HOME   »  2014年01月
RSSフィード iGoogleに追加 MyYahooに追加
 「FIFA最優秀選手賞」とは、FIFA(国際サッカー連盟)が1991年に創設した賞で、当該年の世界最優秀選手を選出するものでした。FIFA加盟国の代表チームの監督と主将による投票で選ばれました。

 一方の「バロンドール」は、1956年にフランスのサッカー専門誌「フランス・フットボール」が創設した、当該年のヨーロッパ最優秀選手を表彰するものでした。バロンドールはフランス語で「黄金の球」という意味です。欧州52カ国のサッカー記者による投票で選出されました。

 先日、クリスティアーノ・ロナウド選手が喜びの涙を流したと伝えられた「FIFAバロンドール」は、前述の「FIFA最優秀選手賞」と「バロンドール」が合体し、2010年に創設された賞です。従って、「FIFAバロンドール」は、まだ4年の歴史しかないのです。

 さて、長い歴史を誇る「バロンドール」(以後、旧バロンドールと表記)と「FIFA最優秀選手賞」は、その対象が「ヨーロッパ」と「世界」という違いがありますが、世界中の多くのトッププレーヤーがヨーロッパのクラブでプレーしていることを考え合わせると、共通点も多いように思います。
 受賞選手を比較してみましょう。FIFA最優秀選手賞が創設された1991年以降の比較になります。

      [旧バロンドール]   [FIFA最優秀選手賞]
・1991年  パパン       ローター・マテウス
・1992年  ファン・バステン  ファン・バステン
・1993年  ロベルト・バッジオ ロベルト・バッジオ
・1994年   ストイチコフ     ロマーリオ
・1995年  ジョージ・ウェア   ジョージ・ウェア
・1996年  マティアス・ザマー ロナウド 
・1997年  ロナウド       ロナウド
・1998年  ジダン        ジダン
・1999年  リバウド       リバウド
・2000年  フィーゴ       ジダン
・2001年  オーウェン      フィーゴ
・2002年  ロナウド       ロナウド
・2003年  ネドベド       ジダン
・2004年  シェフチェンコ    ロナウジーニョ
・2005年  ロナウジーニョ    ロナウジーニョ
・2006年  カンナヴァーロ    カンナヴァーロ
・2007年  カカ          カカ
・2008年  クリロナ        クリロナ
・2009年  メッシ         メッシ

 以上、19年間・回の比較でした。

 旧バロンドールとFIFA最優秀選手賞の受賞者が同一なのは、19回の内12回。特に、2005年以降の5年間は同一のプレーヤー選出が続きました。2010年に2つの賞が統合される理由にもなったのでしょう。

 国別で見ると、FIFA最優秀選手賞では、ブラジル人プレーヤーが8回と圧倒的に多くなっています。旧バロンドールでは、ブラジル人プレーヤーの選出は5回です。

 プレーヤー別では、旧バロンドールではブラジルのロナウド選手だけが2回受賞、FIFA最優秀選手賞では、同ロナウド選手とフランスのジダン選手が3回、ブラジルのロナウジーニョ選手が2回の受賞となっています。

 ワールドカップ大会との関連は顕著です。1994年アメリカ大会の年は大活躍したストイチコフ選手と優勝したブラジルのロマーリオ選手ですし、1998年フランス大会の年は両方の賞ともに優勝したフランスのジダン選手、2002年日韓大会のときも両方とも優勝したブラジルのロナウド選手、2006年ドイツ大会も両方とも優勝したイタリアのカンナヴァーロ選手となっています。

 ちなみに、この2つの賞が統合された「FIFAバロンドール」の受賞者は
・ 2010年 メッシ
・ 2011年 メッシ
・ 2012年 メッシ
・ 2013年 クリスティアーノ・ロナウド(クリロナ)

 となっています。

 つまり、メッシ選手(アルゼンチン)とクリスティアーノ・ロナウド選手(ポルトガル)は、旧バロンドールの時代・2008年から、競り合いを続けてきたことが良く分かります。

 旧バロンドール+FIFA最優秀選手賞=FIFAバロンドールといった式が成り立つとしたら、クリロナは2回の受賞、メッシは4回の受賞ということになりますし、2011年と2012年の投票では、いずれもクリロナが2位であり、2013年の2位はメッシでした。
 つまり、最近の6年間については、いわゆる個人サッカープレーヤー世界一の称号は、リオネル・メッシ選手とクリスティアーノ・ロナウド選手が争ってきたということになります。

 2014年はワールドカップイヤーです。
 FIFA所属国の代表監督・主将とサッカー記者・計約400人の投票で選ばれるFIFAバロンドールの選出にも、ワールドカップ2014ブラジル大会での活躍度合いが、色濃く反映されることでしょう。この2人以外のプレーヤーが受賞するのか、やはりこの2人のどちらかなのか、興味深いところです。

スポンサーサイト
 1月場所は、横綱白鵬の28回目の優勝で幕を閉じました。

 白鵬関は、鋭い立会いからの四つ相撲で磐石の取り口という取組こそ少なかったものの、相手の力を正面から受けない工夫と「内無双」に見られるような多彩な技で、負け難い相撲を展開しました。

 力を付けてきた関脇・小結・幕の内上位の力士に対しての対策も十分でした。一番一番しっかりと考え・戦術を実行するのですから、安定感抜群なのも頷けます。今後も、第一人者としての場所が続くことでしょう。

 大関陣では、鶴竜関の相撲が目立ちました。大関昇進後の鶴竜は、駆け上がってきた頃に比べて「受身の相撲」が多く、持ち味が活きませんでした。1月場所の前半も受身の相撲が続いていましたが、10日目を過ぎた頃から、「前に出て、一瞬の勝機を逃さない」本来の取り口が戻ってきました。

 もともと、その相撲の上手さとスピードは高く評価され、次の横綱の第一候補と、多くの相撲関係者が語っていた力士ですから、これ位の活躍は当然ともいえます。
 1月場所は初日に敗れ、横綱に先行を許した点が残念でした。さすがに、二番続けて白鵬を破るというのは至難の業です。来場所以降は、白鵬に付いて行って、直接対決で勝負するという形を取りたいものです。来場所は「綱取り」との報道もなされていますが、まずは1回優勝することが大事でしょう。綱の話は、その後だと思います。

 稀勢の里関は、「綱取り」に失敗しました。やはり初日の豊ノ島戦の敗戦が響きました。精神的にも肉体的にも落ち着いていなかった時点での黒星は後々まで尾を引きました。1月場所は、ついに落ち着くことが無く、最後まで自分の相撲が取れなかったのではないでしょうか。
 加えて、11日目に足の指を痛め、千秋楽には初土俵以来初めての休場と、「天国から地獄」といった状況でした。

 しかし、心配は無用だと思います。1月場所前に、白鵬が出稽古で稀勢の里と10番勝負を行なったと報道されました。白鵬9勝1敗という一方的な10番稽古の後「足に力が入っていない。四股踏んでるのか。」といった指摘が、白鵬から稀勢の里に浴びせられていました。その指摘どおりの調子だったのでしょう。稀勢の里は不調のまま、1月場所に臨んだのです。
 稀勢の里の地力の高さは、誰もが認めるところです。基本に戻って、自分の相撲を思い出して、稽古を積めば、直ぐに次の綱取りのチャンスがやってくると思います。

 関脇・小結では、期待通り栃煌山関が活躍しました。初日から3連敗の後11勝1敗という、極端な成績でしたが、地力の高さを証明しました。初日からの3連敗と、かつての優勝決定戦で一敗地に塗れた旭天鵬に対する苦手意識からの4敗ですから、普通に取れば1敗や2敗でも不思議が無い感じです。
 関脇が2人とも勝ち越しましたので、来場所も小結なのかもしれませんが、2場所連続で勝ち越し、2場所目が11勝で上がらないのもおかしな感じですので、「張出関脇」でも設けてみてはと思います。
 いずれにしても、大関取りへの足がかりとなる場所でした。来場所以降の活躍に期待しています。7月場所を大関で迎える可能性は十分有ると思います。

 琴欧州関は、大関返り咲きが出来ませんでした。まだ故障が癒えていないという感じです。ここは体調を整えて、魁傑関以来史上2人目の「間をおいての大関返り咲き」を実現して欲しいものです。その力は、十分にあると思います。

 平幕では、これも期待通り遠藤関が活躍しました。「柔らかい密着相撲」が次第に威力を発揮しつつある感じです。とはいえ「前に出る力」は、まだまだ不足していますから、豪快な相撲に弱いところがあります。一方的に押されたり、振り回されたりして、密着できない場合には、力が発揮できないのです。
 「スピードとパワーを付けること」に尽きるように思います。皆さんがおっしゃるように稽古を重ねていただきたいと思います。

 尚、遠藤の人気は、数年前の魁皇関や高見盛関に匹敵するものになっています。登場した時の歓声は、全力士でNO.1でしょう。入幕6場所で「大相撲の宝」になった遠藤には、少し過大な期待が掛かりがちですが、意気に感じて頑張って欲しいものです。

 嘉風関、千代鳳関の10勝も見事でした。特にベテランの嘉風にはスピードが戻ってきました。ようやく体調が整ったのではないでしょうか。あの連続技は嘉風の持ち味です。相手毎に、よく考えて、取り口を変えるところが、プロフェッショナルという感じで素敵なところです。

 高安関は9勝6敗と、地力と東9枚目の比較からは、物足りない成績でしたが、12日目からの4連勝は見所がありました。「ようやく相撲を思い出した」というところでしょうか。前に出る高安は、強いと思います。

 相撲を思い出したといえば、豊ノ島関も同様なのではないでしょうか。千秋楽の松鳳山戦は「よく我慢した相撲」でした。もともと、相撲の上手さは絶品です。大関に向かっての再スタートの場所だったのかもしれません。

 関脇・小結・平幕上位が、充実した相撲を展開した1月場所でした。来場所は、遠藤もここに加わってくるでしょう。
 3月場所は、そろそろ、横綱・大関以外から優勝者が出る可能性もあると思います。
 今季はアメリカPGAツアーを主戦場としてプレーしている石川遼選手が、先週1月23日から26日にかけて開催された、ファーマーズ・インシュアランス・オープン大会で、281打・7アンダーパーの好成績で7位タイに食い込みました。

 この大会の獲得賞金とフェデックス・カップ・ポイントを加えると、来季シードに必要な水準に概ね到達したと報じられています。

 1月下旬という、まだ2014年に入ったばかりという段階で、2015年シーズンのシード権当確というのは、とても早いといえます。

 もちろん、PGAツアー2013までは「フォールシリーズ」として行なわれていた3~4試合が、今季から翌年シーズンに組み込まれることとなったという、制度上の変更も「この早い段階での当確点灯」に大きな影響を与えてはいますが、何より石川選手が好調なプレーを続けていることが原動力となっています。

 石川遼選手の今季PGAツアーの戦績を列挙します。
・ 2013年10月10日~ フライズ・ドットコム 21位タイ
・ 同10月17日~ チュルドレン・オープン 2位タイ
・ 同10月31日~ WBC-HSBCチャンピオンズ 66位タイ
・ 2014年1月9日~ ソニー・オープン 予選落ち
・ 同1月16日~ ヒューマナ・チャレンジ 25位タイ
・ 同1月23日~ ファーマーズ・インシュアランス 7位タイ

 今季既に、PGAツアーで6大会に出場し、予選落ち1回、ベスト10入り2回という、好調なゴルフです。
 何より「順調さ」が目立ちます。同じく、今季はPGAツアーを主戦場とすると宣言していた松山英樹選手が、左手の故障で出場できない大会が続き、今ファーマーズ・インシュアランス・オープン大会に久しぶりに登場したのとは、好対照と言えるでしょう。

 前期PGAツアーでは、ツアーの大会が終了した段階では、今季のシード権が取れず、下部ツアーとの入替え戦ともいえる大会を連戦し、残りのシード枠(殆どの大会に出場できる権利)を確保した石川選手が、その好調さを維持して今季PGAツアーに突入したということでしょう。

 また、前期記録尽くめのプロデビューを果たした松山英樹選手に注目の一部が移り、石川選手はプロ入り以来最も静かなシーズンオフを過ごしたのではないでしょうか。もちろん、トレーニングは怠らなかったことと思いますが、「自分がやりたいトレーニングを静かな環境で行なえる」というのは、石川選手にとって久しぶりのことだったのでしょう。
 特に「心の疲れ」を取るために、とても効果的だったのではないでしょうか。

 華々しいデビュー以降、石川選手は忙し過ぎました。日本プロゴルフ界をひとりで背負っているように見えたものです。
 やはり、ライバルの存在は不可欠です。松山選手効果が石川選手に大きな影響を与え、負担が減少し、石川選手が本来持っている実力を発揮し始めたと言えるでしょう。

 ファーマーズ・インシュアランス・オープン大会を終えて、石川選手の獲得賞金額は665,556ドルになりました。これは、昨季の松山選手の獲得賞金額771.640ドルには、まだ及びませんが、昨季のシード権ライン125位の水準はクリアしています。
 また、フェデックス・カップ・ポイントは425点となりました。これも、昨季のシード圏内の水準です。

 このあとまだ、沢山の大会に出場していく石川選手が、1月下旬の段階で概ねクリアできる水準に到達したことは、日本ゴルフツアーにとっても朗報です。
 日本オープンゴルフ選手権大会や日本プロゴルフ選手権大会といった、日本ツアーのメジャー大会に石川選手が出場する可能性が高くなったからです。

 石川遼選手が、今後のPGAツアー2014でも好成績を挙げていただき、できることならPGAツアー初勝利を土産に、余裕綽々で日本国内の大会に凱旋してくれることを楽しみに待ちたいと思います。
 1月19日に行われた、NFL2013~2014のプレーオフ、NFCチャンピオンシップゲーム、シアトル・シーホークス対サンフランシスコ49ers、最終の第4クオーターQ、残り時間10分18秒、シーホークスが20対17と僅か3点リードで迎えた、49ersの攻撃。

 ここからの2分間は、凄まじい攻防でした。まさに「NFLプレーオフゲーム」の醍醐味であったと思います。

 ボールオン自陣29ヤード。49ersのクオーターバックQBキャパニック選手が左に走りながらパスを投げようとしてファンブル。もちろん、シーホークスの守備選手DFがキャパニックが投げようとした時にボールを叩き落としたのです。DFはファンブルボールを拾い上げて走り、49ers陣残り6ヤードまで前進。シーホークスの攻撃。タッチダウンTDまで6ヤードに迫る、絶好のチャンスです。守備陣のビッグプレーでした。

 さて、シーホークスの最初の攻撃ファーストダウン1Dは、QBウィルソン選手からランニングバックRBリンチ選手へのハンドオフ。しかし、これを49ers守備陣が完全に止めて、ゲイン(前進)は0ヤード。

 2度目の攻撃2Dで、シーホークスがフォルススタートの反則を犯し5Y後退して、ボールオン10ヤード。
 再び2Dで、QBウィルソンはパス失敗。

 3度目の攻撃3D残り10ヤードから、QBウィルソンのパスをワイドレシーバーWRカース選手がゴール前1ヤードで受けました。
 しかし、カース選手の胸の中にあるボールを、49ersのDFボウマン選手が一瞬のうちに奪い取りました。カース選手・ボウマン選手ともに立ったままでのプレーです。
 そこに、反対側から49ersのDFがカース選手にタックルしてきて、カース選手がボウマン選手側に倒れます。そのカース選手の体が、ボウマン選手の左膝に乗りかかり、ボウマン選手の左膝は内側に大きくグニャリと曲り、ボウマン選手も倒れ込みます。
 ボウマン選手は、左膝の痛さに耐えかねて、持っていたボールをポトリと体の右側に落としました。

 パス失敗という判定でした。

 実際には、ボウマン選手がカース選手からボールを奪い取った瞬間に、ボール支配権はシーホークスから49ersに移り、その後ボウマン選手が倒れてからボールを落としたのですから、ターンオーバーで49ersボールの筈なのですが、「誰もボウマン選手の動きを見ていなかった」のです。それ程に素早いプレーであったということですが、あまりに素早く、素晴らしいプレーであったために、審判の目に留まらなかったという、悲劇でした。

 ボウマン選手は、大きな故障を発症し、担架でグランドを去りました。左膝の靭帯断裂・脱臼といった大怪我を負ったと見られますが、そのプレーは報われなかったのです。
 テレビ放送の解説者も「選手生命にかかわる大怪我」であろうとコメントし、「本当に可哀相だ。無駄死にだった。」と続けました。無駄死にとは、穏やかならざる表現ですが、あのスーパープレーが、誰にも確認される事無く、自軍のボールにもならず、自身は大怪我を負った、という意味では、私には良く分かる言葉でした。

