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 JRAホームページの「日本馬海外遠征の記録」の2014年の欄、牡6歳のアドマイヤラクティの1行目は、オーストラリア・コーフィールドカップG1・1着とあります。
 見事な豪州G1レースの優勝です。
 そして2行目は、オーストラリア・メルボルンカップG1・22着とあります。
 このレースは最下位でした。
 このレースの直後に「悲劇」が起こったのです。

 10月18日、芝2400mのコーフィールドカップ快勝で勢いに乗ったアドマイヤラクティは、11月4日の芝3200mのメルボルンカップに挑みました。
 長距離に強く、日本国内で唯一の重賞勝ちが2013年のダイヤモンドステークスG3(芝3400m)でしたから、距離が伸びて良いと観られていましたし、前走G1の勝利で、このレースでは一番人気に支持されました。
 しかし、レースでは4角から後退し、最下位の22着に敗れてしまいました。
 意外な負け方でした。

 レース後、滞在している厩舎に帰ったアドマイヤラクティは馬房内で倒れ、そのまま死亡しました。検死の結果、心臓麻痺でした。
 
 レース中に発症していたのではないかと観ています。
 心臓に故障を起こしたアドマイヤラクティは、懸命にゴールまで走ったのでしょう。
 その頑張りには、今でも涙が零れます。

 ハーツクライの仔として2010年にデビューしたアドマイヤラクティは、2戦目の未勝利戦で初勝利を挙げましたが、その後も500万下や特別レースで健闘するものの、なかなか重賞には縁が有りませんでした。
 重賞初出走も、4歳12月の金鯱賞G2でした。このレースで3着に入着し、その後は重賞レースの常連となりました。
 2013年には前述のダイヤモンドステークスG3の優勝を始め、G2アメリカジョッキークラブカップ3着、天皇賞(春)4着、ジャパンカップ4着、G2アルゼンチン共和国杯と阪神大章典が2着と健闘しましたが、やはり主役にはなり切れなかったと感じます。

 そのアドマイヤラクティが、初めてG1を制したのがオーストラリアでした。
 オーストラリアの競馬が合っていたことは間違いないのでしょう。

 アドマイヤラクティは、大好きであったろう「豪州」の地に埋葬されています。

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 新型コロナウイルス禍のために、多くのスポーツイベントが延期・中止なっている時期は、撮り貯めた録画を自宅で楽しむのに最適です。
 今回はユーロ(欧州選手権大会)2000の準々決勝を観ました。

[2000年6月25日・フェイエノールトスタディオン(ロッテルダム・オランダ) ]
オランダ6-1ユーゴスラビア

 このゲームは、パトリック・クライファート選手のゲームでした。
 前半24分、38分、後半9分にゴールを挙げて、ハットトリックを達成しています。
 後半6分のユーゴスラビアチームのオウンゴールも、ゴール右サイドに迫ったクライファート選手と競り合った結果のゴールでした。このオウンゴールが生れた瞬間、そしてしばらくの間は、クライファート選手のゴールとされていましたから、交替を告げられベンチに戻る時には「4ゴール」を挙げた選手として、大観衆から大歓声を受けました。
 信じられないような活躍だったのです。

 このゲームのクライファート選手のプレーは、相手ゴール目前でパスを受け、それをキッチリと叩き込むものでした。
 トラップやシュートの技術の高さが存分に披露されました。
 「オランダトリオ」の流れを汲む、身長188cmと大柄なプレーヤーが、ゴール前で極めて繊細で多様なテクニックを披露するのですから、驚かされるばかりです。

 ユーロ2000準々決勝は、クライファート選手の代表キャリアにおいても「ベストゲーム」であったと思います。

[オランダチームの先発メンバー]
1. GKファン・デル・サール選手
2. スタム選手
3. フランク・デ・ブール選手
4. ゼンデン選手
5. コクー選手
6. ダーヴィッツ選手
7. クライファート選手
8. ベルカンプ選手
9. オフェルマルス選手
10. ボスフェルト選手
11. ニューマン選手

[ユーゴスラビアチーム先発メンバー]
1. GKクラリ選手
2. ジュキッチ選手
3. ユーゴヴィッチ選手
4. ミヤトヴィッチ選手
5. ミロシェヴィッチ選手
6. ストイコヴィッチ選手
7. ミハイロヴィッチ選手
8. コムリエノヴィッチ選手
9. サヴェリッチ選手
10. ゴヴェダリツァ選手
11. ドゥルロヴィッチ選手

 このゲームのオランダチームのメンバーは、さすがに強力です。
 フォワードFWの「アイスマン」デニス・ベルカンプ選手は、長くオランダを代表する点取り屋でしたし、112キャップを誇るディフェンダーDFフランク・デ・ブール選手、「ボロ」と呼ばれたミッドフィールダーMFボウデヴァイン・ゼンデン選手、FWマルク・オーフェルマウス選手、何でもできるフィリップ・コクー選手、MFエドガー・ダーヴィッツ選手と並んだ布陣は、強力そのものです。
 さらにベンチには、あのクラレンス・セードルフ選手も居たのです。(セードルフ選手が何故出場しなかったのかは、今でも不思議です。チーム創りにおいて、素晴らしいプレーヤーが「多過ぎた」のかもしれません)

 「オランダトリオ」の時の代表チームを「第2期黄金時代」と呼びましたが、この大会のオランダ代表チームは「第3期黄金時代」と呼んでも良いレベルなのでしょう。

 一方のユーゴスラビア代表チームも、キャプテンのストイコヴィッチ選手を中心として、高い攻撃力を誇るチームでした。
 しかし、このゲームでは、「絶好調のクライファート選手のプレー」の前に、残念ながら沈黙してしまいました。

 ところが、これ程に強かったオランダチームが、続く準決勝で、イタリアチームに惜敗してしまうのですから、さすがに欧州選手権大会なのです。(準決勝:イタリア0-0オランダ PK戦3-1でイタリア勝利)

 そして、そのイタリア代表チームも決勝で、延長の末フランス代表チームに敗れてしまいます。(決勝:フランス2-1イタリア)

 ユーロ2000のベスト4進出チームは、いずれも、どこが優勝してもおかしくない素晴らしいナショナルチームだったのです。

 フランス代表チームに準決勝で敗れたポルトガル代表チーム(やはり延長で、フランス2-1ポルトガル)も、所謂「黄金世代」を核とした、ポルトガルサッカー史上最強チームのひとつでした。
 メンバーを観ると、フィーゴ選手、パウロ・ソウザ選手、ルイ・コスタ選手、フェルナンド・コウト選手、ジョアン・ピント選手(以上、黄金世代)、ヌーノ・ゴメス選手、セルジオ・コンセイソン選手、ルイ・ジョルジ選手と並びます。
 凄いメンバーです。

 では、オランダ代表チームを破ったイタリア代表チームはというと、マルディーニ選手、アルベルティーニ選手、カンナヴァーロ選手、コンテ選手、インザーギ選手、デル・ピエロ選手、トッティ選手、デルヴェッキオ選手と並びます。
 何と華麗で美しいチームでしょうか。

 そしてフランス代表チームは、ワールドカップ1998を制覇した栄光のチームを主体としているのです。
 メンバーを観ると、ジダン選手、アンリ選手、トレゼゲ選手、ヴィルトール選手、ジョルカエフ選手、デュガリー選手、デシャン選手、ヴィエラ選手、デサイー選手、ブラン選手といった面々が顔を揃えます。
 常にフランスチームの特徴のひとつである「堅守」、1998年ワールドカップ制覇の礎となった「堅守」を支えるDF・MFのスーパープレーヤーがずらりと並び、そこに攻撃の中心であるジダン選手や、若くて売出し中であったアンリ選手が加わっているという、バランスの良いチームです。

 こうした好チームが揃っていたのですから、ユーロ2000が世界中のサッカーファンに、多数の素晴らしいゲームを提供してくれたのは、当然のことです。

 サッカーと言うのは不思議なスポーツで、「同時期にとても強いチームが複数登場する」ものなのですが、ユーロ2000においても、その超常現象が現れたということなのでしょう。

 新型コロナウイルス禍のために、多くのスポーツイベントが延期・中止なっている時期は、撮り貯めた録画を自宅で楽しむのに最適です。
 今回はユーロ(欧州選手権大会)1992の決勝を観ました。

[1992年6月26日・ウッレヴィスタディオン(スウェーデン)]
デンマーク2-0ドイツ

 1990年のワールドカップを制覇した西ドイツチームのメンバーを主体とした、東西ドイツ統合後初の「ドイツチーム」が本命と言われたユーロですが、デンマークチームが「よもや?」の強さを魅せて快勝したゲームです。
 初優勝でした。

 国連からの指摘によって大会直前(開幕2週間前)にユーゴスラビアチームが出場できなくなり、代わりに出場したのがデンマークチームでした。
 ほぼ準備期間無しでの出場でしたから、当然ながら活躍は期待されなかったのですが、あれよあれよという間に決勝トーナメントに進出し、準決勝でオランダ、決勝でドイツを倒して優勝したのですから、間違いなく、とても強いチームだったのです。

[ドイツチームの先発メンバー]
1. GKイルグナー選手
2. ロイター選手
3. ブレーメ選手
4. コーラー選手
5. ブッフバルト選手
6. ヘスラー選手
7. リードレ選手
8. ヘルマー選手
9. ザマー選手
10. エッフェンベルク選手
11. クリンスマン選手

[デンマークチームの先発メンバー]
1. GKシュマイケル選手
2. シヴェルク選手
3. ケント・ニールセン選手
4. オルセン選手
5. クリストフテ選手
6. イェンセン選手
7. ポウルセン選手
8. ブライアン・ラウドルップ選手
9. ピーフニク選手
10. ラーセン選手
11. ヴィルフォート選手

 ドイツチームは頭書の通り、1990年ワールドカップ優勝メンバーが主体でした。フェラー選手とリトバルスキー選手が抜けている位でしょうか。当然ながら完成度の高いチームですし、大会前には、ドイツサッカーの「皇帝」フランツ・ベッケンバウアー氏から「東西ドイツが統一されひとつのチームが出来たのだから、そのチームは『無敵』の筈」とのコメントも有りましたので、ドイツチームには優勝に向けてのプレッシャーもあったかもしれません。
 クリンスマン選手が居て、ザマー選手が居て、ヘルマー選手が居て、日本でもプレーしたブッフバルト選手も居るという、豪華なメンバーです。

 一方のデンマークチームでは、やはりゴールキーパーGKのシュマイケル選手が有名でしょう。1990年代には世界NO.1GKと称されました。この大会、そしてこの試合でも、素晴らしいプレーを披露しています。

 さて、久し振りに録画を観戦した感想です。

① 運動量が多い。
 1970年代、80年代の大試合と比べて、両チームともにプレーヤーの動きが速く、展開も極めてスピーディです。中盤ではドリブルによる持ち上がりが多く、ゴール前では素早いパスからチャンスメイクしています。
  記憶していた印象より、はるかにスピーディなゲームでした。

② GKのレベルが高い。
 デンマークのシュマイケル選手は勿論として、ドイツのイルグナー選手も素晴らしいプレーを魅せています。
 「強いチームには良いGKが居る」ことを、改めて感じました。

③ デンマークチームの素早い攻撃
 戦前の予想通り、ゲームはドイツチームが優勢に進めましたけれども、時折見せるデンマークチームの攻撃は秀逸でした。

 前半18分のイェンセン選手の先制シュート・ゴールは、低く出たボールがホップするように上昇軌道を走り、ドイツゴールに突き刺さりました。凄い威力です。
 そして、同点に向けて前掛かりになったドイツチームに対して、後半33分カウンター攻撃から決めた、ヴィルフォルト選手のゴールも、コース威力とも十分なものでした。
 2点とも、さすがのGKイルグナー選手を持ってしても、どうすることも出来ないハイレベルなシュートだったのです。

 観客席では、「神様」ペレ氏と「皇帝」ベッケンバウアー氏が会話をしている姿が映し出されました。
 お二人とも「とてつもないオーラ」を具備していますから、「絵になるシーン」であることは、言うまでも有りません。

