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 イギリス・グラスゴーで開催された、2017年のバドミントン世界選手権・女子ダブルス決勝で、福島由紀・広田彩花ペアが準優勝に輝きました。

 8月26日に行われた準決勝で、リオデジャネイロ・オリンピック銀メダルペアのデンマークペアを破った、福島・広田ペアは、8月27日に行われた決勝で、陳・賈の中国ペアには、1-2で惜しくも敗れました。

 とはいえ、初出場での準優勝は見事な記録であり、世界選手権大会においては、1977年の第1回大会の栂野尾・植野ペア以来の(この時は優勝)決勝進出を果たしたのです。

 陳・賈ペアは準決勝で、日本期待の高橋礼華・松本美佐紀のオリンピック・金メダルペアも破っています。今大会は、日本チームにとっては厚い壁となった形ですが、そもそも準決勝に2つのペアが進出すること自体が、日本女子バドミントン勢の層の厚さを如実に示しています。
 素晴らしいことだと思います。

 今大会は、男子ダブルスでも、園田啓悟・嘉村健士ペアが3位に入りました。
 ひとつの世界選手権大会で、女子シングルスの奥原選手も含めて4つのメダルを獲得したのですから、本当に見事な活躍です。

 日本バドミントン界は、着実に世界のトップを捉えつつあるのでしょう。
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 イギリス・グラスゴーで開催された、2017年のバドミントン世界選手権大会の女子シングルスで、奥原希望選手が優勝しました。
 男女のシングルス種目で、オリンピック・世界選手権を通じて日本勢が優勝したのは、史上初めてです。

 「快挙」です。

 8月27日に行われた決勝で、奥原選手はインドのプサルラ選手と対戦し、ゲームカウント1-1のタイで迎えた第3ゲームを22-20で取り、2-1で優勝を決めたのです。
 プサルラ選手が取った第2ゲームも22-20でした。大接戦だったのです。

 奥原選手は、昨年のリオデジャネイロ・オリンピックの準決勝でプサルラ選手に敗れて銅メダルでしたから、今回は雪辱を果たしたということになります。

 何より素晴らしいのは、こうした世界トップクラスのプレーヤーと、世界トップの舞台で互角に戦い、勝利を捥ぎ取ったことでしょう。

 第2ゲームから第3ゲームにかけては、終始ギリギリの戦いが続きました。技術・体力はもちろんとして、高いレベルの精神力も求められる試合となったのです。

 試合後のインタビューで、奥原選手は「どんなに相手にリードされても我慢して焦らずにできたと思う」とコメントしました。

 成長を続ける、22歳の奥原選手の今後の活躍が、とても楽しみです。
 熱戦が続いた夏の甲子園2017の観客動員数は83万人近くに達し、10年連続で「80万人越え」となったことが報じられました。

 夏の甲子園大会における1大会の最多観客数記録は、1990年の92万9千人です。

 その後、サッカー人気に押されたこともあってか、1996年には64万5千人まで急減しました。
 確かに、20世紀末頃の大会では、地元チームが登場する試合以外は空席が目立っていました。
 スポーツとしての「野球」自体の人気が下がっていったのと並行する動きのように見えたものです。

 ところが21世紀に入って、高校野球人気は息を吹き返しました。
 2006年のハンカチ王子・斎藤祐樹投手とマー君・田中将大投手の投げ合いの頃から客足が戻り始め、2008年から2017年まで10年連続の80万人越えとなっているのです。

 1990年頃の多くの観客動員と現在の観客動員の中身・要因は、異なるように感じます。

 現在は、所謂「団塊の世代」がリタイアし、ようやく「子供の頃やっていた野球」を球場でゆっくりと観ることが出来るようになったことが、大きな理由なのではないでしょうか。

 私の住まいの近くにも野球場が有り、そこで甲子園大会の地方予選や中学校、小学校の試合など、様々なゲームが行われます。
 その観客席には、当然ながら選手のご家族や生徒といった「関係者」が目立ちますが、関係者の横には近所のお年寄り、60歳代から70歳代の男性が相当数見守っています。一部には、奥様と一緒に来ている姿もあります。
 午前中早くから、観客席は賑わっているのです。

 一度球場で、生の試合を観てしまうと、その面白さに「嵌る」のはよく分かります。
 加えて、プロ野球が開催されるような主要な球場ではありませんから、入場料が安価というか、タダという場合も多いのでしょう。

 甲子園大会の地方大会ともなれば、相当に日差しが強く、暑い試合も多いのですが、麦わら帽子などをかぶりサングラスをして、水筒持参で来場し、贔屓のチームを応援しているのです。

 これが、甲子園球場の近くにお住まいの方ともなれば、聖地・甲子園に毎日足を運びたくなるのも道理です。

 こうした観客が増えているとすれば、これからしばらくの間、夏の甲子園大会は観客80万人越えが続くのでしょう。

 子供の頃、野原や空き地で草野球に熱中した世代にとって、高校野球を、ゆっくりと、生で観戦するのは、相当に「幸せ」なことなのです。
[8月25日]
ロサンゼルス・ドジャーズ3-1ミルウォーキー・ブリュワーズ

 先発した前田投手が好投を魅せました。
 6イニング・84球を投げて、被安打1、与四死球2、奪三振7、1失点は、唯一の被安打であるドミンゴ・サンタナ選手に浴びたホームランでした。

 もともとコントロールの良い投手ですが、この日はストレートが走っていましたので、自在の投球が出来ました。
 球速も153kmという、自身のMLBにおける最速、ひょっとするとNPBも含めてキャリア最速のストレートを投じていたのではないかと思います。

 そのストレートを、主に「高目の釣り球」に使いながら、変化球で打者を料理するというクレバーな投球を繰り広げました。
 クレバーな投球と言っても、投球に一定の「威力」が必要なことは言うまでも無いことです。

 例えば、ストライクコースから「ボールひとつ分」外した、コントロール抜群の投球であっても、スピード・威力共に不足しているなら、MLBの打者なら簡単に安打にすることでしょう。「ボールの出し入れ」以前の問題なのです。

 この日の前田投手の投球には、「MLBで戦って行くために十分な威力」が感じられました。
 「12勝」というのも立派な成績です。
 前田健太投手の今後の大活躍を予感させます。

 8月25日~27日の3ゲームは、MLBのプレーヤーズ・ウィークエンドです。
 各プレーヤーが、自らの「あだ名」を、背番号の上に表記したユニフォームでプレーするのです。
 あだ名が表示されるユニフォーム自体も、普段使っているものよりカラフルです。とても華やかと言うか、浮き浮きするような雰囲気がボールパークを覆っているのです。

 MLBも色々な企画を考えるものだと感心しますが、このウィークエンドは少年野球のイベントと連動しているものだそうです。
 少年野球とMLBのコラボというのは、いかにも「将来のファン」を確保するために有効な施策でしょう。

 思わぬ副産物もあります。あのニューヨーク・ヤンキースのプレーヤー達も「あだ名」を背負うのです。プレーヤー名を背番号の上に表示するのが一般的になったMLBにおいても、ヤンキースは「頑なに?」名前を表示していません。
 そのヤンキースでも、プレーヤーズ・ウィークエンドばかりは、背中にあだ名を表示するのです。ヤンキースファンにとっては、贔屓の選手達の「滅多に観られない」貴重な姿なのです。ちなみに田中将大投手は「MASA」と表示されているそうです。
 ヤンキースは、メジャーリーグの中でも、最もメジャーな球団のひとつですから、MLBファンの間でも注目されているのではないかと思います。

 この日の、前田健太投手のあだ名は「MAEKEN」でした。
 NPB広島カープ時代のあだ名を、そのまま使用した形です。

 このゲームの投球を観ると、アメリカ中のMLBファンが前田選手を「MAEKEN」と呼ぶ日が来る可能性が十分に有ると感じました。
 
 国際舞台におけるポーランドサッカーの現時点までのピークといえば、1974年ワールドカップ・西ドイツ大会の3位であろうと思います。

 この時のポーランドチームは、グジェゴシ・ラトー選手やロベルト・ガドハ選手を擁して、まずはグループリーグGL4組でアルゼンチンやイタリアと同組みながら、3戦3勝で1位通過を果たしました。
 アルゼンチンを3-2で下し、イタリアを2-1で下したのです。

 2次リーグに入ってもポーランドチームの勢いは衰えず、スウェーデン、ユーゴスラビアを連破しましたが、開催国西ドイツチームと同じB組だったことが不運だった形で、西ドイツに0-1で敗れ、B組2位となり3位決定戦に回りました。
 3位決定戦では、ブラジルを1-0で破ったのです。

