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 「クリアは月まで」というのは、「日本サッカーの父」デッドマール・クラマー氏の言葉です。

 クラマー氏は、1964年の東京オリンピックに向けて日本サッカー強化のために、1960年にドイツから招聘された指導者です。
 それまで、世界のサッカーの情報が乏しく、相当に後れを取っていた日本サッカーを、短期間で世界レベルにするために、日本サッカー協会が招いた指導者でしたが、これは見事な施策でした。

 デッドマール・クラマー氏は、当時の世界サッカー界屈指の理論派指導者でした。

 FIFAワールドカップにおいては、大会後にFIFA(国際サッカー連盟)がその大会のプレーを極めて冷静・詳細に分析した報告書が作成されます。大会毎に作成されますが、本当に素晴らしい報告書(公開されていて、一読の価値十分)です。これが時代時代の「サッカー競技の理論的基盤」になるものなのですが、クラマー氏は、この当時のFIFAの報告書作成メンバーとなっていて、素晴らしい分析を再三に渡って著しています。

 そういう点から見れば「よく日本に来てくれた」と思います。世界中から引っ張り凧のサッカー指導者であったことは、間違いありませんから。

 クラマー氏はおそらく、当時の日本サッカー強化のために最適な人物でした。日本スポーツ界の全ての競技において、最も成功した海外指導者の招聘であったとも思います。当時の日本サッカー協会会長野津謙氏ら協会関係者の素晴らしいマネジメントでした。

 クラマー氏の指導の成果は、1964年の東京オリンピックでのベスト8(アルゼンチンに勝っています)、1968年のメキシコシティオリンピックでの銅メダルに結実しました。
 1960年時点で、相当なサッカー後進国であった日本を、一気にオリンピックでメダルが狙えるほどに変革させたのです。(この辺りのことは、別に書く機会があると思います)

 そのクラマー氏は指導のための沢山の言葉を残したことでも有名ですが、日本代表チームのディフェンダーに語ったというか、指示した言葉が「クリアは月まで」です。
 自陣ゴール前、ピンチの際のボールクリアは、中途半端なことはせず、月まで届く位、大きく遠くに蹴るように指示したものでしょう。実際の指示の際には、空高く指差しながら言ったと伝えられています。
 相手ペースの試合の流れを切るためにも、大きなクリアは有効なのです。

 クラマー氏の来日から60年余が過ぎ、日本サッカーも大きく進化しました。当時は、夢のまた夢であったワールドカップWC出場も果たしていますし、WC常連国のひとつになってきた感もあります。

 しかし、最近の日本代表チームの失点の多さ、ゴール前のディフェンスのお粗末さを観ると、この言葉を思い出すのです。

 「昔のサッカーとは違って、現代サッカーはディフェンスからの良いボールの供給が大切だ」という声が聞こえてきそうです。
 しかし、その「昔」にクラマー氏は、なぜこんな言葉を残したのでしょう。「昔」は守備陣からのパスが重要視されておらず、守備陣はいつも大きくクリアしていたならば、こんな指示が出るはずがありません。
 当たり前のことですが、「昔」から守備陣は中盤や前線に良いパスを出そうと努力していたのです。

 クラマー氏は、相手チームに押し込まれ、ペナルティーエリア付近に多くの相手チームプレーヤーが居る状況で、中途半端なパスは考えるな、と指示したのでしょう。
 この指示は、現在の日本代表チームにも、そのまま当て嵌まります。

 ディフェンスは、失点しないことが第一の仕事です。

 現在もご存命で88歳になっているデッドマール・クラマー氏が、現在の日本代表チーム守備陣を観たら、やはり「クリアは月まで」と言うのではないでしょうか。

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 いつの頃からか、試合中に高校球児の笑顔を、グランド上で頻繁に見かけるようになりました。

 選手間の打合せのとき、守備でエラーした時など、様々な場面で球児のみなさんが笑っています。特に、いわゆる「守備のタイム」の時、マウンドに集まったプレーヤーのところに、監督の指示を伝えにベンチプレーヤーが走り寄り円形に集まって打合せを行う際には、笑顔・笑顔であることが多いと思います。

 私の感覚では、試合中・プレー中の笑顔というのは、好プレーのときに自然に浮かぶものです。ファインプレーの時、ここぞという場面でヒットが打てた時などです。これは当然の笑顔という感じで、観客も思わず嬉しくなってしまうシーンでしょう。

 しかし、前述の笑顔はこれとは違います。どちらかというとピンチの時の笑顔です。

 この「笑顔」を見かけるようになった当初は、よく理由が解りませんでした。ピンチになったら嬉しいはずが無いので、笑顔にはならないのが普通です。厳しい顔になるものでしょう。

 しばらくして、どうやら「選手を緊張させないために笑顔を造っているらしい」ことが解りました。加えて「チームのコミュニケーション強化」のためにも有効だとも言われています。

 当然ながら、ゲームにおいては緊張感が必要です。適度の緊張感無くして、良いプレーはできません。従って、本来プレー中には中々笑顔になれない筈なのです。

 例えば、イチロー選手がプレー中に笑顔を見せることは無いと思います。ホームインした時や、ホームランを打ってベンチに戻ってきた時に、同僚とハイタッチをしながらの笑顔を時々見ることが出来るだけです。

 松井選手の笑顔も、グランド上では滅多に見られませんでした。各ゲーム最初の打席の時に、相手キャッチャーとホームベース審判に話しかけながら見せる笑顔が唯一のものだったと思います。

 デレク・ジータ選手やアレックス・ロドリゲス選手のプレー中の笑顔も、見たことがありません。プレー後のベンチの中では時々笑顔になります。

 野球・ベースボールに限らず、例えばサッカーにおいてもプレー中の笑顔は、中々見られないでしょう。
 リケルメ・メッシ選手やクリスティヤーノ・ロナウド選手、本田選手や香川選手がプレー中に笑っているのを見たことはありません。ゴールを上げた時などは、大喜びしますけれども。

 ところが、高校野球では「作り笑い」を頻繁に眼にするのです。

 「そんな一流のプロ選手と、高校野球プレーヤーは違う。一流プレーヤーは、自らの心理状態をコントロールする術を身につけているが、高校球児は子供だから、それができない。ピンチになれば過剰に緊張するし、ミスをすると萎縮してしまう。それを防ぐために、無理矢理に笑顔を作るようにしている」といった説明があるのかもしれません。

 私は、それは違うのではないかと思います。
① 緊張する場面で、自らの実力を発揮すること
② 集中力を養うこと

 の2点のために、「作り笑い無し」でプレーする訓練が必要なのではないかと考えます。そもそも「作り笑い」が、過度の緊張を緩和し、コミュニケーションを強化するのに有効なのかどうかも疑問です。

 どんなピンチの場面でも、なるべく自然体でプレーできるようにトレーニングを積み重ねることが重要なのではないでしょうか。もちろん、容易なことではないと思いますが、マウンドに集まって「作り笑い」で話し合って自らのポジションに戻った後、一気に緊張感に満ちた表情に変わる高校球児達や、ピンチの場面で同僚から笑顔で話しかけられ、笑顔で返したピッチャーが、ヒットを打たれ悄然としている様子などを観るに付け、「作り笑い」は不要であり、選手同士が緊張した面持ちで言葉を交わすほうが、余程コミュニケーションが良くなり、必要・適度な緊張感と集中力を維持できるのではないかと思ってしまいます。

 先日、ある夏の甲子園地方大会の決勝戦で、ニヤニヤ笑いながら打席に入る選手を観ました。この選手はチームの中軸なのですが、打席に入る前、打席に入ってから、構えを取るなどの過程で終始笑っていて、正直に言って「気持ちが悪い」と感じました。空振りの三振に倒れましたが、三振した後も笑っていたのです。
 こんな形でしかプレーできなくなってしまう事の方が、怖いことだと思います。

 大ピンチを懸命に凌いで、ベンチに急いで帰ってくるナインを、監督が笑顔で迎えます。ナインも笑顔で監督を囲み、その身振り手振りの指示に熱心に聞き入ります。高校野球の笑顔とは、こういうシーンで観たいものです。

 暑い時期には、涼しく爽やかな高原でのプレーがぴったりです。高原のコースというと、いわゆるリゾートコースが多いのですが、今回ご紹介するのコースは、本格的チャンピオンコースです。

 現在のように「暑さに強い芝」というものが無かった昭和30年代後半、グリーンは高麗芝でフェアウェイは野芝・2グリーンが当たり前だった時代に、フェアウェイも含めてオールベント芝、ワングリーンの欧米レベルの本格的コースとして開場した点が、最も素晴らしいと思います。

 逆に言えば、高原で欧米並みに涼しい・寒いので、欧米並みのコースを造ることが出来たということでしょうか。

9.白河高原カントリークラブ

 フェアウェイのベント芝の感触が素晴らしいコースです。ティーショットの落下地点に行くと、少しボールが沈んでいます。ふかふかのベント芝ですから当然のことなのですが、現在流行の「掃う打ち方」では、中々上手く打てません。「打ち込むスイング」が必要なのです。

 表示を見ると距離は短いように見えますが、適度なアップダウンが有るので、実際には相当打っていかないとパーオン出来ないホールが続きます。特に、9番ホールと18番ホールは、長くて難しいホールという印象です。

 この9番と18番はグリーンも大変難しいと思います。実は、相当な受けグリーンで、フェアウェイに向かって、かなり傾いているのですが、周りの地形や木々の配置・角度の関係で、あまり傾斜を感じないのです。

 加えて、この2ホールはベントグリーンの仕上がりが素晴らしいので、物凄く速いのです。その速さは、私が経験した国内のコースでトップ3に入ります。何か、他のホールとこの2つのホールは、別のグリーンのような感じです。

 この2ホールについて言えば、ピンの上に付いたら3パットを覚悟します。横についても3パットの可能性が高いと思います。ピンの真下ワンピン内外に付いた時だけ、ワンパットの可能性があります。

 この2ホールのグリーンは、一度経験する価値があると思います。

 名物ホールとしては5番、谷越えのパー3も挙げられます。これは、まぎれも無い谷越えですから、打ち損ねて距離が足りなければ、ボールは谷に落ちます。レギュラーティーで160ヤードを越える距離があると記憶していますので、非力な女性ゴルファーには辛いホールになります。
 一方、上手く打てて、ボールが綺麗に谷を越え、ピンに寄って行った時などは爽快この上ないというところです。

 私が良くプレーしていた頃は、この5番ホールと18番ホールでバーディを取ると、コースから商品(小さいが立派な銀杯)が出ました。現在では、一般的にパー3にホールインワン賞が付いているのは珍しいことではありませんが、「常時コースからのバーディ賞が用意されているホール」が2つあるというのは、珍しいことだと思いました。

 それだけ難しいホールということになりますが、5番パー3と18番パー4を比較すれば、18番の方が遥かに難しいと思います。レギュラーティーからでも400ヤード近い距離があり、なだらかに打ち上げていく、白河高原カントリークラブの18番ホールは、難易度最高のグリーンも相俟って、挑戦し甲斐十分の名ホールだと思います。

 爽やかな空気、適度なアップダウン、素晴らしいベント芝、白樺の木々、を楽しみながらのラウンドは、夏ゴルフの醍醐味です。
 第67回リトルリーグ・ワールドシリーズは、2013年8月15日~25日にかけて開催され、日本代表の武蔵府中チームが優勝を果たしました。

 初戦はチェコ代表チームを7-3、第二戦は台湾代表チームを3-2、第三戦でメキシコ代表チームを5-2で破って準決勝に進出、準決勝戦は再びメキシコと当たり3-2で下して、決勝に駒を進めました。そして決勝戦は、アメリカ西地区代表のカリフォルニア・Chula Vistaチームを6-4のスコアで下し、5戦全勝での堂々たる優勝でした。

 これで、日本代表チームは昨年の東京北砂チームの優勝に続いて2連覇、通算9度目のリトルリーグ世界一に輝いたのです。

 ベースボールのリトルリーグは、11歳から13歳までの少年により構成されるチームによるリーグ戦です。
 そして、リトルリーグ・ワールドシリーズは、1947年・昭和22年開始という長い歴史を誇る大会です。第二次世界大戦が終結した2年後に始まっているという点で、アメリカという国の懐の深さを感じる事実です。大会会場は、アメリカ合衆国ペンシルベニア州サウス・ウィリアムズポートです。これは、第一回から現在に至るまで不変です。

 この大会は、1947年から1950年代まではアメリカ国内の各地区の代表が覇を競い、そのチャンピオンをワールドチャンピオンとしていました。ベースボール起源国のプライドも感じられますし、おそらくその頃までは、アメリカのリトルリーグ・ベースボールのレベルは世界的に見て、一頭抜けていた存在だったのでしょう。

 それが1950年代半ばから世界各国の代表も加えた大会となり、その後も大会内容を少しずつ見直し・変更しながら、現在に至っています。アメリカ以外のチームが優勝したのは、1957年のメキシコ代表チームが最初です。

 現在は、アメリカ国内の各地域の代表8チームと世界中の各地域代表8チームの計16チームによって争われる大会になっています。世界各地域というのは、カナダ・メキシコ・カリブ海・ラテンアメリカ・日本・アジア太平洋中東・欧州アフリカ・オーストラリアの8地域です。
 日本は2006年まではアジア太平洋地域に属していましたが、2007年からは独立した「日本」枠となりましたので、リトルリーグ全日本選手権大会の優勝チームが、そのままワールドシリーズに進出できるようになりました。