 地元スウェーデンのサッカーファンの多くは、やはり馴染み深い隣国・デンマークチームを応援していました。
 デンマークがリードし、試合時間が残り少なくなるとスタジアムの歓声は一層大きくなり、試合終了のホイッスルが鳴り響くと、お祭りの様な騒ぎとなりました。
 ドイツにとっては、完全なアウェイゲームだったのです。(常に世界のサッカーをリードしているドイツチームは、どの大会でもアウェイになることが多いのです。「強いが故の現象」なのでしょう)

 社会民主主義と呼ばれた政体を取っていて、所謂本物のプロスポーツプレーヤーが居なかったデンマークが、全ての競技を通じて、初めて「世界に力を示した」、ユーロ1992制覇だったのかもしれません。

 東京オリンピック2020の1年程度の延期が決まりました。
 (本オリンピックの正式名称は「東京オリンピック2020」で不変ですが、本ブログでは、「2021年に開催された東京オリンピック2020」といった長い表記を避けるため、東京オリンピック2020と東京オリンピック2021と、区別して表記させていただきます)

 開催時期が、2021年の夏になるのか、春になるのか、色々な情報が交錯していますけれども、最も早くて2021年の3~4月開催といったところでしょう。

 この延期に伴って、日本チームの各競技・種目における「代表選手選考」についても、様々な意見が出されています。

① 東京オリンピック2020の代表に内定している選手達の権利を守るべき。代表選考に向けての、内定者により積み上げられた努力を尊重すべき。
② 1年程度延期されたのだから、2021年の大会に相応しい選手、その大会で最も良い成績を残せると期待される選手=その時点で「最強」と見なされる選手を選ぶべき。→再選定するべき。

 という、概ね2つの意見があると思います。

 原則として、オリンピック代表選手の選考は②であるべきです。
 「世界一の選手・チーム」=オリンピックチャンピオン=アスリートにとっての最高称号、を争う選手を選定するのですから、世界中の国々・地域で、当該大会で最も世界中の選手と戦える、強い選手が選ばれなくてはなりません。
 そうでなければ、そもそも「オリンピック大会」の代表としては相応しくない、別の言い方をすれば「オリンピック大会に失礼」ということになるかもしれません。

 1年というのが、相当に長い期間で、強くなる選手もいれば、力を落とす選手もいるのは、誰もがご存知のことです。

 従って、「選考をやり直す」ことが望ましいのは、自然な話でしょう。

 そうすると次には、「キチンとした選考」が実施できるかどうか、がポイントとなります。

 現時点では、世界中で、新型コロナウイルス感染拡大のために、多数の選手が試合どころか練習も満足に出来ない状況にあります。これは致し方の無いことです。

 頭書の通り、最も早い場合に、2021年3月中下旬から東京オリンピック2021が開催されるとすれば、2021年2月には「代表選考が完了」している必要があるのでしょう。

 そうすると「選考会・試合」の必要期間を3ヵ月(競技・種目によっては4か月以上かかるものもあると思いますが、ここでは3ヵ月で選考するものとします)として、2020年12月初には、選手の皆さんは「選考試合に臨める状態」までコンディションを持っていかなければなりません。

 新型コロナウイルス禍のために、数か月間の「練習も出来ない環境」によって、筋力が落ち、試合勘も無くなってしまった状態から、代表選考に臨むレベルまで自らのコンディションを高める為に必要な期間を、ここでは3ヵ月とします。(選手ごとに色々なのでしょうが)

 そうなると、2020年9月初には、「思う存分練習ができる環境」が、選手達に提供される必要があるのです。

 であれば、練習施設の整備や強化体制の再構築の期間を含めて、遅くとも2020年8月には、新型コロナウイルス禍が沈静化している必要があるのでしょう。
 その時点=2020年8月時点では、新型コロナウイルス感染症に対する治療薬やワクチンの開発は間に合いませんから、感染者が少なくなり、選手が感染から完全に分離される状況が、確立される必要があるのでしょう。

 以上から、「代表選考のやり直し」を行うためには、この感染症が、世界中で、2020年7月末までには終息する必要があることになります。(もちろん、東京オリンピック2020の代表選考が済んでいなかった、数多くの競技・種目にとっても、スケジュール感は同一でしょう)

 結果として、東京オリンピック2021に向けて「代表選考」をやり直すか、やり直さないかの、判断ポイントは、「この感染症の終息時期」になりそうです。

 もし、2020年秋になっても終息していないとすれば、そもそも選手は練習ができませんし、代表選考会に相応しいコンディションを創り上げることが出来ません。
 そうなれば、過去の実績、東京オリンピック2020の代表内定も、とても大きな実績ですから、それを基準として、東京オリンピック2021の代表を選んでいくことになるのでしょう。

 いずれにしても、現時点・2020年3月末の時点は、「代表選考を再度行うべきか否か」を考え、判断する時期ではなさそうです。

 現時点では、選手も関係者も、新型コロナウイルス感染症に罹患しない努力を続け、撲滅に向けて、注力すべきなのです。

 3月29日、中京競馬場芝1,200mコースで開催(無観客)される、第50回高松宮記念競走G1の注目馬検討です。

 フルゲート18頭。
 春の短距離王決定戦ですが、良いメンバーが揃いました。

 現時点の「1,200m最強馬」という趣の馬は出走していませんので、これからのJRAスプリンター路線の軸となる馬を決めるレースと言って良いのでしょう。

 また、2月のフェブラリーステークスを制したモズアスコットの出走も、興味深いところです。ダートG1と芝G1の連勝というのは、素晴らしいことでしょう。

 さて、注目馬です。

 第1の注目馬は、5枠9番のタワーオブロンドン。
 昨秋のスプリンターズステークスG1の覇者ですから、最も格上でしょう。ここを勝つようなら、「THE古馬」の仲間入りです。

 第2の注目馬は、4枠8番のグランアレグリア。
 桜花賞馬であり、前走阪神カップG2も5馬身差で圧勝しました。牡馬一線級を相手に、どこまで戦えるかに注目です。

 第3の注目馬は、8枠18番のノームコア。
 大外に回ってしまいましたし、昨秋のヴィクトリアマイルG1勝ちを観ても1,200mは少し短いかとも思いますが、陣営としては持ち味のスピードが活かせる舞台と踏んでいるのでしょう。
 新しいスプリンターの登場に期待します。

 今回は、以上の3頭に注目します。
 いずれもG1馬ですから、やや「格」に偏った選定かもしれません。

 残念ながら今週も「無観客」のレースですけれども、熱い戦いを魅せていただけることでしょう。
 新型コロナウイルス禍のために、多くのスポーツイベントが延期・中止なっている時期は、撮り貯めた録画を自宅で楽しむのに最適です。
 今回はユーロ(欧州選手権大会)1988の準決勝を観ました。

[1988年6月21日・フォルクスバルクスタディオン(ハンブルグ・ドイツ)]
オランダ2-1西ドイツ

 この時期のオランダチームは、所謂「オランダトリオ」のチームでした。
 ルート・フリット選手、マルコ・ファン・バステン選手、フランク・ライカールト選手のトリオは、オランダ代表チームやセリエA・ACミランに数々の栄光を齎しました。
 
 オランダ代表チームといえば、1974年ワールドカップ決勝に進出し、「トータルフットボール」と称された新しいサッカーを創造したことで知られていますが、その頃の、ヨハン・クライフ選手とその仲間たちの時代を「第1期黄金時代」と呼ぶとすれば、この「オランダトリオ」の時代が「第2期黄金時代」であろうと思います。

 「オランダトリオ」を中心としたオランダチームは、素晴らしいパフォーマンスを魅せてくれたのです。(本ブログ2013年12月18日付記事「[欧州サッカー] ACミランの黄金期を支えた「オランダトリオ」」をご参照ください)

[西ドイツチームの先発メンバー]
1. GKインメル選手
2. ブレーメ選手
3. コーラー選手
4. ヘルゲット選手
5. ボロウカ選手
6. マテウス選手
7. フェラー選手
8. トーン選手
9. ミル選手
10. クリンスマン選手
11. ロルフ選手

[オランダチームの先発メンバー]
1. GKファン・ブルーケレン選手
2. ファン・ティヘレン選手
3. ロナルド・クーマン選手
4. ファン・アールレ選手
5. ファネンブルク選手
6. ミューレン選手
7. フリット選手
8. ファン・バステン選手
9. エルヴィン・クーマン選手
10. ライカールト選手
11. ヴァウテルス選手

 もちろん、この時代の西ドイツ代表も良いチームでした。
 「ミスタードイツ」と呼びたいローター・マテウス選手を中心に、ルディ・フェラー選手やユルゲン・クリンスマン選手を擁した攻撃陣は、長くドイツチームを支えました。(この後、ドイツ代表チームは完成度を増して、1990年のワールドカップで優勝しています)

 好チームの激突となったこのゲームは、この大会の実質的な決勝、とも呼ばれました。
 そして、その期待にたがわぬ、とてもハイレベルなゲームであったと感じます。

 オランダチームは、フリット選手とファン・バステン選手の攻撃が見事でした。
 長く世界サッカー界を牽引した「トリオ」ですが、フリット選手とファン・バステン選手のコンビとしての力であれば、この大会がベストであったと思います。

 マテウス選手のペナルティーキックPKによって先制を許したオランダチームは、後半に入りディフェンダーDFのロナルド・クーマン選手が同点ゴールを挙げ、ゲーム終了間際にファン・バステン選手が逆転ゴールを奪って、西ドイツチームを振り切りました。
 両チームの攻防は手に汗握るものでしたが、やはり、ペナルティーエリア周辺での、フリット選手とファン・バステン選手の「存在感」は大きく、さすがのフェラー選手とクリンスマン選手をも上回っていました。

 決勝でも、ソビエト連邦チームを2-0で破りましたが、この2点はフリット選手とファン・バステン選手の得点だったのです。
 ファン・バステン選手は、この大会で5ゴールを挙げて、得点王にも輝いています。

 さらに言えば、オランダ代表チームはユーロ初優勝でした。
 既に、世界のサッカー強豪国の仲間入りを果たしていたオランダですが、大きな国際大会タイトルを初めて獲得したのです。
 実際には、オランダ代表はこの後ユーロを制覇していませんから、この大会の栄光は、オランダサッカー界の「金字塔」ということになります。

 「オランダトリオ」は、サッカーの在り様も変えました。
 フリット選手が身長191cm、ファン・バステン選手が身長188cm、ライカールト選手が身長190cmと、身長190cm前後の長身トリオだったのです。
 これ程大きなプレーヤーが、特に「攻撃陣」を構成する在り様は、それまでの世界トップクラスのチームでは観られない光景であったと思います。
 そして、この大きなプレーヤーに合った攻撃手法・プレーを展開していたことは、言うまでも有りません。

 このチームの活躍の後、世界のサッカーチームの「大型化」が一気に進んだという見方も、あるのでしょう。

 第2期黄金時代のオランダ代表チームは、再び「世界のサッカーを変えた」のかもしれません。

 3月25日、日本相撲協会は5月場所の番付編成会議と臨時理事会を開催し(於、エディオンアリーナ大阪)、3月場所で関脇だった朝乃山の大関昇進を満場一致で決めました。
 
 続いて高砂部屋(大阪の宿舎である久成寺)において伝達式が行われ、朝乃山は「・・・大関の名に恥じぬよう、相撲を愛し、力士として正義を全うし、一生懸命努力します」と口上を述べたと報じられました。

 このところ、やや意気消沈気味のスポーツ界において、とても明るい話題です。

 朝乃山の最近3場所の勝ち星計が32勝ということで、「目安の33勝」に足りないということが話題に上っていましたが、もとより「33勝」という基準が有る筈も無く、なんとなくそんな感じ、という話ですから、選考基準とは直接の関係は無いのでしょう。

 昭和の頃なら、「30勝」とか昭和45年頃からなら「32勝」が目安と報じられていたと記憶していますが、平成に入ってからは「33勝」といわれることが多くなった感じがします。
 
 皆さんご認識の通り、大関昇進の基準は「継続して、大関の相撲を取れるか取れないか」の一点でしょう。
 では「大関の相撲とは?」ということになりますが、多くの人の眼で観て、「大関の相撲である」と感じられる相撲のことでしょう。
 もちろん、強さも必要なのでしょうが、例えば「注文相撲」ばかりで、「勝つためなら手段を選ばない」という相撲では、国技とされる大相撲の高位の番付を張るには相応しくないことが明らかです。
 