 とても強かったポーランドチームですが、この時「ルバンスキーが健在ならば・・・」と感じていたサッカーファンは多かったことでしょう。

 ワールドカップ西ドイツ大会の得点王であったラトー選手らを含めても、ポーランドサッカー史上最高のプレーヤーと呼ばれているのが、ルバンスキー選手なのです。

 1947年生まれのルバンスキー選手は、1963年16歳の若さでポーランド代表入りを果たし、目覚ましい活躍を魅せました。
 1972年のミュンヘン・オリンピック優勝という大成果を母国に齎したのです。

 そして1974年のワールドカップ・西ドイツ大会の予選を戦っていた1973年6月、対戦相手のプレーヤーの危険なタックルに遇って骨折してしまいました。
 
 2年後、この骨折から帰ってきたルバンスキー選手でしたが、残念ながら往時の輝きを取り戻すことは出来ませんでした。

 ポーランドリーグのグールニク・ザブジェを中心とするクラブチームでは520試合に出場して278得点、代表チームでは75試合に出場して48得点、計595試合で326得点という、素晴らしい記録を残しています。

 この記録も凄いものですが、ルバンスキーを語るとき、多くのサッカーファンはそのプレーの質の高さを絶賛します。
 凄まじいシュートの威力、ゲームマネジメントの巧みさ・・・。それはもう、ほれぼれするようなプレーヤーであったと称賛され続けているのです。

 1974年ワールドカップの優勝チーム・西ドイツは、世界サッカー史上最強のチームのひとつと評価されています。
 その最強チームに、2次リーグで0-1、ゲルト・ミュラー選手の得点で敗れたポーランドチームにルバンスキー選手が居たら、と考えるのは見果てぬ夢なのでしょう。

 ヴォジミエシュ・ルバンスキー選手を思う時、「危険な(悪質な)タックル」というのは絶対に有ってはならないと、いつも感じるのです。
 第99回全国高等学校野球選手権大会は「打の大会」となりました。

 好打者が犇めいた大会でしたが、とても印象的だった3選手を挙げたいと思います。

 ひとり目は、花咲徳栄高校の3番西川選手です。
 「バッティングセンスの塊」と呼ぶにふさわしいプレーヤーでしょう。
 軟らかいスイングから、自在にバットを操ります。何よりタイミングの良さが抜群です。
 まだ細身の体躯であり、パワー面では伸びしろが大きいので、今後の成長がとても楽しみです。
 進路については情報が少ないので分かりませんが、プロに行くとすれば、大打者になる可能性が十分に有ると感じます。

 ふたり目は、広陵高校の3番中村選手です。
 1大会6本塁打という新記録を樹立しました。あの清原選手の記録を破る打者が登場するとは、思いもよりませんでした。
 「インパクトの強さ・長さ」が印象的なプレーヤーです。「これ程に打てる捕手」というのは、近時なかなかいませんので、貴重な存在なのでしょう。
 ここぞというシーンでの勝負強さ、集中力の高さも素晴らしいものでした。

 三人目は東海大菅生高校の遊撃手田中選手です。
 その守備プレーは、本当に見事でした。東海大菅生の試合では、恐縮ながら、相手チームの打球がショートに数多く飛んでほしいとさえ思いました。打球への反応、球際の上手さ、送球の強さと正確性、何より「送球の球筋」が素晴らしいと思います。
 ワンプレー毎に、唸りながら観ていました。
 
 もちろん、甲子園大会は全国の高校生プレーヤーから選りすぐられた、ハイレベルなショートストップが勢揃いするのですけれども、その中でも田中選手のプレーは秀逸でした。
 日本プロ野球はもちろんとして、MLBでそのプレーを観てみたいと感じました。

 例年のことながら、甲子園大会は素晴らしいアスリートが集う大会なのです。
 FIFAワールドカップ優勝4回を誇るサッカー大国ドイツですが、初優勝は1954年のスイス大会でした。
 この頃のドイツは第二次世界大戦敗戦の痛手も大きいうえに、サッカー新興国とも呼ばれていたと伝えられています。ヨーロッパサッカーといえばイタリアと、ワールドカップには出場していないもののサッカー発祥国としてのイングランドが中心の時代だったのです。

 まだまだワールドカップを制するのは難しいと言われていたドイツに、「優勝」を呼び込んだプレーヤーが、マックス・モーロック選手でした。

 1925年5月にニュルンベルクに生を受けたモーロック選手は、1940年に1FCニュルンベルクに入団しプロプレーヤーとしてのキャリアをスタートしました。(弱冠15歳)

 ブンデスリーガ(1963年開始)発足以前のドイツサッカー界において、モーロック選手は約900試合に出場し、約700点を挙げたと伝えられています。ドイツサッカーが地域リーグの集合体であった頃のことですから、正確な記録が無いのでしょうが、それにしても「生涯700ゴール」というのは凄い数字です。

 1FCニュルンベルクは、1948年と1961年にドイツ選手権(各地域リーグの優勝チームによるトーナメント戦。ドイツNO.1チームを決める大会)に優勝していますが、マックス・モーロック選手はこの優勝に大きく貢献したのです。

 そして何より、ドイツ代表チームにおける活躍は特筆に値します。

 1950年に代表デビューを果たし、1954年のワールドカップ・スイス大会にも代表メンバーとして出場しました。

 この大会は、第二次世界大戦で敗戦国となったドイツが、戦後初めて西ドイツとして復帰した大会でもありました。(日本もこの大会からワールドカップに復帰し、予選を戦っています。西ドイツチームは見事に予選を勝ち抜いて本戦に駒を進めたのです)

 グループリーグGLの2組でドイツチームはハンガリーチームに次いで2位となって、決勝トーナメント(8チームによる)進出しました。
 決勝トーナメントの緒戦でユーゴスラビアチームを2-0で破ったドイツチームは、ベスト4・準決勝に進出、オーストリアチームを6-1で撃破して決勝に進出、決勝はハンガリーチームとの対戦となりました。

 この頃のハンガリーチームはハンガリー史上最強の、そして当時世界最強と呼ばれ、「マジックマジャール」と称されたチームでした。(GL2組でハンガリーが1位、ドイツが2位でも何の不思議もないというか、当然だと見られていました)

 ハンガリーチームは、この大会でも優勝候補の筆頭でしたし、「ワールドカップ無敗」を誇っていたウルグアイチーム(第1回大会と第4回大会の優勝チームであり、第2回と第3回は本戦に出場していなかった)との準決勝は事実上の決勝ともいわれました。

 両強豪チームによる準決勝は、延長の末4-2でハンガリーが勝ちました。プスカシュ選手やコチシュ選手を擁するハンガリーチームは、優勝候補として決勝に進出してきたのです。

 このハンガリーチームを、ドイツチームは3-2で下しました。
 前半、ハンガリーに2-0とリードを許した直後の10分、モーロック選手がゴールを挙げて1点差とした西ドイツは、その後ラーン選手の2得点で逆転したのです。

 マックス・モーロック選手はGLや準決勝でも得点しています。
 エースとしての存在感を示したのです。

 マックス・モーロック選手は、戦後のドイツサッカー復活の象徴的存在なのです。
 開催国イギリスチームの健闘が目立った大会でした。

 特にリレー種目では、素晴らしい強さを示しました。

・男子4×100mリレー 1位 37秒47
・女子4×100mリレー 2位 42秒12
・男子4×400mリレー 3位 2分59秒00
・女子4×400mリレー 2位 3分25秒00

 リレー4種目で、金1・銀2・銅1の計4個のメダル獲得というのですから、見事な戦い振りです。

① レースを走り切る力

 リレーは4人で走り、バトンパスがあり、マイルリレーならランナー同士の接触もありますから、無事にゴールインすることも、それほど容易なことではありません。

 今大会でも、ジャマイカチームはランナーの故障発症によりゴールインできないレースが、複数ありましたし、バトンを落としてしまうチームも複数出ました。

 イギリスチームは、4種目すべてにおいて「無事にゴールイン」したのです。
 「安定感十分」なレースマネジメントでした。種々のリスクを勘案すれば、相当ハイレベルな運営でしょう。

② バトンパスの巧みさ

 これはもう、間違いなく今大会NO.1です。

 男女の4×100mリレー決勝のバトンパスは、「芸術的」ですらありました。

 走ってきたランナーのスピードを落とすことなく、これから走るランナーがトップスピードになったところでバトンを受け渡すのが理想的なバトンパスですが、イギリスチームはこれに加えて、「各ランナーの走りのバランスを崩さない」パスが出来ていました。

 ひとりひとりのランナーのランニングフォームや、体格差、加速の形等々の要素を考慮した上で、それぞれのゾーンにおけるバトンパスが研究され、実行に移されていたのではないでしょうか。
 もちろん、各ランナーの走りやすいコース取りと、チームとして最短距離、最短の400mを走り切るための位置取りも、考慮され実行されていたのでしょう。

 そうでなければ、男女を通じて、個人種目の100m競走の決勝に残ったのは、ブリスコット選手唯ひとり(男子100m決勝で7位)というイギリスチームが、金メダルと銀メダルを獲得することは出来ないと思います。

