時代10年間の平均も.819と良い水準でした。MLB時代の最後の2年間のOPS、オークランド・アスレチックスの1年間が.696、タンパベイ・レイズ時代の数か月間が.435と低い数値でしたので、その2年間を含めても.819というのは、立派な成績だと思います。
 特に、ヤンキースの2年目2004年には、162試合にフル出場してOPSが.912と、メジャー屈指の強打者の数値を叩き出しています。

 松井のOPSが高いのは、もちろん長打が多いこともありますが、何より四球が多いことが要因となっています。前述の2004年には88四球という成績です。強力なヤンキース打線の一角を占め、打てなくとも四球で繋ぐ形で、チームの勝利に貢献したのです。今朝の記者会見でも、松井が再三口にした「フォア・ザ・チーム」の精神が最もよく表れている記録が、このOPSだと思います。

 また、この2004年にはレギュラーシーズン31本塁打を記録しています。日本人プレーヤーで年間30ホーマー以上を記録しているのは松井選手だけです。今後、多くの日本人プレーヤーがMLBに挑戦していくと思いますが、その挑戦者たちのひとつの目標となる記録でしょう。
 以上から観ると、MLBにおける松井選手の成績が最も良かった年は、2004年ヤンキース2年目ということになると思います。

 そして、メジャーリーガーとして脂が乗り切った2006年5月11日のボストン・レッドソックス戦1回の守備において、あの手首骨折を起こしてしまいました。この年は、9月12日には復帰し、計51試合に出場し、OPSも.887とMLB10年で2番目の数値を記録しました。あの骨折から見事に立ち直ったように見えましたが、無理が祟ったのか、翌年からは故障がちのシーズンが続くこととなりました。かえすがえすも、あのフライをワンバウンドのヒットにしておけば良かったのにと思ってしまいます。詮無いこととは解っているのですが。

③ 抜群の人気
 プロスポーツプレーヤーにとって、人気はとても大切な要素だと思いますが、松井選手のヤンキース時代の人気は凄かったと思います。当時は、1000万ドル以上の年俸でしたが、松井関連グッズの売上だけで、年俸を十分にカバーできると言われました。
 日本からの観客が急増し、入場料収入も増加したのですが、加えて、日本人の観客はお土産に松井のTシャツやユニフォームのレプリカを大量に購入していくのです。安価なものでは無いのですが、ひとりで10枚20枚と買っていくと報道されました。こうした日本人ファンからの人気が高いことは、ある程度予想されたことなのですが、松井は現地アメリカのファンからも、非常に高い支持を受けていました。

 松井は、試合の最初の打席に入る際に、必ず相手チームのキャッチャーと本塁の審判に、丁寧に笑顔で挨拶していました。この様子も、松井の人柄を良く示していると思います。こうした、物静かで穏やかな様子が受けたのでしょうか、松井はアメリカの子供たちに、とても人気があったそうです。

 今でも忘れないのですが、観客に松井グッズが数万個配られる「MATSUI Day」に、観客へのインタビューが行われていました。子供を連れたお母さんへのインタビューでした。子供はお母さんの首にしっかりと掴まって、カメラに背を向けています。お母さんは言います。「この子は、松井選手の大ファンです。少し自閉症気味なのですが、松井選手が出ている試合のテレビは必ず見て、応援します」
 そしてお母さんは、子供が着ている松井選手の背番号55がプリントされたTシャツを、捲りました。下から出てきたのは、別のデザインの松井選手のTシャツでした。「今日、何が欲しいか聞いたら、やはり松井選手のTシャツなのです。そして、嬉しそうに重ねて着ています」と。
 松井選手の人気の高さを示す事例だと思います。

 一本のホームランが、見ている人に勇気を与えるプレーヤーが、松井秀喜であったと思います。そして、そのホームランの美しさも、特筆すべきものだと思います。2006年以降は怪我に悩まされ、苦しいシーズンが続きましたが、ファンはいつも「ゴジラの復活」を祈り続けました。そして、松井選手もその期待に何とか応えようと、努力を続けました。

 引退を表明したからには、しばらくの間はトレーニング無しでゆっくりと休んでいただき、上半身の筋肉を少し落としてもらって、動けるようになってやる気が出てきたら、2014年にNPBでプレーする松井選手を観たい気もします。
 「邪気を払うスイング」を、また観てみたいものです。
 本日2012年12月23日、恒例の全国高校駅伝が開催されました。午前中の女子の部は、立命館宇治高校が、午後の男子の部は豊川高校が優勝しました。伝統校と新鋭校が凌ぎを削る素晴らしいレースが展開されました。優勝、入賞された高校のランナーの皆さん、おめでとうございます。

 さて、各中継点やゴール前では、例年のようにラストスパート勝負が展開されます。まるで短距離競走のような競り合いが見られることもあります。今回は、この「ラストスパート」について考えてみようと思います。

① 余力や気力の問題ではありません。
 ラストスパート勝負のポイントは、ランナーのトップスピードの水準です。例えば高校駅伝男子ですと、各ランナーは3~10㎞の区間を走るのですが、ラストスパートは最後の100~400m位の距離で争われます。
 このラストスパート勝負を決めるのは、100~400mのタイムの水準、つまり短距離競走に強いか弱いか(スプリント力の有無)という点になります。
 スタミナが残っているかどうかも、ポイントのひとつにはなりますが、ラストスパートがかけられない程に疲労している場合には、ラストスパートがかけられないので、そもそもラストスパート勝負にはなりません。従って、ラストスパート勝負になった場合(複数のランナーが僅かでも余力を残してゴール前等での競り合いになった場合)には、スプリント力が高いランナーが勝つのです。頑張りや根性では、短距離走のスピードは上がりません。

② ラストスパート余力が残りすぎているのは、良くない走りです。
 前述の内容を考えると、スプリント力が不足しているランナーは、ラストスパート勝負をしてはならないことになります。ライバルランナーとの比較で、トップスピードが不足しているランナーは、ラストスパート勝負を避けて、区間の早い段階でライバルランナーに差をつけていく必要があることは、言うまでもありません。並走していては、勝ち目がないのです。
 加えて、ゴール前で突然スピードが上がる走りは、余力が残りすぎていることになります。ラストスパートで変動するタイムは、1~2秒と言われていますから、距離にして7~14mです。余力を残しすぎるくらいなら、ラストスパート勝負をする場合の自分に、道中で20m以上の差をつける走りを目指すべきです。この場合の比較対象は「自分」ということになります。
 駅伝を始めとする長距離競走での理想的な走りは、自らのエネルギーをキッチリと使い切る走りです。そして、当該コースにおける走破タイムを最短にする走りがベストです。違和感があるほどの速度の変更を伴うラストスパートを可能とする余力十分の走りは、良くない走りということになります。

 駅伝は、最終区間以外の区間では、順位よりタイム差が重要な競技です。従って、中継地点直前で1~2秒のタイムを稼ぐより、より長い道中の走路で3秒以上のタイムを縮める努力をする方が合理的です。強いチームのランナーは、各々がスタミナをキッチリと使い切って、区間を走破しているように思います。

 2012年12月23日、中山競馬場内回り芝コース2500mで行われる、第57回有馬記念競走G1の予想です。

 今年もフルゲート16頭の精鋭が揃いました。一方で、オルフェーヴルとジェンティルドンナという、現在我が国最強の牡馬と牝馬が出走しないのは、少し残念ですし、予想の面では、このレースをとても難しいものにしています。

 軸馬の検討です。
 G1競走の優勝実績がある格上の馬達の中には、近時の成績が安定しない馬が居ます。ローズキングダム、エイシンフラッシュ、アーネストリー、オウケンブルースリ、ビートブラックがこのタイプです。
 一方、近時の上がり馬では、前述の馬達に地力では勝てないと思います。

 こうした観点から観ると、
 軸馬候補の一番手は、5枠9番のルーラーシップ。今年の競走成績は、とても安定しています。6戦して、重賞2勝(内G1が1勝)、2着1回、3着3回と、G1級のレースでも大崩れしない点は、軸馬の資格があります。ただし、勝ち切れないレースが続いている点は気になります。勝ち切れないレースを続けて、ピークを過ぎてしまうことは、よくあることです。
 軸馬候補の二番手は、7枠13番のゴールドシップ。今年の皐月賞と菊花賞を制した二冠馬です。デビュー以来9戦して、3着以下は日本ダービーの5着一回のみと安定感は抜群。今年の3歳馬のレベルの高さを勘案しても、軸馬の資格は十分です。ただし、菊花賞のレース振りは一杯一杯でした。レース展開に左右されない程の圧倒的な地力は、まだ無いように思います。
 軸馬候補の三番手は、8枠16番のルルーシュ。11戦して、1着6回と高い勝率を残していますし、4着以下が2走のみと、安定感も十分です。ただし、重賞勝ちはアルゼンチン共和国杯G2の1勝のみですから、格という点では見劣りします。

 この3頭から軸馬を選択します。難しいところですが、ゴールドシップにします。
 後方からの競馬が多い点は、有馬記念の性格から観て不安材料ですが、右回りレースに強いこと、中山競馬場の皐月賞に勝っていること、そして10月21日の菊花賞以来のレースで疲労残りの懸念が無いことから、軸馬としたいと思います。

 対抗馬の検討です。前述の2頭も、対抗馬候補です。
 続いての対抗馬候補は、1枠2番のエイシンフラッシュ。成績が安定しないG1優勝馬の中では、最近G1天皇賞(秋)に勝っています。右回りコースにも実績があります。
 続いての対抗馬候補は、2枠3番のスカイディグニティ。重賞勝ちの実績はありませんが、前走G1菊花賞2着、前々走G2セントライト記念も2着と、大レースで健闘しています。成長時期と考えると、今回も期待できます。
 続いての対抗馬候補は、3枠6番のオーシャンブルー。前走G2金鯱賞をレコードで勝ちあがった上がり馬です。12戦6勝と勝率も高いので、大駆けの期待十分です。
 続いての対抗馬候補は、4枠8番のトレイルブレイザー。前走、前々走はアメリカでの競馬。特にG1ブリダーズカップ・ターフの4着は健闘でしょう。我が国でもG2を2勝している実力馬です。
 続いての対抗馬候補は、5枠10番のダークシャドウ。前走、前々走のG1を連続4着。展開に恵まれれば、2着はあります。
 続いての対抗馬候補は、8枠15番のナカヤマナイト。中山競馬場での実績が十分です。ただし、外枠の不利が心配です。

 以上から、対抗馬を選出します。
 対抗馬一番手は、スカイディグニティ。菊花賞でゴールドシップを追い詰めた脚は本物でしょう。
 対抗馬二番手は、トレイルブレイザー。ゼンノロブロイ譲りの豪脚に期待します。
 対抗馬三番手は、エイシンフラッシュ。気分屋さんですが、ツボにハマった時の強さは格別です。

 今回は、以上の4頭に期待します。展開次第で、結果が大きく変わるレースです。2012年を締めくくる、素晴らしいレースとなることを期待します。
 
 ドイツのサッカー・ブンデスリーガ1部に、今季2012~2013年シーズン、フォルトゥナ・デュッセルドルフが昇格しました。
 
 フォルトゥナ・デュッセルドルフ(以下、F95)は、1908年創設の歴史を誇るクラブチームです。1980年以降は不振の時期が長く続き、今季ようやく1部復帰を果たしたのです。

 20年程前の12月中旬、私が仕事の関係でデュッセルドルフを訪れた際、空き時間が出来たので、現地の社員がどこか観たいところはありますかと尋ねます。私は、当地のサッカークラブチームの拠点を観てみたい、と希望しました。とはいえ、正直に言えば、ブンデスリーガにデュッセルドルフのチームが居るというのは聞いたことが無かったので、予備知識はありませんでした。
 
 現地に着いてみると、大きなスタジアムがあります。平日でしたので、無人のスタジアムでしたが、その規模と美しさに驚かされました。
 そのスタジアムが「ラインシュタディオン」と呼ばれる、現地のサッカークラブチームF95のホームであることを知ったのは、日本に帰ってきてからでした。ラインシュタディオンは、1925年に開場し、1974年に拡張された競技場で、私が訪問したのは拡張後、収容人員54,000人の大きなスタジアムでした。
 そして、椅子が少ないことにも驚きました。ホームスタンドとバックスタンドの真ん中付近に椅子席があるだけで、大半は立見席なのです。寄り掛かれるように?支柱が沢山設置されていました。現地の社員が「ドイツの人は、ここに立って3時間でも4時間でも応援するんですよね」と説明してくれました。

 続いて、練習場に行ってみました。練習グラウンドと紹介された場所を観た時の驚きは、今も忘れません。

 まず、真冬にも拘わらず一面緑の絨毯です。「芝」なので当然のことなのですが、当時は本物の芝を、これ程の規模で見たことが無かった(今でも、あの規模以上のものは観たことが無いのですが)のです。
 そして、その緑色の強いこと、濃いこと、綺麗なこと。芝の厚さは10㎝位でしたが、びっしりと生えていますから、濃緑色の分厚い絨毯そのものです。ちょっと踏んでみたら、バリッと千切れてしまいました。表面が凍り付いていたのです。クリスマス寸前のデュッセルドルフは、毎日氷点下なのですから、当然のことなのでしょうが、真緑の芝がバサッと切れる様子は、新鮮で印象的でした。(申し訳ないことをしました)

 そして、その練習グラウンドの面積といったら・・・。

 広いのですが、距離感が掴めないほどに広いのです。サッカー場5~10面が取れるほどの広さの緑の絨毯です。ブンデスリーガのトップチームならともかく、聞いたことも無かった(当時のことで恐縮です)クラブチームの練習場にして、この設備です。こんな環境でプレーできるのは、それ自体が幸せなことだ、と感じました。

 後から知ったことですが、この頃のF95クラブは、ブンデスリーガ2部か、ひょっとするとレギオナルリーガ(3部)かオーバーリーガ(4部)に降格していた時期なのです。いずれにしても、F95にとっては最も苦しい時期だったのでしょう。

 そして、私が見させていただいたラインシュタディオン競技場も、2002年11月に閉場されていて、F95の現在のホームはエスプリ・アレーナという近代的なスタジアムです。

 最近我が国の沢山のプレーヤーが、ドイツ・ブンデスリーガでプレーしています。ウォルフスブルグの長谷部誠選手、シャルケ04の内田篤人選手、シュトゥットガルトの岡崎慎司選手、アイントラハト・フランクフルトの乾貴士選手、ニュルンベルグの清武弘嗣選手、そして昨シーズンまでは、現在イングランド・プレミアリーグのマンチェスター・ユナイテッドに所属している香川慎司選手が、ボルシア・ドルトムントに所属していました。

 これは、ブンデスリーガ1部に所属している選手の例ですが、2部や3部にも、多くの選手が行っているのではないかと思います。F95にも、結城耕造選手が2010年まで所属していました。

 日本人プレーヤーが欧州のリーグに参加する場合に、ドイツ・ブンデスリーガに行くことが多い理由については、前の稿に書きましたが、この選手たちの移籍後の成長には目を見張るものがあります。代表チームの試合で久しぶりに見る日本代表プレーヤー達が、別人のようにプレーする姿には感動さえ覚えます。

 日々のシーズンゲームで、相当に厳しいプレーに直面しながら、自らのプレーを磨いているのであろうと思いますが、日々の練習も大きな影響を与えていると思います。
 何しろ、あの環境です。ポジション争いを始めとする、緊張感を持った練習は大変なことでしょうが、あの緑の絨毯の上で、思う存分サッカーが出来るのですから、サッカーを愛するプレーヤーにとっては無上の幸せでしょう。

 昔、MLBのセントルイス・カージナルスに所属していた田口壮選手が、スプリングキャンプの際にテレビのインタビューに答えていました。メジャーリーグの練習の大変さを掘り出そうとしていたインタビューでしたが、最後に田口選手が言いました。「いろいろ大変だけど、この環境で野球が出来ることは、何ものにも替え難い」と。
 カージナルス球団のホーム練習設備には、野球場が4つあったのです。

 サッカーが盛んな欧州各国、ベースボールが盛んなアメリカ、いずれも日々の生活に密着したスポーツとしての深い文化に裏打ちされています。
 素晴らしい練習設備も、深い文化の一部なのでしょう。スポーツをする喜びは、いろいろな所に潜んでいるのです。
 現在では、暮れの中山競馬開催の最後を飾るレースは有馬記念競走ですが、1968年から1979年の間は、最後を飾るレースは中山大障害競走でした。ちょうどその頃から競馬を観始めた私は、有馬記念は12月の中旬に行われ、12月下旬の中山大障害で一年の競馬が幕を閉じるという感覚でいました。
 1980年からは、最終開催の土曜日あるいは前週に中山大障害、日曜日に有馬記念が行われるようになり、現在に至っています。

 また2003年から、12月28日が日曜日の時には、有馬記念が行われるようになりました。本当に年が押し迫ってから、一年を締めくくる大レースが行われるのです。2008年も12月28日でした。
 頭書のように、12月中旬に有馬記念という感覚を持っている私からすると、28日になって、例えばボーナスの残りを全額つぎ込んで外れてしまったら、年が越せなくなりそうで怖いな、などと要らぬ心配をしています。

 1956年・昭和31年12月23日に第1回「中山グランプリ競走」として創設・実施され、直後の1957年1月9日に、時の日本中央競馬界理事長であり、このレースの創設に尽力した有馬頼寧(ありま よりやす)氏が急逝したために、レース名が「有馬記念(グランプリ)」と変更されたことは、有名な話です。

 たまたまですが、苗字に「馬」の字が入っていたことも、このレースの呼び易さ、馴染み易さに繋がったのだろうと思います。例えば、佐藤という苗字であれば「佐藤記念」、鈴木であれば「鈴木記念」となっていた訳です。おそらく慣れてしまえば全く可笑しくは感じなくなったのでしょうが、「有馬」という苗字であったことが、より速く馴染んだ要因のひとつであったろうと思いますし、競馬の大レースにより相応しいレース名のようにも思います。
 現在では、有馬記念と聞いて、人名であると知っている人の数は多くないように思います。これが佐藤記念なら、明らかに人名だと感じるでしょうから、こうしたレース名に使われる人名は、人名人名していない名前の方がマッチするということかもしれません。(人名を配した、もうひとつの大レース「安田記念」も、人名人名していないレース名だと思います。もちろん、佐藤記念や鈴木記念がダメということではありませんので、念のため)

 変わった入り方をしてしまいました。

 1951年・昭和26年に始まった日本プロ野球のオールスターゲームにヒントを得たのか、ファン投票による出走馬選定という、競馬のオールスターレースが有馬記念競走なのです。