 大関という地位の力士には「強さ」は必要ですが、「絶対に負けない」という必要はないのでしょう。
 端的に言って「汚い、卑怯な取口」で勝ち続けても、ファンの誰もが評価しないどころか、どんどん評価を落とすばかりなのが、日本社会なのです。

 そういう意味から、朝乃山の口上「力士として正義を全うし」という言葉には、とても重みを感じます。
 大相撲の看板力士のひとりとして、是非実行して行って欲しいものです。

 それにしても、将来、2020年3月の朝乃山・大関昇進を思い出す時、それは「新型コロナウイルス感染症の流行」の只中の時期であったことを、誰も忘れることはできないでしょう。

 そして、朝乃山の活躍と、この感染症鎮圧が、並行して進むようなら、「日本国を守る力としての大相撲」の役割が立派に果たされることとなるのです。

 JRAホームページの「日本馬海外遠征の記録」の1997年の欄、一番上にホクトベガのドバイワールドカップ挑戦が記されています。
 着順は「中止」。

 「悲劇」が起こったのです。

 皆さんご承知の通り、ホクトベガはこのレースで転倒し左前脚を複雑骨折、予後不良と診断され安楽死処分となりました。
 報じられた直後の衝撃と悲しみを、今でも思い出します。

 1997年のドバイワールドカップは、まだ第2回でした。ドバイワールドカップが世界屈指の競馬ミーティングに成長して行く過程の開催だったのです。
 
 さらに、当初開催予定であった3月29日が、ドバイでは滅多に観られない程の大スコールとなって、4月3日に延期されていました。

 また、ホクトベガの体調についても、ドバイへの長距離輸送の影響で飼葉食いが落ち、馬体重も20kg以上減ってしまいました。もちろん陣営としては懸命にコンディションの回復を図り、何とか出走できる状態にまでには仕上げたと報じられていたのです。
 7歳牝馬には、負担が大きい挑戦だったのかもしれません。

 今となってみれば、「出走回避」できなかったものかと感じますが、詮無いことなのでしょう。

 1996年のホクトベガは、10戦8勝、内G1レースで5勝という素晴らしい成績を残しています。
 6歳であったこの年は、「ダートの鬼」として、地方競馬とのダート交流戦にも挑み続け、勝ち続けたのです。
 1月の川崎記念、2月のフェブラリーステークス、3月のダイオライト記念、6月の帝王賞、12月の浦和記念とダートG1・5勝の戦績は見事なものです。

 そして、1997年2月の川崎記念を連破して、勇躍ドバイに乗り込んだ形です。

 もともと3歳時には、芝のG1・エリザベス女王杯を制していたホクトベガですが、5歳の6月に、川崎のエンプレス杯G1に勝利して、ダート競馬への適性を示し、6歳時の大活躍に繋がりました。
 この走りならドバイでも、と考えたのも止む無しというところでしょうか。

 2014年、オーストラリアのメルボルンカップG1に挑戦し、レース後死亡したアドマイヤラクティとともに、日本馬による海外競馬挑戦における最大の悲劇であろうと思います。

 「中止」は、長い「日本馬海外遠征の記録」における、唯一の記載なのです。

 3月8日~22日にかけて開催された、2020年の大相撲3月場所は、横綱・白鵬が13勝2敗で優勝しました。

 千秋楽の「横綱相星決戦」という、7年振りの取組で鶴竜を寄り切りで破ったのです。

 何もかもが「異例」な場所でしたが、最後は番付通りの頂上決戦が行われ、第一人者が優勝するという、最も「順当」な結果となりました。
 35歳になった白鵬が、スピード十分な取り口を魅せてくれたのです。

 新型コロナウイルス感染者が、力士および協会関係者からひとりでも出れば「中止」という、極めて難しい条件下でスタートした本場所は、毎日が「綱渡り」のような運営でした。
 
 八角理事長を始めとする協会関係者が、毎朝力士の体温を気にするという状況が続き、千代丸関が高熱を発した時には、少し天を仰いだかもしれません。
 しかし、千代丸は新型コロナウイルス感染症ではありませんでした。

 そして、「ついに迎えた千秋楽」、結びの一番で白鵬が勝ち、全ての取組が終わった時、多くの相撲関係者の肩の荷が降りたのでしょう。

 おそらくは、15日間を完結できたことが、3月場所最大の成果だったのです。

 関係者の皆様、本当にお疲れ様でした。

 もちろん、「天運が味方した」面もあるのでしょうが、この「運の良さ」が、元来「大相撲」に備わっているものであるとすれば、そして、それを確認できた場所であったとすれば、「無観客場所の決行」にも意味があったということになりそうです。

 それにしても、結びの一番の後に行われた「協会挨拶」や「表彰式」、そして「神事」は、これまで観たことも無いテレビ映像を提供してくれました。
 若い力士(候補生?)達による行事さんの胴上げが、大相撲の明日を創り出す力になって欲しいものです。

 新型コロナウイルス禍のために、多くのスポーツイベントが延期・中止なっている時期は、撮り貯めた録画を自宅で楽しむのに最適です。
 今回はコパ・アメリカ(南米選手権)2011の準々決勝を観ました。

[2011年7月11日・エスタディオロペス(サンタフェ・アルゼンチン)]
ウルグアイ1-1アルゼンチン(PK戦5-4でウルグアイ勝ち上がり)

 南米大陸のナショナルチームNO.1を決める舞台で、若きスアレス選手、メッシ選手らが、素晴らしいプレーを披露したゲームでした。
 2010年代の両ナショナルチームが、概ね満足できるメンバーで戦ったという意味で、とても貴重な録画であろうと思います。

[ウルグアイチームの先発メンバー]
1. GKムスレラ選手
2. DFルガーノ選手
3. ビクトリーノ選手
4. アルバロ・ペレイラ選手
5. マキシミリアーノ・ペレイラ選手
6. カセレス選手
7. MFペレス選手
8. アレバロ選手
9. ゴンザレス選手
10. FWスアレス選手
11. フォルラン選手

[アルゼンチンチームの先発メンバー]
1. GKロメロ選手
2. DFサバレタ選手
3. ブルディッソ選手
4. ガブリエル・ミリート選手
5. サネッティ選手
6. MFディマリア選手
7. マスケラーノ選手
8. ガゴ選手
9. FWイグアイン選手
10. メッシ選手
11. アグエロ選手

 大会前には、14回の最多優勝回数で並んでいたアルゼンチンとウルグアイの両チームが、15回目の「単独」最多優勝記録を目指した大会でもありました。
 特にアルゼンチンチームにとっては「地元開催」でしたから、ファンというか国民の期待もとても大きかったのです。

 そもそも、コパ・アメリカの主役である両チームが、決勝トーナメント初戦=準々決勝で対戦すること自体が「異例」です。
 特に開催国アルゼンチンとしては、ブラジルやウルグアイといった、南米を代表するチームとの早期の対戦は、なるべく避けようと考えていたことでしょう。
 ところが、準々決勝での顔合わせとなってしまったのは、GLの成績が影響したのです。

 地元アルゼンチンチームは、グループAでよもやの2位通過となってしまいました。
 大会初戦でボリビアチームと引分けたことが大きく、コロンビアチームの首位通過を許しました。

 一方のウルグアイチームも、グループCを2位で通過してしまったのです。
 やはり緒戦でペルーと引分け、チリチームが1位通過となりました。

 もちろん、南米各国のナショナルチームの力量の高さを示していることも間違いありません。

 両チームが共にGLを2位で通過してしまったために、このような「決勝でも何の不思議もない優勝候補同士のカード」が準々決勝で現出してしまいました。

 さて、ノックアウトステージですから、絶対に負けられないゲームに対して、アルゼンチン代表チームがフルメンバーを並べたのは、当然のことでしょう。
 フォワードFWに、メッシ選手、イグアイン選手、アグエロ選手を揃えました。
 リオネル・メッシ選手がセンターFWに座るのは当然として、ゴンサロ・イグアイン選手とセルヒオ・アグエロ選手という、この時代のアルゼンチンを代表するFWを揃えて来たのです。
 そして、ミッドフィールダーMFにもアンヘル・ディマリア選手やハビエル・マスケラーノ選手を置いています。
 「得点力抜群」の布陣と言って良いでしょう。

 一方のウルグアイ代表チームも、持ち味を十分に発揮できるチームになっています。

 ウルグアイと言えば「堅守」です。
 ブラジルチームやアルゼンチンチームという、何時の時代も世界最高レベルの攻撃力を備えているチームと戦い続けなければならないという、南米サッカーにおける長い歴史から生まれた「持ち味」なのでしょう。

 このゲームでも「5バック」を敷きました。3バックからの5バック的な試合運びというのは良く見かける守備的な布陣ですが、最初から5バックというのは、いかにもウルグアイチームでしょう。
 その5バックが、ルガーノ選手(キャプテン)、ビクトリーノ選手、アルバロ・ペレイラ選手、マキシミリアーノ・ペレイラ選手、カセレス選手という強力メンバーです。タバレス監督が自信を持って送り出したメンバーでしょう。
 このDFラインは、本当に精力的に働きます。この頃が全盛期ですから、運動量も十分。
 当時の世界最強の守備陣のひとつでしょう。

 この「堅守」からボールを供給される攻撃陣は、ディエゴ・フォルラン選手とルイス・スアレス選手の2トップ。
 この頃のウルグアイのFWといえばもう一枚、エディソン・カバーニ選手が居るのですが、このゲームは故障で欠場しています。その一枚分は、フルメンバーのウルグアイチームにとって欠けている部分なのでしょうが、フォルランとスアレスの2トップでも十分に戦えると観るのが妥当でしょう。
 この2人のFWプレーヤーは、「2人だけで点を取る能力」ならば、世界屈指というか、この頃の世界一のコンビだったのではないかと思います。

 さて、ゲームは早々に動きました。
 前半6分に、ウルグアイMFディエゴ・ペレス選手が先制点を挙げたのです。
 ゴール前での粘り強い波状攻撃が実った形です。
 相手チームの攻撃の芽を摘む守備プレーを持ち味とするペレス選手なのですが、この時はギリギリまでボールを追いかけ、押し込みました。「骨身を惜しまぬ」というウルグアイチームの伝統が現れたゴールでもあったと感じます。

 先制を許したアルゼンチンチームは、攻めに攻めます。
 そして前半17分、センターライン付近から右サイドをドリブルで攻め上がったメッシ選手から、ゴール前に絶妙のクロスが上り、これをイグアイン選手がヘッドで押し込みました。
 ファインゴール!
 エスタディオロペスのアルゼンチンサポーターから大歓声が上がったことは、言うまでも有りません。

 両チームの持ち味が存分に発揮される展開が続いた前半39分、ウルグアイMFペレス選手が、このゲーム2枚目のイエローカードを受け、退場しました。
 11名対10名のゲームとなったのです。
 これでゲームは、アルゼンチン有利になったはずなのですが、相手がウルグアイとなると話は簡単ではありません。
 人数が一人減った後も、ウルグアイ守備陣の仕事は不変ですし、その守備陣からボールが供給されれば、2トップはいつものように仕事が出来るのですから。

 実際のところ、ウルグアイチームの5バックは、この後、ゲームが終了するまで、「堅守」を継続したのです。
 その運動量には、改めて驚かされます。

 この後両チームが1回ずつ、「ゴールに観えたプレーがオフサイドで無効」になりました。
 11対10のゲームとは思えない、「互角」の戦いが続いたのです。

 90分戦っても1-1の同点のままでした。

 そして延長を戦っても、1-1のままでした。

 このゲームは、「ウルグアイ代表チームの堅守」が際立つ展開、つまりウルグアイペースで終始したのです。
 アルゼンチンチームは、持ち前の攻撃力を、最後まで十分には発揮できませんでした。

 ゲームはPK戦に入りました。

 ウルグアイチームは、フォルラン選手→スアレス選手→スコッティ選手→ガルガノ選手→カセレス選手と5人全員が成功しました。
 一方のアルゼンチンチームは、メッシ選手からスタートし2人目のブルディッソ選手は決めましたが、3人目のテベス選手は決めることが出来ず、4に人目のパストーレ選手、5人目のイグアイン選手が決めましたけれども、5-4でウルグアイチームが勝利することとなりました。