 この大会で、優勝回数が最も多い国は当然ながらアメリカです。合衆国の各地区の代表が代わる代わる優勝していた時期が長かったこともありますが、この大会の初期にはペンシルベニア州のチームの活躍が目立ちました。ペンシルベニア州は、リトルリーグ・ベースボールの聖地であり、日本風に言えば「ベースボールどころ」なのでしょう。

 二番目に多く優勝している国は台湾です。17度の優勝を誇ります。台湾チームが初優勝したのは1969年ですが、1971年~1974年の4連覇、1977年~1981年の5連覇、1986年~1991年の6年間で5度の優勝と、とても強い時期が続きました。この時期は、台湾ベースボールがリトルリーグ・ワールドシリーズを席巻していたのです。
 おそらく、台湾出身プレーヤーがMLBで最も活躍していたのは、前述の時期の10年後位、つまり1980年から2000年の間ではないでしょうか。
 こうしたことには、明確な関連性があるものです。

 三番目に多く優勝している国は日本です。頭書の通り9度です。日本代表チームは1967年と1968年を連覇し1976年にも優勝しましたが、その後は台湾代表などの壁の前に中々勝つことが出来ませんでした。
久々の優勝が1999年で、その後5度の優勝を重ねています。

 最近10年(2004年以降)の国別成績を見ると、アメリカが6度、日本が3度、キュラソーが1度の優勝となっています。21世紀に入ってからは、アメリカの各地区代表の力が再び上がってきていることと、アメリカ以外の地域では日本代表チームの力が優位にあることが解ります。

 そして、日本代表チームの最近の5度の優勝の内、頭書の武蔵府中リトルと東京北砂リトルが2度ずつ優勝しています。この2チームは、全日本選手権でも覇を競い、ワールドシリーズでも優勝を争っている強豪チームということになるのです。
 何しろ11歳から13歳までの少年しか出場できないのですから、選手はどんどん代わります。にもかかわらず、常に日本のトップを争い、ワールドシリーズでも勝っていくのですから、その選手層の厚さと指導力の強さを感じます。この2チームは、日本のリトルリーグ野球の名門チームなのでしょう。
 
 我が国のリトルリーグ野球のレベルの高さ、裾野の広さは素晴らしいものだと思います。野球というスポーツの足腰を支えている存在であることは間違いありません。

 それにしても、リトルリーグ・ワールドシリーズは「ベースボールの世界戦略」を強く感じさせる大会です。
 
 1947年からしばらくの間は、アメリカ合衆国内でのリトルリーグの普及を目指し、1950年代からは、メキシコ、カリブ海と参加国を増やしながら普及を図り、アジアやヨーロッパ、アフリカ、オーストラリアも加えて、世界規模の大会としました。

 テレビ放送の開始も大きな力となったようです。当初は決勝戦だけの放送でしたが、現在では、大会全ゲームの2/3位がアメリカ国内で放送されているそうです。一定の視聴率を稼ぐことが出来るマーケットが存在しているということですから、凄いことだと思います。

 優勝した武蔵府中チームが優勝ペナントを持ちながら場内を回っている写真がトップに掲示されている、今大会のホームページは「ベースボールは世界中に普及しているスポーツ」という印象を強く受けるように作成されています。

 アメリカ合衆国には、メジャーリーグ・ベースボールMLBを頂点としたベースボールというスポーツを、世界中のマーケットに普及させる・売り込んで行くための仕組みが、とても良く出来ていて、リトルリーグ・ワールドシリーズもその一環ということなのでしょう。

 11歳~13歳の頃、アメリカ・ペンシルベニア州サウス・ウィリアムズポートでプレーした少年達は、その思い出を忘れることは決して無いでしょう。長じてプロのプレーヤーになった時には、やはりベースボールの母国たるアメリカの地でプレーしたいと考えるのは、自然なことのように思います。

 そして、リトルリーグではプレーしたものの、その後別の道を歩む少年達も沢山居る筈ですが、この人達の大半も「アメリカのベースボールファン」で有り続けることでしょう。より広い意味では「アメリカ合衆国のファン」でも有り続けることでしょう。

 加えて、この少年たちの親・兄弟・親族・知人の方々も、応援という形で係わりますから、多くの人達が自然にベースボールのファンになるでしょう。親御さん達にとっても、子供を応援に行った、サウス・ウィリアムズポートの球場での思い出は、一生ものです。当然ながら、アメリカの学生野球やMLBにも、興味を持ち続ける方々が多いと思います。

 こうした大会が67年間も続いているのです。アメリカ国内の地区代表として出場した選手・関係者の方々も含めて、どれほど多くの世界中の人達が、ベースボールの、そしてアメリカ合衆国のファンになり、今後もなっていくのでしょう。

 アメリカ合衆国は、様々な意味で世界一のスポーツ大国です。種々のスポーツ競技において、ジュニアやリトルの大会が多数行われていますから、資金面への対応も含めて、こうした大会の運営ノウハウが十分に蓄積されています。つまり、おかしな大会には決してならない、いつも感動的な大会となるのです。

 こうした、世界規模の組織的かつ極めてシステマティックな体制作りと取組の継続は、アメリカ合衆国・アメリカの人々が得意とする分野です。そして、日本を始めとする他の国々には、中々真似が出来ないものなのです。
 最高気温が30度を越える暑い日が続いています。日本の夏なのですから、当然といえば当然なのでしょう。

 日差しも強烈な環境下、真昼間に走っているランナーが居ます。皇居の周りをはじめとして、ヒートアイランドといわれる都心を走っているランナーや、多摩川や利根川といった河川縁の走路、そして普通の住宅地の道路と、様々な場所を、いわゆる一般のランナーが走っています。それも、沢山のランナーが走っています。

 おそらく、趣味と健康維持のために走っているランナーが多いと思います。中には、週末の土曜日・日曜日に、全国各地で多数開催されるマラソン大会、ハーフマラソン大会、クロスカントリー大会等に出場しているランナーの方々も多いのでしょう。
 適度な運動は、健康管理のために良いと思いますし、中でもランニングは、その手軽さにおいて、日常の運動には向いているのでしょう。

 しかし、気温が摂氏30度以上で、強烈な太陽光線を浴びながらの長距離ランニングは、いかがなものでしょう。言うまでも無く、熱中症や脱水症状に繋がりやすい、とても危険な行為ですし、そもそも「気持ちが良い」とは到底思えません。趣味とは、とても考えられないスポーツです。

 暑くて汗だくになり、今にも倒れそうな様子で、よたよたと走っているのを見ると、これは止めたほうが良いと思いますが、それでも毎日のように、真昼間、走り続けるランナーが多いように思います。
 
 競技スポーツとしてのランニングであれば、夏でも練習を休むわけには行かないのでしょうが、それでも十分に対策を取り、可能な限り涼しい時間帯に練習するのでしょう。選手も、体を壊してしまっては何にもなりませんから。
 それが、一般の人・素人ランナーが、極めて危険な環境下で、毎日走り続けるというのは、理解できないことです。

 どうして、こんなに危険なランニングを続けるのでしょう。

①「修行・苦行」のような感覚なのでしょうか。「苦しさを乗り越えたところに喜びがある」といった感性のランナーが多いのでしょうか。
 先日も知人から「去年の8月はトータル200km走った。今年も200kmは越えたいんだよね」という話を聞きました。自慢話なのかどうか、よく分かりませんでした。

②劣悪な環境下で走る方が、体を鍛えるのに向いていると考えるのでしょうか。これは、明らかに間違っています。心臓をはじめとする内臓や全身の筋肉に、悪影響を与えるリスクは高いと思いますが、良いことは何ひとつ無いでしょう。

③習慣になっているのでしょうか。もし、そうであれば、夏や冬の劣悪な環境下では、実施内容を変更すべきでしょう。走る時間帯を変更し、走行距離も短くするといった具合です。

 どうやら①が最も考えられる理由のようです。
 そうすると、こうしたランニングは宗教に近いのかもしれません。もはや、趣味や娯楽、健康維持のためのスポーツでは無いようです。

 私の周囲にもランニングを趣味にしている人が、相当数居ます。そして時々「○○さんも、走ってみない?」と勧誘されます。「遠慮しておきます」と答えます。
 しばらくすると、再び「今週末に○○山を走るんだけど、来ない?」と誘われます。

 この勧誘行動の継続力の強さを考慮すると「ランニングは宗教」に近いと、改めて感じてしまいます。ご自分が、趣味として楽しくて、健康維持に良いと感じているのは良いとして、周りの人に勧め過ぎるのも、「普通ではない」感じがします。

 「普通ではない」という意味で、頭書の真夏・真昼間のランニングと共通したものを感じてしまいます。
 ボストン・レッドソックスの上原浩治投手が、好調なピッチングを続けています。8月25日現在、58試合に登板し58イニングを投げて、3勝0敗13セーブ。防御率1.24・WHIP0.66共に、アメリカンリーグALの救援投手NO.1の成績です。

 そして、このところの18度の登板を無失点に抑えているという投球内容は見事なもので、現在タンパベイ・レイズとAL東地区で激しい首位争いを演じているボストンにとって、大変頼りになる存在となっています。

 上原浩治投手といえば、日本プロ野球NPBの読売巨人軍でデビューした1999年シーズンで、いきなり197イニング余りを投げて、15連勝を含む20勝4敗の好成績で投手部門の賞を総なめして沢村賞に輝きました。
 そして、2002年には204イニングを投げて17勝5敗の好成績で、2度目の沢村賞を受賞。沢村賞を2度受賞しているというのはNPBの投手としては最高の栄誉です。

 加えて、ワールド・ベースボール・クラシックやオリンピックなどの国際大会では無類の強さを見せて12勝0敗2セーブと「国際試合無敗」記録を保持しています。
 そのピーク時の成績は、NPB史上屈指の先発投手であったと思います。

 一方で、残念なことに故障が多く、シーズン毎の成績に波があることは、以前から指摘されていました。
 
 その上原投手が、2008年33歳の時にFA権を取得し、2009年シーズンから敢然とMLBに挑戦したのです。MLB最初の所属チームは、ボルチモア・オリオールズでした。
 2009年のMLBデビュー年は、故障がちのシーズンを送り12度の先発登板で2勝4敗の不完全燃焼。2010年は中継ぎと押さえを担当して1勝2敗13セーブと、まずまずの成績を残すも、往年の上原投手を知る者にとっては、正直に言って寂しい投球内容でした。

 コントロールこそ、NPB時代同様に良いのですが、ストレートが明らかに手投げになっていてベース上で失速するのです。NPBの試合や国際試合でかすらせもしなかったストレートの衰えは、隠せない感じでした。

 2011年ボルチモアからテキサス・レンジャーズに移籍、テキサスでは主にセットアッパーとして登板し続けました。
 黄金の右腕から繰り出される、軌道のハッキリした「ズドーン」という感じのストレートは、陰を潜めました。NPBを代表する投手としての上原浩治のファンとしては、とても残念なシーズンが続いたのです。

 そして、2013年はボストンで投げることになりました。1年契約です。38歳となったこともあって勝負の年となることが予想されました。

 今シーズン当初の上原投手の投球を見て「おやっ」と思いました。ストレートの投球フォームに「ため」が戻ったのです。ここ数年の、腕を放り出すようなフォームが修正されています。まだまだ全盛時のフォームとは違うのですが、「ため」が戻ったことで、いわゆるボールの伸びが良くなったと思いました。
 ストレートの伸びが良くなったので、フォークがとても効果的になりました。コントロールの良さも相変わらずです。

 今年6月下旬からは、ボストンのクローザーも担当するようになりました。前投手コーチだったファレル監督の信頼を得たのです。

 ようやく、我らが上原の投球がMLBでも見られるようになりました。上原浩治投手は、MLB仕様の投球術を体得するのに4年の月日を要したのです。
 しかし、一度体得してしまえば「ものが違う」のです。確かに38歳の年齢が気にならないとは言いませんが、40歳を過ぎても活躍している投手はMLBにいくらでも居ます。

 上原浩治投手の今後の大活躍が、とても楽しみです。
 東京・千駄ヶ谷の国立競技場(国立霞ヶ丘競技場)の第4コーナートラック内に、旗を掲揚するための白いポールが立っています。そのポールの高さは15m21cmです。

 なぜこんなに中途半端な高さなのかと疑問を持たれますが、陸上競技に造詣のある方には有名な話なのです。

 1928年8月2日、アムステルダム・オリンピック三段跳(さんだんとび)種目で、日本の織田幹雄選手が15m21の記録で優勝しました。全ての競技・種目を通じて日本選手団オリンピック史上初の金メダルを獲得したのです。
 1912年のストックホルム・オリンピックに初参加した日本は、16年をかけて金メダルにたどり着いたのです。まさに、日本国を挙げての快挙でした。
 尚、このアムステルダム・オリンピックでは、もうひとつ競泳・男子200m平泳ぎで鶴田義行選手が金メダルを獲得しています。競技日程の関係もあって、こちらは日本競泳界オリンピック史上初の金メダルということになります。余談ですが、男子200m平泳ぎは日本の得意種目なのです。

 さて、織田選手の偉業を記念して、国立競技場に15m21cmの高さのポールが設置されました。もちろん名前は「織田ポール」と言います。

 織田幹雄選手は、1905年広島県安芸郡海田町に生まれました。17歳で三段跳びの日本新記録を樹立、1924年にパリ・オリンピックに出場、1925年に早稲田大学入学し競走部に入部。1928年のアムステルダム・オリンピックで快挙を達成したのです。
 そして、1931年には15m58cmの三段跳び世界新記録を樹立しました。1932年のロサンゼルス・オリンピックでは南部忠平選手が三段跳で金メダルを獲得しています。日本選手の2大会連続優勝ですから、「三段跳は日本の得意種目」だったのです。