 当然ながら、4×400mリレーにおけるバトンパスも秀逸でした。
 疲労困憊の状態でバトンゾーンに入ってくるランナーから、なるべく早く、なるべく自身は加速して、バトンを受け取るのが、マイルリレーのバトンパスですが、イギリスチームのバトンパスは、「優しく正確に」が堅持されていました。
 加えて、他チームとの接触に対しても、十分に配慮されていたと感じます。

 4Kと同様にイチロクにおいても、バトンパス時のランニングバランスが綺麗に維持されていました。
 イチロクのバトンパスにおいても、細部に渡って高いノウハウが構築され、実行されていたのではないでしょうか。

③ 走力の向上

 前述のように「世界一のバトンパス」を具備していたとしても、相応の走力無しには、全種目でのメダル獲得はおぼつきません。

 各ランナーの走力強化も、着実に実行されていたのです。

 例えば、男子短距離陣について見れば、100m競走の準決勝に3名のランナーが進出しています。(決勝に進出したのは、前述のように1名です)
 200mの準決勝にも3名のランナーが進出しました。(決勝にはミッチェルブレイク選手1名が進出しています)
 4×100mリレーメンバーの検討には、十分なランナーが揃っていたのです。

 同様に、女子短距離陣も、100mの準決勝に3名が進出し、200m準決勝に2名が進出しています。
 こちらもリレーを組むのに、十分な陣容です。

 男子400mの準決勝に2名が進出し、同400mハードルの準決勝にも1名が進出しています。
 女子400mの準決勝にも1名が、同400mハードルの準決勝にも2名が進出していたのです。
 4×400mリレーのメンバーを構成することも、十分にできる陣容です。

 今大会のリレー種目におけるイギリスチームの強さの源は、「短距離種目における走力の底上げ」であったことは、間違いありません。

 今大会は、「個人短距離種目の準決勝に進出できる走力を保持するランナーを4名揃え」、「バトンパス技術を磨けば」、世界選手権大会のリレー種目の優勝が狙えることを、イギリスチームが証明して魅せた大会だったのです。
[8月23日・決勝]
花咲徳栄14-4広陵

 第99回全国高等学校野球選手権大会は、史上最多68本塁打が乱舞する大会でした。

 そして、ビッグイニングが毎日のように観られる大会でした。1イニングに5点、6点といった大量点が入るシーンが頻発したのです。

 「勢い」に乗ったチームが試合を制するケースが多い大会でもありました。
 彼我の力量差と言うより、その試合における「勢い」が勝敗を分けたように感じられます。

 決勝戦も、両校の試合に入ってからの「勢い」の違いが勝負を決めたように見えます。

 1回の表、3番西川選手のタイムリーヒットで2点を先制した花咲徳栄が、5回に集中打で6得点、6回に4得点を加えて、試合を決めました。
 こうしたビッグイニングによく観られるように、広陵守備陣のミスが火に油を注いだ格好です。

 決勝戦前の花咲徳栄高校と広陵高校の地力は、「互角」だったのでしょう。
 共に、好打者・好投手を揃え、決勝戦に相応しいカードとなったのです。

 試合における安打数も、16本対13本と大きな差はありません。
 しかし、スコアは14-4と10点差の大差ゲームでした。

 もちろん、ここぞいう局面での好打・好投・好守が得失点を分けたのですけれども、「勢い」に乗って「試合の流れ」を掴んだのは、花咲徳栄だったということでしょう。
 昔から言われていることですけれども、「試合の流れ」というのは怖いものです。

 花咲徳栄の優勝は、埼玉県勢初の選手権制覇でもありました。

 多数の優勝校を輩出している関東地方各都県に在って、強豪校も多数ある埼玉県から、夏の甲子園大会優勝校が出ていないのは、とても不思議なことでした。
 夏の甲子園大会「最大の不思議」と言っても良かったのではないでしょうか。

 1年中屋外で野球をすることができ、人口も多く高校野球選手数も全国屈指、強豪校犇めく関東地方ですから高いレベルの練習試合の相手にも事欠かない、という恵まれた環境にある埼玉県勢が夏の全国制覇を成し遂げていなかったのですから。

 しかし、今大会の花咲徳栄高校チームの優勝により、この「呪縛」から逃れたことも間違いないでしょう。
 今後の甲子園大会における埼玉県勢の活躍が、とても楽しみです。

 広陵高校チームにとっては、とても残念な試合となりました。
 「試合の流れ」をついに掴むことなく、ゲームセットを迎えてしまったのです。
 前述の通り、地力は互角であったと感じます。

 準決勝までの「打ち合いゲームの連続」を観るにつけ、決勝は比較的点の入らない試合になるのではないか、4-3・5-3といったスコアのゲームになるのではないかと予想していましたが、見事に外れました。

 2017年夏の甲子園大会は、まさに「打ち合いの大会」だったのです。
 まず先輩格のイチロー選手(フロリダ・マーリンズ)が、フィラデルフィア・フィリーズとのゲームの7回に代打で登場し、右中間スタンドに3ランホームランを叩き込みました。
 今シーズンの第3号です。
 チームも12-8で勝利しましたから、イチロー選手の3ランは大きな価値がありました。

 それにしても、近年は1シーズン1本塁打が続いていたのですが、出場機会が減った2017年シーズンは既に3号というのですから、少し驚かされます。
 飛距離も132mと報じられています。よく飛んでいるのです。
 まさか、今季はホームランを狙っているわけではないのでしょうけれども・・・。

 続いてトロント・ブルージェイズの青木選手。
 タンパベイ・レイズ戦に1番で先発出場し、先頭打者ホームランを放ちました。
 先発・フル出場というのが一番嬉しいことなのですけれども、そこに先頭打者ホームランとなれば、喜びも倍増です。
 但し、こちらはチームが敗れてしまった(5-6)ところが、我流点睛を欠くところです。

 最後はヤンキースの田中投手。
 右肩炎症によるDL(故障者リスト)からの復帰登板で7イニングを投げて被安打6・3失点で9勝目を挙げました。(10敗)チームは13-4で快勝です。
 やはり、先発投手にとっては、味方打線の援護が何よりなのでしょう。

 この日に、ロサンゼルス・ドジャーズのダルビッシュ投手の登板が無かった(腰の張りでDL入り中)のが少し残念ですが、とにもかくにも、2017年8月22日は日本人プレーヤーにとって、とても良い日だったのです。
 
 世界大会における短距離競走、特に100mと200mは、本来「接戦」となるべき種目です。

 世界のトップスプリンターが自らの技とパワーを磨き、世界一を決めるレースに臨むのですから、大きな差は付かないはずなのです。

 かつては、100m競走なら「50cmは大差」と言われていました。
 
 ところが、カール・ルイス選手が登場したころからでしょうか、男女を通じて「大会の中心選手」「スーパースター」が登場するようになり、100m・200mでも1位と2位に大きな差、1m以上という「大差」が付いてしまうレースが増えました。

 ウサイン・ボルト選手の2008年北京オリンピックのレースでは、残り20m辺りからボルト選手は他のランナーを見ながら、上半身を横に向けて悠々とゴールインしましたし、2009年ベルリンの時には3~4mの差を付けて9秒58という驚異的な世界新記録をマークしました。

 これらは「ウサイン・ボルトの圧倒的な強さ」を示す事例ですから、何の問題も無いものですけれども、所謂陸上競技短距離の世界大会としては「異例のシーン」だったという見方もあるのでしょぅ。

 今大会は、その「異例のシーン」が観られませんでした。
 普通の(変な言い方で恐縮です)世界一決定レースだったのです。

 男子100mは、優勝したガトリン選手が9秒92、2位のコールマン選手との差は0.02秒、3位のボルト選手と0.03秒と、1/100秒単位の勝負でした。

 女子100mも、優勝したボウイ選手のタイムは10秒85、2位のタルー選手との差は0.01秒の僅差でした。

 男子200mは、優勝したグリエフ選手のタイムが20秒11、2位のバンニーキルク選手、3位のリチャーズ選手との差は0.02秒、2位と3位は1/100秒未満の差でした。

 女子200mも、優勝したシパーズ選手が22秒05、2位のタルー選手との差は0.03秒だったのです。

 大差がつくことが多かった、近時の世界大会短距離種目が、突如?通常の様子になった感があります。
 言い方は良くないかもしれませんが、「本来の形」のレースになったのではないでしょうか。(良し悪しを言っているのではありません)

 世界陸上2017ロンドン大会は、短距離種目についていえば、「力量が図抜けたランナーが居なかった大会」ということになるのでしょう。

 私は、カール・ルイス選手やマイケル・ジョンソン選手、ウサイン・ボルト選手といったスーパースターの存在も大好きですが、研ぎ澄まされた感性と技術を持って1/100秒を争う、「世界最高峰の大接戦」も、たまらなく好きなのです。