 一方で、このレースは、東京優駿(日本ダービー)競走などの大レースが開催される、府中の東京競馬場に比べて、皐月賞と中山大障害が看板レースだった中山競馬場に、より華やかな番組を創りたいという強い思いから生まれたものですので、開催場所は中山競馬場です。(当たり前のことで恐縮です)そして、昨年までの56回の開催が全て中山競馬場で行われています。中央競馬のG1競走で、全てのレースが同じ競馬場で開催されてきたレースは、有馬記念だけなのです。
 偶然かもしれませんが、中山競馬場の改装工事なども有馬記念開催に影響が無い時期、影響が少ない時期に行われてきたと思われますし、レース創設時の中山競馬場関係者の気概が、脈々と受け継がれているように見えて、興味深い事実です。

 加えて、この大レースが中山競馬場で開催されてきたということが、このレースの特徴を形作っています。

 中山競馬場の内回り芝コースは、最後の直線が310mしかありません。中央競馬のG1競走を実施するコースとしては、最も短いのです。500mを優に超える東京競馬場と比較すると「半分しかない」という感じです。
 従って、有馬記念では4コーナーで先行集団に居ないと、勝つのは難しいということになります。では、逃げ馬や先行馬が絶対に有利かというと、これが必ずしもそうではなくて、ゴール前の逆転も時々観られます。310mの直線には、高低差2mの坂が待ち受けていますので、先行馬の突然の失速も有り得ます。
 こうした、有馬記念競走の特徴は、中山競馬場の特徴を色濃く反映しているのです。

 オールスターレースである有馬記念ですから、その勝ち馬は名馬の宝庫です。また、歴史に残るレースも沢山あります。その中で本稿で採り上げるのは、1996年・第41回の勝ち馬サクラローレルです。

 サクラローレル号、父Rainbow Quest、母ローラローラ、持込馬です。生涯戦績は、22戦9勝、内フランスで1戦0勝です。
 サクラローレルが3歳を迎えた1994年は、既に持込馬がクラシック競走に出走できるようになっていました。一方で、ローレルのデビューは3歳の1月と遅かったので、陣営はローレルで日本ダービーを目指すこととしました。
 ダービートライアルレースの青葉賞で3着に入り、出走権を得ましたが右後脚の故障でこれを回避。この年は、あのナリタブライアンが三冠馬に輝いた年でしたが、サクラローレルはブライアンと一戦も交えることなく、3歳を終えてしまいました。

 明けて1995年、サクラローレルは4歳になりました。早々に、中山の金杯G3を勝ち、重賞初勝利を挙げましたが、天皇賞(春)を目指しての調教中に、両前脚深管骨折という重傷を負いました。安楽死処分こそ、何とか回避したものの、ローレルは長期の休養を余儀なくされました。
 継続して、怪我に悩まされていた馬であり、重賞も勝っていますから、このまま引退となっても何ら不思議の無いところですが、サクラローレルの関係者は復活に向け、努力を続けたのです。

 明けて1996年、3月の中山記念G2から再始動。屋根も、小島太騎手の引退に伴って横山典弘騎手に乗り替わりました。サクラローレルの大活躍が始まりました。
 中山記念は、長期休養明けということもあって人気薄でしたが、一番人気の皐月賞馬ジェニュイン以下を一蹴して優勝、天皇賞(春)G1に駒を進めます。この第113回天皇賞(春)は、前年の三冠馬ナリタブライアンとメキメキ力を付けてきたマヤノトップガンの2強対決と見られていました。
 しかし、サクラローレルは最後の直線でナリタブライアンを一気に差し切り、2と1/2馬身の差を付けて快勝しました。同期のエースに土を付けるとともに、G1初勝利を挙げたのです。

 1996年秋緒戦のオールカマーG2で、マヤノトップガンと再び対戦し、再びこれを破って優勝。このレースはマヤノトップガンが一番人気でしたから、6歳になってから本格化したサクラローレルは、なかなか人気ではナリタブライアンやマヤノトップガンに勝てなかったことになります。
 次戦は天皇賞(秋)G1ですが、これは横山典弘騎手が自ら言うように「非常にまずい騎乗」で3着に敗れました。
 そして、次にサクラローレルが駒を進めたのが、本稿の第41回有馬記念でした。

 このレースは、ナリタブライアンこそ回避しましたが、ファン投票第一位のマヤノトップガン、宝塚記念馬マーベラスサンデー、重賞9勝の女傑ヒシアマゾン、オークスとエリザベス女王杯を制したダンスパートナー、エリザベス女王杯馬ホクトベガ、秋華賞馬ファビラスラフィン、皐月賞馬ジェニュイン等々、錚々たるメンバーとなりましたが、サクラローレルが一番人気になりました。ファンも、ついにこの馬の地力を認めたのでしょう。

 レースは、4角で外側から先頭グループに並んだサクラローレルが、直線で良く伸びて、2着のマーベラスサンデーに2と1/2差を付けて完勝。とても強い勝ち方だったと思います。

 明けて1997年、軽い骨折で静養していたローレルは、ぶっつけで天皇賞(春)に挑みましたが、ここはマヤノトップガンの大駆け(驚異のレコード勝ち)に屈して2着。
 秋は、陣営の悲願であった凱旋門賞挑戦に向けフランスに渡り、フォア賞G2に臨みます。しかし、レース中に右前脚に故障を発症し競走中止、現役を引退することとなりました。残念なことですが、サクラローレルの競走馬人生?には、常に脚の故障が付いて回りました。

 私の競走馬分類項目の中に「The古馬(ざ ふるうま)」というのがあります。その選定基準は、
① 4歳以降に本格化し、2・3歳時より明らかに良い成績を収めたこと。
② 速いのではなく強いこと。
③ 堂々としたレース振りであること。 の3つです。
 サクラローレルは、この「The古馬」の一頭です。

 サクラローレルは6歳時に5戦して4勝、内G1を2勝していますが、この頃のレース振りは、まさに尊称としての古馬(ふるうま)そのものでした。どのレースでも、展開にかかわらず、最後の直線で前に出て、悠然と走りました。がっしりとした大きな馬体から、ドドッ、ドドッ、ドドッ、という蹄の重厚な音が聞こえてくるような、重戦車が走っているような迫力でした。
 周りの馬がどんな競馬をしようとも、サクラローレルは動ずる様子もなくゴールを目指します。まさに百戦錬磨の強者。華やかさではなく強さを、全身から発している馬でした。サラブレッドのひとつの完成型だと思います。

 そして、サクラローレルが勝利した、1996年・第41回有馬記念競走は、日本競馬のひとつのピークを示現したレースでもありました。レース売り上げが875億円に達したのです。1レースの売上として、日本競馬史上最高ですし、世界競馬史上でも最高で、ギネスブックにも載っています。
 戦後の復興の過程で、発展・拡大を続けてきた日本の中央競馬は、このレースでひとつのピークを迎えたのです。

 本ブログでも、何回か登場している話ですが、日本の労働者人口は1997年~1998年にピークを迎えましたので、いわゆる物販関連の各事業の売上も、この時期にピークを迎えています。
 中央競馬も例外ではありません。この1996年末から1997年にかけてが、中央競馬の売上のピークでした。サクラローレルがマヤノトップガンの2着となった1997年の天皇賞(春)の売上も453億円に達し、天皇賞史上最高売り上げを記録しています。

 中央競馬全体の年間売上金額も1997年の4兆6億円がピークでした。この後、中央競馬の売り上げは14年連続で減少し、2011年は2兆2936億円と、1997年比43%の減少となっています。ちなみに、2011年の有馬記念の売上は378億円でしたから、こちらもピークの1996年比57%の減少です。有馬記念競走について言えば、半分以下の売上になっているのです。

 こうしたエンターテイメント関連事業で勘違いしやすいのは、スタープレーヤーの有無の影響を、大きく考えすぎることです。売り上げが伸びない、あるいは減少すると「スター不在だから」とか「人気馬が出ていなかったから」とか考えてしまいがちですが、有馬記念の売上推移を観る限り、メンバーの変動による影響は小さなものです。
 何度も記載して恐縮ですが、基本的には「給料を稼いでいる人の数が減少している」のですから、販売額は減少するのです。減少するのが自然なことで、こうした全体需要が縮小している状況下で、売り上げを伸ばしている企業があるとすれば、他の企業の売上を相当の比率で奪い取っている可能性があります。「新しい需要を創造している事業」であれば良いのですが、こうした人口減少局面では、需要の創造も容易なことではありませんので、売り上げを伸ばそうとして、強引な手法を用いる事象が発生するのです。

 さて、話しが横道に逸れてしまいました。戻します。

 労働人口の減少や、昨年からは総人口も減少に転じている我が国の状況を考えると、中央競馬の売り上げが減少することは止むを得ないことだと思いますが、減少幅がとても大きい点は気になるところです。普通の企業であれば、売上高が43%減少すれば、当該企業の存続にかかわる状況です。
 3連単やWIN5といった、よりギャンブル性が高い(高配当の)新しい馬券スタイルの導入など、中央競馬会の売上回復に向けての取組が続いています。引き続き「なだらかに売り上げが減少する状態の確立」に向けての継続した取組が必要なのでしょう。
 競馬をギャンブルとしてのみ捉えるのではなく、エンターテイメントのひとつとして考えれば、我が国より遥かに人口が少ない欧州各国におけるサッカーや、アメリカにおける4大スポーツの運営方法を参考として、試してみる価値のある手法が、いくつもあるように思います。

 1997年に引退し、種牡馬となったサクラローレルは、北海道静内の静内スタリオンセンターで供用されました。初年度の産駒から重賞ウイナーを輩出し、21歳となった現在も繋養牧場は変わりましたが、元気にやっているようです。
 サクラローレルの栃栗毛の堂々たる姿を想い出します。一度会いに行ってみようかなと思います。
 FIFAクラブワールドカップ2012決勝は、日本時間2012年12月16日午後7時30分キックオフで、横浜国際総合競技場に68,275人の大観衆を集めて行われました。南米代表のコリンチャンス(ブラジル)と欧州代表のチェルシー(イングランド)の試合は、1-0でコリンチャンスがチェルシーを下し、優勝しました。

 ジャキル主審の最後のホイッスルが響き渡る1秒前まで、両チームが死力を尽くしたガチンコ勝負であった点が、このゲームの最も素晴らしいところであったと思います。

 ゲームは、コリンチャンスのペースで始まりました。というか、ゲームを通してコリンチャンスペースであったと思います。
 その最大の要因は、コリンチャンスのディフェンス陣がゲームを通して機能していたことでしょう。両チームとも4-2-3-1のフォーメーションでしたが、コリンチャンスのバックラインと守備的な中盤のラインは、最後まで崩れませんでした。そういう意味では、コリンチャンスは守備的なゲームを展開したのです。

 チェルシーには、アザールとマタという極めて攻撃的なプレーヤーが前線に居て、この二人が縦横無尽に走りまくり、相手チームの守備体系にスペースを造り出して、フォワードが得点するパターンなのですが、試合を通してアザールとマタが、自由に動くシーンは観られませんでした。この二人の能力・スピードを考えると、不思議なことです。
 この二人が、いつもの力を発揮できなくとも、チェルシーにはアシュリー・コールとランパードという、イングランドが誇る二人の強力な攻撃力を持つ守備的なプレーヤーが居ます。コールのオーバーラップやランパードのミドルシュートは、世界最高水準であり、局面を打開する力が十分にあると思われました。
 しかし、ランパードとコールも機能しませんでした。ランパードの周りに、あんなに沢山の相手チームのプレーヤーが居るゲームは珍しいと思いましたし、アシュリー・コールのオーバーラップが、あんなに孤立している試合も珍しいものでした。

 FIFAクラブワールドカップ(以下、クラブWC)は、前身のインターコンチネンタル・カップ、トヨタ・ヨーロッパ/サウスアメリカ・カップ(以下、トヨタ・カップ)を経て、2005年から現在の形式となった大会です。
 1960年から始まったインターコンチネンタル・カップ時代は、あまりに過激な応援などの理由から開催されなかったりしましたので、中立国である日本でトヨタ・カップとして、1980年から欧州代表と南米代表が、ワンマッチで雌雄を決するようになったのが、実質的な始まりとして、良いように思います。

 このトヨタ・カップ時代には、ヨーロッパの代表チームと南米の代表チームは互角の戦いを演じました。1980年から2004年までの25回の大会で、ヨーロッパが13勝、南米が12勝だったのです。

 一方で、トヨタ・カップの時代から、巨額の契約金と高い年俸で選手を集めているヨーロッパ代表チームの方が、南米代表チームより、個々の選手の質が高いので、強いはずだという見方がありました。実際、ヨーロッパ代表チームには、時々の世界的プレーヤーが集まっていることが多く、試合前の予想では、常にヨーロッパ代表チームの方が優位にあるとされていました。
 
 ところが、試合をしてみると互角です。というか、第1回トヨタ・カップの1980年から第5回の1984年までは、南米代表チームが5連勝(ナシオナル、フラメンゴ、ペニャロール、グレミオ、インデペンディエンテの各クラブ)しています。第6回大会でユベントスが勝利するまで、トヨタ・カップでは欧州代表チームは勝てない、とまで言われていたのです。
 欧州代表チームは、1995年~1999年の5連勝(アヤックス、ユベントス、ドルトムント、レアルマドリード、マンチェスターユナイテッドの各クラブ)などで追い上げ、トヨタ・カップ通算で互角の成績にしたのです。

 欧州のみならず、南米のブラジルやアルゼンチン他のスタープレーヤーも集めていて、圧倒的に有利と言われる欧州代表チームが、何故なかなか勝てないのか。トヨタ・カップの時代には、コンディショニングの点が指摘されました。
 南米代表チームは、試合の1週間前位に来日し、時差ボケを解消するとともにコンディションを整えるのですが、欧州代表チームは試合の2日前位に来日し、体調が整わない内に試合に臨んでいるという見方です。ゲーム数が多く、スケジュールが建て込んでいるビッグクラブが欧州代表となることが多いので、この見方には一理あると思いました。
 一方、この見方に従えば、有力選手を集めている欧州ビッグクラブでも、キチンと調整した南米のクラブには、容易には勝てないということを示しているわけで、南米チームのレベルの高さを示しているともいえると思います。

 そして2005年から、FIFAは世界6地域のクラブチームの代表を集め、クラブ世界一を競うクラブWCを始めました。トヨタ・カップは、この大会に継承されたのです。後に、開催国のチームも参加するようになり7チームのトーナメント大会になりました。
 この形式になると、欧州代表チームも2試合を戦うことになりますので、決勝で南米代表と戦う際にも、相応のコンディションに仕上がっています。
 その結果、2005年2006年こそ南米代表チームに優勝を奪われましたが、2007年からは欧州代表が5連覇を続けましたので、さすがにコンディションが整えば、良い選手を集めている欧州代表が強い、という印象を与えました。これからは、南米代表はなかなか勝てないのではないか、とも囁かれました。

 そして、2012年大会を迎えたのです。今大会の欧州代表クラブは、イングランドのチェルシーでした。
 ゴールキーパーGKにチェコ代表のチェフ(当代有数のGKです)、ディフェンダーDFにブラジル代表のダビドルイス、イングランド代表のアシュリー・コール、ミッドフィールダーMFにイングランド代表のランパードとブラジル代表のラミレス、スペイン代表のファン・マタ、ベルギー代表でベルギーの至宝と呼ばれるアザール、フォワードFWにスペイン代表のフェルナンドトーレス、という豪華絢爛なスターティングラインナップです。昨年のUEFAチャンピオンズリーグで、準決勝でFCバルセロナ、決勝でバイエルンミュンヘンを撃破して優勝したチームですから、今大会も当然大本命でした。
 欧州代表チームの6連覇が予想されていたのです。

 このスター軍団に対して、コリンチャンスはキッチリと作戦を立てて臨みました。頭書した通り、
① 最終ラインと守備的MFは、攻撃の際にも前掛りにならず、ラインを崩さない。
② FWやMFは、センターラインを越えてきた相手の選手に対して、高い位置からプレスを掛ける。FWも守備の意識を強く持つ。
③ FWは、少ない人数で、少ないチャンスをモノにする。
④ 1-0で勝つ。

 といった戦術だったように思います。これが見事に当たりました。

 ゲーム開始直後から、ボールの保有率はともかくとして、全体の流れはコリンチャンスペースでした。おそらく、各プレーヤーのコンディションが良かったのでしょう。
 元Jリーグ浦和レッズのエメルソンは、本来攻撃的なMFですが、このゲームでは守備にも積極的に参加し、チェルシーのFW・MFを追いかけて、30m~40mのランニングを繰り返していました。こんなに運動量が多いプレーヤーだったかな、と見直しました。

 チェルシーは、攻撃の核であるマタとアザールが徹底したマークを受けて、満足に動けませんから、なかなかコリンチャンスゴール前でフリーになるチャンスを創ることが出来ません。時々ピンポイントのパスがFWフェルナンドトーレスに繋がりますが、単発の攻撃であり、シュートがゴールの枠に行っても、コリンチャンスのGKカッシオの好セーブに阻まれて得点できません。

 そうした状況下でも、カウンターを中心としたコリンチャンスの攻撃が時々形になります。チェルシーも、ダビドルイスを中心に、良く守りました。
 後半20分を過ぎて、コリンチャンスの攻勢。再三のシュートが、チェルシーの選手に当たって跳ね上がったところに、コリンチャンスのワントップFWゲレロが走り込みヘディングシュート。
 GKチェフが前に出てしまっていたチェルシーは、ダビドルイスを真ん中に3人のプレーヤーでゴールを守りますが、ゲレロのシュートは上のゴールポストに当たって下に落ち、ゴールしました。ダビドルイスは195㎝の長身ですから、少しでも低いシュートであれば、弾き出していたと思われますが、ゲレロのシュートは「ここしかない」所に決まりました。後半24分のことでしたから、残り時間はロスタイムを入れても25分程度しかありません。得点の時間帯としても、コリンチャンスにとって絶好の得点でした。

 試合前の作戦通り?に1-0でリードの局面を創り上げたコリンチャンスは、あとは守り切るだけです。
 しかし、無暗に引くことなく、センターラインから自陣に入ったエリアでのプレスを継続し、DFラインは決して崩しません。エメルソンの運動量が一層増加したように観えました。
 コリンチャンスのブラジル人プレーヤーが、チェルシーのブラジル人プレーヤー・ダビドルイスと言い合いをしています。何度か画面に映し出されたシーンですが、ダビドルイスもパウリーニョ他のプレーヤーも必死の表情です。このゲームに賭ける、両チームのプレーヤーの想いが、痛い程感じられました。

 ここで、チェルシーはMFモーゼスに替えて、ブラジル代表オスカルを投入。そういえば、オスカルが出ていなかったんだと思いました。あのブラジル代表の背番号10を身に付ける21歳の天才プレーヤーです。オスカルを控えに回せるほど、チェルシーのプレーヤーの層が厚いということでしょうが、後から思えば、この投入が遅かったのかもしれません。マタと重なると考えたのかもしれませんが、その後の短い時間帯に、オスカルから配された素晴らしいパスの数々を観る時、先発として出場していれば、ゲームの様相は相当異なるものになっていたように思いました。