 尚、当時英語で「ホップ・ステップ・アンド・ジャンプ」と呼ばれていたこの競技の名前を「三段跳」と翻訳したのも、1925年早稲田大学在学中の織田幹雄選手と伝えられています。
 その後、英語の種目名は「トリプル・ジャンプ」に変更されていますから、織田選手の翻訳の方が先行していた感じです。

 先日の世界陸上2013の三段跳では、フランスのテディ・タムゴ選手が18m04の好記録で優勝しました。18mジャンパーは、世界の陸上競技三段跳史上、わずかに3人しかいません。

 織田選手の15m21とタムゴ選手の18m04、その差は2m83。大きく伸びたと見るか、進歩が小さいと見るか。85年の月日をかけて、人類が伸ばしてきた記録です。
 日米通算4,000本安打については、本当に様々な意見が出されていて、とても興味深いのですが、どの意見・論評においても「容易に到達できる数字ではない」という点は、共通しています。

 そして、イチロー選手の毎日のコンディション維持に向けた努力の素晴らしさについても、多くの賛辞が寄せられています。
 
 私は、日本プロ野球NPBで951試合、MLBで2,031ゲームの計2,982試合に出場してきていることも素晴らしいと思います。もうすぐ、日米通算3,000試合出場なのです。

 こうした記録は、イチロー選手にとっては「結果として」というものなのでしょう。イチローが最も意識しているのは「ヒットを打つこと」のようです。

 ベースボールは団体競技ですから、競技としてはチームの勝利を目指すことが目的となります。プレーヤーもチームの勝利に貢献することが求められるのでしょう。

 「チームの勝利への貢献の仕方」には、プレーヤーによって色々なやり方があります。ポジションによっても異なります。イチロー選手の場合には、ヒットを打ち、外野守備で好プレーをし、ランナーになれば盗塁や好走塁を展開する、ことでチームの勝利に貢献しているのでしょう。

 こうした角度からイチローというプレーヤーを見ると、こういう記述になるのでしょうが、どうもピンとこない。イチローというプレーヤーは、チームの勝利に貢献するためにプレーを行うという、ベースボールプレーヤーとして当然の切り口が、フィットしない感じがします。もちろん、チームの勝利に大きく貢献していることは間違いないことなのですが。

 ヒットを打つ目的はチームが得点を上げるための手段の一つですが、イチロー選手にとっては「ヒットを打つ目的は、ヒットを打つこと」のように観えるのです。

 こうなると「ヒットの求道者」のようになってきますが、どうも「求道者」というと、「ヒットを打つことを極めるため」に日々精進しているというニュアンスがあります。これも、イチロー選手のプレーから感じられるものとは、少し違うようです。

 イチロー選手は「ヒットを打つことを極めるために日々精進している」のではなく、「ヒットを打つために日々精進している」ように見えます。
 「純粋なヒットメーカー」というのが、イチロー選手に一番ぴったりとするようです。

 何やら、訳の解らないことを書いてしまいました。

 妻が言います。ライブのテレビ放送を見ていたようです。
 「4,000本安打を打ったイチローちゃんを見ていて、しばらく泣いちゃった。だって、あんなに痩せていて、顔だって骨に薄く肉が付いているだけよ。髪は白髪混じりだし。ヒットを打つことに全てを捧げているのよ。よくあれだけ、自分を追い込めるものだわ。」

 全くその通り。それが、イチロー選手にとってのベースボールなのでしょう。
 競馬の本家といえば、サラブレッドを生み出し、クラシックレースを開始したイギリス(イングランド)ということになります。そして、欧州各国はイギリスから早々にサラブレッドを導入し、各々の国で、それぞれの競馬を創り上げてきました。

 欧州各国には国際的なレースも多いので、各国の競走馬の実力比較ができます。20世紀以降の競馬に付いて見れば、欧州競馬の中核を成す国は、イングランド、フランス、アイルランドということになるでしょう。特に、21世紀に入ってからはアイルランド馬の強さが目立つように思います。

 一方で、いわゆる国力に比して評価が低いのが、イタリアとドイツでした。特に、ドイツは、欧州NO.1の経済力を保持していることは周知の事実ですが、競馬に付いてはイギリスやフランスの後塵を拝してきたのです。もちろん、ドイツ競馬の歴史は他の欧州大陸各国と遜色ないもの(1822年開始)です。
 他のスポーツでのドイツの強さを勘案すると、不思議な感じもします。

 欧州における、3歳馬・古馬が出走できる代表的な国際レースといえば、毎年7月の第4週にイングランド・アスコット競馬場芝12ハロン(約2400m)のコースで行われる「キングジョージ6世&クイーンエリザベスステークス」と毎年10月第一日曜日にフランス・ロンシャン競馬場芝2400mコースで行われる「凱旋門賞」の、ふたつのレースでしょう。

 キングジョージ6世&クイーンエリザベスSは「欧州の上半期NO.1ホースを決める」レースという、明確なアイデンティティがあります。とはいえ、7月という開催時期は、3歳有力馬が各々の国のダービーに相当するレースに向けてコンディションをピークに整え、出走を終えた後というタイミングであるため、間をおかずに、もうひとつ大レースに臨むのが難しいということから、負担重量差が5kg以上ある(3歳54.9kg、4歳以上60.3kg)にもかかわらず、近年3歳馬の出走が少ないレースでもあります。

 一方、凱旋門賞は、開催時期が10月ということで、3歳馬が調整しやすい上に、3歳の夏を越えて、急速に地力が付いてくる時期ということもあってか、3歳馬の出走が多く、成績も4歳以上の古馬より3歳馬からの方が優勢というレースです。
 ちなみに、凱旋門賞も3歳56kg、4歳以上59.5kgと3.5kgという大きな負担重量差が有りますが、キングジョージ6世&クイーンエリザベスSよりは斤量差が小さく設定されています。7月下旬から10月上旬の2ヶ月余りの間の3歳馬の成長度合いは、相当に大きいということなのでしょう。

 さて、本題に戻ります。

 欧州を代表する、3歳馬・古馬混合の国際レースであるキングジョージ6世&クイーンエリザベスS と凱旋門賞における、ドイツ馬の成績は、惨憺たるものでした。
 キングジョージ6世&クイーンエリザベスSの方は、2011年までの61回のレースで0勝、凱旋門賞の方は2010年までの89回のレースで僅かに1勝。

 ちなみに、ドイツ馬と同じように、欧州の中では少し力が落ちると言われるイタリア馬の方は、凱旋門賞で6勝しています。
 20世紀前半、サラブレッドの生産に革命をもたらしたといわれる、名生産者にして馬主であり調教師でもあったフィデリゴ・テシオ氏の馬リボー号*が1955年・1956年と2連覇しているのを始めとして、1988年には日本では種牡馬としてお馴染みのトニービン号が勝つなど、時々活躍馬を出しています。(*リボーは16戦16勝の無敗馬で、凱旋門賞2勝に加えて、キングジョージ6世&クイーンエリザベスSにも勝っています。世界の競馬史上最強馬の議論には必ず登場する名馬です)

 ところが、イタリア馬にも?押され気味だったドイツ馬が、最近この2つのレースで実績を挙げてきているのです。

 2011年に3歳牝馬デインドリーム号が凱旋門賞を制しました。ドイツ馬として史上2頭目の快挙でした。「3歳牝馬は、斤量に恵まれているから」と言われましたが、翌2012年のキングジョージ6世&クイーンエリザベスSにも優勝してしまいます。
 今度は「ドイツ馬では、デインドリームだけが強い」とか言われましたが、2013年今年のキングジョージ6世&クイーンエリザベスSを4歳牡馬のノヴェリスト号が5馬身差で圧勝したのです。

 テレビ番組でこのレースを見ましたが、スタートから緩みの無いペースでレースが展開され、直線半ばから抜け出してきたノヴェリストの脚色は迫力満点。古馬ですから60.5kgという重い斤量を背負い、これまでのレコードを約2秒も更新する、5馬身差の圧勝劇でした。

 さて、こうなると、これまで弱いといわれてきたドイツ馬の評価を変えなくてはならないのかもしれません。
 何しろ、直近のキングジョージ6世&クイーンエリザベスSと凱旋門賞の4レースの内3レースをドイツ馬が制しているのですから。

 ノヴェリストは、今年10月の凱旋門賞にも挑戦する予定です。オルフェーヴル号やキズナ号の強敵となることは間違いありませんし、もしノヴェリストが凱旋門賞も勝つようなら、明らかにドイツ馬のレベルが上がったと見るべきでしょう。
 8月19日にクリーブランド・インディアンズの傘下マイナー戦で投げ、思ったような投球が出来ず、翌20日に自ら退団を申し入れて自由契約選手となった松坂大輔選手が、22日にニューヨーク・メッツとメジャー契約して23日のデトロイト・タイガース戦に先発しているというのは、いかにもMLBらしい動きでした。

 「光速の移籍」という感じですが、中3日という異例のローテーションで先発に向けて準備した松坂投手も見事なものだと思いますが、4日前にマイナーでパッとしない投球を見せた投手を、敢然と先発に据えるメッツ球団も中々のものです。
 加えて、背番号16が決まってから、松坂投手のサイズに合わせたユニフォームを用意するなどの裏方の皆さんのご努力も、慣れていることとはいえ大変なものです。松坂投手の背中には、キッチリと選手名が表記されていました。

 さて、そのピッチングですが、ダイジェストで見ました。

 復帰初戦の相手が、MLB屈指の強力打線を誇るデトロイトというのも、少し荷が重い感じでした。
 初回、高目に浮いたボールを2番のトリイ・ハンター選手にホームランを打たれます。続いて2回には、再びハンターにタイムリーを打たれた後、3番ミゲル・カブレラ選手に3ランホームランを浴びました。昨季の三冠王カブレラに見極められて、軽々と運ばれた感じでした。

 この強力打線相手に、中3日で5イニング86球を投げ、被安打6、被本塁打2、三振4、四死球1の5失点という内容は、評価が分かれるところでしょう。

 スライダー主体の投球で、いわゆるストレートがほとんど見られなかった点は、やや残念というか、今後先発投手として投げ続けるためには物足りない投球内容でした。

 とはいえ、そのプレート度胸は見事なもので、あの球威で3・4・5回をパーフェクトに抑えたのは、さすがという感じでもありました。

 ダルビッシュ、岩隈、黒田の日本人先発トリオが大活躍している現在、ここに松坂投手が帰ってくることは、日本のMLBファンにとって大変嬉しいことです。
 
 先発投手陣の再編が必要なニューヨーク・メッツには、是非もう一度松坂大輔投手を試していただきたいと思います。
 チャンスが与えられました。「元祖1億ドルの男」の踏ん張りに期待します。
 8月19日に最終日を迎えた、今季PGAレギュラーツアー最終戦ウィンダム選手権で、275打・5アンダーパー・26位タイの好成績を挙げた石川遼選手が、フェデックスポイントランキングを141位に上げました。
 150位以内に入ってきましたから、来季PGAツアーのシード権を争う、8月29日からの入替え戦4試合への出場資格を得たのです。シード権獲得への可能性を残した点が、とても良かったと思います。

 今季、PGAツアー主体にプレーを続けた石川選手は、当然ながら来季シード権獲得のラインである125位以内を目指して連戦を戦いましたが、特に1月~5月のシーズン前半は思ったようなゴルフが出来ずに予選落ちが続きました。

 ランキングは150位を大きく下回る状態が続きましたから、このままでは来季シード権どころか「入替え戦」への出場も難しいと思われました。150位以内に入らなければ、PGAツアーへの挑戦はいちから出直しです。秋に行われる、PGAツアーのクオリファイ・トーナメントに参加し、一定の成績を残さなければ、来季PGAツアーへの出場が出来ない状況に追い込まれるところだったのです。

 石川選手のコメントによると、6月にはコンディションが相当良くなってきたとのことで、この頃から反撃が始まりました。
 今季最高成績となった6月のHPバイロンネルソン・クラシック大会で10位タイの成績を上げ、その後は予選落ちも減りました。

 そして、松山英樹選手が本格参戦した7月からは、石川選手も出場した試合で安定した成績を残せるようになり、特に8月の全米プロ選手権で29位タイ、前述のウィンダム選手権で26位タイと、ポイント・賞金を積み重ねて、141位まで順位を上げたのです。
 この2試合の石川選手の健闘は立派だと思います。ウィンダム選手権でのプレー振りを観ても、相当調子が戻ってきていると感じました。

 万一、入替え戦で思うような成績が残せず、シード権を獲得できなかったとしても、141位であれば「準メンバー」という扱いで、来季約20試合程度には出場できる(シード選手の欠場などの空き枠を待つ形)のです。ラスト2試合での健闘の意味は、とても大きなものでした。

 万一などと、縁起でもないことを書いてしまいましたが、石川選手には入替え戦で堂々と戦っていただき、シード権を獲得して欲しいものです。

 入替え戦は、25名のシード権枠を、今季レギュラーツアーの25人(126位~150位前後)と下部ツアーからの125人の計150人が4試合の成績で争うと報じられています。
 見るからに厳しい条件です。レギュラーツアーから出場する25人(石川選手もここに含まれます)には、PGAツアー優勝経験のあるプレーヤーも複数入っているでしょうし、下部ツアーといっても、世界最高レベルのPGAツアーを目指すプレーヤーが犇きあっているツアーですから、その上位125人といえば、とてもハイレベルなプレーヤーが揃っていると思います。逆に言えば、このハイレベルな下部ツアーがPGAツアーの「世界一のクオリティ」を支えているのです。