 こうした「大接戦」は、スタートの1歩目からゴールの1歩までドラマがあります。
 レース映像を何度見直しても、新しい発見があるのです。

 さて、東京オリンピック2020の短距離種目は、「スーバスター型」になるのか「大接戦型」になるのか、これからの3年間がとても興味深いところです。
 甲子園大会は準々決勝が一番面白い・・・と、昔から言われ続けてきました。

 これは、準々決勝4試合が1日で行われるときに言われるフレーズです。
 その大会で優勝するチームを必ず眼にすることができるという理由もあるのでしょうが、何より既に複数の試合を戦い勝利を収め、勢いに乗っているチーム同士の試合を、4試合も観戦できるからなのでしょう。

 そして、2017年夏の大会は8月20日に、その4試合が行われたのです。

① 一方的な試合

・第一試合 東海大菅生9-1三本松
・第二試合 天理13-9明豊
・第三試合 広陵10-4仙台育英
・第四試合 花咲徳栄10-1盛岡大付

 4試合とも、一方的な展開となりました。
 もちろん、得点差が一方的だったといっても、試合内容も一方的だったことにはならないのですが、野球が「得点を争う競技」である以上、得失点差が勝負の傾向を表すのは当然のことで、敗れたチームにとっては至極残念なことですけれども、2017年の準々決勝4試合は全て一方的なゲームとなったのです。意外に珍しいことかもしれません。

 第二試合の明豊、第三試合の仙台育英、は共に最終回に猛反撃を魅せましたけれども、時すでに遅しの感は否めませんでした。

② 「先制点」の重み

 4試合とも、先制したチームが勝利を収めました。
 東海大菅生高校は1回裏に3点、天理高校は1回表に6点、広陵高校は1回表に3点と、いずれも1回に2点以上の得点を先制し、その後の試合を優位に進めました。
 花咲徳栄高校は2回表に1点を先制し、2回裏には盛岡大付属高校にすぐに追いつかれたのですけれども、その後毎回のように得点を重ねて、押し切りました。

 高校野球に限らず、野球という競技では、そして野球に限らずサッカーにおいても、やはり「先制点は重い」ものなのでしょう。

 2017年夏の大会のように、1イニングで5得点や6得点は珍しいものでは無いという雰囲気の大会でも、やはり「逆転勝ちは難しい」ことが明示された準々決勝4試合でした。

 準決勝2ゲームにおいても、先制したチーム、特に1回表裏に2点以上を先制したチームが、相当に有利になることは間違いないのでしょう。
[8月8日・男子3000m障害決勝]
1位 キプルト(ケニア) 8分14秒12
2位 エルバカリ(モロッコ) 8分14秒49
3位 ジャガー(アメリカ) 8分15秒53

[8月11日・女子3000m障害決勝]
1位 コバーン(アメリカ) 9分2秒58
2位 フレリクス(アメリカ) 9分3秒77
3位 ジェプケモイ(ケニア) 9分4秒03

 8月11日の女子決勝を観て、アメリカチームのコバーン選手とフレリクス選手のラスト200mの強さに感心しました。

 3000m障害種目といえば、アフリカの各チーム、特にケニアチームの独壇場という種目でしたから、アメリカチームの活躍はとても新鮮でした。

 そういえば、男子でも銅メダルを獲得していたことに気が付きました。

 そうなると「何か理由がある筈」と考えました。

 世界陸上2017はロンドンで開催されましたが、気温が低く、涼しい大会となりました。
 決勝が行われる時間帯では、10℃から15℃という水準でしたから、ケニアやエチオピアのランナーにとっては「寒すぎる気候」だったのかと思いましたが、1500m、5000mや10000mでは、従来通り?ケニアチームやエチオピアチームを中心としたレースとなっていましたので、気候の問題ではなさそうです。

 そうなると、3000m障害種目のアメリカチームが強くなったということになります。

 これは凄いことです。

 アメリカチームに「3000m障害の良いコーチ」が加わったと考えるのが、最も合理的なのでしょう。
 おそらく2~3年前に、有力なコーチが加わり、効果的な強化が実行されたのでしょう。

 また、アメリカのランナーがこの種目にしっかりと取り組み始めたというのも、興味深いところです。
 「陸上競技王国」アメリカといっても、3000m障害はメジャーな種目では無かったと思いますが、現在ではキチンとした体制が出来ているのです。そうでなければ、世界陸上のメダルを複数の選手が獲得することは出来ないでしょう。

 ケニアチームの3選手を振り切って、最終障害を飛び越え、ゴールを目指すアメリカチームの2選手の姿は、とても印象的なものでした。
 8月11日に行われた女子100mハードル予選第2組で、日本の木村文子選手が13秒15のタイムで4着に入り、準決勝進出を果たしました。

 日本のランナーが世界選手権のこの種目で準決勝に進出するのは史上初めてです。

 男子以上に「世界との差が大きい」と言われている女子短距離種目で、準決勝に進んだことは「快挙」でしょう。
 
 同日の準決勝第2組に木村選手は登場しました。
 一番内側の2コース。
 綺麗なスタートから滑らかなハードリングを見せて、3コースのランナーと競り合いました。9台目のハードル辺りから、やや力みが見えましたが、大きな失速も無く、そのままゴールしました。
 8着でしたけれども、「力は発揮できた」と感じます。堂々たるプレーだったのです。

 100mHは、「ハードル間の3歩の俊敏性」と「ハードリングの技術」で争われますので、日本人ランナーにも十分にチャンスが有る種目だと思います。

 木村選手は、この種目のパイオニアとして、準決勝走破で得た様々なノウハウ、世界最高レベルのレースの在り様等々を、我が国に持ち帰っていただけることでしょう。

 とても大きなお土産なのです。
[8月19日・大会11日目]
盛岡大付12-7済美

 5回の攻防において、99回の大会の歴史上初のシーンが観られました。

 5回表盛岡大付属高校は、2-2の同点として、満塁で6番の小林選手が打席に入りました。
 小柄な二塁手の小林選手ですから、ヒットが期待される場面でしたが、高々と放った打球はレフトスタンドに跳ねました。
 満塁ホームラン!
 ホームランが多い今大会でも、初の満塁弾でした。

 5回裏、2-6と4点のリードを許した済美高校は満塁と攻め立て、打席には5番の吉岡選手。ここは2点でも3点でも返しておきたいところでしたが、低めの変化球をジャストミートした打球はバックスクリーンに飛び込みました。
 満塁ホームラン!

 1試合2満塁ホームランは、大会史上初めてのことですが、その2本が、5回の表裏に飛び出したのです。凄いとしか言いようがない攻防でした。
 試合は6-6の振り出しに戻ったのです。

 済美高校は7回裏、宇都宮選手のレフトスタンドへのホームランで7-6と勝ち越しました。

 9回の表を迎えて、さしみの「打ち合い」もここまでかと思いましたが、盛岡大付3番の植田選手が左中間にホームランを叩き込みました。
 
 ホームランでリードされた1点を、ホームランで追い付くという、凄まじい展開となったのです。

 10回表盛岡大付は1点を挙げて8-7とリードしました。
 これで10回裏の攻防となるのが「普通の延長戦」でしょう。
 ところが、ランナーを2人置いて3番の植田選手が、2打席連続・2イニング連続のホームランを放ったのです。
 センターバックスクリーンの深部に叩き込む、とても大きなホームランでした。

 試合前、両チームの監督が「7、8点勝負」「8-7、9-8で勝利したい」といった「打ち合いの展開」を予想していました。
 そして、試合はその通りの展開となり、9点を超える得点を挙げた盛岡大付が勝利したのです。

 そもそも「9-8の試合を予想すること」も異例な感じがしますが、その通りの展開となるのですから凄いものです。

 両チーム合わせて5本のホームランが飛び出し、満塁ホームランが2本。
 第99回大会を象徴する試合だったのでしょう。
 
 クラブチームや代表チームのプレーヤーとして、489試合に出場して425ゴールを挙げ、イングランドサッカー史上最多得点を誇るのが、ディキシー・ディーン選手です。

 1907年、バーケンヘッドという港町に生まれ、1923年から1939年までプレーしました。
 そして、1980年に73歳で没しています。

 ディーン選手が活躍した時代は、第2次世界大戦前の時期ですが、特にエヴァートンFCのフォワードFWプレーヤーとして輝きました。
 エヴァートンFCにおいて399試合に出場して349ゴールを挙げ、2度のイングランド1部リーグの優勝に大貢献したのです。

 得意なプレーは「ヘディング」だと伝えられています。
 身長178cmは、当時としてもそれ程長身プレーヤーでは無かったと思いますが、ヘディングシュートの威力、スピードとパワーが際立っていたと言われています。
 試合球よりも「重いボール」を使ってのトレーニングの賜物だったのかもしれません。