 ペナルティーエリアを覆うように、綺麗に配置されたコリンチャンスのDF陣ですが、さすがにチェルシーのマタやオスカルから、ピンポイントでパスが出されます。FWフェルナンドトーレスは、GKカッシオと1対1のシーンを決められず(とはいえ、狭いエリアでの1対1でした)、ロスタイム残り30秒のヘディングシュートは、決まったかに観えましたがオフサイド。
 ついに、主審のホイッスルが鳴り響き、コリンチャンスのプレーヤーに歓喜の瞬間が訪れました。

 久しぶりの南米代表クラブの優勝でした。

 個々のプレーヤーの能力で勝る欧州代表と互角以上に戦うために、作戦を立て、きっちりと実行し、コンディションを整えて、ゲームに臨んだコリンチャンスの快勝であったと思います。

 加えて、観客数が68,275人と大会史上最多のゲームでしたが、その多くは白と黒のコリンチャンスカラーのタオルを手にしていました。ブラジル・サンパウロからも多くのサポーターが横浜に来ていたのです。何万人ものブラジル人サポーターの声が、いつ果てるともなく続きます。横浜国際総合競技場は、コリンチャンスのホームスタジアムの様相でした。
 サポーターの表情も、プレーヤーに負けず劣らず真剣そのもの。そして、先取得点が決まった瞬間の歓喜の爆発。このゲームを観たコリンチャンスサポーターの、一生の自慢話になるゲームなのでしょう。こうしたゲームを観たこと自体が、誰もが羨む一生の宝物となるくらいに成熟したサッカー文化が、ブラジルサッカーを支えているのでしょう。
 応援も、コリンチャンスの圧勝でした。

 この数年のクラブWC決勝は、早い段階で欧州代表チームが先取点を挙げ、余裕を持った試合運びの中で、個々のプレーヤーの高い能力により追加点を挙げて勝利するゲームが続いていました。南米代表チームも、途中であきらめてしまうゲームが多かったように思います。
 それに比べて、今2012年12月16日のコリンチャンスとチェルシーのゲームは、90分強の試合時間を通して、緊張感に溢れ、勝利への執念に満ちたゲームでした。素晴らしいゲームを提供してくれた、両チームのプレーヤーや関係者に、心からお礼申し上げたいと思います。

 横で、時々悲鳴を上げながら、テレビを見ていた妻が「凄いねー。日本チームの試合と何が違うんだろう。全然違うよね」と。
 こうした感想が出なくなる日を待ち望む一方で、最高のゲームが常に世界のどこかに存在することも悪くは無いと思いました。
 2012年のMLBにおいて、本ブログで注目した3人の日本人プレーヤーの来年の所属チームが決まりました。契約更改が完了したのです。

 まず、岩隈久志投手です。岩隈は、3月から6月は中継ぎで登板し、当初は出会い頭のホームランを浴びるなど、MLBに馴染むのに苦労しましたが、6月の登板あたりから落ちるボールを効果的に使い、打たせて取るピッチングに活路を見出しました。
 結果的には、約3か月で「岩隈MLB仕様」を創り上げました。NPBにおいて、2008年に21勝4敗、防御率1.87、28完投、201と2/3回登板という素晴らしい成績で沢村賞に輝いたことに代表される、バリバリの先発投手であった彼が、不定期登板の中継ぎ投手として結果を出さなくてはならなかった時期は、彼にとっても辛い時期であったと思いますが、見事に対応し、7月以降の先発起用に応えた点がさすがでした。

 最終的には、9勝5敗2S、30試合125と1/3イニング登板、防御率3.16と実質3か月間の先発投手成績としては、十分な結果を残しました。そして、シアトル・マリナーズと2年総額1400万ドルで契約更改しました。1年契約150万ドルでスタートしたMLB生活ですが、見事にランクアップを果した形です。
 本ブログでも書きましたが、岩隈がMLB仕様を確立した時期は、ダルビッシュ投手より早かったように観えました。岩隈投手の適応力の高さを示すものだと思います。

 来シーズンは、シアトル先発投手陣の軸としての活躍が期待されます。おそらく、ヘルナンデス、バルガスに続く、先発三番手という位置付けかと思いますが、若手が育ってきているシアトルにとっては、久しぶりにプレーオフを展望できるシーズンになりそうですので、岩隈投手の大車輪の活躍が鍵になりそうです。

 ひとつだけ気になるのは、2012年シーズンの9月中旬に、ややスタミナ切れのような登板が続いた時期がありました。その後、10月にかけて持ち直し、3連勝でシーズンを終えたのですが、やはり長いレギュラーシーズンを乗り切るスタミナの重要性を感じました。百も御承知のこととは思いますが、2013年シーズンを投げ切る体力の構築が肝かと思います。

 黒田博樹投手の2012年シーズンは、16勝11敗、33試合219と2/3イニング登板、防御率3.32と、自身のプレーヤー人生で最高の成績であったように思います。
 特に、4~5月の4勝6敗の成績からの巻き返しは見事でした。NPB時代から、打線の援護に恵まれない投手として有名?でしたし、MLBのロサンゼルス・ドジャース時代も4シーズンのプレーで勝ち越したのは1シーズンだけ、それも2009年の8勝7敗というものでした。2012年も、当初はそうした傾向がありましたが、6月からは打線との相性も良くなり、6月以降の黒田の先発登板23試合で、ヤンキース打線は114得点、1試合平均5点を叩き出してくれるようになりました。
 こうなると、安定したピッチングを誇る黒田の勝ち星が積み上がるのも道理です。

 ヤンキースと1年契約であった黒田が、2013年シーズン、何処でプレーするのかについては諸説ありました。来シーズンに38歳になる黒田は、故郷に錦を飾り?NPBでプレーするのではないかとか、お子さんの学校があるアメリカ西海岸のチーム、例えば古巣のドジャースでプレーするのではないかとか。
 黒田投手自身も、少し迷ったような気配がありましたが、結局ヤンキースでのプレーを選択しました。1年1500万ドルというハイレベルな契約内容です。勝手に、黒田投手の気持ちを考えてみると「一番気持ちが良いところでプレーしたい」ということではないかと思います。
 
 いくら粘り強く、我慢強いことが信条の黒田とはいえ、勝ち星に結び付く投球をしたいのは、ピッチャーとして当然のことです。この大ベテランにとって、野球・ベースボールプレーヤー人生において、ヤンキースのマウンドが最も心地よく、最も遣り甲斐のある場所だったのでしょう。2013年、黒田は再び済々とヤンキースタジアムのマウンドに上がるのだと思います。責任の重さをも、楽しみながら。

 それにしても、黒田投手にはMLB先発投手のオーラが漂っています。NPBからMLBに渡った投手の中で「最もMLBの投手に成熟したプレーヤー」だと思います。もはや、NPBにおける黒田とMLBにおける黒田を比較する人は居ません。変な言い方ですが、それが証拠だと思います。
シンカーを中心とした、打たせて取るピッチングで、アウトを積み上げていく迫力は、MLBの一流先発ピッチャーのものです。HIROKI KURODAは、メジャーリーグの素晴らしいピッチャーであると感心するばかりです。

 イチロー選手も、2013年はヤンキースでプレーすることとなりました。本ブログでも書きましたが、2012年7月下旬にシアトルからヤンキースにトレードされて以降、イチローは笑顔に溢れ、まるで野球少年のようなプレーを続けました。試合に出ることが、楽しくて仕方がないという感じでした。

 2012年シーズン、シアトルでは95試合プレーをしました。打率は.261、OPS(出塁率+長打率)は.642とMLBの野手としては「並」レベルの成績でした。それが、ヤンキースに移って以降の67試合では、打率.340、OPSも.794と大幅に改善、イチローはヤンキースに無くてはならないプレーヤーとなりました。

 このヤル気満々というか、心底MLBでのプレーを楽しんでいるプレーヤーの2013年の契約に対するヤンキースの対応は、素早いものとはいえませんでしたが、12月に入ってようやく結論が出て、2年1300万ドルでヤンキースと契約更改したと伝えられています。
 楽しそうに嬉しそうにプレーしていたイチローを観るにつけ、イチローの希望はヤンキースでのプレー以外には有り得ないと感じていましたので、落ち着くところに落ち着いた形です。

 来シーズンは、シーズン当初からヤンキースでプレーするイチロー(当たり前のことですが)が、どのような準備をシーズンオフの間に行うのかは、とても興味深いところです。来シーズンには40歳になるプレーヤーですが、ある意味では最も脂が乗っている(気合が入っている)選手ですので、彼の長いキャリアの中でも最高の準備をするような気がします。
 「好きこそものの上手なれ」という諺がありますが、イチロー程の天才が好きでやる努力、およびその結果は、とてつもなく楽しみです。

 岩隈投手、黒田投手、イチロー選手の3人の日本人プレーヤーは、自らの力で2013年シーズンのポジションを確立しました。プロスポーツプレーヤーの模範となるプレーヤー達です。
 こうしたプレーヤーのプレー振りは何かが違うのでしょう。その何かを楽しみに、2013年のMLB開幕を待ちたいと思います。
 グランドナショナル競走は、イギリス競馬の障害競走(G3重賞)ですが、年々人気が高くなっていて、イギリス競馬の全てのレースの中で馬券の売上高1位のレースです。2008年には、長く世界一の競馬馬券売上高1位レースであった有馬記念競走(日本競馬)を抜いて、世界一の売上のレースとなりました。グランドナショナル競走を語る時、この点を十分に認識しておく必要があります。

 グランドナショナル競走は、1836年に創設されたレースです。1780年に創設されたダービー競走から遅れること56年・約半世紀ですが、世界で最も古い競馬レースのひとつであることは、間違いありません。今年、2012年の4月のレースで165回を数えています。
 開催場所は、イギリス・リバプール郊外のエイントリー競馬場。レースの距離は、4マイルと4ハロン、約7240mです。16個の障害物が設置されているコースを2周弱して、30個の障害物を越えるレースです。コースの形は三角形で、概ね平坦です。

 各々の障害物は、エゾマツの一種である「トウヒ」によって作られています。トウヒの枝を積み重ねて障害物にしていますので、日本の障害レースの障害物とは異なりますし、テレビ画面で競走馬が飛越している様子を観ると、掻き分けたり、前脚と体で乗っかったりする時に、とても重そうに観えます。各馬が飛び越える度に、トウヒの枝の先がボトボトとターフに落ちて行きます。相当の幅と高さ(137㎝~213㎝)を備えた障害物ですから、ひとつひとつを超えていく度に、かなりの体力を消耗すると思われます。
 トウヒは、我が国では海抜1500m位の高山エリアに育つのですが、イギリス・リバプール辺りは、相応に平均気温が低いということでしょうか。

 このレースの出走頭数は、毎年ほぼ40頭です。バリアー式スタート*のため、フルゲートという概念は無いのですが、コースの幅や安全性を考慮しているのでしょうか、近時は40頭を出走馬数の上限としていて(過去最多出走は、1929年の66頭)、毎年40頭位になるという形。2005年の一次登録が152頭に上ったそうですから、馬主の皆さんにとってもとても人気があるレースということになります。(*スタートラインに紐を張り、スタート間近になると、紐の後ろに出走馬が集まってきて、紐が上方に上がることで発馬となるスタート方式。第一回日本ダービーの映像などで見ることが出来ます。日本では、1960年頃まで採用されていました。現在のスタート方式は、ゲート式です。)

 その40頭の出走馬の中で、ゴールインするのは、年によっては10頭未満、20頭以上ゴールインする年は完走率が高い年ということになりますので、過酷なレースです。(最少完走頭数は、1928年の2頭。最多完走頭数は、1984年の23頭。)

 負担重量は、ハンディキャップ戦です。最も重い斤量ともなると76㎏を超えますので、これも大変な負担です。走破タイムは馬場状態などの関係で、年により幅がありますが、今年のレースは9分5秒でした。2002年以降は、10分を切るタイムとなっています。

 こうしたレースですので、観客側からすると、落馬や競走中止、カラ馬(騎手が落ちた後、馬だけが走っている状態)による様々なトラブルの発生など、ある意味では確かに面白いのですが、私はへとへとになっても走り続ける馬達を観ると、大変なレースだと、いつも感じます。

 さて、この長い歴史と伝統を誇り、イギリスで最も人気の高いレースに、日本馬としてただ一頭出走したのが、本稿で採り上げるフジノオーです。

 フジノオー号、父ブリッカバック、母ベルノート、母の父ミドストリーム。生涯成績79戦25勝、内ヨーロッパで16戦2勝。お父さんのブリッカバックの父は名馬ウォーアドミラル(アメリカ競馬史上4頭目の三冠馬)、その父はアメリカ競馬史上最高の馬といわれるマンノウオーです。従って、フジノオーは血統上マンノウオー系になります。
 ブリッカバックは、我が国では障害レースの重賞勝ち馬を多数輩出しました。

 1962年、3歳の1月に遅いデビューをしたフジノオーは、平地では15戦1勝と良い成績を残せませんでした。陣営は、血統面から障害競走に活路を見出すべく、3歳秋に早々と障害レースに転向。1963年・4歳の正月競走で、障害3戦目にして障害初勝利。
 4歳秋の中山大障害に駒を進めました。イギリスのグランドナショナル競走に範を取った、我が国最高の障害競走である中山大障害競走は、この頃は春と秋、年に二回実施されていました。この秋10月のレースにフジノオーは臨んだわけです。
 実は、フジノオーは、1963年春の中山大障害にも出走していましたが途中で落馬、カラ馬のままゴールインしていましたので、秋のレースでは最低人気でした。しかし、ゴール前で一番人気のタカライジンを交わして優勝しました。

 ここからフジノオーの中山大障害の連勝が始まります。1964年の春・秋、1965年の春と連勝、中山大障害4連覇の偉業を達成しました。そして、5連覇を目指した1965年の秋のレースは、68㎏の酷量を背負ったフジノオーは、54㎏の斤量のミスハツクモの2着と敗れました。
 中山大障害は、1勝する度に斤量が+2㎏というレースでしたし、フジノオー自身も国内には出走するレースが無くなってしまいました。

 こうした状況のフジノオーは、1966年イギリスジョッキークラブから招待を受けましたので、イギリス遠征に臨むこととなりました。
 しかし、招待とはいっても、現在のジャパンカップのような招待ではなく、移動費用等は全て馬主持ちでしたし、伝染病ほかの検査期間も長かったので、イギリスに到着したのは、その年のグランドナショナル競走の2か月前になってしまいました。
 長い移動期間中に肩の故障を発症した上に、時間が無い中での調教と、回避の噂も流れましたが、何とか出走できる状態になったので、グランドナショナルの9日前のレースで一叩きすることとしました。ここで、さらにフジノオーを待ち受けていたのは負担重量でした。
 日本の大レースを4連覇していたこともあったのか、トップハンデの79.4㎏(12ストーンと1/2)を背負わされたフジノオーは、この調整のためのレースで12頭中の6着に敗れました。とはいえ、見ず知らずの土地にへとへとになって辿りつき、背負ったこともない斤量を負わされた中では、私は大健闘だと思います。

 そして、1966年3月の第120回グランドナショナル競走に出走します。このレースでも76.2㎏(12ストーン)のトップハンデ(グランドナショナル競走の上限ハンデ)でした。イギリスのレースでの実績が無いという理由(イギリスで3回以上のレース経験が無い馬は、上限ハンデというルール)とはいえ、あまりに酷量だと思いました。

 このレースは、日本でも録画でテレビ放送されました。私も、白黒画面に見入りました。全部で30個ある障害の中でも、6~9番目(2周目の22番目~25番目)と15番目(1回だけ飛越)の障害は特に難度が高い障害とされていました。フジノオーは、6~9番の障害を見事にクリアしました。さすがに飛越が上手いことで有名な馬でしたので、日本では見たこともないような大きさの障害を何とかクリアしていったのです。(相当大変そうに越えていました)
 しかし、15番目の障害「ザ・チェア」(難しい障害には、個々に名前が付いています)を前にして、フジノオーは立ち止まりました。ザ・チェアは、丁度1周目を終えて2周目に入るところに設置されている障害です。立ち止まり、左に向いて歩いていたと記憶しています。再度トライする様子は全くありませんでした。
 このレースは、47頭が出走し、完走は12頭でした。

 この後、フジノオーはドーバー海峡を渡りフランスの障害競走に出走し続け、1967年に重賞2勝の成績で引退しました。フジノオーが日本に帰ってきたのは、1967年の12月でした。

 フジノオーは何故15番目の障害で、競走を中止したのでしょう。当時は、酷量と厳しい障害、そして10日間で2回のレースという疲労残りかな、と思いましたが、今考えると少し違うのではないかと思います。

 「フジノオーがゴール位置を勘違いしていたこと」が原因ではないかと思うのです。グランドナショナル競走は、1周目の14番目の障害(2周目の通算30番目の障害)を越えるとゴールです。
 1周目の14番目の障害を越えると、右側に走路が広がり、ゴールが見えるのです。フジノオーは、14番目の障害を越えて、ゴールに向かって走るつもりだった。ところが、騎手は左に行けと指示します。そこには、15番目の障害が待っていたのです。14番目の障害でも、既に3500m以上走っています。
 利口な馬は、コースを憶えるといわれますが、フジノオーもレース前にコースを憶えたのでしょう。そして、1周を走るつもりでスタートしたのでしょう。

 もちろん、検疫のためアメリカ経由でイギリスに入り、途中で肩を痛め、ようやく走れるようになったら酷量を背負わされてしまい、疲労困憊で本番に臨んでいたことも、遠因なのでしょうが、最も大きな理由は、フジノオーが利口な馬で、1周のレースと思い込んでいたことのように思うのです。

 疲労が取れた翌年には、フランスの障害レースで堂々と2勝しています。もう一度グランドナショナルにトライしていたら、おそらく完走していたように思います。

 欧州の平場レースで日本の競走馬が好成績を挙げたのは、フジノオーがフランスで優勝してから、30年以上後のことです。1998年のシーキングザパールとタイキシャトルの活躍を待たなくてはなりません。

 フジノオーは、欧州で最初に輝いた日本馬でした。決して忘れてはならない名馬だと思います。
 2012年12月15日、中山競馬場外回り芝コース1600mで行われる、第64回朝日杯フューチュリティーステークスG1の予想です。

 今年も例年通り、2歳牡馬の一線級が揃いました。このレースは、前走までに重賞優勝経験がある馬が有利ですし、内枠が有利なレースです。

 まずは軸馬の検討です。
 軸馬候補の1番手は、3枠5番のコディーノです。ここまで、3戦3勝、内G3重賞2勝という好成績。着差、走破タイム等、レース振りも安定しています。
 軸馬候補の2番手は、5枠9番のエーシントップです。ここまで、3戦3勝、内G2重賞1勝。1400m戦が多いのが気になります。