 それにしても、松山英樹選手がわずか7試合の出場で105位の成績を挙げ、来季シードを獲得したことは、とてもミラクルなことなのですが、我が国では何か当然のことのような雰囲気で報じられているのには驚かされます。

 加えて「石川遼、今季PGAツアー挑戦・失敗」といったトーンの報道も目立ちます。石川選手は、ツアー終盤の驚異的な追い上げで「入替え戦」出場権を得たのです。そして、少なくとも来季20試合前後の出場資格を保持しているのです。PGAツアーに挑戦している、世界中の多くのプレーヤーの立場に立てば、羨ましい限りでしょう。
 これだけの成績を残したにも係わらず、何か悪いことのように伝えられるのは、いかがなものでしょうか。

 ファンの期待は期待として、選手の活躍をキチンと伝えていくことは大事なことだと思います。

 夏の甲子園2013決勝戦は、群馬県代表前橋育英が宮崎県代表延岡学園を4-3のスコアで破り、優勝しました。夏の大会初出場初優勝でした。

 とても印象深い大会でした。少し振り返ってみましょう。

① 接戦が多かったこと。

 各代表チームの力量が接近していたということでしょう。
 決勝もそうでしたが、準々決勝以降の7試合で1点差ゲームが5試合。最大点差も、準決勝の延岡学園対日大山形戦4-1の3点差。近時、強力打線を擁して大量点で勝ち上がるチームが多かった中、今大会は少ない得点の守り合いというゲームが多かったのです。10点差以上のゲームも少なかったと思います。

② 地域毎の実力差が小さい大会であったこと。

 日大山形対日大三の7-1、富山第一対木更津総合の8-0、といったゲームはその試合内容でも日大山形、富山第一が圧倒していました。これまで、甲子園大会で中々勝てないといわれていた地域の代表校が、常連校・常勝地域代表校を圧倒したのです。他にも、随所にこうした試合が見られました。「こちらが勝ちそうだ」という先入観念が全く通用しない大会でした。

 中部地方、近畿地方、中国地方のチームは、早々に姿を消し、ベスト8には東北2校、関東2校、四国2校、北信越1校、九州1校が残りました。ベスト4には、東北2校、関東1校、九州1校ということですから、いわゆる「野球どころ」と呼ばれる地域や、東京・神奈川・千葉といった首都圏地域から1校も勝ち残れなかったのです。

 10年後に振り返ってみると、ターニングポイントとなった大会なのかもしれません。この傾向が本物なのかどうか、来年以降の大会が楽しみです。

③ ビッグイニングが多かったこと。

 前述のように、大量点・大差が少ない大会であったにもかかわらず、1イニングに大量点が入る試合が目立ちました。
 決勝戦も、延岡学園が一挙3点を挙げ、前橋育英が一挙3点で追いつくという展開。他のゲームでも、1イニングに5点以上の得点が入るケースが目立ちました。好投、粘投を続けてきた投手および堅い守りを誇った守備陣が、何らかのきっかけで大崩れし、歯止めが効かなくなるということです。
 今後は「セーフティリード」の概念を見直す必要があるのかもしれません。

 東北代表チーム6校中5校が初戦を突破し、2校がベスト4に勝ち残ったのですから、東北地域が健闘した大会に見えますが、富山県代表が久しぶりにベスト8に勝ち進んだり、宮崎県代表が初めて決勝戦に駒を進めたりと、これまで中々勝ち進めなかった地域の代表が、快進撃を魅せたという点は「全国的な現象」だったと思います。

 繰り返しになりますが、こうした代表校の「堂々たる戦い振り」が、本当に印象的でした。強豪校に挑む新鋭校という図式ではなく、互角の立場・意識での戦いだったのです。
 結果以上に、その点が、今後の甲子園大会にとって大きな意味・意義を持つ、第95回大会であったと考えます。
2013
08.23

 「ESPN Baseball Tonight」の見出しです。

 2013年8月21日、ニューヨーク・ヤンキースタジアムで行われたヤンキース対トロント・ブルージェイズのゲームで、イチロー選手が「日米通算4,000安打」を達成したことを報じるものです。

 日本プロ野球NPB9年間で1,278安打、MLB13年間で2,722安打の計4,000安打。素晴らしいとしか言いようが無い記録です。イチロー選手、本当におめでとうございました。

 私は「日米通算」という概念の評価は難しいものだと考えてきましたし、現在も考えています。NPBとMLBは、野球とベースボールというルールは略同じですが、本質的に相当異なるプレー、ゲームを展開しています。
 また、ひとつのシーズンの試合数も異なりますし、全体のチーム数もNPB12チームに対してMLB30チームと違いますから、相違点が多いと思います。

 その2つのリーグでの記録を合計することの意味・意義が、いまひとつ掴めないのです。今回のイチロー選手の4,000本安打にしても、どのように評価すべきか、解りませんでした。

 しかし、4,000本安打にあと少しと迫った試合での、1打席1打席における球場のファンからの声援や、4,000本安打を達成した時のヤンキースタジアムの大声援、そしてヤンキースのチームメイトがベンチを出て祝福し、1塁ベース上でイチローが帽子を取って笑顔でファンに挨拶する姿を見て、この日米通算4,000本安打は素直に評価して良いと確信しました。

 全米で最も熱いベースボールファンが、イチローの記録を認めたのです。2,722安打のバッターとしてではなく、4,000本安打の打者として遇したのです。ESPNのニュースも同様でした。本当にファンタスティックなことだと感じます。

 そして、米国におけるイチローの4,000本安打への素直な評価は、イチロー自身のMLBにおける活躍や、他の日本人プレーヤーのMLBにおける実績の積み上げが、大きく寄与していることは間違いないでしょう。

 米国のベースボールファンは、イチローを始めとする日本人プレーヤーのスキルの高さ、チームプレーへの貢献、そして礼儀正しさ、等々の特徴・実績を目の当たりにして、日本で行われている「野球というスポーツ」が、決して極東の低レベルなベースボールに似たスポーツ、ではなく、ベースボールのルールを踏まえて、独自に発達したハイレベルなスポーツであることを認識してきたのでしょう。
 ひとりひとりの米国MLBファンの日本人プレーヤーへの評価見直しに次ぐ見直しの結果の象徴が、今回の「日米通算4,000本安打」への高評価であると思います。

 さらに、長嶋茂雄氏やボストン・レッドソックスの上原浩治投手のお祝いコメントにもあるように、イチロー選手が、怪我や故障をせずに毎日試合に出場できる状態を造り上げ、出場してきたことが最も高く評価されるべきことなのでしょう。ハイクオリティな自己管理能力とほんの少しの幸運が、イチロー選手のプレー継続を可能としたのだと思います。

 イチロー選手には、これからも活躍を続け、記録をどんどん伸ばしていっていただきたいものです。
 次の目標はMLB3,000本安打でしょうか。あと278安打、とても高い山です。イチロー選手にとっても、ギリギリの数字でしょう。

 そして、この高峰を登る途中には、ピート・ローズ選手の通算4,256安打のMLB記録が存在しています。

 陸上競技世界選手権モスクワ大会最終日の8月18日、男子400mリレーでジャマイカチームが優勝し、アンカーを務めたウサイン・ボルト選手が世界陸上8つ目の金メダルを獲得しました。これは、アメリカのカール・ルイス選手の記録に並ぶ史上最多タイ記録だそうです。素晴らしいことです。

 このニュースを耳にした時「ボルトの時代も、そろそろエンディングを迎える」と思いました。

 カール・ルイスもウサイン・ボルトも、一世を風靡した陸上競技プレーヤーです。カール・ルイスは1980年前後の10年間弱の期間、世界の陸上競技界を代表するプレーヤーでした。走り幅跳び、100m、200m、4×100mリレーの各種目で、オリンピック、世界選手権を通じて活躍し続けたのです。

 このカール・ルイスとウサイン・ボルトの、どちらが上かという質問に答えることは難しいことだと思いますし、あまり意味が無いことのようにも思います。どちらも、素晴らしいアスリートであるということでしょう。

 そして、甲乙付け難い、世界陸上競技史上でも指折り数えられる両プレーヤーの成績も、ほぼ互角のものになるはずです。

 従って、カール・ルイスの世界選手権獲得メダル数にウサイン・ボルトが並んだということは、「ウサイン・ボルトの時代もエンディングに近づいている」ことを示唆していると考えるのです。

 ボルト選手も、この400mリレー優勝後のインタビューで、次のリオデジャネイロ・オリンピックが〆の大会になるようなニュアンスのコメントをしています。
 2008年の北京オリンピックで幕を開けたボルト劇場を、私たちは随分楽しんできました。そして「伝説となる」ことを目指すボルト選手の取組も続いてきたのです。

 「稀代のスプリンター」ウサイン・ボルトの今後の1レース、1レースを、これまで以上に眼に焼き付けようと思います。

 また、ボルト選手が2007年世界選手権大阪大会200m走で、タイソン・ゲイ選手に次いで2位に入ったレースのような、次代のヒーロー誕生の萌芽を見逃してはならないとも思うのです。
 4試合全てが1点差ゲームというのは、珍しいことでしょう。

 夏の甲子園2013「第95回全国高等学校野球選手権記念大会」の準々決勝4試合は、8月19日、好天の阪神甲子園球場で行われました。

 これも珍しいことなのですが、この大会はここまで雨が降りません。雨でスケジュールが変更になった試合が1試合も無い、という以前に、甲子園球場に雨が降っていないのです。
 グランドは乾ききっています。グランド整備で一面に水が撒かれますが、あっという間に乾いてしまいます。球児の皆さんのワンプレー・ワンプレーには必ず大量の砂塵が舞い上がります。やっている方は大変なのでしょうが、本当に夏の大会らしい光景が続くのです。
 この乾ききったグランドも、当然のことながら、試合の大きな構成要素になっています。

 こうした舞台装置の上で、凄まじい4試合が展開されました。

 第一試合 花巻東5-4鳴門

 試合が動いたのは6回、花巻東が三番岸里選手のバックスクリーンへの2ランホームランで先制、2-0とリード。
 その裏鳴門は2つの四球でランナーを溜めて3本のタイムリーヒットで3点を挙げ、逆転。このあたりの集中打は見事。鳴門が3-2でリード。

 8回表、花巻東は四球から作った二死二塁のチャンスから3連打で3点を挙げ、再逆転。四球は常に失点の最大要因ということを再認識するとともに、花巻東の集中打にも感心するばかり。花巻東が5-3とリード。

 9回裏、鳴門は2つの四球を足場に二死満塁のチャンス。二塁強襲安打で4-5と追い上げます。ここで、1本出れば逆転サヨナラ勝ちという場面でしたが、惜しくも三塁へのフライでゲームセット。

 投げる花巻東の河野投手と打つ鳴門の日下選手。最後の1球まで、勝利の女神がどちらに微笑むか、全く分からない好ゲームでした。

 花巻東は、いつものように細川→中里→河野の3投手継投でした。厳しいスケジュールの甲子園大会においては、3人の好投手を抱えるというのは有利なことですが、一方、交代のタイミングや3人の投手のコンディション確認など、難しい要素もあります。
 準決勝も、継投の成否がポイントとなりそうです。

 第二試合 日大山形4-3明徳義塾

 明徳義塾が3度リードし、日大山形が3度追い付き、3度目は逆転したというゲームでした。加えて、日大山形の4得点はいずれも二死からのものでしたし、3点目まではいずれも長打による得点でした。日大山形打線は、とても勝負強く力強い打撃を展開したということになります。

 明徳義塾に惜しまれるのは、7回裏の二死満塁のチャンスを物に出来なかったことでしょう。2つの四死球で作ったチャンスでしたから、試合の流れは完全に明徳義塾にありました。ここで三番逸崎選手に一本出ていれば、明徳義塾の大勝だったと思います。
 日大山形の庄司投手は、自ら招いたピンチとはいえ、見事に抑えきりました。これで試合の流れが日大山形に傾き、8回表の逆転に結びついた形です。

 8回裏明徳義塾は、3四死球で再び一死満塁のチャンスを掴みましたが、スクイズ失敗で得点できませんでした。こうしたタイムリーヒットの打ち合いのゲームで、ノーヒットで得点しようとする作戦では、試合の流れを掴むことは出来ないのでしょう。

 日大山形は、日大三・作新学院・明徳義塾と夏の甲子園優勝経験チームを三連破して、県勢初のベスト4進出を果たしました。試合内容でも、この3校に全く引けを取らないものでした。
 庄司投手の粘り強い投球と勝負強い打撃が継続できれば、準決勝でも好勝負が期待されます。

 第三試合 前橋育英3-2常総学院 (延長10回サヨナラ)

 関東勢同士の対戦でした。前橋育英は連投の高橋光投手ではなく、喜多川投手を先発させました。荒井監督の采配ですが、無理な連投を極力回避するという考え方に基づいた選手起用でしょう。合理的で冷静な考え方をベースにした選手起用が、勝利を呼び込んだものと思います。

 喜多川投手は2回に2点を失いますが、結局巧打の常総打線を5回までこの2点に抑え込みました。先発投手として十分な働きでしょう。6回からは高橋光投手が引き継ぎ、4連続を含む10個の三振を取って、常総学院に追加点を許しませんでした。前橋育英・荒井監督の投手起用は成功したのです。