 大きな大会のPK戦となると、チームを代表するようなプレーヤーが「蹴ることを嫌がる」ケースも観られるのですが、このゲームでは、ウルグアイのフォルラン・スアレスの両FW、アルゼンチンのメッシ選手という、チームの攻撃を牽引するプレーヤーが、真っ先に蹴っています。
 3選手の責任感の高さも感じますし、このゲームの「格の高さ」を感じると言ったら、少し大袈裟でしょうか。

 地元アルゼンチンサポーターの悲嘆は、本当に大きなものでしたし、メッシ選手にとっても、「アルゼンチン代表チームを率いて世界最高レベルの大会を制する」絶好の機会を失いました。
 本当に惜しまれる敗戦であったと思います。

 一方、この激闘を制したウルグアイ代表チームは、チリ代表との準決勝を2-0で勝ち抜きました。スアレス選手の2ゴールでした。
 そして、パラグアイ代表との決勝は3-0で完勝して、大会最多15回目の優勝を飾りました。
 決勝は、フォルラン選手の2ゴールとスアレス選手のゴールによる3得点でした。

 この勝ち上がりの内容を観ると、ウルグアイチーム優勝への最大の壁が、この準々決勝アルゼンチン戦であったことは、明白でしょう。
 やはり、この大会のアルゼンチンチームは、とても強いチームだったのです。

 ウルグアイの優勝は、まさに「堅守+スアレス・フォルラン」という、ウルグアイの戦い方で勝ち取った、堂々たるものでした。

 名将オスカル・タバレス監督が率いたウルグアイ代表チームの中で、コパ・アメリカ2011優勝チームが最強であったと考えています。

 新型コロナウイルス禍のために、多くのスポーツイベントが延期・中止なっている時期は、撮り貯めた録画を自宅で楽しむのに最適です。
 今回はユーロ(欧州選手権大会)1972の決勝を観ました。

[1972年6月18日・スタッドデュエゼル(ベルギー・ブリュッセル)]
西ドイツ3-0ソビエト

[西ドイツチームの先発メンバー]
1. GKマイヤー選手
2. ディーター・ヘッティゲス選手
3. ブライトナー選手
4. シュヴァルツェンベック選手
5. ベッケンバウアー選手
6. ヴィンマー選手
7. ウリ・ヘーネス選手
8. ハインケス選手
9. ギュンター・ネッツァー選手
10. エルヴィン・クレーマス選手
11. ゲルト・ミュラー選手


[ソビエトチームの先発メンバー]
1. GKルダコフ選手
2. ジョジュアシュヴィリ選手
3. クルトシラヴァ選手
4. コロトフ選手
5. トロシュキン選手
6. バイダフニー選手
7. バニシェフスキー選手
8. カプリフニー選手
9. ユーリ・イストミン選手
10. アナトリ・コンコフ選手
11. オニシチェンコ選手

 私はこのゲームの録画をよく観ます。
 1年に一度は観ているでしょう。
 最も良く観る「サッカーの録画」のひとつなのです。

 その理由は、この大会の西ドイツチームが「サッカー史上世界最強のナショナルチームのひとつ」であると考えているからです。

 本ブログでは、2015年3月12日付の記事「世界サッカー史上最強『1970年W杯ブラジル代表』チーム」において、ペレ選手やトスタン選手、リベリーノ選手やジャイルジーニョ選手を擁したブラジルチームを史上最強のナショナルチームとしています。
 その考えは現在でも不変ですが、そのブラジルチームに最も迫っているチームが、1972年ユーロの西ドイツチームであるとも考えています。

 この時の西ドイツチームは、本当に素晴らしい。
 
 1974年ワールドカップで優勝した西ドイツチームも素晴らしいチームですが、私は1972年ユーロのこのチームの方がより強いと観ています。
 その理由のひとつは、1972年にはネッツァー選手が居ますが、1974年にはネッツァー選手が居ないことです。(正確には、1974年の西ドイツチームのメンバーには入っていたのですが、ほとんど出場できなかったのです)

 「ギュンター・ネッツァー」は、稀代のサッカープレーヤーでした。
 類を観ないパフォーマンスを具備していたのです。
 特に30m前後の長いパスの精度とタッチは、これは世界サッカー史上ベストのものでしょう。

 現在では、ネッツァー選手のプレー映像を観る機会は本当に少なくなりましたし、残念ながら、私のライブラリーにもほとんどありません。
 そうした状況下、このユーロ1972決勝の録画は、とても大切なコンテンツであり、どうしても時々は観てしまうものなのです。
 「ネッツァーの雄姿」を観ることが出来る貴重な録画なのです。

 そして、何度観たか分からない筈なのに、都度新しい発見が有ることにも驚かされます。

 このゲームの西ドイツチームを見てください。
 もの凄いメンバーです。

 まず、ネッツァー選手とベッケンバウアー選手の両選手が共に出ています。
 共に「チームの絶対的中心選手」と成り得る2名のプレーヤーが、両立しているのです。
 「両雄並び立つ」こと自体が、滅多に無いことだと感じます。
 ネッツァー選手はミッドフィールダーMFとして、ベッケンバウアー選手はリベロとして、共に「あるべきポジション」でプレーしています。
 そして、ネッツァー選手からベッケンバウアー選手へのパスも何回か観られます。これは、ベッケンバウアー選手がピッチを縦横無尽に動き、自由なポジショニングを取るので、本来バックス主体のプレーヤーでありながら、MFや時にはフォワードFWの位置にも上がって来ることから、MFのネッツァー選手からのパスを受ける形が示現するのです。

 一方で不思議なことに、ベッケンバウアー選手からネッツァー選手へのパスはあまり観られません。

 ベッケンバウアー選手がフレキシブルなプレーによってチームをコントロールするのに比べて、ネッツァー選手は常にMFです。正確無比なパスを味方選手に供給し続けることで、チームをコントロールするのです。
 このゲームでも、「爆撃機」と称された、ドイツサッカー史上最強のストライカー、ゲルト・ミュラー選手らに高品質なパスを供給し続けました。

 そしてミュラー選手は、このゲームでも2得点を挙げています。
 いずれも、ミュラー選手らしい「ゴールまで5m以内」からのシュートでした。
 私は、ミュラー選手のロングシュート、ミドルシュートを観た記憶がありません。
 ゴールから離れた所から「打たない」のか「打てない」のか。
 ゲルト・ミュラー選手は、常にゴールのとても近くから、正確なシュートを決めるのです。いつもゴールエリア内からシュートしているように感じさせるプレーは、ある意味ではとても特異でしょう。
 ゴール目前からシュートしているのですから、その精度が高いのは自然なことなのでしょうが、一方で多くの場合、相手ディフェンダーとの競り合い、それもとても厳しいチェックを受けながらのシュートとなることも、当然のことです。ミュラー選手は、そうした競り合いの状況下、当たり前のようにシュートを放ち得点を奪い続けました。

 「相手ゴール前でボールが行くところに必ずミュラーが居る」ということ自体が、本当に素晴らしいもので、「ゲルト・ミュラーのポジショニング」というか「嗅覚」が天才のものであり、生まれながらのゴールゲッターであることを、如実に示しているのでしょう。

 別の視点でも観てみましょう。
 ゴール前で味方からのパスを「ワンタッチ」で叩き込むことを得意とするスーパーストライカーが、サッカー史上に複数存在します。このゴールゲットのやり方も、ワールドカップやユーロといった世界トップクラスのゲームにおいてはとても難易度が高いものです。
 しかし、ミュラー選手はいつも「ゴール前でシュートを放って」いるのです。脚を振り抜いています。これだけゴール近くで働きながら、面を創ってワンタッチで入れるプレーが殆ど無い、というのも「ゲルト・ミュラーのやり方」なのでしょう。

 世界サッカー史上においては、数多くのスーパーストライカーが存在しますが、こうした形のFWはゲルト・ミュラー選手だけかもしれません。

 そしてゲルト・ミュラー選手の代表チームにおける得点力は、驚異的です。62試合の出場で68得点、1試合1点以上という「有り得ない」ような実績を残しているのです。この得点率は、世界サッカー史上屈指のもので、クリスティアーノ・ロナウド選手もメッシ選手も遠く及びません。(本ブログ2015年4月21日付記事「[世界のサッカー] 代表プレーヤーの得点力について」をご参照ください)

 全盛期の「ゲルト・ミュラー」がFWにどんと座っているのが、このチームなのです。

 さらに左サイドバックにはバウル・ブライトナー選手が居ます。
 1974年ワールドカップ優勝チームの主要なメンバーであり、1980年代に入ってからは西ドイツチームのキャプテンを務めました。
 また、「異なる2つのワールドカップ決勝でゴールを決める」という、珍しいというか至難の記録をも保持しています。
 そもそも、2つの異なるワールドカップの決勝に出場すること自体が、間違いなく奇跡的なことですし、その滅多に無い両ゲームにおいてゴールを挙げるというのは、スキルの高さは勿論として、「持っている」ことの証左でしょう。
 ブライトナー選手は、1974年と1982年のワールドカップ決勝に出場し、両試合でゴールを挙げました。
 ちなみに、この至難の記録を保持している他のプレーヤーは、ブラジルチームのババ選手とペレ選手、そしてフランスチームのジダン選手です。わずか4名しか達成していない大記録。
 ブライトナー選手は、バックスポジションから一気に前線までドリブルで進出するプレーが印象的ですが、このゲームではこのオーバーラップは、あまり観られません。
 チームの他のメンバーが「凄過ぎる」からかもしれません。

 さらに、ハンス・ゲオルグ・シュヴァルツェンベック選手も居ます。
 バイエルン・ミュンヘンにおいても、ベッケンバウアー選手と共にディフェンスDFとしてプレーしていたのですが、代表チームにおいても同じ役割を果たしています。常に「ベッケンバウアーと共にあった」プレーヤーと言って良いのでしょう。
 結果として、そのキャリアは栄光に包まれています。数え切れない程の優勝を経験していますが、ひとつを挙げれば「1974年・75年・76年のUEFAチャンピオンズカップ(現、チャンピオンズリーグ)3連覇」でしょうか。

 また、FWにはユップ・ハインケス選手が居ます。
 ネッツァー選手と共に、ボルシア・メンヘングラートバッハのエースストライカーとして大活躍したプレーヤーです。
 記録を挙げて行くとやはりキリがありませんが、UEFA3大カップ(UEFAチャンピオンズカップ、UEFAカップ、UEFAカップウイナーズカップ)の全てにおいて得点王に輝いているのは秀逸でしょう。もちろん、1974年のワールドカップにも出場、優勝しています。

 そして、このチームのゴールキーパーGKは、ゼップ・マイヤー選手です。
 何時の時代も優秀なGKを輩出するドイツチームですが、キラ星の如く存在する「ドイツナショナルチームのGK」の中でも、屈指の存在でしょう。
 代表として95試合に出場していますが、20世紀のドイツ代表チームのGKといえば、まず挙げられるのが「ゼップ・マイヤー」であろうと思います。(21世紀ならば、マヌエル・ノイアー選手でしょうか)
 バイエルン・ミュンヘンのGKとしても活躍し、やはり「ベッケンバウアーのチームの守護神」として知られました。
 このゲームでもスーパーセーブを魅せています。
 1979年に交通事故で引退したことが惜しまれますが、そのプレーは永遠にファンの心に刻まれていることでしょう。

 西ドイツ代表チーム(ドイツ代表チームも)は、常にバイエルン・ミュンヘンというクラブチームを主体として構成されてきていますが、このチームは「バイエルン・ミュンヘン+ボルシア・メンへングラートバッハ」でした。
 ネッツァー選手のボルシアとベッケンバウアー選手のバイエルンによって組み立てられていたのです。
 この頃のブンデスリーガが、バイエルンとメンヘングラートバッハの2強時代であったことは、言うまでも有りません。

 ユーロ1972決勝を語る時、どうしても西ドイツ代表チーム、私が「史上世界第2位のナショナルチーム」と考えているチームの話が多くなってしまいますが、このゲームに関する話題は、もちろんそれだけではありません。

 この大会は「西ドイツのユーロ初優勝」の大会なのです。
 1945年、第二次世界大戦の敗戦国となった西ドイツは着々と復興を進め、ワールドカップにおいては1954年スイス大会で初優勝を飾りました。それは、驚異的に早い優勝でしたが、ユーロ(欧州選手権)では、この1972年ベルギー大会が初優勝だったのです。
 常にヨーロッパの、そして世界のサッカー界を牽引する存在であるドイツ代表チームが、その力をユーロにおいて示した大会だったのです。