 この2頭から、軸馬はコディーノにします。各レースでの安定した抜け出し方、着差が良いと思います。3枠という内側の枠を引いたのも好材料です。

 対抗馬の選定です。軸馬候補だったエーシントップは、対抗馬候補でもあります。
 続いての対抗馬候補は、2枠3番のゴットフリート。ここまで2戦2勝。前走のきんもくせい特別では勝負強さも見せました。屋根にスミヨンを迎えて、才能が開花するかもしれません。
 続いての対抗馬候補は、2枠4番のテイエムイナズマ。前走の京王杯2歳ステークスは、1番人気ながら9着に敗退。しかし、この時期の若駒ですから巻き返しの可能性十分です。
 続いての対抗馬候補は、3枠6番のラブリーデイ。前走の京王杯2歳ステークスは、エーシントップの2着と好走。1800mのレースでも好走している点が楽しみです。
 続いての対抗馬候補は、4枠8番のクラウンレガーロ。前走のデイリー杯2歳ステークスG2、前々走の小倉2歳ステークスG3と連続の2着。底をみせていない感じです。グラスワンダーの血統が炸裂するかもしれません。
 続いての対抗馬候補は、6枠12番のフラムドグロワール。前走のいちょうステークスはゴール前の激戦を制して1着。1600mがぴったりのダイワメジャー産駒です。
 続いての対抗馬候補は、7枠14番のロゴタイプ。前走のベゴニア賞は1600mをレコード勝ち。デムーロを屋根に、本格化の兆しです。

 これらの候補馬の中から絞り込みます。これまでのレース振り、ローテーション、血統から、大きく伸びる可能性を秘めた馬を選定しました。

 対抗馬一番手は、クラウンレガーロ。
 対抗馬二番手は、フラムドグロワール。
 対抗馬三番手は、ラブリーデイ。

 今回は、以上の4頭に期待します。スケールの大きな優勝馬の出現が待たれます。
 12月8日、関東大学ラグビーリーグ戦グループの1部2部入替戦が行われました。

 まず、1部7位の大東文化大学と2部2位の山梨学院大学が対戦。大東文化大学が21-14で勝ち、1部残留を決めました。
 続いて、1部8位の関東学院大学と2部1位の立正大学が対戦、40-17で立正大学が勝ち1部への昇格を決めました。関東学院大学は、2部に降格しました。
 
 関東大学ラグビーリーグ戦グループは1部から6部まであり、シーズンの成績により、それぞれの部毎に入替戦が行われるルールですから、関東学院大学が2部に降格になることは、不思議なことではありません。しかし、あの関東学院大学が、という感じはします。

 関東学院大学にラグビー部(同好会)が出来たのは、1959年・昭和34年です。翌1960年には部になり、1968年には関東大学ラグビーリーグ戦グループの2部に所属しました。1972年には3部に降格し、1974年には牧野監督から春口監督に代わりました。
 この春口廣監督の就任が、同大学ラグビー部のエポックのひとつであったろうと思います。1977年には2部に昇格し、1982年には1部に昇格しています。その後1986年までは、1部の下位に低迷しましたが、1987年に4勝4敗で3位となり、以降はリーグ戦グループ1部の優勝を争う大学になりました。

 1990年には、リーグ戦1部で初優勝、大学選手権にも初出場を果たします。その後1995年までの間は大東文化大学・法政大学との間で熾烈な戦いを続けましたが、1部優勝には今一つ届かないシーズンが続きましたし、大学選手権でも準決勝・準々決勝での敗退が続きました。殻を破る寸前の状態であったと思います。

 そして、1996年のシーズンを迎えます。このシーズン、関東学院大学は7戦全勝で1部優勝を果たします。そして、翌1997年も全勝優勝、加えて全国大学選手権で初優勝したのです。この1997年から2006年までの10年間、同大学のラグビーは全盛期を迎えました。

 この「栄光の10年」の関東学院大学ラグビーの強さは、10年間続けたという意味で、かつてどの大学も実現したことの無い高いレベルの強さであったと思います。
・リーグ戦1部で8回優勝(内5回全勝優勝)
・10年連続大学選手権決勝進出
・大学選手権優勝6回(2連覇2回)、準優勝4回
 という、凄まじい成績です。

 特に、2001年~2006年の大学選手権における早稲田大学との6年連続の決勝戦は、全国大学ラグビーフットボール選手権大会の輝ける歴史のひとコマでしょう。この頃の早稲田大学も毎年相当に強いチームを送り出して来ましたが、前に出るパワーという点では、常に関東学院大学が上回っていたように観えました。3勝3敗という成績も、この6年間を象徴するのに相応しいものでしょう。

 この全盛時の関東学院大学に転機が訪れたのは2007年。2006年に続いてリーグ戦1部を6連勝で走っていましたから、今年も関東学院が大学ラグビーを制するのではないか、と誰もが考えていた折、11月に大麻取締法違反容疑で部員2人が逮捕され、対外試合を自粛してリーグ戦、大学選手権の試合を辞退。
 その後、部員12名の大麻吸引が発覚し、ラグビー部は半年間の対外試合自粛を発表しました。春口監督も辞任し、櫻井監督が就任しました。

 この不祥事の後、関東学院大学のラグビーは次第に勢いを失い、今シーズンの2部降格となったのです。

 こうして見ると、現時点までの同大学ラグビーの全国大学ラグビーにおける足跡は、春口監督と共にあったように思います。
 春口氏は、日本体育大学のラグビー部出身でポジションはスクラムハーフSH。しかし、日体大ではレギュラーにはなれなかったそうです。
 1974年に部員8人の関東学院大学ラグビー部の監督に就任し、最初の2年間は3部で全敗。3年目に初勝利を挙げました。この頃の春口監督は、いつか早稲田・慶応・明治に匹敵するチームを造りたいと日々の練習に打ち込んでいたそうです。
 大学選手権を優勝した際のインタビューにも、名門校への強いライバル意識が観えました。

 春口監督の指導の特徴として、フォワードFW・バックスBKのバランスの良いチーム造りが挙げられると思います。全盛時のチームは、FWもBKも強く、前に出るパワーに溢れていました。従って、攻勢に出た時の強さは格別で、当時の大学チームでは太刀打ちできない感じがしました。

 春口氏在学中の日本体育大学のラグビーチームも大変強く、1969年には大学選手権を制覇しています。この頃の日体大チームのラグビーは、バックスによる横への展開ラグビーの早稲田や、フォワードによる前への突破を主体とした明治のラグビーとは異なり、フランカーとバックスプレーヤーが2~3人並行に走り、短いパスを繋いでゴールラインに迫る、我が国では珍しいランニングラグビーであったと記憶しています。

 春口監督の関東学院大学でのラグビーは、前述3校のいずれにも似ていない、独自のラグビーであったように思います。
 まず、個々のプレーヤーの体が非常に強い。ひとりで相当に突破できる能力があります。FWも突破力があり、ひとりで5~10ヤード抜けていきます。BKも突破力があり、カウンターのスピードも十分です。フルバックに突破力を備えたプレーヤーを配置していることが多かったとも思います。
 一言では表せませんが、高い能力を備えた個人プレーの継続という感じでしょうか。ラックやモールの集団プレーよりも、ラックサイド、スクラムサイドを突破していくイメージがあります。

 その高い能力を有するプレーヤーの代表格が、ナンバーエイトの箕内選手でした。箕内選手を始めてみた時のインパクトは強烈でした。従前の日本の大学ラグビープレーヤーの枠を完全に超えた選手でした。そのパワーは凄まじく、箕内選手の前身は止められないと思いました。関東学院大学ラグビー全盛時の始まりを告げるプレーヤーでしたが、日本ラグビー史上における最強のナンバーエイトの一人だと思います。

 バックスでは、立川選手が印象的でした。フルバックFBから素早く強いカウンター攻撃で、10~20m位前進します。ステップも素晴らしいのですが、何より体が強い。なかなか倒れないのです。関東学院大学の全盛時を飾るトッププレーヤーでした。

 もう一人忘れられないのが有賀選手です。立川選手と同じポジションのFBですが、立川選手とは異なり、巧みなステップで縦に突破してきます。止められそうで止められない感じのランニングは驚異でした。関東学院大学ラグビー全盛時の後半の名プレーヤーでした。

 もちろん、他にも松田選手、淵上選手、山口選手、北川選手、山村選手等々、名プレーヤーが目白押しですが、私が最も印象的だったのは、前述の3人のプレーヤーでした。

 このような歴史と沢山の素晴らしいOBを擁する関東学院大学ラグビーが2部落ちしたことは、頭書した通り不思議なことです。
 報道では、良い選手が集まらなくなり、チーム内の競争も無くなった、といった理由が書かれていますが、1997年以降の栄光の10年間はともかくとして、1990年頃の伸び盛りの関東学院大学ラグビー部には、全国高校ラグビーのトップクラスの選手が集まっていたのでしょうか。
 そうではなく、情熱に溢れた春口監督の下で、限られた戦力を磨きに磨き、チームを創り上げていったのではないでしょうか。

 どんな名門チームにも、必ず苦しい時期があります。関東学院大学ラグビー部も、この降格をチャンスとして捉えて、もっと強いチームになって帰ってきて欲しいものです。
 「怖いぐらいの突破力を具備したチーム」が、私の知っている関東学院大学ラグビー部です。

 関東大学ラグビーには、対抗戦グループとリーグ戦グループの二つのグループが存在していて、各大学はそれぞれのグループに所属してシーズンの試合を戦っています。
 伝統校が所属する対抗戦グループと新興校が所属するリーグ戦グループと言われることもありますが、実際はどうなのでしょう。そもそも、何故このように解りにくい状況になっているのでしょうか。

 我が国ラグビーのルーツ校が慶應義塾大学であることは有名ですが、以下に各大学においてラグビー部が出来た年次を表記します。大学名は現在の大学名とし、有名な試合・グループについては、その開始年も表記します。

① 1899年慶應義塾大学ラグビー部創設
② 1910年京都大学ラグビー部創設
③ 1911年同志社大学ラグビー部創設→1912年慶同戦開始
④ 1918年早稲田大学ラグビー部創設→1922年早慶戦開始
⑤ 1921年東京大学ラグビー部創設
⑥ 1922年一橋大学ラグビー部創設
⑦ 1922年明治大学ラグビー部創設→1923年早明戦開始
⑧ 1923年青山学院大学ラグビー部創設
⑨ 1923年立教大学ラグビー部創設
⑩ 1924年中央大学ラグビー部創設
⑪ 1924年法政大学ラグビー部創設
⑫ 1928年日本大学ラグビー部創設
⑬ 1928年日本体育大学ラグビー部の前身の同好会結成
⑭ 1928年関東5大学対抗戦開始(慶応、早稲田、東京、明治、立教)
⑮ 1929年拓殖大学ラグビー部創設
⑯ 1931年専修大学ラグビー部創設
⑰ 1933年関東大学対抗戦に一橋と法政が加わり7校となる。
⑱ 1943年太平洋戦争の影響により関東大学ラグビーの試合が行われなくなる。

 以上が、太平洋戦争終戦以前の主な歴史になります。私は、伝統校か新興校かという区分自体には、あまり意味は無いと思いますが、もし区分するのであれば「ラグビー開始が終戦前と以後」というのは、ひとつの物差しになると思います。
 そして、戦後を迎えます。関東大学ラグビーが対抗戦グループとリーグ戦グループに分かれていくのは、戦後の動きによります。

・1946年関東大学ラグビー対抗戦、再開
・1950年前後、慶応・早稲田が試合数を減らし、一部の大学との対戦を行わなくなる。

・1954年明治・日本・中央・法政・筑波の各大学が5大学リーグの創設を日本ラグビーフットボール協会に申し入れるが、創設できず。

・1957年対抗戦参加校の増加(12校)により、対抗戦AグループとBグループの2グループを設置。入替戦方式を導入。
・1958年日本体育と防衛の2校がBグループに加入し、参加校は14校となる。
・1960年~61年慶應・早稲田が相次いでBグループに転落。
・1963年2グループ制を廃止。「義務4試合+選択3試合以上」の変則対抗戦制度を導入

・1964年加盟14校を並立の2ブロックに分けることを決定。両ブロックの1位同士の対戦で優勝校を決定する方式。(Aブロック.法政・日本体育・中央・筑波他、Bブロック.慶応・早稲田・明治・日本・立教他)

・1965年東西学生大会(後の大学選手権大会)開始(関東2校、関西2校が出場)
・1965年2ブロックの編成替えを巡って、大学間の対立が強まる。結局、早稲田・慶応・明治が中心となって主張した対抗戦方式に戻すことを決定。
・1966年早稲田・慶応・明治・日本体育の各校と対戦が無い法政が8戦全勝で優勝。

・1967年関東大学ラグビーフットボール協会傘下の大学で、総当たり方式を主張する大学(法政・中央・日本・専修・大東文化他)が総当たりのリーグ戦を開始。リーグ戦グループが発足。

・1968年7月リーグ戦を行う各大学が関東ラグビーフットボール連盟を創設。当該連盟に所属する各校のグループが、関東大学ラグビーリーグ戦グループと呼ばれることとなる。一方、対抗戦方式で試合を行い、当該連盟に所属しない各校のグループを、リーグ戦グループと区別するために対抗戦グループと呼ばれることとなる。(対抗戦Gには、「連盟」のような組織は存在せず)
 大学選手権出場校を決めるための、両グループの成績上位校同士による交流試合が開始される。

 以上、関東大学ラグビーが、対抗戦グループとリーグ戦グループに分かれた経緯を簡記しました。

 この経緯を見ると、伝統校が対抗戦グループ(以下、対抗戦G)で、新興校がリーグ戦グループ(以下、リーグ戦G)といった単純なものでは無いことが、良く解ります。

 リーグ戦Gに属する法政・中央・日本といった大学は、上記⑩~⑫の1920年代にラグビー部が出来ていて、対抗戦Gの日本体育大よりは古くからラグビーを行っていました。どちらのグループにも、伝統校と新興校が所属しているのです。

 また、総当たりのリーグ戦方式を導入しようと、1954年・昭和29年に最初に動いた5大学には、現在対抗戦Gに属する明治・筑波の2校が含まれています。総当たり制を主張する各校が、リーグ戦Gを形成したというわけでもなさそうです。

 リーグ戦Gが発足し、それに対応する形で対抗戦Gという呼び名が出来上がったのは、1968年・昭和43年という、比較的新しい時期です。この時期は、我が国が1964年・昭和39年の東京オリンピックを完遂し、世界に日本国の戦後復興が完了したことを高らかに示し、オリンピック後の不景気の時期を乗り越えて、いわゆる高度成長期に突入した時期と重なります。
 高度のインフレが進行し、物価が毎年二桁の上昇を続ける一方で、企業の生産活動も盛んになって、労働者の賃金もインフレ率を追いかけながら上がって行った時期です。実質的な購買力はともかくとして、国民は個人ベースでも毎年所得金額が相当に増加していて、国民の顔にも笑顔が溢れていた時期でもあります。おそらく、戦後の日本人が最も元気が良かった時代でしょう。

 この時期に、関東大学ラグビーの各大学は議論を重ね、離合集散を繰り返し、結果として2つのグループに袂を分かち、現在に至っています。対抗戦Gもリーグ戦Gも、我が国の大学ラグビーの歴史に、大きな足跡を残してきたことは間違いありません。
 
 ただし、現在の対抗戦Gとリーグ戦Gを見ると、新しい血の導入により弾力的に対応してきたのは、リーグ戦Gであるように見えます。
 1986年にリーグ戦G所属の大東文化大学が大学選手権に初優勝し、以降1994年までの間に、3度の大学日本一に輝きました。また、1997年には、やはりリーグ戦G所属の関東学院大学が大学選手権に初優勝し、以降2006年までの間に、6度の大学日本一になっています。
 そして、2011年度シーズンには、流通経済大学が初めてリーグ戦Gを制しました。2012年度シーズンも流経大はリーグ戦Gの優勝を争い、大学選手権の有力校のひとつに数えられています。
 関東大学リーグ戦グループは、伝統校である法政・専修・日本・中央の各大学も健在ですが、前述のような新興校も大活躍する、フレキシビリティ溢れるグループです。

 話が飛びますが、大阪万国博覧会の太陽の塔などの作品で知られる、芸術家の岡本太郎氏がテレビのインタビューに答えていました。相当昔の話です。
 「若い頃、秋田の『なまはげ』を観たことがある。とても怖くて、子供達も怯えて泣きまくっていた。私も、凄い迫力を感じた。」「それから何十年かして、再びなまはげを観る機会があったが、全然怖くない。子供達もあまり怖がらなくなっていた。それから、なまはげをやる人達は、子供たちが怖がるように、お面他を手直ししたと聞いている。そして、怖いなまはげが復活したと聞いている。伝統行事というのは、どんどん変わって行かないと維持できない。時代時代に合わせた変化が、伝統を守るためには必要なんだ。」と。

 「歴史と伝統を維持していくためには変化が必要」だという、一見矛盾した話のようですが、正論だと思います。時代の変化に合わせて、自身が変化していくことで、歴史を積み上げていくことが出来る、言い換えれば、衰亡しなくて済むということなのでしょう。

 話を、関東大学ラグビーに戻します。

 リーグ戦Gに比べて、新しい血の導入が遅れているように見えた対抗戦Gですが、1990年代の後半から帝京大学が伸びてきました。
 1996年の対抗戦Gで3位となった帝京は、1999年・2003年・2005年には2位となり、着実に順位を向上させました。そして、ついに2008年には対抗戦Gで1位となりました。続いて、2009年・2010年・2011年には、大学選手権を3連覇しました。大学選手権の歴史の中でも同一大学3連覇は、1982年~84年の同志社との2校が達成しているに過ぎない、大記録です。

 早稲田や明治といった対抗戦Gの強豪校は、まず1980年代に大東文化、1990年代に関東学院というリーグ戦Gの新興校と激闘を繰り広げ、2000年代後半からは同じ対抗戦Gの帝京やリーグ戦Gの流経と凌ぎを削る時代がやってきたのです。関東大学ラグビーの活性化・発展にとっては、とても良いことだと思います。

 一方で、対抗戦Gのいわゆる伝統校、慶応や早稲田や明治といった大学は、自身の浄化力というか変化していく力によって、自校伝統のラグビーを維持・発展させているように観えます。この3校の試合ぶりも、最近の20年間で随分変わりました。この「変化できる力」こそが、この3校の強さの源なのでしょう。
 
 関東大学ラグビーは、歴史上の様々な事象を乗り越えて、今日も日本の大学ラグビー界、ひいては日本のラグビー界を牽引し続けています。対抗戦グループとリーグ戦グループの存在は、関東大学ラグビーの存続のために必要な形だったのでしょう。
 もともと中央競馬の東西の2歳馬チャンピオン決定戦であった朝日杯3歳ステークスと阪神3歳ステークスが、1991年に全国の2歳馬チャンピオン決定戦としての朝日杯フューチュリティーステークス(朝日杯FS)と2歳牝馬チャンピオン決定戦としての阪神ジュベナイルフィリーズ(阪神JF)に改編されたことは、阪神JFの稿に記述した通りです。(レース名の変更は、両レースとも2001年です)