 こうなると、常総学院としては2点を守りきることが勝利への道でしたし、実際先発の飯田投手は良く投げました。前橋育英打線を8回まで6安打0封。ピンチらしいピンチは7回裏二死満塁でしたが、ここは高橋光選手を三振に切って取りました。

 このまま押し切れるかと見えた9回裏、飯田投手は脚の痙攣が止まらず降板。金子投手が引き継ぎました。金子投手も前橋育英のクリーンアップ3番4番を内野ゴロに打ち取り二死。5番の小川選手も緩い当たりの二塁ゴロに打ち取った時には、常総学院の勝利かと思われました。

 ところが、ここで乾ききったグランドが悪戯をしたのです。常総学院・進藤二塁手の前でわずかにイレギュラーバウンドして跳ね上がった打球は、進藤選手の胸に当たり、大きく前に弾かれました。エラーとなって、二死一塁。イレギュラーバウンドですから、進藤選手を責めることは出来ません。
 それでも、2-0でリードして9回裏二死ランナー一塁ですから、常総学院の優位は動かないものと思われました。

 しかし後から思えば、球運は既に前橋育英に傾いていたのでしょう。6番板垣選手の2ベースヒットで二死2・3塁となり、打席には再び高橋光選手。気迫十分の打席でした。低いライナーがセンター前に抜けたと見えましたが、打球が速く、右中間を破る三塁打。
 2-2の同点となりました。

 金子投手は好投しました。3人の打者を3つの内野ゴロで仕留めた投球だったのです。常総学院は、エースが降板したから負けたのではなく、球運が味方しなかったとしか言いようがありません。

 9回二死ランナー無しからのイレギュラーバウンドが勝敗を分けました。野球の怖さを、改めて感じるゲームでした。

 エース高橋光、二番手喜多川という2枚の投手を擁する前橋育英は、準決勝でも十分に戦えると思います。荒井監督の冷静な采配にも注目です。

 第四試合 延岡学園5-4富山第一 (延長11回サヨナラ)

 この試合も、先制→逆転→再逆転→同点→サヨナラ、という目まぐるしいゲームでした。第二試合と同様に、両チームに何度も勝つチャンスがありましたが、両チームとも相手チームに傾いた流れを、自チームに何度も引戻す力を見せた点が素晴らしいと思います。

 3回裏延岡学園の攻撃、二塁ランナーを本塁で刺した富山第一・平田中堅手の好返球や、5回表富山第一の先頭バッター藤井選手の二塁打、さらに三塁を狙う走塁を、好中継プレーで刺した延岡学園、両校共に好守備をも展開したのです。

 6回裏延岡学園は、スクイズも交えて3点を奪い逆転。7回表富山第一はタイムリーを重ねて3点を奪い再逆転。しかし、どちらの攻撃も、続くチャンスを宮本投手と横瀬投手が空振り三振に切って取っています。
 両チームとも、攻撃陣が得点を挙げますが、投手陣があと一歩のところで踏ん張り、流れを完全に渡すことを阻止し続けています。真の粘りだと思います。

 8回裏、延岡学園は4番岩重選手のタイムリー二塁打で4-4の同点に追い付き、さらに一死三塁。ここは、富山第一の宮本投手が踏ん張り、後続を断ちます。宮本投手の気迫溢れる投球は見事でした。

 富山第一にとって惜しまれるのは9回表の攻撃。連続ヒットで無死1・3塁のチャンス。ここで、あと一本が出ませんでした。
富山県勢にとって悲願のベスト4進出に、あと一歩に迫った攻撃であったと思います。

 この時、珍しいプレーがありました。富山第一・西田選手が内野ゴロに打ち取られ、ダブルプレーでチェンジ、延岡学園の選手たちは皆ベンチに帰ってきました。しかし、このプレーは、外野審判タイムの後のプレーでしたからインプレーではありませんでしたので、一死1・3塁の状態で再プレーとなったのです。

 後で見た映像では、投球練習場からボールが外野グランド内に入ってしまい、レフトの線審が大きく手を振り、走りながらタイムをコールしています。しかし、両チームの選手達は誰一人気付かず、プレーが続いています。「両チームとも凄い集中力だ」と感じました。

 さて、再プレーとなったのですが、普通こうした状況なら富山第一に流れが行きそうなものですが、ここでも延岡学園・奈須投手の踏ん張りが素晴らしかった。流れを完全に引戻したのです。
 西田選手を空振り三振に取った1球が、この試合を決めました。

 延岡学園も、井出→横瀬→奈須の3投手リレーが武器です。打線も、ここまでの3試合いずれも二桁安打を記録しており好調です。
 準決勝も打線の出来がポイントでしょう。

 さて、準々決勝の4試合をざっと見てきましたが、頭書の通り、どの試合も好ゲームでした。どちらのチームにも勝つチャンスが十分にあった試合が続いたのです。
 通常なら、2~3試合を投げてきた主戦投手が、疲労から大きく崩れ、試合が序盤に決まってしまう、あるいは大差が付くゲームが1~2試合有っても、何の不思議も無いのですが、4試合とも1点差の、試合内容も拮抗したゲームが続いたのは、本当に素晴らしいことでしたし、記憶にとどめておく価値が有ると思います。

 そして、結果として東北の花巻東と日大山形の2校がベスト4・準決勝に進出しました。
 東北勢2校がベスト4に入ること自体は、1989年の仙台育英と秋田経法大付属の例がありますので初めてということではないのですが、当時とは少し雰囲気が違うと思います。
 試合内容が一段と良いのです。全国の強豪校と互角以上の戦いを演じて勝ち進んでいる花巻東と日大山形には、決勝に進出する可能性が十分にあります。

 また、前橋育英には勢いが感じられます。今大会屈指の好投手・高橋光成(たかはし こうな)を擁して、夏初出場でここまで来ました。得点力が課題です。早い段階で得点できれば、良い試合を展開できるでしょう。

 延岡学園も、宮崎県勢として48年振りのベスト4です。九州勢の中では、やや影が薄かった感のある宮崎県勢反抗の狼煙が上がったというところでしょうか。好調な打線の活躍が決勝進出の鍵です。

 もうひとつのポイントは「休養日」。今大会、史上初めて導入された準々決勝と準決勝の間の1日のお休みです。
 特に、投手にとっては大きな休養日となりますが、かえって調子を崩す投手が出てくる可能性もあります。

 投手・野手、各選手の肉体面・精神面の疲労回復と好調維持に向けて、監督他スタッフの腕の見せ所でしょう。
 陸上競技世界選手権モスクワ大会は、8月18日に全ての競技を終えて閉幕しました。素晴らしい記録やプレーが観られた大会でしたが、ジャマイカ短距離陣の強さが際立っていた大会でもありました。

① 男子400mリレー・女子400mリレーの優勝
② 男子100m走・200m走のウサイン・ボルト選手の2冠
③ 女子100m走・200m走のフレーザープライス選手の2冠
④ 男子100m走決勝レースへの4選手の進出
⑤ 男子200m走決勝レースへの3選手の進出

 といった事実は、ジャマイカ陸上競技短距離競走陣が、ウサイン・ボルトとフレーザープライスという男女2人の天才ランナーによって支えられているのではなく、相当に強い複数のランナー、それも若手ランナーが育ってきていること、そして広い裾野から世界に通じるトップランナーを供給し続ける体制が整っていることを示しています。

 特に、④には驚かされました。レースは、ボルト選手が9秒77で1位、カーター選手が9秒95で3位、ベイリーコール選手が9秒98で4位、アシュミード選手が9秒98で5位と、アメリカのガトリン選手2位以外の上位をジャマイカ4選手が独占。向かい風0.3mで降りしきる雨の中、4選手全員が9秒台という、素晴らしいレースを展開しました。
 このレースに進出した、ボルト選手以外のジャマイカのスプリンター3人は、コンディションが整えば9秒80を切る能力が十分にあると思います。

 世界一を決める100m走レースに複数のランナーを送り込むことは、かつてアメリカが得意としていたことです。
 「オリンピックに勝つより、アメリカの代表選考会に勝つことのほうが難しい」と言われ、1ヶ国3人の出場人数制限が無ければ、オリンピックの決勝レースは8人全員がアメリカ選手になるとも言われた時代がありました。

 現在は、そのアメリカに代わって世界陸上短距離界を席巻しているのはジャマイカということになります。

 ジャマイカのこの強さは、どこから生まれているのでしょう。黒人ランナーだから速いなどというのは、ジャマイカ1国の強さの説明にはなりませんから、やはり強化体制とトレーニング方法の違いということになります。
 
 21世紀になってから、ジャマイカを短距離王国に育て上げた人物・ノウハウが、ジャマイカ国のどこかに必ず存在する筈なのですが、こうした肝心な情報は中々報じられません。日本短距離陣強化のために、とても役に立つ情報だと思うのですが。

 現代は情報過多の時代と言われますが、肝心な情報は以前にも増して秘匿されているように感じます。情報とは言えない雑多な代物は溢れていますけれども。
 各種のIT技術も、本当に重要な情報を一般化することには、あまり役に立たないようです。

 「現代は情報不足の時代」だと、私は考えています。
 この「スポーツを考える-KaZ」ブログを立ち上げたのは、昨2012年の8月19日。本日でちょうど一年になりました。

 この一年間に430稿を超える記事を掲出することが出来ました。お読みいただいている皆様のご来訪・ご支持があってのことです。お礼申し上げます。

 深夜、朝そして休日という少ない時間の中で書いてきましたので、書きたかったテーマの半分も採り上げることが出来なかったことが残念ですが、今後も1日1稿は掲出することを心掛けて行きたいと考えています。

 また皆様には、従来以上にご感想・ご意見などをお寄せいただきたいと思います。よろしくお願い申し上げます。

 日本では暑い夏が続いていますが、MLBやNPBに加えて、世界陸上モスクワ、夏の甲子園2013などなど、スポーツは花盛りです。これからも、様々なスポーツを楽しんで参りましょう。
 もう負けないのではないか、と感じさせる快進撃です。

 8月16日の対埼玉西武戦、東北楽天の先発・田中将大投手は8イニング・106球を投げ、1失点、10奪三振の好投を見せ、今シーズン開幕から17連勝、昨シーズンからの連勝を21に伸ばして、日本プロ野球NPB新記録を達成しました。

 賞賛の言葉が見つからない程の快挙です。バッティングマシーンの改良が続き、打者優位の時代と言われる現代野球で、しかもこっそりと飛ぶボールに変更されていた今シーズン、このような快記録が生まれたことは、素晴らしいことです。

 高めのボールの重要性を改めて認識させてくれた投球でもありました。

 「打たれたくなければ低めに投げろ」というのは、ピッチングのセオリーです。低めにコントロール出来ない投手は中々成績が上がらないといわれますし、実際にそうだと思います。一般的には、低めのボールが投手の生命線なのです。
 しかし、田中投手は高めのボールを上手く使うと思います。

 今シーズンの田中投手の投球の特徴は「ピンチに強い」ことです。三振が欲しい時に取れる投球なのですが、その際に「高めのストレート」がとても効いています。もともと、高めのボールを投げる投手でしたが、一層磨きがかかったのです。

 最も打ち難いのは外角低めといわれますが、外角高めのストレートも中々打ち難いボールだと思います。特にやや浮き上がる感じの外角ストレートは、打者から遠いこともあって、当てることが難しいボールでしょう。
 この球を田中投手は、上手に使います。球威も十分です。

 「神様・仏様・稲尾様」と言われた大投手、西鉄ライオンズの稲尾和久投手の記録を超えた田中将大投手。残された課題は、リーグ優勝、そして日本シリーズでの大活躍・優勝ということになります。
 世界陸上モスクワ2013も終盤に差し掛かった8月16日、男子走り幅跳びでロシアの新鋭アレクサンドル・メンコフ選手が、素晴らしい跳躍を見せて、8m56の今季世界最高記録で優勝しました。

 久しぶりに「バネ」を感じさせるジャンパーでした。

 身長178㎝と、現代では小柄な部類に入るメンコフ選手ですが、そのジャンプは見事の一語。

 跳躍フォームは挟み飛び・シザースジャンプですが、空中で脚を前後に動かすのは踏切直後の1回だけ。それも小さく素早く動かします。ですから、いわゆるシザースジャンプの狙いである「空中での重心を高く保つ」ことより、自身の体の左右のバランスをキープするための動きのように観えました。

 助走スピードは、当然ながら十分ですが、踏切にかけて色々な動きが無いのが特徴だと思います。「踏切直前2・3歩の歩幅を小さくする」「少し重心を沈み込ませる」といった、現代の走り幅跳び種目で一般的な動きが無いのです。僅かに、3歩前から走りのリズムが変わります。踏切に向けて、タイミングを合わせているのでしょうが、特別な動きはこれだけです。シンプルな跳躍と言えるでしょう。そのシンプルさが素晴らしいと思います。

 8m56は、こうした世界規模の大会でも好記録です。この大会も8m30を超えれば優勝争いが出来ると観ていましたが、それを遥かに超える記録でした。2位のガイザー選手(オランダ)の8m29、3位のリベラ選手(メキシコ)の8m27を見ても、メンコフ選手の記録のレベルの高さが解ります。

 男子走り幅跳び界に登場したアレクサンドル・メンコフ選手。カール・ルイス選手188㎝、マイク・パウエル選手188㎝の活躍から始まった、走り幅跳びは長身選手が有利といわれる時代に、一石を投じる活躍でした。日本人ジャンパーも、勇気をもらったと思います。
 山形県代表日大山形高校の戦い振りが見事です。