 危ういところで助かったシーホークスでしたが、49ersゴール前1/2ヤードからの4回目の攻撃4Dギャンブルは、QBウィルソン選手からRBリンチ選手へのハンドオフミス。ファンブルとなって、大きく後退し、49ers陣16ヤードまで戻されて49ersのボールとなりました。
 解説者が「フットボールの神様が居ますね」とコメントしました。

 この時、残り時間8分18秒。QBキャパニック選手のファンブルに始まったシーホークスの攻撃が、RBリンチ選手のファンブルで終わった2分間でした。

 両チーム死力を尽くした、素晴らしく凄まじい2分間でした。

 ゲームはこの後、残り3分40秒でシーホークスのキッカーKハウシュカ選手が47ヤードのフィールドゴールFGをキッチリと決めて、23-17とシーホークスがリードを広げ、そのまま押し切りました。
 シアトル・シーホークスがNFCチャンピオンとなり、スーパーボールに進出したのです。

 守備が強いチーム同士の、凄まじい守り合いのゲームでした。

 49ersのDF53番ナバーロ・ボウマン選手が、怪我を克服し、復活してくれることを祈らずにはいられません。
 大相撲1月場所の注目点であった「大関・稀勢の里の綱取り」は、残念ながら上手く行きませんでした。

 稀勢の里が横綱に昇進するために「幕の内最高優勝」の達成が必要かどうかについて、場所前、場所が始まってからも、色々な意見が出されました。「優勝が最低条件」とか「13勝以上の優勝が必要」とか「優勝力士と同点であれば優勝しなくともOK」とか、それぞれの理屈が展開されました。

 今回は、大関の優勝について見てみましょう。

 あまり昔のことを出しても、と思いますので、最近の30年間・1984年以降の記録を対象としました。

 この間で、大関として最も多く優勝しているのは、貴乃花関、武蔵丸関で5回でした。

 貴乃花は、1992年1月場所・前頭2枚目で初優勝、西小結の時に2回目の優勝(以上、貴花田時代)、大関になってから5回の優勝を加え、優勝7回で横綱に昇進しました。横綱になる前に7回も優勝していたのです。改めて、凄いことだと思います。

 武蔵丸は、1994年7月場所で初優勝、大関に昇進してからの初優勝でした。以降、大関で5回の優勝を積み上げて横綱に昇進しました。

 続く、大関として4回の優勝を果たしているのは、若乃花関と魁皇関です。

 若乃花は、小結の時に初優勝し、大関時代に4回の優勝を果たしました。計5回の優勝を持って、横綱に昇進したのです。

 魁皇は、2000年5月場所・西小結で初優勝、以降大関として4回の優勝を重ね、計5回の優勝です。魁皇は、ご承知の通り、横綱にはなれませんでした。

 大関として3回の優勝となれば、小錦関と栃東関、そして白鵬関が挙げられます。

 小錦は、1989年11月場所で初優勝。大関となってからの初優勝でした。以降2回の優勝を果たしています。

 栃東は、2002年1月場所で初優勝。やはり、大関となってからの初優勝でした。以降2回の優勝を重ねています。ちなみに、栃東の最後の優勝、2006年1月場所が、日本出身力士が優勝した最後の場所になっています。(日本人力士最後の優勝は、2012年5月場所の旭天鵬関です)

 白鵬は、2006年5月場所で初優勝。こちらも大関となってからの初優勝でした。以降、大関として2回の優勝を重ねて、横綱に昇進しました。

 以上を、まとめます。

[大関としての優勝回数]
・ 5回 貴乃花、武蔵丸
・ 4回 若乃花、魁皇
・ 3回 小錦、栃東、白鵬

 貴乃花、武蔵丸、若乃花、白鵬の4力士は、横綱に昇進しましたから

[横綱になれなかった力士の大関としての優勝回数]
・ 4回 魁皇
・ 3回 小錦、栃東

 ということになります。

 魁皇は、小結時代も含めると5回の優勝を果たしていますから、「横綱に最も近付いた大関」といえます。
 小錦も栃東も3回の優勝を果たしているのですから、横綱になっても何の不思議も無い力士だったのです。
 この3力士は、「連続優勝、あるいはそれに順ずる成績」という規程を満たすことができなかったということで、横綱に推挙されませんでした。

 加えて、小錦は初優勝の頃には、大横綱千代の富士が現役であり、2度目の優勝の頃からは、貴乃花・曙・若乃花の時代と重なってしまったのです。

 魁皇は、3回目の優勝を果たした頃に、朝青龍関が登場しました。朝青龍は2002年11月場所に初優勝、2003年1月場所で連続優勝して、あっという間に横綱に昇進しました。史上最年少横綱の誕生でした。ちなみにこの2003年1月場所は、貴乃花が引退した場所でもあります。

 長い間、貴乃花という厚い壁と戦いながら3回優勝し、この大横綱に衰えが見えたと思ったら、朝青龍が登場するという形。
 有る意味で不運であったと思います。大横綱2人に挟まれた力士キャリアの中で、5回の優勝というのは、本当に素晴らしい成績です。こうした時期でなければ、魁皇は間違いなく早々に横綱になっていたことでしょう。

 栃東は、初優勝の時期が、朝青龍の初優勝時期と重なりますから、その大関生活の前半は、朝青龍が大きな壁となり、2006年には白鵬が初優勝しますから、大関生活の後半には朝青龍+白鵬が、大変厚い壁となりました。
 例えば、栃東が3回目の優勝を遂げた2006年1月場所の前後の優勝力士を並べてみます。

 朝青龍→朝青龍→朝青龍→朝青龍→朝青龍→朝青龍→朝青龍→栃東→朝青龍→白鵬→朝青龍→朝青龍→朝青龍→朝青龍 

 朝青龍の7連覇という偉業の後、8連覇を阻止したのが栃東だったのですが、阻止された朝青龍は、その後も優勝を重ね、これに白鵬が加わっています。
 ちなみに、朝青龍は前述の14の場所で12回優勝し「最強横綱」の名を欲しいままにしていた頃です。この超厚い壁に正面から挑んでいたのが栃東でした。

 先達の日本出身大関の活躍は、本当に素晴らしいものだったと思います。

 現在、日本出身力士に横綱になって欲しいという期待が大相撲ファンの間には大きいでしょうし、私も切望しています。
 
 また、「連続優勝、あるいはそれに順ずる成績」という、ある意味では「曖昧」な横綱昇進基準をどのように解釈・適用するかは、時代により違いが有るものなのかもしれません。興行としての大相撲の有り様を考慮すれば、ある程度の基準緩和解釈は、止むを得ないのかもしれません。

 しかし、貴乃花関が横綱になる前に7回優勝していたことや、魁皇関が5回の優勝を重ね、2004年9月場所優勝・同11月場所千秋楽で朝青龍を破り12勝3敗で次点の成績を収めても、横綱に推挙されなかった事実等々とのバランスを鑑みれば、

 横綱を目指す大関は「まず優勝し、次の場所で優勝あるいは同点準優勝」という成績は残していただかなくてはならないと考えるのです。
 箱根駅伝2014では双子ランナーが注目されました。

 東洋大学チームの設楽啓太・設楽悠太、大東文化大学の市田孝・市田宏、順天堂大学の松村優樹・松村和樹、そして駒澤大学の村山謙太・城西大学の村山紘太の4組の双子選手が箱根路を走りました。
 設楽兄弟の快走が、東洋大学総合優勝の原動力となったことも記憶に新しいところです。

 こうした双子のスポーツ選手の活躍は、以前から見られます。

 駅伝やマラソン競技であれば、まず思い浮かぶのは「宗兄弟」の活躍でしょう。

 宗茂、宗猛の兄弟ランナーは、駅伝競技における旭化成チームの全盛時代を支えましたし、宗茂選手は1978年の別府大分毎日マラソンで当時世界2位となる2時間9分6秒の好タイムを叩き出しました。日本人として最初のサブテンランナーでした。
 一方、弟の宗猛選手は1983年の東京国際マラソンで2時間8分33秒のタイムをマークし、1984年のロサンゼルスオリンピックでは日本代表選手最高の4位入賞を果たしました。
 宗兄弟は、瀬古利彦選手や中山竹道選手と共に、日本男子マラソンを支える存在でした。

 その後も、大南博美・大南敬美の姉妹選手や、宮内洋子・宮内宏子の姉妹選手といったように、駅伝・マラソン競技には、双子選手が続けて登場して来たのです。
 陸上競技の長距離走部門は、双子のアスリートが共に高く、かつ、同レベルの成績を残し易い競技なのかも知れないと思ってしまいます。

 その他の競技・種目を見てみましょう。

 すぐに思い浮かぶのは、スキーノルディック複合の荻原健司・荻原次晴の双子の兄弟でしょう。1992年アルベールビル、1994年リレハンメルの2つのオリンピックにおける団体金メダルを始めとして、前後の世界選手権でも「複合日本」の名を世界に示した兄弟選手でした。

 ところで、ここまで書いてきた種目は、駅伝であったり、スキーのリレー競技であったりして、「個人成績の積み上げ型」競技です。
 「お互いに相手の気持ちや体調が手に取るように分かる」と言われる(本当かどうかは知りませんが)双子プレーヤーの特質を最大限発揮できる競技とは思えません。

 双子プレーヤーの強み?を活かせそうな競技・種目と言えば、やはり「ダブルス」でしょう。ダブルス競技に、有力な双子プレーヤーが存在しないものか調べてみました。

 居ました。

 テニス競技のボブ・ブライアン、マイク・ブライアンの双子の兄弟です。アメリカのプロプレーヤーですが、共にシングルの試合には殆ど出場せず、もっぱら兄弟2人でのダブルスで活躍しています。また、その実績が素晴らしい。

 ブライアン兄弟は、テニスの4大大会のダブルスで計15回の優勝を誇ります。内訳は、全豪6回、全仏2回、全英3回、全米4回です。4大大会の全てに優勝しているだけでもとても凄いことですが、計15回もチャンピオンになっているのですから、これはもうテニスの歴史に残る兄弟です。
 現在も現役バリバリで、2013年にも全豪・全仏・全英の3冠を獲得しています。2012年ロンドンオリンピックの金メダリストでもあります。

 ブライアン兄弟は共に身長190cmを超える長身で、ボブが左利き、マイクが右利きですから、ダブルスプレーにおいて、相当に有利というか、バリエーション豊富な戦法を展開できると思われます。
 「究極の双子選手」と呼んで良いのかもしれません。
 
ブライアン兄弟の快進撃を見るにつけ、「ダブルス」こそ双子のスポーツ選手にピッタリの競技・種目のように思われますが、世界や日本のトップクラスのプレーヤーとなると、あまり例が多くないようですので、実は相当難しいことなのかもしれないとも思います。
 あるいは、ブライアン兄弟が特別なのかもしれません。

 何か止め処無い話になってしまいました。

 スポーツの奥深さを、またまた感じさせられるテーマでした。
 1月23日早朝、その去就が注目されていた東北楽天の田中将大投手の、MLBニューヨーク・ヤンキースNYY入りが報じられました。NYYと7年・1億5千5百万ドルの契約に合意したというのです。

 昨年から、ポスティングシステムを利用して田中投手がMLBに挑戦することが報じられていましたし、そもそものポスティングシステム自体の内容見直しと相俟って、随分と時間がかかっている印象がありました。
 ポスティングシステムについて日米が合意し、東北楽天球団が田中投手の挑戦を承認し、昨年末に公示され、1ヶ月の間様々な憶測が渦巻きました。

 交渉期限が迫ってきた段階では、ヤンキース、ドジャーズ、カブス、ホワイトソックス、ダイヤモンドバックスといった球団の争いと報じられ、契約金額は1億ドルを超えるであろうと予測されました。そして、この日の発表となったのです。

 それにしても、7年・1億5千5百万ドルというのは、破格の契約です。MLB全体を見回しても、MLBの歴史を紐解いても、投手の契約としてはベスト10の上位に入るのではないでしょうか。

 MLBにおいては伝統的に、「毎日プレーする野手」に比べて、「5日に1度しかプレーしない先発投手」の年棒(給料)は低いのです。いかにも、合理的な考え方だと思いますが、その低い筈の先発投手の契約として、1年平均22百万ドル(現在の為替レートで約23億円)の7年契約というのは、まだメジャープレーヤーとして1球も投げておらず、MLBで通用するかどうかも分からない投手に対するものとしては「空前絶後」のものでしょう。

 現在のMLB最高の投手と名高い、ドジャーズのクレイトン・カーショー投手が、先日契約更改し、7年・2億2千1百万ドルで締結したと報じられ、これが投手としてのMLB史上最高額と伝えられました。
 また、ヤンキースのエースCCサバシア投手が7年・1億6千1百万ドルで契約しているとも伝えられています。

 ヤンキースが田中投手獲得に費やす資金は、田中投手との7年契約155百万ドル+東北楽天への譲渡金20百万ドルの計175百万ドル(現在の為替レートで約182億円)と推定されます。この投資額は、サイ・ヤング勝を2度受賞しているカーショー投手や、これまで205勝を挙げサイ・ヤング賞も受賞しているサバシア投手への投資額と同等です。
 ルーキーとしては、考えられないレベルの投資といえますし、ひとりのプレーヤーに180億円もの投資が必要な案件に、複数の企業(球団)が参加し競い合っているところが、メジャーリーグベースボールの規模の大きさを如実に表しています。

 当然ながら、年棒が高額なプレーヤーとの複数年契約は、利潤創造を目指す事業体としての球団にとって大変リスクが高いものです。これまでも、日本プロ野球NPB出身のプレーヤーを複数年契約により獲得したものの、「様々な理由からメジャーでプレー出来なくなり、マイナーリーグで調整をするだけのプレーヤーに何年にも渡って高い年棒を支払い続けるという失敗」を経験してきたMLBの各球団、特にNYYにとっては、MLBルーキー投手に高額な7年契約を結ぶというのは、相当な決断が必要なことだったのでしょう。

 それでも、ドジャーズ他との争いの中で、敢然と指名・獲得したということは、「田中投手に対するNYYの評価がとても高かった」ことに他なりません。「田中投手への投資は必ず黒字になる、利益を生む」と判断したのでしょうし、現在25歳の田中投手に、長期間に渡っての活躍=ヤンキースを10年以上に渡って支える先発投手に育って欲しいという期待が込められているとも思います。

 ヤンキースの先発投手陣で固まっているのは、CCサバシアと黒田博樹の2人だけでしょう。ここに田中将大が加わるのです。田中投手は、「NPB出身の投手で現在のMLBを最も良く知っている」黒田投手から、様々なアドバイスを日本語で受けることが出来ます。この点は、田中投手側から見たNYY選択の最大のポイントでしょう。

 2013年シーズンのヤンキースは、正直に言って、とても寂しいチームでした。プレーヤーが次から次に代わり、「華が無かった」のです。

 「NYYは必ずしも優勝しなくても良いが、華やかさに溢れたチームであって欲しい」と私は思います。世界中の全てのプロスポーツを通じて、最も有名なクラブのひとつであるヤンキースの復活に向けて、田中将大投手の挑戦が始まりました。
 1月23日早朝、サッカー・ウルグアイ代表チームの中心選手、ディエゴ・フォルランがセレッソ大阪に入団すると報じられました。
 田中将大投手のMLBニューヨーク・ヤンキース入団とタイミングが一緒でしたので、あまり大きなニュースとしては取り上げられませんでしたが、サッカーの世界ではビッグ・ニュースです。

 フォルランといえば、ウルグアイ代表チームの中心選手の一人で、ルイス・スアレス、エディンソン・カバーニとともに、ウルグアイの攻撃の骨格を成すプレーヤーです。
 そのポテンシャルは素晴らしいもので、2010年南アフリカ・ワールドカップWCの得点王(5点)にしてMVP、チームをベスト4に導きましたし、2011年のコパ・アメリカ(南米選手権)でもチーム15度目の優勝の原動力でした。

 あまり知られていないかもしれませんが、現在の南米NO.1チームは、ブラジルでもアルゼンチンでもなくウルグアイなのです。南アWCで南米チーム最上位の成績なのですから、当然のことかもしれませんが。

 もちろんウルグアイは、ワールドカップ優勝2回を誇るサッカー大国ですが、正直に言って20世紀終盤からは精彩を欠いていました。その古豪ウルグアイを復活させた中心選手がディエゴ・フォルランであることは、間違いないところでしょう。
 WC2014ブラジル大会でも、ウルグアイチームの中心選手としての大活躍が期待され、予想されてもいます。