 ディーン選手の425得点は、イングランドサッカー史上の圧倒的な記録だと思います。
 
 例えば、現在のイングランドの代表的なFWウェイン・ルーニー選手は現時点で221得点、1990年代を代表するFWアラン・シアラー選手は326得点なのです。
 ちなみに、大好きなミッドフィールダーMF、攻撃的なMFのフランク・ランパード選手は231得点です。MFとしては凄いゴール数だと思いますが、ディーン選手には及びません。

 ディキシー・ディーン選手は、1927年から1928年のイングランド1部リーグで60得点という驚異的な記録を残しました。これは1シーズンのイングランド記録であるとともに、欧州の主要なリーグ全てを含めてもNO.1の記録だと思います。

 また、イングランド代表として16試合に出場し18ゴールを挙げています。
 1試合1ゴール以上の活躍なのです。

 得点力不足が叫ばれて久しいイングランド代表チームにとっては、「ディキシー・ディーンの再来」と呼ばれるプレーヤーの登場が待たれるところなのでしょう。
[8月10日・男子200m決勝]
1位 グリエフ 20秒09
2位 バンニーキルク 20秒11
3位 リチャーズ 20秒11
4位 ミッチェルブレイク 20秒24
5位 ウェブ 20秒26
6位 マクワラ 20秒44
7位 アブデルハキーム 20秒63
8位 ヤング 20秒64

 男子200mは大混戦となりました。
 記録的にはやや物足りない決勝となりましたが、見所の多いレースであったと感じます。

① トルコのグリエフ選手が優勝

 200mという走路全体を、最も「バランス良く」走り切ったグリエフ選手が勝ちました。
 スタートから、とても滑らかなコーナリング。もう少し加速できそうに見えましたが、後半の走りにエネルギーを残したのでしょうか、8分の力で走っているようでした。
 結果として力みの無い走りとなったのです。

 グリエフ選手は直線に入ってもバランスを崩す事無く、ゴールまでそのランニングを継続しました。

 ゴールでは、バンニーキルク選手、リチャーズ選手と接戦となりましたが、すくっと立ったグリエフ選手のフォームが印象的でした。

② 走り過ぎであったかバンニーキルク選手

 400mと200mの2冠を目指すランナーにとっては「宿命」なのでしょうが、6日連続のレースとなったバンニーキルク選手は、僅かに及びませんでした。

 究極の「無酸素運動」と言われる400mを3本走り、200mも3本走るのですから、その疲労度は大きなものでしょう。

 予選や準決勝でエネルギーを温存するためのレースを行うという点では、バンニーキルク選手はとても上手なのですけれども、それでも今大会では勝ち切れませんでした。
 全体のレベルが確実に上がっているのでしょう。

③ トルコ、南アフリカ、トリニダート・トバゴ

 今大会のメダリストの出身国名です。

 アメリカの名前が無い上に、所謂陸上大国の名前もありません。
 世界の陸上競技地図は、大きく変わっているのでしょう。

④ サニブラウン・アブデルハキーム選手の健闘

 久しぶりに日本のランナーが決勝に進みました。

 準決勝では、リラックスした走りで堂々の2位通過でした。

 決勝は、サニブラウン選手の特徴である4コーナーから直線に出る20mの走りに、いつもの加速がありませんでした。
 この大会5本目という疲労蓄積と、ハムストリングスの故障が影響したのでしょうか。

 世界選手権大会の決勝で走ったという経験を、今後の成長の糧にしていただきたいと思います。

 圧倒的な30mの加速では無く、「200mをバランスよく走る」ことで頂点に立ったグリエフ選手の走りは、「短距離競走における技術の重要性」を改めて感じさせてくれるものでした。
[8月17日・大会9日目第一試合・2回戦]
広陵6-1秀岳館

 強豪同士の対戦は、広陵高校に軍配が上がりました。

 甲子園3大会連続ベスト4の秀岳館高校と「出てくれば強い」広陵高校の対戦でしたが、2回戦で当たるには「もったいない」という戦前評通りの好ゲームとなりました。

 1回表裏から両チームがランナーを二塁に進めるなど、両チームの打線が襲い掛かりましたが、秀岳館の川端、広陵の平本、両先発投手が丁寧な投球を続け、「あと一本」を許さない展開となりました。
 また、2回表の広陵の攻撃、秀岳館の竹輪中堅手の捕殺など、バックの好守も随所に見られました。まさに好ゲームとなったのです。

 4回表に暴投から、広陵が1点を先制しました。この試合では、ところどころでエラーもありましたが、「ギリギリのプレー」から生まれたエラーが多かったと感じます。
 「1点を巡るギリギリのプレー」というのは、昔?の甲子園大会ではよく見られたシーンです。

 5回裏、秀岳館の8番打者、幸地選手がレフトスタンドに本塁打を放ち、試合は1-1の同点となりました。
 これは、本塁打が珍しいものでは無くなった?現代の甲子園大会のシーンとも取れますが、こうした同点ホームランは、かつての甲子園大会でも時折眼にしたものです。

 忘れもしない1979年夏の甲子園、簑島VS星稜の試合、延長18回の末、簑島高校が勝利した試合。球史に残る激戦でした。
 この時、既に社会人だった私は、仕事を終えて、友人と共に職場近くの喫茶店に入りました。テレビが設置されていて、甲子園大会を観戦できるお店です。

 丁度9回を終えて延長戦に入るところでした。簑島と星稜の試合はその日の第4試合だったのです。
 まさか、それから、1杯のアイスコーヒーで、9イニングを観戦することになろうとは、想像もしませんでした。

 この試合で、延長に入ってから、先攻の星稜は2度リードし、その裏後攻の簑島は2度追いつきましたが、これが2度ともソロホームランによるものだったと記憶しています。
 まさに、信じられないような展開だったのです。
 つまり、現在と比べればホームランが少なかった、昔の甲子園大会でも、同点ホームランというのは時折見られたのです。

 従って、今大会この試合の幸地選手の同点ホームランは、甲子園大会の「今でもあり昔でもある」のでしょう。

 1-1の同点の試合は7回表に動きます。

 1死2・3塁から広陵の平元選手(投手)がスクイズを決めたのです。結果として「投手前安打」とはなりましたが、まさにスクイズでした。
 スクイズは、かつての甲子園における常套戦術でした。
 スクイズプレーを巡って、どれほどのドラマが生まれたことでしょう。

 この回広陵は、相手のエラーで2点目も挙げて、3-1とリードしました。

 大接戦の試合は、広陵高校に大きく傾いたのです。

 そして9回表、1死2・3塁チャンスで、広陵の3番・中村選手が3ランホームランを放ちました。試合を決める強烈な一発でした。
 これはもう、間違いなく現代の甲子園大会のシーンでした。
 2試合連続3本目のホームランというのは、かつての甲子園では、まず見られないものでしたが、今大会では複数選手が成し遂げています。
 「ホームランが常態化した高校野球」のシーンなのです。

 広陵高校は、緒戦で中京大中京高校を破り、2回戦で秀岳館高校との接戦を制しました。
 強敵を連破したのです。

 甲子園の名門・広陵高校にとっても、初の夏・全国制覇の絶好のチャンスが訪れたことになります。
[8月11日・女子200m決勝]
1位 シパーズ 22秒05
2位 タルー 22秒08
3位 ミラー 22秒15
4位 アッシャー・スミス 22秒22
5位 スティーブンス 22秒44
6位 ダンカン 22秒59

オランダのダフネ・シパーズ選手が世界選手権2連覇を達成しました。

 179cmと長身のシパーズ選手ですがコーナリングはとても上手く、このレースでも4コーナーで先頭、2番手に約1mのリードを取りました。ライバルと目されていたミラー選手とは2.5m程の差が有ったでしょうか。

 残り50mからタルー選手が追い上げ、残り10mではシパーズ選手を追い越したかに見えましたが、ここでシパーズ選手がもう一度スピードを上げて、ほとんど並んだところがゴールラインでした。大接戦だったのです。
 ミラー選手の追い上げも1m届きませんでした。

 シパーズ選手はこの大会の100mでも3位に入っています。現在の女子スプリント界を代表するランナーなのです。
 特に、「安定感」が持ち味でしょう。調子の上下が小さいタイプであろうと思います。

 安定しているという意味では、銀メダルのマリージョゼ・タルー選手には悔しい大会となりました。
 100mではトリイ・ボウイ選手に僅か1/100秒差で2位、そして200mは3/100秒差で2位だったのです。
 どちらのレースも「タルー選手が勝った」ようにも観える、とても微妙な勝負でした。
 コートジボワールの女性スプリンターとして、今後の世界大会での活躍が期待されるところです。

 3位のショーナ・ミラー選手にとっては、「不完全燃焼」の大会となりました。
 400mのゴール前50mでの突然の失速から、いまひとつ調子が出ない大会となってしまいました。
 いずれにしても伸長著しいバハマ女子スプリント陣の代表格として、今後の活躍が期待されるところです。