 また、このゲームで優勝を争ったのはソビエト連邦チームでした。
 ご承知のように、この頃のソビエト代表チームはとても強かった。共産圏のチームでしたが、西側のプロ選手主体のチームを相手にしても、圧倒的な強さを魅せていて、1960年に開始された欧州選手権において、1972年は第4回大会となるのですが、第1回のフランス大会での優勝を始めとして、第4回までの4度の大会で3度決勝に駒を進めています。
 驚くべき強さでしょう。
 「安定感」という面ならば、イタリアや西ドイツ、スペイン、フランスといった他のナショナルチームを圧倒する存在だったのです。
 但し、1972年大会決勝は、「相手が悪かった」のでしょう。

 ユーロ1972の西ドイツチームは、本当に素晴らしいチームでした。
 個性溢れるプレーヤーが、キラ星の如く並ぶ、「惚れ惚れさせられる」チームでしょう。

 そして決勝は、私にとっては「ギュンター・ネッツァー選手の雄姿」を堪能できるゲームなのです。

 この後、西ドイツ代表チームにおいては、「ベッケンバウアー選手とネッツァー選手の確執」が生じたとも言われます。私の記憶では、表立った確執は無かったように感じますが、この後の代表チームのゲームにおいて、ネッツァー選手の姿を観ることがとても減りましたので、チーム創りにおいて、ベッケンバウアー選手のやり方・考え方が優先され、ネッツァー選手の居場所が無くなって行ったことは間違いないのでしょう。

 ネッツァー選手のパス、大きく曲がってピンポイントに落下するパスは、彼の「大きな足」から生まれました。
 友人のS君とよく冗談で「40cmはあった」と話します。
 その大きな足と柔軟な足首から放たれる「異次元のパス」は、ギュンター・ネッツァー選手だけにしか出来ない、唯一無二のプレーなのです。

 新型コロナウイルス禍のために、多くのスポーツイベントが延期・中止なっている時期は、撮り貯めた録画を自宅で楽しむのに最適です。
 今回はユーロ(欧州選手権大会)1984の決勝を観ました。

[1984年6月27日・パルクデフランス]
フランス2-0スペイン

 「将軍」ミッシェル・プラティニ選手を擁したフランスチームが、スペインチームを破って、ユーロ初優勝を決めたゲームです。
 地元開催の大会でしたし、かつてない程にチーム力が上がっていたフランスですから、初優勝を狙っての大会となり、その狙い通りに優勝を勝ち取ったのですから、「会心」の大会・ゲームであったことでしょう。

[フランスチームの先発メンバー]
1. GKバツ選手
2. ドメルグ選手
3. ボシス選手
4. バティストン選手
5. フェルナンデス選手
6. プラティニ選手
7. ベローヌ選手
8. ジレス選手
9. ティガナ選手
10. ルルー選手
11. ラコンブ選手

[スペインチームの先発メンバー]
1. GKアルコナーダ選手
2. ウルキアガ選手
3. カマーチョ選手
4. セニョール選手
5. ムニョス選手
6. サンティジャーナ選手
7. ガジェゴ選手
8. カラスコ選手
9. サルバ選手
10. フリオ・アルベルト選手
11. フランシスコ・ロペス選手

 フランスチームは、プラティニ選手、ジレス選手、ティガナ選手の所謂「三銃士」を中心とした華麗な攻撃に特徴がありました。
 素早いパスワークから、ペナルティエリア近辺で必ずと言って良い程に「プラティニ選手にボールを集め」チャンスを創造していました。
 この決勝でも同様の試合運びで、スペインゴールに迫りましたが、そこは「堅守」のスペインチームが良く守りました。

 スペインチームは、伝統の「堅守」からゲームを創っていました。
 21世紀のスペインチームと言えば、直ぐに「パスサッカー」が浮かびますが、もともとは「堅守・速攻」のチームでした。
 その「堅守」も、イタリアチームのカテナチオとは異なり、個々のプレーヤーのテクニックで相手プレーヤー・チームに「自由にプレーさせない」形の守備であったと思います。組織的と言うよりは「個別撃破」でしょうか。
 このゲームでも、その威力は十分に発揮されていたと感じます。

 スペインサッカーに「パス」という概念が持ち込まれたのは、あのヨハン・クライフ選手がFCバルセロナに入りプレーして、後に監督となってバルセロナの全盛期を創出してからであろうと観ています。
 クライフ選手は、新しいスペインサッカーを創り出したのです。

 さて、ゲームはフランスが攻めスペインが守るという展開でしたが、記憶より、スペインチームの攻撃の機会が多く、その攻撃も鋭いものでした。
 攻撃の回数はフランスの方が多いのですが、決定的なチャンスならばスペインの方が多いように観えました。

 「三銃士」のひとりティガナ選手がドリブルでボールを運びます。これはフランスチームのいつもの攻撃ですが、センターライン付近でスペインチームはこれを止め、時にはボールを奪って、フランスゴール前に攻め込みます。
 見応え十分な展開が続きました。

 地元チームの大応援にも拘わらず、ゲームは0-0のまま後半に入りました。
 さすがのフランスチームも中々得点できませんでしたし、スペインチームにとっては目論見通りの0-0が続いたのです。
 従って、決勝はスペインペースで進んだのです。

 そして後半12分、フランスは相手ゴール前でフリーキックFKを得ました。
 スペインゴールに向かって左側からのFK、ペナルティエリアの直ぐ外の位置、蹴るのは勿論プラティニ選手です。
 プラティニ選手は、スペインゴール右隅に打ちました。
 そしてこれを、スペインGKアルコナーダ選手が両手でがっちりと掴んだように観えました。
 ところが、ボールは手からこぼれ落ち、アルコナーダ選手の左脇の下を抜けて、ゴールに転がり、そのままゴールインしたのです。

 しっかりと掴んだはずのボールが何故こぼれてしまったのかは分かりませんが、プラティニ選手のシュートの威力と観るのが良さそうです。
 もちろん、アルコナーダ選手(スペインチームのキャプテン)はとても良いGKとして知られていましたから、世界最高峰の戦い、「打ちも打ったり取るも取ったり」だったのです。

 この先制点で、パルクドフランスには大歓声が響き渡りました。

 フランスチームは「行け行け」となり、反撃に出て前掛かりとなったスペインチームを相手に、後半45分、ベロン選手が2点目を叩き込みました。

 プラティニ選手は、このゲームでもゴールを挙げ、大会全試合で得点し、計9ゴールで得点王に輝きました。2位が3得点でしたから、圧倒的な得点王です。
 ユーロ1984は「ミッシェル・プラティニの大会」だったのです。

 ワールドカップ2018を制したフランスチームは、現在の世界チャンピオンです。
 21世紀のフランスは、間違いなく、世界屈指のサッカー大国なのです。

 しかし、20世紀の後半までは、ドイツやイタリア、イングランドなどの強豪国と比較すれば、やはり新興チームと観られていたと思います。
 そのフランスチームが、「将軍」を擁して初めてヨーロッパを制したのが、ユーロ1984だったのでしょう。

 JRAホームページの「日本馬海外遠征の記録」から、もうひとつ。

 日本馬による、史上初の海外重賞制覇は、有名な「1959年ハクチカラによるワシントンバースデイハンデ競走優勝」です。
 当時の中央競馬NO.1調教師・尾形藤吉が、当時の中央競馬NO.1ジョッキーであった保田隆芳を連れて、アメリカ競馬に挑戦した結果です。
 ハクチカラは5歳から6歳にかけて、アメリカで17走し1勝を挙げたのです。
 当時の日本競馬界NO1の名馬とともに、果敢にアメリカ競馬に挑んだ尾形調教師と保田騎手、そして関係したホースマンの皆さんの「高い志」と努力に頭が下がります。

 さて、ハクチカラが開拓した海外競馬への道ですが、このハクチカラに続いて海外重賞を制する日本馬は、しかし、なかなか出ませんでした。

 現在に比べ、遠征の負担(馬に対する負担も、馬主に対する負担も)が大きかったことも、理由のひとつなのでしょうけれども、何より、「日本馬より海外馬の方が強かった」ことが最大の要因であろうと思います。

 1967年と69年に、スピードシンボリが凱旋門賞(着外)やキングジョージ6世&クイーンエリザベスステークス(5着)を含む4走していますけれども、やはり優勝は遠いものでした。(このスピードシンボリの1969年の挑戦が、日本馬による初の凱旋門賞出走でした)

 同じ1969年にタケシバオーがワシントンDCインターナショナル競走に挑み(7着)、1972年にはメジロムサシが凱旋門賞(18着)とワシントンDC(7着)に出走しています。
 優勝こそ出来ないものの、日本馬による海外重賞への挑戦は、営々と続いたのです。

 1986年にはシンボリルドルフがアメリカのG1・サンルイレイステークス(6着)に、ライバルだったギャロップダイナがフランスのジャックルマロワ賞(12着)とムーランドロンシャン賞(10着)の2つのG1に出走しています。
 日本馬による海外重賞への挑戦が少なかった1980年代においても、果敢な遠征は続きました。

 そして1993年になると、日本馬による海外重賞、特に香港競馬への挑戦が増え始めました。
 私は、1992年ジャパンカップにおけるトウカイテイオー、1993年ジャパンカップにおけるレガシーワールド、の優勝が大きかった、「日本馬の関係者に勇気を与えた」のではないかと感じています。
 1981年に開始されたジャパンカップでは、当初は「日本馬は全く歯が立たず」、海外からの遠征馬同士の優勝争いが続き、1984年カツラギエース、1985年シンボリルドルフが優勝したとはいえ、その後は再び、海外遠征馬が優勝を続けるという時期でした。
 そうした中で、ついにトウカイテイオーとレガシーワールドが連勝し、さらにはその「レース内容」から、日本の競馬関係者の間には「相当追い付いた」という感覚が芽生えていたのでしょう。

 「挑戦する遠征」から「勝ちに行く遠征」へと、日本馬の海外遠征が変化していったのであろうと考えます。
 遠征場所も、欧米に比べれば組し易い「香港」を選んでいます。

 1994年に6歳(新表記の馬齢)で香港国際カップ競走G2(芝1,800m)に挑み4着と健闘したフジヤマケンザンは、翌1995年にも7歳で同じレースに挑み、ついに優勝(1分47秒0のレコード勝ち)したのです。
 35走目の優勝であり、日本において中山記念G2と七夕賞G3を7歳になって勝った「遅咲きの名馬」でした。

 そしてこれが、ハクチカラ以来、実に36年振りの「日本馬による海外重賞制覇」だったのです。

 フジヤマケンザンによる香港国際カップ優勝については、当時の香港競馬のレベル等から、様々な評価が有るのかもしれません。(香港国際カップ自体が、香港ではG1、国際基準ではG2でした)

 しかし、世界屈指の競馬において日本馬が「壁を破ったという価値」は計り知れないものであったと感じます。

 1998年には、日本競馬史を飾る、シーキングザパールによる「日本馬初の海外G1制覇」、タイキシャトルによる「海外G1レース2勝目」が生まれます。
 そして同じ年に、4歳馬ミッドナイトベットによる香港国際カップ優勝も記録されているのです。

 フジヤマケンザンの1995年の優勝が、その後の日本馬による海外重賞競走における活躍の「門を開いた」ことは間違いないのでしょう。

 UEFAチャンピオンズリーグの2019~20年シーズンは決勝トーナメント1回戦を迎えました。

 イングランド・プレミアリーグのリバプールとスペイン・リーガエスパニョーラのアトレティコ・マドリードの対戦という、1回戦屈指の好カードは、アトレティコが2戦計4-3として勝ち抜けを決めました。
 UEFA-CL2018~19の覇者であり、優勝候補筆頭と目されたリバプールは、精彩を欠き、早々の敗退となったのです。

[2月18日・エスタディオワンダメトロポリターノ]
アトレティコ・マドリード1-0リバプール

[3月11日・アンフィールド]
アトレティコ・マドリード3-2リバプール

(2戦計4-3でアトレティコが勝ち抜け)