 フォルランは、1979年5月生まれの34歳。身長182cmのミッドフィールダーMFです。中盤を仕切るプレーヤーですから、ゲームメイクの中心であることはもちろんですが、その得点能力がフォルラン最大の魅力でしょう。「ラストパスやアシスト」に拘るMFも多いのですが、フォルランはチャンスと見れば打っていきます。そして、これが良く決まるのです。南アフリカ・ワールドカップの3位決定戦でゴール正面から放ったミドルシュートの威力は、凄まじいものでした。
 メッシもクリロナもクローゼも出場していた南アフリカWCの得点王なのですから、フォルランの得点能力の高さは疑いのないところです。

 ゲームメイカーとゴールゲッターとしての総合力を勘案すると、フォルランは現在世界で活躍するMFとしてベスト3に入ってくるでしょう。フォルランに匹敵するMFとして思い浮かぶのは、今季FIFAバロンドールの候補となったフランスのフランク・リベリ、そしてイタリアのアンドレア・ピルロでしょうか。

 そのフォルランが、Jリーグ1部のセレッソ大阪と契約したのです。

 フォルラン選手のキャリアを見てみます。
・ 1998年~2002年 インディペンディエンテ(アルゼンチン)
・ 2002~2004 マンチェスター・ユナイテッド(イングランド)
・ 2004~2007 ビジャレアル(スペイン)
・ 2007~2011 アトレティコ・マドリード(スペイン)
・ 2011~2012 インテル(イタリア)
・ 2012~2013 インテルナシオナル(ブラジル)

 さすがに世界トッププレーヤーです。世界トップクラスのクラブが並んでいます。注目すべきは、2011年にスペイン・リーガエスパニョーラの強豪アトレティコ・マドリード(レアル・マドリード、FCバルセロナとともに3強の一角)を出てから、1年毎の契約が続いている点です。

 私は、フォルラン選手がそのプロ選手としてのキャリアの残りが少なくなってきた段階で、世界最高レベルのリーグで毎期得点王を狙っていくといった厳しい選手生活ではなく、自身が行きたいところに行き、プロ生活を楽しむ方向に転換したのではないかと感じます。

 言わば「フォルランの世界一周旅行が始まった」のです。最初の訪問国はイタリア。名門インテルでプレーしながら、歴史と料理など、イタリアでの生活を満喫したのではないでしょうか。
 続いての訪問国はブラジル。フォルランはアルゼンチンの名門インディペンディエンテで、プロプレーヤーとしてのキャリアをスタートしていますから、もうひとつの南米の大国ブラジルでの生活も味わってみたかったのでしょう。名門のナシオナルを選択しています。

 そして、3つ目の訪問国に日本を選んだのです。人々がとても親切で誠実、治安がとても良く、風光明媚で料理も美味しいとなれば、世界一周旅行で日本を外すわけには行きません。世界旅行の方向としても、イタリア→ブラジル→日本と自然な流れです。セレッソとの契約も2014年の12月までということですから、1年弱をかけて日本を存分に味わっていただきたいものです。

 「そんな物見遊山なことでいいのか」といった意見もあろうかとは思いますが、私は全く問題ないと思います。

 我が国は、世界中・各界のトップアーティストから絶大な人気を誇っています。歌手、役者といった芸能人はもとより、スポーツ選手にも日本ファンがとても沢山居ます。客観的に見て、世界トップクラスのアーティスト達にとって世界一の人気国といっても良いでしょう。

 それは、「日本に来ることが楽しい」からに他なりません。おだやかな国民性、平気で嘘を付くとか自分さえ儲かればよい、といった文化の対極に位置する国。そして、あらゆるアミューズメント・エンターティンメントが極めて高く安全なクオリティで完備しています。各界のアーティストが、仕事が無いのにプライベートでも訪問してくる理由は、ここにあると思います。

 そして、受け入れる側にとっても、たとえ「世界一周旅行の立ち寄り」としても、フォルラン選手の素晴らしいプレーを存分に楽しむことが出来るでしょう。このクラスのプレーヤーは、ピッチに立てば体が自然に動いてしまいますし、「プレーでは手を抜かない」から長い間世界のトップに君臨できるのです。
 穿った見方をしてしまい恐縮ですが、何にしてもフォルランのプレーを直に見ることが出来るというのは素晴らしいことです。

 ワールドカップの得点王がJのピッチに登場するのは、1993年のゲーリー・リネカー(イングランド・名古屋グランパスエイト)、1994年のサルバトーレ・スキラッチ(イタリア・ジュビロ磐田)、1998年のフリスト・ストイチコフ(ブルガリア・柏レイソル)以来の4人目ですが、ストイチコフ以降15年振りということになります。

 しばらくの間、ワールドカップ得点王はJリーグに眼を向けてくれなかったのです。

 フォルラン選手の登場が、低迷を続けるJリーグの観客動員大幅増加に結びついてくれれば、これ程嬉しいことはありません。
 プロアメリカンフットボールの実質的な世界一決定戦であるスーパーボールは、ナショナルフットボールリーグNFLの2つのカンファレンス、アメリカンフットボールカンファレンスAFCとナショナルフットボールカンファレンスNFCのそれぞれの代表チーム(それぞれの当該シーズンの優勝チーム)が戦うゲームです。

 1967年に始まり昨2013年までに47回を数えますが、カンファレンス同士の成績はAFC22勝・NFC25勝とNFCが3勝リードしています。

 とはいえ概ね拮抗している2つのカンファレンスの成績ですが、1985年から1997年までの13年間は、NFCが13連勝しました。現在NFCがリードしているスーパーボールの成績も、この時期の連勝が大きくものを言っているのです。

 ドラフト制度等を考慮すると、一方のカンファレンスが13年間も連続してスーパーボールSBを制するというのは、とても不思議なことです。この時代のスーパーボールの勝利チームを列挙してみましょう。(カッコ内は敗戦チーム)

[NFCチームのSB13連勝]
・1985年 サンフランシスコ49ers(ドルフィンズ)
・1986年 シカゴ・ベアース(ペイトリオッツ)
・1987年 ニューヨーク・ジャイアンツ(ブロンコス)
・1988年 ワシントン・レッドスキンズ(ブロンコス)
・1989年 サンフランシスコ49ers(ベンガルス)
・1990年 サンフランシスコ49ers(ブロンコス)
・1991年 ニューヨーク・ジャイアンツ(ビルズ)
・1992年 ワシントン・レッドスキンズ(ビルズ)
・1993年 ダラス・カウボーイズ(ビルズ)
・1994年 ダラス・カウボーイズ(ビルズ)
・1995年 サンフランシスコ49ers(チャージャーズ)
・1996年 ダラス・カウボーイズ(スティーラーズ)
・1997年 グリーンベイ・パッカーズ(ペイトリオッツ)

となっています。

 この結果を見て、気が付くことがあります。

① 勝利チームが偏っていること。
 「13連勝」の内、49ersが優勝4回、カウボーイズが3回、レッドスキンズとジャイアンツが2回となっていて、この4チームで11勝しているのです。

 「13連勝」の前半に3回勝っている49ersは、クオーターバックQBジョー・モンタナやワイドレシーバーWRジェリー・ライスを擁する黄金時代でした。NFL史上最強チームとも呼ばれていた時代です。
 「13連勝」の後半を担当?したカウボーイズは、QBトロイ・エイクマンやランニングバックRBエミット・スミスを擁した、カウボーイズの第二期黄金時代のチームでした。

 こうした史上屈指の強力なチームがNFCに存在したことが「13連勝」の大きな要因でしょう。

② 敗戦チームも偏っていること。
 大変興味深いのは、むしろ敗れたAFCのチームの方です。「13連敗」の内、バッファロー・ビルズが4敗、デンバー・ブロンコスが3敗、ニューイングランド・ペイトリオッツが2敗しています。

 1990年から93年まで4年連続でAFCチャンピオンとなりSBに進出したビルズは、チームの歴史上最強の時代を迎えていました。ヘッドコーチHCマーブ・リービーの下、QBジム・ケリーやRBサーマン・トーマスを擁して「ノーハドルオフェンス」を展開し、AFCでは圧倒的に強かったのです。

 しかし、これが不思議とSBでは勝てない。特に惜しかったのは初年1990年のジャイアンツとの対戦でした。19-20とリードを許し、残り試合時間8秒で挑んだ47ヤードのフィールドゴールFGでしたが、大きく右に外れてしまいました。QBジム・ケリーが頭を抱えていたシーンが今でも思い出されます。47ヤードFGは確かに長めですが、NFLのキッカーなら3回に2回は成功しなければならないものです。
 このゴールが入っていれば、ビルズのSB4連覇があったかもしれないとさえ思うのですが、外れてしまったために、翌年以降は呪われたように勝ち目の無いSBが続きました。

 1991年はレッドスキンズに24-37で敗れ、1992年はカウボーイズに17-52と大敗、1993年はやはりカウボーイズに13-30で完敗しました。
 この4年間以降、ビルズはSBに進出さえしていません。1990年のスコット・ノーウッドのFG失敗は、ビルズに大きな影を落としたように感じます。

 デンバー・ブロンコスは「13連敗」の前半を請け負い?ました。この頃のブロンコスは、HCダン・リーブスの下、QBジョン・エルウェイを中心とした強力な攻撃陣を誇り、AFCでは敵無しでした。しかしSBとなると、全く力を発揮できず、また守備陣が相手の攻撃を全く防げないというゲームが続きました。
 1987年の対ジャイアンツは、ジャイアンツQBフィル・シムズにいい様にやられて20-39で完敗、1988年の対レッドスキンズは、レッドスキンズQBダグ・ウィリアムズの前に10-42と大敗、1990年の対49ersは、49ersQBジョー・モンタナのマジック?の前に、10-55というSB史上最多失点・最多得失点差という記録的惨敗を喫しました。

 ただし、デンバー・ブロンコスとジョン・エルウェイが凄いのは、これ程悲惨なSB3連敗を喫しながら、1998年と1999年に2年連続でSBに進出し、2連覇を達成したことです。ブロンコスは見事に雪辱したのです。史上最多通算5回SBに進出し、2度制したQBジョン・エルウェイは、現在ブロンコスの副社長であり、ペイトン・マニングのブロンコス入りに尽力したと伝えられています。

 ジョン・エルウェイ率いるデンバー・ブロンコスが、NFCのSB連勝を13で止めてから、2013年までのSBはAFCの10勝6敗と、AFCが押し気味です。

 2月2日のスーパーボール2014に向けて、AFCはデンバー・ブロンコス、NFCはシアトル・シーホークスが勝ち上がりました。今回は、どちらのカンファレンスがスーパーボールを手にするのでしょうか。

 箱根駅伝5区といえば、言わずと知れた「山登り区間」です。

 5区では3~4分差を物ともしない劇的な逆転が生まれることが多く、現在では往路最大の見所となっています。

 しかし、よく聞く言葉に「花の2区」というのがあります。これは「2区が往路を決する重要な区間」であることを示している言葉です。
 鶴見中継所から戸塚中継所に到る2区は、23.2kmと距離が長く、最後の戸塚中継所手前の急坂もあって、差が付き易い区間とされていて、その重要度から各校のエースが集う区間でした。

 ところが、2006年の第82回大会からは、5区が箱根駅伝の勝敗を決する、特に往路優勝に付いては100%の確率で5区を制したチームが優勝しているのです。

 2006年からこうした状況になった理由は、皆さんご承知の通り、4区から5区への中継所=小田原中継所が、東京寄りに2.5km移動し、4区の走行距離が21.0km→18.5kmに短縮され、5区の走行距離が20.9km→23.4kmに伸びたためです。

 もともと差が付き易い区間であった5区の走行距離が2.5km伸び、全10区間で最長の区間となってしまったために、駅伝全体・特に往路に付いては、2006年以降、5区の区間賞を取ったチームが必ず優勝するという事態になっています。2014年も5区を制した東洋大学チームが往路そして総合優勝を手にしています。
 今井正人選手や柏原竜二選手といった「山の神」と呼ばれる5区のスペシャリスト・スターランナーも生まれ、5区は箱根駅伝の帰趨を決する区間となったのです。

 確かに「山登り区間」は、その非日常性(あのコースを自動車で走ったことが有る方なら、どんなに急坂であるか分かると思います)、そしてテレビ中継し易い(走る速度が遅い)ことや、疲れが出たランナーにとっては誤魔化しが効かず、大ブレーキに成り易いこと等々から、もともと観るほうからすると大変面白い区間なのですが、それにしても「5区を制すれば、必ず往路優勝し、ほとんどの場合総合優勝も出来る」というのでは影響力が大きすぎると思います。

 4区→5区の中継所は、2005年大会までは鈴廣蒲鉾の売店とレストランのところでした。広い駐車場があり、箱根駅伝の中継所としては素晴らしい立地でした。
 これが、2006年からはメガネスーパーの本社に変更となりました。

 この変更にどんな事情があったのか、私には分かりません。もちろん、箱根駅伝の中継所に提供すれば、営業上大きな影響を受けることは予想されますが、2005年までの長い間、鈴廣蒲鉾さんが往路の小田原中継所だったのです。
 一方で6区→7区の中継所は、鈴廣蒲鉾の本社が使われています。確かに、鈴廣蒲鉾さんに2箇所の中継所用地を提供いただくのも、負担が大きすぎるように思います。

 いずれにしても、5区の影響が大きくなり過ぎた箱根駅伝の区間割りは、見直しが望ましいように思います。友人の「箱根駅伝は5区だけ見ればいいんだよ」という言葉を聞くにつけても、そんなことでは箱根駅伝の将来にとって良いこととは言えないと感じます。

 簡単なことではないと思いますが、4区・5区共に21km前後の走行距離となるような中継所は見つからないものでしょうか。
 今季NFLのプレーオフ・チャンピオンシップゲームは、1月19日に行われ、AFCはデンバー・ブロンコスが26-16でニューイングランド・ペイトリオッツを破り、NFCはシアトル・シーホークスが23-17でサンフランシスコ・49ersを倒して、ともに2月2日のスーパーボールに駒を進めました。

 日本プロ野球でいえば、セ・リーグとパ・リーグの覇者を決めるゲームでしたから、2試合とも注目されましたが、結果的には両カンファレンスとも第1シード(レギュラーシーズンで勝率1位のチーム)が勝ち上がった形です。
 当然のようにも思えますが、このところワイルドカードを勝ちあがったチームがスーパーボールに進出することが多かったので、第1シード同士のスーパーボールは、かえって新鮮な感じがします。

 注目のチャンピオンシップゲームでしたが、特に注目度が高かったのがAFCのブロンコスとペイトリオッツの対戦でした。
 当代屈指のクオーターバックQB、ブロンコスのペイトン・マニングとペイトリオッツのトム・ブレイディの対決とあって、戦前の予想も喧しいものでした。
 これまで、7度のチャンピオンシップゲーム登場で5勝2敗のブレイディと、同3度の登場で2勝1敗のペイトンです。

 ともにNFLの歴史に名を刻む2人のQBですが、プレーオフゲームではブレイディがマニングを圧倒していましたので、第1シードがブロンコスとは言っても、第2シードのペイトリオッツに分が有るという論評も数多く見られました。
 実際、何度もプレーオフで戦っている2人のQBの成績を観ると、「ペイトン・マニングがブレイディをリードしていたのは、全部で10分とちょっと」という、いかにもアメリカらしい「データの裏打ち」がありましたので、今年のゲームでも「ペイトンは、ブレイディに睨まれたカエル」ではないかというのです。

 確かに、あれ程素晴らしいプレーを披露するペイトンが、ブレイディ相手では全く力を発揮できないゲームを多数見てきましたので、今季の戦力比較を無視した「形而上学的な見方?」が成立するようにも思えました。

 第1クオーターQは、ブロンコスが1フィールドゴールFGで3-0とリードしました。まだ小手調べの段階でしたが、この3点のリードが実は大きなものであったのではないかと感じました。
 何しろ、これまでの両者の対決は「常にブレイディが先行し、ペイトンが追いかける形」だったのです。プレーオフで唯一ペイトンが勝った2006年のAFCチャンピオンシップゲームでも、試合終了3分前までブレイディが34-31とリードしていました。
 ブレイディ=ペイトリオッツは、ペイトン・マニングに対して、常に先行することで焦りを誘い、試合を有利に進めたのです。

 しかし、今年のゲームは違いました。第1Qは3点とはいえペイトンがリードしたのです。第2Qに入り、ペイトンはタッチダウンTDパスを決めて、10-0とリードを広げます。これは、これまでプレーオフゲームでペイトンがブレイディに付けた最大得失点差でしょう。ブロンコスはこの10点差を守ったまま、13-3で第2Q=前半を終えました。