 オランダ、コートジボワール、バハマ、このレースでも上位は所謂「陸上短距離強豪国」では無い国のランナーが占める結果となりました。
 アメリカのみならずジャマイカチームもメダルには届きませんでした。

 スプリント界の裾野は、確実に広がっているのでしょう。
 
 8月10日~13日にかけて、アメリカ・ノースカロライナ州シャーロットのクウェイルホローを舞台に行われた、2017年の全米プロ無選手権大会で、松山英樹選手は最終日首位でスタートするなど、優勝争いを演じましたが、サンデーバックナインで失速し、5位タイに終わりました。

 2日目に64打のラウンドを披露して、一気にトップグループに躍り出て、最終日は首位と1打差の2位でスタートし、前半一時トップに立った時には、前週の世界ゴルフ選手権大会優勝の勢いが感じられましたから、今回こそはメジャー大会制覇の夢が広がりましたけれども、惜しくも成らなかったのです。

 最終日のラウンド後のインタビューで、珍しく涙を見せていました。
 余程、悔しかったのでしょう。

 印象的なコメントが有りました。

 (今回の敗戦の経験を次に生かしたい、といった質問に対して)
 「これを経験したからといって克服できるものではないと思うが、場数が増えていけば、それだけチャンスが増えるということだと思う。その1回が(優勝に)当たるように、もっとチャンスを増やしたい」とコメントしたのです。

 何と冷静なコメントでしょう。

 そして、世界のトップで戦い続けているプレーヤーならではの言葉だと感じます。

 メジャートーナメント出場回数を増やしたからといって、勝利を掴めるものでは無いということ、経験の積み上げでは優勝できるものではないと、松山選手は言っています。

 一方で、「トライの回数」=優勝を狙える位置での最終日のラウンドを増やすことで、チャンスは来るとも言っています。

 その通りなのでしょう。

 トライの回数が増えれば、幸運がほほ笑むこともありそうです。

 世界最高水準の心技体を具備したプレーヤーでも、運と実力を総動員しなければ勝てないのが、メジャートーナメントなのでしょう。
 ワールドカップ優勝4回を誇るサッカー大国イタリアにおいても、1934年(第2回大会)と1938年大会(第3回大会)を連覇した時期は、黄金時代でしょう。
 世界のサッカーが「イタリアを中心に回った」時代なのです。

 この頃の、イタリア代表チームのエースストライカーが、ジュゼッペ・メアッツァ選手です。

 1910年にミラノで生まれたジュゼッペ・メアッツァは、17歳でインテルにおいてセリエAにデビューしました。
 インテルでは2度のリーグ優勝、自身は3度のリーグ得点王に輝いています。
 デビュー早々からチームの中心選手だったのです。

 このようなスーパースターは代表デビューも速いものですが、メアッツァ選手も19歳で、アズーリの一員となりました。代表デビュー戦でいきなりゴールを挙げたと伝えられています。

 そして、1934年大会・1938年大会のイタリア連覇の時には、チームのエースストライカーとして活躍しました。
 代表通算53試合で33ゴールという、素晴らしいゴールゲッターだったのです。
 
 1934年、地元開催のワールドカップの準々決勝で、イタリアチームはスペインチームと対戦して、第一戦は延長の末1-1の引分け、この頃はトーナメントの試合での引分けは再試合が行われました。(PK戦という制度が無かった時代)
 この第二戦でメアッツァ選手は前半11分に先制点を挙げて、1-0の勝利に貢献しています。
 この大会でアズーリが最も苦戦した試合でした。

 フランス開催だった1938年大会の準決勝で、イタリア代表はこの頃メキメキと実力を付けて来ていたブラジル代表と激突しました。そして2-1でブラジルを破り、決勝に進出したのです。
 この準決勝で1-1の同点から決勝点を挙げたのがメアッツァ選手でした。PKによる得点でしたが、この局面でPKを任せられるところにメアッツァ選手へのチームの絶対の信頼が感じられます。

 ジュゼッペ・メアッツァ選手は、1924年から1940年までインテルで長く活躍した後、ACミランに移籍し、1942年にはユベントスに移りました。
 第二次世界大戦真っ只中のイタリア・セリエAで、「イタリア3大クラブ」を渡り歩いたのです。

 そもそも、極めてライバル意識が強いチーム同士である、インテル・ACミラン・ユヴェントスの全てでプレーする選手というのも滅多に観られないのですが、それがイタリアサッカー史上最高のプレーヤーのひとりと称されるメアッツァ選手が実現しているのですから、驚きです。

 1979年、メアッツァ氏は68歳で死去しました。

 メアッツァ選手が活躍した時代は、80年程前の遥かなる昔です。
しかし、21世紀となった現在においても、イタリアサッカー界におけるジュゼッペ・メアッツァ選手への敬意はいささかも衰えていない様に感じられます。
 何しろ、現在のインテルとACミランが本拠としている(2チームが共にホームとしています)スタジアムは、「スタディオ・ジュゼッペ・メアッツァ」なのですから。
 
 第一走者の多田選手が落ち着いたスタートから加速、日本チームに勢いを付けました。

 多田選手から第二走者・飯塚選手へのバトンパスはドンピシャ。飯塚選手もとてもリラックスした良い走りを魅せて、他チームと互角のレースを展開しました。

 飯塚選手から第三走者・桐生選手へのバトンパスもタイミングが合いました。バトンの受け渡しを一度失敗しましたが、直ぐに渡すことが出来ましたので、殆どロスはありません。

 桐生選手のコーナリングは秀逸!
 予選・決勝を通じて、全てのチームの第三走者の中で最も速いランナーであった思います。

 第三走者の桐生選手からアンカーの藤光選手へのバトンパスは少し詰まりましたけれども大きなロスとはならず、日本チームはイギリス、アメリカに続いて三番手、ジャマイカチームより少し前の位置で直線に入りました。

 ここでジャマイカチームのアンカー・ボルト選手が故障を発症してストップしましたので、藤光選手は3番手の位置を堅持してゴールインしました。

 日本チームが持てる力を存分に発揮した、見事なレースでした。

 オリンピックではメダルを獲得してきた、日本男子4×100mリレーですが、世界選手権では初のメダル獲得でした。

① 走力の高さ

 リオデジャネイロ・オリンピックの時も書きましたが、日本の4選手の走力が素晴らしい。

 特に、客観的に観て、桐生選手は大会NO.1の走力を具備する第三走者であったと思いますし、第二走者の飯塚選手も加速してからのスピードでは、世界トップクラスのランナーが居並ぶ他チームの第二走者と、全く遜色のない走りを魅せてくれました。

 そうでなければ、9秒台4人を揃えたジャマイカチームや、100m競走の1・2位を擁するアメリカチームと、これだけの戦いを繰り広げることが出来る筈はありません。

② バトンパス

 バトンパスについて観れば、決勝進出8チームの中で最も上手かったのはイギリスチームでしょう。これはもう「絶妙」でした。イギリスチームは予選の時から、極めてハイレベルなバトンパスを魅せていました。

 日本チームは、イギリスチームに続いて、8チーム中の2~3番手の技術であったと感じますが、イギリスチームとの差は相当大きなものでしょう。ランナー1人当たり0.1秒位の差かと思いますので、レース全体としては0.4秒から0.5秒の差があるでしょう。

 日本チームにもまだまだ改善の余地があります。
 今回のチームも37秒台の中盤の記録を出す力はあったのでしょう。

 それにしても、男子4×100mリレーの日本チームは強くなりました。

 世界大会の決勝レースに定着すると共に、「ミスの少ない安定したレース」を実現することが出来ますから、他有力チームのミスやトラブルによっては、表彰台に乗ることが出来るようになったのです。

 男子4×100mリレーは、日本の「お家芸」になりつつあります。
 第99回全国高等学校野球選手権大会も2回戦に入りました。

 連日熱戦が続いていますが、今大会は「両チームによく点が入る試合」が多いと思います。
 そして、ホームランが多い大会になっている印象です。

① ひとりで1試合に2本塁打

 特に、同じプレーヤーが1試合で2本塁打を放つケースが時折観られます。
 8月11日の中京大中京VS広陵のゲームでは、広陵の中村選手が、8月12日の北海VS神戸国際大付のゲームでは、神戸国際大付の谷口選手が、8月13日の大垣日大VS天理の試合では、天理の神野選手が、それぞれ2本塁打を放ちました。
 2打席連続ホームランも観られます。

 もともと甲子園大会では、2打席連続本塁打が最高記録であり、3打席連続は無いのですから、この2打席連続ホームランが複数回数記録される大会と言うのは、珍しいことでしょう。
 
② 打球飛距離が伸びている?