 第1戦、ホームゲームで前半4分にサウール・ニゲス選手が得点を挙げたアトレティコでしたが、以降両チームに得点は生まれず、そのままアトレティコが押し切りました。
 アトレティコのDF陣、レナン・ロディ選手(ブラジル)、ステファン・サビッチ選手(モンテネグロ)、シメ・ヴルサリコ選手(クロアチア)の活躍が目立ったゲームでした。

 第2戦での勝利→勝ち抜けを狙うリバプール(ホーム・アンフィールドのサポーターも逆転勝ちを信じて疑わなかったことでしょう)は、前半43分、MFのジョルジニオ・ワイナルドゥム選手(オランダ)が先制点を挙げましたが、残念ながら、90分以内に2点目を奪うことが出来ませんでした。

 2戦計1-1となって、ゲームは「延長」に入ったのです。

 延長前半4分、リバプールのロベルト・フィルミーノ選手(ブラジル)にゴールを許し、リードを許したアトレティコですが、素早い反撃を魅せました。
 マルコス・ジョレンテ選手(スペイン)が延長前半7分と16分に2ゴールを挙げ、同点としました。絶体絶命の状況に追い込まれたアトレティコの、ジョレンテ選手の素晴らしい活躍でした。
 そして延長後半16分、アルバロ・モラタ選手が決勝ゴールを魅せてくれました。
 さすがは、レアル・マドリード、ユベントス、チェルシーそしてアトレティコと、ビッグクラブのキャリアを重ねる、スペイン屈指のFWなのです。

 アトレティコ・マドリードのCLにおける強さは十分に分かっていたつもりでも、この段階でのリバプールの敗退は、やはり意外でした。
 モハメド・サラー選手やサディオ・マネ選手を擁し、現在世界最高のプレーを披露するチームのひとつと目されているリバプールが「得点を挙げるのに苦労した対戦」でした。

 延長後半には、我らが南野拓実選手もピッチに立ちましたが、チームを苦境から救い出すことはできませんでした。

 試合終了のホイッスルが鳴り響くと、アンフィールドにはファンの「悲鳴」が溢れました。

 UEFAチャンピオンズリーグの2019~20年シーズンは決勝トーナメント1回戦を迎えました。
 
 イングランド・プレミアリーグのトッテナム・ホットスパーとドイツ・ブンデスリーガのRBライプツィヒの戦いは、ライプツィヒがスパーズに対して2戦2勝と圧倒しました。

[2月19日・トッテナムホットスパースタジアム]
RBライプツィヒ1-0トッテナム・ホットスパー

[3月10日・レッドブルアリーナ]
RBライプツィヒ3-0トッテナム・ホットスパー

 この対戦は第1戦が鍵でした。
 0-0で迎えた後半13分、ライプツィヒのFWティモ・ヴェルナー選手が先制点を挙げ、これを守り切ったのです。
 アウェイでの勝利により、ライプツィヒは完全にこの対戦の流れを掴んだのでしょう。

 第2戦は、前半10分と前半21分に、FWマルセル・サビッツアー選手(オーストリア)がゴールを挙げて試合を支配し、そのまま押し切った形です。

 RBライプツィヒの強さが目立った対戦でしたが、それにしてもスパーズの元気の無さは意外でした。
 ホームでの零敗。熱狂的なファンはとてもがっかりしたことでしょう。

 「110回」の歴史と伝統を誇る、バドミントンの全英オープン大会2020(於、英国・バーミンガム)は、3月15日に最終日を迎え、ダブルス種目において、日本ペアが男女ともに優勝を飾りました。
 共に「初優勝」でした。

[3月15日・男子ダブルス決勝]
遠藤大由選手/渡辺勇大選手2-1ギデオン選手/スカムルジョ選手(インドネシア)

[3月15日・女子ダブルス決勝]
福島由紀選手/広田彩花選手2-0リ・インフィ選手/ドゥ・ユエ選手(中国)

 世界ランキング6位の遠藤/渡辺ペアは、同1位のインドネシアペアとの接戦を制しました。
 ポイントは競り合いとなった第1ゲーム終盤の4ポイント連取でしょう。
 このゲームを21-18で取った遠藤/渡辺は、第2ゲームを比較的簡単に?落とし(12-21)、この間に、第3ゲームの戦術を練り、体力を温存して、第3ゲーム21-19の奪取に結びつけたというところでしょうか。

 「全英オープン」の男子ダブルスでの日本ペア優勝は、「史上初」の快挙です。

 女子ダブルスは、準決勝で高橋礼華選手/松友美佐紀選手のペアを下した福島/広田ペアが、その勢いに乗って、決勝でも圧勝しました。
 素早く、強烈な、スマッシュを連発するゲーム運びには、強さと安定感が満ちていたと感じます。
 女子ダブルスにおける日本勢の優勝は、2016年の高橋/松友ペア以来です。
 フクヒロペアは、どんどん強くなっているのでしょう。

 東京オリンピック2020を前に、バドミントン日本チームは着実に地力を上げています。
 UEFAチャンピオンズリーグの2019~20年シーズンは決勝トーナメント1回戦を迎えました。

 イタリア・セリエAのアタランタとスペイン・リーガエスパニョーラのバレンシアCFの対戦は、アタランタが第1戦、第2戦共に4得点という、凄まじい得点力で圧勝しました。
 特に、ヨシップ・イリチッチ選手(スロベニア)は、第1戦1ゴール、第2戦4ゴールの計5ゴールという、素晴らしい活躍を魅せたのです。

[2月19日・ゲヴィッススタジアム]
アタランタ4-1バレンシアCF

[3月10日・エスタディオデメスタージャ]
アタランタ4-3バレンシアCF

 第1戦、ホームのアタランタは前半2点、後半2点を奪って4-0とリードし、バレンシアの反撃を1点に抑えて快勝しました。
 DFのハンス・ハテボール選手の2ゴールが目立つゲームでした。

 さて、バレンシアCFのホームゲームでは、頭書のように「ヨシップ・イリチッチ」ショーが繰り広げられました。前半3分、前半43分、後半26分、後半37分とゴールを重ねたのです。手が付けられない程の活躍でしょう。
 ハットトリック+1というか、イタリア風に言えば「ポーカー」ということになりますが、こうした大きな舞台では滅多に観られない記録です。

 新型コロナウイルス禍の中で、アタランタはギリギリのタイミングでゲームを行い、そして勝ち抜きました。

 3月17日、18日に予定されている、CL決勝トーナメント1回戦・第2戦の残りの4ゲームは、残念ながら延期されるかもしれません。
 
 新型コロナウイルス禍は、サッカー界にも重大な影響を与えているのです。
 UEFAチャンピオンズリーグの2019~20年シーズンは決勝トーナメント1回戦を迎えました。

 フランス・リーグアンのパリ・サンジェルマンとドイツ・ブンデスリーガのボルシア・ドルトムントの対戦は、互いにホームでのゲームを勝って得失点差の勝負となり、サンジェルマンが勝ち抜きました。

[2月18日・シグナルイドゥナパーク]
ボルシア・ドルトムント2-1バリ・サンジェルマン

[3月11日・パルクデフランス]
パリ・サンジェルマン2-0ボルシア・ドルトムント

(2戦計3-2でサンジェルマンが勝ち抜け)

 前半を0-0で折り返した第1戦は、後半24分、ドルトムントのブラウト・ハーランド選手(ノルウェー)が先制ゴールを挙げ、30分にサンジェルマンのネイマール選手が同点ゴールを挙げるという接戦となりましたが、直後の32分にハーランド選手がこの試合2点目を挙げてリードを奪いました。
 そして、そのままドルトムントが押し切ったのです。

 ホームに帰ったサンジェルマンは、前半28分にネイマール選手が先制点を挙げ、優位にゲームを進めて、前半のインジュリータイムにDFのファン・ベルナト選手が追加点を挙げました。
 後半は、攻守ともに激しいゲームとなって、イエローカードがサンジェルマンに5枚、ドルトムントに2枚出され、後半44分にはドルトムントのMFエムレ・ジャン選手がレッドカード退場となってしまいました。
 ベスト8を目指す両チームの激突は、凄まじいものだったのです。

 それにしても、復帰後のネイマール選手の好調さが際立つ結果となりました。

 3月12日~15日にかけて開催予定であった、PGAツアーの旗艦大会、「第5のメジャー」とも称される、ザ・プレーヤーズ・チャンピオンシップの2020年大会が中止となりました。
 1日目のプレー終了後(日没のため4選手がプレーを終了できず)に、中止が発表されたのです。

 PGAツアーを代表する大会として、優勝者に与えられるツアーシード権が「5年」と、マスターズ大会や全英オープン大会より長い、ある意味ではメジャー大会以上の格式を誇るトーナメントが、まさかの「中止」に追い込まれてしまったのです。
 もちろん、史上初めてのことです。
 そしてPGAは、4月第1週のバレロ・テキサスオープンまでの4大会を中止にするとも発表しました。

 恐るべき新型コロナウイルス禍でしょう。

 我が国でも、春の甲子園大会が史上初めて中止となりました。

 世界最高峰のアメリカゴルフ界を象徴する大会と、日本の春の風物詩である甲子園大会が中止になってしまう以上は、もはや、どのようなスポーツイベントでも中止になる可能性があるということなのでしょう。

 「スポーツは『平和の象徴』である」とは、古くから言い慣らされてきた言葉です。

 早く、平和な日常を取り戻さなくてはなりません。

 新型コロナウイルス感染拡大に伴い(このフレーズも相当数多くなってきましたが・・・)、日本ラグビー・トップリーグも試合を延期していますから、トップリーグに関する話題も、個々のプレーヤーの日常に関するものが多くなっています。

 3月6日配信のTHE ANSWERには、南アフリカ・スプリングボクス代表のセンタースリークオーターバックCTBジェシー・クリエル選手の話題が採り上げられていました。

 クリエル選手が自身のツィッターで「新鮮な寿司に舌鼓を打った」ことを明かしていたのだそうです。
 板前さんから提供される、新鮮な赤身、これでもかと並べられた雲丹を前に、「日本が大好きな理由の一つは、新鮮なお寿司です。なんてすばらしい経験だ」とコメントしていると。

 確かに、美味しいお寿司を好きな日本人も多いのですが、それにしても「雲丹」まで好きとなると、これは本格的な感じがしますし、それは「もう止められない」レベルでしょう。

 26歳にして46キャップを誇るクリエル選手、現世界チャンピオンのスプリングボクスのキャップですから、「世界一のセンター」の証でしょう。
 現在キヤノン・イーグルスに所属しているクリエル選手ですが、2015~16年シーズンにはNTTドコモ・レッドハリケーンズで活躍していました。

 ジェシー・クリエル選手は、「日本が大好き」なのです。

 新型コロナウイルス感染拡大の影響で、Jリーグの各試合は延期となっていますから、Jリーグに関するニュースは、ゲーム以外の物が多くなっています。

 そうした中で3月5日、FOOTBALL ZONE webから配信された「『日本人は素晴らしい』 神戸イニエスタ ゛異国ライフ゛を絶賛 『相撲は未体験だが・・・』」を興味深く拝見しました。

 イギリスのサッカー専門誌「フォーフォートゥー」ハンガリー語版の読者質問に答えたものだそうです。
 「もっと高い身長を期待していましたか?」という質問に対して、「低いことは決して不利だと思わなかったし・・・」と答え、「自分の創意工夫次第だと感じていた。・・・低いことが有益な場合もある。メッシは大きいですか?サッカーは地面で足を使って行われるもので、低ければ地面により近いと言えます」と続けています。

 イニエスタ選手は身長170cmですが、サッカーの著名選手には身長170cm前後のプレーヤーが多いのです。(本ブログの2018年7月21日付の記事「[ワールドカップ2018-63] 身長170cm前後」をご参照ください)
 ペレ選手やマラドーナ選手、ボビー・チャールトン選手、トスタン選手、エウゼビオ選手プスカシュ選手、メッシ選手らと同じように、イニエスタ選手も170cmという「小柄な」体格に、何の問題も無く、むしろ前向きに捉えていることを、コメントしています。

 続いて、「最終的に日本を選んだ理由について」問われ、「日本人は素晴らしい。私の家族もここで楽しい時間を過ごしている。・・・スタジアムとファンも魅力的。・・・」と答えています。