 そして第3Q、ペイトンはワイドレシーバーWRデメアリアス・トーマスにTDパスを通して、20-3とリードを広げます。これは、いつもブレイディがペイトンに対して行っているゲーム運びそのものでした。

 第4Qに入り、ブレイディはWRジュリアン・エデルマンへのTDパスと自らのTDランにより追い上げますが、時既に遅く、ブロンコスが押し切りました。
 ロースコアゲームの中で、ペイトン・マニングのゲームメイクが機能したゲームでした。

 戦術面では、ディビジョナルプレーオフで全6TDを叩き出したペイトリオッツの2人のランニングバックRBブラントとリドリーを、デンバーディフェンスDF陣が完全に止めたことが大きかったように思います。
 ディビジョナルプレーオフで160ヤード以上を走ったブラントを6ヤードに、70ヤード以上走ったリドリーを17ヤードに押さえ込んだDF陣は、この試合最大の功労者でしょう。

 一方のブロンコスオフェンスOF陣は、いつものような攻撃を展開し、ペイトン・マニングのパスが400ヤード、モレノとボールの2人のRBがトータル100ヤードを超えるランを見せました。獲得ヤードがトータル500ヤードを超えていますから、これで26点に押さえたということは、ペイトリオッツのDFも相当に機能したということではないでしょうか。

 ゲームにおける最大のホットラインは「QBペイトン・マニング→WRデメアリアス・トーマス」でした。7度のレシーブで134ヤードの獲得、1TD。特に自陣ゴール前など苦しい時のロングゲインが目立ちました。

 試合終了後、ブレイディがペイトンに駆け寄り握手をするシーンが映し出されました。素晴らしいショットでしたが、握手後引き上げて行くブレイディの背中には、悔しさが溢れていたように見えました。
 いつも冷静なブレイディですが、やはり「超負けず嫌い」なのでしょう。そうでなければ、NFL史上屈指のQBになど、成れる筈がありません。

 38歳のペイトン・マニングと37歳のトム・ブレイディには、現役として残されている時間はそう多くは有りませんが、今後も何回かは、この2人のプレーオフでの対決=NFL史上を飾る「宿命の対決」を観ることが出来そうです。
 第19回都道府県対抗駅伝・男子は、例年通り広島市を舞台に1月19日に行われ、長野県チームが優勝しました。
 長野県は6回目の優勝となり、最多優勝記録を更新しました。

 毎年、各県のレベル差が縮まってきているという印象を受けますが、今大会もまさにその通りでした。

 第6区を終えて、先頭は長崎県チーム、差の無い2番手に群馬県、3番手に長野県、4番手以降は、神奈川、福岡、福島、埼玉、宮崎と続きます。
 地域的な偏りの無い優勝争いが展開されました。何より、6区を終えてトップの長崎県と8位の宮崎県のタイム差が51秒というのですから、最終7区が13kmあることを考え合わせれば、9~11番手の大阪、兵庫、三重まで含めて、どのチームにも優勝のチャンスがあったという、大接戦だったのです。

 この大接戦に決着をつけたのは、長野県チームのアンカー・矢野圭吾選手でした。

 3番手で襷を受けた矢野選手は、前を行く長崎・群馬に追い付きますが、後ろの神奈川・福岡には追い付かれて、5チームの先頭争いとなります。このまま暫くの間様子を見るという戦術もあったのでしょうが、矢野選手の頭には、さらに後ろから追い上げてくる埼玉県チームの服部翔太選手の存在があったのでしょう。

 矢野選手と服部選手は、同じ日本体育大学の選手ですし、高校時代は同期ですから、お互いに相手の実力は良く知っています。矢野選手は「服部選手に追い付かれて、ゴール前のスプリント勝負になっては分が悪い」と考えたのでしょう。

 牽制し合う先頭集団から、敢然とスパートしました。まだ残り10km近くも有る段階でのスパートには、10kmを過ぎてからの残り3kmで脚が無くなるというリスクがあったと思いますが、「優勝するためには、これしかない」と考えてのスパートであったと思います。

 このスパートが見事に成功しました。

 スパート以降、矢野選手は一度も先頭を譲ることなく、予想通り2着まで追い上げてきた服部選手に35秒の差を付けて、走り切りました。

 群馬・長崎に追い付いた服部選手は、100m以上前を行く矢野選手の姿を観て、矢野選手を追い抜くことは諦め、2位確保に方針を変更したのでしょう。
 相当後方から追い上げ、脚を使っていたにも拘らず、最後の競り合いで服部選手は、群馬の阿久津選手、長崎の木滑選手を振り切りました。矢野選手が警戒していた「服部選手のラストスパート」は、その威力を発揮したのです。

 矢野選手の走りは、極めて戦略的で、理に叶ったものであったと思いますし、勇気溢れる決断をベースに実行されたものでした。真にクレバーなプレーであったと思います。

 「駅伝におけるアンカーの役割は順位をひとつでも上げること」です。その目標に向かって最良の判断を下し、最高のパフォーマンスを魅せた矢野圭吾選手、素晴らしい走りでした。
 なでしこジャパンは、女子サッカー日本代表チームの愛称です。スマイルジャパンは、女子アイスホッケー日本代表チームの愛称です。
 
 日本代表チームの愛称といえば、他には野球の「侍ジャパン」や男子サッカーの「監督名+ジャパン→現在ならザックジャパン」が挙げられます。

 この他にも、前述の愛称ほどには定着していないと思いますが、ラグビーの「チェリーブロッサムズ」、競泳の「トビウオジャパン」、シンクロナイズドスイミングの「マーメイドジャパン」、男子バレーボールの「龍神NIPPON」、女子バレーボールの「火の鳥NIPPON」、カーリングの「クリスタルジャパン」、などが思い浮かびます。
 そういえば、スキージャンプの「日の丸飛行隊」というのは、愛称なのでしょうか。

 さて、話を戻します。

 2014年2月のソチ・オリンピック開催に向けて、スマイルジャパンがチームとしても、個々の選手としても、メディア登場が増えました。
 さすがに、大柄かつガッシリとした体躯のプレーヤーが多いのですが、共通して笑顔がとても爽やかです。

 そのスマイルジャパンのフォワードFWの中心選手である大澤ちほ選手が、先日インタビューを受けていました。「スポーツは勝敗が全てなので、ソチでは必ずメダルを取ります。」との宣言。オリンピック出場に向けての力強いコメントでしたが、「スポーツは勝敗が全て」という下りが、少し気になりました。しかし、前後のやりとりを聞いて、十分納得できました。

 昨年、ソチ五輪日本代表に、全ての競技・種目で最も早く出場権を獲得した時から、
大澤選手を始めとするスマイルジャパンの選手達の「生活が変わった」のだそうです。
 それまでは、アルバイトをしながら競技生活を続けている選手が多かったのですが、協会の斡旋等により、競技生活を続け易い職業を紹介されたりして、現在では安定した生活が送れているのです。

 あまり注目されなかった競技であり、チームであった女子アイスホッケー日本代表チームは、オリンピック出場権獲得により俄然注目を浴びることとなり、普段の生活さえ変化したということです。
 ソチで結果を残せなければ、また昔の生活に戻らなければならなくなる、後輩の選手たち、ひいては「日本の女子アイスホッケー競技そのものの将来」がかかっている大会だという、強い使命感をベースとしたコメントだったのでしょう。
 素晴らしい「ハングリー精神」だと思います。

 そういえば、なでしこジャパンが世に出た頃、その中心プレーヤーである澤穂希選手も全く同じ内容のコメントをしていたことを思い出しました。なでしこの主力選手達もスーパーマーケットのレジ打ちのアルバイトをするなどして、競技生活を続けました。男子サッカーに比べて、陽が当たり難かった女子サッカーが表舞台に出る日を夢見て、厳しい環境下で地道な活動を継続していたのです。

 ワールドカップやオリンピックに臨む際には「この大会で負けたら、女子サッカーの灯が消えてしまう」という、強い使命感をベースに戦っていました。真のハングリー精神を持っての戦いであったと思います。

 世界屈指の豊かな国になった現在の日本においては、スポーツ選手はハングリー精神を持ち難くなった、今の若い選手からはハングリー精神が感じられない、などと言われて久しいのですが、「なでしこ」と「スマイル」からは、強烈なハングリー精神を感じます。

 我が国が貧しかった時代とは異なる種類の、しかし、強さでは引けを取らない「ハングリー精神」が根付いているように思います。
 おそらく、この2つの競技以外にも、こうした「ハングリー精神」をベースとして活動を続けているプレーヤー達が沢山居るのであろうと思います。こうした選手・関係者のご努力が実を結ぶように祈らずにはいられません。

 我が国におけるスポーツ選手のキャリアを見てみます。

 4~5歳から小学校低学年時代のスポーツへの取組については、親御さんの経済面他の全面的なサポートが存在します。地域の指導者の皆さんも、こうした幼年期の子供達のスポーツについて、大きな役割を果たしていることでしょう。
 野球やサッカーなどの競技における活動を見ると、この段階での体制は相応に構築されていると感じます。

 小学校高学年になると、いわゆる「クラブスポーツ」が中心となるように思います。やはり野球やサッカーにおいて代表されるような「リトルチーム」が多数存在するのです。硬式野球といった本格的な競技もあれば、軟式野球といったこの年齢の子供たちにとって馴染み易い競技に参加することも出来ます。
 もちろん、この段階でも親御さんの全面的なサポートを受けて、選手達は競技生活を送ることになります。

 水泳競技は、小学生の段階から各地のスイミングスクールでの活動が盛んです。この活動は、本格的な競技生活に入っていくアスリートにとっては、相当長く続くことがあります。20歳代、30歳代になっても、スイミングスクールでの競技生活を続ける選手は珍しくありません。

 中学生となると、前述のクラブスポーツと肩を並べる「学校の部活としてのスポーツ」が登場します。相当沢山の競技・種目における、学校教育の一部としての活動なのです。
 幼年期には、自身は当該スポーツをやったことがない、あるいはそれほどのプレーヤーではなかった人達の、ボランティアとしての指導も多いのですが、この段階となると指導者のレベルが格段に上がります。
 そして、選手のレベルも格段に進歩します。14歳前後で世界のトップレベルに躍り出る選手は、多いとは言えないものの、必ず一定数存在しますから、中学生の頃が最初の世界デビューのタイミングと言えるでしょう。

 高校生ともなると、多くの競技で日本を代表する、あるいは世界トップレベルの選手が出現してきます。そして、この頃が最もプレーヤーが伸びる時期なのでしょう。タイムを争う競技では、とても短い期間で自身のベスト記録を一気に改善する選手が沢山居ますし、野球やサッカーなどでも、短い大会の間に別次元の選手に成長する例も観られます。

 この中学生・高校生の時期も、経済的な面では親御さんのサポートが主体となります。それに、学校や各種協会の援助も加わる形でしょう。

 知り合いに高校生のご子息がオリンピック出場を果たした人が居ますが、この段階ではスポンサーを付けることがルール上許されていないので、競技生活を続けていく上で親御さんの負担は、大変重いものだそうです。合宿への参加や海外大会への遠征など、補助が有るものの、基本的には親御さんが費用負担する形です。子息の競技生活のために、毎年4~5百万円の費用がかかったと聞いています。
 かなり高所得な方か、支援者がいないと、「オリンピック代表クラスの高校生アスリート」が、競技生活を続けて行くのは難しいということになります。

 さて、高校を卒業して18歳を過ぎてからが、今回のテーマと関係が深い年代です。

 この段階で、スポーツプレーヤーは、競技・種目の別や自身の技能レベルなどにより、進路選択を迫られます。

 プロスポーツが存在する競技・種目においては「プロになるかどうか」の選択があります。野球やサッカーといった我が国でメジャーなプロスポーツであれば、トップクラスのプレーヤーはプロ入りを選択できます。

 一方で、自身のレベルに自信が無い、あるいは、厳しい競争社会で競争して行く自信が無いといったケースであれば、大学生や社会人として競技を続けることも出来ます。大学に進む場合には、競技生活の費用面は親御さんに頼り続ける形が多いと思いますが、この年齢になるとスポンサー企業を付けることが出来ますので、トップクラスのプレーヤーであれば、そうした形も展望できるでしょう。
 社会人として活動を続ける場合には、入社した企業が費用面を負担する形となります。
 このどちらの場合でも、相応のレベルの指導者を始めとする環境が用意されます。

 さて、プロが存在しない、あるいは存在しても多くの収入が見込めない競技・種目を、18歳以降も続けていこうとすると、いくつかの問題に直面することとなります。
 こうした競技においては、まず当該競技の学部やクラブが存在する大学に進学することが多くなるのでしょうが、その場合でも大学卒業後に同じ問題に直面します。

 プロが存在しないスポーツというのは、世間の注目度合いも低いケースが多いので、社会人チームを保有している企業も少ないことになります。社員として働きながら、競技生活を継続する選択肢も、狭くなってしまうのです。

 さすがに、この年齢となると親御さんに頼っているばかりというわけにも行きません。「いわゆる社会人プレーヤー」にもなることも出来ず、収入を得るための仕事をしながら、競技生活を継続することになるのです。

 しかし、「練習時間を確保」し、「試合に出場するための休暇が自由に取れて」、トッププレーヤーであれば時々は「日本代表としての長期の強化合宿や大会にも参加」できる仕事というのは、なかなか見つからないでしょう。
 結局は、アルバイトやパートタイム社員という形で働くことになります。

 それが、頭書のなでしこジャパン、スマイルジャパンの選手達なのです。

 メジャーではないスポーツを18歳以降も続け、世界トップクラスの成績を挙げていくというのは、大変なことです。並大抵のご苦労ではないでしょう。

 なでしこジャパン創世記のプレーヤー達は、この難関を見事に突破しました。そして、「女子サッカー」をメジャーな存在に引き上げ、社会人チームを多数発足させたのです。
もちろん、プロプレーヤーとして活躍している選手も居ますが、皆が皆プロのレベルのプレーヤーに育って行ける訳ではありません。

 言い方は良くないのですが、一流半のプレーヤー達の多くが当該競技を続けていける環境確保が、当該スポーツの維持・発展のためには必要なことだと考えます。指導者の育成面・継続的な供給面からも、一定数の一流半プレーヤーの存在は不可欠なのです。

 結果として、我が国において当該競技を長く維持していくためには、企業の力がとても重要なのではないでしょうか。「企業にとって広告効果が認められる存在になること」、そして「そうした存在であり続けること」が、当該競技がメジャーな状態で存続していく条件なのでしょう。

 「なでしこ」が遣り遂げた道を、「スマイル」が追いかけているように見えます。「21世紀のハングリー精神」を持って、オリンピックの金メダルより重く厚いであろう壁に挑んでいる「スマイルジャパンの戦士達」に大きな拍手を送りたいと思いますし、ソチでの大活躍に大いに期待しています。
 大相撲1月場所は7日目を終えて、全勝は横綱白鵬一人、1敗で大関鶴竜、松鳳山、遠藤の三人が続いています。

1. 立合いの威力が不足している稀勢の里

 「綱取り場所」の大関稀勢の里は、初日の豊ノ島戦で不覚を取り、碧山にも一気に押し出されて早々に2敗と、綱取りは既に赤信号です。色々な課題があるのでしょうが、立合いの威力不足が目立ちます。相手が誰であれ、必ず押し込まれるというのでは、安定した星は残せません。仕切りの時の腰の位置が高く、当たりも中途半端ですから、苦しい戦いが続くでしょう。
 相手が横綱だと思い切り当たって行けるので、十分な相撲が取れるというのですから、相撲というのは精神面の影響が大きいものだと改めて感じます。

 7日目のテレビ放送解説・音羽山親方(元大関貴ノ浪)のコメントの様に、「右上手に拘ることなく、左脇を締め、右はおっつけに徹して堂々と前に出れば、自分が一番強い」という形・気持ちで取組に臨んでいただきたいと思います。(音羽山親方の解説は、合理的かつ味わい深いもので、いつも素晴らしいと感じます)

 稀勢の里は、もう1敗も出来ません。白鵬の星次第という状況に追い込まれてしまいましたが、諦めること無く優勝を目指してもらいたいと思います。

2. 「密着相撲」が活きている遠藤

 幕の内3場所目の遠藤が、良い相撲を展開しています。最近少なくなった「体を密着させることで、相手力士に力を出させない相撲」が取れています。前捌きも上手く、投げもありますから、終盤戦で本来当たる筈の無い三役力士他との取組が組まれたとしても、十分に勝負になると思います。
 絶えて久しい「日本出身力士の優勝」に最も近い存在でしょう。