 ホームランが多い印象の大会ですが、その飛距離も伸びている感じがします。
 これまでのように「フェンスをギリギリに超える」という当たりよりも、スタンドの中段近くまで飛ぶ本塁打が多いように観えます。
 また、神戸国際大付の谷口選手の2本目のように、右打者がライトポール際に運ぶといった「反対方向への本塁打」も観られます。

 明らかに飛距離が伸びているのですが、これはプレーヤーの体力・技術の向上によるものなのか、他の要因によるものなのかは分からないところです。

③ 大振りが目立つ。

 バットを長く持っての「目振り」が目立ちます。
 思い切りの良いスイングが続くのですが、局面によってはいかがなものかとも感じます。

 かつては、高校野球・甲子園大会というのは「スモールベースボール」の場でした。
 四球やエラーで出たランナーを、送りバントで進め、時にはスクイズで得点し、その「虎の子の得点」を好投・好守で守り切るという試合が数多く観られたものです。
 徳島の池田高校が登場した頃から、「目振り」の野球が広まり始め、強い打球を打って行く野球が一般的になったのでしょう。
 これは高校野球のひとつの革命的な事象でした。

 確かに、バント・バントで1点ずつ積み重ねても、長打で大量点を挙げられてしまうのでは、なかなか勝利はおぼつきませんし、思い切り振って行く野球の方が、選手も楽しんでやれるという面が有りそうです。

 しかし、一方で今大会では「高目の釣り球」にひっかかり、空振りの三振というシーンも数多く観られます。
 「あんな球を何で振っちゃうの」と愚妻は嘆きます。

 かつてなら、手を出さなかったであろう「頭の高さ位の投球」を目振りしてしまうのです。
 「振ると決めたら振る」といった思い切りが良いというか、荒っぽいプレー、時には「雑に見えるプレー」もあるのです。
 キメ細かな野球からは、遠いところに在る野球になって来ているようです。野球の持つ本来の面白さの、相当部分が失われている可能性も有ります。

 「金属バットの打撃技術・理論」が極まってきているのかもしれません。

 野球というスポーツにとって、良いことなのかどうか、考えてみる時期が来ているように感じます。

 以前も書きましたが、「木製バットに戻す」時期が来ているのではないでしょうか。
 
 「バットの費用」、練習で折れてしまうバットを数多く用意するために高額な費用が掛かることを考慮して、「折れない」金属バットを使用することとした施策は、その歴史的使命を終えたのかもしれません。

 バットは、高校野球連盟から全国の高校に支給することにして(甲子園大会の入場料を少し上げるといった施策も考えられます)、バット費用負担の問題に対応するのです。
 
 「ボールを木製バットで打つ」という「野球本来の形」、日本プロ野球やMLBで行われている形の高校野球を観てみたいと感じます。
[8月9日・男子400mハードル]
1位 ワーホルム 48秒35
2位 コペロ 48秒49
3位 クレメント 48秒52

 ノルウェーの21歳、カールステン・ワーホルム選手が見事な走りを魅せて優勝しました。
 前半から飛ばしたワーホルム選手は、4コーナーを先頭でクリアして最後の直線に入りました。内側のコースから、優勝候補のカーロン・クレメント選手(アメリカ)がひたひたと追ってきますが、その差は3m位あるように観えました。クレメント選手のレース前の予想より、差が大きかったのではないでしょうか。
 それでも、オリンピックチャンピオンの意地にかけて、追い込みを続けたのです。

 ワーホルム選手は9台目のハードルで少しバランスを崩し、後続との差が詰まりました。
 ハードル競技の難しいところです。スピード・体力ともに落ちてきたところでのハードリングの失敗は、ダメージが大きいのです。

 「10台目が上手く飛べるかどうかがカギになる」と見ていましたが、この10台目をワーホルム選手はスムースに飛び越えました。優勝を争っていたランナーの中で最もスムースであったと思います。

 逆にクレメント選手は少しバランスを崩しましたので、追い上げる勢いが削がれました。

 ワーホルム選手の優勝を決定づけたのは「10台目の上手いハードリング」だったと思います。
 いっぱいいっぱいの状況で、ハードルに触れることも無く、ランニングバランスを崩すことも無く、「事も無げ」にクリアしていったのです。
 もちろん、ワーホルム選手の技術と体力の賜物ですけれども、勝利の女神がほほ笑んだようにも感じられます。

 本記事の題名に「よもやの?」といった失礼な表現を用いましたが、ゴール後のワーホルム選手の表情・様子を観るにつけ、最も「意外に感じ」「信じられない様子で」「驚いていた」のが、ワーホルム選手自身に見えたからです。
 ご容赦いただきたいと思います。

 そもそも、ノルウェーのプレーヤーが世界陸上選手権大会で獲得した、初めての金メダルだと報じられました。
 ワーホルム選手は、ノルウェー陸上競技界に新しい歴史を創ったのです。

 ワーホルム選手は、10種競技から400mハードルに転向したと伝えられています。

 世界には、まだまだ強い選手が居るのです。
 陸上競技の2017年世界選手権大会が、ロンドンで開催されています。

 その映像をテレビで観るにつけ、いつも感心させられるのが「満員の観客席」です。

 6万人の大観衆で埋め尽くされた観客席は、立錐の余地も無いように観えます。
 本当の大入り満員なのです。
 そして、大歓声が響き渡ります。

 イギリスという国、ヨーロッパという地域、において陸上競技がとても人気のあるスポーツであることが、よく分かります。

 走り、投げ、跳ぶ、という「最も基本的な動き」で争われるスポーツ。
 人類が最初に行ったかもしれないスポーツ。

 「陸上競技」の人気がとても高いのです。

 一方で、東京オリンピック2020のメイン会場は、オリンピック開催後「球技専用グラウンド」になる方向だと報じられています。
 国際基準のサブグラウンドを近隣に設置することが困難だというのが、主な理由の様です。

 とはいえ、ひょっとすると、我が国では「陸上競技では6万人の観衆を呼ぶことは出来ない」、オリンピック以外の大会では「出来ない」、「陸上競技には6万人以上を収容するスタジアムは過大」、という見方が有るのかもしれません。

 世界陸上2017の会場である、ロンドンスタジアム(旧ロンドン・オリンピックスタジアム)は、大観衆と大歓声に溢れています。
[8月8日・男子400m決勝]
1位 バンニーキルク 43秒98
2位 ガーディナー 44秒41
3位 ハロウン 44秒48
4位 テーベ 44秒66
5位 アレン 44秒88
6位 ゲイ 45秒04
7位 カーリー 45秒23

 バンニーキルク選手の圧勝でした。
 現在のこの種目の第一人者としての実力をしっかりと発揮したのです。

 スタートから第3コーナーまでは、いつものバンニーキルク選手と比べればやや抑えた感じの走りでしたが、第3コーナーから第4コーナーが速かった。目立たない場所ですが、ここでグンと前に出ました。

 バハマのガーディナー選手が2位、カタールのハロウン選手が3位に入りました。
 準決勝までの好調な走りを、決勝でも披露してくれた形です。

 優勝したバンニーキルク選手は南アフリカですから、男子400mは、所謂大国のランナーではなく、短距離王国でもない国のランナーが3位までに入った形になります。

 一方で、陸上競技の歴史において「男子400mの王国」と言われてきたアメリカ勢は、良いところがありませんでした。これは、近時のオリンピックや世界選手権で見られてきた傾向なのですけれども、今大会では際立ちました。

 1968年のメキシコシティオリンピックにおけるリー・エバンス選手の43秒台の驚異的な世界記録樹立や、それを大きく更新したマイケル・ジョンソン選手の快走を見るまでも無く、何時の時代も「男子400m競走の歴史はアメリカ選手の歴史」でした。

 100mや200mで、時折アメリカ以外の国のランナーが時代を築くことはあっても、「400mだけはアメリカのもの」という感じだったのです。
 次から次へと素晴らしい400mランナーが生まれる国、それがアメリカ合衆国という印象でした。

 ところが、2012年以降は、この法則が当てはまらなくなっています。

 このレースでも、アメリカのカーリー選手は7位と、実質的な最下位でした。
 もちろん、世界選手権の決勝に進出するというのは、それだけで大称賛に値することなのですけれども、これがアメリカの男子400m代表となると、決勝進出だけでは満足できず、優勝争いを演じなければならないということになるのでしょう。
 そもそも、男子400m決勝レースに、アメリカの選手がひとりだけということ自体が、過去の歴史から見て違和感?があります。

 アメリカの男子400mに「何が起こっている」のでしょうか。

 アメリカ合衆国の陸上競技界では、男子400mのスプリンターが減っているのでしょうか。
 常に、世界の男子スプリント界を牽引してきたアメリカ短距離陣の選手層が薄くなっているとすれば、陸上競技全体にとっても良いことではありません。

 アメリカ男子400m陣の不振が、単なる「一時的な後退」であり、杞憂であることを祈るばかりです。
[8月8日・男子800m決勝]
1位 ボス 1分44秒67
2位 クチョット 1分44秒95
3位 ベット 1分45秒21