 我々日本のサッカーファンにとっては、とても嬉しいコメントです。

 もともとの日本人・日本社会の性格もあるのでしょうが、「プロサッカーが日本社会に定着したこと」を如実に示すコメントなのかもしれません。

 3月7日~8日、2019~20年シーズンのISUワールドカップ最終戦が、オランダのヘレンベーンを舞台に開催されました。

 そして、男女の500mで新濱立也選手と小平奈緒選手が好成績を残し、同種目のシーズン総合優勝を飾りました。
 小平選手は3度目の、新濱選手は初の、総合優勝でした。
 新濱選手の総合優勝は、あの長野オリンピック1998の金メダリスト・清水宏保選手以来、日本選手として19年振りの快挙でもありました。

 新濱選手は、1日目の500mを34秒317で滑り1位となりました。
 ちなみに、村上右磨選手が34秒472で4位、松井大和選手が34秒600で6位に食い込んでいます。

 そして2日目、新濱選手は34秒070という好タイムで連勝しました。
 松井大和選手が34秒365で3位に、村上右磨選手が34秒446で5位に食い込んでいます。

 2本とも優勝した新濱選手の安定感が際立っています。
 また、松井選手、村上選手も2本とも上位に食い込んでいますから、日本チームの層の厚さも感じさせる結果でしょう。

 新濱選手は、「海外勢のフィジカル」と「日本選手の高い技術」を併せ持つスプリンターに成長しつつあるように観えます。
 今後の活躍が本当に楽しみです。

 一方の女子500mでは、1日目に小平選手が37秒392で3位に入り、郷亜里砂選手が37秒517で4位に、辻麻希選手が37秒940で8位に、食い込みました。

 2日目は、小平選手が37秒199で2位、郷亜選手が37秒740で6位、辻選手が38秒079で9位となっています。
 小平選手が2日目にタイムを挙げているのが「さすが」ですが、郷亜選手と辻選手も2日間を滑り切り、キチンとした結果を残したところが素晴らしいと感じます。

 ヘレンベーン大会では、小平選手は惜しくも優勝は出来ませんでしたけれども、見事にシーズン総合優勝を飾ったのです。
 一時期のように「滑れば優勝」という訳ではありません(世界トップという点では驚異的な強さでした)けれども、いまだに「女子500mの世界第一人者」であることに、感嘆せざるを得ません。
 本当に凄いプレーヤーです。

 「スケート日本」の得意種目500mは、男女ともにISUワールドカップ総合優勝を成し遂げました。

 冬季オリンピックの狭間にあっても、日本チームの強化は着々と進んでいるのです。

 とても嬉しいニュースが飛び込んできました。

 3月9日にノルウェー・リレハンメルを舞台に行われた、FISスキージャンプワールドカップ2019~20シーズンの第15戦において、高梨沙羅選手が優勝を飾りました。
 高梨選手と日本女子チームにとって今シーズンの初優勝。
高梨選手は、自身の持つ男女を通じてのワールドカップの通算最多優勝記録を57に伸ばしました。既に「伝説」となっている記録を伸ばし続けているというのは、ミラクルと言う他ないでしょう。

 そして、今大会の優勝で、高梨選手は「ワールドカップ通算100回目の表彰台」という大記録も樹立しました。
 もちろん、女子選手として史上初の記録です。

 この「100度の表彰台」という記録は、男子選手を含めても、ヤンネ・アホネン選手の108度に続く第2位です。
 何だか凄いことになってきているのです。

 高梨沙羅選手がスキージャンプ女子の「世界的レジェンド」であることは、間違いないことなのでしょう。

 この大会で高梨選手は、1本目で120.5mを飛び、2本目を127.5mでまとめて、トータル296.9点とし、2位・3位となったノルウェー勢との大接戦(2位とは1.5点差、3位とは3.5点差)を制しました。
 「百戦錬磨の勝利」と言っても良さそうです。

 現在のスキージャンプ女子を牽引するノルウェー勢を相手に、ノルウェー・リレハンメルという完全なアウェイの地で勝利を収めるというのは、高梨選手ならではかもしれません。

 「自分がやってきたことが間違いじゃなかったと自信を持つことができた」と競技後コメントした高梨沙羅選手の活躍が、これからも続きます。

 3月9日、日本野球機構NPBは、新型コロナウイルス感染拡大を受けて、今シーズンの公式戦開幕を予定していた3月20日から延期すると発表しました。

 4月中の開幕を目指す新たな日程については、3月12日に再度協議するとのこと。

 この協議に際しては、ペナントレース全143試合の完遂を優先し、クライマックスシリーズCSを中止する方向性も確認されました。

 もしCSが行われなくなるとすれば、2004年に導入されて以降「史上初」ということになります。

 新型コロナウイルス感染拡大の影響で、各種のスポーツイベントが次々と延期・中止になることは、本当に残念なことです。
 プロ野球に限らず、サッカーJリーグ、ラグビートップリーグ(こちらの延期は別の要素も絡んでいますが)といった、日本のメジャーなスポーツのリーグ戦が、軒並み実施されない期間が相当の長きに及ぶというのは、まさに「異常な事」なのです。

 そうした中でNPBが、ペナントレースの各チーム143試合は必ず行いたいという姿勢を示したことに、大きな意味が有るとも感じます。

 セ・リーグ、パ・リーグのペナントレースを制したチーム同士が日本シリーズを戦うというのは、まさに「20世紀のプロ野球」です。

 もちろん、CSにはむCSの面白さ、見所があります。
 毎年起こる「番狂わせ」「下剋上」のドラマは、すっかりプロ野球のシーンとして定着しています。

 一方で、「長期間、死力を尽くして戦った結果としてのペナントレース制覇チーム同士」が激突し、日本一を争うというのも、プロ野球のひとつの「醍醐味」であろうと思います。
 久しぶりの「そういう日本シリーズ」も良いものであろうと感じます。

 「2020年の春」は、様々なエンターティンメントにとって、とても残念な在り様になっていますけれども、その再開に向けて、再開後の楽しみを増やして行けるような種々の工夫も、必要なのでしょう。

 シアトル・マリナーズの菊池雄星投手が、3月5日のスプリングトレーニングゲームに登板し、サンディエゴ・パドレス打線を3イニング・無安打・無失点・5三振と完璧に抑えたと報じられました。

 この好投を、MLB公式サイトは「まるで別人」との見出しで報じ、サービス監督が「・・・以前より球速が上がっている。・・・調子が上がってくると96マイル(約154km/h)出ていた。キャンプを通して素晴らしい出来で、まるで別人のようだ」とコメントしたと伝えました。

 「生まれ変わったかのような」菊池投手のパフォーマンスが称賛されている訳ですが、実のところ、随分前にこのことをメディアに伝えていたプレーヤーが居たのです。
 それは、ダルビッシュ有投手でした。

 2月13日、スプリングトレーニングでブルペンに入った菊池投手の映像を観たダルビッシュ投手が自身のツィッターにおいて、「去年のシーズン終わりからこの短期間でここまでテークバックを変えられるってマジですごい。どれだけ考えて、練習したらこうなるんや。」と呟きました。

 所謂「新フォーム」の凄さを、ダルビッシュ投手はひと目で見抜いていたのです。

 達人は達人を知る、ということなのでしょうが、2020年シーズンの菊池投手の活躍が本当に楽しみです。

 3月8日、大相撲2020年3月場所・初日を、NHK総合テレビ放送で観戦しました。
 大相撲史上初の無観客場所の初日観戦です。

 想像以上に「無音」の土俵でした。
 そもそも、これまで観たことが無いのですから、大した想像力も働かないのは当然のことかもしれません。
 初めて、無観客場所を観たということなのでしょう。

 力士の柏手の音、四股の音、立合いの音、呼び出しや行事の声、といった音以外の音は全く聞こえません。

 とても静かで、仕切りが進むと、一層静けさが深まる感じさえします。

 「ここで必ず大きな拍手・歓声が湧く」場面で、全く音が無いのですから、最初は「変な感じ」でしたが、取組が進むにつれて、やはり一層静けさが深まる印象でした。

 この違和感は何?、と思いました。

 しばらくして、「大相撲には音楽が無い」ことに思い当りました。

 現代において、「全く音楽が無いスポーツ」は殆ど無いというか、無観客大相撲以外にはあまり存在しないのではないかと思います。

 プロ野球であれば「応援の鳴り物」があります。
 陸上競技や競泳、ボクシングやレスリングであれば、選手が登場する際の音楽。
 サッカーにおいても「応援の歌や鳴り物」があります。

 一方で、柔道や剣道には音楽が無いと思います。

 相撲、柔道、剣道といった、日本古来の「格闘技」には、音楽が無いのかもしれません。

 そのかわり?、相撲、柔道、剣道には観衆の「歓声・拍手」があります。
 そして、その「歓声・拍手」を失っているのが、今回の無観客場所ということになります。

 その無観客場所において、唯一、大きな音を響かせてくれるのが、呼出しによる「拍子木」なのでしょう。
 無観客場所では、とても大きな音に聞こえます。綺麗な音でもあります。

 大相撲の拍子木は「桜の木」製なのだそうです。

 2020年3月場所では、拍子木の音を楽しむことといたしましょう。
 
 東京オリンピック2020マラソン女子の代表選考最終レースとなる、名古屋ウィメンズマラソン2020が、3月8日に行われました。
 そして、一山麻緒(いちやま まお)選手が2時間20分29秒の好タイムで優勝を飾りました。

 雨が降り風が強い厳しいコンディションの中、一山選手はトップグループにおいてレースを進めました。
 そして30kmを過ぎた給水地点から一気にスパート。独走態勢を築いて、そのまま押し切りました。

 海外勢をも振り切ったスパートも見事でしたが、残り10kmの走りが素晴らしいものでした。
 ゴールまで「緩み無く」走り切ったのです。
 「優勝した」という事実も、本番で生きることは間違いないでしょう。

 2時間20分29秒は、1月に行われた大阪国際女子マラソン2020における松田瑞生選手の2時間21分47秒を1分以上上回る好記録でした。
 一山選手が、東京オリンピック2020マラソン女子の代表となったのです。

 また、この記録はマラソン女子の国内最高記録を更新したものでもありました。
 従来の記録は、2003年の大阪国際女子マラソンにおいて、野口みずき選手が記録した2時間21分18秒でした。
 オリンピック金メダリストの記録を「17年振り」にクリアしたのも素晴らしいことでしょう。
 
 レース後、野口みずき氏は「破られてしまった。本当にうれしい。世界で戦える走りをした」とコメントしたと報じられました。一山選手への賞賛・激励の言葉でした。
 
 22歳の一山選手の今後の大活躍が、本当に楽しみです。
 東京オリンピック2020のマラソン男子代表選考最終レース、第75回びわ湖毎日マラソンは、琵琶湖畔のコースを舞台に、3月8日行われました。

 午前9時、テレビ画面がスタート前の様子を映し出した瞬間、このレースでは2時間5分29秒を更新するタイムは難しいと思いました。雨が相当の強さで振り、気温も9℃台でした。厳しいコンディションなのです。

 とはいえ、選手達の表情には「目標タイム」に向かって、戦いに臨む強い意志が感じられました。

 9時10分を過ぎて、スタートへの準備が始まりました。
 選手達は陸上競技場のトラックに出て、係員に誘導されてスタートラインに向かって前進します。
 選手達がスタートラインに並びました。

 雨は強さを増し、冷たい雨粒が容赦なく選手の肌に打ち付けます。

 スタート予定時刻である9時15分が迫りました。
 テレビの画面が暗くなるほどの強い雨。
 
 スターターが構えます。
 「オンユアマーク」の声、号砲は数秒後。

 ところが、号砲が聞こえません。
 スターターはしばらく銃を構えていましたが、時々、廻りを見渡すようになりました。
 1分、2分と時間が過ぎます。
 ウォーミングアップをした選手達の体がどんどん冷えて行きます。
 何らかのトラブルが発生したことは間違いありません。

 そして、スタート予定時刻を3分以上過ぎた頃、選手達の体が冷え切った頃、スタートのやり直しが宣せられました。
 選手達は、陸上競技場の屋根のある場所に「避難」しました。
 9時25分に再スタートを行うこととなったのです。