 横綱白鵬は7戦全勝と、さすがの相撲ですが、はたき・いなしといった場面も数多く見られますので、決して万全とは言えないと感じます。三役から幕の内上位陣の充実振りを見るにつけ、後半戦では面白い優勝争いが展開されるのではないでしょうか。
 いまや我が国を代表する種牡馬の1頭となったステイゴールドですが、現役時代は勝ち星に恵まれませんでした。

 ステイゴールドは国内で48戦を戦っていますが、重賞勝ちは僅かに2つ。その内のひとつが2001年の日経新春杯でした。シルバーコレクター・ブロンズコレクターなどと呼ばれたステイゴールドにとっては、貴重な勝ち鞍と言えるでしょう。

 ステイゴールドが2着になった重賞レースを挙げてみます。(馬名は勝ち馬)
・ 1998年G3ダイヤモンドS ユーセイトップラン
・ 1998年G1天皇賞(春) メジロブライト
・ 1998年G1宝塚記念 サイレンススズカ
・ 1998年G1天皇賞(秋) オフサイドトラップ
・ 1999年G1天皇賞(秋) スペシャルウィーク
・ 2000年G2AJC杯 マチカネキンノホシ
・ 2000年G2日経賞 レオリュウホウ

 天皇賞や宝塚記念といったG1レースで、メジロブライト、サイレンススズカ、スペシャルウィークといった強豪馬に対して勝ち切れないのは、止むを得ない感じがしますが、同じようにG2・G3のレースでも勝てない点が、ステイゴールドらしいところです。

 続いて、ステイゴールドが3着になった重賞レースを挙げてみます。
・ 1998年G2目黒記念 ゴーイングスズカ
・ 1998年G1有馬記念 グラスワンダー
・ 1999年G2日経賞 セイウンスカイ
・ 1999年G2金鯱賞 ミッドナイトベッド
・ 1999年G2鳴尾記念 スエヒロコマンダー
・ 1999年G1宝塚記念 グラスワンダー
・ 2000年G2京都記念 テイエムオペラオー

 1998年には2着が多く、1999年には3着が多い、という不思議な特徴がありますが、傾向は同じで、G1レースで最強の頃のグラスワンダーに敗れ、G2でも勝てないという形です。
 ステイゴールドのファンの皆さんには怒られてしまいそうですが、「一瞬の速い脚が使えないために、4角を回ったときの自身およびライバル馬の位置取りによって、成績が決まる」タイプの馬だったと思います。

 それにしても、スペシャルウィーク、グラスワンダー、テイエムオペラオーといった、20世紀末から21世紀初頭の中央競馬を彩った大豪馬達と戦い続けている点は、素晴らしいことですし、何より「故障も無く重賞レースに出走し続けたこと」はステイゴールドにとって最大の勲章でしょう。G1常連馬として、生涯50戦を走破した馬というのは、滅多に居ないと思います。

 なかなか勝てなかったステイゴールドにとって貴重な国内重賞勝ちは、2000年5月のG2目黒記念と頭書2001年1月のG2日経新春杯の2レースです。
 どちらも良く憶えていますが、目黒記念は4角を中段で回ってきて、直線に入りジリジリと前に出て、残り200m位で先頭に立ち、マチカネキンノホシとの競り合いを制して1馬身と少しの差で勝ちました。府中の長い直線を上手く使ったレース振りでした。
 日経新春杯は、4角を2番手で回り、直線に出て直ぐにサンエムエックスを交わして先頭、そのまま押し切って、こちらも1~2馬身の差で快勝しました。京都の4角での位置取りが良かったと思います。

 重賞2勝馬となったステイゴールドは、2001年3月にG2ドバイシーマクラシックに挑戦しました。日本で40戦以上走ってG2重賞を2勝というのですから人気薄でしたが、当時の世界最強馬の一頭ファンタスティックライトを、ゴール前ハナ差差し切り優勝しました。
 正直に言って、まさか優勝するとは思っていませんでしたし、これがサンデーサイレンス産駒の日本馬として、海外初重賞勝ちであったことも意外な感じがしました。

 しかし、ドバイシーマクラシックと言う世界一流のレースに優勝し帰国してから、ステイゴールドは精彩を欠きました。2001年の宝塚記念4着、京都大賞典失格、天皇賞(秋)7着、ジャパンカップ4着と、ジャパンカップこそ健闘しましたが、シルバーコレクター・ブロンズコレクターの面影もありませんでした。

 そして50戦目を迎えました。2001年の12月G1香港ヴァーズに挑んだのです。このレースでステイゴールドは1番人気でした。ジャパンカップを始めとする多くのG1レースでの安定した成績とドバイシーマクラシック優勝から、ステイゴールドは国際レーティングで120ポンドという出走馬中NO.1の評価を得ていたのです。
 従って、1番人気はある意味当然のことなのですが、日本のファンにとっては、こうした世界屈指のG1レースで1番人気に押されることは、少し意外だったのではないでしょうか。

 ステイコールドは1番人気に見事に応えて優勝しました。直線で前の馬との差が大きく、「届かないかな」という位置から、一気に差し切りました。速い脚が無いと言われたステイゴールドにとって、生涯最高の脚であったと思います。

 ステイゴールド号、父サンデーサイレンス、母ゴールデンサッシュ、母の父ディクタス。通算競走成績50戦7勝、内海外2戦2勝、重賞勝ち国内2勝・海外2勝。

 3歳時10戦、4歳時11戦、5歳時10戦、6歳時10戦という、4年間に渡って毎年10戦以上(しかもG1レースを主体とする重賞競走)を走ったという安定感と丈夫さが、ステイゴールドの良さです。これは、母方ディクタスの血であろうと私は考えていますが、この「故障が少なくて丈夫」という特質が、その産駒オルフェーヴルやゴールドシップに見事に受け継がれています。

 「サンデーサイレンス+ディクタス」、このアウトブリード配合(5代前まで共通の祖先が居ない=近親配合ではない)を考え実行した関係者の皆さんは、日本競馬を支えていく血統を生み出したことになります。

 競馬というスポーツの面白さが、ここにも有るのです。
 
 ACミランの本田圭佑選手が、1月15日のコッパ・イタリア(イタリア杯)大会5回戦のスペツィア戦で、入団後初先発し、初ゴールを挙げました。

 12日のセリエA(リーグ戦)サッスオーロ戦で、後半20分に入団後初出場した本田選手でしたが、ホームのカップ戦で初先発し、初ゴールまで奪うという大活躍でした。

 初出場時のゴール右ポストを直撃するシュートも迫力十分でしたが、初先発ゲーム後半19分の初ゴールは「いかにも本田らしい」ものでした。

 本田選手のプレーには、「戦車のように真っ直ぐ進み、ドーンと打ち込む」イメージがあります。
 ひらりひらりと交わして行く「牛若丸のような動き」ではなく、真っ直ぐに前進していくのですが、何か相手ディフェンダーが道を開けて行くように見えるところが不思議です。そして「振り幅の小さな脚の動き」から強烈なシュート・パスを放ちますから、何か「蹴っているのではなく、機械からボールが発射される」様な感じを与えるのです。

 他の言い方をすれば「ディフェンダーがタックルをしてきても、ブレることなく真っ直ぐ進むことができる、体幹とプレーの強さ」を持ち、現代サッカーに不可欠とされる「小さな振り幅の脚の動きで、強く正確なボールを蹴ることができる」ということでしょう。

 素晴らしい能力だと思います。

 それにしても、いかに素晴らしい能力を保持しているプレーヤーであっても、新チームにおけるホームデビュー戦、地元ファンの眼前でシュートを決めるというのは容易なことではないでしょう。「本田は持っている」ということを如実に示しました。
 丁度、MLBニューヨーク・ヤンキースに入団した松井秀喜選手が、ホームのヤンキースタジアムデビュー戦で放った満塁ホームランのようでした。

 カズ選手や中田英選手がセリエAでプレーしていた頃には、ひとつのゴールで大騒ぎしていた自分が居ましたが、普通のことのようにゴールを挙げた本田選手を観ると、これからも「当たり前のように活躍しゴールを挙げていく」ような予感がします。

 今季NFLのプレーオフも、ワイルドカードを終えてディビジョナル・プレーオフゲームが、1月11日と12日に行われました。
 AFC・NFCともに2チームが勝ち上がり、1月19日のチャンピオンシップゲームに進出しました。このゲームで、各カンファレンスのチャンピオンが決まり、チャンピオン2チームにより、世界一を決めるスーパーボールが行われます。

 ディビジョナル・プレーオフの結果は以下の通りです。(左側が勝ったチーム)

NFC(ナショナルフットボール・カンファレンス)
・ シーホークス23-15セインツ
・ 49res23-10パンサーズ
AFC(アメリカンフットボール・カンファレンス)
・ ペイトリオッツ43-22コルツ
・ ブロンコス24-17チャージャーズ

 シーホークスとプロンコスは、各カンファレンスの第1シードですし、49ersは昨季のNFCチャンピオンチームですから、この3チームの勝ち上がりは順当なところでしょう。
 また、ペイトリオッツは21世紀最強のチームとも呼ばれていますから、これも「意外」な勝ち上がりではありません。

 しかし、ペイトリオッツの試合内容は、とても「意外」なものでした。

 そもそも、絶対に負けられないゲームであるプレーオフゲームは、インターセプト等のターンオーバーを警戒して「守備的なゲーム」になることが多く、少ない得点になることが多いのです。
 事実、他3ゲームの勝利チームの得点は、ブロンコス24、49ers23、シーホークス23とレギュラーシーズンに比べると少なくなっています。プロンコスなどは、レギュラーシーズンで1試合平均37.8点を取っていますから、得点が激減しているのです。

 一方で、ペイトリオッツは43点という高得点です。6つのタッチダウンTDを挙げました。この高得点は、相当意外でした。
 加えて、ペイトリオッツの43点中TDパスによる得点が0なのです。この点が、最も意外です。

 ニューイングランド・ペイトリオッツと言えば、ペイトン・マニングと並び称される、当代最高のQBトム・ブレイディを擁するチームですから、強力なパスプレーを中心とした攻撃力に定評が有るところです。
 特に「ここぞという場面」での、ブレイディのパスは、何度もチームに勝利を齎してきました。

 そのペイトリオッツのプレーオフゲームにおいて、TDパスが0というのは驚かされるのです。

 本ブログでも、今季のプレーオフにおいてペイトリオッツは苦戦すると予想しました。ブレイディのパスの受け手が次々と故障し、切り札のタイトエンドTEグロンコウスキーも出場できないとあっては、さすがのブレイディもパスを投げ難いであろうと考えたのです。

 ところが、ブレイディとヘッドコーチHCビル・ベリチックは「ランで勝つ」戦略を立て、実行しました。見事という他はない戦略でした。

 このゲームで、ペイトリオッツのランニングバックRBルギャレット・ブラントは24度のランで166ヤードを走り4つのTD。素晴らしい活躍です。
 そして、2番手のRBとして、スティーバン・リドリーは14度のランで52ヤードを走り2TDを奪いました。この2人で6TDを挙げたのです。

 ブラントは183cm114㎏、リドリーは180cm100㎏という体格を活かしての走りでした。NFL4年目のブラントは、2010年にバッカニアーズでシーズン1007ヤードを走ってはいますが、1000ヤードラッシングは1回だけでしたし、3年目のリドリーも1000ヤードは1回しか走っていません。NFLでは中堅どころのRBということになります。
 パス中心であったオフェンスを急遽、この2人のRBを中軸に据えたオフェンスに再構築するというのは、通常なら考えにくいところでしょうが、ペイトリオッツのベンチはさすがということでしょう。

 実は、レギュラーシーズン最終戦、2013年12月29日のゲームでペイトリオッツは試運転を行っていたのです。対ビルズのこのゲームで、ブラントは189ヤードを走り2TD、リドリーもTDこそありませんでしたが74ヤードを走っています。
 
 ブラントのレギュラーシーズン第15戦までのランによる獲得ヤードは計583ヤード・1試合平均38.8ヤードでした。そのRBの第16戦の獲得ヤードが189、ディビジョナル・プレーオフ緒戦で166ヤードというのですから、「完全に攻撃方法を変更した」ことは間違いありません。
 容易なことではない筈のプレー変更を、短期間で実現してしまうところがベリチックとブレイディのコンビなのです。改めて、その凄さに感じ入りました。

 さて、これでAFCのチャンピオンシップゲームは、デンバー・ブロンコスとニューイングランド・ペイトリオッツの対戦となりました。ペイトン・マニングとトム・ブレイディの「宿命のQB対決」となったのです。

 ご存知の通り、これまでプレーオフゲームにおいては、ブレイディがマニングを圧倒しています。
 コルツ時代、4度のシーズンMVPに輝き、史上最高のQBという名を欲しい儘にしていたマニングは、AFCプレーオフゲームとなると、ブレイディ率いるペイトリオッツに苦杯を舐めてきました。そしてマニングは「プレーオフでの勝負強さに欠ける」と言われ続けてきたのです。

 これまでのスーパーボールSB制覇回数も、ブレイディ3回、マニング1回とブレイディが上回っていますし、何よりブレイディはSBに5回も進出しているのです。このプレーオフにおける勝負強さは、驚異的なものですし、常にブレイディはマニングのSB進出の障害になってきたことを示しています。

 今季マニング率いるブロンコスは、圧倒的な攻撃力・得点力を背景として勝ち上がりました。一方のペイトリオッツは「ランプレーのチームに変貌」して、勝ち上がってきたのです。
 「宿命の対決2014」が、どのようなゲームとなるのでしょうか。最高のQB同士の対決です。本当に楽しみです。
 第92回全国高校サッカー選手権大会決勝戦は、1月13日国立競技場で行われ、富山県代表富山第一高校が、石川県代表星稜高校を3-2のスコアで破り、初優勝しました。

 試合は、キックオフ直後から終始富山第一ペースでした。

① ボール支配率は、試合全体を通じて7:3で富山第一が上回っていました。
② イーブンボールの獲得も、富山第一が相当上回っていたと思います。
③ 星稜のプレーヤーがボールを持ち前進を始めると、富一のプレーヤーは2人でこれを奪いにかかり、奪ってしまうシーンが再三観られました。

全体として、富山第一のプレーヤーの動きが良く、星稜のプレーヤーは体が重そうでした。コンディショニングの問題があったかもしれません。

 こうして、ゲームの流れは終始富山第一に在ったにもかかわらず、ゲーム展開は正反対でした。後半40分を過ぎるまで、星稜が2-0とリードし続けました。星稜は、最初のチャンスでPKを獲得し、これを決め、2点目も数少ないチャンスをキッチリと物にしました。そして、ゴールキーパーGK近藤選手中心とした固い守りで、85分間・試合時間残り5分まで2点リードを堅持し続けたのです。

 星稜としては狙い通りのゲーム展開であったと思いますし、観客も「星稜の勝ち」と感じ始めていました。

 攻めに攻めても中々得点が奪えず、後半も40分を過ぎてしまえば、普通なら富山第一には攻め疲れ・諦めの雰囲気が漂いそうなものでしたが、これが全く逆で、試合開始直後からのスピード溢れる攻撃が継続されていました。

 「勝てそうだ」と思ったのか、やや動きが悪くなったのは星稜の方でした。富山第一は、後半42分に1点を返し、ロスタイムに入ってからPKを得、これを主将の近藤選手がキッチリと決めて同点。延長戦に入りました。

 延長に入っても、富山第一イレブンの動きは衰えを見せず、延長後半9分過ぎに決勝点を挙げて、逆転勝ちを収めたのです。

 何か、スポーツ小説・漫画にしても「それは無いだろう」と言われそうな、劇的な試合展開でした。こうしたことが現実に起きるというのも、スポーツの怖いところです。

 富山第一高校の勝因は「攻め続けたこと」にあると思います。中々得点できず、相手にリードを許しても、決して諦めることなく攻撃を続けたのです。口で言うのは易しいが、実践するのは難しい話の典型でしょう。
 この精神面・肉体面の継続力の高さは、どのように身に付いたものなのか、とても興味深いところです。

 現在の国立競技場で開催される最後の「選手権決勝戦」でした。スタンドは、48,000人を超える大観衆で立錐の余地も無い満員。立見客が沢山居る選手権決勝戦を久しぶりに見ました。

 そして、対戦するのは星稜高校と富山第一高校という北陸勢の2校。そもそも、北陸勢が決勝に駒を進めること自体が初めてというのに、一気に2校がこの壁を破り、優勝したのは1回戦から勝ち上がってきた富山第一でした。「走りまくり、攻めまくった」見事な優勝であったと思います。