 フランスのボス選手の見事なレース運びでした。

 1周目を50秒台という、勝負優先になりやすい世界大会の決勝レースとしては速いペースで通過した2周目の第2コーナーから一気にスピードを上げて、前を行くランナーを抜き去り、第3コーナーで先頭に立ちました。

 こうしたレースの進め方の、良いところは自分のペースでレースを運べること、所謂「自力勝負」に持ち込めることですが、難しいところは「ラスト30mの走り」で、早めに力を使っているために、ゴール前の走りがどうしても苦しいものになり、スピードが落ちて、逆転を許すこともある点です。

 2コーナーから3コーナーにかけて、500m~600mの加速で、ボス選手は2番手のランナーに1~2mの差を付けましたけれども、大きな差とは言えませんでしたので、最後の直線の競り合いが注目されました。
 
 ボス選手は第4コーナーから直線半ばまで、700m~750mで再び加速したように観えました。ここが最も素晴らしいところでしょう。
 1.5m前後の差を維持したまま、残り50メートルまで来たのです。

 さすがに、残り30mからはいっぱいいっぱいの走りでしたが、追い上げてきていたクチョット選手やベット選手にも余力は無く、ボス選手が押し切りました。

 近時のオリンピックや世界選手権では、4コーナーから直線にかけての競り合いが多かったと思いますけれども、2コーナーから3コーナーの走りで勝負の形を作るという、「古くて新しい戦法」が見事に決まったのです。

 このレースを観ていて、かの瀬古利彦選手の高校生時代の800m・1500m競走のレースを思い出しました。
 高校生時代の瀬古選手は800m・1500mを得意としていたのです。そして、必ずと言って良いほど、2周目の第2コーナーから加速して2番手以降を引き離し、ラストの直線で粘るという走りを魅せてくれました。
 今から40年以上前の話です。

 最後の直線のスプリント勝負では、アフリカ勢といった他のランナーに比べて、やや分が悪いと考えたのでしょうか、ボス選手は果敢な作戦で勝負したのです。

 フランス人ランナーが世界選手権の800mで優勝したのは史上初めてと報じられました。

 ボス選手は、フランス陸上競技界の新たな歴史となったのです。
[8月5日・男子走り幅跳び・決勝]
1位 マニョンガ 8m48cm
2位 ローソン 8m44cm
3位 サマーイ 8m32cm
4位 メンコフ 8m27cm
5位 マッソ 8m26cm
6位 石 8m23cm
7位 王 8m23cm
8位 トーネウス 8m18cm
9位 ラサ 8m11cm
10位 ジュスカ 8m02cm

 大接戦でした。そして、とてもハイレベルな試合でした。

① 10位まで8m越え

 いかに世界最高レベルの大会とはいえ、10名ものジャンパーが「8m越え」を見せるゲームは、滅多にありません。

 たまたま、各選手のコンディショニングが上手く行ったとうよりも、全体のレベルが上がったと観るべきなのではないでしょうか。

② 完成されたジャンプは少なかった。

 優勝したマニョンガ選手の大らかで高く上がるジャンプ、2位のローソン選手のスピード溢れる助走からの力強いジャンプ、3位のサマーイ選手の合理的なジャンプ、それぞれのプレーヤーが持ち味を発揮したゲームでしたが、3名とも自分の持てる力を存分に発揮したようには見えませんでした。

 いずれのジャンプも、バランスを崩したり、タイミングが僅かに合わなかったりしていたのです。
 3名のメダリストは、各々のイメージ通りのジャンプが出来れば「+50cm」の記録が可能だったのではないかと感じます。

 8m20cmを超えるジャンプを魅せてもメダルに遠く及ばない、高いレベルの試合となった、世界選手権陸上競技大会2017の男子走り幅跳び種目は、次の大会での大ジャンプを十分に予感させるものであったと思います。
 種目全体として「大きなマグマの蓄積」を感じるのです。

 1991年、東京における世界選手権大会で樹立され、以降26年間不動の、マイク・パウエル選手の8m95cmという「長寿世界記録」が破られる瞬間が、迫っているのかもしれません。
 サッカー競技においては、数々の伝説的なプレーヤーが存在します。

 「伝説のプレーヤー」は、いわゆるサッカー強豪国において、ファンの間で、現在も語り継がれている名プレーヤーを採り上げるシリーズです。

 第1回は、ウルグアイの「元帥」、ホセ・ナサシ選手です。

 ワールドカップ優勝2回を誇るサッカー大国・ウルグアイにおいても、史上最高のプレーヤーではないかと思います。

 ホセ・ナサシは1901年に生まれて1968年に67歳で死去しています。

 ポジションはフルバック。20世紀の後半まで、ゴール前の最後の守備の砦となるプレーヤーは「フルバック」と呼ばれていました。
 近時は「センターバック」と呼ばれることが一般的です。フルバックがセンターバックになったのは何時ごろなのか、これも興味深いテーマですが、今回はナサシ選手の記事ですから、話を戻しましょう。

 ホセ・ナサシ選手は、ウルグアイ代表チームのキャプテンとして大活躍しました。
 これはもう「大活躍」と呼ぶしかない程の活躍で、ホセ・ナサシ選手以上に世界的な大会で活躍したプレーヤーを挙げるのは、とても困難でしょう。

① オリンピックで2回優勝

 1924年のパリ・オリンピックと1928年のアムステルダム・オリンピックで、ウルグアイに金メダルを齎しています。
 ウルグアイ代表チームは、間違いなく、この時代の世界最強のナショナルチームだったのです。

② 第1回ワールドカップ優勝

 長いワールドカップの歴史は、1930年に始まります。
 この第1回大会に優勝したのはウルグアイチームでした。
 この大会は自国開催でした。
 自国開催のワールドカップの決勝で、アルゼンチン代表チームを4-2で破り優勝を決めたのです。

 この優勝はもちろん素晴らしいことですけれども、何より「第1回ワールドカップがウルグアイで開催されたこと」が凄いことだと思います。

 文字通り、この頃「ウルグアイは世界サッカーの中心地」だったのです。

③ 南米選手権に4回優勝

 ホセ・ナサシ選手は、1923年、1924年、1926年、1935年と4回の南米選手権大会に優勝しています。
 プレーヤーとして1回優勝することさえ難しい南米選手権に4回も優勝しているのです。

 「元帥」ホセ・ナサシは、ワールドカップ、オリンピック、南米選手権で計7回優勝しています。

 サッカー競技が、現在ほどには世界中に普及していなかった時代とはいえ、これは驚異的なことであり、ワールドカップ、オリンピック、欧州選手権、南米選手権という、世界トップクラスの4つの大会で7回優勝という記録を超えるプレーヤーは、私には思い当りません。

 ホセ・ナサシ選手の身長は182cmと伝えられています。
 当時としては、相当大きなプレーヤーだったことでしょう。

 ウルグアイゴール前に「仁王立ち」するナサシ選手の姿が、眼に浮かびます。
 ビッグトーナメントが開催されている時のファイアーストーン・カントリークラブで61打、というのは物凄いスコアです。
 それが最終日のプレーともなれば尚更でしょう。
 7400ヤード・パー70という数字を見るまでも無く、距離十分のセッティングに加えて、高速グリーンと難しいラフという、まさに「難関コース」なのです。

 8月3日~6日にかけて行われた、世界ゴルフ選手権大会WGC「ブリヂストン招待」の舞台は、ファイアーストーンCCでした。
 WGCは、メジャートーナメントに次ぐ高いフィールドの大会です。ファイアーストーンCCは、その舞台に相応しいコースなのです。

 そして松山英樹選手は、そのコースで最終日に61打をマークして、圧勝したのです。

 2番ホール・パー5でイーグルを奪ったのを皮切りに、7つのバーディを重ねて、前半30打、後半31打の61打、4日間通算16アンダーパー、2位のザック・ジョンソン選手に5打差を付けての勝利でした。

 15番ホールを終えて13アンダーとし、2位に2打差を付けた時、松山選手の表情には自信が溢れていました。
 「考えた通りのラウンドが出来ている」ことを実感していたのでしょう。

 16番・パー5、17番・パー4・18番・パー4を3連続バーディで締めくくったのです。

 18番のバーディパットは、難しい下りの3mでしたが、これをきっちりと沈めました。
 パッティングの調子もとても良かったのでしょう。

 4年前、21歳の時に松山選手はタイガー・ウッズ選手と同組でファイアーストーンCCをプレーしました。
 そして、その時ウッズ選手は61打でラウンドしたのです。
 ラウンド後、松山選手は「大人と子供の差がある」とコメントしていました。

 今大会の最終日、松山選手はそのタイガー・ウッズ選手のスコアに並んだのです。

 強い時の松山英樹は、尋常ではない。
 今や世界最強のゴルファーなのかもしれません。
プロフィール

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