 スタート機器の障害が原因と伝えられました。

 「見たことも無いシーン」でした。
 粗末の極みと言っても良いでしょう。
 信じられないような光景です。

 これ程「無責任」な運営は、なかなか観られるものではありません。
 「近時の日本社会の劣化」という見方があっても不思議はないでしょう。
 何しろ、2019年9月のMGCにおいても発生したスタートの遅延が、一層拡大したのですから。何の反省も無く、より丁寧な準備も行われなかったことは明らかです。

 いったい、係員は何をしていたのでしょう。
 当然、試行は行い、作動は確認していた筈です。
 
 予備のピストルも用意されていた筈ですが、使わなかったのは何故なのでしょう。

 スターターも、2度引き金を引いても作動しなければ、直ぐに廻りの係員に声をかけ、予備のピストルを使うとか、万一予備ピストルが用意されていない(信じられない低レベルな準備不足ですが、テレビ画面の様子を観ると可能性が有ると思います)場合には、即座に「スタートの延期」を宣告し、選手が雨に打たれ続ける時間を少しでも減らす義務が有ります。
 当たり前のことですが、スターターには「レースをきちんとスタートさせる責務」があるのです。とても重要な、責任の重い役割を負っていることは言うまでも無いことでしょう。

 全体として、極めて低レベルなスタートトラブルですが、何より「責任感の希薄さ」が際立ちます。
 事前の、機器のセットアップを責任を持って行う人が居たのでしょうか。
 まさか数多くの係員が揃って、「いつもと同じことだから心配ないだろう」、「誰かがやってくれているだろう」と考えていた訳ではないと思いますが・・・。
 スタート直前にも、機器の作動を注意深く点検・把握していた係員も居る筈ですが、何をしていたのでしょう。

 そして、機樹トラブルを認識した瞬間(午前9時15分15秒位の時間帯)には、即座に予備ピストルをスターターに渡し、号砲を鳴らすことが出来れば、「10~15秒」の遅延で済み、選手達の体の冷え、集中力・気迫の萎み、を最小限に抑えることが出来たことでしょう。(もちろん、それでも大きなトラブルなのですが・・・)

 このスタート予定時刻、9時15分前後の5分間は、全ての係員が最大限の注意力を発揮し、「1秒毎の点検・対応体制」を継続・維持する責務があることは、自明のことでしょう。
 このレースのタイムが2時間5分29秒を1秒でも上回る日本人ランナーが登場すれば、東京オリンピック2020の代表になるのですから。「1秒の重み」が最も大きいレースなのですから。

 「トラブル発生時の他人依存」、「判断の遅さ」、「対応する指示の遅さ」が際立った、極めて低レベルな運営でした。

 東京オリンピック1964の開会式で「秒単位の式典運営を示現」し、世界中の人々から賞賛を浴びた「日本社会の時間正確性」「時間を守る文化」が、相当に「弛んできている」のかもしれません。

 かつてであれば、9時15分丁度にスタートを切ることに対して、「自分のこと」として責任を持って臨む人が複数名居たであろうもの(複数名居て初めて、成功するものなのでしょう。自然な「バックアップ体制の構築」がなされていたのです)が、このところは、「誰かがやるだろう」と考えて、「誰一人責任を持って事に臨んで居ない」ようにさえ観えます。
 
 かつては当たり前に構築されていた「2重3重のバックアップ体制」も出来ているようには観えませんし、それどころか、トラブルが発生しても右往左往するばかりに観えました。
 今回のスタート遅延については、驚くべきことに「分単位で対応が遅れた」のです。
 「1秒」を争うレースにおいて、「分」単位の時間の空白というのは、酷いものです。

 係員たちがトラブル発生を把握したであろう9時15分15秒頃から、とても長い間、「誰かが対応するだろう」という無責任な「他人依存」の空気が流れていたとすれば、今大会の係員チームのレベルの低さは筆舌に尽くしがたいものですし、それが「日本社会の劣化」から生じているものでないことを祈るばかりです。

 スタートトラブルから、9時25分に始まったレースは、最初の1kmが3分11秒、次の1kmが3分7秒と、とてもスローペースの始まりとなりました。
 ペースメーカーまでペースを創ることが出来なかったのです。
 「粗末の連鎖」でしょう。
 特に、20kmまで責任を持つはずの日本人ペースメーカー2名のペースメイクの下手さは酷いものでしょう。

 ただでさえ、最低レベルのスタートトラブルによって、好記録が出難いレースとなっているのに、それに追い打ちをかけるようなプレーでした。
 もちろん、ペースメーカーにとっても難しいコンディションでしたが、こうした中でも、走り始めて直ぐに「1km・3分」のペースで選手達を牽引する責務がペースメーカーに託されていることは、言うまでも有りません。東京オリンピック2020選手選考ラストレースに対して、コンディションを整える責任がペースメーカーにはあるのです。
 ペースメーカーを引き受ける際には、そうした心持を整え、準備に万全を尽くす。当日は雨に成り寒くなることも数日前には分かるのでしょうから、体を温めておく工夫など、十分に準備の時間はあったと思います。

 ゆったり?とした2kmまでの走りの後、設定時間を守るためにその後ベースアップなどしているようでは、「ペースの上げ下げ幅が大きくなり」、レース全体の記録向上に向けてマイナスの要素がさらに増えてしまうことは自明でしょう。
 厳しい書き方で恐縮ですが、このレースでは、大会係員、ペースメーカーが揃って「記録の悪化」を図ったと言われても仕方がないかもしれません。

 レース開始後しばらくして雨は少し弱くなりましたが、ゴールまで振り続ける厳しいコンディションが続きました。
 そうした中で、ケニアのエバン・チェベト選手が2時間7分29秒で優勝しました。参加選手中持ちタイムトップの力を示したのです。
 日本選手では、作田直也選手が2時間8分59秒で4位、山本翔馬選手が2時間9分18秒で5位に食い込みました。共に自己ベストを大幅に更新する健闘でした。
 あのスタートトラブルが無かったならば・・・と考えてしまいますが、それは詮無いことなのでしょう。
 難しいコンディションの下での、作田選手と山本選手の素晴らしい挑戦でした。

 9時30分過ぎ、スタート後5分頃、妻が「私は選手じゃないんだけど、腹が立って仕様が無い」と話しました。

 その通りのレースでした。
 3月19日に開幕予定の2020年春の甲子園大会は、無観客試合で行われる方向で検討が進められていますが、まだ中止の可能性も残っていて、3月11日に最終的な結論が出されると報じられています。

 国民的イベントがここまで追い込まれるのを観ると、新型コロナウイルス禍の凄まじさを改めて感じます。
 どれほど多くの人々に影響を及ぼしているのか、想像もつきません。

 この感染症は、罹患した本人への悪影響ももちろん大きいのですが、周囲の人々への悪影響がとても大きいことをよく認識しておく必要があります。
 「かかっても軽症で済みそうだから、私は気にしない」といった考え方は、全く通用しない、ひとりの患者が生ずると、関連する数百人いや数千人の人々に悪影響を及ぼし、そのひとりのためにいくつもの会社が倒産に追い込まれる→関連する多くの人々の人生を激変させる可能性が有ることを、心に刻んでおく必要があるのでしょう。
 もちろん、見えないウイルスに罹患する際には「不運」という要素が有って、個人の力では如何ともしがたい面があるのでしょうが、わざわざかかり易い行動をとるという「愚」は犯したくないものです。

 さて、春の甲子園2020の無観客試合化(あるいは中止)も、本当に大きな波紋を周囲に及ぼすのでしょう。それはもう想像を絶するレベルです。
 例えば、応援に来阪する観客の皆さんが宿泊する予定だったホテル・旅館のキャンセルの影響は、十分に想像が出来ます。数万、あるいは数十万件のキャンセルのダメージは甚大でしょう。

 いわゆる「甲子園グッズ」を取り扱う皆さんへの影響も空前のものでしょう。
 2020年大会に出場する全チームの名前が印刷されたタオルや、各チーム毎のペナントやキーホルダーといった各種のグッズは、相当の販売数量が見込まれていて、その数量についてのノウハウが蓄積されている業者さんは、販売予定数量を既に製作し、いつでも販売できる体制を構築済みの筈です。
 トータルすれば、数十万個あるいは数百万個、下手をすると1千万個を超える数量なのかもしれません。
 これらが「売れ残る」とすれば、それはもう多くの中小企業にとって死活問題です。

 業者さんたちの対応策を考えてみると、まずは出場予定各チームの関係者に連絡を取ることになりそうです。(毎大会行われていることかもしれませんが)
 当該チームの応援に来る予定であった方々に、当該チームのグッズを紹介するのです。
 当該チームの選手の関係者はもちろんとして、当該チームが属する地域の皆さんは、そのチームが初出場であれば尚更、関連するグッズへのニーズが高いからです。
 次回の出場が何時になるのか、あるいは、もう二度と出場できないかもしれないと考えれば、関連するグッズへの需要が極めて高いのは自然なことでしょう。
 こうした需要は、いわゆる常連校チームの関係者の皆さんにとっても、それ程大きな差は無いのかもしれません。
 「春の甲子園2020」は、唯一無二のものだからです。

 こうした個別の出場予定チームの関係者の皆さんには、出場全チームに関連したグッズへのニーズもあることでしょう。自分達が応援するチームが出場した大会の他の出場校に関する情報も、とても第切な物だからです。
 無観客形式であろうと開催されることとなれば当然、優勝校チームも存在することとなります。優勝校チームの名前と共に、応援するチームの名前が記載されたグッズは、選手のみならず関係者の皆さんにとっても「一生の思い出」となります。

 こうした形で、業者さんたちは製作済みの各種グッズの相当量を捌いて行くことになりそうですが、それでも残りそうであれば、ネット販売を行って欲しいものです。

 私も、甲子園大会を観る為に阪神甲子園球場に何度か足を運びました。大会グッズもいくつか購入しました。自らの「あの頃の人生」を思い出すのに、これほど良い品物は無いとも感じます。

 一方で、甲子園球場に足を運ばない各大会における関連グッズについては、なかなか入手が困難です。
 テレビなどで紹介されるグッズの中には、欲しいなと感じるものも多々あります。
 甲子園大会グッズは、基本的には「現場・甲子園球場に行って」購入するものなのでしょう。
 日本中の甲子園大会ファンの中には、同じように感じている方々も居ると思います。
 
 甲子園グッズ関連の業者の皆さんにおかれては、売れ残る怖れのあるグッズ類については、しっかりとしたPRの上で、ネットで販売していただきたいと思います。
 勝手な要望で恐縮ですが、個人的には出場全チームの名前が記載されたタオル、大きなタオルであればより良いのですが、これは是非入手したいと思います。

 今回は「個人的要望」も交えた記事になってしまいました。
 お詫び申し上げ、お願い申し上げる次第です。
 
 MLBの2020年スプリングトレーニングも佳境を迎え、スプリングトレーニングのゲーム(NPBのオープン戦に相当するもの)も行われています。

 そうした中で3月3日、ロサンゼルス・エンゼルスの大谷翔平選手はチームのゲームには帯同せず、キャンプ地のアリゾナ州テンピでトレーニングを行ったと報じられました。

 そのフリーバッティングにおいて、今スプリングトレーニングで一番の打撃を披露したのです。
 36スイングで柵越えが13本、特に最終の5セット目の最初の打球はセンターバックスクリーン(メイン球場。高さ8m!)を越える推定140m弾、6球目は右中間後方の高さ約15mの椰子の木の「葉」に当てる特大場外弾、だったのです。

 今スプリングトレーニングのフリー打撃においては、最初から「140m弾」が飛び出してはいましたけれども、柵越えの数、その内容共に、最も充実した打撃練習であったと伝えられました。
 頼もしい限りです。

 ここまでのゲームでは、8打数1安打6三振と、まだまだ調子が上がっていない印象で、「ボールとの距離感が掴めていない」といった話が伝えられていましたが、徐々に調整が進んできたのでしょう。
 そもそも、スプリングトレーニングにおいて調子が良過ぎるプレーヤーは、レギュラーシーズンでは活躍できないとも言われますから、何の心配も無いことなのかもしれません。

 前日の3月2日にはブルペンに入り、全球種・47球を投じたとも伝えられています。
 チームのキャロウェー投手コーチは「非常に良かった」とのコメントも出されています。

 「二刀流復活」への足取りは、確かなようです。

 新型コロナウイルス禍など微塵も感じさせない、大谷翔平選手の様子には、少し羨ましい感じさえします。
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