 試合当日、両校の地元は大雪に見舞われていました。毎年4ヶ月位の期間グランド状態が良くないという環境の下で、全国制覇を成し遂げる、準優勝を獲得するというのは、素晴らしいことだと思います。
 富山第一高校と星稜高校の選手・スタッフの皆さん、本当におめでとうございました。そして、見事な決勝戦を魅せていただき、ありがとうございました。

 高校サッカー競技における全国各地の競技レベルの均等化を、強く感じさせる大会でした。
 元旦恒例のニューイヤー駅伝が、今年も群馬県庁をスタート・ゴールとする7区間100㎞のコースで行われました。

 このレースの第2区でDeNAチームのカロキ選手が26人抜きの快走を見せました。駅伝では時々見られる「ゴボウ抜き」です。チーム順位も33位から7位に上がりました。見事な走りであったと思います。

 さて、駅伝競技における「ゴボウ抜き」について考えてみましょう。

 私は、駅伝競技でチームが好成績を残すという目的を踏まえれば、「ゴボウ抜き」はあまり良いものではないと考えています。理由は、

① 数多くのランナーを追い抜けるということは「チームの順位が低い」ということ、つまり前の区間までのレース振りが良くないということです。当たり前のことですが、例えば26人抜きを実現するためには、27位以下でタスキを受け取らなければなりません。

 今回のDeNAも1区で33位と大きく出遅れました。これも当たり前のことで恐縮ですが、1位でタスキを受け取れば、ひとりも追い抜くことが出来ません。一方、ひとりも追いぬけなくとも、チームがトップに居る方が良いのは間違いありません。一般的には、「ゴボウ抜き」の無いチームの方が、成績が良いということになるのでしょう。

② 前を走る沢山の選手を抜くためには、ランナーは「走行スピードのアップダウン」を繰り返す必要があります。結果として、追い抜く側のランナーの走行タイムを悪化させる可能性があります。
 縦一直線に前のランナーが並んでいる場合には、そのタイム押し下げ影響は少なくて済むかもしれませんが、前に集団でランナーが居る場合には、その集団に一度追い付いて、周りのランナーの様子を見たうえで再加速するといった走りが必要になります。

 こうしたスピードのアップダウンを伴う走りは、独走でキッチリとタイムを刻む走りより、タイムが悪くなる可能性が高いと思います。さらに、「追い抜く」ことを考えるあまり自身の走りのリズムを悪くしてしまっては、何にもなりません。

 このレースのカロキ選手も区間賞を取ってはいません。区間賞はNTNのワウエル選手でした。そしてワウエル選手は第2区でトップに立ち、3区に繋いでいます。あまり多くの選手と競うことなく、トップで走る方がタイムが速いのかもしれません。カロキ選手がワウエル選手の位置で走れば、もっと良いタイムを出せた可能性があります。

③ 「駅伝競技において順位が重要なのは最終区間だけで、その他の区間では順位よりタイム差の方が重要」であることは明白です。こうした原則がある中で、順位に拘った走りをすると、本来もっとタイムを稼げたはずのランナーが、タイムを失う可能性があることです。
 例えば、集団で残り2㎞に来た時に、その集団で先頭になることに拘ると「ラストスパート勝負」になりやすいのです。自身が最も速く走れる距離、例えば残り400mまで待ってスパートするとすれば、それまでの1,600mは集団内でじっと我慢することになります。これでタイムを失うのです。

 最終区間以外であれば、この「じっと我慢」には意味が無いように見えます。自身の最もタイムを稼げるスピードで2㎞を走り切る方が良いのではないでしょうか。

 集団から、残り400mでスパートし、中継点で5m先行して、集団トップで繋ぐよりも、たとえ集団トップを取ることが出来なくても、2㎞をロングスパートした方が、チームの為になるのです。

 前に選手が居ようが居まいが、自身が任された距離を自身の最速タイムで走り切る方が、チームに貢献できるのですが、とはいえ実際のレースでは、目の前に沢山のランナーが走っていて、自身の調子が良い場合には、「追い抜きたい」と思うのも、無理も無いところです。
 そして、「追い抜くことはランナーにとって大きな喜び」でもあるのでしょう。
 また、「自分は、追い抜くことで良いタイムを出せるタイプだ」という、気合型のランナーも居るのかもしれません。

 しかし、追い抜こうとして追い抜くのではなく、自身に最適なペースで走り、結果として追い抜く方が、自身の区間最速タイムを確保するためには望ましいことのように思います。

 とても難しいことなのでしょうが、普段のトレーニングにおいて「自身の走りのリズムを崩す事無く追い抜く走り方」を身に付けておく必要があるのかもしれません。
 MLBもシーズンオフに入り、日本人プレーヤーのオフの動向やインタビューが時々テレビ放送されます。先日もNHKでイチロー選手のインタビューが放送されました。

 結構長いインタビュー番組でしたから、イチローは様々なことをコメントし、興味深い内容でした。
 その中に、「シーズンが始まると、毎日同じように生活する」というコメントがありました。同じ時刻に起きて、同じ物を食べ、同じウォーミングアップを行うといった内容でした。

 毎日同じ物を食べるのは大変だ、と思ったときに、似たコメントを最近聞いたことを思い出しました。
 それは、歌舞伎役者の市川海老蔵のコメントでした。海老蔵も、公演中は毎日同じ物を食べると言っていました。歌舞伎のひとつの公演は大体25日前後続きますから、25日間同じ物を食べ続けるのです。
 何故と聞かれて、「そうしないと変わってしまうから」と答えていました。演技に影響が出てはならないということでしょうか。

 確かに、毎日同じ仕事をし、同じレベルの高パフォーマンスを提供しなくてはならないのですから、計ったように同じ生活リズムの方が良いようには感じますが、そこまで拘らなくとも良いようにも思います。

 この、私のような凡人から見ると異様にも感じられる拘りは、「食事を変えてしまうと、良くない結果が生ずる怖れがある」ので、予防・念の為にやっていることなのでしょうか。
 それとも、本当に「同じ食事を続けないと、体調などに悪影響がある」のでしょうか。

 私には、後者であるように思えてなりません。イチローほどの最高レベルのプロフェッショナルが、スケジュールはもちろん、食事のメニューまで同じものに拘るのは、「何か有ると怖いから」である筈が無く、実際に影響が有るからなのでしょう。

 海老蔵も、例えば昼食は同じお店に行き「いつもの」と注文するそうです。そうしないと、良い演技が出来ないからなのでしょう。

 イチローは、MLBに挑戦してから10年以上の間年俸10億円以上でした。素晴らしい活躍に見合う収入であり、大変な高給取りだと誰もが感じていたことでしょう。
 しかし、年間162試合のメジャーリーグで、時には20連戦・30連戦の間、毎日同じ生活・食事をし、緊張感を維持しているというのは、我々には想像もつかないことです。
 
 そして、こうした規律を自らに課す人間が、仕事が終わったらストレス解消のため毎日飲みに行くということも考えられないことです。以前のインタビューで、「自宅と練習場と球場」の3箇所を行き来している生活だとコメントしていました。

 「何が楽しくて、生きているのだろう」などと考えてしまいますが、「ベースボールが好き」なのでしょう。頭書の番組でも「やっぱり好きなんでしょうね」と答えていました。好きなことのために、他のあらゆる欲求を制御するのは凄いことですが、逆に言えば「それほどにベースボールが好きだ」とも考えられます。
 どうも、イチローの話になると禅問答のようになってしまうから不思議ですが。

 4,000本安打を始めとするイチローの素晴らしい実績は、その大きな才能、日々のトレーニングや切磋琢磨はもちろんのこと、「生活全般に渡る厳しい規律」をベースにして生まれてくるものであり、その規律の水準は、常人には及びも付かないものなのでしょう。
 日本競馬においては長い間「シンザンを超えろ」というスローガンがありました。前回の東京オリンピックが開催された1964年・昭和39年の三冠馬・シンザン号を超えろ、という意味です。

 シンザンの後、数多のサラブレッドが日本競馬に登場しましたが、シンザンを超えることができたのでしょうか。

1.競走成績
①シンザンの通算競走成績は19戦15勝2着4回です。これは、結構有名な成績です。
②19戦して連対を外さなかったというのは、史上1位の記録です。これに次ぐのが、ダイワスカーレットの12戦連続連対・連対外し無しですから、この点ではシンザンは、いまだに圧倒的な実績を残していることになります。
 シンボリルドルフは、15戦13勝2着1回3着1回6着1回です。返す返すも、1984年のジャパンカップ3着が惜しまれます。
 ディープインパクトは、14戦12勝2着1回失格1回です。

 ルドルフの6着とディープの失格は、海外レースでのものですから、これを除外すると、少なくともディープは日本国内のレースでは13戦して連対を外さなかったということになります。

③シンザンは、当時の牡馬が出走できる平場のG1級レース(皐月賞、日本ダービー、菊花賞、宝塚記念、天皇賞、有馬記念の6レース)を全て勝っています。天皇賞が勝ち抜け制の時代でしたから、天皇賞(秋)に勝利したシンザンは、天皇賞(春)への出走資格がありませんでした。

 当時に比べて、短距離路線、中距離路線、ダート路線とG1レースが増えていますから、「平場のG1レースを全部勝つ」というのは現在では不可能でしょうが、少なくともシンザンは1964年~1965年時点の牡馬G1級レースを全勝しています。当時は前述の6種類のレース以外に平場のG1級レースは存在しなかったのです。

 このこと自体がもの凄いことですが、「シンザンがG1級のレースで不敗であったこと」は並ぶものが無い記録ですし、「この頃は重賞競走自体が少なくて、シンザンの15勝の内5勝がオープン競走であり、2着4回の内3回がオープン競走であったこと」は、シンザンの大レースでの無類の勝負強さを示していると思います。

 ちなみに、ルドルフは天皇賞(秋)2着、ジャパンカップ3着がありますし、ディープには有馬記念2着があります。

④このシンザンの競走成績を明確に凌ぐとすれば、「全勝馬」しか居ないと思います。「クラシックレース優勝実績の有る10勝以上の全勝馬」となると、クリフジ(牝馬)の11戦11勝(1943年の日本ダービー、オークス、菊花賞の変則三冠馬)とトキノミノルの10戦10勝(1951年の皐月賞、日本ダービーの二冠馬)が挙げられます。当然に、全連対です。シンザンの19戦よりは少ないのですけれども。

 このクリフジとトキノミノルは、シンザン以上の成績と観ることも出来ますが、この2頭はシンザン以前の競走馬なのです。「シンザンを超えたか」というテーマには馴染まないかもしれません。

2.種牡馬としての成績
 シンザンは1965年・昭和40年の有馬記念を優勝して現役引退、種牡馬となりましたが、当時は日本競馬がようやく国際化の時代を迎え、海外から優秀な種牡馬が次々と輸入されていた時代ですから、内国産種牡馬(日本で生まれた種牡馬)は極めて冷遇されていました。もちろん、輸入された種牡馬の産駒の方が競走成績が良かったことも事実です。

 こうした時代に、シンザンは種牡馬としても大活躍しました。ほぼ唯一と言ってよい、この時代に活躍した内国産種牡馬でした。
 G1級レースの勝ち馬はミホシンザン(皐月賞、菊花賞、天皇賞(春)の勝ち馬)とミナガワマンナ(同、菊花賞)の2頭。1978年の5位を最高順位として計7回、種牡馬ランキングトップ10入りを果たし、1969年から1992年にかけて「産駒24年連続勝利」の大記録も打ち立てました。この記録は、外国産種牡馬の雄・ノーザンテーストに破られるまで、日本最高記録でした。

 現在では、そもそも「内国産」種牡馬などという概念があまり取り上げられなくなっているほど、内国産種牡馬が大活躍しています。ディープインパクト、ステイゴールド、ハーツクライなどは、いずれも内国産種牡馬ですから、最近競馬を始めた方は「種牡馬というのはそういうもの」とお考えの方も多いと思いますが、ディープインパクト、ステイゴールド、ハーツクライの父はサンデーサイレンスであり、このサンデーサイレンスは史上最高成績の外国産種牡馬なのです。
 つまり、日本競馬において本当の意味で内国産種牡馬の時代が訪れたのは、サンデーサイレンスの子供たちが種牡馬になってからということになります。

 そして、その代表格のディープインパクトは、昨年もG1レース勝ち馬を5頭出していますから、G1レースにおける種牡馬実績においては既にシンザンを超えています。(良い肌馬に恵まれていたかどうかやG1レースの増加などの要因を考慮すると、一概には言えないとの意見も有るとは思いますが)
 今後は、シンザンのように長期間に渡って種牡馬として活躍を続けることが出来るかどうかがポイントとなるでしょう。

3.馬齢
 実は、この項目が最も超えるのが難しいと思います。

 シンザンは、1961年4月に生まれ、1996年7月に没していますから、35歳3ヶ月余の長寿でした。これは生半可な長寿ではなく、現在に至るまで「日本のサラブレッドの最年長寿記録」なのです。

 G1級レースの勝ち馬とか、重賞勝ち馬とかの限定無しで、我が国で生まれた全てのサラブレッドの中で、最も長生きしたのがシンザンというのですから、驚くべき記録です。そのことが分かるというのも、全てのサラブレッドの記録が残されていくという「サラブレッドの宿命」によるものなのですが、これまでに何十万頭*も生産された日本のサラブレッドの中で長寿記録を保持しているのが「三冠馬シンザン」というのですから、何か不思議な感じがします。
 (*1980年代以降の20世紀には、毎年8500頭前後のサラブレッドが生産されていましたし、現在でも毎年7500頭前後が生産されていますから、平均して毎年8000頭として30年間でも24万頭になります。それ以前を含めれば、もっと多いでしょう。)

 また、シンザンが育ち・競走していた時代は、現在とは大きく異なり、カイバ(餌・飼料)の質も悪く、薬や栄養剤も比較にならないほど少なく、治療センターなども現在より遥かに設備の劣るものでした。

 実際、シンザンより少し後の世代であるモンタサン(1966年の朝日杯3歳ステークス勝ち馬)は、1967年の菊花賞直前にカイバに付着していた農薬にあたり激しい下痢と腹痛で出走を断念しています。
 人間と同様?に、食糧事情が良くない時代に育ったシンザンが、ギネス級の長寿記録を保持しているというのは、本当に素晴らしいことだと思います。丈夫で長持ちだったシンザン。「無事これ名馬」とは、こういうことでしょう。

 さて今回は、ここまで「シンザンを超えたか?」をテーマに検討してきました。

 様々な見解が有ることとは思いますが、1~3を考慮すれば、少なくとも「まだ超えてはいない」と思います。(3の馬齢比較については、色々なご意見があると思いますが)

 競走成績を観れば、ディープインパクトがシンザンに匹敵する成績を残していると思いますし、ディープは種牡馬成績でもシンザンを超える成績を残す可能性を秘めていますが、今後を見ていく必要があります。

 シンザンの後、日本で生まれた何十万頭ものサラブレッドが「シンザンを超えろ」とのスローガンの下、挑戦を続けてきました。そして、その結果として日本競馬は世界のビッグレースでも互角に戦えるまでに強くなりました。

 それでも、いまだに「シンザンを超えてはいない」のです。シンザンというのは、凄い馬だったのです。
 フィギュアスケートはスケート競技ですから、スケーティングが大切です。

 当たり前のことを書くようで恐縮ですが、フィギュアスケートにとってスケーティング能力が最も大事な要素であると考えるのです。

 NHK杯2013の男子シングルで7位に入った、アメリカのマックス・アーロン選手の演技を観ていると、改めてその感を強くします。

 アーロン選手のスケーティングのスピードと力強さを観ると、新しいフィギュアスケートが生まれる予感さえするのです。

 アーロン選手は1992年生まれの21歳、2012年の全米選手権優勝者です。身長173㎝のがっしりとした体型が特徴です。実は、アーロン選手は「アイスホッケーの選手」だったのです。アイスホッケーで鍛えた肉体が、フィギュアスケートのリンクに新しい空気を呼び込んでいます。

 ジャンプの時のバネ、バランスを崩した時の復元力、そして何よりスケーティングのスピード・加速力・減速力は群を抜いています。従来のフィギュアスケートでは見られなかったものです。

 アーロン選手は、この大会では細かなミスが目立ち地力を発揮できませんでしたが、全米チャンピオンは常にオリンピックの優勝候補の一角を占めるものです。現在ボストンで開催されている全米選手権で好成績を残しアメリカ代表になれば、ソチでは日本男子フィギュア陣の強敵となることでしょう。