 朝日杯FSは中山競馬場芝1600mにて実施されていますが、2歳馬の競馬における朝日杯FSの格は極めて高く、1991年のレース改編以来、このレースの勝ち馬が年間最優秀2歳馬に選出され続けています。名実ともに、2歳馬最高峰のレースとなっているのです。
 但し、不思議なことに1993年の優勝馬ナリタブライアンが翌年三冠馬となって以来、朝日杯FSの勝ち馬は、日本ダービーはおろか、皐月賞、菊花賞にも勝っていません。既に20年近くになりますので、「朝日杯FSの勝ち馬は、クラシックレースに勝てない」というのは、立派なジンクスになっています。(クラシックレース以外のG1競走の勝ち馬は出ています)

 1600mの朝日杯FSに勝っても、皐月賞2000m、日本ダービー2400m、菊花賞3000mに勝つのは難しいという見方もありますが、やはり中央競馬全体のレベルアップの中で、2歳のG1競走を制するには「早熟な馬」が有利ということのように思います。
 例えば、2005年の三冠馬ディープインパクトは、そのデビュー戦が2004年の朝日杯FSの翌週という、遅いデビューでした。

さて、このように極めて格が高いレースですので、このレースの優勝馬には印象深い馬達が沢山居ます。その中から本稿で採り上げるのは、1976年朝日杯3歳ステークス時代の勝ち馬マルゼンスキーです。

 マルゼンスキー号、父ニジンスキー、母シル、母の父はバックパサー。生涯成績は8戦8勝、無敗馬です。35年以上も前の馬ですが、競馬ファンの間では有名な馬ですので、ご存知の方も多いと思います。
 こちらも有名なイギリス三冠馬ニジンスキーの仔であったマルゼンスキーは、母シルのお腹の中に居た時に日本に来て、日本で生まれた、いわゆる持込馬でした。日本の中央競馬の歴史の中で、たまたまこの時期(1971年~1984年)だけが、持込馬がクラシック競走に出走できない時期でした。(サラブレッドの輸入自由化が進む過程で、内国産馬保護の観点から規制されたもの)
 不運であったともいわれますが、いずれにしてもマルゼンスキーは、出走可能なレースを選びながら、伝説的なレースを続けたのです。

 生まれつき前脚が外向(爪先が外を向いている)であったため、脚の故障に気を付けながら調教しなければならなかったマルゼンスキーですが、何とか6割方仕上がったので新馬戦1200mに臨みました。1976年・昭和41年の10月でした。これを大差で勝ち上がり、2戦目の特別レース1200mも9馬身差という圧勝。そして3戦目に、重賞府中3歳ステークス1600mに駒を進めました。

 迎え撃ったのが、北海道3歳ステークスをレコード勝ちしたヒシスピードでした。この競馬は、前半からスローペースとなり上がりの競馬となりました。4角を回り、府中の直線に入って100m位の所でヒシスピードとマルゼンスキーが並んだところからヨーイドンの競馬です。強い馬は緩みの無いペースでレースを進めながら、最後の直線でも伸びるのですが、ヨーイドンの競馬になると少し力の落ちる馬にもチャンスが到来します。
 ヒシスピードにとっては、千載一遇のチャンスでした。2頭は、長い東京競馬場の直線で叩きあいます。私もテレビで観ていましたが、残り300mで内側のマルゼンスキーが少し出て、残り200mでヒシスピードが差し返して少しリード、残り100mでマルゼンスキーが再びアタマ差位リードして、ヒシスピードが再び追い上げ、並んだところがゴールという感じでした。
 全く互角に観えましたので、頭の上げ下げだけの勝負で、マルゼンスキーがハナ差で勝ちました。悪くない馬場であったと記憶していますが、走破タイムは1分37秒9と、この頃でも遅いタイムでした。

 3着馬に10馬身の差を付けていましたから、2頭のマッチレースでしたが、後から思えばヒシスピードにとっては、大魚を逸したレースでしたし、マルゼンスキーからすれば、負けていてもおかしくないレースでしたが、これを勝ち切れたのは、彼の強運という感じもします。
 それにしても「上がりの競馬は怖い」ものです。

 冷汗ものの勝利を得たマルゼンスキーは、本稿のテーマである朝日杯3歳ステークスに臨みます。前走の反省もあってか、このレースでマルゼンスキーは自らレースを作り、悠々と逃げました。
 悠々といっても相当のペースです。二番手を行くヒシスピードは、付いていくのがやっとという感じ。直線に入ると、マルゼンスキーとヒシスピードの差は広がるばかり。ゴールの時には大差となっていました。走破タイムは1分34秒4のレコード。前走の府中3歳ステークスより、3.5秒速いタイムです。マルゼンスキーにとって唯一のG1級のレース優勝でした。

 日本競馬の常識を超えた走破タイムとレース振りから、「怪物」とか「バケモノ」とか呼ばれたマルゼンスキーでしたが、この馬がクラシックレースに出走権が無いというのは、当然に問題になりました。
 主戦の中野渡清一騎手が「28頭立ての大外の外でも良い。賞金もいらない。他の馬の邪魔もしない。この馬の力を試したいだけ。だから、ダービーで走らせてください。」と言ったと伝えられました。しかし、日本ダービーへの出走は叶いませんでした。

 朝日杯3歳ステークスの後、マルゼンスキーは4戦4勝で競走馬を引退しました。1977年・3歳時の4勝の中には、重賞日本短波賞の勝利があります。これは2着のプレストウコウに7馬身差のレースでしたが、その後プレストウコウが菊花賞に勝ちましたので、この世代におけるマルゼンスキーの強さが、一層際立ちました。
 同年の有馬記念挑戦に向けて調教中に、屈腱炎を発症したために引退を余儀なくされたのですが、前年世代のトウショウボーイやテンポイントとのレースを観て見たかったと思います。

 競走馬を引退したマルゼンスキーは種牡馬となりました。産駒には、父と同じ朝日杯3歳ステークスや日本ダービーを制したサクラチヨノオーや、菊花賞を制したホリスキー・レオダーバン、宝塚記念・京都大賞典2回優勝のスズカコバンなどのG1馬が居ます。牡馬の長距離に強い馬が多いように思います。
 一方、母の父(ブルードメアサイアー)としても優秀で、スペシャルウィーク、ライスシャワー、ウィニングチケット、メジロブライト、メジロベイリーなどのG1勝ち馬を輩出しました。ブルードメアサイアーとしては、1995年~2003年の間9年連続2位でした。その間の1位は、全てノーザンテーストです。この稀代の種牡馬と同世代であったため1位にはなれませんでしたが、素晴らしい種牡馬成績だったと思います。

 1997年8月、マルゼンスキーは心臓麻痺で死亡しました。22歳でした。

 マルゼンスキーは、日本競馬史上の最強馬を語る時、必ず名前が上がる馬です。それは、8戦8勝の無敗馬であったことも大きな要因でしょうが、最大の理由はその勝ちっぷりにあると思います。府中3歳ステークスを除けば、常に大きな差を付けて勝ち、1600m1分34秒4の驚異的なレコードを叩き出していることが競馬関係者やファンの心に強い印象を残しているのです。

 マルゼンスキーは、2着馬との着差の大きさや走破タイムの水準という「勝ちっぷり」という観点からは、11戦11勝のクリフジ(1943年の日本ダービー、オークス、菊花賞の勝ち馬)、10戦10勝のトキノミノル(1951年の皐月賞、日本ダービーの勝ち馬)に匹敵します。但し、この2頭が勝っているクラシックレースには、マルゼンスキーは出走できませんでした。
 一方でマルゼンスキーは、相当に日本競馬が成熟し、海外から様々な種牡馬が入ってきて、全体のレベルが向上した1976年の記録という意味では、クリフジやトキノミノルを凌いでいると思います。
日本競馬史上の最強馬を争う資格が、マルゼンスキーには十分にあります。

 本ブログにも何回か登場していますが、私は30年前の夏休みに、大好きだった馬たちに会うために、友人と北海道を回りました。牧場が並ぶエリアの道を自動車で走っていると、100m位はなれたところに1頭の馬が立って、ゆっくりと周囲を見渡しています。周りには何頭かの馬が居ましたが、凛として立つその馬を見た時「只者ではない」と呟きました。
 牧場に入り確認すると、マルゼンスキーでした。他を圧するオーラ、圧倒的な胸の筋肉、現役時代と変わらない彼が、そこに居ました。マルゼンスキーの居場所は事前には確認できておらず、訪問予定先にも入っていなかったのです。

 マルゼンスキーの最も素晴らしいところは、その凛とした立ち姿だと思っています。
 今季のNFLレギュラーシーズン第13週、AFC西地区のデンバー・ブロンコス対NFC南地区のタンパベイ・バッカニアーズのゲームは、31-23のスコアでデンバーが勝ちました。デンバーは7連勝の快進撃で通算成績を9勝3敗とし、レギュラーシーズン4試合を残してAFC西地区の優勝を決めました。

 本ブログでは、今季NFLの注目点のひとつとして、デンバーのクォーターバックQBペイトン・マニングの復活を挙げましたが、ペイトンは見事な結果を残していることになります。

 インディアナポリス・コルツのQBとして、スーパーボール制覇を始めとして、数々の栄光に包まれてきたペイトン・マニングは、首の故障により昨シーズン一度の出場も無く、今季デンバーに移籍しました。新チームのQBとして、どのようなプレーを見せるかは、今季NFLの最注目点のひとつでした。

 2勝3敗のスタートを切った時には、負け越してはいるものの、ペイトン自身の動きも良く、チームとのフィッティングも上々でしたから、シーズン後半が楽しみでした。とはいえ、いくらペイトンでも、最初のシーズンからプレーオフに進出できるかは、難しいところだと思っていました。何しろNFLなのですから。

 ところが、シーズンが深まるとともに、ペイトン・マニングとデンバー・ブロンコスの調子はどんどん向上し、快進撃が始まりました。既に終了した第14週のゲーム、対オークランド・レイダーズとの同地区対決も26-13でデンバーが勝ちましたので、これで8連勝・10勝3敗となりました。プレーオフゲームにおけるホーム競技場でのプレーも展望できる、素晴らしい成績です。

 第13週の対バッカニアーズ戦は、デンバーのホーム・マイルハイスタジアムで行われましたが、このゲームの序盤に興味深い事象がありました。
 デンバーの攻撃中、ペイトン・マニングが面白い動きをフィールド上で見せたのです。ペイトンは、鳥のように両手を広げて上下させました。何回か行いました。最初は、何の動きか解らなかったのですが、何回か観るうちに「観客に静かにするように」というジェスチャーであることが解りました。

 ペイトン・マニングのQBプレーの特徴のひとつに「オーディブル(audible call)」と呼ばれるプレーの直前の変更があります。
 アメリカンフットボールは、プレー毎に攻撃側が次のプレーをデザインし、守備側も攻撃側のプレーを予想して次のプレーを準備します。
 ペイトン・マニングは、守備側の選手の配置などを瞬時に読み取り、用意された攻撃側のプレーを、プレー開始直前に変更するのです。この変更をオーディブルと呼ぶのですが、短時間(数秒の間)に変更することを味方プレーヤーに伝達しなくてはなりませんから、大声で叫びます。各々のポジションのプレーヤーの近くに行って、変更内容を暗号(番号や色)で伝えるのです。
 
 NFLでは、攻撃側には少なくとも数百種類の攻撃パターンが用意されていて、その中からコーチやQBが次のプレーを選択し、各プレーヤーが選択されたプレーを実施していくスポーツです。各プレーヤーも数百のプレーを全て憶えているわけですが、このプレーを数秒の間に変更するのですから、オーディブルはとても難しい行為ということになります。(前のプレーから、次のプレーまでに許されている時間は25秒間です。25秒の間に、まず円陣を組んで次の攻撃プレーを伝達し、攻撃体制を組んで、相手の様子によってオーディブル=攻撃プレー・体制の変更を行うのです)

 このオーディブルの指示をペイトン・マニングが大声で、残る10人のプレーヤーに伝える際に、観客の声援が大きすぎて聞こえにくくなっていると判断し、観客に静かにするようにという指示を出すために、鳥のような仕草をしたということになります。
 ホームスタジアムでなければ、到底受け入れてもらえない行為ですし、ホームスタジアムだとしても、高価なチケットを購入し、心底楽しみにして来場している観客の応援の声を制御するというのは、あまり観たことが無く、ペイトン・マニングならではの行為だと思いました。

 しばらくすると、観客は静かになりました。そして、スタジアムの大きなビジョンには、ペイトン・マニングと静かに見ている観客の映像が半々の形で映し出されました。観客も納得して、歓声を上げるのをやめたのです。驚くべき光景でした。

 エンターテイメントにおいては、常に全力で?楽しむアメリカの観客が、デンバーの攻撃の際には、極めて静かになるのです。NFLやMLBなどで、相手チームがタッチダウンをしたり、ホームランを打ったりした時に、何もなかったかのように静かになる観客は何度も観ましたが、味方チームの攻撃の際に、QBの指示で静かになる観客は、なかなか見られないものです。
 そのかわり、ペイトンのパスが決まった瞬間などは、もの凄い声援がスタジアム中に響き渡ることは、言うまでもありません。観客は、贔屓チームとペイトン・マニングを心から応援し、楽しんでいるのです。

 ちなみに、相手チームの競技場でプレーするときには、自軍の攻撃の際にはクラウドノイズと呼ばれる騒音が響き渡ります。クラウドノイズ対策として、QBは手指でオーディブルの指示を出すのですが、やはり大声に比べて伝達力が弱く、変更内容の種類も制限されますので、オーディブルが行いにくくなります。ホームスタジアムの方が有利な理由のひとつでもあります。

 ペイトン・マニングは完璧主義者であるといわれます。オフェンスのプレーが終了し、ディフェンスの時間帯になると、フィールド横のエリアに味方のオフェンスプレーヤーを集めて、プレーにおける注意点などを細かに伝達し、徹底を図ります。この試合でも、何度もその光景がテレビに映し出されました。各プレーヤーの配置、動きはもちろんとして、体の角度などの細部に及ぶ、極めて精緻な指示だと言われています。

 今季、新チームに加わったペイトン・マニングは、最初のゲームから継続してこの試合中のミーティングを行っています。そして、12試合目となるこのゲームでも、ミーティングを行います。こうして、デンバー・ブロンコスはペイトン・マニングのチームに育っていくのです。これほど徹底して、ゲーム中のミーティングを行うQBは、NFLでも、ペイトン・マニング以外には居ないと思います。

 チームの他のメンバーも、ペイトンの指示通りにプレーすることで、例えばラインメンは綺麗に穴を開けることができますし、ランニングバックはランが出ますし、ワイドレシーバーは長いパスやタッチダウンパスを受けることができますので、自身の成績も上げることができますから、次第にペイトンの言うことを受け入れるようになります。
 何か、ペイトンがオフェンスコーチを兼務しているような状態ですが、ペイトン・マニングをQBに据えるチームのオフェンスコーチは、これを受け入れる必要があるのでしょう。

 既に、デンバー・ブロンコスというチームを相当に手の内に入れ、ホームの観客も手の内に入れつつあるペイトン・マニングは、早々と地区優勝→プレーオフ進出を決めました。何か、インディアナポリス・コルツ時代を凌いでいるようなプレー振りです。
 昨季AFC西地区でレギュラーシーズン8勝8敗だったデンバー・ブロンコスは、現在10勝3敗で走っています。ひょっとすると、スーパーボールまで走り続けるかもしれません。
 そして、ペイトン・マニングは、またひとつ伝説を積み上げるのでしょうか。

 来年6月にブラジルで開催される、FIFAコンフェデレーションカップ2013の組合せ抽選が12月1日に行われ、公表されました。
 アジアカップ2011のチャンピオンとして出場する日本は、グループAに入りました。他の3国は、ブラジル、イタリア、メキシコです。当たり前のことなのですが、この3国の代表チームとグループリーグを戦うのです。なんと素晴らしいことでしょう。
 FIFAコンフェデレーションカップに出場してくる国は、いずれも実績十分の国ですが、その中でも、日本のサッカーファンとして観てみたい試合があります。私としては、観てみたかった試合が実現したので、とてもワクワクしています。

 日本チームのスケジュールです。
 初戦は、2013年6月15日のブラジル戦。このゲームは、この大会のオープニングゲームでもあります。首都ブラジリアのナシオナル競技場で行われます。先般の親善試合で0-4と完敗したカナリア軍団を相手に、FIFAの公式戦を戦えることの素晴らしさ。2014年のワールドカップ・ブラジル大会出場、そしてワールドカップでの好成績を目指す、我らがザックジャパンにとっては、本気のブラジル代表チームとの試合は、望んでもなかなか実現しない、貴重なものだと思います。

 二戦目は、6月19日のイタリア戦。ブラジル北東部の港町レシフェのベルナンブーコ競技場です。ユーロ2012で準優勝したイタリア代表チーム、今回のメンバーはまだ判りませんが、GKのブフォンやDFのボヌッチ、MFのデロッシやピルロ、FWのカッサーノやバロテッリといったスタープレーヤー達と日本代表チームの公式戦です。アルベルト・ザッケローニの母国代表とのガチンコ勝負。何と、素晴らしいことでしょう。

 三戦目は、6月22日のメキシコ戦。ブラジル南東部の標高800mの高原に造られた計画都市ベロリゾンテのコベルナドール・マガリャンイス・ピント競技場です。メキシコは今年のロンドンオリンピックサッカー優勝国です。準決勝で日本を、決勝でブラジルを撃破しての優勝は、メキシコサッカーの強さを示しました。
 オリンピック決勝のブラジル戦で2得点のペラルタや、欧州で活躍するドスサントスといったベテラン組とオリンピック代表の若手がバランス良く配置されるチームになると思います。メキシコサッカー史上でも最強の部類に入る代表チームとザックジャパンの対戦は見逃せません。

 日本代表チームは、今大会の出場でコンフェデ杯出場が5回目になりますが、過去の戦績は、決して悪くありません。

 2001年の第5回大会では、グループリーグでカナダ、カメルーンを破り、ブラジルと0-0で引き分けて、決勝トーナメントに進出。決勝ではフランスに0-1で敗れましたが、準優勝しています。2002年のワールドカップ自国開催を控えた地元大会とはいえ、カナダ戦では、小野伸二、西澤明訓、森島寛晃の3選手が得点し、カメルーン戦では当時のエースストライカー鈴木隆行選手の2ゴールで勝ちました。懐かしい大会です。