 緒戦は、西東京代表・日大三高に7対1で快勝、そして8月17日の栃木県代表・作新学院高戦は5対2で競り勝ちました。
 関東の強豪校を連破したのです。

 第一に、エース庄司投手の投球が素晴らしい。タテに変化するスライダー中心の組み立てにより、あと一本を打たせない投球術。日大三戦が公式戦初の完投勝利、そして作新学院戦も完投勝利とは、庄司投手の甲子園球場における成長は驚異的です。

 第二に、勝負強い打線。2つの試合とも、初回に得点し、試合終盤にダメ押し点を挙げています。ここぞという時の集中力が凄いのです。

 このところ、中々勝てていなかった山形県代表チームの大活躍は、この大会の東北勢活躍の象徴です。
 
 有名選手が居るわけでもなく、派手なプレーを見せるわけでもない。しかし、強いチームです。

 「日大山形高校の野球」に、大きな拍手を送ります。
 どんな選手かと聞かれると、返答に少し困ってしまうプレーヤーが、アルフォンソ・ソリアーノ(現ニューヨーク・ヤンキース)でしょう。

 ドミニカ共和国出身で、プロプレーヤーとしてのキャリアは日本プロ野球NPBの広島東洋カープからスタートし、MLB史上4人しかいない「40・40」(シーズン40盗塁以上+40本塁打以上)の大記録を保持し、MLB通算390本以上の本塁打を放っている長距離ヒッターでありながら、あまり人気が無い、というのですから。掴み所が無い名選手、といったところでしょうか。

[ひとつ目の不思議]

 ソリアーノ選手は広島カープが、1990年にドミニカ共和国に設立した「カープアカデミー」の出身です。MLB各球団の施策に習い、自軍の1軍プレーヤーを発掘・育成するためにドミニカ共和国にアカデミーを作るというのは、広島カープも思い切ったことをしたものですが、このアカデミーは「アルフォンソ・ソリアーノ」という原石を掘り当てました。

 カープアカデミーでの実績が認められ、ソリアーノは1996年に来日、1997年に1軍登録されました。1997年の広島カープでの成績は、9試合に出場して17打数2安打。どう見てもパッとしない成績ですから、翌1998年の契約に際して、広島球団は年棒4万5千ドル(約450万円)を呈示しました。この成績では当然だと思います。

 しかし、ソリアーノはこれを拒否し、ドミニカに帰ってしまいます。そのドミニカでのプレー振りを見たニューヨーク・ヤンキースNYYが、ソリアーノ獲得意思を表明、1998年9月広島カープに移籍金310万ドル(約3億1千万円)を支払って、ソリアーノを獲得したのです。ソリアーノ22歳の時でした。

 NPBの年棒450万円の1軍半プレーヤーをMLBのNYYが3億円で獲得するというのも、滅多に見られない話です。NYYはソリアーノ選手の才能を見抜いたとしか言いようが無いのですが、広島球団側も保有権を有しているとはいえ、ドミニカに帰ってしまっているプレーヤーですから、育成費用を勘案しても悪くない話だったのでしょう。

[ふたつ目の不思議]

 NYYに移ったソリアーノ選手は、翌1999年は2A、2000年は3Aと、マイナーリーグを中心にプレーしました。メジャーでも少しプレーしたのですが、NPB時代からの欠点である「守備の下手さ」、特にスローイングの拙さがネックとなり、メジャーへの定着は難しいと見られていました。

 ところが、2001年の春、ヤンキースの正二塁手だったノブロック選手が故障したため、守備には眼を瞑ってソリアーノ選手が使われることになったのです。25歳の2001年シーズン、ソリアーノは158試合に出場し、打率.268、18本塁打、73打点と活躍、特に43盗塁はリーグ3位の好成績でした。ルーキーとして、素晴らしい働きを見せたのです。
 この年のアメリカンリーグAL新人王の投票でも、イチロー、CCサバシアに次いで3位でした。

 翌2002年シーズンは、209安打、打率.300、39本塁打、102打点、128得点、41盗塁、と大活躍。安打数と得点はAL1位。本塁打が惜しくも40本に達しなかったために「40・40」は逃しましたが、ゆうゆうと「30・30」を達成。押しも押されもせぬヤンキースの中軸選手に成長したのです。

 2002年にもなると、イチロー選手もMLBで活躍し、他の複数の日本人選手もメジャー入りしていましたから、ヤンキースのソリアーノ選手の活躍も度々眼にしました。身長185cmとそれほど小さくは無い体格なのですが、細身の体を折り曲げて打席に入りますので、大きさを感じさせません。アッパースイングで、いつもブンブン振り回し、当たればホームランという感じ。「打球がよく飛ぶ」という印象でした。

 続く2003年シーズンも、38本塁打・35盗塁と2年連続の「30・30」を達成。1番バッターでの出場が多かったのですが、先頭打者本塁打が13本とMLB記録を樹立しました。1番打者が30本塁打以上というと、あの阪神タイガースの真弓選手のようですが、この頃のヤンキースはソリアーノの本塁打で局面を打開していた試合が多かったと思います。チーム内の本塁打数比較でも、一番多かったのがジェイソン・ジオンビ選手の41本で、ソリアーノは2番目でした。
 尚2003年は、松井秀喜選手のヤンキースデビューの年ですが、松井選手の本塁打は16本でした。

 さて、広島カープ時代に、17打数2安打、0本塁打の選手が、ヤンキースでは毎年のように30本塁打を放つというのは、とても不思議な感じです。
 そして、もっと不思議なのが2年連続「30・30」です。リーグ屈指の盗塁記録を続けていることです。何故かというと、広島カープ時代には、足が遅いことで有名で、あだ名が「ロバ」だったのです。

 広島時代の「打てない・走れない」プレーヤーというのが、本気を出していなかった結果かどうかは判りませんが、とにかくヤンキーススカウトの眼力には恐れ入ります。

[三つ目の不思議]

 メジャー史上5人目の「30・30」を達成し、押しも押されもせぬNYYの中軸選手となったソリアーノでしたが、翌2004年あっさりとテキサス・レンジャーズにトレードされてしまいます。28歳でした。
 テキサス・レンジャーズの中心選手にして、2001~2003年3年連続AL本塁打王だったアレックス・ロドリゲス(Aロッド)のNYY移籍に巻き込まれたのです。

 常にクリーンアップを打ち、ショートストップのAロッドと、1・2番を打ちセカンドベースを守るソリアーノですから、Aロッドを獲得したからといって、ソリアーノが出なければならない理由は無く、NYYのチーム創りの観点からも、ソリアーノを残したほうが良いように思ったのですが、何かの弾みのように移籍話が決まってしまいました。

 確かに三振が多いという点はありましたが、素行に問題があるとか、故障がちといったこともなく、これだけの実績を積んでいるプレーヤーが放出されたのは、不思議なことでした。

[四つ目の不思議]

 テキサス・レンジャーズに在籍した2004~2005年の2シーズンも、ソリアーノ選手は活躍を続けました。
 2004年のMLBオールスターゲームでは、ファン投票トップで選出され、大活躍してMVPを獲得。2005年には、36本塁打、30盗塁で3度目の「30・30」を成し遂げました。

 そして、2006年シーズン、打撃強化が必須だったワシントン・ナショナルズとテキサスとの間で3対1のトレードが成立、ソリアーノ選手はワシントンに移籍したのです。ソリアーノひとり対ワシントンのメジャーリーガー・投手1人、外野手2人の交換トレードでしたから、ナショナルズの期待の大きさが解ります。

 移籍当初、二塁手から外野手へのコンバートを嫌がったソリアーノ選手でしたが、納得して2006年シーズンも大活躍、46本塁打・41盗塁を達成し、ついに「40・40」クラブ入りを果たしました。素晴らしい成績です。
 しかしながら、シーズン終了後の契約更改で揉めて、シカゴ・カブスに移籍しました。8年総額1億3600万ドル(約136億円)という、MLB史上5番目の超大型契約でした。MLBを代表するプレーヤーでなければ、到底結ばれることが無いレベルの契約でしょう。

 2007~2012年の6年間も、ソリアーノ選手はカブスで安定した成績を残しました。さすがに、時々故障するようになりましたが、シーズン100ゲーム以上は出場し、20本塁打以上は確保(2012年シーズンは32本)しています。
 一方で盗塁は激減。2009年以降は、シーズン一桁に留まるようになりました。やはり、年齢には勝てない、というのが近時の印象だったのです。

 ところが、2013年7月26日、ヤンキースは37歳になったソリアーノ選手の獲得を発表しました。
 2004年に放出したプレーヤーを10年振りに獲得するというのも、不思議なことです。
 そして、Aロッドやタシャエラの故障により、長打力が不足したヤンキースのお助けマンとして戻ってきたのですから、皮肉なこととも言えます。

 さて、アルフォンソ・ソリアーノ選手に関する四つの不思議を見てきました。

 現在ソリアーノ選手は、AL東地区4位に喘ぐNYYの、主に2番打者として頑張っています。以前NYYに居た頃の迫力・スピードには、さすがに衰えが見られますが、それでも移籍後2本のホームランを打ち、カブスでの成績と合わせると今季19本塁打です。まだまだスラッガーとして活躍しているのです。

 私は、このタイプのプレーヤーが気に入っています。メジャー15年目、大きな怪我・故障による長期の戦線離脱も無く、ここまで1800試合以上に出場し、2000本のヒットを打ち、390本を越える本塁打を放って、290個以上の盗塁をしている。MLBオールスターゲームにも7回出場しMVPも獲得している、文字通りのスーパープレーヤーです。

 ソリアーノ選手が、2004年以降もあのままヤンキースでプレーしていたら、どうだったろうかと考えます。確かに、二塁手はロビンソン・カノー選手に譲ったでしょう。きっと外野にコンバートされています。
 そして、ジェイソン・ジオンビやゲーリー・シェフィールド、Aロッドやフォルヘ・ポサダ、松井秀喜、マーク・タシャエラ、カノー、カーティス・グランダーソンらとともに、シーズン30本塁打メンバーとして、ヤンキースの勝利に貢献し続けたのではないか、と考えてしまいます。

 持ち味であった「想像を超えるプレー」は中々見られなくなってしまったアルフォンソ・ソリアーノ選手ですが、プレーヤーとして最後の所属チームになりそうなニューヨーク・ヤンキースでの活躍から眼が離せません。
 時代を超えた走りでした。

 1968年・昭和43年10月18日、メキシコオリンピック男子400m競走決勝の舞台で、アメリカのリー・エバンス選手とラリー・ジェームズ選手が競り合いを演じ、エバンス選手が43秒86で優勝、ジェームズ選手は43秒97で2位でした。記録は、共に世界新。

 この43秒86は、その後20年間に破られることがありませんでした。陸上競技のトラック種目の記録としては驚異的な長寿を誇ったのです。

 異次元の記録が生まれたレースでありながら、エバンス選手の圧倒的な勝利ではなかったことが不思議でした。
 つまり、同じレースに2人のスーパーランナーが出場していたということです。ラリー・ジェームズ選手は、リー・エバンス選手と世代が少しでも違えば、時代を代表する400mランナーになれたのです(何しろ、この2人の記録は20年間破られなかったのですから)が、神様も意地悪?をするものです。

 1968年のメキシコオリンピックの陸上競技は、トラック(走路)が1964年の東京オリンピックまでの土(土のトラックの一種であるアンツーカートラック)から、合成ゴム製のタータントラックに変わった初めてのオリンピックということもあってか、多くのトラック種目で世界新記録が出ました。主なものを挙げてみます。

・ 男子100m走 9秒95 ジム・ハインズ選手(アメリカ)
・ 男子200m走 19秒83 トミー・スミス選手(アメリカ)
・ 男子400m走 43秒86 リー・エバンス選手(アメリカ)
・ 男子400mハードル走 48秒12 デビット・へメリー選手(イギリス)
・ 男子800m走 1分44秒40 ラルフ・ドーベル選手(オーストラリア)
・ 女子800m走 2分00秒92 マデリン・マニング選手(アメリカ)

 こうした記録を観ると、やはりタータントラックはアンツーカートラックより記録が出やすい走路であろうとは思われますが、少し意外なのは、女子の100m~400mの短距離種目では世界新記録が出ていませんので、この大会のタータントラックは「筋力が強い、男性ランナー向きの走路」だったのかもしれません。

 話を戻します。

 記録が出やすい新トラックにおける世界新記録といっても、他のトラック種目は、次々と記録が塗り替えられていったのに比べて、男子400m走の記録のみが20年間も破られなかったのですから、やはり時代を超えた走りであったということでしょう。

 ちなみに、男子400m走の世界歴代記録を観ても、エバンス選手の記録は第7位、ジェームズ選手の記録は第10位です。45年の月日を重ねても、いまだに世界ベスト10に入っているのです。現在に至るまで、400mを44秒未満で走ることが出来たランナーは、世界中で10人前後しかいないことが判ります。

 さて、この決勝レースはテレビで見ていました。確か、前半の200mの通過が20秒7だったと記憶しています。この200m・20秒7というタイムは当時の日本記録と同水準でした。「速いなー」と思いました。
 結果として、後半の200mは23秒余りかかっているのですが、それほど落ちたという感じはせず、エバンスとジェームズの競り合いがゴールまで続きました。1m弱の差でした。

 このレースの3位には、44秒41の好タイムでアメリカのロン・フリーマン選手が入りました。短距離王国アメリカとしても珍しい、オリンピックにおける金銀銅メダル独占のレースだったのです。
 