 そして、オリンピックが終了した後は、アーロン選手にはそのスケーティング能力を活かして「新しいフィギュアスケートの形」を探っていただきたいと思います。

 フィギュアスケート一本で来たプレーヤーとは異なる位置に筋肉が付き、絶対筋力も大きいと考えられるプレーヤーですから、「従前の枠」を破って行く可能性が十分にあります。「彼ならではの技」や「繋ぎの型」を発掘し得ると思うのです。

 あのエフゲニー・プルシェンコ選手を超える、「5回転」や「4回転アクセル」、「4回転+4回転」ジャンプといったアスリート系の技をはじめ、芸術表現の面についても、従来の常識では思いもよらぬ変化・進化を呼び込んで欲しいと思うのです。
 中央大学駅伝チームは、箱根駅伝の名門です。1921年の第2回大会に初出場し、爾来出場回数88回は参加校中トップ、何しろ90回の大会の歴史上、88回出場しているのですから、98%近い恐るべき本戦出場率です。そして、優勝回数14回も史上最多です。箱根駅伝の歴史は、中央大学駅伝チームの歴史と言っても良いほどの伝統を誇っているのです。

 東海大学駅伝チームは、中央大学チームに比べると1973年が初出場と遅いので、出場回数は41回と中央に比べれば少ないものの参加校中16位、特筆すべきは初出場の1973年から2012年まで40回連続出場という記録(歴代8位)を保持している点です。東海大学は近時の「箱根駅伝常連校」であったことは間違いありません。

 中央大学チームは、しかし、箱根駅伝2013において「屈辱?の5区棄権」を味わいました。東海大学チームも、2012年大会でシード落ち・2013年の予選会を突破できず、本戦出場を逃すという失態?を演じたのです。
 これだけの実績を残してきた両チームにとっては、大変残念なことであったと思いますし、OB諸氏を始めとする両チームのファンからも、復活に向けての厳しい激励が寄せられたことでしょう。

 そして、両チームは箱根駅伝2014の予選会に臨み、これを突破して本戦出場を果たしました。

 「常連校のノウハウをたっぷり蓄積」している両チームに対しては、本戦での活躍が期待されましたが、東海大学チームが総合13位、中央大学チームが同15位と、ともにシード権獲得に遠く及ばない成績に終わりました。
 シード権獲得までの時間差は、東海が3分9秒、中央が4分という、距離にして1km以上の大差でした。

 私が何より残念だったのは、両チームとも「見せ場が少なかったこと」です。伝統のユニフォームをテレビ画面で見る回数が、とても少なかったのです。両チームの1~10区の区間終了時の順位を並べてみます。

・ 東海 7→12→11→13→9⇒8→7→8→12→13
・ 中央 14→17→17→17→17⇒17→16→16→15→15

 東海チームは、1区、5区、6区、7区、8区ではシード権争いを演じていますが、9区10区で圏外となりました。
 中央チームは、1区で出遅れ、そのまま一度もシード権争いをすることなく終わりました。

 決して両チームの結果を批判しているわけではありません。何故、この両チームほどのノウハウを持つチームが、こうした不満足な結果しか得られなかったのか、を見ているのです。

 「予選会3位通過の東海はともかく、12位とギリギリで通過した中央は、もともと地力が不足していたのではないか」という見方が有るかもしれませんが、それは違うと思います。
 本戦7位の日本大学、9位の拓殖大学、10位の大東文化大学の各チームは、予選会では、8位・9位・6位と上位の成績ではありませんでした。予選会トップ通過の東京農業大学が本戦では14位、4位通過の神奈川大学が本戦は18位となっていますから、予選会の成績と本戦の成績は必ずしもリンクしていないのです。

 こうなると、予選会突破後のトレーニング、コンディショニング、本戦での各ランナーの配置、各ランナーの区間走行戦術等々により、本戦での成績が大きく異なってくることは明らかですが、これらの諸点において中央チームや東海チームには十分なノウハウが蓄積されている筈なのです。それらのノウハウが活かされなかったという事でしょうか。

 東海大学チームと中央大学チームは箱根駅伝2015に向けて、再び予選会に挑戦することとなりました。伝統校が、伝統校に相応しいポジションを回復していくのは、容易なことではないことが、箱根駅伝2014において示された形です。

 箱根駅伝出場に向けての「返り咲き記録」というものがあります。最も長い期間を空けて返り咲いたのは、青山学院大学チームの33年振り出場、続いては東京学芸大学の23年振り、青山学院大学の22年振り、神奈川大学の18年振り、拓殖大学の15年振り、明治大学の14年振り、と続きます。

 どんな伝統校であろうと、一度出場が途切れてしまうと、なかなか復帰できないという面が、箱根駅伝にはあります。

 特に、最近の箱根駅伝人気を考慮すると、新鋭校も出場に向け全力で取組んでいますから、伝統校もうかうかしてはいられないのです。

 「白地に赤のC」と「スカイブルー」のユニフォームは、箱根駅伝には欠かせないものでしょう。名門復活への取組を継続していただきたいと思います。
 2014年の中央競馬は1月5日に開幕しました。最初の重賞は、恒例の中山金杯と京都金杯です。

 中山金杯は、6歳馬のオーシャンブルーが制しました。5番人気で、57.5㎏の最も重い斤量を背負って、直線イン一杯を鋭く伸びた見事なレース振りでした。2012年の金鯱賞以来の重賞2勝目であり、2012年の有馬記念2着馬の実力を示した形です。今後も、中山コースでは眼が離せません。

 京都金杯は、5歳馬のエキストラランドが制しました。6番人気で、馬場の中央をグイッと抜け出した、堂々たるレース振りでした。こちらは初の重賞勝ちです。

 オーシャンブルーの父はステイゴールド、エキストラランドの父はディープインパクトですから、実績十分の種牡馬です。ステイゴールドにとってもディープインパクトにとっても、今年はお正月から縁起が良いというところでしょうか。

 ところで、オーシャンブルーの鞍上はフランシス・ベリー騎手、エキストラランドはクリストフ・ルメール騎手でした。

 ベリー騎手は、今年から中央競馬に本格参戦した、アイルランド出身の騎手です。33歳という脂の乗り切った年齢での挑戦です。

 C・ルメール騎手は、中央競馬でお馴染みのフランスの騎手です。2005年有馬記念ハーツクライ、2008年ジャパンカップ・ダートのカネヒキリ、エリザベス女王杯のリトルアマポーラ、2009年ジャパンカップのウオッカ、2013年ジャパンカップ・ダートのペルシャザールなどのG1レース勝ちがあります。そういえば、2013年の京都金杯もダノンシャークで制していました。

 年頭を飾る東西の重賞レースを、外国人騎手騎乗馬が制したのは、決して偶然ではないでしょう。
 どちらの馬も1・2番人気ではありませんでしたから、本命・対抗といった馬に乗ったわけではないのです。5・6番人気という中位人気場に跨り、キッチリとその実力を引き出しました。

 2つのレースに共通しているのは、コース取りの上手さと、騎乗フォームの美しさでしょう。

 オーシャンブルーはイン一杯を、エキストラランドは馬場中央を抜けてきたのですが、前の馬が邪魔になっている様子は全くありませんでした。馬場状態、レースの流れ、自馬の特性・調子を按配して、コース取りをしたのでしょうが、「本当に上手い」という感じでした。特に、オーシャンブルーは、あのコースでなければゴール前でカルドブレッサ、ディサイファ他の外を回った多数の馬達に差し切られて、8着辺りの順位だったことでしょう。
 ベリー騎手の見事な判断でした。

 そして、ベリー・ルメール両騎手の騎乗フォームは、とても素晴らしいものでした。馬への当たりが柔らかく、負担にならない乗り方であったと思います。

 昔、現在の福永祐一騎手の父上、福永洋一騎手は、その騎乗の上手さから「馬にとって斤量が2~3㎏軽く感じられる乗り方」と言われました。確かに、やや力不足かなと思われる馬を、2・3着に持ってくる腕は、素晴らしいものであったと思います。
 頭の位置が動かない美しいモンキー乗り、加えて前後の重心位置を自在・微妙に調整しながらの騎乗姿は、惚れ惚れするものでした。「天才・福永」の名をほしいままにした名騎手でした。

 東西の金杯2014をベリー・ルメールの両騎手が制するのを見た時、あの福永洋一騎手を思い出しました。

 レース展開の読み・コース取りが上手く、騎乗そのものも上手いのですから、今年もルメール騎手やベリー騎手を始めとする外国人騎手の活躍が続くことでしょう。
 NFL2013~2014のレギュラーシーズンにおいて、成績上位のチームには勝利し、成績下位のチームには星を落とすという不思議なプレーを展開しながら、プレーオフに進出したインディアナポリス・コルツが、ワイルドカード・プレーオフで、一層不思議な勝利を上げました。

 今季プレーオフシリーズの緒戦、ワイルドカード・プレーオフは2014年1月5日から始まりました。
 AFCのインディアナポリス・コルツ(南地区優勝:第4シード)とカンザスシティ・チーフス(西地区2位:第5シード)のゲームは、コルツのホーム・ルーカスオイルスタジアムで行われ、コルツが45-44のスコアでチーフスを破りました。

 このゲームは、チーフスの一方的な展開で始まりました。
 チーフスクオーターバックQBアレックス・スミスのパスが自在に決まり、第2クオーターQまでに3本のタッチダウンTDパスを通して、チーフスが31-10とリード。
 第3Q残り13分40秒に、QBスミスからランニングバックRBナイル・テービスへのTDパスが決まり、38-10と、チーフスがリードを28点に広げた時には「さすがにチーフスの勝利だろう」と思われました。
 コルツQBアンドリュー・ラックは、ここまでに2つのインターセプトを受けていましたので、コルツは攻守ともに良くないゲームを見せていたのです。

 しかし、コルツはここから猛反撃に転じます。
 それまで中々決まらなかったラックのパスが息を吹き返します。これはもう、不思議なほどに通るようになったのです。
 第3Qの残りの時間で、コルツは3TDを上げて31-41と10点差に詰め寄り、最終の第4Qに入りました。

 ここで、ミラクルなプレーがコルツに生まれます。チーフスゴール前5ヤード位のコルツの攻撃、QBラックはRBブラウンにボールを渡し、ランプレーを狙いましたが、RBブラウンがこれをファンブル!
 このファンブルしたボールが、QBラックの前に転がり、ラックはこれを拾い上げて、真っ直ぐに走りダイブ、オフェンスラインの上を飛び越えチーフスゴールに入りました。TDです。
 「自軍のファンブルから生まれたタッチダウン」ということになります。

 ファンブルボールが、偶然にQBラックの目の前に、取りやすいバウンドで転がって来たと言う、「ターンオーバーのピンチがタッチダウンのチャンスに変わった」プレーでした。何と言う幸運でしょうか。
 コルツは38-41と3点差まで追い上げます。
 
 チーフスにとっては「嫌な感じ」になってきましたから、QBスミスを中心に懸命に攻めます。しかし、前半あれだけ上手く行っていたオフェンスが、今度は中々決まりません。なんとかフィールドゴールFGで3点を加え、44-38と6点差にしました。
 とはいえ6点差のリードとは、アメリカンフットボールにとっては1ポゼッション差、1TDで逆転できる差です。コルツにとって、逆転のチャンスであることに、変わりはありません。

 そして、第4Q残り5分で、QBラックからワイドレシーバーWRヒルトンへの64ヤードのTDパスが決まり、ついに45-44とコルツが逆転しました。何か信じられないような逆転劇でした。

 FGの3点で再逆転できることから、残りの5分間チーフスは懸命に攻め続けますが、ライン際のパスが「両足フィールド内に残っていなかった」プレーなどで、ついにFGを蹴る位置にさえ前進できず、ゲームは終了しました。

 45-44、両チームあわせて89点という点の取り合い。
 コルツQBアンドリューラックは443ヤードを投げ4TD、一方のチーフスQBアレックス・スミスも378ヤードを投げ4TDと、QB対決は互角のゲインでしたが、ラックは3つのインターセプトを受けていますから、スミスの方が上回っていたといえます。

 チーフス側から見ると、獲得513ヤードと攻撃陣は大活躍したのですが、失ったヤードが536ヤードと、守備陣はコルツの攻撃を止められなかったことが解ります。
 この536マイナス513の23ヤード分が1点差負けに結びついているのですから、得失点とは本当に正直なものだと、改めて感じます。

 チーフスにとっては、試合開始早々のエースRBジャマール・チャールズの故障発生・離脱も痛かったのですが、より痛かったのは守備陣のコーナーバックCBブランドン・フラワーズ、ラインバッカーLBジャスティン・ヒューストンといった中心選手が次々と試合中にリタイヤしていったことが、ゲーム後半におけるディフェンスの崩壊を招いたことになります。

 それにしても、ゲームを分けたキープレーを選ぶとすれば、第4Qの「ファンブル→タッチダウン」ということになるでしょうから、コルツそしてアンドリュー・ラックの強運を感ぜざるを得ません。

 一発勝負のプレーオフ・ゲームにおいては、こうした「ミラクルな強運」がとても大切なのです。

 デンバー・ブロンコスのQBペイトン・マニングとニューヨーク・ジャイアンツのQBイーライ・マニングは兄弟プレーヤーです。NFLにおける評価は、お兄さんのペイトンの方が相当上回っています。4度のシーズンMVPは史上最多です。

 しかし、スーパーボール制覇回数で見ると、イーライが2度、ペイトンが1度なのです。イーライ・マニング+ジャイアンツは、プレーオフ・ゲームにおいて、時折ミラクルなプレーを魅せます。パスレシーバーが右肩からフィールドに倒れこみながら、ヘルメットと左手の間でボールを確保したパス成功など、イーライのパスはプレーオフ・ゲームで奇跡を再三起こしてきました。

 そして、そのイーライ・マニングのミラクルに似た雰囲気を、アンドリュー・ラックのプレーから感じるのです。

 2年目を向かえ、すっかり逞しくなったQBアンドリュー・ラック。キャリアにおける、プレーオフでのミラクルな活躍が始まったばかりだとしたら、今季スーパーボールに向けて、コルツがダークホースとなる可能性は十分です。
 2014年の初場所・1月場所は、1月12日から東京両国・国技館で始まります。注目点が多い今場所ですが、恒例により活躍が注目される10名の幕内力士を挙げます。

1. 横綱・大関
 横綱は、やはり白鵬を挙げます。日馬富士は、先場所14勝1敗で優勝しました。昨年の成績でも、白鵬が優勝4回、日馬富士が優勝2回ということですから、優勝の可能性という意味では、両横綱ともに十分といえます。
 とはいえ、注目力士を選定するとすれば安定感を重視する必要があります。調子が良くなくとも13勝できる白鵬を外すわけには、行かないでしょう。

 大関では、文句無く稀勢の里でしょう。先場所両横綱を破り、日馬富士には本場所5連勝中というのですから、地力は十分です。「綱取り」の場所でもありますから、序盤の取りこぼしが無ければ気合満天の終盤を迎えることになります。
 久々の日本出身力士の優勝にも期待して、稀勢の里を押します。

2. 三役以下の力士
① 栃煌山(西小結)
 先場所は、7勝8敗と負け越しました。相変わらず「強い時と弱い時の落差が大きい」力士ですが、何番か不運な取組もあったと思います。相当不調でも、三役で7番勝てる力が付いていると見ます。
 そろそろ大関昇進の足がかりを造らなければなりません。今場所は、二桁勝利を期待しています。

② 遠藤(西10枚目)
 先場所は、6勝9敗と負け越しましたが、これは怪我の影響でしょう。怪我が相当回復し、幕の内の雰囲気にも慣れた今場所は、二桁勝利を期待します。

③ 高安(東9枚目)
 先場所は、東3枚目で3勝12敗と大きく負け越しました。家賃が高かったことも有るのでしょうが、何しろ相撲内容が悪かった。おそらく、怪我・故障が原因であろうと思います。
 怪我・故障が相当改善していれば、この番付ならば大勝が期待できます。

④ 玉鷲(東6枚目)
 先場所「左からのおっつけ」をものにして、相撲が変わりました。番付は上がりましたが、まだ横綱・大関と当たる番数は少ないと思いますので、十分に勝ち越し出来ると思います。

⑤ 琴欧州(西関脇)
 大関復帰をかける場所です。故障が完治していれば、気相乗りから見て10勝が期待されますが、回復度合いがわかりませんので、この位置にしました。

⑥ 大砂嵐(東16枚目)
 まだまだ相撲を覚えていない感じの取組が続きますが、「腕力に物を言わせて取る力士」が減ってしまいましたので、幕の内の水に慣れてきたとすれば、大いに期待できます。