 2005年の第7回大会でも、グループリーグでブラジルと2-2で引き分け、ギリシャには1-0で勝ちました。惜しくも決勝トーナメント進出こそ逃しましたが、大黒将志選手や中村俊介選手の得点が想い出されます。

 何故か?これまでは、この大会ではブラジル相手に健闘しているのですが、今回のブラジル代表はホスト国であり、2014年のワールドカップ・ブラジル大会を控えているチームですから、これまで以上に気合が乗っていると思います。どんな試合になるか、楽しみでなりません。

 やはり、国際大会は勝たなくてはなりません。昨年のアジアカップに優勝したので、こうした素晴らしい試合に臨めるのですから。

 2013年のザックジャパンは、油断なく、出来るだけ早くワールドカップ出場権を固めた上で、6月のコンフェデレーションカップに向けた準備に入りたいものです。
 この3試合は、日本代表チームのチーム力向上にとって、とても大事なゲームになります。
 そして、決勝トーナメントに進出したいものです。
 スキージャンプ競技を観ていると、解説者やアナウンサーが「良い風が吹いています」とか「K点付近は無風です」とかいう発言をします。
 踏切から、ランディングバーン上空を落下している(飛行している)ときに、良い向かい風が吹いていると、飛距離が伸びるということを言っているようです。

 そして、思ったように飛距離が伸びないと「風に恵まれませんでした」などとも言います。まるで、ジャンプ競技の成績が、風の良し悪しによって決定されるようなトーンです。

 常識的に考えて、屋外スポーツで風によって成績が大きく左右されるような競技は、プレーヤーにとって不公平感が強い競技ですし、観客から見てもジャンプを見なくとも、風力計だけ見ていれば結果が判ることになりますので、面白くない競技ということになり、消滅していく運命にある競技ということになります。

 ジャンプ競技は、消滅するどころか昔から人気のあるスポーツで、現在でもその人気を維持していますから「風により大きく成績が左右される競技ではない」ことが明らかです。

 それでは、ジャンプ競技の成績に対する風の影響は、どれ位なのでしょう。私は、ほとんど影響がないと考えています。
 もちろん、良い風が吹いている時の方が、悪い風が吹いている時よりも飛距離が伸びることは、間違いないことでしょう。しかし、風は全てのジャンパーに対して吹いているのです。ひとつの競技会の成績・結果に対しては、風の影響はほとんど無いということです。ひとつの競技会の競技時間中であれば、風は概ね平等に各ジャンパーに対して吹いているのです。

 ジャンプ競技というのは「連勝」が多い競技です。

 例えば、「スキージャンプ週間」(欧州では4つのジャンプ台ツアーと呼ばれています)という大会があります。
 1952年~53年シーズンに開始された、スキージャンプ大会としては最も歴史が古い大会のひとつです。昨シーズンまでに60回の開催を数えています。

 「スキージャンプ週間」大会は、12月30日のドイツのオーベルストドルフの競技会と1月1日のガルミッシュパルテンキルヘンの競技会、1月4日のオーストリアのインスブルックの競技会と1月6日のビショフスホーフェンの競技会の、毎年年末年始に開催される4つの競技会(いずれもラージヒル)の総合成績を競う大会です。現在は、後発のスキージャンプ・ワールドカップにも組み込まれています。

 この大会は、前述のように60回の歴史と伝統を誇りますが、この60回の内、概ね1/3の19回の大会において、ひとりのジャンパーが4戦の内3勝以上を挙げているのです。

 我が国で有名なのは、1971年~72年大会の笠谷幸生選手です。1972年2月の札幌オリンピックに向けて調子を上げてきた笠谷は、この大会での3連勝の勢いそのままに、札幌オリンピック70m級ジャンプで、見事に金メダルを獲得しました。
 私が「スキージャンプ週間」の存在を知ったのは、この笠谷選手の活躍によるものです。笠谷は、この大会で3連勝しましたが第4戦を、日本国内のオリンピック予選会に出場するために欠場しましたので、総合優勝は逃しています。笠谷選手が4戦目も出場していたらと考えると、残念ではあります。

 それ以外の日本人ジャンパーでは、1997年~98年大会で船木和喜選手が3勝を挙げて、こちらは総合優勝もしています。船木選手も、この大会3勝の勢いをかって、1998年2月の長野オリンピック・ジャンプ競技、ラージヒル金メダル、ノーマルヒル銀メダルの好成績を挙げました。

 スキージャンプ週間大会で、4戦中3勝を挙げている日本人ジャンパーは、笠谷選手と船木選手の2人だけですが、その2人が、直後のオリンピックで金メダルを獲得しているのは、もちろん偶然ではありません。2人のジャンパーは、ピークをオリンピックに合わせ、絶好調で臨んだのです。事前の大会の好成績無くして、オリンピックだけ勝とうなどというのは、虫のよい話ということになります。応援する私達も、十分に認識しておく必要があります。

 この2人の日本人ジャンパー以外にも、2001年~02年大会でドイツのハンナバルト選手が4戦全勝しています。
 4戦中3勝は、1970年~71年大会のノルウェーのモルク選手、1975年~76年はオーストリアのインナウアー選手、1987年~88年はフィンランドのニッカネン選手、2003年~04年はオーストリアのビドヘルツェル選手、2004年~05年はフィンランドのアホネン選手他、計16回の大会を数えます。

 また、総合優勝の回数では、フィンランドのアホネン選手が5回、ドイツのバイスフロク選手が4回、東ドイツのレクナゲル選手とノルウェーのヴィルコラ選手が3回となっていて、ヴィルコラ選手は3連覇です。

 こうした競技結果を観ると、風と成績が無関係であることは明らかです。1週間強の期間の大会で、3勝以上の成績を残しているジャンパーが皆、個々の競技会の2回ずつ、計6回以上のジャンプにおいて、良い風に恵まれていたということは考えられないからです。

 それどころか、世界のトップアスリートが集まる競技会で、複数のプレーヤーが、これだけ高い勝率を残し得る競技というのも珍しいと言えます。つまり、スキージャンプ競技というのは様々なスポーツの中でも「その時に強い選手が勝利する確率がとても高い競技」と言えます。
 勝ち負けに、風の良し悪しは無関係ということです。

 テレビ放送で、全日本のコーチ職にあるようなハイレベルの専門家である解説者が「今K点付近は良い風ですので、期待できます」といった発言をするのを聴くと、とても心配になります。もちろん、ジャンプ競技を良く知らない視聴者のために、解り易く伝えようとして、そうした表現になるのでしょうが、大会で優勝するジャンパーは風の良し悪しにかかわらず優勝しているのですから、あまり適切な解説とは思えません。

 ジャンプ競技の成績を決めるのは、踏切(サッツ)の強さと速さと角度、そして空中姿勢であることを、キチンと視聴者に伝えるべきだと思うのです。

 また、日本人ジャンパーの皆さんには、大会に臨んでは風のことなど考えず、良いジャンプをすることに集中していただきたいと思います。(十分に認識されていることとは思いますが)
 シャンツェのスタート台に立った時に、良い風が吹いているのかどうか、背中からの悪い風が吹いてきたらどうしよう、などと考えているようでは、結果はおのずと知れたものです。

 歴史的に観てジャンプ競技は、あるジャンパーが勝ち始めると、しばらくの間、その選手が大変高い確率で世界大会を勝ち続ける、競技です。近年であれば、ヤンネ・アホネン選手やアダム・マリッシュ選手、シモン・アマン選手などが相当します。
 ところが、こうした選手でも、調子を崩すと、全く勝てなくなるのです。ここが、他のスポーツ競技とは異なるところです。

 その点から観ると、ジャンプ競技における踏切(サッツ)のタイミング・角度というのは、本当に微妙なもので、十分な筋力があることを前提としてタイミング・角度が合っている間は勝ち続け、合わなくなると容易なことでは合わせることが出来なくなる競技なのではないか、と思っています。

 2012年12月9日阪神競馬場芝外回り1600mコースで行われる、第64回阪神ジュベナイルフィリーズG1競走の予想です。

 2歳牝馬のレースでもあり、元々予想が難しいレースですが、近年は1勝馬からの優勝も増えてきていますので、一層難しいレースになっています。阪神競馬場の外回りコースですので、2006年の改修以降は最後の直線が470mと長いため、素早いスタートから一気に逃げ切るというレース展開では勝てないレースになっています。距離適性が重要ということになります。

 軸馬を検討します。1~2戦のキャリアしかない馬も出走していますので、軸馬検討も難しいのですが、
 軸馬候補の一番手は、2枠3番のサウンドリアーナ。前走京都のG3ファンタジーステークス1400mを圧勝しました。一方で、勝った2鞍はいずれも1400mで、1600mの2戦は3着、7着と今一つの成績である点が気になります。
 軸馬候補の二番手は、3枠6番のコレクターアイテム。前走東京のオープン特別アルテミスステークス1600mを競り合いの上勝ち上がりました。勝ちタイム1分33秒8も、この時期の時計としては優秀です。

 以上の2頭から軸馬は、コレクターアイテムとします。阪神外回り芝1600mも経験済みです。

 対抗馬の検討です。前述の通り、1~2戦馬も居ますので、いつものように候補馬を挙げて、その中から選定することをせず、ダイレクトに選定します。

 対抗馬一番手は、8枠18番のアユサン。まだ2戦のキャリアですが、前走東京のアルテミスSにおけるコレクターアイテムとのゴール前の競り合いは迫力十分でした。今回も、十分に地力を発揮してくれるものと思います。
 対抗馬二番手は、1枠1番のローブティサージュ。こちらも、まだ2戦のキャリアですが、新馬戦函館の1800mの走りが、とても良かったと思います。米国二冠馬ウォーエンブレムが久々に送り出す有力産駒になる可能性があります。
 対抗馬三番手は、4枠8番サンブルエミューズ。前走中山の芙蓉ステークスの走りが良かったと思います。ようやく走れるようになって来た感じです。

 その他の馬に付いてですが、まず1600mのレース経験が無い馬は外しました。
 サウンドリアーナは地力十分ですが距離適性への疑問から、レッドセシリアは潜在能力を感じますが走破タイムがあまりに遅いことから、エイシンラトゥナはアルテミスSでコレクターアイテムとの勝負付けが済んでいるように思うことから、カラフルブロッサムとディアマイベイビーはもう少し体が出来てきたら楽しみということから、今回は見送りました。

 今回は、以上の4頭に期待したいと思います。例年以上の混戦が予想されます。
 日本経済新聞のスポーツ欄に、豊田泰光氏のコラム「チェンジアップ」が連載されています。週に一回位のペースだと思いますが、とても面白いコラムで、いつも楽しく読ませていただいています。
 豊田泰光氏は、ご存知のように元プロ野球選手で、西鉄ライオンズ全盛時代の中心選手の一人でした。1956年・昭和31年には、首位打者のタイトルも獲得しています。

 何より、現場に精通している「プロフェッショナルな野球人としての視点」が素晴らしい。外から見ているのでは、何十年かかっても身に付けることが出来ない、高いレベルの視点だと思います。

 本日2012年12月6日のコラムも、興味深い内容でした。

 『現在の打者に話を聞くと「つなぎの野球で頑張った」とか「次の打者につなぐことだけを考えてプレーした」とか、「つなぎ」という言葉のオンパレードであり、嘆かわしい』と。『自分が打ってヒーローになる気概が無くては、プロ野球の打者としては物足りない』と。
 『野球選手がこざかしくなると、ろくなことはない』というコメントに至っては、リズムといい語勢といい、抜群の切れ味です。
 
 そして『ここで打てば大殊勲になるという場面でバントを指示されたら、監督に反発するくらいでなければいけない』というコメントには、プロスポーツひいては現在の社会全体に共通する問題点をも指摘しているように思います。

 つまり、監督といったマネジメントを行う人の指示に絶対服従でなければならないという、何か軍隊のような精神が重んじられていることの問題点です。
 組織なのだから、上席者の言うことを守らなければバラバラになってしまい、組織が維持できなくなる、などという実しやかなウソがプロ野球界にも、一般社会にも罷り通っているように思います。

 こうした「絶対服従」精神の一番の問題点は、責任の不在・責任感の欠如であり、ひいてはプレーレベルの低下に繋がり易い点です。

 選手は、監督やコーチ(以下、監督とのみ表記)の言うとおりにプレーしていれば、失敗したり成果を出せなくとも責められることが無いと考えるのでしょうか。その指示が間違っていると思われる場合でも、監督に進言することもなく、プレーするのでしょうか。

 監督も日々の練習や試合の中で、自らの判断・指示の正しさを継続して示し、選手に納得させ続けながら、選手の信頼を得ていくという、手間がかかり難しい作業を放棄しているように観えます。
 野球についての高い見識と、選手や周りの人達との高いコミュニケーション能力に裏打ちされた、高度なマネジメント能力を持って、チームの構成員を動かしていくのが監督の仕事のハズなのですが、そうした能力・努力が不足している人は「俺の言うことを聞けないヤツは出ていけ。言うことを聞けないヤツを放置したら、チームがバラバラになる。監督批判は許さない」などということを言って、自らの能力不足・努力不足を隠すのでしょう。

 選手が言うことを聞かないのは、選手個々の性格の問題ではなく、監督自らの指示に間違いが多く、個々の選手の気持ちや能力を考慮した指示が少なく、結果として、選手が納得できる指示が少ないことも原因のひとつなのですから、監督の方にも責任があると、考えられないのでしょうか。
 もちろん、選手側に問題があることもありますので、常に監督側に問題があるとはいいませんが、少なくとも監督側が常に正しいなどということは有り得ません。野球界には、正しい指示が多い有能な監督と、ほとんど正しい指示を出すことが出来ない無能な監督の、両者が存在しているだけです。

 「絶対服従命令」というのは、マネジメントを放棄している状態なのです。

 マネジメント能力が低いから、選手に絶対服従を命じているのであって、結果として選手は伸び伸びとプレーすることが出来なくなり、言われたことしかやらなくなりますから、チーム力は停滞することとなります。監督は、その役割期待に全く応えていないことになります。

 以前、クラシック音楽の世界的指揮者である小澤征爾氏がテレビでインタビューを受けていました。小澤氏の特集番組だったと思いますが、番組の最後に「オーケストラが良い演奏をするために一番大切なことを、一文字で表してください」という依頼と共に、色紙が渡されました。

 小澤征爾氏は、サラサラと書き、それを示しました。「個」と一文字が記されていました。
 小澤氏の説明です。「オーケストラが良い演奏をするには、個々のメンバーの能力を上げていくことが大切です。ひとりひとりの演奏能力が高くなくては、オーケストラの演奏も良くなりません」と。
 インタビューをしていたアナウンサーは、少し意外そうな様子でした。「和」とかチームワークといった言葉を期待していたのかもしれません。

 さすがに、世界中の一流オーケストラを指揮してきた小澤氏は、オーケストラの能力を上げるには、個々の演奏家の能力を上げていく必要があることを指摘したのです。全ての団体競技、集団活動に共通する考え方であろうと思いますし、チームワークなどと安易に口にする人々にとっては、忘れてしまい易い要素でもあります。
 監督も選手も大切なことは、自らの個の能力を高めることであって、傷を舐め合う仲良しクラブを作り上げていくことではありません。

 松井秀樹選手が所属していた頃、ヤンキースの監督だったジョー・トーリ氏が、日本のテレビ局の取材を受けていました。「メジャーリーグの監督とは、どういう存在ですか」といった質問が飛びました。難しい質問だなあ、と思って見ていましたら、トーリ監督は答えます。
 「私はいつも、チームのプレーヤーひとりひとりが気持ちよくプレーできる環境を造ることに腐心しています。個々のプレーヤーは皆、メジャーリーガーなのですから、当然高い能力を有しています。私は、その高い能力を存分に発揮してもらうことだけを考えています。監督として、私が行っていることは、それだけです」と。
 とても考えさせられるコメントでした。

 「選手を手駒と考え、自らの思うままに動かして、チームを勝利に導くのが監督だ」などという考え方の、対極にある考え方を、ジョー・トーリは示したのです。私は、このコメントを聴いた時に、さすがにジョー・トーリは超一流の監督だと思いました。

 もちろん、ジョー・トーリ監督は、選手の起用やゲーム中のサインなどで、様々な指揮を展開し、その指揮の積み上げの結果として、何回にも渡るワールドシリーズ制覇を成し遂げているのですから、監督としてのゲームマネジメント力も超一流です。
 しかし彼は、それを誇ったり自慢したりすることはなく、個々のプレーヤーに気持ち良くプレーしてもらうことだけを心掛けているとコメントします。こうしたコメントを繰り返していることも手伝って、プレーヤーは彼の指示に従うのでしょうし、思う存分働いてくれるのでしょう。こうした考え方を基本として、失敗した選手や怠慢なプレーに対して、厳しい指摘も当然行っていくのでしょう。
 本当に自信のある人は、自慢などしない。本当に能力がある人は、黙っていても周りの人が高く評価してくれるという、日本古来の考え方に近い行動を、ジョー・トーリというミスターアメリカといっても良い人物が行っているところが、とても興味深いところです。

 日本プロ野球界にも、こうした監督は居るのでしょうが、こうした監督がもっと増えて行ってもらいたいものだと願っています。

 豊田泰光氏の「チェンジアップ」は、その名の通り、様々なことを考えさせてくれるキレの良い変化球です。次回こそは空振りしないようにと、私は打席で待っています。

 2012年12月4日、大阪府立体育館で行われたWBA世界バンタム級タイトルマッチ、亀田興毅VSウーゴ・ルイス(メキシコ)の試合は、亀田が2-1の判定でルイスを下し、5度目の防衛に成功しました。

 正直に言って、私は亀田家のボクシングがあまり好きではありませんでした。仰々しい登場の仕方や、弱い相手ばかりを選んでいるように見えるマッチメイクなど、「本気」が売りのボクシングという競技において、こうしたやり方はいかがなものかな、と考えていました。

 その亀田三兄弟の長兄にしてリーダーでもある亀田興毅選手が、本年4月以来8か月ぶりにリングに戻ってきて、同級暫定王者にして、1位にランクされる最強の挑戦者ウーゴ・ルイスとの試合が組まれたので、久しぶりに観てみました。

 試合前、控室の亀田の様子は、派手なパフォーマンスも無く、表情も大事な一戦に向かうボクサーそのものでしたから、亀田興毅選手もだいぶボクサーに成って来たな、という感じを受けました。(偉そうな物言いで恐縮です)

 リングに上がってからも、この印象は変わらず、国歌君が代を歌っている様子などは、心を打たれる物がありました。

 さて、試合が始まりました。挑戦者のルイスは強打が売り物ですから、亀田はアウトボクシングでスタートしました。ガードも高く、キチンと固めています。ルイスは、ガードの上から強打を振るいます。確かに、パンチ力はありそうですが、亀田のガードを弾き飛ばすほどのものではありません。亀田は冷静に試合を進めています。試合の雰囲気も、世界タイトルマッチに相応しいもので、良い試合になっていると感じました。