 余談ですが、この3人にビンセント・マシューズ選手(1972年ミュンヘンオリンピック400m金メダリスト)を加えた4人で走った、アメリカチームの4×400mリレーが、これまた凄まじいものでした。
 第一走者のマシューズ選手がトップに立つと、第二走者フリーマン選手、第三走者ジェームズ選手と差を広げ、アンカーのエバンス選手にバトンが渡った時には、80m近い差が付いていたようなイメージがあります。少し、エバンス選手が差を詰められた(これだけの大差が付いていると、400mという超苦しい種目では中々全力では走れないのかもしれません)ように記憶していますが、とにかく圧倒的な強さで優勝。
 タイムは、2分56秒16という、従来の記録を3秒以上短縮する異次元の世界新記録でした。実は、この記録は24年間に渡って破られませんでしたから、長寿という点ではエバンス選手の400mの記録より4年長かったのです。

 1968年メキシコシティオリンピックのアメリカ選手団には、男子400m競走の歴史的ランナーが集結していたことになります。
 8月12日の対ヒューストン・アストロズ戦、ダルビッシュ投手は見事な投球を展開しました。12勝目を挙げたことや、自己最多の1試合15三振を奪ったことも素晴らしいのですが、何よりその投球内容、特にスライダーの切れは芸術の域に達していたように観えました。

 初回、アストロズの3人の打者を三振に切って取ったのですが、決め球はいずれもスライダー。ストライクゾーンの外側から、ベース寸前に鋭く曲がって、ストライクゾーンに入っていく投球。「その変化の時間の短さ」は、これまで見たことが無いレベルのボールであったと思います。

 そして、これまで観てきたダルビッシュ投手の投球の中でも、最も切れていたように観えました。
 ストレート(4シーム)も94マイル・150kmそこそこの球速ですが、とても切れが良く、どんどん空振りが取れました。チェンジアップも少し使っていたと思いますが、この日のダルビッシュは、ストレートとスライダーだけで十分という感じ。

 さすがに回を追うにつれてスライダーの切れ味は落ちました。8回のスライダーは、変化が長く大きくなっていました。切れが悪くなっていたのです。「球数が増えると疲れるんだ」などと当たり前のことを改めて感じました。それ程に、序盤のスライダーの切れが凄かったということでしょう。

 テンポも良く、最高のピッチングだったと思います。良いものを見せていただき、感謝申し上げます。

 それにしても、6回裏ヒューストンの攻撃、ヴィラー選手が3ボール2ストライクから四球で歩きました。この日ダルビッシュが初めて許した四球でしたが、テキサスのピアジンスキー捕手が審判に抗議し、退場となりました。このボールの前のスライダーがストライクだと抗議したのです。
 あのボールはストライクでした。少なくともこの日球審が、ずっとストライクとコールしていたコースのボールでした。ここまでパーフェクトピッチングを続けていましたから、女房役の捕手としては我慢できなかったのでしょう。
 
 完全な誤審であったと思います。

 「審判も人間だから間違えることがある」と言われますが、私は、審判は間違えてはいけないと思います。特に世界トップレベルのベースボール・MLBの審判は、間違えてはいけないのです。

 先日、ヤンキースの黒田投手の投球に対して誤審をした審判が、ベンチに帰る黒田投手に「間違えたのは1球だけだろう」という、意味が分からないことを話したと伝えられました。

 「審判も人間だから間違えることがある」という言葉は、プレーを観ている周りの人が、慰めの言葉として使うものであって、審判本人が言ってしまっては笑い話になってしまいます。

 大相撲の立行司、木村庄之助と式守伊之助は現在も懐剣して土俵に立っています。指し違えた場合には切腹する、という覚悟のためです。無論、行司が差し違えたからといって切腹する必要は無いのでしょうが、それくらいの覚悟で判定するということです。

 大チャンスに凡退した打者が「打ち損ねたのは1球だけだろう」と言っても、誰も支持しないでしょうし、ホームランを打たれた投手が「投げ損ねたのは1球だけだ」と言っても、納得する人はいないでしょう。
 ベースボール・野球の勝負は「1球で決まる」のです。

 審判も「1球の重み」を十分に理解・認識して、プレーに臨むべきでしょうし、「間違えたのは1球だけ」などと考えたり、口にしたりするのは、その審判の能力自体が疑われてしまいますので、止めるべきでしょう。
 
 モスクワ世界陸上大会2日目、8月11日に行われた女子10000m競走。9500mまで先頭でレースを引っ張ったのは、日本の新谷仁美(にいや ひとみ)選手でした。
 ラスト1周の手前で、エチオピア2人・ケニア2人の計4人のランナーが新谷選手を追い抜き、ラストスパートに入りました。

 残念ながら新谷選手は付いていけず、エチオピアのディババ選手が30分43秒35で優勝、2位はケニアのチェロノ選手、3位はエチオピアのオルジラ選手でした。新谷選手は、30分56秒70の自己新記録で5位に入りました。

 このレースの新谷選手の走りは、見事なものであったと思います。

① 3500m付近で先頭に立ち、9500mまでの6000m・時間にして18分位に渡ってレースをリードしたこと。これまでも、日本のランナーが世界レベルの大会で先頭に立つことはありましたが、これほど長い時間、先頭を守ったことは無いと思います。
 つまり、新谷選手の走りは、後続の優勝を争うエチオピア・ケニア勢にとって、「遅すぎるペースではなかった」ことを示しています。

② 先頭を走る作戦を、ただ一人で実行したこと。エチオピアやケニア勢は2~3人で走っていました。色々な意味で「集団走」は有利です。一方、日本代表ランナーは新谷選手一人です。この不利な状況で、よくトライし、よく6000mの間、先頭を走れたと思います。実力が無くては、出来ない走りです。

 そして、何より素晴らしいと感じたのは、追い抜かれ、5着となったことに対して、新谷選手が、本当に悔しそうであったことです。

 9500m~9600m地点で4人のランナーに抜かれる時の、新谷選手の悔しそうな表情が、とても印象的でしたし、レース後のインタビューでも「頑張れなかった自分自身」に対する悔しさが溢れていました。

 新谷選手は、5位入賞で満足などしていないのです。追い抜かれ、付いていけなかった自分を、心底歯痒く思っているのでしょう。

 日本女子長距離界のエースが、世界にデビューしたレースでした。25歳の新谷仁美選手の全盛期は、これからです。
 松山英樹選手が、全米プロ選手権大会最終日に66打・4アンダーパーのスコアを叩き出し、通算1アンダー・19位タイの好成績をマークしました。
 この大会の19位タイの賞金を加算すれば、松山選手の今季PGAツアーにおける獲得賞金額が上位125位以内に入ることは確実でしょう。来季PGAツアーのシード権を確保したと思います。

 それにしても、今大会を始めとして、プロになってからのメジャートーナメントにおける最終日のスコアの良さは、松山選手のプレーの特徴でしょう。

・ 全米オープン(6月) 10位タイ
初日71、二日目75、三日目74、最終日67
・ 全英オープン(7月) 6位タイ
初日71、二日目73、三日目72、最終日70
・ 全米プロ(8月) 19位タイ
初日72、二日目68、三日目73、最終日66
[3大会の平均スコア]
初日71.3、二日目72、三日目73、最終日67.7

 これだけ明らかな傾向ですから、アメリカ風に言えば「Sunday Matsuyama」というところでしょう。

 最終日は気合が入るから、といった見方もあると思います。確かに「やってやる」という気持ちが強くなることは確かですし、大事なこととも考えますが、気合だけでスコアが伸びるほど甘いものでも無いと思います。
 事実、アマチュア時代の松山選手は、メジャートーナメントにおいて、最終日にスコアが伸びないプレーヤーだったのです。

・ 2011年マスターズ 27位タイ・ローアマ獲得
初日72、二日目73、三日目68、最終日74
・ 2012年マスターズ 54位タイ
初日71、二日目74、三日目72、最終日80

 どちらかといえば、アマチュア時代の松山選手は、最終日に「気合が入り過ぎて、空回りしていた」感じです。

 プロ入りしてからは、気合も入るが、3日間のラウンドの経験・情報を活かして最終日に臨み、良いラウンドを行う力を身に付けたと観るのが良さそうです。素晴らしい能力だと思います。

 それにしても、今年プロ入りしたばかりの21歳のプレーヤーが、3つのメジャートーナメントに出場、全て予選を通過して20位以内の成績を残すというのは、驚異的なことです。
 タイガー・ウッズも、ジャック・二クラスも出来ていないことですから、松山英樹というプレーヤーは、物凄い潜在能力を秘めていることになります。

 私たち日本のゴルフファンは、あまり控えめになることなく、松山英樹選手のメジャートーナメント優勝を期待してよいのではないでしょうか。

 モスクワで開催されている陸上競技世界選手権大会の、男子100m競走は8月11日に決勝レースが行われ、ジャマイカのウサイン・ボルト選手が9秒77の好タイムで優勝しました。

 降りしきる雨の中、向かい風0.3mという、肉体的にも精神的にもハードなコンディションの下、キッチリと今季自己最高タイムを出して勝ち切るのですから、現在の男子100m競走界において、ボルト選手が一頭抜けた存在であることを、改めて示しました。

 レースは、唯一ボルト選手に対抗し得るランナーと見られていた、アメリカのジャスティン・ガトリン選手がスタートで先行、ボルト選手に30cm差を付けて50mを通過、70m付近でガトリン選手に追いついたボルト選手が、残り30mでガトリン選手を突き放し、1mの差を付けてゴールしました。

 ガトリン選手は9秒85で2位でしたが、さすがにアテネオリンピックの金メダリストです。この大会の予選から見せた好調さを、決勝でも発揮しました。現在のガトリン選手にとっては、力を出し切った会心のレースだったと思います。

 スタートから50m付近までは、ガトリン選手のピッチがボルト選手を上回っていました。競走は常に「ストライド(歩幅)×ピッチ(脚を前後に動かす速さ)」で決まります。(当たり前のことで恐縮です)
 身長185cmのガトリン選手と196cmのボルト選手を比較すれば、ストライドはボルト選手の方が長いので、ガトリン選手はボルト選手よりピッチが速くなければ、勝負になりません。50m付近までは、ガトリン選手の方が明らかにボルト選手よりピッチが速く、これがリードの源泉でした。

 50mから、ガトリン選手のピッチが少しずつ落ち始め、70mで並んだ後は、2人のスプリンターのピッチは全く同じになりました。そうなれば、ストライドに勝るボルト選手が、一歩毎にガトリン選手より前に出ることになり、ゴールでは1mの差になったという形です。

 ガトリン選手がボルト選手に勝つためには、現在のストライドを維持したまま、50m迄見せたピッチを100mの間続けることが必要です。あのハイピッチの継続は、容易な事ではないと思いますが。

 一方、ボルト選手は、通常196cmといった長身の人間では実行が難しいピッチを実現することで、現在の走りを手に入れたということになります。

 20世紀には、190cmを越える長身のランナーは100m競走には不向きと言われていました。実際、ローマオリンピックのアルミン・ハリー182cm、東京オリンピックのボブ・ヘイズ183cm、ミュンヘン・オリンピックのワレリー・ボルゾフ182cmと、180cm前後のランナーが金メダルに輝いていました。(いずれも、当時は大型スプリンターと言われましたが)

 1990年前後になると、ロサンゼルスとソウルでカール・ルイス188cm、バルセロナでリンフォード・クリスティ189cmと、190cm近い身長のスプリンターがストライドを活かしてオリンピックを制しましたが、どちらかといえば例外的な存在でした。

 1996年のアトランタでは183cmのドノバン・ベイリー、2000年のシドニーでは175cmのモーリス・グリーン、2004年のアテネでは前述の183cmガトリン選手が、金メダリストとなり、「100mはピッチが速い者が勝つ」という時代が続いたのです。

 100m競走に「ストライド時代」の幕開けを報じたのは、前述のカール・ルイスとリンフォード・クリスティであり、21世紀に入り、長身ランナーで世界記録を連発したのが190cmのアサファ・パウエル。そして、ストライド時代を完成させたのが196cmのウサイン・ボルトとなるのでしょう。

 ボルト選手のストライド(中間走)は、歴代の世界トップスプリンターの中で最長の275cmと伝えられています。スタート直後のストライドは短く、ゴール前のストライドは300cmとのことですから、平均を中間走の275cmとすれば、100mを36~37歩で駆け抜けることになります。

 けた違いの走りです。
 100m競走は陸上競技の華です。「世界一速く走れる人間」は、いつの時代も普遍的な価値を持っています。走るということは、多くのいや全てのスポーツの基本であり、そのトップスピードが世界で一番速いというのは、運動能力として絶対的なものでしょう。

 オリンピックや世界選手権大会の100m決勝レースに名を連ねた日本人ランナーは、後にも先にも吉岡隆徳(よしおか たかよし)選手唯一人です。1932年のロサンゼルスオリンピックでのことですから、80年以上前のことになります。このレースで、吉岡選手は6位でした。この大会の男子100m決勝レースは6人で争われましたから、吉岡選手はレースでは最下位であったということですが、何しろ予選レースを勝ち抜いて、オリンピックの決勝に進出した=世界ベスト6に入ったというのは、素晴らしいことです。

 当時の映像を見ると、吉岡選手は得意のスタートダッシュにより40m付近までは先頭を走っていますが、その後抜き去られています。
 吉岡選手は、このスタートダッシュを武器に、1935年には10秒3(手動計時)の世界タイ記録を樹立しました。日本男子の100m競走は、世界と肩を並べたことがあったのです。