⑦ 千代大龍(東2枚目)
 はたく・引く相撲から、押し出す相撲に転換中の千代大龍です。強力な上位陣が相手ですが、調子に乗ればこの番付でも十分二桁勝てる力士です。

⑧ 勢(西2枚目)
 右からの攻め一本だったものが、先場所から左からの攻めが加わりました。もともと気迫十分の相撲を見せます。高い人気・大きな声援を背景に、この番付でどこまでやれるか、とても楽しみです。

 今場所は、以上の10力士に注目します。

 「稀勢の里の綱取り」と「琴欧州の大関復帰」をキーに動いて行く場所でしょう。また、上位力士の序盤での休場などがあれば、大きな変動要因となります。

 いずれにしても、久しぶりに日本出身力士の優勝を観てみたいと思います。
 昨年の12月12日に行われた、MLBの2013年ウインター・ミーティングにおける「ルール5ドラフト」で、テキサス・レンジャーズがコロラド・ロッキーズのマイナー契約プレーヤー(大学時代に指名を受け契約=現在もロッキーズの支配選手)であるラッセル・ウィルソン選手を指名しました。

 このラッセル・ウィルソン選手はNFLの有名プレーヤーです。現在NFLシアトル・シーホークスのエースクオーターバックQBとして大活躍、チームも2013~2014年レギュラーシーズンを終えてNFC1位シードを獲得しプレーオフに進出しています。

 この話を日本のプロスポーツに例えると、サッカーJリーグ・セレッソ大阪の柿谷曜一朗選手を、プロ野球NPBの日本ハムファイターズが指名したような感じでしょうか。肌感覚としてはピンと来ない話です。

 話を戻します。 

 こうしたNFL超一流プレーヤーを、MLBのチームが敢然と指名するというのは、いかにもアメリカらしい事象ではありますが、いまひとつテキサス・レンジャーズの狙いが分からないのが不思議なところです。もちろん、本気でラッセル・ウィルソンにMLBでベースボールをやってもらおうと考えてのことではあると思いますが、ウィルソンがNFLプレーヤーを辞めるとも思えませんので、「二刀流」期待の指名ということなのでしょうか。

 日本ではプロ野球の日本ハム・大谷選手の野手・投手の二刀流続行が話題になっていますが、アメリカではアメリカンフットボールとベースボールの二刀流選手が時々現れます。

 この二刀流選手として近時最も有名なのは、ディオン・サンダース選手でしょう。詳しく書くと長くなりますから簡記します。

 ディオン・サンダース選手
・ NFLのアトランタ・ファルコンズ(1989年~93年)やダラス・カウボーイズ(1995年~99年)などのチームでコーナーバックCBなどとして活躍しました。
・ MLBのニューヨーク・ヤンキース(1989年~90年)やアトランタ・ブレーブス(1991年~94年)などで外野手として活躍しました。

 どちらもメジャープレーヤーとしての活躍で、成績としてはNFLの方がより良く、最優秀守備選手1回、スーパーボール優勝2回、プロボウル出場8といった超一流の成績を残しました。
 1991年には、同じ日にNFLアトランタ・ファルコンズでマイアミ・ドルフィンズ戦に出場した後、MLBアトランタ・ブレーブスでピッツバーグ・パイレーツ戦(ナショナルリーグ・チャンピオンシップゲーム)に出場、移動はヘリコプターという離れ業を演じています。

 ディオン・サンダース選手は、NFL・MLBの両方で一流プレーヤーであり、同日に両方のゲームに出場もしていたのです。もの凄いことです。

 もちろん、MLBとNFLはシーズンの時期が異なりますから、前述のような同日ゲームが存在するのは、秋10月、つまりMLBはプレーオフゲームでNFLはシーズン序盤の時期に限られるのですが、だからといって春・夏・秋はMLB、秋・冬はNFLなどと簡単に割り切れるものではないでしょう。
 休息やトレーニング期間も無く、1年中メジャーなプロスポーツ、それも世界最高峰のMLBとNFLのゲームに出続けるなどというのは、考えられないことです。その考えられないことをやってしまうプレーヤーが時折出現するというのも、アメリカならではなのかもしれません。

 さて、MLBテキサス・レンジャーズが、ラッセル・ウィルソンにディオン・サンダースのような二刀流を期待して指名したのか、ラッセル・ウィルソンがそれを受けて、NFLのプレーオフ終了後、テキサスの練習やゲームに登場するのか、とてもとても興味深いところです。

 来年のスプリングトレーニングで、ラッセル・ウィルソン選手の姿をダルビッシュ有選手の隣に見ることが出来るのでしょうか。

 第93回全国高等学校ラグビーフットボール大会・準決勝第2試合は、2014年1月5日、桐蔭学園vs大阪桐蔭のカードで行われ、桐蔭学園が43-0で勝ち、1月7日の決勝戦に進出しました。

 スコアを見ると桐蔭学園の一方的なゲームですが、試合内容は僅差であったと思います。実力伯仲の両チームの間に、これだけ大差がついた理由を考えてみました。

① 桐蔭学園プレーヤーの「もがき」が功を奏したこと。
 現代ラグビーは、ディフェンス技術の進歩が著しいため、ボールを持ったプレーヤーが独走するというシーンは中々見られません。このゲームでも、ボールを保持した桐蔭学園の選手が走り出すと、すぐに大阪桐蔭の選手がタックルに入ります。そこで、桐蔭学園の選手は一度止まるのですが、そこからの「もがき」で1~2m前進します。
 
 この「もがき」には、捕まってから両足を動かし続けて全身を図るタイプや、体を左右に動かしながら進む形など、色々なタイプがあるようですが、桐蔭学園の選手は皆、この努力を続け、これが相当な確率で功を奏して、桐蔭学園チームは前進を続けるのです。

 アメリカンフットボールで言えば「セカンドエフォート」と呼ばれるプレーであり、個々のプレーヤーの努力の賜物です。

 桐蔭学園と大阪桐蔭のプレーヤーの体格はほぼ互角、フォワードの大きさなら大阪桐蔭が上回っていたと感じましたが、プレーにおいては桐蔭学園の選手が「なかなか止まらない」のに対して、大阪桐蔭の選手は概ね止められていました。
 ひとりひとりのプレーヤーとっては、たった1~2mの+αですが、それが連続して実行されると、一連のプレーとしては10m以上の違いになります。

 この小さな差が、大きな得点差に結び付いたと思います。

② ボールへの集散スピードで勝っていたこと。
 桐蔭学園チームのボールキープ率の高さは際立っていました。①で前進したボールを生かし続けるのです。ボールを保持するプレーヤーには必ず1~2人のプレーヤーがフォローしていました。これは、おそらく当たり前のプレーなのでしょうが、その当たり前のプレーもこれだけ忠実・正確に行われると、大きな威力を発揮するのでしょう。
 ターンオーバーを得意とする大阪桐蔭の各プレーヤーも、その力を中々発揮できませんでした。

 結果としての桐蔭学園大勝の要因は、以上の2点であると思いますが、どちらのプレーも普段の練習の賜物であることは、間違いないでしょう。

 「もがき」による前進も、文字通り「ただ、もがいている」のではなく、コンタクトしてきた相手プレーヤーの位置・形・バランスを瞬時に判断して、的確な対応を行っていたように観えました。
 「集散」については、言うまでも無く、シチュエーションに合わせた体制が取られていました。

 桐蔭学園フィフティーン全員の見事な「個のプレー」と「連係プレー」が見られたゲームでしたが、特に目に付いたのは13番の白井吾士矛選手でした。相手のタックルを受けると、一瞬スピードを落として間を取り振り切るという、不思議な?プレーを再三見せました。「捕まった時の独特の対応」ということですが、一瞬スローモーションの様に感じられる動きは、おそらく天性のものでしょう。
 
 相手チームの守備網に引っ掛かってしまうことが多い現代ラグビーにおいては、こうした動き・プレーが有効なのでしょう。バックスプレーヤーとして、白井選手の今後の活躍が期待されます。

 モール、ラック、そして様々なコンタクトプレーにおいて、高校ラグビーの進化を魅せてくれた、とても面白いゲームでした。
 青山学院大学駅伝チームは、箱根駅伝2014で総合5位と健闘しました。大学史上最高成績タイ記録でした。
 そして、当然ながら来年のシード権も獲得しました。これで5大会連続のシード獲得です。

 オールドファンならご存知の方も居ると思いますが、青山学院チームを箱根で見ることが出来ない期間が長く続いたのです。
 1976年の第52回大会ゴール前150mでアンカーのランナーが倒れ、意識がありませんでした。途中棄権となったのですが、これ以降ビビッドグリーンのユニフォームは箱根駅伝から消えたのです。

 そして5年前、85回記念大会で青学は予選会を突破し33年振りに箱根に帰ってきました。本当に久しぶりでした。
この大会では22位と、棄権した大学を除けば最下位に終わりましたが、再び予選会を勝ち抜き、第86回大会にも出場、8位と健闘、見事にシード権を獲得しました。
 以降、87回大会9位、88回大会5位、89回大会8位、今年の90回大会5位と、5大会連続のシード権獲得を果たしたのです。これは素晴らしいことです。

 第86回大会から89回大会までの4年間、青山学院には出岐雄大選手という大砲が在学していました。復活した青学チームを引っ張る存在だったのです。

 この出岐選手が卒業した今大会で、青学チームがどのような走りを見せるのか、注目していました。
 見事なレース振りでした。

 往路で5位と健闘し、6区山下りで6位に後退しましたが、9区10区で5位に順位を上げてゴールしました。その安定したレース振りを見た時に「ついに青山学院は、箱根のシード校常連になった」と感じました。

 箱根駅伝で、5年連続シード権を保持するのは容易なことではありません。スター選手無しでも5位という立派な成績を残した青学チームには、地力が付いていると思います。

 就任10年目を迎えた原晋監督を始めとするスタッフの皆さんが、「青山学院の箱根駅伝」を再興し、そして定着させていったのでしょう。選手の皆さんとともに、そのご努力に大きな拍手を送りたいと思います。

 現在では、ビビッドグリーンのユニフォームに憧れて、青山学院大学陸上競技部の門を叩く学生も多いのではないでしょうか。
 来年以降も、箱根駅伝における青山学院大学駅伝チームの大活躍が続きそうです。
 箱根駅伝2014で、早稲田大学駅伝チームは総合4位に入りました。大健闘であったと思います。

 私の予想では、9~10位、シード権を争うだろうと見ていました。早稲田は、世代交代の時期を迎えていて、タイムを稼げるのは第1区の大迫傑選手のみであり、大迫選手が稼いだタイムを、続く9人のランナーがどこまで守れるかがポイントだろうと考えていたのです。

 1区のスタートから大迫選手は先頭に立って走りますが、スピードが上がりません。最初の1㎞を2分40秒を少し超えたタイムで通過した時には「大迫選手は不調だ」と思いました。大迫選手の力からすれば、2分30~35秒で走っていかなければなりません。
 昨年の全日本大学駅伝の際にも、走りにキレが無く、スピードが出ませんでしたから、不調ではないかと感じていましたが、本番の箱根でも調子は戻っていませんでした。

 5㎞の通過も14分40秒前後と、少し力の有るランナーであれば楽に付いて行けるタイムです。「大迫で大量リードを」と目論んだ早稲田チームの狙いは、早々に外れてしまいました。
 結局、大迫選手は1区5番目の成績で2区に繋ぎました。「早稲田のシード権は危うい」と思いました。総合12~13位であろうと、この時点では思いました。

 そして、2区の競走が始まりました。駒澤の村山謙太選手や東洋の服部勇馬選手、山梨学院のエノック・オムワンバ選手らに注目して見ていると、早稲田の高田康暉選手が良い走りを見せています。体の上下動が少なく、相応のストライドを確保している、安定感十分の走りです。「これは、結構行けるかも」と感じました。
 箱根初出場の高田選手でしたので、失礼ながらそう感じたのです。

 オムワンバ選手が疲労骨折で棄権し、村山選手が両脚痙攣のような様子でスピードが上がらない中、高田選手の冷静なランニングが続きます。残り5㎞を切ってからは「素晴らしい走りだ」と思いました。
 結局、高田選手は2区の区間賞を取りました。正直に言って、思いもよらぬ快走でした。この快走により、早稲田は3位に順位を上げたのです。

 高田選手から襷を受けた3区の武田凜太郎選手は1年生。早稲田実業高校を卒業したルーキーです。もちろん箱根初出場。
 しかし、とても冷静な走りを見せました。さすがに4区への中継点手前3㎞位からは疲労の色が濃かったのですが、よく粘り、走り切りました。個人の区間成績は5位でしたが、早稲田の3位を維持して4区に繋いだのです。ルーキーとしては、見事な走りだと思います。

 武田選手から襷を受けた4.区の平和真選手も1年生、箱根初出場です。2区間連続のルーキーという布陣ですが、現在の戦力からして止むを得ないのだろうと思いましたが、この平選手のランニングがまた素晴らしいものでした。高田選手・武田選手と同様に、極めて冷静な走りです。慌てた様子も力みも一切感じられないベテランのような走り。ルーキーとしてのフレッシュな体の動きに、冷静さがプラスされれば、当然タイムが出ます。
 平選手は、区間2位の快走でした。

 この辺りで「この大会の早稲田大学は、コンディショニングに成功した」と感じました。各ランナーの動きがとても良かった上に、精神面の落ち着きも共通していました。体調と精神的な落ち着きは連動していることが多いのです。
 ひょっとすると、早稲田は予想を超える成績を残すかもしれないと思いました。

 平選手から襷を受けた5区の高橋広夢選手も、良い走りを展開しました。区間順位こそ12位でしたが、区間トップの東洋・設楽啓太選手とのタイム差は3分31秒。伝統的に山登りが苦手な早稲田にとっては、よく粘った走りでチームの3位を守ったのです。この数年の5区を走った早稲田ランナーの中では、最も安定した走りであったと感じます。

 往路3位というのは、7位か8位であろうという私の事前予想を遥かに上回るものでした。2~5区の各選手が、自身の実力をキチンと発揮していました。最近の早稲田チームとしては最も上手く走れていたように見えました。
 事前の調整方法を見直したのか、新しいコーチを迎えたのであろうと思います。
 これなら、大砲不在の復路にも十分期待できると感じました。

 思った通り、6区の2年生三浦雅裕選手も区間2位の好走。この区間でトップだった明治の廣瀬大貴選手と下りの走りでは互角以上でした。函嶺洞門を過ぎて、平地に来てからはさすがにバテましたが、今後のトレーニング次第では、6区のスペシャリストとして早稲田チームに大いに貢献できる選手でしょう。

 7区の2年生柳利幸選手も派手さは無いがしっかりとした走りを見せて、区間5位の好走でした。「良いランナーだ」と思いました。

 8区の1年生井戸浩貴選手もキッチリと走ります。7区8区の走りは、渡辺康幸監督の期待に見事に応えるものであったと感じます。1年生2年生に良いランナーが育っているということでしょう。

 9区の3年生田口大貴選手も良く走り、区間7位の好走でした。この区間では、日体大の矢野圭吾選手が快走を見せ、早稲田チームとしては4位に下がりましたが、これは矢野選手の快走を褒めるべきでしょう。

 アンカーの2年生中村信一郎選手もしっかり走り切りました。区間10位という安定した走りであり、大崩れするような雰囲気は全く感じられませんでした。

 早稲田チームは、2区高田選手の区間賞の快走をベースに、おのおののランナーが「しっかりとした駅伝」を実行しました。
 個人区間順位では、5区が12位と最も低い成績でしたが、それでもトップの選手から3分半差で粘り切りましたし、7区では1分、8区9区では2分、10区では2分半と、区間順位よりも重要な「区間賞ランナーとのタイム差」を最小限に止めたのです。
 これが箱根駅伝2014における早稲田大学好成績の原動力でした。

 スター選手は少なくとも、チーム全員がキッチリとした走りを見せ、ブレーキとなる選手を生まないという、「まさに駅伝というレース」を魅せてくれました。渡辺監督や関係者、そして選手の皆さんのご努力が実を結んだのでしょう。

 第1回箱根駅伝の参加校4校の一角を占める伝統校の早稲田大学ですが、何か新しい走りを示してくれたように感じます。
 来年以降の早稲田大学駅伝チームの走りが、とても楽しみです。
プロフィール

カエサルjr

Author:カエサルjr
「スポーツを考える-KaZ」ブログへ
ようこそ!
我が家の月下美人も16年目。同時に30個の花が咲くこともあります。スポーツも花盛りですね。一緒に楽しみましょう。

最新記事
最新コメント
検索フォーム
ブロとも申請フォーム
QRコード
QR

Page Top
CALENDaR 12345678910111213141516171819202122232425262728293031