 前半は、亀田選手のパンチもあまり当たりませんでしたので、手数を出している分ルイス選手の方が、判定では有利かなと思いましたが、いずれにしても両選手とも有効打に乏しい試合となりました。5回までは、ほぼ互角の内容で、判定で優劣をつけるとすれば、パンチを出している分の攻勢点から、ルイスがリードしているように観えました。

 6回から、亀田の右フックが当たり始めました。常にルイスの周りを動きながら、少しずつ後退するボクシングを展開していた亀田が、少し踏みとどまって、時には前進する姿勢も見せ始めたのです。
 とはいえ、亀田のアウトボクシング方針は不変でしたので、足を止めての打ち合いにはなりませんでした。

 6回以降、亀田が反撃に出て、ルイスからは鼻血も出続けましたから、判定の面でも亀田が持ち直し、9回を終わった段階では互角の勝負という印象でした。両選手の疲労度合いは、やや亀田が有利に観えます。ルイス選手には、少し疲労の色が伺えました。

 10回から、亀田選手が攻勢に出ました。疲労からか動きが悪くなったルイス選手の左側に接近し、左フック・左アッパーを浴びせるという作戦です。これはとても有効で、ルイスの顔面に亀田のパンチが連続してクリーンヒットするようになりました。ダメージも、見た目以上に大きかったと思います。
 11回、12回と、亀田の左フック・左アッパーの攻撃は続き、有効打が数多く生まれました。12ラウンドの中盤から、亀田選手はラッシュに出ましたが、逆にパンチは当たらなくなり、そのまま試合は終了しました。
 少なくとも、亀田選手に負けは無いと思って見ていましたが、2-1の判定で亀田選手が勝ちました。

 全体として良い試合でした。スピード・パワーともに世界戦のレベルでした。亀田興毅選手も、冷静な試合運びを見せ、チャンピオンらしい動きでした。一方のルイス選手も冷静な試合振りでした。慌てたり、焦ったりしておかしなプレーを展開するボクサーも珍しくありませんが、この試合は両者とも、世界戦を戦うレベルにあったということでしょうか。亀田選手、ルイス選手、良い試合を魅せていただき、ありがとうございました。

 プロボクシングは、他の格闘技系プロスポーツに比べて、ガチンコ度というか本気度が高いスポーツと言われていますし、私もそのように認識しています。
 そもそも、ボクサーの磨きあけられた肉体が凄い。極限まで贅肉を削ぎ落とし、戦う肉体を造り上げるスポーツとして、素晴らしいものがあります。そのトレーニング方法は一般の人にも有効で、俳優の片岡鶴太郎氏もボクシングのトレーニングにより、とても引き締まった肉体を手に入れています。

 加えて、試合前の減量の凄いこと。スタミナ蓄積が大切な時期にも拘わらず、試合前には食事はおろか水さえ制限するというのですから、矛盾を通り越して、異常?なスポーツでさえあります。

 こうした、ストイックなスポーツの試合ですから、試合の様相もストイックであることが相応しいと考えていたところに、亀田家のパフォーマンスでした。私が、亀田家のボクシングに馴染めなかった理由も、ここにあります。
 しかし、この試合はその認識を変えさせました。亀田興毅のボクシングは、着々と進歩しているように観えます。これからも、良い試合を見せていただければと思います。

 ボクシングに限らず、全てのスポーツに共通しているのでしょうが、プレーヤーは試合・ゲームにおいて輝きます。あの試合・ゲーム・レースという形で、そのプレーヤーを憶えているのです。

 プロボクシングにおいて、私の記憶に残っている印象深い試合は沢山あります。世界タイトルマッチから、少し挙げてみます。

① 1965年5月 エデル・ジョフレVSファイティング原田 バンタム級
② 1967年4月 サンドロ・ロボポロVS藤猛 スーパーライト級
③ 1967年12月 沼田義明VS小林弘 ジュニアライト級
④ 1980年6月 ロベルト・デュランVSシュガー・レイ・レナード ウェルター級
⑤ 1981年9月 トーマス・ハーンズVSシュガー・レイ・レナード ウェルター級
⑥ 1984年6月 トーマス・ハーンズVSロベルト・デュラン スーパーウェルター級
⑦ 1985年4月 トーマス・ハーンズVSマービン・ハグラー ミドル級
⑧ 1987年4月 マービン・ハグラーVSシュガー・レイ・レナード ミドル級

 取り敢えず、これくらい挙げてみました。どの試合も、それを採り上げるだけで本ブログのひとつの稿になります。
 もちろん、大場政夫、輪島功一といった日本人チャンピオンの試合や、カシアス・クレイ=モハメド・アリやジョー・フレーザーのヘビー級の試合など、他にも名試合は沢山ありますが、やはり上記の日本人ボクサーの試合と、1980年代の世界の中量級で展開された数々の試合は格別でした。

 小林弘選手は、75戦61勝10敗4引分という生涯成績を誇りますが、世界チャンピオンを陥落しても試合を続けました。本物のプロフェッショナルとしての試合ぶりが、とても印象的です。
 小林選手を始めとする名選手達の活躍により、1970年前後の日本プロボクシング界にはひとつの黄金時代が到来し、ちばてつや氏による1973年の「矢吹丈VSホセ・メンドーサ」のバンタム級世界タイトルマッチが実現?したのだと思います。

 トーマス・ハーンズ(アメリカ)は、中量級で5階級の世界チャンピオンとなりました。基本的には極めて能力が高いアウトボクサーなのですが、パンチ力にも自信を持っていて、ファイタータイプのボクサーと壮絶な打ち合いを展開した点が、一層彼のキャリアを輝かしいものにしています。

 そういえば、昨日の試合の解説者は、元WBA世界スーパーフライ級チャンピオンの鬼塚勝也氏でした。
 亀田興毅選手のファイトを観ながら、鬼塚氏の解説を聴いていましたら、矢尾板貞雄氏の解説を想い出しました。矢尾板氏は、プロボクシング解説者の草分的存在の方で、当時の大試合を一層盛り上げてくれる解説が印象的でした。
 何か、話し方も声も指摘内容も似てきたように感じさせる鬼塚氏の解説は、矢尾板氏クラスになってきたのかもしれません。

 解説もエンターテイメントとしてのプロボクシングにとって重要な要素です。このところ、やや元気が無かったように感じられる日本プロボクシング界ですが、そろそろ反撃の体勢が整ってきているのかもしれません。

 現在我が国において「中央競馬」と呼ばれる競馬事業は、日本中央競馬会により全国10か所の競馬場で開催されている国営競馬のことです。(当たり前のことを書き恐縮です)
 この中央競馬が始まったのは、1954年・昭和29年9月25日、同年7月に施行された日本中央競馬会法に基づき、9月1日に特殊法人としての日本中央競馬会が発足し、それ以前に実施されていた国営競馬を引き継ぐ形で、9月25日に初の開催が東京競馬場と京都競馬場で行われたのです。
 以降、現在に至るまで、中央競馬は、東京を中心とする関東圏と京都・阪神を中心とする近畿圏での開催を主体として運営されています。

 当然ながら、昭和30年代(1955年~)は高速道路網も発達していませんでしたので、競走馬の東西移動も容易なことではなく、大レースを除くレースは、東西別々に行われていたのです。
 本稿で採り上げる、阪神ジュベナイルフィリーズも、その創設は1949年・昭和24年、関西地域の2歳馬(旧3歳馬)のNO.1決定戦として阪神競馬場・芝1200mコースで始められた「阪神3歳ステークス」が前身のレースとなります。(距離は、1960年に1400m、1962年に1600mに延長されています)
 この阪神3歳ステークスと対を成していた関東地区のレースが、朝日杯3歳ステークスでした。1984年のグレード制導入と共に、2つのレース共にG1に格付けされました。

 牝馬限定レースの拡充方針もあったのだろうと思いますが、関西地区の3歳牡馬・牝馬のチャンピオン決定戦であった阪神3歳ステークスは、1991年に全国の3歳牝馬のチャンピオン決定戦に衣替えしました。同時に、関東地区の朝日杯3歳ステークスは、全国の3歳牡馬・牝馬が出走できるレースに衣替えしたのです。
 出走条件をクラシックレースに例えれば、阪神3歳ステークスは旧3歳馬のオークス、朝日杯3歳ステークスは旧3歳馬のダービーという感じです。

 そして2001年馬齢表示の国際基準への変更(旧3歳→2歳)に伴いレース名が「阪神ジュベナイルフィリーズ」に変更になったのです。

 本ブログでも何度か記していますが、昭和20年代に始まったレースは、中央競馬において中核をなすレースです。阪神ジュベナイルフィリーズも、1949年・昭和24年に開始された時から、旧3歳馬最高峰のレースのひとつとして歴史と伝統を誇る大レースでしたので、その勝ち馬・出走馬も名馬・強豪馬・人気馬が目白押しです。
 その数多いる馬たちの中から、本稿では1973年のキタノカチドキが優勝した第25回のレースの2着馬、イットーを採り上げたいと思います。イットーは牝馬です。

 第25回のレースは阪神3歳ステークスの時代で、関西地区のチャンピオン決定戦の時代です。翌1974年の皐月賞と菊花賞の二冠馬となった牡馬キタノカチドキを相手に、2着となったのがイットーでした。

 イットー号、父ヴェンチア、母ミスマルミチ、母の父ネヴァービート。生涯成績15戦7勝です。

 イットーは、誕生の瞬間から好素質馬として評価が高く、生まれた荻伏牧場(北海道浦河町)で所有・育成されたそうです。競馬関係者の誰もが惚れ込む馬だったのです。
 栗東トレセンの田中好雄厩舎に預けられましたが、田中調教師もこの馬の素質に驚嘆し、名前を付けさせてほしいと願い出て、これが了承されると「イットー」と名付けました。これは、田中厩舎と縁が深かった歌舞伎役者・六代目尾上菊五郎が生前、これはという馬に巡り合ったら付けてほしいと話していた馬名で「一刀両断」からの命名だそうです。
 馬名には、それぞれ色々な由来がありますが、イットーにも、活躍を期待する関係者の強い思いが込められていました。短くて、珍しいイントネーションの馬名ですが、一度聴いたら忘れない馬名でもあります。

 1973年11月の新馬戦でデビューし、2着に8馬身差の逃げ切り圧勝。後に名馬になる馬の緒戦では、勝ち切れない馬ももちろん居ますが、私の感じでは5馬身以上の差で勝っていることも多いように思います。
 新馬戦で圧勝する馬には、いつの時代も注目しています。(ひょっとすると名馬への第一歩かもしれませんから)

 2戦目の条件戦も快勝し、次に駒を進めたのが阪神ジュベナイルフィリーズの前身レースであった、阪神3歳ステークスでした。前述の通り、このレースでは、キタノカチドキに3馬身差の2着と完敗しましたが、これはキタノカチドキの能力の高さを示すもので、イットーの評価はいささかも下がることは無く、この年の最優秀3歳牝馬に選出されました。
 そして、その生涯で幾多の一流牡馬との激闘を繰り広げるイットーの運命を、暗示しているようなレースでした。

 年が明けて1974年・旧4歳となると、当然牝馬クラシックレースの最有力候補となります。1月の京都の特別レースを6馬身差で圧勝するに至って、桜花賞の大本命となりましたが、ここで故障(骨膜炎)を発症してしまいます。 長期休養を余儀なくされたイットーは、桜花賞・オークスへの出走を見送ることとなりました。関係者の悔しさは、いか程であったろうかと思います。
 鞍上の高尾騎手は、桜花賞を前に「条件馬の桜花賞など絶対に観ません」と語っていたそうです。

 半年の休養を開けて、8月から復帰したイットーは、初戦の函館のオープン競走をレコードタイムで快勝し、10月の京都牝馬特別に駒を進めます。
 この1974年の京都牝馬特別には、1972年の阪神3歳ステークス優勝馬であった「超快速牝馬」キシュウローレルも出走してきました。イットーの前年の最優秀3歳牝馬でもあったキシュウローレルとの対決は、大きな話題となりましたが、悲劇が待っていました。
 
 あまり筆が進みませんが、キシュウローレルは京都競馬場3コーナーからの下り走路の穴に脚を取られ、左前脚を骨折し転倒、直後に位置していたイットーは、これを避けようとしましたが、右後脚を7針縫う裂傷を負ってしまいます。レースは10着に敗れました。
 キシュウローレルは、骨がむき出しの状態ながら立ち上がり、ゴールに向かって歩き始めました。なんということでしょう。直後に保護され、予後不良で安楽死処分。
 快速馬、特に一世を風靡した快速馬の最後にこうした悲劇が待っていることが少なくないことは、大変悲しいことです。

 思い返してみると、1974年のイットーには、いくつもの不運が待ち受けていました。京都牝馬特別で、初めて着を外したイットーは、その後他馬を怖がるようになりましたので、陣営は1974年の冬~1975年の春にかけて、イットーを休ませました。

 明けて1975年の3月のオープン戦から、イットーは復帰しました。復帰初戦の相手は、あのタニノチカラです。復帰初戦に、前年の最優秀5歳以上牡馬にぶつけることの是非はともかく、このレースでイットーはタニノチカラとの叩き合いを演じて、1/2馬身差で2着になりましたが、復活とイットー強し!を印象付けました。

 続いて4月、イットーはマイラーズカップに出走します。マイラーズカップは現在でもG2のレースですが、この当時も格の高いマイル戦でした。この年のレースにもタニノチカラに加えて、前年の二冠馬にして、阪神3歳ステークスで敗れたキタノカチドキも出走してきました。
 イットーは、キタノカチドキには惜敗しますが、タニノチカラにはハナ差先着。2着を確保しました。

 こうして、牡馬超一流どころとの激戦を続けるイットーでしたが、実はこの段階では重賞勝ちが無いのです。厩舎・馬主の方針も感じますが、タニノチカラやキタノカチドキと互角に渡り合う馬が、特別レースしか勝っていないというのも違和感があります。

 重賞未勝利をも意識したのか、次にイットーが向かったのは、5月の京都競馬場1600mのスワンステークスでした。このレースは現在G2に格付けされていますが、当時は前走のマイルチャンピオンシップに比べれば、相手馬の力量も少し落ちますので、イットーは圧倒的な一番人気になりました。
 このレースを余裕十分で快勝し、10戦目にして初の重賞制覇となりました。デビューしてから重賞初制覇までの、波乱に満ちたキャリアを知ってか、ファンからは万雷の拍手が鳴り止まなかったそうです。

 次走の阪急杯では3着に敗れましたが、6月22日の高松宮杯(当時は2000m)では久々の逃げ切り勝ちを収めました。イットーは、ようやくその力を十分に発揮できるようになったなと感じたことを憶えています。

 夏の休養明けのオープン特別を快勝し、次走の朝日チャレンジカップはロングホークのレコード勝ちの2着と相変わらず牡馬一線級との戦いを続けました。そして10月、再び因縁の京都牝馬特別に出走してきたのです。前年にキシュウローレルの命を奪い、自身を傷つけたレースです。この頃は、牝馬限定の重賞が少なかったこともあるとは思います。
 縁起を担ぐ人であればトライしないレースで、イットーは再び故障しました。そして、これがイットー最後のレースとなり、競走馬を引退しました。
 重賞2勝は挙げましたが、あれだけ期待された素質馬としては、十分とはいえない競走成績だったと思います。
 しかし、彼女にはもうひとつの人生?が待っていたのです。

 競走馬引退後は、生まれ故郷の荻伏牧場で繁殖に入りました。そして荻伏牧場がフランスから輸入した種牡馬サンシーの仔を第一子としてもうけます。これが、ハギノトップレディです。桜花賞やエリザベス女王杯など重賞5勝、生涯成績11戦7勝の名牝です。母の夢であったクラシック制覇を早くも実現しました。
 第二子のニッポーハヤテも7勝しました。
 第三子のハギノカムイオーは、父がテスコボーイです。セリにおける当時の史上最高価格であった1億8500万円で落札された注目馬でしたが、スプリングステークス、神戸新聞杯、京都新聞杯、宝塚記念そして母と同じスワンステークスと高松宮記念の重賞6勝と期待に応えました。

 イットーの繁殖成績はこのように素晴らしいものでしたが、実はイットーはサラブレッド牝系の『華麗なる一族』だったのです。
 『華麗なる一族』とは、山崎豊子の同名小説から、当時関西テレビの競馬解説者だった詩人の志摩直人氏が初めて用いて、後に一般化した呼び方ですが、イットーの母ミスマルミチの母キューピットから繋がる牝系一族の呼称です。現在でも、競馬界で『華麗なる一族』といえば、キューピットの子孫を指します。非常に気性が荒く、素晴らしいスピードに恵まれているのが一族の特徴といえます。

 一族の祖となる牝馬キューピット号は、父ニアルーラ、母マイリー。マイリーのお腹の中にいる時にイギリスから輸入され、マイリーが横浜港で検疫中に生まれました。
 キューピットの競走成績は、35戦9勝でしたが、当時少なかった牝馬限定重賞のひとつ阪神牝馬特別に優勝した一流牝馬でした。繁殖牝馬となって、ヤマピットとミスマルミチを生みました。キューピットの仔は、この2頭の牝馬だけでしたが、その2頭がそれぞれに大活躍したのです。

 ヤマピットは、1966年の最良3歳牝馬(現在の最優秀2歳牝馬、旧齢)、1967年のオークスに勝ち最良4歳牝馬、1968年にも重賞2勝で最良5歳以上牝馬となって、3年連続のチャンピオン馬となりました。牝馬では史上初の快挙でした。
 そして、もう一頭のミスマルミチは、前述の通りイットーの母ですが、他に中距離の鬼ニッポーキング、そしてシルクテンザンオー、サクラアケボノといった牡馬一流馬をも産し、いずれも種牡馬になりました。

 この『華麗なる一族』の中でも、イットーの繁殖牝馬としての活躍には素晴らしいものがあり「中興の祖」ともいわれています。イットーは繁殖牝馬として14頭のサラブレッド牡馬・牝馬の母となり、27歳で他界しました。

 私は、ホワイトフォンテン号の稿にも記した通り、今から30年前に大好きなサラブレッド達に会うために、友人と共に夏休みに北海道を回りました。そして、イットーの居る牧場にも立ち寄りました。イットーが12~13歳の頃だったのでしょう。
 その年生んだ仔馬と、牧場を楽しそうに走り回ったり、じっと一方向を眺めたりしていて、結局私達の近くには来てくれませんでした(大切な子供を連れているのに、普段見かけない人間の傍に来るはずもないのですが)が、現役時代と変わらないスリムで大らかな馬体を維持していて、美人お母さんでした。

 イットーは、もともと黒鹿毛・筋肉質のスマートな馬で、牡馬にも一歩も引けを取らない激しい気性の持ち主でしたが、さすがに我が子と一緒にいる時は、子供に気を使う優しさを見せていました。
 逆光に浮かぶ、イットーと仔馬の直線的なシルエットがとても綺麗でした。