 吉岡選手が「スタートダッシュ」で世界に対抗したこともあってか、しばらくの間、日本のスプリンターといえばスタートが速いという時代が続きました。
 1964年に10秒1の日本新記録を出し、吉岡の10秒3の記録を29年振りに破った、飯島秀雄選手も「ロケットスタート」が有名でした。

 その後1970年代に入り、神野正英選手や石沢隆夫選手が手動計時の10秒1の日本タイ記録を出しました。このころ既に電気計時の技術は存在し、実際に競技会にいても電動計時が使用されていたのですが、国際陸上競技連盟が手動計時の記録を公式記録としていた時期が長かったため、1970年代の半ばまでは、男子100m日本記録は10秒1であったと記憶しています。

 そして1975年になって、神野選手の10秒48が日本記録として公認されました。手動計時の10秒1は電動計時なら10秒4台であったのでしょう。

 現在の日本記録は、伊東浩司選手の10秒00(1998年)。これに続くのが、桐生祥秀選手の10秒01(2013年)、朝原宣治選手の10秒02(2001年)となりますが、飯島選手や神野選手の時代と比較すれば、電動計時で0.4秒位タイムが良くなりました。おそらくゴール前では5~6mの差でしょう。日本人スプリンターも大きく進歩したのです。

 とはいえ、吉岡隆徳選手が1935年に世界タイ記録を出してから80年近くの間に、並んでいたはずの日本と世界の間には「0.42秒という大差」(ボルト選手の世界記録9秒58との差)が付いてしまいました。
現役の日本人トップスプリンターである桐生選手や山縣選手、江里口選手の挑戦に期待したいと思います。

 「暁の超特急」という呼称は、当時読売新聞記者であった川本信正氏が付けたと伝わっています。とても洒落た呼称だと思います。戦前のことですから、日出ずる国「日本」を意識したのでしょうか。

 9回表2死ランナー2塁。沖縄尚学が8対7で1点リード。打席には、福知山成美・仲村渠(なかんだかれ)選手。投げるは沖縄尚学・山城投手。

 攻撃・守備「全く互角」だと感じました。

 山城投手渾身のストレートが外角いっぱいに決まり三振。ゲームセット。

 9回表2死ランナー無からの3連打で2点を挙げ、追い上げる福知山成美、守る沖縄尚学。こうした状況で「全く互角」と感じさせる、滅多に観られない、素晴らしい試合でした。

① 実力十分なチーム同士の対戦
② 両チームの各選手が持てる力を存分に発揮
③ 残念なエラーや四死球、凡ミスが最小限
④ 精神面も互角

 という諸条件を全て満たす試合は、ひとつの甲子園大会で1試合あるかないか。夏の甲子園2013・4日目の福知山成美高校(京都)と沖縄尚学高校(沖縄)のゲームは、そうしたゲームでした。

 まず何よりも、両チームの各選手の動きの良さが際立っていました。コンディション作りに成功していたのでしょう。
 5人の投手が登場しましたが、各々の投手が持ち味を十分に発揮しました。
 各打者のスイングの鋭さ・速さも見事でした。
 各選手の走塁も積極的で、次の塁を狙う気迫に溢れていました。

 沖縄尚学の宇良・比嘉の両投手はとても良い投球をしていました。低めに球を集め、球威も十分。しかし、福知山成美の打者の振りのシャープで力強いこと。鋭い打球が、外野手の頭を次々に超えて行きます。
 5回を終えて、5対2と福知山成美がリード。

 福知山成美のエース・仲村渠投手も見事な投球を展開していましたが、ここまで2失点。

 相手がこの両チームの打線でなかったなら、両チームの投手共に5回まで零封していたであろうという投球内容でした。

 6回裏から沖縄尚学の打線が爆発しました。僅かに疲れが見えるものの、相変わらず力投を続ける仲村渠投手にヒットを浴びせます。そして走り捲ります。「体が動いて仕様がない」といった風情。凄いパフォーマンスでした。
 6・7・8回と連続得点で逆転し、8対5とリードを広げます。7回から3人目の投手として登板した山城投手も、福知山成美の強力打線を抑え込みます。

 沖縄尚学が3点リードで9回表を迎え、既に2死。しかし、福知山成美は全く諦める様子も無く、3連打で2点を返して、ランナー2塁のチャンス。頭書の状況になったのです。

 全選手がヒーローであった試合ですが、もしMVPを選ぶとすれば、福知山成美の遊撃手・平本選手でしょうか。ランナーを得点圏においてのピンチの状況で、三遊間の打球を良く捕っての1塁への遠投、前進守備での強い打球をしっかり捕球し本塁への正確な送球と、素晴らしいプレーを展開しました。ハイパフォーマンスなゲームの中でも、ひときわ目立つ活躍でした。

 良い試合でした。両チームの選手・監督・関係者の皆さん、ありがとうございました。
 モスクワ世界選手権陸上・女子マラソン、福士加代子選手銅メダル、おめでとうございます。

 30㎞手前で、先頭集団から遅れ始めた時には、「またか」という感じでしたが、このレースではこの後の走りが良かったと思います。スピードを上げる体力は残っていませんでしたが、極端なスピードダウンは回避できました。
 4番手の位置で、速くはないが滑らかな走りを継続しました。後は他の選手との関係になります。先頭集団に居たエチオピアの選手が大失速し、これを交わして3位でゴールしたのです。立派な銅メダルでした。

 優勝したケニアのキプラガト選手のタイムが2時間25分44秒でしたから、相当厳しい環境下でのレースでした。スタート時の気温も30度以上あったようです。
一方、福士選手のタイムは2時間27分45秒でしたから、トップと2分差です。福士選手にとって、世界のトップと2分差で走り切れたことは大きな意味があります。

 もともと福士加代子というランナーは、各種目のスタートからゴールまでをレース前にキチンとイメージし、レース中は余裕を持って走るタイプだと思います。5000mも10000mも、そのように走ってきました。福士選手は、自身の競走能力を十分に把握した上で、「経験を積みながらレースを創り上げていくタイプ」のランナーなのでしょう。

 その福士選手がマラソンを始めたわけですが、私は、福士選手が10000m競走の様にマラソンレースを組み上げることが出来るのは、何時なのだろうかと考えていました。

 そしてこの8月10日のレースを迎え、好成績を挙げました。貧血状態が続き、レース前のコンディションはとても良いとはいえず、「福士加代子のマラソンの走り方が未完成」という段階で、世界3位になれたのです。

 「余力を残して40㎞を迎える」という、イメージ通りのレースが出来るようになった時、福士選手はさらに上位を狙えるかもしれません。

 木崎良子選手も4位と、実力を発揮しました。チーム随一の安定感を如何なく発揮してくれたのです。妙な仮定で恐縮ですが、もし福士選手が失速していたとしても、日本代表チームは銅メダルを獲得できたことになります。
 33㎞で棄権した野口みずき選手は残念でしたが、このレースの環境はベテラン選手には、少し厳しかったのでしょう。涼しいレースであれば、野口選手のスピードが生かせたかもしれません。

 日本代表3選手の大健闘でした。個性豊かなランナーを揃えた、良いチームだったと思います。
 中村順司監督率いるPL学園が、甲子園大会史上最強のチームのひとつであったことは間違いありませんし、中村監督自身も我が国の高校野球史上最高の監督のひとりだと思います。

 中村監督がPL学園チームとともに成し遂げた数々の記録は、素晴らしいの一言で、まさに枚挙に暇がありません。1980年秋から1998年春までの監督在任期間の記録の中から、ほんの一部を紹介します。

・春の甲子園 出場10回 優勝3回 準優勝1回 通算31勝7敗
・夏の甲子園 出場6回 優勝3回 準優勝1回 通算27勝3敗

 これだけを見ても、いかに凄い監督であったか一目瞭然です。夏の甲子園大会に6度出場して、僅かに3敗しかしていないというのは、考えられないレベルの戦い振り。勝率90%ですから、夏の甲子園では10試合やって1敗しかしないということになります。(当たり 前のことですが、驚きの余り確認してしまいました)
 この勝率の高さが、中村・PL野球でしょう。他に類を見ない水準の記録です。

 1998年春のセンバツ大会後、中村監督は引退しました。そして、その年の夏の甲子園大会からNHKテレビ放送の解説者として登場しました。 

 この解説がまた素晴らしいものでした。

 アナウンサーが守備に選手を送り出す時には、と聞きます。すると中村氏は「自分の守備位置の周りのデコボコ、荒れている所を均す(ならす)ように言いました。なるべく、イレギュラーバウンドしないように」
 「相手の攻撃の時に、強いゴロを打たれると、思わず眼を瞑ってしまいます。イレギュラーバウンドしないように、祈る感じです」

 中村監督は、通常のゴロなら、相当強い当たりでも十分に捕球・送球できるように、選手を鍛えていたのでしょう。ですから怖いのはイレギュラーバウンドなのです。選手には、早めにポジションに付いて、守備位置の周りを平らに均すように指示し、それでも試合中には、イレギュラーしないようにと祈るという、「球運」にも働きかけるような話です。

 この話を聴いた時に、「イレギュラーバウンドは必ずしも不運ではない」と思いました。「あのイレギュラーバウンドのせいで負けた」と考えている選手・チームは、守備位置に付いてから、あるいはプレーの合間に、自らの周囲を均していたのだろうか、とも考えました。人事を尽くして天命を待っていたのだろうかと。

 そして凄いのは、「そこまでやってもイレギュラーバウンドすることがある」ことを十分に認識して、天に祈るところです。決して奢ることなく、勝負の神様の気まぐれ?も思考の内に入れているところが深いと思いました。

 解説は続きます。

 あるチームのエースピッチャーが、グローブの皮の紐を長く(20cm位)伸ばしたままにしてプレーしているのを見て「どうして切らないんでしょうか。プレー中に、あの紐が眼に入ったらどうするのでしょう」と指摘します。グローブの親指側の皮の紐をブラブラさせながらのプレーを、とても心配していたのです。
 選手の想像を超えた動きが、プレー中に起こることは十分に考えられることです。中村監督は、とても細かいことを大切にし、「リスクを最小にする」指導・采配を行ってきたのだと思いました。

 まだまだ、解説は続きます。

 外野手のファインプレーを見て「守備位置が大切です。二塁手が一球毎にキャッチャーのサインを確認し、外野手他に球種を伝えます。(体の後ろで、手のサイン)外野手は、その球種と相手バッターのプレーの特徴を加味して、守備位置を変えるのです」

 ファインプレーも、相当の確率で偶然ではないことになります。そもそも、ファインプレーに見えないプレーが一番良いのでしょう。

 そして、二塁手の役割がとても大きいことがわかります。ピッチャーと同じレベルで、キャッチャーのサインを投球1球毎に認識し、それをサインで3人の外野手や他の内野手に伝達するのです。「守備の要は、真ん中のライン=キャッチャー、二塁手、センターフィールダー」という意味が、少し分かったような気がしました。

 加えて、内外野の野手は、二塁手のサインと試合前のミーティングを踏まえて、臨機応変に守備位置を変えていかなければなりません。記憶力ももちろんですが、相当に頭を使わなければならない競技なのです。当然のこととは言え、そのバリエーションの豊富さを考えると容易なことではないと思いました。

 さらに、解説は続きます。

 チャンスで打席に選手を送り出す時は、とアナウンサーが聞きます。すると「色々と指示をすることもありますが、最後は選手に任せます。思い切りやって来いという感じです」

 凄いことを言うものだと思いました。様々な事象に対して細心の注意を払い、「リスクの極小化」に努めながら、最後は「選手に任せる」というのですから。ここが、中村野球の真髄だと感じます。

 中村監督の時代のPL学園からは、清原和博、桑田真澄をはじめとして、立浪和義、福留孝介、吉村禎章といった多数のプロ野球選手が生まれていますが、高校野球のみならずプロ野球やMLBにも通用するプレーヤーを輩出している要因のひとつが、この精神面の指導・育成であろうと考えます。
 「最後は選手に任せる」という、ある意味では選手にとって最も厳しい采配が、多くの「考えるプレーヤー」「本番に強いプレーヤー」を育て上げたのだろうと考えるのです。

 NHKテレビ放送の中村元監督の解説は、本当に素晴らしいものでした。私のような野球素人に、野球指導・采配の「入り口の入り口」を、ほんの少し聞かせていただいたと思っています。
 いつまでも、この素晴らしい解説が聞けると思っていましたが、2001年にPL学園で発生した暴行事件を契機に、解説からも身を引かれました。とてもとても残念なことでした。

 考えてみれば、中村監督時代のPL学園にはこうした暴行事件も起きていなかったのです。あれだけのスター選手を長きに渡って指導しながら、選手個々の日常生活にいたるまで「リスク極小化」の努力を継続していたことを想像させました。

 中村氏が、2000年前後のテレビ解説の中でコメントしていたことは、現在の高校野球では常識なのでしょう。しかし、1980年代、PL学園全盛時代に常識であったかどうかは、分かりません。
 そして、現在では常識であるといっても、それらを実行できるかどうかは別の問題です。

 本稿に示したような対応策の何百倍・何千倍の監督としてのノウハウを見出し、指導し、実行した、中村順司監督。名監督です。
プロフィール

カエサルjr

Author:カエサルjr
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我が家の月下美人も16年目。同時に30個の花が咲くこともあります。スポーツも花盛りですね。一緒に楽しみましょう。

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