 冬に入ると、本格的なマラソンシーズンです。昨12月2日にも、歴史と伝統の福岡国際マラソンが開催されました。来年のモスクワ世界選手権大会の代表選考会を兼ねた大会であり、日本人選手のトップは全体2位の堀端宏之選手。代表内定の条件であった2時間7分台には惜しくも届かず、2時間8分24秒のタイムでした。

 このレースの優勝タイムは、ジョセフ・ギタウ選手の2時間6分58秒でしたから、堀端選手とは1分半近い大きな差が付きました。
 最近の日本男子マラソンは、エチオピアやケニアといったアフリカ諸国を中心とする世界的な記録向上についていけず、残念ながらオリンピックや世界選手権で好成績を残せない状態が続いています。
 
 本稿では、男子マラソン競技の世界と日本の差について、観てみたいと思います。

 比較のスタート時点は、1965年・昭和40年とします。この年、日本の重松森雄選手が2時間12分0秒の世界最高記録を樹立しましたので、この検討のスタートラインとして、解り易いと思うからです。
 
 1965年以降の世界最高記録の更新年と、当該年の日本最高記録を比較してみます。

① 1967年クレイトン選手2時間9分36秒
←日本最高 佐々木精一郎選手2時間11分17秒(△1分41秒)
② 1969年クレイトン選手2時間8分33秒
←佐々木精一郎選手2時間11分17秒(△2分44秒)
③ 1981年ドキャステラ選手2時間8分18秒
←宗茂選手2時間9分6秒(△48秒)
④ 1984年ジョーンズ選手2時間8分5秒
←瀬古利彦選手2時間8分38秒(△33秒)
⑤ 1985年ロペス選手2時間7分12秒
←中山竹通選手2時間8分15秒(△1分3秒)
⑥ 1988年デンシモ選手2時間6分50秒
←児玉泰介選手2時間7分35秒(△45秒)
⑦ 1998年ダコスタ選手2時間6分5秒
←児玉泰介選手2時間7分35秒(△1分30秒)
⑧ 1999年ハヌーシ選手2時間5分42秒
←犬伏孝行選手2時間6分57秒(△1分15秒)
⑨ 2002年ハヌーシ選手2時間5分38秒
←高岡寿成選手2時間6分16秒(△38秒)
⑩ 2003年テルガド選手2時間4分55秒
←高岡寿成選手2時間6分16秒(△1分21秒)
⑪ 2007年ゲブレセラシェ選手2時間4分26秒
←高岡寿成選手2時間6分16秒(△1分50秒)
⑫ 2008年ゲブレセラシェ選手2時間3分59秒
←高岡寿成選手2時間6分16秒(△2分17秒)
⑬ 2011年マカウ選手2時間3分38秒
←高岡寿成選手2時間6分16秒(△2分38秒)

 以上、1965年~2011年までの46年間の比較でした。2012年も⑬と同じ状態です。
 特徴を挙げてみます。
・世界最高記録と日本最高記録の差が1分以内であったのは、1981年~1984年と1988年~1997年、2002年。
・世界最高記録と日本最高記録の差が2分以内であったのは、1965年~1968年、1981年~2007年。
・世界最高記録は、1988年~1998年の10年間は更新されませんでした。日本最高記録は、2002年以降更新されていません。

 この期間の、マラソン日本男子代表のオリンピックOLYおよび世界選手権での好記録(3位以内)を並べてみます。
・1968年メキシコOLY 君原健二選手 銀メダル
・1991年東京世界選手権谷口浩美選手 金メダル
・1992年バルセロナOLY森下広一選手 銀メダル
・1999年セビリア世界選手権佐藤信之選手 銅メダル
・2005年ヘルシンキ世界選手権尾方剛選手 銅メダル

 以上の2つの記録の列挙から伺えることは、
a. オリンピックと世界選手権で3位以内の成績を挙げているのは、世界最高記録と日本最高記録の差が2分以内の時期。
b. 世界と日本の差が最も小さかった時期は、1988年~1997年の10年間。
ということになります。

 確かに、1988年~1997年の間の日本男子マラソン界には、宗茂・宗猛の宗兄弟、瀬古利彦、中山竹通、谷口浩美、森下広一、といった世界のトップランナーが次々と登場しました。日本男子マラソン界の黄金時代でした。

 宗茂選手、25回のマラソン出場で優勝6回、毎日マラソン3回優勝が印象的です。自己最高は2時間9分6秒。
 宗猛選手、42回のマラソン出場で優勝5回、ロサンゼルスOLY日本人選手最高成績4位が印象的。自己最高は2時間8分55秒。
 瀬古利彦選手、15回のマラソン出場で優勝10回、勝負強く、高い勝率を誇ります。全盛時のモスクワOLYに日本が参加しなかったことが惜しまれます。自己最高は2時間8分38秒。
 中山竹通選手、16回のマラソン出場で優勝5回、スタート直後から快速を飛ばして、大差で逃げるレース振りは、中山選手ならではのものでした。現在の様にペースメーカーが設置されていたら、中山選手がどんなレースを展開したのか、想像するだけで楽しくなります。自己最高は2時間8分15秒。
 谷口浩美選手、21回のマラソン出場で優勝7回、1991年の世界選手権での優勝は、世界陸上全種目で日本男子初の金メダルでした。自己最高は2時間7分40秒。
 森下広一選手、3回のマラソン出場で優勝2回、デビュー戦の1991年毎日マラソンで2時間8分53秒の初マラソン日本最高記録での優勝が強烈でした。

 これらのランナーに共通しているのは、その時代その時代の世界のトップクラスの走破タイムを叩き出しているのはもちろんとして、各レースにおいて優勝している回数が多い点です。
 記録と共に「優勝できる実力」を備えていた点が、素晴らしいところだと思います。どのランナーも「勝つための型」を持っていて、レースをその型に持ち込む努力を怠りませんでした。
 競走相手を考慮することは、もちろん大切なことですが、これらのランナーは「自力で勝負できる絶対的な実力」を保持していましたから、観ている我々もワクワクしたものです。

 日本人トップの記録で、2位とか3位とかに入って標準記録を突破したとしても、本番の大会ではその記録を出すことは、とても難しいことでしょう。海外の強豪ランナーを相手に1着を狙って走り、結果として敗れた時の記録と、最初から1着を狙うことをせずに出した記録とは、「応用力」が全く違うのですから。

 2008年に、ゲブレセラシェ選手が2時間4分の壁を突破してから、世界と日本の最高記録の差は2分を超えました。そして、2時間4分~6分で走るランナーは、世界中で毎年確実に増加しています。
 一方前述の通り、日本最高記録は10年間更新されていません。「必ずしも持ちタイムが速い選手が大会で優勝するわけではない、天候やコース状況により、持ちタイムが劣る場合でもチャンスがある」ということは解っているつもりですが、条件により逆転できる差を遥かに超える差が、彼我の間に付いているということでしょう。

 この10年間の日本マラソンの停滞は、不思議でさえあります。中学、高校の長距離界、駅伝界は、10年前に比べて益々盛んになっています。箱根駅伝を始めとする大学長距離界も、この10年間で衰えたようには全く観えません。
 社会人ランナーのトレーニング体制も、日々充実してきているように思います。テレビなどのマスコミに登場する機会は、10年前に比べて増えているように観えます。
しかしながら、マラソンの記録は伸びませんし、外国人一流ランナーが出場している国内の大レースで、日本男子選手が優勝することは殆ど無くなりました。

 マラソンも、100m競走と同じく、人種の差が明確になりつつある、などという結論を出すのは早すぎると思います。
 5000m、10000m、20000mといった長距離競争は、以前のように持久力を競う競技ではなく、「保持しているスタミナをキッチリ消費して、その距離を一定以上の速度で走り、ラストスパートで競い合う競技」になりました。従って、20㎞競走に強いランナーといっても、42.195㎞のマラソンには対応できない時代になっています。

 昔のように、20㎞競走の延長線上にマラソンがあるのではないのでしょう。「マラソンにはマラソンの走り方」が確立されてきているようにも思います。
 ひょっとすると、21.7㎞平均の箱根駅伝で大活躍することは、次の段階でマラソン競技に進んでいくには不向き、という時代が到来しているのかもしれません。

 ACミランといえば、泣く子も黙る?名門クラブです。イタリアサッカー1部リーグ(セリエA)を代表する強豪チームとして、数々の栄光に包まれてきました。

 1899年創設という歴史を誇るACミランがセリエAや国際舞台で活躍するようになったのは、第二次世界大戦後のことです。
 特に、1986年に現オーナーであり、前イタリア首相でもあったシルヴィオ・ベルルスコーニ氏が、ACミランを買収し、その豊富な資金を元にチームの補強を行ってから、赤と黒のユニフォームが欧州サッカー、ひいては世界のサッカーをリードする時代がやってきました。
 まずは、監督としてアルゴ・サッキをパルマから引き抜き、続いて1987年にはルート・フリットをオランダのPSVアイントホーフェンから、マルコ・ファンバステンをオランダのアヤックスから、1988年にはフランク・ライカールトをスペインのサラゴサから獲得しました。
 この3人は、1988年のUEFA欧州選手権(ユーロ1988)をオランダが制した時の中心選手でした。オランダの黄金トリオとイタリアを代表する名ディフェンダーであるフランコ・バレージらを擁するACミランに、黄金時代が到来したのは言うまでもありません。
 パオロ・マルディーニ、アレッサンドロ・コスタクルタ、デメトリオ・アルベルティーニといったスーパースター達が次々と加入・活躍した1994年までの間、スクデット(セリエAの優勝エンブレム)の獲得はもちろんとして、UEFAチャンピオンズカップやチャンピオンズリーグで数々のタイトルを奪取しました。

 我が国でも、この時代のACミランの印象は強く、熱狂的なファンが多数生まれ、数ある海外サッカークラブの中でも、最も人気の高いクラブであったと思います。

 その後も紆余曲折はありましたが、ACミランはセリエAを代表する世界的なビッグクラブとして君臨してきました。2010~2011年のセリエAでも優勝しています。我が国のテレビ番組にも「ACミランチャンネル」が、現在でも放送されています。日本で、特定の海外チームのサッカー番組が有料放送ではないチャンネルで継続して放送されている、唯一の例だと思います。ACミランというクラブの、我が国における人気の高さを示す事例だと思います。

 そのACミランが、2012年に入ってから変調をきたしているのです。原因は、欧州経済危機でしょう。ギリシャやスペインの財政危機に代表されるEUの経済問題は、ACミランの経営母体企業の業績にも大きな影響を与えました。
 2012年から、ACミランの中核有名選手達が次々と退団したり、他のチームに放出されたのです。クラレンス・セードルフ、チアゴ・シウバ、アレッサンドロ・ネスタ、アントニオ・カッサーノ、ズルタン・イブラヒモビッチといったプレーヤー達です。

 チームを維持するためには、当然代わりのプレーヤーが必要ですが、獲得したのは若手の比較的無名のプレーヤーが多く、世界中の有名プレーヤーの宝庫だったACミランが、あまり知られていないプレーヤー達のチームに、半年もしない内に変貌してしまったのです。
 世界のビッグクラブの中でも、プレーの華やかさでは屈指の存在であったACミランの急激な変化でした。我が国そして世界中のミラニスタにとっては、とても寂しいことだろうと思います。

 一方で、この欧州経済危機の最中に強力なスポンサーが付き、一気にビッグクラブへと歩み出したクラブがあります。それが、フランス一部リーグ(リーグ・アン)のパリ・サンジェルマンFC(PSG)です。

 パリ・サンジェルマンFCは、1970年設立の比較的新しいクラブです。我が国では、Jリーグでも活躍したパトリック・エムボマ(元カメルーン代表)が一時期所属していたことが知られているくらいで、フランス1部リーグで2回の優勝歴があるとはいえ、世界的にはそれ程有名なクラブではありませんでした。
 そのPSGの株式の過半をカタールの王族が購入し、実質的なオーナーになって以降、その豊富な資金力を背景に、チーム力の強化に乗り出したのです。

 かつてプレーヤーとして、Jリーグの鹿島アントラーズやPSGに所属し、1997年にはACミランに移籍したレオナルド氏(元ブラジル代表)をスポーツ・ディレクターに据えて、有力選手の獲得を開始、2011年末には監督をカルロ・アンチェロッティに交代しました。アンチェロッティは、2001~2009年のACミランの監督でした。
 続いて今年2012年には、プレーヤーとしてACミランから、チアゴ・シウバ(ブラジル代表)、ズルタン・イブラヒモビッチ(スウェーデン代表)というスーパースターを獲得。
 そして現在PSGは、スペインリーグのレアル・マドリードからの移籍話があるカカ(ブラジル代表)の移籍先有力候補にもなっています。カカは、2003~2009年のACミランの中心プレーヤーでした。

 潤沢なオイルマネーを背景に、一気にチーム力を上げたクラブと言えば、最近では2011~2012年のイングランド・プレミアリーグで44年ぶりに優勝したマンチェスター・シティFCが有名ですが、今、パリ・サンジェルマンFCがこれを追いかけています。
 それも、かつてのACミランを、そのまま飲み込むようなチーム創りです。

 ビッグクラブの経営には常に潤沢な資金が必要な時代になったことを、あらためて認識させる事象でした。そして、ACミラン程のクラブでも、半年もしない内に全く違う風景のチームに変わってしまう可能性があることが示されたことは、ある意味では怖いことだとも思います。

 斜雪面に向かって落下し、落下姿勢の美しさと、より遠くに落下することを競うのが、スキーのジャンプ競技です。

 本稿では、スキージャンプ競技の基本的なことを書きます。ご存知の方には、当たり前のことばかりで恐縮です。

 競技場(ジャンプ台)は、シャンツェ(ドイツ語)とかバッケン(ノルウェー語)と呼ばれます。ここでは我が国で最も一般的と思われる「シャンツェ」と呼ぶことにしますが、シャンツェは、以下の4つの部分により構成されています。

① 助走路(アプローチ)
② 踏切台(カンテ)
③ 着地面(ランディングバーン)
④ 減速区域(ブレーキングトラック)

 アプローチは、加速の区域です。シャンツェ毎に異なりますが、最大で35度前後の角度があると思います。プレーヤーは、他の競技者より速く・より良い角度で踏切台から飛び出すために、姿勢や重心の置き場所を工夫します。当然ながら、ジャンプ競技における唯一の推進力というか運動エネルギーを獲得するための区域ですので、とても重要です。

 カンテは、アプローチから空中に飛び出す部分で、下を向いています。ジャンプ競技が「落下を競う競技」と頭書したのは、カンテ・踏切台が下を向いていることによります。下を向いている角度は、シャンツェ(ジャンプ台)毎に異なりますが、私が観てきたシャンツェでは8度から11度の間の角度です。下向き11度というと、かなりの斜面ですので、とても「飛び上がる」感覚ではありません。

 「ジャンプ競技における飛距離」は、プレーヤーがアプローチにおいて得た運動エネルギーとカンテにおいてプレーした踏切(サッツ)の強さ・速さ・角度によって大きく左右されます。
 いつ踏み切ったらよいか(サッツのタイミング)は、私が観てきた大会において、良いジャンプが観られた時を思い出すと、カンテの先端の直前のように思います。ここでは、プレーヤー(以下、ジャンパー)のスキー靴の位置を、ジャンパー側の身体の踏切ポイントとします。
 当然ながら、カンテ先端から例えば10㎝手前(以下、A地点)で踏み切ると言っても、踏切の動作(膝を曲げた状態から、一気に膝を伸ばし、上半身を前に投げ出す動作)には一定の時間が掛りますので、踏み切りたいA地点より手前から膝を伸ばすなどの「踏切動作」に入ることになります。

 踏切動作の始動から完了までの所要時間については、ジャンパーの反射神経・筋力他により、ジャンパー毎に異なるものと思いますが、1970年代に世界のトップジャンパーとして活躍し、1976年インスブルック・オリンピック70m級ジャンプ競技の金メダリストだったハンス・ゲオルグ・アッシェンバッハ(東ドイツ)選手の踏切所要時間が0.34秒で、驚異的に速い(陸上競技男子100m競走のオリンピック大会決勝進出ランナーのスタート並み)と報道されていた記憶がありますので、一般的な世界的ジャンパーの踏切所要時間を0.4秒とします。
 踏切直前のジャンパーの滑走スピードは時速90㎞前後ですので、0.4秒で約10m前進することになります。従って、ジャンパーは10m手前から踏切動作(膝を伸ばし始めるなどの動作)に入らなければならないことになります。
「サッツを合わせるのは難しい」とよく言われますが、時速90㎞で「A地点において踏切動作を完了する」ように10m位手前から動き出してタイミングを合わせるというのは、それは難しいことであろうと思います。

 加えて、踏切動作を合わせるだけでは不十分です。正しい踏切動作でなければならないからです。「正しい踏切動作」とは、雪面を下後方に押すパワーの絶対値が高いこと、その角度が正しいこと、および望ましい飛行姿勢に移行し易い動作ということになると思います。

 雪面を下後方に押すパワーは、より大きい方が良いことになります。普通に垂直跳びや前方にジャンプする際でも、筋力が大きい方が、より高く・より遠くに飛べるわけですから、パワーが大きい=筋力が強いジャンパーの方が、より遠くに飛行できる可能性が高いことになります。
 世界のトップジャンパーとして長く君臨してきた選手が、年齢を重ねると飛距離が出なくなってきます。踏切がピタリ合っていて、とても綺麗な空中姿勢で飛んでいるのに、距離が出ないというジャンプは、よく見られますが、主にパワー不足が原因でしょう。テレビ中継のアナウンサーが「見事なジャンプでしたが、距離が出ません」などと報じたりしますが、飛距離の最大の要因はパワーなのです。パワーが絶対的に不足している状態では、どんなことをしても限界があるのは、どのスポーツでも共通しています。

 続いて、踏切の角度ですが、これは相当に難しい問題であろうと思います。

 まず、全体の様子から観てみます。世界一流のジャンパーであっても、ジャンパー毎に飛行曲線が異なります。例えば、日本人ジャンパーであれば、原田雅彦選手は高い飛行曲線ですが、葛西邦明選手は低い飛行曲線のように観えます。当然のことながら、飛行曲線の高低に、良し悪しはありません。飛行曲線が高かろうが低かろうが、ジャンプ競技における飛距離が伸びれば良いのです。

 ジャンパー個々の身体的な特徴、例えば足首の柔らかさや脚の長さと上半身のバランス(重心位置)の違いなどにより、踏切の際に最もパワーが出せる角度が異なるのかもしれません。この踏切角度が理想的といっても、ジャンパーによってはその角度では力が出ないというのでは、本末転倒な話になってしまいます。ジャンパーが相応なパワーを発揮できる角度の範囲内で、可能な限り理想的な踏切角度を選択していくことになるのでしょう。(→続きへ)

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